2021年6月3日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)

公開予定日2021/06/03

[晴れ時々ちょっと横道第81回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)


戦国時代最強の武将は誰か?…と問われれば、『甲斐の虎』の異名を持つ武田信玄の名前を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた武田信玄は甲斐国の守護を務めた甲斐武田氏第15代・武田信虎の嫡男として大永元年(1521)に生まれました。母は郡内地方(山梨県東部の都留郡一帯)の有力国人大井氏の娘・大井夫人と言われています。諱(いみな)は晴信。「信玄」とは出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄といいます。甲斐武田氏は長らく甲斐国の守護を務める名門の家系だったのですが、応永23(1416)に前の関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱「上杉禅秀の乱」に敗れたことを契機に守護としての権威が著しく失墜し、甲斐国にはしばらく幾つかの有力国衆が台頭する時代が続いていました。その甲斐武田氏の勢力を回復に向かわせたのは信玄の曾祖父にあたる武田信昌。信昌期には守護代跡部氏を排斥するなど、国衆勢力を次々と服従させて国内統一が進み、先代の父・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成しました。



JR甲府駅前にある甲斐国(山梨県)のシンボル「武田信玄公銅像」です。川中島の戦いの陣中における姿を模したその姿は、戦国時代最強と謳われた名将にふさわしく、堂々としています。

その父・武田信虎を駿河国に追放して武田晴信(後の信玄)が甲斐源氏武田氏の第16代目の家督を相続したのが天文10(1541)、信玄の19歳の時のことです。武田信玄には数々の伝説が残されています。その智力あふれる戦略は、身内に嫉妬されるほど素晴らしいものだったといわれています。例えば周りの武将の成長も考えた成長戦略をとったり、常に領土拡大を図ったりすることで、家臣らの結束を固めていったと言われています。また、武田信玄は「武田二十四将」として知られる戦国時代最強との呼び声の高い家臣団を有し、生涯に72回合戦を行いましたが、49320引き分け(勝率94)だったと言われています(この数字に関しては勝敗の捉え方によって諸説あります)。ちなみに、敗北した3回の対戦相手はいずれも北信濃の猛将・村上義清(上田原の戦い・砥石崩れ・ 葛尾城攻め)で、一説にはこの信濃村上氏が伊予国の村上水軍の祖であるともいわれています。


武田信玄は大永元年(1521)の生まれなので、今年は武田信玄生誕500周年です。JR甲府駅のコンコースでも武田信玄生誕500周年記念のイベントが行われています。

甲斐武田氏の家督を相続した武田晴信(信玄)は追放した父・信虎の体制を継承して引き続き隣国・信濃国に侵攻。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争を繰り返し、信濃国をほぼ領国化しました。その後も周辺諸国への領国拡張の野心を見せ、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領するまでになり、戦国時代最強の武将と呼ばれるまでになりました。その当時の石高はおよそ120万石に達していたと推察されています。次代の武田勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、遠江・三河平定による織田信長包囲網の形成を目的とした西上作戦の途上、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)で徳川家康軍を撃破した(三方ヶ原の戦い)直後に持病が悪化し、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)でしばらく滞在後、元亀4(1573)412日、軍を甲斐国に引き返す途中の三河街道上の信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)の地で死去しました。享年53歳でした。あの織田信長も、もし武田信玄がこの西上作戦の途中で病死しなかったらどうなっていたかわからないともいわれています。

 西上作戦の途中、病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田氏の第17代目の家督を相続したのが四男の武田勝頼でした。武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍の前に敗北。その後失地回復に努めたのですが、天正10(1582)、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が離反して織田信長に通じたのを契機に再び織田信長・徳川家康連合軍との戦いが始まりました。織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に対して武田軍では家臣の離反が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。武田勝頼は未完成の本拠地・新府城に放火して逃亡。家族を連れて笹子峠を越えて家臣の岩殿城主・小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城に逃げ込み、そこに篭城しようとしました。しかし、小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換。岩殿山城に向けて敗走中の武田勝頼は小山田信茂離反の知らせを甲州街道最大の難所と言われる笹子峠(標高1,096メートル)を越える直前の駒飼宿の地で受けて、駒飼の山中に逃げ込みます。武田勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃。逃げ場所が無いことを悟った武田勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけが僅かに残るだけとなりました。

 これが後年『甲斐の虎』の異名を持ち、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せ、戦国時代最強の武将と言われた武田信玄と、彼の死後約10年後に訪れる甲斐武田氏の滅亡です。このようにあまりにも武田信玄が有名なだけに、武田氏と言えば甲斐国(現在の山梨県)というイメージがあり、確かに清和源氏、河内源氏の流れを汲む嫡流である武田氏の本拠は甲斐国なのですが、この他にも「安芸武田氏」、「若狭武田氏」をはじめとする「甲斐武田氏」の分家筋にあたる傍流の武田氏が幾つかあり、そういう中に愛媛県にも「伊予武田氏」という一族がいたのをご存知でしょうか?

 その「伊予武田氏」についてご紹介するには清和源氏、河内源氏の流れを汲む嫡流(本家筋)である「甲斐武田氏」の興りから振り返る必要があります。


【1.甲斐武田氏について】


山梨県韮崎市役所の前に立つ甲斐武田氏初代当主である武田太郎信義の銅像です。


甲斐源氏武田氏は、平安時代末から戦国時代の武家で本姓は源氏。第56代清和天皇(在位858年〜876)の皇子・諸王を祖とする源氏氏族である清和源氏。その支流である河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光:第56代清和天皇から数えると第7)を始祖としています。河内源氏を称し、河内源氏の祖とされる源頼信は長元2(1029)に甲斐守に任官し、嫡男の伊予守・頼義の三男の義光にこの官職は継承されました。源義光(新羅三郎義光)の長兄は源義家(八幡太郎義家)。この源義家は河内源氏の嫡流を形成し、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物です。源義家は陸奥守を拝命して陸奥国に入ったのですが、清原氏との間の「後三年の役」(1083年〜1087)に巻き込まれ、苦戦を続けていました。長兄義家が陸奥国で苦戦しているとの知らせを受けると、源義光(新羅三郎義光)は長兄義家を援けるために官途を捨てて、陸奥国に下向しました。この「後三年の役」を終結させた功績により源義光は甲斐守を拝命しました。甲斐守といってもそれまでの甲斐守は在京で現地へは直接赴いていないと考えられているのですが、源義光は初めて甲斐国へ着任し土着した人物とも言われ、そこから甲斐源氏と呼ばれる一族が生まれることになります。山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は源義光の在所であったとする伝承が残されています。

 この河内源氏の本流とも言える甲斐源氏の血筋が武田氏を名乗るようになったのは、源義光の子である源義清が常陸国那珂郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市武田)を本貫としたことからとする説が定説になっています。大治5(1130)に源義清の嫡男・清光の狼藉行為が原因で義清・清光父子は常陸国を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流されたのですが、その後、義清・清光父子は八ヶ岳山麓の逸見(へみ)荘へ進出し、源清光は逸見姓を名乗るようになります。その後、源(逸見)清光の次男で源義清の孫にあたる源信義が保延6(1140)13歳で現在の山梨県韮崎市にある武田八幡宮にて元服したことから祖父義清が名乗った武田姓に戻し、その後に続く甲斐武田氏の初代となったとされています。ちなみに、この武田八幡宮ですが、『甲斐国志』によると、日本書紀や古事記に登場する日本武尊(ヤマトタケル)の子である武田王が御殿を設けたことが武田の地名の由来であり、武田王が館の北東に祠を祀ったのが武田八幡宮の起源とされています。



武田()信義は甲斐国巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)を本拠地と定め、そこから甲斐源氏の一族は甲府盆地の各地に徐々に進出して土着していったのですが、治承4(1180)4月に以仁王から平氏討伐の令旨を受け取ると、嫡男(長男)の一条忠頼や弟の安田義定ら甲斐源氏の一族を率いて挙兵。甲斐源氏は、同年1020日の富士川の戦いにおいて奇襲をもって平家軍を敗走させるなど主力となって戦ってこれに勝利し、その後も木曾義仲追討・平家討滅などに転戦し、武功をあげました。当時配流されていた伊豆国で北条時政、北条義時などの坂東武士らと共に挙兵した河内源氏嫡流の棟梁である源頼朝から武田信義が駿河国の守護に、弟の安田義定が遠江国の守護に補任されました。この戦いは必ずしも頼朝の傘下での行動ではなく独自の勢力による行動であったと考えられ、敗走する平家方を追討した武田信義・安田義定らの軍勢が駿遠地方を占拠した後、甲斐源氏の戦功を源頼朝が追認したものであるという風に考えられています。その後、鎌倉時代になると武田信義は鎌倉幕府の御家人となるのですが、その勢力を警戒した源頼朝から粛清を受けて武田信義はまもなく失脚。嫡男(長男)の一条忠頼をはじめ弟や息子たちの多くが死に追いやられたのですが、武田信義の五男・信光だけは源頼朝から知遇を得て甲斐国の守護に任ぜられ、本拠である甲斐国武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)にて甲斐武田氏の嫡流となりました。

 これが後年『甲斐の虎』の異名を持ち、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた武田信玄を生んだ「甲斐武田氏」です。この甲斐武田氏から「安芸武田氏」、「若狭武田氏」をはじめとする甲斐武田氏の分家筋にあたる傍流の武田氏が興ります。「伊予武田氏」の興りについてはこの「安芸武田氏」と「若狭武田氏」の興りと深く関係があるので、次にそのあたりをご紹介します。

 

【2.安芸武田氏について】

安芸武田氏は甲斐武田氏第2代の武田信光の時代の承久3(1221)に起こった承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱)の戦功によって、甲斐武田氏第2代の武田信光が鎌倉幕府より安芸国の守護に任じられたことから始まります。任命された当初は守護代を派遣していたのですが、後に信光の孫(甲斐武田氏第4)の武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城(さとうかなやまじょう:現在の広島市安佐南区祇園町)を築き本格的な領土支配に乗り出すようになりました。


 

元弘3/正慶2(1333)に鎌倉幕府が滅亡した時には甲斐武田氏第7代の武田信武は幕府の六波羅に味方しており、建武の親政において後醍醐天皇方となった甲斐国守護・武田政義(石和流武田氏)の後塵を拝していたのですが、南北朝時代に武田政義が南朝方であったのに対し、武田信武は北朝側の足利尊氏に属して戦功を上げ、室町幕府足利将軍家より甲斐国と安芸国の両守護に任命され、信武の子・甲斐武田氏第8代の武田信成が甲斐国守護、信成の弟の武田氏信が安芸国守護を分けて継承しました。この武田氏信が安芸武田氏の初代となりました。しかし応安元年(1368)、武田氏信は幕府によって安芸国の守護職を解任されたものの(以降、安芸国の守護職は今川氏や細川氏といった足利一門が担いました)、安芸武田氏第4代の武田信繁の代まで安芸武田氏自体は佐東銀山城を中心とした分郡守護として足利将軍家に仕え存続しました。


広島市安佐南区祇園町にあるその名も武田山。安芸武田氏の居城・佐東銀山城はこの武田山の山頂にありました。手前に見える建物群は2015年と2020年の2回最優秀選手賞を受賞した福岡ソフトバンクホークスの柳田悠岐選手の母校・広島経済大学のキャンパスです。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)



【3.若狭武田氏について】

その武田信繁の嫡男である安芸武田氏第5代の武田信栄(のぶひで)が室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて大和永享の乱に参戦し、永享12 (1440)に丹後国・若狭国・三河国・山城国の4ヶ国を兼ねる有力守護大名であった一色義貫と伊勢国守護の土岐持頼を誅殺した功績により若狭国(現在の福井県南部。国府は福井県小浜市)の一国守護職に任命され、それを機会に安芸武田氏は本拠地を安芸国から若狭国に移し、ここに若狭武田氏が誕生します。武田信栄は武田信繁の嫡男であることから、安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏、安芸武田氏は庶流ということになりました。同時に多くの家臣が若狭国に移住しました。この武田信栄は足利将軍家の信任が厚く、歴代の多くが始祖武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたこと、武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと、丹後国守護を兼ね、幕府のある畿内周辺で2ヶ国もの守護に任じられていたことなどから、この若狭武田氏が武田氏の本流という見解も存在するほどです。この時、武田信栄は佐東銀山城を中心とした安芸国の分郡守護職も兼務していたのですが、この安芸国の領地の経営は弟の武田信賢に守護代として任せました。これがその後の安芸武田氏の分裂と伊予武田氏の誕生に繋がります。

 若狭国守護職となり若狭武田氏初代となった武田信栄は永享13 (1441)28歳の若さで病死したため、跡を弟の武田信賢が継ぎ、若狭武田氏第2代として安芸国と平行して若狭国の経営に乗り出しました。武田信賢は若狭国内の一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では細川勝元率いる東軍に属して一色義直が籠る丹後国に侵攻するなどの活躍し、室町幕府からも厚い信頼も得ていました。しかし、文明3(1471)6月に武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家は2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになりました。

 

【4.応仁の乱と安芸武田氏について】

実はこの直前まで安芸武田氏の本拠・佐東銀山城には武田信繁の弟である武田信友が城主として入城し、安芸国の分郡守護職も兼務する若狭武田氏当主の武田信賢に成り代わって守護代を務めていた武田国信を補佐していたようなのですが、武田国信が若狭武田氏を継承して若狭国守護職を務めることになり、武田元綱が新たに安芸武田氏を興して安芸国の分郡守護職を務めることになったので彼等の叔父である武田信友は佐東銀山城を出ることになったようです(この際、多少の諍いがあったようです)。この武田信友は嫡男の武田信保を伴って瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町)に移り住み、河野教通(通直)の傘下に入りました。この武田信友が伊予武田氏の初代となります。

 この背景には「応仁の乱」が深く関与しています。応仁の乱は、応仁元年(1467)に発生し、文明9(1477)までの約11年間にわたって継続し、京の都全域を焼き尽くすことになった長期間の内戦のことです。最初は室町幕府の有力守護大名である管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから始まったのですが、そのうち足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、細川勝元率いる東軍が16万人、山名宗全率いる西軍が11万人、合計27万人が京の都を主な舞台に争いを行いました。たった一回の内戦で27万人もの軍勢を集めて戦いを行なったのは、後にも先にもこの応仁の乱ぐらいです。また、京の都だけでなくそれぞれの守護大名家の領国内にも争いが拡大していきました。その規模もさることながら、明応2(1493)に発生した明応の政変と並んで戦国時代への移行の主たる原因とされる大きな内戦なので歴史の教科書には必ず載っており、皆さんも「応仁の乱」の名称くらいはご存知の方も多いのではないかと思われますが、日本の歴史の中でこの応仁の乱ほど分かりにくいイベントは他にないのではないかと私は思っています。とにかくこの「応仁の乱」というのは今一つよく分からない「グダグダ内戦」というか「ダラダラ内戦」です。登場人物があまりに多く、そういう中で際立った英雄が不在。「◯◯の戦い」と呼ばれるような主たる合戦が行われた形跡は乏しく、京の都全域が焼き尽くされ、餓死者が8万人も出たと言われるわりには戦死者の数が極端に少ない内戦。そもそも内戦に至った理由もはっきりせず、おまけに勝敗なんかもまったく付かず、なぁ〜んとなく終わってしまった感じさえ受ける戦いなのです。とにかく最初から最後までグダグダの内戦なのです()

 応仁の乱を全体で見ると今一つ訳が分からないグダグダ内戦ではあるのですが、視点をある一つのことに絞った局地戦で捉えてみれば、なんともはや人間臭い権力抗争劇が見えてきます。まぁ〜これも呆れるくらいのグダグダぶりなのですが…。


佐東銀山城の御門跡です。佐東銀山城は慶長5(1600)の関ケ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれたのですが、後に広島城が築かれるとその重要性が低下し、毛利氏が関ケ原の戦いの後に移封されると廃城となりました。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)

安芸武田氏は武田信栄・信賢・国信・元綱の父である武田信繁の時代から安芸国に隣接する周防国・長門国・豊前国の守護・大内氏と争いが絶えなかったのですが、永享12 (1440)に安芸武田氏第5代の武田信栄が若狭国守護となり、本拠を若狭国に移し、家臣の多数も若狭国に移住したことから安芸国側の守りが手薄になると大内氏との対立がより深まっていました。武田信栄が若狭国に移って以降は父親の安芸武田氏第4代・武田信繁が分郡守護代として佐東銀山城に残り、安芸武田軍を指揮していました。文安4(1447)、東西条(現在の東広島市)にも領地を所有していた大内氏が安芸国内に侵攻し、安芸武田軍と大内軍が衝突する事態が起きていました。この時に窮地に陥った安芸武田氏に援軍を差し向けたのは瀬戸内海の支配や対外貿易をめぐって大内氏と対立関係にあった細川氏。細川氏が安芸武田氏支援の姿勢を強めてきたことで、安芸武田氏と大内氏の対立は中央政界とも直結するものとなりました。また、長禄元年(1457)には、厳島神社の神主・佐伯親春が武田信繁との所領争いで舅の大内教弘を頼ったため、大内教弘が安芸国に再び侵攻し、居城の佐東銀山城と己斐城が攻め込まれました。この時は室町幕府の命令を受けた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経らの救援で落城を免れたのですが、これも細川氏がバックで動いたからでした。このように安芸武田氏にとって大内氏は不倶戴天の敵とも言える存在で、細川氏とは力強い同盟関係にあったと言えます。

ちなみに、武田信繁は寛正6(1465)に死去し(享年76)、その後、ワンポイントリリーフの形で安芸武田氏の本拠・佐東銀山城の城主として入城し、安芸国の分郡守護職も兼務する若狭武田氏当主の武田信賢に成り代わって守護代を務めていた武田国信のそのまた代わりの留守居役を務めて領国を守っていたのが、その後、伊予武田氏を興し初代当主となる武田信繁の弟の武田信友でした。


こちらは佐東銀山城の本丸跡です。江戸時代以降も城地が荒らされることはなく、現在は周辺地域の住民による保全活動により、ハイキングコースとして定着しています。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)


応仁元年(1467)から始まった応仁の乱では武田信賢は弟の国信、元綱ら若狭武田氏&安芸武田氏一族を率いて細川氏頭領の細川勝元率いる東軍に属し、赤松政則らとともにその中核をなし、京の都で市街戦を展開しました。これは大内政弘率いる大内氏が山名宗全率いる西軍の主力として参戦していたことが大きく影響していたのは間違いないことです。文明3(1471)6月に武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家(安芸武田氏)2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになったというのは前述のとおりなのですが、ここに大内氏が深く絡んできます。四男の武田元綱が大内氏方の毛利・福原氏らの勧誘を受け、西軍、すなわち大内氏方に突如転向したのです。武田元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸国の佐東銀山城にあって父・武田信繁から受け継いだ安芸分郡守護代という武田氏の庶流的な地位から脱却して、安芸武田氏として嫡流である若狭武田氏惣領家からの分離独立を図りたかったからだとされています。しかし、当時、安芸武田氏勢力も東軍に属しており、思うように独立できなかった武田元綱は西軍に属する大内氏に摺り拠っていったのであろうと容易に推察されます。


武田山の標高は410.5メートル。意外と高い山です。本丸のあった山頂からは、麓に広がる祇園の町、ゆったりと南流する太田川、高層ビルが林立する市街地を一望することができます。さらに向こうには、絵のような島々が浮かび、光り輝く瀬戸内海の絶景が続きます。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)



新たに佐東銀山城城主として安芸武田氏を興すことになった武田信繁の四男・武田元綱が大内氏側に転向したことで居場所がなくなったのが佐東銀山城の城代を務めていた武田信繁の弟の武田信友。彼は兄・武田信繁と共に幾度も大内氏と命がけで戦ってきたと思われますので、甥っ子・武田元綱に「はい、そうですか」とついていくことができなかったのだと思います。そして向かった先が瀬戸内海を渡った先の伊予国。ここにも大内氏と対立している一派が存在していました。それが伊予国守護の河野教通(通直)でした。

  

……(その2)に続きます。(その2)は第82回として掲載します。


2021年5月13日木曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)

 

公開予定日2021/05/06

[晴れ時々ちょっと横道]第80回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)


藤原純友及び彼が起こした叛乱(藤原純友の乱)に関しては、同時期に関東で叛乱を起こした平将門と比べて有力な史料がほとんど残っておらず、研究を非常に困難なものにしています。藤原純友という人物、及び藤原純友の乱を研究する場合の主要な史料は『日本紀略』、『扶桑略記』および同書に引用された『純友追討記』、『本朝世紀』、『貞信公記』、『師守記』などごく僅かなものしか残されていないのですが、そのどれも後世における編纂物が中心で、記述には承平・天慶年間の海賊活動をすべて賊徒藤原純友の所業に関連づけ、一括して記述してしまおうとする編者の乱暴で偏った歴史観が色濃く投影されているように感じています。私はこのコラムの執筆にあたり、藤原純友の乱に関する歴史書を幾つか読み、参考にさせていただいたのですが、どれも前述の史料に基づくものばかりで、似たり寄ったりの内容だったのですが、唯一、それらとはまったく異なる極めて興味深い記述がされている本がありましたので、ここでそれをご紹介させていただき、それに基づく私の新たな解釈についても記述させていただきます。

本の題名は『瀬戸内水軍史』(松岡進著)。昭和41(1966)に初版が発行され、私が入手して読んでいるのは昭和43(1968)に発行された第3版です。著者の松岡進氏は大正2年、まさに伊予水軍(越智三島水軍)の本拠地であった愛媛県越智郡大三島町(現今治市)の出身。愛媛県師範学校を卒業後、芸予諸島の島々の幾つかの小学校で教壇に立ち、最後は大三島町立宮浦小学校長。その関係からか、発行所は愛媛県越智郡大三島町立宮浦小学校となっています。非売品となっていますが、少なくとも第3版まで印刷されているということは発行当初多くの人に読まれた本のようです。著者の松岡進氏は教職の傍ら、ライフワークとして地元に伝わる伝承や史料、記録等に基づく調査を長年地道に続けられたのでしょう。全756ページ、かなり分厚い超大作です。

中古本ゆえ破れてしまっている帯には、本の紹介として次のようなことが書かれています。

「瀬戸内海を舞台として一大政治集団を作り、三島大明神を守護神として東洋の天地を闊歩した越智・村上両三島水軍を軸とする雄渾(ゆうこん)な水軍通史。登場人物1000余人、写真300余枚、あくまで資料に立脚し根拠を明らかにしながら、日本史に残された一大盲点にライトをあてる。」

この記述にも書かれていますように、不確かな仮説であってもあくまでも前述の史料に加えて、地元に残る伝承等の資料に立脚し、仮説の根拠を明らかにしているので、非常に説得力があり、少しでも地元の地理や歴史を知る者にとっては大いに腑に落ちるところがあります。それにしても、西暦で言うと紀元前の第10代 崇神天皇の時代から江戸時代に至るまで、よく調べられたものだと思います。瀬戸内海一帯の制海権をほぼ掌握し、海上兵力としてだけでなく、兵站輸送にも深く関わっていたことから、越智・村上両三島水軍をはじめとした伊予水軍は、白村江の戦い、藤原広嗣の乱、承平天慶の乱(藤原純友の乱)、平氏の隆盛、壇ノ浦の決戦、承久の変、文永・弘安の役(元寇)、足利義満の西国征伐、応仁の乱、厳島合戦、織田信長との木津川口の戦い、豊臣秀吉の四国征伐、関ヶ原の合戦と日本史で習う様々な戦闘に深く関わっています。それらを水軍の側からの視点で通史として纏めたというところが本書の特徴です。日本史に残された一大盲点にライトをあてる……と本の帯に書かれている通りの内容です。なかには日本史のこれまでの常識とされていることを覆すような内容も幾つか含まれていますが、通史だけに時代背景の把握の仕方がしっかりしていますし、時系列的にも筋が通っていて、松岡進先生の説のほうが納得できるように私には思えます。

『瀬戸内水軍史』では藤原純友の乱についても「第五章 平安時代」の「第三節 藤原純友と活神大祝」の項で触れられています。そこにも日本史のこれまでの常識とされていることを覆すような内容が記されています。なんと、「系図纂要」(愛媛県編年史)の記述によると、藤原純友は越智氏族の有力な傍流の1つ、今治の高橋郷(FC今治の本拠地であるありがとうサービス.夢スタジアム付近)を本拠とした高橋氏の高橋友久の子で、藤原氏の中でも最も栄えた藤原北家の家系の一人、藤原良範が伊予の国司として赴任した折にこの藤原良範のところに養子に入り、藤原姓を名乗ることになった人物らしいとのことなんです。私の親戚にもいますが、高橋姓も藤原姓も今治市周辺には比較的多い苗字で、特に芸予諸島の島嶼部には藤原姓の家が多くあるように感じます。そういうところからも、古代越智氏族とあの名門藤原氏族との間には深い繋がりがあったように思われます。松岡進先生の『瀬戸内水軍史』には次のような興味深いことも書かれています。当時の越智氏族は大山祇神社の神職で活神(いきがみ)として奉られた大祝(おおほうり)家を頂点に越智(河野)氏、紀氏、橘氏という主たる三家が三家三職と呼ばれてそれをサポートする集団指導体制だったようです。高橋氏はそれに準ずる家柄のように思われますが、実は大祝家はもともとは高橋郷に居を構えていたので、むしろ大祝家に繋がる越智氏族の本家本流の1つであるとも言えます。この松岡進先生の考察によると、藤原純友は越智氏族の本家本流とも言える大祝家に繋がる血筋なので、地元民には絶大な信頼があった筈です。

「第77回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」に書かせていただきましたが、藤原純友は、承平元年(931)に従七位下の伊予掾として伊予国に赴任。その後「伊予国警固使」の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続け、承平6(936)までには瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功。そこから驚くことに、九州と四国の間の宇和海に浮かぶ伊予国日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、いくら武勇に優れた人物であったと言っても所詮は京の軍事貴族。わずか5年で海賊達を鎮圧し、彼等を支配することにはさすがに無理があるように思えます。陸戦と海戦は根本的に違うものですから。しかし、松岡進先生の考察のように、藤原純友が越智氏族の本家本流とも言える大祝家に繋がる血筋の者であったとするならば、話はまったく違ってきます。越智氏族を含め地元民には最初から絶大な信頼があった筈ですから、5年という期間はむしろ長すぎるくらいであるとも言えます。

当時の越智氏族は大山祇神社の神職で活神として奉られた大祝家を頂点に越智(河野)氏、紀氏、橘氏という三家がそれをサポートする集団指導体制だったということを書きましたが、この三家、(その1)及び(その2)に書かせていただきました藤原純友の乱の項にその名前が登場してきています。まずは紀氏。藤原純友が海賊になるキッカケを作ったとされるその当時の藤原純友の上司である伊予国国司、伊予守の名前は「紀淑人」。この紀淑人が海賊の鎮圧という藤原純友の手柄を横取りし、純友の勲功を黙殺してしまったことを機に藤原純友は上司や朝廷に不満を持つようになり、それまでとは反対の立場である海賊になったと言われています。次に越智(河野)氏。朝廷より純友追討の宣旨を蒙って、追補使として博多湾の戦いに臨み、藤原純友軍を壊滅させた朝廷軍の主力、伊予水軍の水軍大将の名前は「越智(河野)好方」でした。最後は橘氏。博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた藤原純友親子を捕らえその首を朝廷へ進上したとされる伊予国警固使の名前は「橘遠保」でした。これらは単なる偶然とは思えません。

先ほど藤原純友は越智氏族の有力な傍流の1つである高橋氏の高橋友久の子で、藤原北家の家系の一人、藤原良範が伊予の国司として赴任した折にこの藤原良範のところに養子に入り、藤原姓を名乗ることになった人物らしいということを書かせていただきましたが、ここに登場する越智氏族の紀氏も橘氏も、藤原純友の場合と同様、おそらく京の有力貴族である紀氏、橘氏の誰かが過去に伊予の国司として赴任してきた折に越智氏族の有力傍流の誰かが子息を養子縁組させて、以降、子孫の出世栄達を願って家柄に箔を付けるために紀氏姓、橘氏姓を名乗らせるようになったのかもしれません。そして京にいる本来の伊予国司の貴族に代わって、現地での実務を代行していたと考えるのが妥当かと思われます。

そういうことから、どうも藤原純友の乱も、平将門の乱と同様、実際のところは古代越智氏族の氏族内で起きた内紛だったのではないか…と考えられるとのことのようです。それも瀬戸内海を東西に分けての内紛。西軍が宇和海の日振島に拠点を構えた藤原純友で、東軍が芸予諸島の大三島に拠点を構えた越智氏族本家本流の越智(河野)好方。越智好方は勅を得て錦旗を翻したから朝廷軍。表向きは小野好古が藤原純友追討軍の大将とされていますが、小野好古は所詮は京のお公家さんに過ぎません。陸戦はともかく、実際のところ海上戦力の総大将は越智水軍の越智(河野)好方。じゃないと、博多湾で千隻を超えると言われた荒くれ者集団の藤原純友軍の大艦隊を100余隻の船で襲撃して800余隻を捕獲すると完膚なきまでに勝利するなんてことはできっこありません。加えて言うと、撃破ではなくわざわざ捕獲と戦記に記載されているのは、おそらく本家筋の伊予水軍の主力艦隊が、天皇の勅を受けた朝廷軍であることを表す錦旗を翻しながら大型船を並べて統率の取れた行動で大挙繰り出してきたのを見て、荒くれ者の寄せ集め集団に過ぎず小型船が主体だった藤原純友軍の艦船の多くが戦意を喪失して次々と投降したのではないか…と、この二文字から推察されます。同じ一族である以上、本気になった伊予水軍(越智三島水軍)主力艦隊の強さを一番知っていたのは間違いなく彼等だった筈ですから。

これも私の推察ですが、越智氏族の主流三家三職が本気になったのは、朝廷のある間違った判断が直接のキッカケだったのではないか…と私は思っています。藤原純友が朝廷に対して叛旗を翻すような行動をとった直後、朝廷はまず東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、西の藤原純友に対しては「従五位下」の位階を授けて懐柔するという方策に出ました。これにより藤原純友らの反乱は一時沈静化したかのように見えたのですが、その一方で納得しなかったのが越智氏族の指導層である主流三家三職の面々だったのではないでしょうか。そして最大の問題にしたのがその「位階」だったのではないかと思われます。

推古天皇11(603)に冠位十二階の制度が定められて以降、律令制下の日本においては官僚や官吏の序列を位階によって標示されてきました。だいたいの目安として、地方の国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位が正六位でした。この正六位はそれなりの位ではあったのですが、実はその1つ上の従五位下とは大きな一線が画されていました。朝廷に仕える廷臣のうち、京都御所の天皇の日常生活の場である清涼殿殿上間に上がれる堂上に対し、上がれない階位の者は地下人(じげにん)と呼ばれていたのですが、その地下人の最高位が正六位でした。京都御所の清涼殿殿上間に上がれる(昇殿と言います)堂上は五位(従五位下)以上。したがって、従五位下以上がいわゆる貴族と見做されていました。

越智氏族のうち、正一位の大祝家を除き、最高位はおそらく伊予国国司であった紀淑人の正六位。それまで従七位下の位階であった藤原純友にいきなり昇殿を許される貴族階級の従五位下の位階を授けられたことにかなりの衝撃を受けたのは間違いないことだと思います。いくら懐柔するためとは言え、大祝家を飛び越えて朝廷が越智氏族内に手を突っ込んできて、いきなりこんなことをされたのでは越智氏族内での序列が一気に崩れ、秩序を保つことも困難になって、最悪、越智氏族が内部から脆くも崩壊してしまうことになるという強い危機感を持ったのではないか…と思われます。越智氏族の崩壊は、大和朝廷海軍の主力艦隊としてそれまで瀬戸内海の秩序を保つことのみならず、外敵の侵入から我が国を護ってきた伊予水軍の崩壊をも意味します。それでおそらく当時の第61代 朱雀天皇に近かかったであろう正一位の大祝家を通して朝廷に対してすぐさま強い苦情を申し入れ、朝廷もすぐに自らの判断の間違いを認めたことから、越智氏族主要三家の中で水軍大将を務めていた越智(河野)好方に対して藤原純友追討の勅を発して、一族内部で問題を解決するように命じたのではないかと私は推察しています。瀬戸内海で起きている事件であるにも関わらず、それまで様子見をしていたのか、あるいは同じ氏族である藤原純友達の動きを半ば黙認していたのかほとんど表に出てこなかった伊予水軍(越智三島水軍)が、突然このあたりから出てくるわけですから。時系列で考えてみると、そういう風に考えるのが妥当なのではないでしょうか。

朝廷が東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、藤原純友に従五位下という位階を授けて懐柔策に出たのが天慶3(940)130。平将門が下総国猿島郡幸島付近で交戦中、どこからか飛んできた流れ矢が額に命中してあえなく討ち死にし、乱自体も鎮圧されたのが翌214日。平将門討伐に向かった東征軍が5月に帰京すると、6月には藤原純友追討令が出されたというのは「第77回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」に書いた通りですが、いくらその場凌ぎの懐柔策だったとは言え、従五位下という位階を授けて貴族階級に取り立てた人物に対して半年も経たないうちに追討令を出すというのは、いくらなんでも不自然です。朝廷サイドに相当のドタバタがあったと容易に想像できます。

「その時、歴史は動いた」って瞬間が、まさにこのタイミングだったのではないでしょうか。ここから一気に藤原純友は追い詰められていき、「藤原純友の乱」は終結に向かっていくことになるわけですから。このように古代越智氏族の中では氏族存亡の危機と言ってもいいほどの一大ドラマが間違いなく繰り広げられていたに違いない…と私は思っています。そういう意味では、「藤原純友の乱」とは古代越智氏族内部で起きたナショナリズム(主流三家を中心とした保守派)とグローバリズム(藤原純友を中心とした急進派)の間の内紛だったってことが言えるのではないでしょうか。

実際、18世紀の元文5(1740)に編纂されたとされる河野氏の盛衰に関わる各種伝承をもとに纏められた軍記物語「予陽河野盛衰記」には、藤原純友討伐に向かうにあたり、活神大祝・越智安義と越智、紀、橘の主流三家、それに藤原純友討伐の勅命を受けた越智(河野)好方らによる協議の様子が記されており、その中では一族の中から逆賊を出してしまったことの自責の念と、これから越智水軍自体の命運を賭けて同族討伐に向かわねばならないその悩みとが読み取れる記述が書かれていると、松岡進先生は『瀬戸内水軍史』の中でその部分を引用して紹介されています。

松岡進先生の『瀬戸内水軍史』では日振島についても触れられています。実はもともと日振島は伊予水軍の西の重要な拠点だったところのようなのです。西暦663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍の前に大敗を喫して以来、倭国(大和朝廷)は唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から主として九州北部の沿岸に防人(さきもり)”と呼ばれる辺境防御の武人を配置するなどの国防体制を著しく強化しました。それまで九州全体の統治と大陸や朝鮮半島からの使者の接待用の施設として使われてきた太宰府の周囲にも大きな堤に水を貯えた水城(みずき)を築いたほか、北に大野城、南に基肄城などの城堡を建設し、一気に前線基地として軍事要塞化しました。

私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』の「第34回: 全国の越智さん大集合!(追記編)」で大和朝廷の最終防衛ラインについて私の推論を述べさせていただいたのですが、これにはある重大な見落としがありました。

https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20170703-11389.html 『晴れ時々ちょっと横道』第34回: 全国の越智さん大集合!(追記編)…201778

四方を海で囲まれた日本列島ですので、朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威は西あるいは北から海路でやって来ることは間違いないことですので、大和朝廷もそれへ備えるための拠点を整備していたのは確かなこと。瀬戸内海を進んで来た際の最終防衛ラインが大三島を中心とした芸予諸島の島々であることは間違いないと思っているのですが、見落としがあったのはその前。言ってみれば前線基地に当たる部分です。外敵が東シナ海から玄界灘に向かうコース、あるいは朝鮮半島から朝鮮海峡、対馬海峡を渡って日本列島に進んで来るコースで進んできた場合は、太宰府を司令基地として博多湾あたりの九州北部に軍港を設けて迎撃しようとしていたと思われるのですが、もう一つ重要な外敵侵入コースがあることをうっかり見落としていました。それが東シナ海から太平洋に出て、さらに豊後水道を北上して瀬戸内海に入ってくるコース。玄界灘コースは関門海峡という難所が控えているので、当時の造船技術と操船術だと兵船が大船団で通過するのは難しく、むしろこの豊後水道コースのほうが侵入ルートとしては考えやすいとも言えます。その豊後水道を通って来襲してくる敵船団を待ち受けて迎え撃つ前線基地となっていたのが日振島とその周辺だったようなんです。現代の航空自衛隊の基地で言えば、太宰府が西部航空方面隊司令部等が配置されている春日基地(福岡県春日市)で、日振島はその西部航空方面司令部配下の第5航空団等が配備されている新田原基地(にゅうたばるきち:宮崎県児湯郡新富町)ってところでしょうか。


そして、その日振島の前線基地に駐屯していたのも古代越智氏族だったようなのです。実際、日振島から豊後水道を挟んだ九州側は大分県の津久見市なのですが、その津久見市で豊後水道に突き出た四浦半島には越智ノ浦(現在の地名表記は落ノ浦)という湾があるのだそうです。かつては津久見市立越智小学校という名前の学校があったようで(現在は休校中)、現在も落浦郵便局という郵便局があるようです。また、藤原純友の乱終焉後の天慶4(941)8月に日向国の国衙(現在の宮崎県西都市)を襲って国司の藤原貞包に捕われた藤原純友軍の次将の1人である佐伯是基は、その姓から推測されるように津久見市の南に隣接する大分県佐伯市あたりを拠点としていた豪族で、藤原純友を日振島に誘った人物であると言われています。この佐伯市周辺も佐伯湾をはじめリアス式の小さな湾が多いことからここも伊予水軍の拠点の1つで、豊後水道を挟んだ日振島と一体となって豊後水道での防衛ラインを形成していたと考えられます。なるほどぉ〜。そういうことか…。

ならば、なおのこと藤原純友は海賊達との交流の中からグローバリズムの気づきをし、琉球、台湾、中国、フィリピン等海外の地との交易を目指していたのではないか…という私の仮説にも結びつきます。彼等は唐をはじめとした海外からの勢力の侵攻に対する国防のために前線基地である日振島周辺に駐屯していたわけで、敵となりうる近隣諸国の情勢に敏感で、常に情報を収集していたでしょうからね。もしかすると、情報収集目的で近隣諸国との人的交流も日常的に行われていたのかもしれません。

このように、藤原純友の乱の本質は古代越智氏族内部で起きた内紛だった、それも私が推察しているように朝廷の間違った判断の尻拭いをすることを目的とした内紛であったとするならば、藤原純友の最期もまた一般に言われている論とは少し違ったものになるように思います。一般的には藤原純友は博多湾の戦いで大敗を喫した後、子の重太丸とともに小船で本拠地伊予国へ逃れたとされていて、同天慶4(941)6月に伊予警固使・橘遠保により現在の新居浜市種子川町にある中野神社の裏にある生子山で討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、また、今治にあった国府か京に移されて処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではありません。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったとも言われています。

一番の疑問は、小船で本拠地伊予国に逃れたという点。いくら本拠地であると言っても、自らの追討軍の本拠地でもある伊予国に易々と戻ってこられる筈がありません。おそらく捕らえられ、伊予国にある伊予水軍の拠点の1つに密かに連行されてきたのではないでしょうか。そして、その時、おそらく大祝家をはじめ越智氏族の主流三家三職の間でも藤原純友に対する措置に大いに苦慮したものと思われます。藤原純友は伊予水軍(越智三島水軍)本体に戦いを仕掛けてきたわけではなく(藤原純友の一派も伊予国国衙だけは襲撃していませんし)、仕掛けたのはむしろ伊予水軍(越智三島水軍)のほう。それも、多分やむなく。しかも、藤原純友は越智氏族の頂点である大祝家に血筋の繋がる人物。加えて従五位下の位を冠する“貴族”。なにより同じ氏族なので、深い血縁関係もあったであろうですし、違っていたのが私が推察しているように自分達の世界観、と言うか進もうとしている方向性の部分だけだったのだとしたら、現代人の私が考えても、極めて難しい判断です。だって、彼等だって海賊ですから、藤原純友が進もうと思っていた方向性についても十分に理解をしていた筈ですから。

大祝家を中心に越智氏族の主流三家の間で議論に議論を重ねた結果、最終的に彼等が下した決断は藤原純友を彼の希望通り海外に逃すというもの。そして、藤原純友を逃したことに対する責任を橘遠保が負うということになったのではないか…と私は推察しています。朝廷からは藤原純友親子を始末しろと命じられていたと思われるので、橘遠保が生子山で討った等の虚偽の話を作りあげてそれを広め(何故、現場が橘遠安の拠点に近い生子山で捕らえられたのかの疑問もこれで解けます)、その上で藤原純友に二度と日本列島には戻ってこないことを約束させた上で密かに逃し、そして藤原純友は残った仲間達と船に乗って南海の彼方に消えていった…、というのが私の立てた推論です。こうなると、もう完全に“ドラマ”ですよね。しかし、こういう泥臭い人間ドラマはいつの時代も絶対にある筈で、こういうドラマチックなテイストを少し加えるだけで、真実味が一気に増してくるような感じがしませんか?() しかも、前回「第79回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)」の最後に挙げた私の素朴な疑問も、この解釈ですべて説明がつきます。私にもう少しストーリーテラーとしての文才があれば、海音寺潮五郎先生の考察とは全く異なる伊予水軍の側から捉えたこのストーリーで、歴史小説が一本書けそうです。

以上、松岡進先生の考察も参考にさせていただきながら私が到達した「藤原純友の乱」の本質に関する解釈を書かせていただきました。本文にも書きましたように藤原純友、及び藤原純友の乱に関しては有力な史料がほとんど残っていないことから、謎に包まれている部分があまりにも多く、いろいろな解釈ができようかと思います。真実に迫るためにも、読者の皆さんからの異論・反論を心よりお待ちいたします。

そうそう、前々回の「第78回 風と雲と虹と承平天慶の乱(その2)」では、首領である藤原純友をはじめ藤原純友軍の主力のほとんどは、中央()で出世が望めなくなった下級貴族や没落貴族、失業した舎人と呼ばれる役人達で、伊予国とは関係のない、言ってみればよそ者。そのよそ者達が勝手に伊予国内に拠点を構え、瀬戸内海一帯を暴れ回り、その挙句、朝廷に対して叛乱を起こし、勝手に朝廷の討伐軍に敗れて滅んだわけで、これじゃあ神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのも当たり前だということを書かせていただきましたが、藤原純友が実は古代越智氏族の出身で、藤原純友の乱の本質は伊予水軍、越智氏族内部の内紛だったとするならば、根本から話は異なってきます。古代越智氏族にとって一族内の内紛についてはなんとしても隠しておきたいまさに“黒歴史”。むしろ古代越智氏族のほうから真実が出来るだけ残らないように、積極的な歴史の改竄作業を行ったというのが正解なのではないでしょうか。前述のように藤原純友という人物、及び藤原純友の乱を研究する場合の主要な史料である『日本紀略』、『扶桑略記』等はすべて『純友追討記』という軍記文書を引用して後世に書かれたものです。この『純友追討記』は文字数が僅か800字にも満たない短い戦闘報告書に過ぎず、おそらくこれを書いたのは越智(河野)好方、紀淑人、橘遠保といった越智氏族の主流三家三職の面々だったのではないかと私は推察しています。なので、間違いなく越智氏族にとって都合がいいように捏造されていると言うか、ほとんど記録らしい記録を残さなかったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。藤原純友に関する神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのは、これが主たる要因なのかもしれません。いくら1,000年以上昔のこととは言え、不自然に思えるほど、記録や史跡が残されていませんからね。

したがって、「藤原純友の乱」が古代越智氏族の内部で起きた内紛という解釈が腑に落ちてしまった以上、私は“越智”の2文字を苗字に、そして大三島の大山祇神社の社紋を家紋にいただく越智氏族に属する者として、今後もその仮説の下で藤原純友の乱の真実に迫り続けてみたいと思っています。それにしても伊予水軍(越智三島水軍)をはじめとした瀬戸内水軍の歴史ってメチャメチャ面白いです。

 

……『風と雲と虹と…承平天慶の乱』【完結】

 




2021年4月11日日曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

 公開予定日2021/04/01

[晴れ時々ちょっと横道]第79回 



ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第78回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていなかった…と言うことは、本拠地の日振島をはじめ船舶を隠す幾つかの港があるところを除けば、伊予国内に領地をほとんど有していなかったということを意味します。生きていく上で必要な食糧は海賊行為を働くことで幾らでも簡単に入手することができたでしょうから、特に広い耕作面積の田畑というものは必要ありません。なので、藤原純友とすれば海賊集団を支配しその首領であれば十分なわけで、平将門のように領土を拡張し、そこに住む民衆をも統率し、ともに独立王国を築こうというような野望は、実はまったく持ち合わせてはいなかったのではないか…と考えられます。では、藤原純友はいったい何を目指していたのか?……これが私の中で芽生えた新たな疑問です。

 そして、その疑問を解くヒントは藤原純友が本拠とした日振島にあるのではないか…と私は考えました。日振島は、愛媛県宇和島市に属し、宇和島新内港から西方に約28km。宇和海で最大の島ではあるのですが、面積は約4平方kmという南北に細長い形をした小さな島です。多島海の宇和海にあるのですが、豊後水道に最も近く、ここから西の豊後水道には島が1つもないという一番西に位置しています。そんな日振島を、何故、藤原純友は選んで拠点にしたのか? 瀬戸内海を暴れ回る海賊達を首領として統べるのであれば、瀬戸内海から離れたそのようなところを拠点とするのは適しません。古代越智氏族の伊予水軍がそうであったように、瀬戸内海の中心とも言える大三島をはじめとした芸予諸島の島々を拠点とするのが最適です。ましてや朝廷に叛旗を翻すのであればなおのことで、芸予諸島をガッチリと固めることで、西(九州方面)から京へ向かう物資の流れを完全に遮断し、朝廷を一種の兵糧攻めにすることだって可能になるわけですから。実際、その後の河野水軍や村上水軍も芸予諸島の戦略的重要性が十分に分かっていて、芸予諸島の島々を活動の拠点としました。しかし、藤原純友だけはそうしなかったのです。瀬戸内海からは東西に細長い佐田岬半島をグルっと回って、さらに南下したところにある宇和海に浮かぶ日振島を拠点としたわけです。そこには間違いなく瀬戸内海の海賊達を統べる以外の明確な目的があると考えられます。「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」……日振島に拠点を構えたことには藤原純友の明確なメッセージが込められていて、「藤原純友はいったい何を目指していたのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という大きな謎を探るヒントが日振島に隠されているように私は思ったのでした。実はこれは私が藤原純友に興味を持って以来ずっと抱いていた疑問でした。

 そこで、この「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」の謎を探るため、実際に日振島に行ってみようと思いました。現場第一主義の私としては、藤原純友が見たのと同じ景色をこの目で眺め、自らが当時の藤原純友の気分になって日振島を拠点にした理由を推察してみようと考えたわけです。世の中の最底辺のインフラは地形と気象。そして、昔も今も人間の考えることや個々人の能力にさほど大きな違いはない。これが私の歴史探求における基本的な考え方ですから。

 宇和島新内港から日振島までは盛運汽船の高速船「しおかぜ」が13便出ています。宇和島新内港630分発(10月~4)1便が宇和島新内港→能登港→明海(あこ)港→喜路(きろ)港→水ヶ浦港→宇和島新内港、宇和島新内港1130分発2便と1530分発の3便が宇和島新内港→喜路港→明海港→能登港→宇和島新内港の航路で運航されており、このうち、喜路港、明海港、能登港の3港が日振島内の港です。私は宇和島新内港1130分発の2便で島の一番南にある喜路港に渡り、4時間ちょっと滞在して日振島内を歩いて北上。島の一番北にある能登港から3便に乗って宇和島新内港に戻って来ることにしました。観光地としての開発はほとんどなされていませんので、残念ながら日振島内には飲食ができる施設は1つもありません。加えて人口が500人にも満たない過疎の島なので、島内にコンビニエンスストアはもちろんのこと、飲料水の自動販売機さえもないということなので、私は宇和島新内港そばのコンビニエンスストアでオニギリとペットボトル入りの飲料水をちょっと多めに買って乗船することにしました。

 いよいよ乗船です。私が乗る日振島行きの高速船「しおかぜ」は左側。右側は「しおかぜ」の5分後に出港する日振島の隣の戸島行きの客船です。盛運汽船は宇和島市沖の宇和海に浮かぶ島々と宇和島新内港を結ぶ航路を幾つも運航しています。どれも島に住む人達の貴重な生活路線になっています。ちなみに、「しおかぜ」は乗客40人乗りの双胴の高速船です。

宇和島新内港を定刻の1130分に出港。発高速船「しおかぜ」の船内からは多島海・宇和海の島々の風景が楽しめます。リアス式の海岸線と相まって美しく、実に素晴らしい風景です。この便の乗客は10名ほどでしょうか。卒塔婆をお持ちの袈裟を着たご住職がいらっしゃいます。宇和島市内の寺院から島に住む檀家様のところに法事に向かわれているのだと思われます。

日振島の形状と各港(各集落)の位置関係です。日振島は宇和島の西方沖約28kmのところにあり、ここより西側には島はなく、豊後水道を隔てた先は九州(大分県南部・宮崎県北部)です。また、喜路、明海、能登、日振島にはこの3つの集落しかなく、それぞれに港があります。

宇和島新内港からきっかり40分。日振島に3つある港のうち、一番南にあるこの喜路港に到着しました。上陸します。

この日振島、釣りを趣味になさっている一部の方を除けば、地元愛媛県人でも訪れたことがある人はほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。日振島の島の形は北西から南東に細長く延びており、島の北にはいずれも無人島で属島の沖の島、竹ヶ島、西には横島が隣接、さらに南方約5kmの海上には御五神島があるのですが、他の有人島とは群島を形成していません。また、島全体が山のようになっていて、平地は極めて少なく、切り立った崖が多いのが特徴です。特に豊後水道に面した西側海岸は懸崖が続き、容易に接近することができません。島の大部分と属島の横島、沖の島、竹ヶ島の全域は足摺宇和海国立公園に属しており、多島海の大変美しい風景を楽しむことができます。日振島という地名の由来に関しては、昔から船の往来があり、島民が松明(たいまつ)の火を振ることで灯台の代わりをしたことに因むとの説があります。

 歴史的には藤原純友が本拠を構えたことで知られていますが、天正14(1587)、九州の豊後国で行われた戸次川の戦いで敗退した土佐国主・長宗我部元親の一行が土佐国に逃れる前にしばらく潜伏していたところでもあるのだそうです。江戸時代には宇和島藩の領地となり、イワシの曳網漁で隆盛を誇りました。明治22(1889)、北宇和郡日振島村となり、昭和33(1958)、周辺4村との合併により宇和海村に、そして昭和49(1974)、宇和島市に合併・編入されました。現在、行政区画としては愛媛県宇和島市に属し、市域の最西端にあたります。

 喜路港の桟橋から見た海です。海水は透き通っていて、海底まで見えます。大小様々な魚が群れをなして泳いでいるのが見て取れます。日振島の周囲が豊かな海であることが、よく分かります。

喜路港から北上。明海集落を経て、一番北にある能登集落の能登港まで歩きます。喜路港は大きく入り組んだ湾の一番奥にあります。この湾内でも魚類の養殖筏が幾つも浮かんでいます。これは真珠の母貝の養殖用の筏のようです。


湾内だけでなく、日振島の周囲はいたるところに魚類や真珠母貝の養殖用の筏が浮かんでいます。真珠母貝の養殖と言えば三重県の伊勢志摩が有名ですが、実は養殖真珠の生産量のダントツ日本一は愛媛県。それも、この宇和海一帯です。現在の日振島はブリ()やタイ()、ヒラメといった魚類の養殖や真珠母貝の養殖が盛んな水産業の島になっています (近海の海で獲れるアワビやサザエ、ヒジキ、テングサ等も特産品のようです)。島中いたるところにある複雑に入り組んだ湾には、そうした魚類や真珠母貝の養殖いかだが無数に見られます。かつてはこの複雑に入り組んだ湾に海賊達の大小無数の船舶が停泊していたのでしょう。1,000年以上の年月が経過した今、かつて藤原純友がこの日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部にかけての多くの海賊集団を支配し、瀬戸内海一帯を暴れ回っていた痕跡はほとんど残っておりません。ただ、かつて藤原純友も見たであろう宇和海の景色は、瀬戸内海以上に美しかったです。予想した以上に素晴らしいところでした。(ただし、美しい風景以外には、なぁ〜んにもありませんでしたが…)


この湾なんか、かつては海賊達の大船団を隠しておくのに最適な場所だったのでしょうね。実は日振島は3つの島が連結されたような特殊な形状をしています。湾の先に左右の島から橋が架かったように見えるところがありますが、近づいてみるとそれは橋ではなく、細い陸地なのです。いつ頃陸続きになったのかは解りませんが、もしかすると藤原純友が拠点とした時代には、狭い水路になっていたのかもしれません。だとすると、当時の軍港としては完璧な形状をしたところです。

島内の道路は海岸線に沿って伸びているのではなく、アップダウンを繰り返しながら、かなり標高の高いところを通っています。登り道の勾配は結構キツく、歩くとかなり脚にきます。島内には基本的にこの1本の道路しかありませんので、初めて来たところではありますが、迷いようがありません。遠くに明海(あこ)の集落が見えます。


海賊がいたところには、だいたい財宝の埋蔵伝説なるものがあるものですが、この日振島にも御多分に洩れず藤原純友の隠した莫大な財宝が眠っているという「財宝伝説」が伝わっています。地中に埋めた説、洞窟に隠した説、海底に沈めた説などいろいろあるようですが、詳しいことはよく分かっておりません。そもそも財宝が実在するのかどうかも確かではありません。

ここが2つの島の連接部分。砕けた岩の集まりで連接されています。ちょっとワイルドな光景です。

遠くにうっすらと見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から西の海域は豊後水道。ここから九州までは1つの島もありません。ちなみに、右に見える島のような山は日振島の一部です。なるほど、この位置関係が、藤原純友がこの日振島を海賊支配の拠点とした理由の一つかもしれません。


明海の集落に近づいてきました。このあたりの海も海水が透き通っていて、岸から随分先の海底までもが見えます。そこを小さな魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。このあたりも養殖用の筏が浮かんでいます。この筏は真珠母貝の養殖用の筏ではなく、ブリやタイといった魚類の養殖用の筏でしょうか。形が異なります。



明海集落の背後に立つ、高さ約80メートルの小山城が森。その名が示すとおり、ここには土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っています。その山頂には藤原純友の碑が立っているとのことで、登ってみようと思い、明海港の桟橋で釣り糸を垂らしていた地元の方に山頂へ向かう道の登り口を訊いたところ、「山には野生のイノシシが出没して、最近地元の住民が襲われて怪我をしたところだから、危険なので立ち入らないほうがいい」とのアドバイスを貰い、散々迷ったのですが、最終的に登ることを断念しました。


明海集落から能登集落に向かいます。本当は能登へ向かう道路にも野生のイノシシが出没するので、歩いていくのは危険なので、やめておいたほうがいい…と先ほどアドバイスをいただいた地元の方からは伺っていたのですが、明海港の宇和島新内港行きの3便の出港時間まで2時間以上もあり、藤原純友の砦の跡へ行けないのであれば他に見るべきところもないので、ここは敢えて危険を冒して能登集落を目指して歩くことにしました。

明海集落から能登集落に向かう途中、ドスンドスンと大きな音がするので何事か!?…と思って音がするほうを覗いてみると、檻に入ったイノシシが暴れているところでした。この檻が罠だったのでしょうね。捕まってすぐのようです。このあたりは野生のイノシシが本当にいるのですね。捕まっていたのは体長1メートルほどの大きなイノシシで、こいつに襲われたら、そりゃあ一大事です。さすがに怖くなったので、明海集落に戻ろうかとも思いましたが、そのまま能登集落に向かうことにしました。ただし、坂道(山道)が続いていましたが、周囲を用心しながら、かつ大声で歌を歌いながら、歩く速度をかなり速くして。(なので、異常に疲れました)

眼下には宇和海の美しい光景が広がります。次の写真は島の北側を眺めたところです。遠くに東西約40kmに渡って細長く直線的に伸びる佐田岬半島が、付け根から先端の佐田岬までしっかり見えます。おおっ!! ちょっと感動です。

日振島ではマスクを外していました。だって、ほとんど人と出会いませんでしたから。喜路港を出てから2時間以上歩いてきましたが、途中で出会ったのは、明海港で道を訊いた釣り人1人だけです。軽トラックに乗って横を通り過ぎていった人は数人いらっしゃいましたが、歩いている人は私1人だけでした。

 豊後水道を挟んで遠くに見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から九州までの距離、すなわち豊後水道の幅は約30kmあるのですが、この地点はこの道路の最高地点のようで標高が高いところにあるので、その九州がすぐ近くにあるようによく見えます。先ほど通り過ぎた明海集落の背後に立つ高さ約80メートルの小山城が森には、その名が示すとおり、土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っており、その山頂には藤原純友の碑が立っているということを書かせていただきましたが、おそらくその砦の跡も同じくらいの標高なので、藤原純友の目にも同じように豊後水道を隔てて九州の陸地が間近に見えていた筈です。

前述のように、私は「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」ということに疑問を抱き、その答えを見つけるために日振島にやって来たわけですが、ここから豊後水道を隔てた先に見える九州の姿をしばらく眺めているうちに、「なるほど、そういうことかっ!」…と藤原純友がこの日振島を拠点に選んだ答え、言ってみれば“必然”のようなものを感じました。

 平将門が関東の地で自らを「新皇」と称して、独立王国を築くことを目指したように、おそらく藤原純友も西国で独立王国を築くことを目指したのではないでしょうか。それも“九州”の地で。実際、藤原純友は乱が起こってすぐに太宰府を攻略していますし、討伐軍に本拠地・日振島を襲撃された際にも、捲土重来を期して太宰府を占拠しています。このように藤原純友は九州への思いが強く、九州支配の意思は海賊集団の首領となった当初からあったのではないか…と思われます。

 もし藤原純友が京の朝廷に対して本気で謀反を起こし、朝廷にとって代わろうと挙兵したのであれば、日振島が拠点ではダメなんです。いくら武勇と組織統率力に優れた強い藤原純友を慕って仲間に加わったと言っても、藤原純友率いる海賊集団は、所詮は暴れん坊の寄せ集め集団です。大将である藤原純友が京から遠いそんな後方に拠点を置いたのでは弱腰と見られ、まとまるものもまとまりません。藤原純友は日振島に拠点を構えることで、配下の海賊集団を固く結束させるための何らかのメッセージを発出していたと考えるのがふつうです。それが九州侵攻と制圧であったのではないか…と、ここからの景色を眺めているうちに思い至ったわけです。

 その九州も、正しくは太宰府の置かれた北九州ではなくて、おそらく現在の宮崎県や鹿児島県といった南九州の支配ではなかったでしょうか。当時の中国は唐が滅んだ直後で、国内は五代十国時代と呼ばれる群雄割拠する混乱期にあったと思われますし、朝鮮半島も高麗によって統一されたばかりで、ここも国内における混乱が引き続き続いていたと思われますので、海外貿易どころではなく、したがって交易量も少なく、海賊集団にとって北九州はさほど魅力的な地には思えなかったでしょうから。太宰府占領はあくまでも朝廷勢力の南九州への侵攻を防ぐための防御策。なので、博多湾の戦いの直前にはせっかく手に入れた大宰府に火を放ち、惜しげもなく燃え尽くしてしまっています。

 こう考えてみると、日振島は南九州攻略のための最前線基地の色彩が強くなってきます。その先には南九州をベースとして、富を求めて、琉球、台湾、中国(当時は唐が滅亡して北宋が成立するまでの間の五代十国時代)、フィリピン等、南の国々との海上貿易を目論んでいたのではないかと私は勝手に推察しています。船を利用して海上を進めば、どこまでも行けますからね。

 古代の伊予水軍は、私達現代人が驚くほど進んだ造船技術や操船技術を持っていたと考えられます。藤原純友が瀬戸内海を支配して暴れ回った頃から約300年近く前の西暦663年。水軍大将・越智守興が率いる伊予水軍を主力とした倭国海軍の大船団は、かつて伊予国(現在の愛媛県)のどこか(私の推定では今治市桜井)にあったとされる熟田津軍港を出港して、今でも海の難所と言われる関門海峡を抜けて博多湾へ。博多湾から対馬海峡、朝鮮海峡を渡って朝鮮半島の白村江に百済救済に向かったわけです(白村江の戦い)。それ以前も遣隋使船、その後も遣唐使船を操船して東シナ海を渡り、大陸と往復していたわけで、古代から優れた造船技術と操船技術を持っていたことは容易に想像できます。

 なので、藤原純友はこの日振島を拠点に選んだのだ…という結論に、私は日振島からのこの景色を眺めているうちに、至りました。海賊という海の民ですから、領地にこだわる陸の民(ほとんどの日本人)とは根底を流れる発想がまるで違っていたのでしょう、きっと。第77回「風と雲と虹と承平天慶の乱(その1)」で、藤原純友のもとに集まった海賊達の多くは、元々は舎人(とねり)と呼ばれる朝廷の雑用をする役人だった人達だったこと。そして、瀬戸内海で働く舎人達は、中国や朝鮮など海外の客人のための対外的な儀式を執り仕切る人達だったということを書かせていただきました。このように、藤原純友軍の主力の人達は日頃から中国や朝鮮など海外の文化や文物に触れていた人達、現代風の言葉で言うと「グローバリスト」とでも呼ぶべき人達でした。しかも、彼等の多くは領地を持たない下級貴族や没落貴族達。寛平6(894)の遣唐使廃止、さらには907年の唐の滅亡以降、貿易も儀式も途絶えたことでほとんど仕事がなくなり、余剰人員となって朝廷からリストラされた人達でした。そのため彼等は(生活するために仕方なく)京へ向かう重要物流路である瀬戸内海を支配し、海賊として海外から運ばれてくる文物を収奪することを主たる生業としていたのですが、貿易量が激減してきたのでそれも成り立たなくなってしまっていたのではないでしょうか。また、いわゆる「藤原純友の乱」勃発後、藤原純友軍は讃岐国の国衙(こくが:国の役所)や備前国・備後国といった瀬戸内沿岸諸国の国衙、ついには北九州の大宰府までをも襲撃していますが、おそらくこれらは国衙の倉庫に備蓄されていた食料の収奪が目的の海賊行為、すなわち略奪だったのではないでしょうか。せっかく襲撃に成功しても、彼等は長くはその場に留まらず、さっさと撤収しているようにしか見えませんから。このように彼等は生きていくために相当追い詰められていたのは確かなようです。そうなると、「よしっ! 海外からの文物が運ばれて来ないのならば、こっちから出向いて奪ってくるか!」と考えるのは、とても自然な成り行きではなかったかと私は推測しています。

 藤原純友の最期に関して、「博多湾の戦い」で大敗を喫した後、伊予国に逃れ、そこで伊予警固使・橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではないこと。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説もあるということを書かせていただきましたが、上記の私の仮説が正しいとするならば、その「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説」が一番しっくり来ますし、第一カッコいいですよね。私に文才があって、藤原純友に関する歴史小説を書くとするならば、絶対にそういう終わり方にしますね。

 以上は今の時代に残されている幾つかの状況証拠をもとに私が勝手に推察した1つの仮説に過ぎませんが、この日振島からの風景を眺めながら立てた仮説だけに、私の中では「多分そういうことだったのだろう」とストンと腹に落ちるところがあり、大いに納得しちゃいました。これは実際に現地に足を運んで、そこから見える風景を目にしたからこその感覚ですね。

 私が今回日振島を訪れた目的である「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」の謎解きに私なりの答えを見出せたことで、後は気持ちよく島内ハイキングの続きです。ここからはゴールである日振島北部にある能登港を目指して坂道を下っていきます。

オヤッ!? 10月だというのに、季節はずれのサクラ()が開花しています。この1本だけでなく、周囲に何本も咲いているので、秋咲きの品種なのでしょうか?

能登の集落まで下ってきました。この日は日振島の約13km、歩数にして17,425歩を、約3時間半の時間をかけて歩きました。島内はアップダウンの激しい道路で、歩数以上に疲れました。ただ、美しい宇和海の景色を眺めながらのウォーキングは気持ちよく、心の底から癒されました。

能登港に盛運汽船の高速船「しおかぜ」の3便が入港してきました。桟橋前の待合室を兼ねた小さな事務所で乗船券を販売していたオバちゃんが桟橋に出てきて、船から係留索(係留用のロープ)を受け取り、ビットと呼ばれる係船具に結わえます。慣れた手つきです。


「藤原純友が本当に目指したものは何であったのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という謎を探るための糸口は、「なぜ藤原純友は日振島を本拠地にしたのか?」ということの解明からだと思い日振島を訪れてみたわけですが、実際に日振島から見える風景を眺めてみて、私なりにこの謎を解くヒントが得られたように思っています。

 平安時代中期の承平年間(西暦931年~938)から天慶年間(938年~947)のほぼ同時期に起きた『承平天慶の乱』、この朝廷に対する2つの叛乱の首謀者とされる関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友、そもそも彼等2人を同じ土俵で論じ、分析することが間違っているのではないかと思い始めました。叛乱を起こすに至った彼等2人の根底に流れる政治思想のようなものが根本的に違っていたのではないかと私は思っています。現代風の言葉で言うと、平将門の場合のそれは「ナショナリズム」、すなわち、独立した共同体を自己の所属する民族のもとで形成するという考え方。いっぽう、藤原純友の場合のそれは「グローバリズム」、すなわち国境を超えて世界を1つの共同体として捉えるという考え方とでも言えばいいでしょうか。とにかく、当時の藤原純友は現代人である私達から見ても相当に進んだ価値観・世界観を持っていたのではないかと思えてきました。

 そう考えてみると、おそらく藤原純友は平将門よりも壮大で、ある意味危険なことを企てていたのかもしれません。それはおそらく瀬戸内海の海賊達との交流の中から気づいたことなのでしょう。伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務に就いていた藤原純友は、瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功した後、突然、日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、その急変の背景も、海賊ならではのグローバリズムの気づきという観点で捉えると、なんとなく分かる気がします。真実がなんであったかはまったく分かりませんが、そう考えることで私は腑に落ちているところがあります。そして、これが藤原純友に関してこれまでの歴史学者がなかなか研究を深められずにきた主たる要因のように、私は思っています。

それにしても、藤原純友、及び彼が中心となって起こした藤原純友の乱に関しては、時系列を整理しながら冷静になって考えてみると、実に様々な素朴な疑問が次から次へと湧いてきます。例えば、

① 藤原純友がいくら武勇に優れていたと言っても、京のお公家さんがどうしてわずか5年ほどの間で千艘以上の船を操る瀬戸内海の海賊集団を率いるまでになれたのか?

② 藤原純友軍は備前国や播磨国、淡路国、讃岐国の国衙等を襲撃しているのに、朝廷の地方出先機関の中で最も手っ取り早い筈の伊予国の国衙(国府)を襲った記録が残されていないのはなぜか?

③ 瀬戸内海周辺でこんなに組織だった海賊行為が行われているのに、当時の朝廷の主力海軍である筈の伊予水軍(越智三島水軍)が博多湾の戦いに至るまで直接鎮圧に乗り出していないのはなぜか?

④ 博多湾の戦いで藤原純友軍を壊滅させたのは伊予水軍(越智三島水軍)だと分かっている筈なのに、いくら自分の拠点があったと言っても、藤原純友親子が博多湾の戦いでの大敗後、伊予水軍の拠点でもある伊予国に逃げ帰って来たのはなぜか?

……等々。

このようにこの藤原純友という人物、次から次へと出てくる謎が多すぎて、調べ甲斐のある実に面白い人物です。もう少し藤原純友に関していろいろな角度から調べてみようと、帰りの船の中で美しい宇和海の景色を眺めながら考えていました。とにかく歴史の解明は面白いです。

 

……(その4)に続きます。



愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...