2018年12月5日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その9)


このように壮大な天守閣こそ再建されなかったものの、この本丸には豪勢な御殿が幾つも建っていました。江戸城の中心であるこの本丸は、南北約400メートル、東西約120メートル、最大幅約200メートルという広大な敷地の周囲に高石垣と濠をめぐらした約4万坪の高台でした。そこに約130棟、建坪にすると約11,000(36,000平方メートル)、サッカー場約4面分というオール平家(1階建て)の建物(御殿)がズラリと建ち並んでいました。敷地じゃあないですよ。建て坪です。

本丸御殿は、大きく「表」・「中奥」・「大奥」という3つの空間にわかれていました。「表」は幕府の中央政庁で、将軍の謁見など公的な儀式を行う場所であり、また諸役人が詰め政務を執る江戸幕府の政庁(最高執務機関)でもありました。「中奥」は将軍が起居したり、政務を執る将軍の公邸。「大奥」はTVドラマなどでも有名なように、将軍の御台所(正室)を中心に側室や後宮の女官が生活する将軍の私邸、生活場所でした。前述の建て坪約11,000(36,000平方メートル)の本丸御殿のうち、「表」と「中奥」が合わせて約4,700(15,000平方メートル)、「大奥」が約6,300(21,000平方メートル)でした。


「表」の中心は400畳の大広間でした。この本丸表御殿は400畳の大広間だけでなく、次のような建物で構成されていました。

1.御書院御門(中雀御門)=本丸表御殿の正門で、中雀門からが江戸城本丸となります。
2.能舞台=公の儀式に能を上演する場でした。
3.大広間=400畳の巨大な広間で儀式・公式行事を執り行なう場でした。
4.松之廊下(松之大廊下)=『忠臣蔵』で有名な吉良上野介の殺傷事件が発生したところです。
5.柳之間=大名登城時の控の間の1つでした。
6.蘇鉄間(そてつのま)=大名登城時の供侍(ともざむらい)の待機場所でした。
7.虎之間=本丸を警備する書院番の詰所でした。
8.遠侍(とおさむらい)=御徒(おかち:お目通りできない将軍警備の下級武士)の詰所でした。
9.目付衆御用所=旗本・御家人を監督する役人(目付衆)の執務所です。
10.帝鑑之間=大名登城時の詰所でした。
11.白書院=公式行事用の部屋でした。
12.菊之間=警備護衛役のトップである番頭の詰所でした。
13.雁之間(かりのま)=大名登城時の詰所でした。
14.芙蓉之間=勘定奉行、寺社奉行、町奉行の詰所でした。
15.黒書院=公式行事用の部屋です。
16.御用部屋=老中・若年寄の詰所でした。
17.台所=将軍の食事を用意するところでした。登城した大名にはは各藩邸から弁当が届きました。
18.台所前三重櫓=表御殿台所前にあった三重櫓です。石垣だけが現存し、本丸展望台となっています。


ここが老中や若年寄、大目付、勘定奉行、寺社奉行、町奉行たちの控えの間であった芙蓉之間や御用部屋があったところです。先ほど御書院御門の先で、老中や大目付、奉行たちの玄関は他の大名達とは異なって脇道のようなところを進んできたと書きましたが、その脇道がここに出てきて、ここが玄関で、ここに控えの間がありました。

ちなみに、大名と異なり、老中や大目付、勘定奉行、寺社奉行、町奉行たちは毎日登城していました。土曜日曜もありません。激務でした。なので、彼等は月替わりでの勤務でした。江戸の町奉行には北町奉行と南町奉行の2(中町奉行が置かれていた時代もあります)がいて、月替わりの当番制でした。当番の月は毎日登城し、非番の月は役宅で激務の疲れをただひたすら癒していました。当番の月は毎日登城していたので、あまりに忙しすぎて、TVドラマの『大岡越前』や『遠山の金さん』のように南町奉行大岡越前守忠相や北町奉行遠山左衛門尉(金四郎)景元が直接お裁きを下すことなどまずあり得ませんでした。裁判官の役割は吟味方という部下の与力の仕事で、大岡越前守忠相の場合、享保2(1717)に南町奉行の職に就いてから元文元年(1736)に寺社奉行に異動するまでの19年間で大岡越前守忠相が直接手を下して裁いた事件の数は僅か3件に過ぎなかったと言われています。余談ですが、大岡越前守忠相は享保2(1717)に南町奉行の職に就いてから寛延4(1751)に病気による依願により寺社奉行を御役御免になるまでの34年間、月替わりとは言え、毎日、大雨が降っても大雪が降っても江戸城に登城し続けたわけです。それだけで凄い!!の一言です。

また、大手御門の門前の下馬のところで、大手御門から登城できるのは徳川御三家や御三卿、四品(朝廷から与えられる官位が従四位以上)の大名、禄高10万石以上の大大名に限られ、1万石から10万石のその他大勢の大名や直参旗本は大手御門ではなく内桜田御門(桔梗御門)から登城したということを書きましたが、本丸御殿内で将軍に拝謁する順番を待つ大名の控えの間に関しても、大名の出自・武家官位・城郭の有無・家格・禄高(石高)に将軍家との親疎の別などが複雑に絡み合って7席に決められて、厳然とした差が設けられていました。数字的に分かりやすい禄高(石高)に関しては、10万石以上が「大大名」、5万石以上が「中大名」、5万石以下1万石までを「大名」と呼ばれていました。この家格や武家官位、禄高(石高)等に応じて、前述のように登城に同行する家臣の人数や服装までもが細かく定められていました。このように、江戸城に登城すれば、大名達はいやがうえにも、自分の家格というものをまざまざと見せつけられていたのです。

江戸城の本丸御殿は慶長11(1606)に完成以降、何度も地震や火災により倒壊・焼失し、そのたびに再建されたというのは前述のとおりです。最後に焼失したのは文久3(1863)のことで、それ以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西の丸御殿に移したため、現在、本丸御殿跡は広大な芝生の広場になっています。

江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、天皇がその奏上を勅許した大政奉還があったのは慶応31014(1867119)のことですから、文久3(1863)というのはその4年前、まさに幕末のことです。

2008年のNHK大河ドラマ『篤姫』では、宮﨑あおいさん演じる主人公の篤姫(天璋院)が、堀北真希さん演じる和宮(14代将軍徳川家茂の御台所)を助けて、燃え盛る大奥から脱出し、西の丸御殿に入るシーンがありました (今年のNHK大河ドラマ『西郷どん』をはじめ、幕末期を描いたTVドラマ等では、何故かほとんど描かれることはありませんが…)

謹慎中の第15代将軍徳川慶喜から対薩長の戦略を一手に任され、江戸の町が戦場として大火にならないようにと後を託された幕臣・勝海舟と、江戸に進駐してきた新政府軍の総参謀・西郷隆盛が田町の薩摩藩上屋敷(江戸藩邸)において交渉を行い、慶応4(1868)411日、江戸城無血開城を果たした時、江戸城本丸は焼け跡のままで1つの建物も残っておらず、残っていたのは西の丸御殿だけでした。

なので、慶応4717(186893)、明治天皇が「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸の地で政務を執ることと、それに伴って江戸を東京とすることを宣言した後、同年1013(新暦1126)1度目の東幸で江戸城に入城してこれを東京城と改称した時も、入城したのは本丸御殿ではなく西の丸御殿でした。

その後、明治12(1879)、太政官による造営令で、明治新宮殿と主要官庁の建設用地の選定が行われたのですが、同年6月に「本丸は新宮殿建設に不適当」と早々に決定されました。調査により周囲が甚だしく壊頽しており、多額の造成費用を要するという結果が出たためです。本丸はもともと低丘地で、周りの濠の開削土で10メートル以上の嵩上げを行い、その周りを石垣で寿司の軍艦巻のように仕上げているためでした。仮に地盤が強固であれば、桜田濠・半蔵濠・千鳥ヶ淵で見られる石垣のように基礎部の腰巻石垣と上部の鉢巻石垣で仕上げられるのですが、そうではありませんでした。加えて、江戸時代の地震で何度も崩壊した高石垣を積み直した記録も残っていましたから。なので、明治新宮殿は地盤が強固な西の丸に建てられることになり、現在も皇居の宮殿は西の丸にあるのです。

その後、本丸は日比谷入江を埋め立てた日比谷公園の軟弱地盤と同様に主要官公庁の建設地とすることも断念して、岩盤の安定した霞ヶ関が選定され、霞が関が主要官庁街となったのだそうです。さらに、霞が関よりも頑強な地盤のところに国会議事堂は建てられました。それで、現在、本丸御殿跡は広大な芝生の広場になっているわけです。


本丸御殿の跡は一面の芝生の広場になっているのですが、その周囲には様々な植物が植えられています。ツワブキの群生です。ツワブキはキク科ツワブキ属に属する常緑多年草(冬でも葉が緑のままで、1年や2年で枯れること無く、よく生き残れる草)で、艶のある大きな葉を持っており、毎年秋から冬に、キクに似た黄色い花をまとめて咲かせます。そのため「石蕗の花(つわのはな)」は、日本では立冬(118日頃)から大雪の前日(127日頃)までの季語となっています。この本丸御殿跡だけでなく、現在江戸城内では随所でツワブキの花が咲いているのが見られるのですが、この本丸御殿跡の群生が一番大きいそうです。


桜といえば「ソメイヨシノ」が有名ですが、ソメイヨシノは江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成されたエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生まれたサクラの中から、特徴のある特定の一本を選び抜いて接ぎ木で増やしていったクローン種です。実際に桜の名所の8割はソメイヨシノなのですが、実は桜には自生種9種をはじめとして変種、交配種もあわせると600以上の種類があるのです。そのうちの1つ、「鬱金(ウコン)」です。この鬱金は大変珍しい黄緑色の桜です。花弁は15~20枚程度。いわゆる飲酒時に飲むウコンと花の色が似ていることから名づけられました。この鬱金の花は、4月下旬に黄緑色だったのがだんだんと薄くなり、日が経つにつれてピンク色に変化していくのだそうです。

現在、本丸御殿の跡には今上天皇陛下・皇后陛下お手植えの果樹が何本も植えられています。


これは「ヨツミゾガキ(四つ溝柿)」です。ヨツミゾガキは主に静岡県駿東郡長泉町で生産されている柿で、先が尖り四角張っており、四方に浅い溝が入っているため、この名が付いているのだそうです。10月、11月が旬で甘柿よりやや小さめの渋柿です。渋抜きをすると独特の甘みが出て、果肉が柔らかくみずみずしい味わいがあるのだそうですが、今上天皇陛下・皇后陛下お手植えの果樹だけに採るのは御法度で、眺めるだけです。


こちらは「ロクガツナシ(六月梨)」です。ロクガツナシは我が国で古くから栽培されてきたナシの古品種です。群馬県の原産とされ、江戸時代後期には栽培の記録が残っているのだそうです。


「キシュウミカン(紀州蜜柑)」です。現在、一般的に「みかん」と認識されているウンシュウミカン(温州蜜柑)と違い各房に種があり、果実の直径は5cm程度、重さは3050 グラム内外と小ぶりのミカンで、西日本では小ミカンと呼ばれています。かつてはみかんといえばこのキシュウミカンを指すのが一般的だったのですが、小ぶりで種があり食べづらいこと、酸味が強いことなどの理由が一般消費者に敬遠され、代わりに種がなく甘みが強いウンシュウミカン(温州蜜柑)に急速に取って代わられ、現在では最盛期の頃と比べ作付面積は極端に少なくなっています。15世紀〜16世紀頃には紀州有田(現和歌山県有田市・有田郡)に移植され一大産業に発展したことから「紀州」の名が付けられ、東日本ではキシュウミカンと呼ばれるようになりました。また江戸時代の豪商である紀伊國屋文左衛門が、当時江戸で高騰していた小ミカンを紀州から運搬し富を得たとされる伝説でも有名です。


「クネンボ(九年母)」です。クネンボは東南アジア原産の柑橘の品種といわれ、日本には室町時代後半に琉球王国を経由しもたらされたのだそうです。皮が厚く、独特の匂い(松脂臭)があります。江戸時代にキシュウミカン(紀州蜜柑)が広まるまでは江戸の市中で出回る柑橘はこのクネンボが中心だったようです。また、クネンボは日本の柑橘類の祖先の1つとなっています。ウンシュウミカン(温州蜜柑)とハッサク(八朔)はクネンボをベースとした交配種であるなど、クネンボは日本の柑橘の在来品種の成立に大きく関与している品種とされています。


「サンボウカン(三宝柑)」です。サンボウカンは江戸時代の文政年間(1818年〜1829)に和歌山藩士野中為之助の邸内にあった木が原木とされています。非常に珍しかったので藩主の徳川治宝に献上したところ、「三宝柑」の名称をつけて、藩外移出禁止を命じ、一般人の植栽を許可しなかったのだそうです。名前の由来は、その珍しさ故に三方に載せて和歌山藩の殿様(徳川御三家の1つ紀州徳川家)に献上されていたことから付けられたと言われています。現在は和歌山県湯浅町栖原地区で主に生産され、「栖原三宝柑」と呼ばれているのだそうです。果実の形状としてはダルマ形でデコポンに似て果底の部分が膨らんでいます。果皮は柔らかくて剥きやすいのですが、かなり厚く果肉は少なく、種が非常に多いという特徴があります。


「エガミブンタン(江上文旦)」です。エガミブンタンは、江戸時代に今の長崎県で偶発的に実生苗から発生した品種といわれています。現在は長崎県の一部で生産されておりますが、生産量は少ないようです。果実は平均800g程度で、平戸文旦よりも果皮色は淡い色で、食べやすいのですが果皮が厚い品種です。


……(その10)に続きます。

2018年12月4日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その8)


2本のケヤキが門柱のように聳えているところがあります。ここが本丸御殿の玄関だった場所です。

江戸城の本丸御殿は慶長11(1606)に完成しましたが、その後何度も地震や火災により倒壊・焼失し、そのたびに再建されました。
記録に残っているだけでも、
• 元和8(1622)改築
• 寛永14(1637)新造
• 寛永16(1639)焼失
• 寛永17(1640)再建
• 明暦3(1657)焼失明暦の大火
• 万治2(1659)再建
• 弘化元年(1844)焼失
• 弘化2(1845)再建
• 安政6(1859)焼失
• 万延元年(1860)再建
• 文久3(1863)焼失
と、再建・焼失を何度も繰り返しています。

天守閣も、初代将軍徳川家康による慶長12 (1607)建造の天守閣(慶長天守閣)、第2代将軍徳川秀忠による元和9(1623)建造の天守閣(元和天守閣)、第3代将軍徳川家光による寛永15(1638)建造の天守閣と代替えごとに3度建造されています。特に第3代将軍徳川家光の代に建造された天守閣は江戸幕府の権威を象徴する我が国最大規模の天守閣で、「寛永天守閣」と呼ばれています。

慶長8(1603)、江戸幕府が開府して徳川家康は江戸城の大改修工事に着手しました。慶長11(1606)、筑前国福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と安芸国広島藩の第2代藩主・浅野光晟によって天守台礎石が築造。翌慶長12(1607)に駿府城天守や名古屋城の造営に携わった大工頭・中井正清によって、初代の江戸城天守閣「慶長天守閣」が完成しました。連立式の天守は白漆喰壁の鉛瓦葺きで、「雪をいただく富士山のよう」と評判になりました。江戸城は征夷大将軍の居城で、本丸まで攻め込まれても天守曲輪が独立して戦える日本最強の城でした。しかし、防御施設の役割よりも権威の象徴として諸大名や家臣、民衆から崇められることを目的としていたようなところがありました。

慶長10(1605)、家康から征夷大将軍の座を譲られ第2代将軍となった徳川秀忠は、特に元和2(1616)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世・土井利勝らを老中に据えて幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮していきました。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し(徳川御三家の誕生)、自身の子・忠長に駿河・遠江・甲斐を与えるなどのことを行いました。また、公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固め、為政者としての手腕は高く評価されたのですが、どうしても偉大な父・徳川家康の忠実な後継者であるという印象が強く、影が薄い存在ではありました。そこで、手を付けたのが天守閣の建て替えでした。元和8(1622)、本丸御殿中奥西に位置した慶長天守を破却。天守だけは自分の思いを遂げるという強い決意のもと、本丸の拡張という名目で、元和9(1623)、大奥西に隣接した桔橋門前(現在の天守台のある場所)に新たな天守閣「元和天守閣」を建造しました。

徳川秀忠は「元和天守閣」が完成すると、思いを達成したのか同元和9(1623)に上洛をして参内。将軍職を嫡男・家光に譲りました。寛永9(1632)、徳川秀忠が死去。第3代将軍徳川家光は旗本を中心とする直轄軍の再編に着手。幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立しました。寛永12(1635)には武家諸法度の改訂を行い、大名に参勤交代を義務づける規定を加えました。対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、対外貿易の管理と統制を強化していきました。幕府の基盤が安定したのはこの第3代将軍徳川家光の代で、世の中も大いに潤いました。徳川家光も数万のお供を従えるため巨大な費用がかかる日光東照宮参詣を3度、同じく大軍を従えた上洛を3回行うなど、徳川家光1代で500万両以上の膨大なお金を使ったと言われています。

寛永15(1638)、代3代将軍徳川家光は、父秀忠の建てた元和天守閣を破却し、新しい天守閣の建造に着手しました。家光は父よりも祖父家康を敬愛しており、父の遺物を破却することに躊躇はなかったと言われています。天守台石垣は、祖父家康が建造した慶長天守閣と同じく筑前国福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と安芸国広島藩の第2代藩主・浅野光晟、天守閣の一重は備後国福山藩初代藩主の水野勝成、二重は山城国淀藩初代藩主の永井尚政、三重は和泉国岸和田藩主の松井康重、四重は丹波国篠山藩主の松平忠国、五重は山城国長岡藩主の永井直清と7名の大名に命じた大掛かりな修築でした。建造された天守閣は元和天守閣を上回る大規模な木造建築で、天守台石垣の上に55階、最上階に鯱鉾を置き、唐破風と千鳥破風を配し、外壁を銅板張で仕上げた江戸幕府の権威を象徴する我が国最大規模、当時は世界最大規模ともいわれたほどの壮大な天守閣で、「寛永天守閣」と呼ばれました。さらに徳川家光は父・秀忠の築いた日光東照宮の社殿の大規模な改築も行いました。

ところが寛永天守閣も完成して幕府の基盤が安定したと思われた寛永19(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受けることになりました。さらに正保元年(1644)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に徳川家光は体制の立て直しを迫られることになります。

そのさなかの慶安3(1650)、第3代将軍徳川家光は病気となり、江戸城内で死去。嫡男・家綱が将軍職を継承し、第4代将軍徳川家綱となりました。その7年後の明暦3(1657)に発生したのが明暦の大火です。

明暦3(1657)118日、未明から春特有の北西の風が強く、しばらく雨も降っていなかったので江戸市中には土埃が舞い上げているような状態でした。午後2時頃、本郷円山町の本妙寺から出火した火は、駿河台、日本橋、深川方面に延焼。翌19日午前8時頃に鎮火しました。ところが、正午に小石川伝通院前の新鷹匠町から再び出火。北は駒込、南は芝方面にまで延焼しました。さらに午後8時ごろ3度目の火の手が麹町付近から上がり、城の北西からの強風に煽られ、内濠を越えて江戸城内に延焼してきました。第3代将軍徳川家光が造営した、当時、世界最大規模ともいわれたほどの壮大な天守閣「寛永天守閣」も二層目の窓の扉留具のかけ忘れが原因となって扉の隙間から火災旋風が侵入。瞬く間に天守閣全体が火焔に包まれました。さらに本丸の要所に配置されていた櫓や多聞に保管した大筒や鉄砲の弾薬に引火。これを機に寛永天守閣をはじめ本丸御殿、二の丸と主要な建物が全焼してしまいました。しかし、途中で風向きが変わり、西の丸御殿は罹災を免れ、本丸の避難先となりました。

20日の早朝に大雪が降り、ようやく鎮火したのですが、3度の連続した大火により、江戸城をはじめ大名屋敷500、社寺300、武家地と江戸の町の八百八町を全て焼き尽くしました。明暦の大火は焼死者10万数千人とも言われ、江戸期最大の被害をもたらした災害でした。

4代将軍徳川家綱は、直ちに再建を計画。すると、加賀藩前田家は天守閣の再構築を申し出ました。それには訳がありました。元和6(1620)の大阪城の天下普請の際、加賀の穴太衆は総指揮を執った藤堂高虎に石積みの落度をきつく咎められ名誉失墜していたのでした。前田家では技術向上のため公儀穴太頭の戸波駿河や近江坂本の穴太衆を多数召し抱えて、名誉回復の機会を伺っていたのでした。加賀藩前田家は加賀領内から5,000人の人夫を徴用。万次元年(1658)に鍬始めを行い、藩主前田綱紀が陣頭指揮を執る総力を傾けた手伝普請によって、瀬戸内海の天領小豆島や犬島産の御影石(花崗岩)を用いて天守台を築きました (南側の小天守台は伊豆産の安山岩で築かれています)。再建された天守台礎石の高さは寛永天守閣の7間から5間半と3メートルほど低くなっています。

ところが天守台が完成して、いよいよ天守閣の構築に取り掛かろうとした矢先に、第4代将軍徳川家綱の後見人で叔父にあたる幕府重臣で陸奥国会津藩初代藩主であった保科正之(徳川秀忠の4)から、天守閣の再建について、待ったがかかりました。保科正之からの「織田信長が岐阜城に築いた天守閣が発端で、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言を第4代将軍徳川家綱は聞き入れ、天守閣の再建は後回しにされました。この保科正之の提言の根底には、これまで秀忠、家光と代替りのたびに、ともに父親との確執から天守を破却して、50年で3度も天守閣を建て替えるという愚挙を重ねてきた幕府のありようを見かねて阻止したというのがあったと推察されます。また、保科正之には、もはや豪勢な天守閣によって幕府が天下を威嚇する時代ではなくなったとの考えがあったともいわれています。さすがは日本史上屈指の名君との呼び声も高い保科正之です。

(ちなみに、徳川秀忠の4男で徳川家康の孫にあたる保科正之は幕府より松平姓を名乗ることを何度も勧められたのですが、養育してくれた信濃国高遠藩主・保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓で通しました。第3代の正容の代になってようやく松平姓と葵の御紋が使用され、親藩に列しました。この陸奥国会津藩の上屋敷が大手御門に最も近い現在の和田倉噴水公園のところにあったのも分かる気がします。そして陸奥国会津藩松平家の最後の藩主が、幕末期、京都守護職を務めた松平容保でした。)

明暦の大火で寛永天守閣が焼失した後に、天守閣の代わりとして使用されたのが富士見櫓です。三重の櫓ですが、江戸城のほぼ中央に位置しており、この場所は天守台についで高い場所(標高23メートル)であったことから、この富士見櫓が選ばれたのだそうです。で、第4代将軍徳川家綱が「以後はこの富士見櫓を江戸城の天守と見做すべし」と宣言してしまったことから、(その1)の和田倉噴水公園のところで書きましたように、これ以降諸藩では再建も含め天守閣の建造を控えるようになり、事実上の天守閣であっても、徳川将軍家に遠慮して、「御三階櫓」と称するなど高さや規模の制限を自主的に設けるようになりました。

江戸時代から天守閣が現存する城は全国で12あり、このうち弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守閣がそれにあたり、禄高のわりには天守閣が小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。以下の写真は伊予国松山藩久松松平家15万石の居城・松山城です。平山城で本丸御殿に三層の小さな天守閣が築かれています。15万石と言えば大大名に分類されます。それでもこのサイズの天守閣です。これより大きな天守閣を建てようものなら、武力強化により幕府転覆の疑いありと見做されて、それを理由に改易させられてもおかしくないくらいの雰囲気がありました。


天守閣を再建する代わりに幕府が取り組んだのが、江戸市中の復興で、その象徴が両国橋の建設でした。

江戸城外濠内濠ウォーク【第1回:両国御茶ノ水】の(その1)でも書きましたが、「明暦の大火」では、前述のように瞬く間に外堀以内の江戸市中のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失し、10万人以上と言われる焼死者を出す未曾有の大惨事となりました。これは、当時、仙台藩伊達家を仮想敵国として捉えていた江戸幕府が江戸防備上の面から隅田川への架橋は奥州街道(日光街道)が通る千住大橋以外認めていなかったことにありました。前述のように市中から出火した火は折からの北西からの強風に煽られて次々に延焼。人々はその迫り来る火の手から逃れるように隅田川河畔に殺到したのですが、その隅田川には北にある千住大橋以外に橋が架けられていなかったことから逃げ場を失った多くの江戸市民が激しい火勢に飲まれ、10万人を超えると伝えられるほどの死傷者を出してしまうことになりました。関東大震災、東京大空襲、東日本大震災などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災による被害です。

江戸城外濠内濠ウォーク【第1回:両国→御茶ノ水】の(その1)


この未曾有の大惨事を引き起こした「明暦の大火」は江戸幕府に大きな衝撃を与えることになり、事態を重く見た時の老中・酒井忠勝らの提言により「明暦の大火」を契機に江戸の都市構造の一大改造が行われました。徳川御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社の多くが移転しました。また、市区改正が行われるとともに、防衛のためそれまで千住大橋の1橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が次々と行われ、隅田川の東岸に深川などの市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進みました。さらに、防災への取り組みも行われ、市内各地に火除地や延焼を遮断するための防火線として広小路が設置されました。この広小路に関しては現在でも上野広小路などの地名として残っています。さらに、幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励しました。もっとも、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があるように、江戸の街はその後もしばしば大火に見舞われたのですが、これらの都市改造の成果により、その後は「明暦の大火」ほどの被害は出さずに済みました。

このことは江戸庶民のみならず、全国の庶民の心を一気に掴み、徳川幕府への信頼感は揺るぎないものとなり、その後200年以上も江戸幕府が、そして平和な時代が続くきっかけともなりました。

ちなみに、武で抑えるのではなく、民に向けて善政を施せば、幕府の地位は安泰である…という手応えを掴んだ第4代将軍徳川家綱は、「城下の復興を優先させる」として延期した天守閣の再建を再開することはありませんでした。保科正之が天守無用論を唱えて40年後、第6代将軍徳川家宣と第7代将軍徳川家継に仕えた側用人・間部詮房と儒学者・新井白石が、正徳2(1712)、天守閣の再建計画を推し進めたことがありました。再建案は寛永天守閣の図面を基に天守台石垣の上に55階、最上階に鯱鉾を置き唐破風と千鳥破風を配し、外壁に銅板張で仕上げた壮大なものでした。しかし、この再建計画は、正徳210月、第6代将軍徳川家宣が逝去したことで中断。再度俎上に上がったものの、今度は正徳6(1716)に第7代将軍徳川家継が逝去。この間、新井白石らが失脚したことによって実現には至らず、保科正之の提言を尊守すべくその後の歴代将軍もこれに倣い継承されたため、天守閣が再建されることはありませんでした。


……(その9)に続きます。

2018年12月3日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その7)


中ノ御門を入ってすぐのところにあるのが「大番所」です。この大番所は中ノ御門を警備するための詰所でした。中ノ御門の内側に設けられ、百人番所、同心番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸への最後の番所であり、警備上の役割は極めて重要なところであったと考えられています。この大番所も同心番所や百人番所と同様に江戸時代から残る貴重な遺構です。

この中ノ御門で各大名のお供は5人だけになります。


中ノ御門に入り大番所前を左に進むと、重厚な石垣に囲まれた坂道があります。現在はスロープになっていますが、かつてこの坂は雁木石段、すなわち前回【第7回】に訪れた清水御門で見られたような段差がマチマチの非常に登りにくい構造をした石段でした。その登りにくい雁木石段を徳川御三家も、加賀国金沢藩100石前田家の殿様をはじめ、全国各地の歴代大名も、大岡越前守忠相や遠山左衛門尉(金四郎)景元といったお奉行様も登って本丸に登城したわけです。


坂の途中に最後の門である御書院御門があります。この御書院御門と周囲の石垣は、慶長12(1607)に、大手御門と同様、伊予国今治藩初代藩主であった藤堂高虎が築いたものです。明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、万次元年(1658)に陸奥国二本松藩主・丹羽重之により再建されました。さらに文久3(1863)11月の火災で本丸御殿が焼けた時に、御書院御門も類焼して、焼失しました。現在は石垣が残るのみです。


前述のように、この御書院御門は中雀御門(ちゅうじゃくごもん)、または玄関前御門とも呼ばれていた江戸城本丸に向かう最後の関門です。大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示している写真は文久3(1863)11月の火災で焼失する以前に撮影された御書院御門の貴重な写真です。写真の右が本丸入口の御書院御門(冠木門)で、左が新門、左の櫓が書院出櫓(重箱櫓)、右が書院二重櫓です。


中雀御門とは、扉に真鍮の化粧金具を取り付けた鍮石門の由来によります。また四神思想に基づき、本丸の南にあるので、南の守護神である朱雀から名付けたとの説もあります。徳川御三家といえどもこの門前で駕籠を降り徒歩で玄関に向かいました。この御書院御門の警護は、御書院番の与力10騎、同心20名が鉄砲25・弓25を備えていました。渡櫓門を通過した右手に御書院番与力番所がありました。


この御書院御門の枡形の石垣には表面が割れ焼け焦げた痕が見えます。これは第3代将軍・徳川家光が建てた天守台(天守閣の土台)の石垣で使われた石です。この徳川家光の天守台は寛永12(1637)に筑前国福岡藩の第2代藩主・黒田忠之と安芸国広島藩の第2代藩主・浅野光晟により伊豆石の安山岩を用いて築かれました。しかし、明暦3(1657)の明暦の大火で天守が焼け落ち、列火にまみれた天守台の石垣は損傷して再利用できず、この御書院御門前の枡形の石垣として加工転用されました。当時は板塀で覆い隠していたのだそうです。この石が丸く変形しているのは烈火の勢いが強すぎて、石の中に含まれる水分が膨張して炸裂したことによるのだそうです。明暦の大火の火の勢いを感じさせます。


この御書院御門から先は大名はすべての供の者を残し、たった1人で本丸に進むことになります。家来が持ってきた「肩衣(かたぎぬ)」という上半身に着る袖の無い上衣と「袴(はかま)」の組合せから成る裃(かみしも)を小袖の上から着て、刀(太刀)を家来に預けて、短い脇差だけを差して、茶坊主の案内で本丸へと進みました。


ちなみに、茶坊主は、決してお坊さんではありません。直参旗本の武士から選ばれ、世襲制でした。江戸城における剃髪した者は、上を同朋、下を坊主と言い、仕事は主に給士でした。文書を運んだり、掃除をしたり、時間を知らせたり、将軍と家族の身辺を世話したり、登城してくる大名の案内をしたりと様々でした。頭を剃っているのは、僧侶の場合、「方外(世間の外)」を意味していますが、江戸城の茶坊主もまた、同様の意味を込めて、剃髪していたわけです。男子禁制の将軍の家庭「大奥」を管理するためにはそういう例外的な存在が必要になりますから、そのようにしていたわけです。つまり、歌舞伎に出てくる「黒子」みたいなものです。また、「茶坊主」はある意味、蔑称ですが、決してお気楽な仕事ではありませんでした。かなり厳格なもので、古典の教養に深く、歌学や茶道に堪能で、道具の鑑定眼も確かでした。ですので、副収入も多かったようです。


先ほど大名は刀(太刀)を家来に預けて、短い脇差だけを差して本丸に進んだと書きましたが、例外的に大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示す10人の大名(刀持ち上がり大名)だけは控えの間まで太刀の帯刀が許されていました。


ここから右に入る脇道があります。ここは大名以外の老中、大目付、奉行が進む道でした。大名は御書院御門を抜けるとまっすぐに本丸御殿の玄関に進みました。


……(その8)に続きます。

2018年12月1日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その6)


 江戸時代、ここには濠があって、木橋を渡ってその先に行っていました。



「大手三ノ御門」の跡です。この「大手三ノ御門」は「下乗門」とも呼ばれていました。この先の二の丸に駕籠に乗って入城できるのは、尾張藩、紀州藩、水戸藩の徳川御三家の藩主に限られていたからです。それ以外の藩の大名や直参旗本は、いくら加賀国100万石の大大名だった前田家の殿様といえども駕籠から降りて、自分の足(徒歩)で、二の丸、そして本丸に向かわないといけませんでした。



大手三ノ御門に隣接するように「同心番所」があります。同心番所は同心達の詰所です。ここは本丸大手御門(大手三ノ御門)を警備する番所で、今でいう検問所にあたります。現在、江戸城には百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。 城の奥にある番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心(幕府の下級武士)が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当っていました。江戸時代後期のものと思われる建物が修理復元されて残っています。かつてはこの番所の前に高麗門と橋がありました。ちなみにこの同心番所の鬼瓦には徳川家の家紋である葵の紋が残っています。



同心番所の前を通り、大手三ノ御門の渡櫓門跡の石垣の間を抜けると、長さ50メートルを超える大きな「百人番所」が見えてきます。この建物は数少ない江戸時代からそのままの形で残る江戸城の貴重な遺構です。



ここは本丸の入口にあたることから、江戸城最大の検問所でした。百人番所には「百人組(鉄砲百人組)」と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組(廿五騎組)4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たっていたそうです。同心が100人ずつで警護していたので、百人番所と呼ばれていました。

根来組、伊賀組、甲賀組…と言えば、言わずと知れた戦国時代に活躍した忍者集団ですね。

まず、伊賀組。伊賀組は伊賀上野(現在の三重県上野市)を本拠にした服部半蔵が率いた伊賀武士の集団です。徳川家康により召抱えられ、徳川幕府のために諸大名の内情を探ったり、江戸城下の治安を警護したりしました。江戸城の半蔵門は、伊賀者が警護しており、服部半蔵の名にちなんでその名がつけられました。

次に甲賀組。甲賀組は滋賀県の南東部(現在の滋賀県甲賀市周辺)を本拠にした甲賀武士の集団で、伊賀組同様、関ヶ原の戦い以降徳川家康に召抱えられ、江戸城の警護にあたっていました。

根来組。根来組は紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵を中心とした紀州の鉄炮軍団です。根来衆とも呼ばれていました。織田信長の時代から活躍していたのですが、豊臣秀吉の根来攻めにより敗北しました。その後、徳川家康により召抱えられたようです。

そして二十五騎組(廿五騎組)。二十五騎組は黒田家家臣によって構成された武闘集団です。「黒田二十五騎」というのは後藤又兵衛(後藤基次)や母里太兵衛(母里友信)など、黒田官兵衛が家臣の中から選んだ精鋭の武闘軍団のことです。一般には「黒田二十四騎」と呼ばれることが多いですが、嫡男の長政を含めて「二十五騎」とも呼ばれました。なお、ここに登場する後藤又兵衛(後藤基次)は慶長19(1614)、大坂の陣が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城し、歴戦の将として真田信繁(幸村)とともに大坂城五人衆の1人に数えられました。また、母里太兵衛(母里友信)は槍術に優れた剛力の勇将として知られ、「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも知られています。

このように徳川家康は忍者や鉄砲軍団、精鋭の武闘集団を活用することに非常に長けたリーダーでした。それがたとえかつて敵対した側にいた忍者や鉄砲軍団、武闘集団であってもうまく取り込んで、彼らの優れた技能を発揮させていました。戦国時代が終わり、活躍の場がなくなった彼ら忍者や鉄砲軍団、精鋭武闘集団にとっても自分達の技能が活かせる新たな職場が与えられて、幸せだったのかもしれません。

ちなみに、百人組は将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際には山門前を警備するなど、幕府直轄(若年寄支配)の独立部隊として編成されていました。

百人組の組屋敷は、それぞれ伊賀組は大久保に、甲賀組は青山に、根来組は市ヶ谷に、二十五騎組は内藤新宿にありました。現在も新宿区百人町など、都内の地名や区割りに同心組屋敷の名残りをとどめています。これらの組屋敷は、すべて甲州街道沿いにありました。徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合の備えとして、将軍は江戸城半蔵御門から抜け出し、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていました (八王子には大久保長安が統括した八王子千人同心と呼ばれる幕臣集団がいました。この八王子千人同心も元々は武田家の遺臣でした)。百人組にはこうした有事の際の護衛の任務もありました。


大手三ノ御門を抜け、百人番所の前を通ると、いよいよ本丸へと近づいていくのですが、本丸へ入るには「中ノ御門」を通らなければなりません。



この「中ノ御門」の石垣は江戸城の中でも最大級となる約36トンの巨石で築かれています。高さ6メートルにも及ぶ巨大な石垣は見た目にも美しい、丁寧に加工された隙間のない見事な「切込接ぎ・布積み」の技法で積まれています。 



この中ノ御門の石垣は寛永15(1638)にその原形が普請され、元禄16(1703)に起きた地震により大きな被害を受けましたが、翌年に鳥取藩第3代藩主・池田吉明によって修復されました。その後、関東大震災で高麗門と渡櫓門は大破。いまだその再建はされず、現在は石垣のみが残っています。そしてその石垣も約300年の間に、石材の移動による目地の開きやはらみ、荷重や風化による破損や剥離などが発生していたため、平成17(2005)8月から平成19(2007)3月まで20ヶ月間かけて解体・修復工事が行われました。パネルで修復工事の様子が解説されています。御門の横にあるスペースでは、前述の中ノ御門の石垣の修復時に交換した石材が展示されています。



それにしても見事な石垣です。中ノ御門の石垣には黒い石とやや黄色がかった石の2種類の石が使われています。このうち黒い石は伊豆半島産の安山岩です。そしてやや黄色がかった石は瀬戸内海の小豆島(しょうどしま:香川県)産の御影石(花崗岩)です。香川県丸亀市で中学高校時代を過ごして、四国香川県を強い思いで故郷の1つとしている私としては嬉しい限りです。



この右手の大きな石が江戸城の中でも最大級となる約36トンの巨石です。やや黄色がかった石なので、瀬戸内海の小豆島産の御影石です。それにしても、よくぞこんなに巨大な石を瀬戸内海の小豆島から江戸まで運んできたものです。輸送にあたったのは福岡藩黒田家、長州藩毛利家、広島藩浅野家、岡山藩池田家といった西国の有力外様大名達で、小豆島産の巨大御影石の輸送には、安全保障上、そうした有力外様大名の財力を削ぐといった意味合いもあったようです。

江戸城内に残る石垣の大部分は、天下普請の時に伊豆半島から切り出され船で送られてきた安山岩ですが、登城ルートの巨岩などは、このように瀬戸内海の小豆島からはるばる船で運ばれてきた御影石(花崗岩)が使われています。大名の登城ルートには、特に隙間なく美しく積まれた巨岩が配されていますが、これも登城する大名の目を意識してのことなのだそうです。中には江戸城普請の総指揮を執った築城の名手・藤堂高虎が陣頭指揮を執った石垣もあるのだそうです。あまりに綺麗に積まれた石垣から、近年の再建ではないかと思う人も多いのですが、ところどころ修復されてはいるものの、基本は江戸時代の石積み、あるいはその復元ということだそうです。凄い技術です。


中ノ御門を通ります。この大きな敷石も小豆島産の巨大御影石で、江戸時代からのものです。デカイ!! この石の上を歴代の徳川将軍も、徳川御三家も、加賀国金沢藩100石前田家の殿様をはじめ、全国各地の歴代大名も、大岡越前守忠相や遠山左衛門尉(金四郎)景元といったお奉行様も間違いなく歩いたわけです。感慨深いものがあります。


……(その7)に続きます。

2018年11月30日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その5)


大手御門です。大手御門は正確には「三の丸大手御門」あるいは「本丸大手御門」と言い、江戸城の正門で、諸大名はここから登城し、三の丸に入りました。勅使の参向、将軍の出入りなどもこの大手御門から行うのが正式だったのだそうです。高麗門前の桔梗濠には大橋が架かっていました。ちなみに、この大手御門から先の濠は大手濠と呼ばれています。大手御門は現在も皇居東御苑のメインゲートとなっています。



大手御門は高麗門と渡櫓型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、櫓門は桁行22(40メートル)、梁間42(7.9メートル)という大きさです。



この大手御門は慶長12(1607)に、当時、伊予国今治藩初代藩主であった藤堂高虎によって13ヶ月ほどかけて作られました。ちなみにこの藤堂高虎は築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに城造りの名人として知られていました。江戸城を近世の城郭として整備する総指揮を執ったのも藤堂高虎でした。藤堂高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比されて語られることがあります。ちなみに藤堂高虎が初代藩主であった四国今治は、私の本籍地です。なぁ〜んか誇らしい思いになります。藤堂高虎が築城した今治城は日本三大水城の1つに数えられる名城です。お濠に海水を取り入れているのが特徴で、クロダイやフグが泳ぐ姿が見えます。このように、藤堂高虎はその場所の地形を活かした築城を得意としていました。


最初の大手御門は藤堂高虎によって築かれたのですが、その後何度も焼失し、再建されています。現在のような枡形門になったのは元和6(1620)の江戸城修復に際に伊達政宗(陸奥国仙台藩初代藩主)や相馬利胤(陸奥国相馬中村藩初代藩主)といった陸奥国の大名達によって再建された時です。その伊達政宗や相馬利胤といった陸奥国の大名達によって築かれた大手御門も明暦3(1657)の明暦の大火で焼失し、現存している大手御門は、その後、万治2(1659)に再建された時のものと考えられています。



徳川家の居城の正門で、将軍も出入りする門だけあって、ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代大名諸侯が、24時間365日、その守衛にあたるなど、江戸城にあるすべての城門のうちでセキュリティーレベルは最高位にありました。番侍10(うち番頭1人、物頭1)が常に肩衣を着て、平士は羽織袴で控え、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組を備えて警戒にあたっていたそうです。現在も大手御門を通るにはセキュリティーチェックを受けないといかず、厳重に警備されています。ちなみに、大手御門の開閉時間は、享保6(1721)の定めによると「卯の刻(午前6時頃)から酉の刻(午後6時頃)まで」と決められていました。



高麗門を潜ると枡形になっていて、右に折れると大きな渡櫓門が構えています。この大手御門に限らず、枡形門はどこも中で右折して進む構造になっています(左折する枡形門はありません)。これは防御上の理由からです。と言うのも、武士は必ず右側に刀を差していました。左利きの武士もいたでしょうが、左利きの武士でも刀を差すのは右側と決まっていました。高麗門を潜って侵入してきた敵はそこで右側に直角に曲がる必要があるのですが、その際に刀を抜こうとすると、実は2アクションになってしまい、戦闘態勢になるのに一瞬遅れが出るのです(試しにそういう状況をイメージしてやっていただけると、お分りいただけると思います)。いっぽう、待ち受ける防御側はすぐに刀を抜いて戦闘態勢に移れるという特徴があります。これが枡形が常に右折構造になっている理由なのだそうです。

城を眺める時は、常に攻める人の立場になって眺めてみると面白い…、これは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんの言葉です。まさにその通りだと思います。なぜ、ここにこういうものがあるのかの謎は、攻める者の立場になって眺めてみるとよく分かります。江戸城は軍事的な要塞としても、当時としては鉄壁の防御態勢を敷いた城でした。


枡形の角のスペースに、かつて渡櫓門の屋根を飾っていた鯱が展示されています。この鯱には「明暦三丁酉」という刻印が施されています。このことから、この鯱は明暦3(1657)の明暦の大火で渡櫓門が焼失した際に、地上に降ろして、ここに鎮座させたものとされています。

ちなみに鯱は、姿は魚で頭は虎、尾ヒレは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いトゲを持っているという想像上の動物のことです。また、それを模した主に屋根に使われる装飾・役瓦の一種のことを鯱と言います。通常、大棟の両端に取り付け、鬼瓦同様守り神とされました。特に建物が火事の際には水を噴き出して火を消すということから、火除けの“まじない”にしたと言われています。


渡櫓門は、その後、第二次世界大戦の戦災で再度焼失しました。現在の渡櫓門は、昭和43(1968)の皇居東御苑の開園に合わせて木造復元により再建されました。残されていた江戸時代の図面に基づき、忠実に復元したのだそうです。復元したものといっても、見事な門です。使われている木材は昔と同じくケヤキ()です。節が1つもないので、相当のケヤキの大木が使われたものと思われます。



11月中旬だと言うのに、大手御門の渡櫓門を抜けたところに桜の花が咲いています。ジュウガツザクラ(十月桜)です。白いジュウガツザクラの向こうには黄色いツワブキと赤いボケの花も咲いていて、綺麗です。当時の江戸城もこのように一年を通して楽しめる様々な植物が植えられていたのだそうです。この先は日本庭園になっています。



「三の丸尚蔵館」です。日本の皇室は、京都御所で儀式の際に用いる屏風や刀剣、歴代天皇の宸筆などの伝来品のほか、近代化以降は東京の皇居宮殿、御所で用いた調度品、近代以降に華族、財界人、海外の賓客などから献納された美術品、院展などの展覧会で買い上げた美術品など、多くの美術品や文化財を所有していました。こうした皇室所有品は「御物(ぎょぶつ)」と称されます。第二次世界大戦直後、正倉院と正倉院宝物、京都御所、桂離宮、修学院離宮、陵墓出土品や古文書・典籍などかつての皇室財産は相当数が国有財産に移されました。さらに、昭和64(1989)17日、昭和天皇が御崩御なされたことに伴い、残された美術品類を国有財産と皇室の私有財産に区分けする必要が生じました。そして、「三種の神器」を始め、歴代天皇の肖像・宸筆、皇室の儀式に用いる屏風や刀剣類など、皇室にゆかりの深い品々は皇室経済法第7条により、引き続き「御物」として皇室の私有財産とみなされたのですが、それ以外の絵画、書、工芸品などの美術品類約3,180(6,000)は平成元年(1989)6月、皇室より国に寄贈されました。これらの国有財産となった美術品類を適切な環境で保存研究し、一般に公開する目的で平成5(1993)11月に皇居東御苑内に開館した施設が、この「三の丸尚蔵館」です。


皇宮警察の武道場です。天皇陛下の座られる御椅子も用意されていて、今上天皇陛下も時々稽古の様子をご覧になられるのだそうです。


……(その6)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...