2023年4月6日木曜日

愛媛大学大学院 地域レジリエンス学環 誕生!

 公開日2023/04/06

 

[晴れ時々ちょっと横道]第103 愛媛大学大学院 地域レジリエンス学環 誕生!


愛媛大学大学院 地域レジリエンス学環のパンフレットです。


令和541日、国立大学法人愛媛大学に新しい大学院修士課程コースが誕生しました。その名も『地域レジリエンス学環』。この地域レジリエンス学環は文部科学省が法令で定める「研究科等連係課程制度」を活用して、愛媛大学の人文社会科学研究科、教育学研究科、医学系研究科、理工学研究科、農学研究科という既存の5つの研究科(大学院修士課程コース)すべてが、理系、文系の学部の枠を超えて連携することで設置されるもので、既存の学問分野を横断的、複合的に学び、実践的能力を身に付けるための教育を行うことを目的としています。この「研究科等連係課程制度」を活用した大学院修士課程コース、愛媛大学では令和44月に設置された「医農融合公衆衛生学環」に続き2つ目となりますが、文系、理系といった従来の枠組みを超えた連携は、初めてのことになります。

https://www.rr.ehime-u.ac.jp 愛媛大学地域レジリエンス学環HP


愛媛大学の城北キャンパスです。地域レジリエンス学環はこの城北キャンパスだけでなく、地域協働インターンシップでは西条(西条市)、南予(西予市)、中予(東温市)の愛媛大学地域協働センターも学びのフィールドにします。

“レジリエンス(resilience)”とは“強靭性”や“復元力”のこと。愛媛県を含む四国地域は、近年の地球温暖化により頻発化する豪雨や周期的に動く南海トラフによる大地震といった自然災害リスクに曝されています。また、少子・高齢化が全国で最も早く進んでいる地域の一つであり、社会活動の中断を迫られるような大きな変化の中でも、柔軟かつしなやかな対応ができ持続可能性のある地域社会づくりが喫緊の課題になっています。この課題に対応していくためには、災害に強い強靭な社会基盤整備を進めていくだけではなく、人と自然、人と社会との繋がりを通して、地域の基軸産業である農業や漁業、林業といった第一次産業や観光といった地場の産業を活性化させ、誰もが住みがいのある地域を築くために、地域のこれまで、そしてこれからを展望し、事前に策を打っていける人材の育成というものが強く求められています。地域レジリエンス学環は、このような状況を踏まえて、愛媛県という地域が抱える様々な課題を解決する人材を、従来の大学教育の枠組みを超えて養成していくことを目的として、愛媛大学に設けられた新しい形の大学院修士課程コースです。言ってみれば、「愛媛県独自の地域のためのビジネススクール」とでも言えばいいのでしょうか。このような総合大学のすべての研究科・学部が文系理系といった従来の研究科・学部の垣根を超えて連携し、地域課題解決に向けた人材を養成する大学院が設置されるのは、おそらく愛媛大学が全国でも初めてのことではないでしょうか。素晴らしい取り組みだと私は思います。

で、不肖私 越智正昭、この愛媛大学の新しい大学院修士課程コース「地域レジリエンス学環」発足と同時に、そこの客員教授に就任させていただきました。今や年間売上2兆円を超える巨大企業NTTデータの事業部長、さらには本社営業企画部長という経営幹部として同社グループ全体の営業改革を主導した経験に加えて、気象情報会社ハレックスという年間売上10億円規模の中小企業(ベンチャー企業)の代表取締役社長を15年間務め、同社を単なる気象情報の提供会社から気象ビッグデータを活用したソリューション提供企業へと変革し、経営を再建させることを主導したDX(Digital Transformation)の実践者というほぼ両極端とも言える経歴が買われたもののようです。

私は愛媛大学では昨年度から主に法文学部や社会共創学部の学生を対象に「文系学生のためのデータサイエンス入門」という愛媛県寄附講座のプロデューサー兼非常勤講師を務めさせていただいておりましたが、それに加えて、昨年夏に行われた工学部の土木工学関連の先生方を対象とした勉強会で愛媛デジタルデータソリューション協会(EDS)の会長としてDXDigital Transformation)に関する講演をさせていただいた際、当時、防災工学の立場から地域レジリエンス学環設置準備室で中心的役割を果たされておられたM教授の目に止まり、M教授からアプローチをいただいたのがきっかけでした。防災だけでなく、地域経済の基軸をなす農業や漁業といった産業の活性化には気象に関する情報の活用は不可欠なものであり、気象情報会社の代表取締役社長を15年間も務めさせていただき、今も気象庁が事務局を務める気象ビジネス推進コンソーシアム(WXBC)の副座長を務めさせていただいている経歴も、愛媛大学にはたいへん魅力的に映ったのでしょう。その後、地域レジリエンス学環の講義内容や運営形態等に関して幾つかの相談に乗りアドバイスをさせていただき、その目的と方向性に大いに賛同させていただいたことから、昨年末に私の客員教授就任と、組織としての愛媛デジタルデータソリューション協会(EDS)との連携の打診をいただきました。もちろん、どちらも二つ返事で快諾させていただきました。

発足と同時の就任ですので、愛媛大学地域レジリエンス学環としては学外から招く最初の客員教授ということになります。客員教授として、私は学生さん達のメンター(Mentor)の役割を期待されているようです。地域レジリエンス学環の初年度の学生8人のうち5人は社会人学生。その社会人学生の方々はまさに多士済々。年齢も様々で、地元企業の経営幹部をはじめ、実に多彩な業種業態の様々なお立場の方々が含まれていて、共通するのは地元愛媛を特に経済面からなんとかしたいという強い思い。そういう方々の相談に乗ったり助言をすることは、申し訳ないですがビジネス経験の少ない正規の大学の先生方にはいささか難しく、その部分を民間企業の経営経験のある私が補うって形です。また、学環のテーマである防災や農業・漁業、観光などの地域経済の分野では気象や地象が大きく絡むことから、その方面でのアドバイザーとしての役割も期待されているようです。

また、地域レジリエンス学環では、実践科目としてプロジェクト形式による地域協働インターンシップや、地域をフィールドにした協働力や実践力を涵養することを目的とした地域レジリエンスPBL(Project Based Learning:課題解決型学習)が必須科目として設けられていて、学生が自ら問題・課題を見つけ、さらにその問題・課題を自ら解決する能力を身に付けることを重要視しています。この地域レジリエンスPBLにおいては、地域理解や分野横断的な専門学識だけでなく、ICT(情報通信・処理技術)やデータ利活用力が大きく求められてきます。このICTやデータ利活用力の分野では、私が会長を務めさせていただいている愛媛デジタルデータソリューション協会(EDS)連携組織として文部科学省提出資料の中にも愛媛県デジタル戦略室とともに正式に位置づけられていて、お手伝いをさせていただくことになっています。

さらに、私は今年度も愛媛大学、松山大学、松山東雲女子大学・同短期大学、聖カタリナ大学、人間環境大学という愛媛県内6つの大学でデジタル人材育成のための愛媛県寄附講座の全体プロデューサーと非常勤講師を務めさせていただくことになっているのですが、そのデジタル人材育成に関する愛媛県寄附講座で教えていることの柱はデザイン思考。様々な課題の深層究明、そしてその課題に対する解決策を立案するための考え方、アプローチの仕方を教えるということで、地域課題を解決できる人材を養成するという愛媛大学地域レジリエンス学環の目指す方向性とピタリ一致します。すなわち、愛媛大学地域レジリエンス学環は県内6つの大学で現在行なっているデジタル人材育成の上位に位置付けされるものと言うこともでき、大学院修士課程コースだけに、愛媛大学だけでなく県内の他の大学でデジタル人材育成の講義を受講する学生さん達にとっても、もっと高度なことを学ぶための進学先の有力な選択肢の一つになり得るということを意味します。その意味でも、私が地域レジリエンス学環の客員教授に就任することの意義は大きいと思っています

昨年の1219日に愛媛県と愛媛大学、松山大学、松山東雲女子大学、人間環境大学という県内の4つの大学がデジタル人材育成に関して覚書を締結し、連携を進めていくことになりました。その連携覚書の中では、「地域の課題を解決できる人材の輩出」や「教員や学生の人的交流や施設の相互利用」など6つの項目での連携が盛り込まれており、この愛媛大学地域レジリエンス学環という大学院修士課程コースの開設は、その一環としても捉えることができると認識しています。よく“産官学連携”という言葉を聞きますが、この愛媛大学地域レジリエンス学環や、県内6大学におけるデジタル人材育成に関する愛媛県寄附講座においては、私が絡む以上、理想的な産官学連携の実現を目指していきたいと考えています。愛媛大学は前々から社会連携の推進に積極的に取り組んでいる大学ですし。

ということで、自分で言うのもなんですが、私が愛媛大学地域レジリエンス学環の客員教授に就任することの意義、期待されていることは、私が思っている以上に大きいようで、その期待の大きさにプレッシャーを感じながらも、これまで誰もやってこなかったことだけに、大きなやり甲斐も感じているところです。

また、前述のように、地域レジリエンス学環は愛媛大学の人文社会科学研究科、教育学研究科、医学系研究科、理工学研究科、農学研究科という既存の5つの研究科(大学院修士課程コース)の連携により運営されるもので、教授陣もそれらの研究科から選ばれた28人もの正規の教授・准教授の先生方が揃っています。そういうそれぞれの分野の専門家である錚々たる先生がたと連携して、郷里愛媛県が抱える課題解決のための意見交換や議論ができるのがメチャメチャ楽しみです。客員とは言っても、そういう先生がたと同僚になるわけですからね。

私は現在67歳。愛媛大学地域レジリエンス学環の客員教授は、おそらく私のキャリアでは最後に名乗ることになるであろう役職名(肩書き)ではないか…と思っています。私はこれまで、課長代理、課長、部長、統括部長、事業部長、営業企画部長、そして社長、顧問等々、様々な役職名で呼ばれてきましたが、この愛媛大学地域レジリエンス学環客員教授が今は自分に一番しっくりくる役職名のような感じがしています。郷里松山の大先輩で日露戦争の英雄、そして司馬遼太郎先生の名作『坂の上の雲』の主人公の1人である秋山好古陸軍大将は私の憧れの人物で、私は秋山好古陸軍大将の名言「男子は生涯 一事を成せば足る」を座右の銘にして、その一事をずっと追い求めていたようなところがあったのですが、その一事をやっと見つけられた感じ…とでも言ったほうがいいでしょうか。私のこれまでの様々な経験は、この愛媛大学地域レジリエンス学環の客員教授として地域課題を解決する人材を養成する仕組み作りに参画するためにあったのではないか…と。年齢的に言っても私がこの先自分1人の力でできることは極めて限られていますが、自分のこれまでの経験で得た知識や考え方を次の世代を担う多くの若い人達に伝え、その成長を後押しさせていただくことで、世の中により大きな足跡を残すことができそうだということで、今は大きなワクワク感を感じています。郷里愛媛県の発展のため、人材育成の面で、もうしばらく貢献をさせていただきます。もしかすると、秋山好古陸軍大将にとっての“一事”とは、日露戦争における沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで、騎兵戦術を駆使して当時世界最強と呼ばれたロシアのコサック騎兵師団を破るという奇跡を起こして日本軍の勝利をもたらしたことよりも、晩年、故郷松山の人達に請われて私立北予中学校(現在の県立松山北高校)の校長を務めたことのほうだったのかもしれません。秋山好古陸軍大将が北予中学校の校長に就任したのが65歳の時。今の私とさして変わりません。

このように、愛媛県内のデジタル化は、まずは人材育成の仕組みづくりの面から、他の都道府県に先駆け大きく歩み出そうとしています。郷里愛媛県をデジタル先進県にするという大きな野望の実現に向けて、また一歩前進です。ウンウン、愛媛の未来は明るい!!

 

【追記】

地域レジリエンス学環の設立目的は、デジタルデータを活用して地域の課題を解決できる人材を養成するということで、そのために文系、理系といった従来の枠組みを超えて学内すべての5研究科、7学部の連携による大学院修士課程コースを設置するということなので、これはもう大学という教育機関における立派なDX(digital transformation)と呼んでもいいことだと、私は思います。大学が自らDXを実践したうえで、学生達にDXについて教える……この愛媛大学の取り組みは大変に素晴らしいことだと思います。そもそも自らDX、特に変革”を主体的に経験してきた人以外には、DXを次の社会を担う学生達に教える資格はない!くらいに私は思っています。いくら本で読んだだけの小難しい知識や理論、技法等を語っても、学生達の心にはちっとも響きませんから。その意味で、この愛媛大学の地域レジリエンス学環の開設は、全国の大学における今後のデジタル人材育成に、大きなインパクトを与えることになるかもしれません。

2023年3月3日金曜日

縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡②

 公開予定日2023/03/03

 

[晴れ時々ちょっと横道]102 縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡


上黒岩岩陰遺跡考古館です。この上黒岩岩陰遺跡考古館は遺跡の発掘現場のすぐ前にあります。入館料100円。久万高原町営とは言え、ウソみたいに安いです。


昭和36年当時の発掘写真です。

縄文時代とは明確な始まりと終わりが規定されているわけではなく、前述のように「縄文土器が製作・使用されていた時代」という意味に過ぎません。で、縄文時代は出土する縄文土器の作られた時期と形態・形状により次の6つの時期に分けられます(縄文土器編年区分)

  草創期:約16,000年前~

  早期: 約11,000年前~

  前期: 約 7,200年前~

  中期: 約 5,500年前~

  後期: 約 4,700年前~

  晩期: 約 3,400年前~

一方、縄文時代の終わりについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とするのが一般的ですが、その年代については紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、今も多くの議論があり明確にはなっていません。ここではそのうち一番古い紀元前10世紀頃まで(すわなち、今から約3,000年前まで)を縄文時代と呼ぶことにします。

図4 旧石器時代~縄文時代にかけての主な遺跡の分布

縄文時代は1万年という長い期間にわたることから、その間に大規模な気候変動も何度も経験しています。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかったと思われます。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなったわけです。昨日のコラムで示した図1をご覧いただくと、草創期や早期、前期といった縄文時代の時代区分が起きるのは、寒冷期、温暖期の変わり目といった大きな気候変動が地球規模で起きたタイミングとほぼ一致していることがお分かりいただけるかと思います。縄文時代は、土器型式上の区分から、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられるというのは前述のとおりですが、この土器型式の違いは、もしかしたら、気候変動に伴う植生の違いから寒冷期と温暖期により食文化が大きく異なることになり、煮炊き等の調理や食事に使う器の形状も微妙に異なることになったと考えれば、論理的に辻褄が合うように思えます。

縄文時代のそれぞれの時期を、以下に簡単に振り返ってみたいと思います。

今から約2万年前に最終氷期が終わってから6,000年前頃までの間は、地球の気温は徐々に温暖化していった時期で、この間に日本列島は100メートル以上もの海面上昇を経験しています。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当します。また、約6,000年前には海水温の上昇による膨張のため海面の水位が現在より4メートル〜5メートルも高かったことが分かっていて、これは縄文海進と呼ばれています。

縄文時代草創期(16,000年前~)当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心でしたが、落葉樹の森林も一部で出現していました。また地学的に見ても、前述のように北海道と樺太、さらにはユーラシア大陸(シベリア)は陸地で繋がっていましたし、津軽海峡は現在よりもずっと狭い海峡で、冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていたと考えられます。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、それとおそらく対馬は一つの大きな島となっていました。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15km程度の細い水路が横たわっていただけで、その間の人の行き来はなんとか出来たくらいではないかと推察することができます。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなりました。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになりました。

人々は竪穴式住居を建てて家とし、集団生活のための定住集落(ムラ)を作り生活していたようです。こうしたムラは日当たりの良い平坦な台地に作られる事が多く、これはより良い生活環境を求めた結果であろうと考えられています。当然、狩りや漁、植物採取に都合が良いように山や海に近い台地が選ばれています。また、縄文時代の頃から男女の分業が始まったと見られ、男性は山や海へ出て狩猟や漁業をし、女性はムラで食材の加工や保存をしていたと考えられています。

縄文時代早期(11,000年前~)にはこのように定住集落が登場したほか、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化的要素が付け加わったようです。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡(鹿児島県霧島市)や金峰町(現・鹿児島県南さつま市)の遺跡で、およそ11,000年前に季節的な定住が始まり、約1万年前には通年の定住も開始されたと推測されています。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られているそうです。植生面から見ると、縄文時代早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部、および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢でした。

現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県の大平山元I遺跡から出土した文様のない無文土器で、土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で約16,500年前に作られたものであるとされています。この大平山元I遺跡は青森県外ヶ浜町にある縄文時代草創期の遺跡で、1998年に民家の建て替え工事に伴い、旧蟹田町教育委員会が行った発掘調査によって発掘されました。約16,500年前の土器ということは、世界で最も古い土器ということができます。また、同時に出土した石鏃(石でできた矢じり)も世界でもっとも古いもので、これは世界で最も古い弓矢の使用を意味しています。

棒状の線刻礫です。使用目的は不明です。

礫器です。おそらくナイフのような使われ方をしたものなのではないか…と推定されています。

前述のように、上黒岩岩陰遺跡は1961年の発見以来1970年まで、5次にわたって発掘調査が実施されました。その結果、浅いほうから第1層から第9層までの地層に遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって使用されてきた遺跡であったことが判明しました。特に、1962(昭和37)に行われた調査では、最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が幾つも出土しています。その中でも第9層から出土した細隆起線文土器は約14,500年前のもので、日本最古級の土器の一つとされています。

縄文時代草創期初頭の一群の縄文土器、隆起線文土器です。器形は丸底や平底の屈曲のない深鉢形をしており、いずれも小型です。
1万年前の土器です。押型文土器といって、丸い棒に刻み目をつけ、これを回転させて紋様を付けたもので、この時代の土器が全て縄で紋様をつけた縄文土器だというわけではありません。

こちらは厚手の無文土器。煮炊きに使った実用品としての土器ですね。

さらに、第4層からは約1万年前の縄文時代早期の20体を超える埋葬人骨や、投槍の刺さった腰骨、女神像線刻礫が出土しています。これら上黒岩岩陰遺跡から発掘された遺物は、発掘現場に隣接する上黒岩岩陰遺跡考古館に保存・展示されています。縄文時代早期というのは約11,000年前から約7,200年前のこと。実は、西日本でこの時代の埋葬人骨が発見されるのは奇跡的なことでもあるのです。


頭部と腕に損傷を負った女性の骨です(実物)。約8,000年前の人骨です。

こちらはたくさん出土した幼児の頭蓋骨。約9,000年前の人骨です。当時は幼児の生存率は低かったので、たくさん出土しています。

投槍()の刺さった腰骨です。戦さがなく平和だったとされる縄文時代に何故。世界最古の殺傷事例と思われたのですが、どうも死後に差し込まれたヘラのようです。ヘラを差し込んだのは、なんらかの宗教儀式ではないかと考えられています。

腰骨のヘラの刺さった女性の人骨が発掘された瞬間の写真です。発掘を指揮した教授が、刺さったヘラを指差しています。

縄文時代早期(11,000年前~)から前期(7,200年前~)に移る時期には、時代に一つの区切りをつけるような重大な事態が起こりました。それが鬼界カルデラの大噴火です。鬼界カルデラは九州の薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地)です。薩南諸島北部にある薩摩硫黄島、竹島がカルデラ北縁に相当し、その薩摩硫黄島は現在もランクAの活火山に指定されています。この鬼界カルデラが今から約7,300年前に大噴火を起こしました。この鬼界カルデラの噴火の爆発規模は、20世紀最大規模の大噴火と呼ばれる19916月に起きたフィリピンのルソン島のピナツボ火山の噴火の1015(この大噴火では噴火前に1,745mあった標高は、噴火後に1,486mまで低くなっています)。同じく199163日に起きた雲仙普賢岳の大噴火のおよそ100倍と驚異的なもので、この鬼界カルデラの噴火により地表に噴出されたマグマの量は13000億トンにものぼるとされていて、過去1万年間の日本火山史の中では最大の火山噴火であったと言われています。最近の調査によると、上空3万メートルの成層圏にまで達した大量の火山灰は、遠く東北地方にまで飛散ほどで、南九州一帯は、60cm以上の厚さの火山灰で一面が埋め尽くされたと言われています(図4参照)。

前述のように九州南部には上野原遺跡や金峰町の遺跡の発掘調査により、およそ11,000年前に季節的な定住が始まり、約1万年ほど前には通年の定住も開始されたと推測されるなど、縄文時代早期には人々が定住生活をしていた跡が発見されているのですが、これらの文明はこの鬼界カルデラの大噴火によりほぼ絶滅したと考えられています。当然、九州南部の生態系はことごとく破壊され、とても人々が住めるところではなくなってしまったということは容易に考えられます。当然、多くの犠牲者が出たと考えられますが、なんとか生き残ったとしても、土地は火山灰に厚く覆われてしまい、長い間(おそらく数百年~1千年くらいかもしれません)、農作物がまったく育たない不毛の大地となったことでしょう。多くの人々がこの地を離れて、どこか安全に住める場所に移住したと考えられます。この被害は九州南部だけでなく広く中国地方や四国、近畿と言った西日本一帯に及び、鬼界カルデラの大噴火はそれ以前の縄文時代初期(草創期、早期)の遺跡や遺物が関ヶ原から東の東日本や東北地方に比較的集中していることの理由の一つではないかと考えられています。

この鬼界カルデラの大噴火はその代表と呼べるものですが、日本列島は火山列島と呼ばれるほど面積のわりに火山が多くあるところで、それらの火山が噴火を繰り返したために広く列島全体を火山灰が覆っています。火山灰を多く含んでいることから、日本列島は基本的に酸性土壌で、骨も腐敗して溶解してしまうことから、古い人骨というものはほとんど残されていないのですが、この上黒岩岩陰遺跡からは約1万年前の縄文時代早期の地層からほぼ完全に近い人骨が発見されました。これは現地が南向きの岩陰で、しかも傾斜地であるためいつも乾燥している上に、この上黒岩岩陰遺跡のある久万高原町美川のあたり一帯は石灰岩が厚く堆積したカルスト台地で、上黒岩岩陰遺跡も高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあることに原因があると考えられます。なんと言っても石灰岩の成分の多くは炭酸カルシウムで、アルカリ性ですから、石灰岩から溶け出した石灰分(アルカリ)の消毒力(中和力)が腐敗を防いだものと考えられています。

上黒岩岩陰遺跡では第4層に縄文時代早期の遺物が発掘されているものの、第3層より上の層、すなわち縄文時代前期より以降の遺物はさほど発掘されておりません。それはおそらく鬼界カルデラの大噴火が影響しているものと推察されます。

上黒岩岩陰遺跡の発掘現場です。現在も発掘調査は続けられているのだそうです。時間が合えばボランティアで協力したいので…と、連絡先を考古館に残しておきました。お茶汲みでもなんでもやります…とも。
これは分かりやすいです。今から約14,500年前の縄文時代草創期早期から古墳時代までの約1万年間、ここに人が暮らしていた痕跡が残っているって凄いことです。なんで愛媛のこんな山深いところに

さらに上黒岩岩陰遺跡と言えば女神像線刻礫です。この女神像線刻礫は「日本最古のヴィーナス像」とも称され、鋭利な剥片石器を用いて女性像を礫に描いたもので、信仰の対象だった可能性が指摘されています。長い髪、大きな乳房、腰蓑を、鋭い石器などで小さい緑泥片岩に描いてある線刻像で、この種の像が出土したのは日本ではこの久万高原町の上黒岩岩陰遺跡が初めてのことで、南ヨーロッパに類似のものが出土しているだけという世界的にも極めて貴重なものです。前述のように、同じ地層(9)からはおよそ約12,000年前の発見当時としては世界最古級の土器、細隆起線文土器も出土していることから、おそらくその時代以前に描かれたものではないか…と考えられています。この線刻礫(石偶)は中央構造線南側にある三波川変成岩帯特有の緑泥片岩(青石)の礫に鋭利な剥片石器を用いて女性像を描いたとされるもので、信仰の対象だった可能性が指摘されています。ズバリ言うと、子供を産む時に握りしめる「安産のお守り」だったという説が有力です。大きさから言っても握りしめるのにちょうどいい大きさです。

女神像線刻礫、いわゆる「縄文のヴィーナス」の説明です。写真の女神像線刻礫は国立歴史民俗博物館に展示されているものですね。これまで12個出土しています。
女神像線刻礫、いわゆる「縄文のヴィーナス」です。この考古館には実物が5個展示されています。

上黒岩岩陰遺跡からはこれまで12個の「縄文のヴィーナス」が出土していて、そのうちの5個が展示されています。展示されているのは出土した実物です。

この久万高原町の上黒岩岩陰遺跡から出土した女神像線刻礫は「日本最古のヴィーナス像」として全国的に有名で、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館にもレプリカが展示されています。私は千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館でこの愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡から出土した女神像線刻礫(縄文のヴィーナス)1個展示されているのを見て、愛媛県で約14,500年前の縄文時代草創期から早期にかけての遺跡があることを知り、一度訪れてみようと思っていました。その縄文のヴィーナスが出土した憧れの地、上黒岩岩陰遺跡へ、ついに来ることができました。

 ちなみに、女神像線刻礫(縄文のヴィーナス)はこれまで12個が出土していて、1個が国立歴史民俗博物館に展示されていて、6個が慶應大学や新潟大学、愛媛大学などに研究目的に行っていて、残り5個がここ上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されています(上黒岩岩陰遺跡考古館に展示されているのはレプリカではなく、実物です)

 また、動物遺体ではニホンジカ・イノシシを主体にカモシカ、ニホンザル、アナグマ、タヌキ、ニホンオオカミ、オオヤマネコ、ニホンカワウソ、イタチ、ツキノワグマ、ウサギ、ムササビ、ネズミなど多様な種の骨が出土しており、骨髄を利用した解体痕も見られます。また、家畜では埋葬事例とされるイヌ(縄文犬)の骨の出土が特筆されます。

動物遺体ではニホンジカ・イノシシを主体にカモシカ、ニホンザル、アナグマ、タヌキ、ニホンオオカミ、オオヤマネコ、ニホンカワウソ、イタチ、ツキノワグマ、ウサギ、ムササビ、ネズミなど多様な種の骨が出土しています。

1万年前の耳飾りやペンダント等の装身具の数々です。縄文時代も女性は装身具で飾っていたようです。驚くべきは海で採れる貝(タカラガイ等)が使われていること。海から遠く離れた標高800メートルも山の中で、何故、海の貝殻が……。約1万年前でも山の民と海の民との間で交流(交易)があったと言うことですね。

おそらく前述の鬼界カルデラの大噴火の影響で上黒岩岩陰遺跡では遺物がほとんど発掘されていないのですが、縄文時代前期以降についても、少し触れておきます。縄文時代前期(7,200年前~)から中期(5,500年前~)にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在、縄文時代の遺跡の代名詞のようになっている青森県にある三内丸山遺跡もこの時期にあった集落の遺跡です。この時期には三内丸山遺跡に代表される東北地方北部のほか、日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられています(「石狩低地以東の北海道」、「北海道西南部および東北北部」、「東北南部」、「関東」、「北陸」、「東海・甲信」、「北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」、「九州(豊前・豊後を除く)」、「トカラ列島以南」)。海水面は縄文時代前期の中頃には、前述のように現在より45メートルほど高くなり、そのぶん海岸線も内陸に入っていました(縄文海進)。また、気候も現在より遥かに温暖であったと考えられています。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと考えられています。植生面では関ヶ原より西の地域は概ね一様に照葉樹林帯となっていたと類推されています。

縄文時代後期(4,700年前~)に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きます。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなりました。一方、西日本や東北地方では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していったようです。中部や関東地方では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化しました。その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっています。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じます。文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」、「西日本」、「九州」、「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしています。驚くことに、この当時の人達(縄文人)は既に犬を飼っていたようで、ソバのほかにもヒョウタンやウリ、ゴボウなどの植物栽培(農業)までを行っていたと考えられています。

縄文時代は、今から約3,000年前の紀元前10世紀頃に北九州に大陸からの渡来人が大挙流入し、コメ()を栽培する稲作が日本全土に広まり、弥生文化が始まったことにより終焉を迎えたとされています。最近では大陸から渡来した人々がいったいどれくらいの人数であったのか、また、それまで日本列島に住んでいた縄文人がどのように弥生文化を受け入れていったのかに関する研究も進められていて、弥生文化は、徐々に南日本、西日本から東日本、北日本へと北上していったのではないかと考えられています。津軽海峡が横たわっていたため、その流れから隔離された感じになってしまった北海道では、今に残るアイヌ文化にも繋がる独自の「続縄文文化」を生み出しました。ちにみに、渡来人流入のきっかけは、大陸で起きた政治的変動にあるではないか…と考えられています。

いかがですか? ほとんど知られておりませんが、愛媛にはこんな時空を超えたとんでもない遺跡があるんです。上黒岩岩陰遺跡から出土した遥か約1万年前の遺物を眺めながら、その当時の人々の暮らしに思いを馳せてみませんか?

とにかく、愛媛はメッチャ面白いところです。

 

 


2023年3月2日木曜日

縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡①

 公開日2023/03/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]102 縄文のヴィーナス:上黒岩岩陰遺跡①


前回、第101回「鉄分補給シリーズ(その7)四国カルスト高原」からの帰りに愛媛県上浮穴郡久万高原町上黒岩にある上黒岩岩陰遺跡に立ち寄りました。久万高原町は平成16(2004)に上浮穴郡の久万町、面河村、美川村、柳谷村の13村が合併して誕生した自治体なのですが、上黒岩岩陰遺跡はそのうちの旧美川村の、面河川が久万川と合流する御三戸から久万川を約3km遡った右岸の河岸段丘上、国道33号線からほんの少し入ったところにあります。

今から1万2,00年前の縄文草創期早期の女神像線刻礫(石偶)、いわゆる「縄文のヴィーナス」です。

上黒岩岩陰遺跡の場所です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

上黒岩岩陰遺跡は、今から約14,500年前の縄文草創期早期から縄文時代後期、さらには弥生時代にわたる複合遺跡です。延々1万年近くにわたり人が住んでいたという点で、長崎県福井洞遺跡と並んで貴重な縄文時代の岩陰遺跡です。

昭和36(1961)に久万高原町上黒岩ヤナセ(発見当時は上浮穴郡美川村)で近在の中学生によって偶然発見された岩陰遺跡は、今から約14,500年前の縄文時代草創期早期の人類遺跡として一躍有名になりました。この上黒岩岩陰遺跡は久万川の河岸段丘上の高さ30メートルの石灰岩が露出した岩陰にあります。


上黒岩岩陰遺跡の発掘現場です。

「国指定史跡 上黒岩岩陰遺跡」の碑です。

人が埋葬されていた穴です。おそらく深く掘られた穴だったので、鬼界カルデラの巨大噴火による大量の火山灰によっても溶けることなく、ほとんど原形をとどめたまま人骨が出土したのでしょう。

5次にわたる発掘調査の結果、第1層から第9層まで遺物が包含されており、縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近くにわたって使用されてきた岩陰であったことが判明しました。昭和37(1962)10月の調査で、とくに第4層からは縄文時代早期の埋葬人骨が出土しました。また、昭和37(1962)8月には日本考古学協会洞穴遺跡特別調査委員会による調査が行われ、第14層までの掘り下げを行った結果、第9層から細隆起線文土器、有舌尖頭器、矢柄研磨器、削器、礫器、緑泥片岩製の礫石に線刻した岩版7個などが一括して出土しました。年代測定の結果、これらが今から約14,500年前の縄文時代草創期早期のものであることが分かり、昭和46(1971)に国の史跡に指定されました。

遺跡とは人間の活動した痕跡のことで、上黒岩岩陰遺跡のような太古の昔の遺跡を探訪する際には、その時代のことについてある程度の基礎知識を持って臨むと、面白さがグッと高まります。上黒岩岩陰遺跡は縄文時代草創期から縄文時代後期までの1万年近い長い時間の人間が活動した痕跡ということなので、まずは縄文時代がどういう時代であったのかを振り返ってみたいと思います。

縄文時代とは、年代でいうと今から約16,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)にかけて日本列島で発展した日本の考古学上の時代区分のことです。一口に縄文時代と言いいますが、およそ1万年以上という長い間続いたわけで、これを奈良時代や平安時代等と同列な意味での“○○時代と扱うのは大きな間違いです。そもそも日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはありません。概ね古代、中世、近世、近代、現代とする時代区分法が歴史研究者の間では広く受け入れられていて、私達一般人もこの区分を使うことが多いのですが、この時代区分においても各時代の画期をどこに置くのかについては研究者によって大きく異なるようです。その多くは国家の形成時期、政治体制、社会体制、経済体制等の見解の相違に基づくもので、時代はある日を境に明確に区分できるようなものではなく、連続線の中で緩やかに移行して変わっていくものだと考えれば、そんなに目くじらを立てて論争をするほどのものではない…と私は考えています。

一般的によく知られている時代区分は、主として政治・経済の中心がどこに置かれていたのかという所在地に着目した時代区分で、これは文字が使われるようになって、文献史料が残されるようになった以降の時代に適用されています。飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代がこれにあたります。明治維新以降の近代においては、天皇の在位に従って、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代と呼ばれて、“時代”は短く区切って呼ばれるようになっています。文献史料が残されてなくて、考古史料しか残されていない時代に関しては、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と区分されます。考古史料の代表例としては、土器や石器、金属器などの遺物、竪穴住居跡や土坑墓などの遺構など、人間の積極的な製作活動により残されたものが挙げられますが、このほかにも廃棄された獣骨や魚骨、石器製作に伴う石屑、無意識のうちに残された足跡なども含み、これらの総体であるところの遺跡全体が考古史料として扱われます。で、縄文時代とは、考古学上の分類によると「縄文土器が製作・使用されていた時代」ということになります。

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年前まで遡ります。20037月に岩手県遠野市の金取遺跡の約89万年前の地層から人が叩いて作ったと認められる石器が出土したのに続き、20098月には島根県出雲市多伎町の砂原遺跡から今から約12万年前のものと認められる石器が発見され、大きな話題となりました。ここまで古い時代ではなくても、現在までに日本列島全域の4,000ヶ所を超える遺跡から約3万年前から約12,000年前のものと認められる石器が幾つも出土しています。石器の多くは石斧に使われたと思われる刃先に人工的に磨きをかけた台形のものや、石槍に使われたと思われる縦10cmほどの長い石の剥片を加工して尖らせたもの(打製石器)で、大型哺乳動物や小動物の狩猟や解体、木の伐採や切断、土堀り等多目的に使用されたと推定されています。主な打製石器の原料として使われたのが黒曜石(こくようせき)と呼ばれる石で、加工が容易ながら耐久性に優れ、鋭利な断面を作れる石器にうってつけの石材です。黒曜石から作られた打製石器の確認例は長野県の野尻湖遺跡や上ノ平遺跡、群馬県の岩宿遺跡が有名ですが、これら以外にも全国各地から出土しており、旧石器を用いた人々が日本列島の広範囲に生活していた事が窺えます。さらに石器とともに半地下式の竪穴住居の跡も見つかっています。大阪府藤井寺市にある「はさみ山遺跡」からは、木材を組み木にして、草や皮で覆った今から約22,000年前に作られたと推定される直径約6メートルの竪穴住居の跡が発見されています。

この時代のことを旧石器時代と言います。旧石器時代とは、文字通り人類によって石器(打製石器)の使用が始まった時代のことで、石器時代の初期・前期にあたります(後期を新石器時代といいます)。始まりは年代的には200万年前にまで遡るとされていて、前述のように日本列島でもこの旧石器時代の遺跡が幾つも発見されています。旧石器時代の人類の生活様式は地域によって多様であるようですが、一般的には自然界にある大型哺乳動物や小動物、魚介類、木の実等を狩猟や採集によって食糧を得(狩猟採集社会)、小さな集団(群れ)で暮らしていたと想像されています。旧石器時代の社会は、群れごとに指導者が存在し、男性・女性は概ね平等で、基本的に男性は狩猟、女性は漁労や採取および育児を仕事としていたものの、この役割はしばしば共有されており、明確な分業はされていなかったと考えられています。当時の人糞の化石からは、旧石器時代の人類はハーブなど植物に関する知識が豊富であったことが判っていて、現代人が想像する以上に健康的な食事が実現されていたことも判明しています。

旧石器時代はこの石器の出現から農耕が開始されるようになるまでの時代のことを指すのですが、この農耕の開始には気候の変動が大きく関連しているように思えます(図1参照)。

図1 約2万年前からの気候変動

地球の歴史上の最後の氷期である「晩氷期」と呼ばれる約15,000年前から1万年前の気候は、数百年周期で寒冷期と温暖期が入れ替わるほど急激で厳しい環境変化が短期間のうちに起こりました。日本列島でも、それまでは針葉樹林が列島全体を覆っていたのですが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加して徐々に拡がっていき、北海道を除く日本列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われるようになります。本州は全域にわたってコナラ(果実のことをドングリと言います)やブナ、クリなど堅果類が繁茂するようになり、北海道でもツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が広く広がっていました。また、温暖化による植生の変化はマンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までに日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまったと考えられます。

これにより、人々の食生活、生活様式は大きく変化してきます。それまでの旧石器時代は大型哺乳動物や小動物等の狩猟による肉食が主体だったのですが、地球規模で起きた温暖化により植物採取や漁労による食生活に一気に変わっていきます。この生活様式の変化は新しい道具が短期間に数多く出現したことにより類推されます。例えば、石器群では大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などがこの時期に出現しました。しかも、この時期は、遺跡によって石器群の現れ方が微妙に違っています。これは急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていったと考えられています。狩猟や植物採取、漁労ばかりでなく植物栽培(農耕)もこの時期に始まり、生産力を飛躍的に発展させました。前述のように、この時期はマンモスやナウマンゾウといった大型哺乳動物が日本列島で絶滅した時期と重なるため、当時の人々は主食を獣肉から木の実へと変更する事を余儀なくされました。この木の実ですが、多くは収穫時期が限られるため、一年中食するためには貯蔵する必要が生じます。また食べるためには加熱処理が必要な木の実も多く、獣肉や魚介類のように単純に直火で炙るだけでは食べるのが困難であるため、加熱するための調理器具が必要となります。それで考案されたものが“器”というものというわけです。その器は土を火で焼いて固めて生成するという手法で作られました。それが土器です。

日本で最初にこの時代の土器を発見したのはアメリカ人の動物学者エドワード・S・モースで、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から偶然に発見し、政府の許可を得た上で発掘調査を行い、大量の土器、骨器、獣骨等を発見しました。これが大森貝塚で、明治10(1877)のことです。縄文土器という名称は、エドワード・S・モースがこの大森貝塚で発掘した土器を「Cord Marked Pottery」と論文で発表したことに由来します。この大森貝塚は縄文時代後期(4,700年前~)から晩期(3,400年前~)にかけての遺跡で、その後、日本各地でこの時代の遺跡の発掘が行われ、日本の考古学が飛躍的に発展を遂げることになります。

この時代の土器は粘土を捏ねて器の形を作り、窯を使わない平らな地面あるいは凹地の中で、小枝を集めて燃やした焚き火の中にくべてやや低温(600℃800℃)で焼かれて生成されたと考えられる簡素な焼物で、色は赤褐色系で、比較的軟質であるという特徴があります。土は粗く、やや厚手の深鉢が基本で、比較的大型のものが多いのですが、用途や作られた時期によっては薄手のものや小形品、精巧品等も作られています。表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で、彩色による文様はほとんど見られません。そして一番の特徴は、土器表面に施された模様です。この模様は、いわゆる縄目文様は撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけたもので、多様な模様が見られます。中には容器としての実用性からかけ離れるほどに装飾が発達した土器も出土しています(この特徴は、日本周辺の諸外国の土器にはみられない特徴です)。実際には縄文を使わない施文法(例えば貝殻条痕文)や装飾技法も多く、土器型式によって様々なのですが、最初に多く出土した土器に、この縄目文様が施されていたことから、「縄文(縄目文様)が施された時代の土器」という意味で『縄文土器』と呼ばれ、この『縄文土器』が作られた時代のことを『縄文時代』と呼ぶようになりました。

この縄文時代は世界史の上では中石器時代から新石器時代に相当する時代で、日本列島において世界的に見ても最初期に土器が普及したというのは、前述のようにそれまで氷河期にあった地球が地球規模で温暖化に向かったことの影響が、日本列島でより顕著に表れたためではないか…と想像できます。これは日本の歴史において、大きな特徴と言えます。すなわち、日本の縄文時代というは、アフリカ大陸やユーラシア大陸、ヨーロッパといった世界の別の地域においては旧石器時代後期から新石器時代にかけての時代に栄えた、まったく日本独自の文化ということができます。

そして、世界がまだ石器時代の中、なぜ日本列島でなぜいち早く土器が普及したのか、いや、それ以前に粘土質の土を火を使って焼いたら硬く固まるということをなぜ人々は発見したのかということについてですが、これに関しては日本列島が火山列島であるということに深く関係があるのではないか…と私は勝手に想像しています。当時も日本列島ではたびたび火山が噴火していたと想像できます。火山が噴火すると溶岩が噴出し、溶岩流が流れ出ます。その途中で岩石を焼き、草木を焼き、そして土を焼きます。溶岩流が冷えた後、粘土質の土が石のように固まって残ることを人々が偶然に発見したとします。当時の人達はその化学変化をなんとか人工的に作りだして、便利な器を作れないものか…と考えて、長い長い年月をかけた様々な試行錯誤の結果、ついに土器の製造方法に辿り着いた…、こう考えるのが自然なのではないかと、私は考えています。

当時は日本列島の形状も今とは違っていました。今から約7万年前、地球はそれまで比較的温暖だった気候が世界的に寒冷化していき、約1万年前までヴュルム氷期と呼ばれる氷河期が長く続くことになります。特に約2万年前~15,000年前には最終氷河期の最盛期にあり、日本列島周辺でも平均気温が現在より6℃7℃も低く、シベリア並みの気温だったと考えられています。ですが、その時代が過ぎると地球規模で徐々に温暖化に向かったことが様々な古気候学の調査で判明しています。

氷河期には陸地にも多くの氷が存在することになります。近年よく耳にする地球温暖化による海水面の上昇は、地表(陸上)の氷が融けて海に流れ出すことによる全海水量の変化と、海水の温度の上昇による体積変化、すなわち熱膨張の効果が原因とされているのですが、過去の氷河期から間氷期へ移行する際にも、これと同じメカニズムで海水面の上昇が起こったと考えられています。そういうわけで、氷床コアの解析などによる古気候学の科学的な調査により、今から約2万年以上前の氷河期の地球は、現在よりも100メートル以上も海水面が低かったということが判っています。これは、現在水深100メートルのところにある海底が、当時の海岸線だったということを意味しています。その水深100メートルの海底面を図2に示します。すなわち、これが、約2万年前の日本列島周辺のおおよその地形と言うわけです。

図2 約2万年前からの海面の高さの変化

図1、図2とも気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate ChangeIPCC)の資料等をもとに私が作図したものです。また、図2における海峡毎の横のラインは、海図の水深データ等から、地続きに必要となる高さ、逆に言うと、海峡が形成されるのに必要となるであろうと考えられる高さを目安として示したものです。この図を見ていただくと、概ねどのあたりの時代にそれまで地続きだった陸地が海水面の上昇によって海の中に水没していき、海峡や瀬戸内海等ができて、現在のような日本列島の姿が形成されていったのかが、イメージとしてお分かりいただけるかな…と思います。これをご覧いただくと、北海道と樺太(サハリン)との間の宗谷海峡、さらに、樺太とユーラシア大陸(シベリア)との間の間宮海峡は海峡深度が浅く、100メートルにも満たないことから、北海道と樺太(サハリン)、そしてユーラシア大陸は間違いなく地続きだったことが分かります。また、日本列島の中も瀬戸内海などは存在せず、本州と四国、九州は地続きで、その大きな島と北海道の間には狭い狭い海峡(津軽海峡)が横たわっていたのではないかと想像できます(津軽海峡の海底深度は150メートル以上あります)。九州と対馬の間の対馬海峡(対馬海峡東水道)は海底深度が最大で125メートルほどですので地続きであったかどうかは微妙なところではありますが、朝鮮半島と対馬の間の朝鮮海峡(対馬海峡西水道)は海底深度が150メートル以上あるので、陸続きではなかった可能性が高いと考えられます。

日本人のルーツとされる、北方系古モンゴロイド(北方系蒙古民族)の起源はシベリアのバイカル湖畔あたりにあるのではないかと言われています。図1と図2を合わせて考えてみると、そのもともとはバイカル湖畔あたりに棲んでいた北方系古モンゴロイドの人達が、地球規模の気温の寒冷化によって住みやすい土地を求めて徐々に南下をはじめ、樺太から北海道を経て、本州、四国、九州に棲みついたと考えるのが日本人のルーツとしては最も考えやすいのではないかと思われます。おそらく、食料となるマンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカといった大型哺乳動物の南下を追いかけて移動してきたというのが、正確なのかもしれません(図3参照)。ちなみに、ユーラシア大陸(東シベリア)と北米大陸(アラスカ)の間にあるベーリング海峡は海底深度が50メートルにも満たない浅い海峡なので、当然、約2万年前はユーラシア大陸と北米大陸は地続きだったわけで、この時期、一部の人達はベーリング海峡を越えて、北米大陸に移住したと考えられます。この人達がアメリカインディアンの先祖というわけです。

 

図3 約2万年前の日本列島の海岸線の想像図

  

……②に続きます。②は明日掲載します。

 


2023年2月3日金曜日

鉄分補給シリーズ(その7) 四国カルスト高原

 公開日2023/02/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第101 鉄分補給シリーズ(その7) 四国カルスト高原

 

昨年の7月中旬、前々からどうしても行ってみたかったところへ行ってきました。そこが「四国カルスト高原」です。四国カルスト高原は愛媛県と高知県の県境に沿った標高約1,0001,400メートルの山地の尾根づたいに東西約25kmにわたって断続的に広がる石灰岩の台地、いわゆるカルスト台地のことです。

愛媛県と高知県の県境に沿った標高約1,0001,400メートルの山地の尾根づたいに東西約25kmにわたって断続的に広がる石灰岩の台地、「四国カルスト高原」です。

この日の行程図です。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

この鉄分補給シリーズは鉄道やバス、フェリーといった公共交通機関を使った日帰り旅行の紀行文を基本にしているのですが、今回は四国カルスト高原まで行ける公共交通機関がないことから、私の愛媛での愛車ハスラー君を駆ってのドライブです。前回、「鉄分補給シリーズ(その6)伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線」の最後で、久万高原駅に停車中の四国カルスト高原の美しい写真のラッピングが施されたJR四国バスの車体を眺めていて、「そうだ、ここを忘れてはいけない。ここに行かねば!」と思っちゃいましたから。


久万高原駅に停車中のJR四国バス久万高原線の路線バスです。車体にラッピングされているのは雄大な四国カルスト高原の写真。私はこのラッピング写真を見て、四国カルスト高原に行こうと思いました。

四国カルスト高原は上浮穴郡久万高原町(旧柳谷村)を中心に西は西予市、北は喜多郡内子町、さらに南は高知県の高岡郡檮原町と津野町にかけて広大に広がるカルスト台地です。松山市内から行くには、国道33号線で三坂峠(標高720メートル)を越え、久万高原町落出で分岐して国道440号線を進みます。この国道440号線は、松山市の市役所前交差点を起点として高知県高岡郡檮原町に至る一般国道ですが、起点から久万高原町落出まではほぼ国道33号線と重複します。三坂峠の下を三坂第一トンネル・第二トンネルで抜ける三坂道路が整備されてからは、三坂峠を通る旧路線は国道33号線の指定を外され、国道440号線の単独区間となっています。せっかくなので、国道440号線をなぞるために、三坂峠越えの旧路線を利用しました。

三坂峠です。三坂峠の標高は720メートル。旧国道33号線の最高地点です。国道33号線は急勾配の三坂峠を越えると、今度は太平洋に面した高知県高知市に向けてダラダラと緩い勾配の坂で下っていきます。


「鉄分補給シリーズ(その6)伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線」で利用した伊予鉄南予バスの久万営業所とJR四国バスの久万高原駅の前を通り過ぎ、さらに久万川に沿って南下します。その久万川が面河川と合流する地点で、面白い形をした巨大な岩が見えてきます。愛媛県の名勝に指定されている「御三戸嶽(みみどだけ)」です。前述のように、この御三戸嶽は北方から流れてくる面河川と西方から流れてくる久万川との合流点に当たり、ここで面河川が主流となって高知県の方向に流れていきます。そして県境を越えて高知県に入ったところで、仁淀川と名称が変わります。仁淀川は仁淀ブルーと呼ばれる神秘的なエメラルドグリーンの色をした清流として全国的にその名を知られていますが、その主な源流は愛媛県にあって、この面河川と久万川がその仁淀川の源流です。なので、御三戸嶽の下を流れる水は澄んでいて、とても綺麗です。面河川と久万川の合流部にある御三戸嶽は石灰岩で形成された巨大な岩頭で、その岩壁の高さは約37メートル。上流側には淵が、下流側には砂洲が形成されており、上部には松が生い茂っています。御三戸嶽には、その形から「軍艦岩」の別称が付けられています。

面河川と久万川の合流地点に立つ石灰岩の巨岩「御三戸嶽(みみどだけ)」です。面河川はこの御三戸嶽のところで久万川と合流し、Uターンするように高知県方向に流れていきます。右手が高知県方向で、高知県に入ると仁淀川と名称が変わります。

先ほど御三戸嶽は石灰岩で形成された巨大な岩頭…ということを書かせていただきましたが、これから向かう四国カルスト高原も石灰岩でできた地形。石灰岩は炭酸カルシウム(CaCO3) 50%以上含む堆積岩のことなので、今回の日帰り旅は、鉄分補給と言うよりも、骨分(カルシウム分)補給の旅って言うことができますね。カルシウムは、骨や歯の主要な構成成分になるほか、細胞の分裂・分化、筋肉収縮、神経興奮の抑制、血液凝固作用の促進などに関与している重要な栄養素ですから()

面河川も久万川もともにV字渓谷を形成していて、御三戸嶽の付近にはほとんど平坦地はないのですが、面河川に沿ったその狭い平坦地に久万高原町の美川支所(旧美川村役場)があります。久万高原町は平成16(2004)に上浮穴郡の久万町、面河村、美川村、柳谷村の13村が合併して誕生した自治体で、美川村はその1つで、この御三戸が旧美川村の中心地でした。また、この御三戸嶽のあるところからは愛媛を代表する景勝地である面河渓谷や四国霊場八十八箇所の第45番札所の海岸山岩屋寺へ向かう愛媛県道212号東川上黒岩線が分岐していて、御三戸嶽はそこへ向かう旅行客の目印になっています。

さらに国道33号線を高知県との県境に向かって南下します。落出で国道33号線から四国カルスト高原を越えて高知県高岡郡檮原町へ向かう国道440号線が分岐します。この落出は現在の久万高原町を形成する旧久万町、面河村、美川村、柳谷村の13村の1つ、旧柳谷村の中心地で、久万高原町の中でも最も南の高知県との県境に近いところに位置しています。この落出は、かつて国道33号線経由で愛媛県の県都・松山市と高知県の県都・高知とを最速3時間9分で結んでいた国鉄(日本国有鉄道)のバス路線「松山高知急行線(愛称:なんごく号)」の愛媛県内最後のバス停がありました。この先はすぐに県境を越えて高知県になります。この松山高知急行線は、昭和62(1987)に国鉄が民営化され、四国島内の国鉄がJR四国として発足した当時、鉄道も含めたJR四国全体で唯一の黒字路線であったことから、「栄光の松山高知急行線」とも呼ばれた一大幹線路線でした。しかし、四国島内でも松山自動車道や高知自動車道といった高速道路の整備が進み、松山市〜高知市間の移動も高速道路利用の方が快適で、時間的にも早くなったことから、平成13(2001)、松山高知急行線は廃止され、高速道路経由の「なんごくエクスプレス」に生まれ変わりました。その際、JR松山駅と落出(旧上浮穴郡柳谷村)間の愛媛県内の区間のみは旅客需要もそれなりに多かったことから一般路線バスによる運行になり、久万高原線と路線名称も変更になりました。平成29(2017)、久万高原〜落出間が廃止され、廃止区間を久万高原町営バスが代替運行されるようになり、現在に至っています。

この落出は旧柳谷村の中心地で、久万高原町役場 柳谷支所(旧柳谷村役場)もここにあります。このため、落出のバス停も自動車駅である落出駅になっていました。この落出駅は、JR四国バスが久万高原線の久万高原〜落出間の区間を廃止した後も、代替運行する久万高原町営バスの営業所として使われていて、この落出駅を起点に旧柳谷村内に幾つかの路線を今も運行しています(この旧柳谷村内の路線も、旧国鉄が運行していた松山高知急行線の支線でした)


旧国鉄バスの自動車駅「落出駅」です。現在も久万高原町営バスの営業所として使われています。

久万高原駅に停車中の久万高原町営バスの車両です(前の車両)。過疎地の狭隘道路を運行するため、マイクロバスでの運行です。

国道440号線は落出で国道33号線から分岐すると、ループ橋と2本のトンネルを抜けて南西方向に進みます。旧柳谷村は面河川とその支流である高野本川の上流域のV字渓谷にある山村で、国道440号線もその高野本川のV字渓谷に沿って伸びています。国道440号線は四国山地の山岳道路であり、狭隘な区間が多いので、いわゆる酷道と呼ばれる路線の1つですが、最近は改良工事が進められ、一部で2車線化もされています。

「やなだにキャニオン」の案内表示が立っています。その表示によると、このあたり旧柳谷村の西谷地域を流れる高野本川は両岸に断崖が続き、典型的なV字谷を形成する渓谷で、「やなだにキャニオン」と呼ばれているのだそうです。谷幅約50メートル、高さ約150メートルの絶壁を誇る四国最大級の渓谷なのだそうです。春の新緑のシーズンや、秋の紅葉のシーズンには、さぞや美しい風景になるだろうと容易に想像できます。


「やなだにキャニオン」です。谷幅約50メートル、高さ約150メートルの絶壁を誇る四国最大級の渓谷なのだそうです。

この国道440号線を久万高原町営バスの古味線が伸びています。この古味線も旧国鉄バス松山高知急行線の支線(当時の支線名は八釜線)でした。その古味線の途中にあるバス停の名称が「ごうかく」。元々は漢字で「郷角駅」として開設された自動車駅で、待合室が設置されています。この郷角駅、1980年代頃に受験合格祈願の縁起物として当駅までの乗車券が売れていることに気づいた旧国鉄の職員が、縁起切符として宣伝や特別乗車券の販売を行うなうようになり、その時に駅名を平仮名の「ごうかく」に改めました。今でも久万高原町営バスの落出営業所で“落出→ごうかく”の「ごうかく切符」が販売されているようです。一度落ちてからの合格であることに注意が必要です。浪人生向けかな(

久万高原町営バス古味線の途中にある自動車駅「ごうかく(郷角)駅」です。

その「ごうかく」バス停から少し奥に行ったところにあるバス停の名称が「大成(おおなる)」。ごうかく大成、こちらの切符のほうが合格祈願には向いているようですね。

こちらは久万高原町営バス古味線の途中にある自動車駅「大成(おおなる)駅」です。

久万高原町営バス古味線の終点、「古味」バス停です。かつての旧国鉄バス八釜線の終点でもありました。私は一時期、路線バスの終点を訪れることにハマったことがあったのですが、ここもなかなか味わいのある終点です。ここは国道440号線から愛媛県道52号小田柳谷線をほんの少し入ったところにあり、目の前に古味集会所があります。古味線(こみせん)の終点にあったのはコミセン(コミュニティーセンター:集会所)…なぁ〜んちゃってね()   路線バスの終点らしく古味のバス停の前は広いバスの転換場になっています。バス停の前の道路は愛媛県道52号小田柳谷線で、この道を高野本川の支流である黒川に沿って先に進むと、小田深山渓谷を経て喜多郡内子町小田へ出ます。

久万高原町営バス古味線の終点、「古味」バス停です。かつての旧国鉄バス八釜線の終点でもありました。古味バス停にかつてあった待合室(自動車駅舎)は既に取り壊されており、ベンチが置かれているだけです。

古味バス停の前の道路は愛媛県道52号小田柳谷線で、この道を高野本川の支流である黒川に沿って先に進むと、小田深山渓谷を経て喜多郡内子町小田へ出ます。左に分岐する道は旧国道440号線で、すぐに高知県との県境である地芳峠にかかり、峠を越えた向こう側は高知県高岡郡檮原町です。

この古味の集落は旧柳谷村の最深部にあり、公共交通機関で行けるのはここまでです。ここから分岐する旧国道440号線を先に進むと、すぐに高知県との県境である地芳峠(じよしとうげ)にかかり、峠を越えた向こう側は高知県高岡郡檮原町です。地芳峠の標高は1,084メートル。古味からの標高差は約400メートル。この標高差を国道440号線は山肌を縫うように九十九折りの曲がりくねった林間の狭隘路で登っていきます。大型車通行不能、軽自動車であっても前から対向車がやってくると、離合できる場所までバックする必要があったりして、まさに酷道。この日は休日だったこともあり、愛媛県側からは結構クルマの量も多く、気が抜けない運転になりました。ちなみに、平成23(2011)に地芳峠の下を貫く地芳トンネルを含む国道440号線のバイパス道路「地芳道路」が開通し、現在、愛媛県と高知県間の通行のほとんどは、この地芳道路を使っています。

地芳峠越えの国道440号線は、国道とは名ばかりのいわゆる酷道で、林間を行く細い1車線の曲がりくねった坂道です。四国には400番台のこうした酷道が幾つもあります。この写真は帰路に高知県側へ下った時に撮影したものです。
 
地芳峠に向かう国道440号線の車窓を撮影したものです。路肩にクルマを停め、車内から撮影しました。峠までこういう車窓が続きます。

地芳峠です。ここが四国カルスト高原の入り口で、ここで愛媛県西予市から高知県高岡郡津野町に至る愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線に入ります。私が目指したのは四国カルスト高原の中央に位置する「姫鶴平(めづるだいら)」。ここには、宿泊施設やキャンプ場が点在する観光拠点になっています。


地芳峠(じよしとうげ)です。ここから天狗高原までの愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線の区間が、カルスト地形が顕著なところです。

四国カルスト高原の中央に位置する姫鶴平(めづるだいら)です。ここには、宿泊施設やキャンプ場が点在する観光拠点になっており、姫鶴平から五段高原の先まで行って帰ってくる遊歩道(農道)があります。

四国カルスト高原は久万高原町(旧柳谷村)を中心に西は西予市、北は喜多郡内子町、さらに南は高知県の高岡郡檮原町と津野町にかけて広大に広がるカルスト台地で、とても日本とは思えないような雄大で美しい高原の風景が楽しめるところなのですが、地芳峠からこの姫鶴平を経て、五段高原(ごだんこうげん)、天狗高原に繋がる愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線沿いの標高約1,0001,400メートルの区間が、最もカルスト地形が顕著に現れているところです。ここでは、羊が群れたように見えるカッレンフェルトや、雨の染み込む割れ目が拡がり、すり鉢状の地形となったドリーネが見られます。


標高約1,380メートルの姫鶴平までは愛媛県道・高知県道383号四国カルスト公園縦断線が通っているので、クルマで来ることができます。ただ1車線の細い道路なので、大型車両は通行できません。

四国カルストでは、7月のこの時期、高原の夏を黄色く彩るハンカイソウ(樊噲草)が開花しています。ハンカイソウはキク科の多年草で、高さ約1メートルの茎に直径7cmほどの花をつけます。

「四国カルスト高原」は、山口県の「秋吉台」、福岡県の「平尾台」と並ぶ日本三大カルストの1つで、3つのカルストの中では一番標高の高い場所にあります。カルストとは石灰岩などでできた地形のこと。長い年月の間に雨などによる浸食で石灰岩が地表に現れているのが特徴です。前述のように、石灰岩は炭酸カルシウム(CaCO3)50%以上含む堆積岩のことで、有孔虫、ウミユリ、サンゴ、貝類、円石藻、石灰藻などの古代の海の生物の殻(主成分が炭酸カルシウム)が堆積してできたものとされています。と言うことは、このあたりは太古の昔には海底で、その後の地殻変動でこの標高約1,0001,400メートルまで隆起してきたと言うわけです。そして、その地殻変動の主たるものは中央構造線の断層活動によるものです。

四国カルストでは、石灰岩が羊の群れのように見えるカレンフェルトや、ドリーネと呼ばれる窪地など、カルスト特有の景色が楽しめます。


四国カルストの石灰岩は下位に緑色岩が見られることから海底火山の上にできた造礁サンゴであり、含まれるサンゴやフズリナの化石から形成期は古生代の二畳紀(28,600万年前から24,800万年前)であることが分かっています。


石灰岩です。

姫鶴平の駐車場に愛車ハスラー君を停め、天狗高原まで遊歩道を歩いてみることにしました。大きな風車を望むとともに、春から秋にかけては放牧された牛が草を食べる牧歌的光景が見られます。とても日本のものとは思えない感動を覚える風景で、「日本のスイス」と呼ばれているのも、納得させられます。

日本とは思えない牧歌的な風景です。さすが「日本のスイス」と呼ばれる四国カルストです。眼下に見えている建物は牛舎です。

春から秋にかけては放牧された牛が草を食べる牧歌的光景が見られます。とても日本のものとは思えない感動を覚える風景で、「日本のスイス」と呼ばれています。

風車から東側が「五段高原(ごだんこうげん)」です。前述のように、石灰岩が羊の群れのように見えるカレンフェルトや、ドリーネと呼ばれる窪地など、カルスト特有の景色が楽しめます。標高1,456メートルの四国カルスト高原最高地点は「五段城(ごだんじょう)」と呼ばれ、好天の日には南側(高知県側)に太平洋まで見渡せる絶景ポイントです。あいにくこの日は雲が多いのと、遠方が霞んでいたため、太平洋までは見えませんでした。東側にも霞んではいましたが、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)の山容が、うっすらと見えました。


姫鶴平の駐車場にハスラー君を停めて、周囲をウォーキングしました。風車から東側が「五段高原(ごだんこうげん)」です。五段高原の最高地点は標高1,456メートルの「五段城(ごだんじょう)」です。駐車場には四国4県だけでなく、神戸ナンバーや川崎ナンバー、多摩ナンバーといったクルマが並んでいます。全国区になってきました。さすがに標高1,400メートル。結構涼しくて、7月と言っても長袖の上着が必要でした。

愛媛県側(北東方向)を見たところです。霞んではいましたが、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)の山容が、うっすらと見えています。(中央に見える2つ並んだ三角の山の間です標高1,800メートルを超える高い四国山地の山々が幾重にも屏風のように立ち並んでいます。

日本の国土面積のうち、山地が占める割合は、約3/4で、7375%くらいと言われています。このように山地が卓越する我が国においても、特に四国はさらに山がちなところなんです。国土地理院の提供している国土数値情報に基づく地方別山地割合を見ると、数値の高い順に四国80%、中国74%、中部71%、近畿64%、東北64%、九州64%、北海道49%、関東41%となっています。中でも高知県と愛媛県の両県は山地の割合が86%、83%と8割を超えているのが特徴です。 標高別面積をみると、四国は全国平均に比べ、300メートル~1,000メートルの標高の面積割合が高く、中山間地と言われるところが多いのが特徴です。関西以西の府県別平均標高をみると、1位の奈良県の570メートルに次ぎ、2位は徳島県の461メートル、3位は高知県の433メートル、4位は愛媛県の403メートルと、香川県以外の四国3県は完全な山国といえます。奈良県は海に面していない県なので平均標高が高いのも分かりますが、四国の3県はいずれも海に面していてこの平均標高ということは、驚くべきことだと思います。それはすなわち、四国は海から山がすぐに立ち上がっているような地形と言うことを意味しています。なので、四国に来てみると、視界の中には必ずかなり近いところに山が迫ってきているのに驚かれると思います。


四国カルスト高原牛乳100%のソフトクリームです。味が濃くて美味しいです。バックは 高知県側(南東方向)です。急峻な四国山地の山々が屏風のように立ち並ぶ愛媛県側と異なり、こちら側にはさほど高い山はありません。晴れていれば遠くに太平洋が見えるのですが、この日は霞んでいて、見えませんでした。

99回では石鎚土小屋と面河渓をご紹介させていただきましたが、今回は四国カルスト高原。このように愛媛は山にも魅力的なところがいっぱいあります。海と山、まるで自然の魅力あふれるジオパークですね。


愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...