2018年11月26日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その1)


1110()、『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の第8回に参加してきました。今回第8回はシリーズのメインとも言える回で、和田倉御門楠木正成像二重橋西の丸大手御門西の丸下乗門伏見櫓坂下御門内桜田御門(桔梗御門)→桜田二重櫓大手御門大手門三ノ御門中ノ御門御書院御門(中雀御門)→本丸御殿跡→富士見櫓松の大廊下跡富士見多聞天守台跡北桔橋御門梅林坂門平川御門と江戸城本丸に向けて、大名達の登城ルートを中心に歩きました。

さすがに江戸城の中心部、見どころがいっぱいあり過ぎて、歩き終えた感想を先に書くと、おなかいっぱい…って感じです。さてさて、うまくブログにまとめきれるかどうか…。

  
 今回【第8回】のスタートポイントは、前回【第7回】のゴールだった和田倉門。【第7回】の最後にも書きましたが、和田倉門内には、幕末期、陸奥国会津藩23万石 松平容保の上屋敷がありました。松平容保といえば、幕末期に京都守護職として京の都の治安維持に努めた人物です。ですが、その結果としては……。気の毒としか言いようがありません。



明治維新後、この陸奥国会津藩松平家の上屋敷跡には旧幕府軍を威圧するために軍事防衛を司る兵武省が置かれました。しかし、明治5(1872)226日、その兵武省から出火。丸の内、銀座、京橋、築地と約28万坪を消失させる「銀座大火」を引き起こしました。そこで、新政府は不燃化都市建設を目指して、我が国初の歩道と車道を区別した幅27メートルの道路と、その道路に向かい合うようにして銀座煉瓦街通りが建設されました。この「銀座大火」に関しては会津落城の怨念説が巷で囁かれたと言われています。

現在、この陸奥国会津藩松平家の上屋敷跡は和田倉噴水公園になっています。和田倉噴水公園は昭和36(1961)に当時の皇太子殿下(現在の今上天皇陛下)の御成婚を記念して噴水が作られたのが始まりで、その後、改修され、様々な噴水が美しい水の景色を演出しています。


その和田倉噴水公園からは桔梗濠を挟んで桜田巽櫓、そしてその先に内桜田御門と富士見櫓が小さく見えます。富士見櫓は江戸城旧本丸の南東端に位置する櫓で、江戸城で現存する唯一の三重櫓です。天守閣が明暦3(1657)の大火(明暦の大火)で焼失した後、再建されなかったので、この富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられていて、今でも多くの人が江戸城天守閣と言うと、この富士見櫓をイメージされるのではないでしょうか。現在の富士見櫓は明暦の大火の後、万治2(1659)に再建されたもので、時の第4代将軍徳川家綱がここを江戸城の天守とみなす…としたことから、これ以降諸藩では再建も含め天守閣の建造を控えるようになり、事実上の天守閣であっても、徳川将軍家に遠慮して、「御三階櫓」と称するなど高さ制限を自主的に設けるようになりました。

江戸時代から天守閣が現存する城は全国で12あり、このうち弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守閣がそれにあたり、禄高のわりには天守閣が小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。国宝に指定されている松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城の5つの城は全て江戸時代以前に建設された天守閣が残る城であり、それ以外の丸岡城と高知城の2つの城の天守閣は江戸時代に建てられたものですが、万治2(1659)より前に建てられたものなので、その限りではありません (また、近年になって復元された城の天守閣は、どうしても一番大きかった時代のもので復元する傾向にあり、参考になりません)

このあたりのことは富士見櫓の項で改めて書かせていただきます。


和田倉噴水公園の横を「行幸通り」が内濠を横切るように伸びています。この行幸通りは東京駅正面の丸の内中央口から皇居外苑を抜け、西にある皇居に向かってまっすぐ伸びる道路です。この道路は、大正12(1923)の関東大震災の復興再開発の際に、皇居から東京駅まで一本で行けるようにと作られた道路で、大正15(1926)に開通しました。内濠の埋め立ては難工事であったと伝えられています。当初は中央部分は高速車線で、外側にイチョウ並木、緩速車線、歩道と配置されていましたが、後に高速車線は天皇の行幸(いわゆる外出)および信任状捧呈式に向かう外国大使の専用道とされ、一般車の立ち入りは禁止されました。その後、専用道としての使用機会が減ってきたことから、再整備された後に平成22(2010)に歩道として一般開放され、現在に至っています (ただし、天皇の行幸時などには通行が制限されます)。また、地下には「行幸地下ギャラリー」と呼ばれる地下通路が平成19(2007)に開通しています。これはもともと駐車場スペースだったものを歩道に再整備したものです。

東京のど真ん中にあるこの行幸通りをほぼ毎月のように2頭立ての臙脂(えんじ色)をした菊の御紋章の入った儀装馬車の車列が走り抜ることがあるのをご存知でしょうか? 皇居「松の間」で執り行われる信任状捧呈式(しんにんじょうほうていしき)に向かう外国の駐日特命全権大使が乗った馬車です。

信任状捧呈式とは、着任した特命全権大使または特命全権公使が、派遣元の元首から託された信任状(この者を外交官と認めて頂きたい旨が記された、元首からの親書)を、派遣先の元首に提出する儀式のことです。日本における信任状捧呈式は、日米和親条約による開国から大政奉還までは征夷大将軍が執り行ってきましたが、王政復古の大号令以降は、天皇陛下が執り行っています。日本国憲法の下でも、日本に駐箚する特命全権大使や特命全権公使の信任状は、日本国憲法第7条第9号に基づき天皇が接受することになっています。という事で、日本国憲法に明文化されていませんが、信任状捧呈式を執り行うということは、日本の元首は言うまでもなく天皇陛下であるということです。これは国際常識になっています。ちなみに、日本の外交官も海外へ大使などとして派遣される場合は、天皇陛下の認証した信任状を持参します。

日本の信任状捧呈式では、新たに赴任した各国の大使はJR東京駅から皇居宮殿南車寄までこの行幸通りをまっすぐ西に進むルートが必ず使われます。ふだんは通行止めにされている行幸通りの中央部分の4車線ほどのスペースがとかれ、交通規制が敷かれます。その中を東京駅から2頭立ての臙脂(えんじ)色の菊の御紋章の入った儀装馬車がゆっくりと走り抜けます。この時、大使の随行員が乗る馬車と警護の皇宮警察及び警視庁の騎馬隊を加えた馬車列を編成します。馬車を操るのは宮内庁の職員です。駐日大使館に着任したばかりの外国の特命全権大使(夫妻)はこの馬車に乗り、皇居へ向かうわけです。沿道の人が手を振れば、大使夫妻は笑顔で手を振り返してくれるのだそうです。

実はこの間の移動手段としては自動車か儀装馬車を選ぶことが出来ることになっているのですが、ほとんどの大使が馬車での皇居移動を選ぶのだそうです。当然ですね。当初は馬車が大使館まで迎えにいっていたそうなのですが、交通事情によりそれが不可能になり、廃止の声が出ました。しかし、各国の大使からの存続の要望があまりにも強かったことから、コースを短縮して残すことになったのだそうです。現在はJR東京駅丸の内口貴賓玄関から皇居宮殿南車寄までの間を送迎しています。各国大使はJR東京駅丸の内口貴賓玄関まで大使館の自動車で来て、そこで馬車に乗り換えます。面倒なことのように思えますが、それでも馬車を選ぶのだそうです。信任状捧呈式の際に新任大使にこのような馬車での送迎が行われている国は、現在では日本のほかにはイギリス、オランダ、スペインなど、ごく一部の立憲君主国に限られているようで、各国とも馬車での送迎が経験できる駐日大使は外交官の憧れのポストになっているのだそうです。

ちなみに、送迎に使われる馬車の大部分は明治後期から昭和初期に製造されたもので、内外装共に美術品的な価値が高い煌びやかなものです。

なお、日本の信任状捧呈式は、皇居宮殿「松の間」にて執り行われます。新任の特命全権大使や特命全権公使は、そこで派遣元の元首からの信任状を、正礼装のモーニング姿の天皇陛下に対して捧呈します。天皇陛下は、傍らに侍立する日本の外務大臣にその信任状をお渡しになるとともに、特命全権大使や特命全権公使に対してお言葉をかけられます。そして、随行員等が紹介され、大使は天皇陛下と握手して式は終わります。また、前任の特命全権大使や特命全権公使の解任状を捧呈する「解任状捧呈式」も、これに併せて執り行われます。この間、約10分です。式が終わると大使ら一行は馬車でもときた道をJR東京駅丸の内口貴賓玄関まで戻ります。

日本の皇室は世界最古にして最後の王朝。天皇陛下の権威はローマ法王と並んで世界のツートップとの言える存在です。これは世界常識になっています。伝統的な馬車に乗って天皇陛下のもとへ行き、信任状を捧呈する。これがどれほど栄誉なことか、知らぬは日本人ばかりなのかもしれません。

最近は今上天皇陛下がご高齢なため、お身体を気遣って信任状捧呈式は数ヶ国分が1日にまとめて執り行われることが多く、30分ごとに別々の国の大使が馬車に乗って皇居に向かうこともあるのだそうです。

私は信任状捧呈式に臨む各国大使を送迎する儀装馬車の車列が行幸通りを通ることは知ってはいたのですが、平日に執り行われることなので、これまで一度も見たことはありません。是非一度見てみたいと思っています。いつ信任状捧呈式があるのかは1週間前に宮内庁のHPに掲載されるそうなので、それをチェックして近いうちに見に行きたいと思います。


……(その2)に続きます。

2018年11月24日土曜日

甲州街道歩き【第10回:猿橋→真木】(その6)

笹子川です。標識の向こうに見える超近代的な建物はNECプラットフォームズ株式会社の大月事業所です。昭和61(1986) NEC伝送通信事業部直轄の通信用デバイス専用工場として操業開始を開始しました。光デバイスが得意で、海底光ケーブルの中継器や小型光電気ハイブリット製品を作っています。下花咲宿と上花咲宿の間の宿間も短く、この笹子川の標識が立っているあたりが上花咲宿の江戸方(東の出入口)でした。そして、このあたりに上花咲宿の本陣がありました。現在は本陣の跡を示すものは何も残っていません。


ここから国道20号線から右へ入る道があるのですが、これが旧甲州街道でした。しかし、この道は40メートルほどで行き止まりになっているそうなので、仕方なく国道20号線を進みます。


しばらく歩くとちょっと離れた右側に大きな廿三夜碑があります。先ほど右に分岐した旧甲州街道の道沿いですね。その廿三夜碑の左側には数十基の石碑が並び、ここが旧甲州街道だよ…とアピールしているようです。


山梨県の郡内地域である富士吉田、西桂、都留、大月、上野原は昔から上質の織物の産地でした。古くは、平安時代の法令集「延喜式」に甲斐の国は布をもって納めるよう記されているほどです。その後、南蛮貿易でもたらされた絹をもとに、この地方一帯で甲斐絹(かいきぬ)として農家が絹織物を自家生産を始め、寛永10(1633)に上野国総社(そうじゃ)から郡内に入部した秋元氏が殖産興業として奨励したことから盛んになり、井原西鶴や近松門左衞門の作品にも「郡内織」「郡内縞(じま)」という記述がみられるほど著名になりました。明治時代以降、「甲斐絹」と一般に呼ばれるようになりました。花咲はその郡内織の中でも白絹の上物を製織したところとして知られていました。


「花折」というバス停があります。昔、この地に桜の大樹があって、枝葉が広がり、花が咲くと旅人が木陰に憩い、枝を手折ってかざしたところからこの地を「花折」と呼び、これがこの地の地名になったと言われています。また、「花咲」という宿場に付けられた優雅な地名もこの花折にあった桜の大樹から付けられたと言われています。(また、ここが笹子川が桂川に合流する地点で、2つの川に挟まれた端(はな)の崎にあるところから花咲という地名が付けられたという説もあるようですが、桜の大樹に由来するという説のほうが優美でいいですね。)


天保14(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、上花咲宿の宿内家数は71軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠13(6軒、中4軒、小3)で、宿内人口は304(150人、女154)の宿場でした。前述のように、先ほど通った下花咲宿との合宿(あいのしゅく)で、問屋継立業務は月のうち上15日を勤めました。しかし、元々の上花咲宿のあった地点には、現在、中央自動車道と中央自動車道富士吉田線との分岐合流点である大月ジャンクションがあり、街道筋には往時の面影はほとんど残っていません。

かつてはこの上花咲宿からも南に尾曽後峠(おそごとうげ、天神峠)を越えて鎌倉に向かう旧鎌倉街道が延びていました。ここがその追分(分岐点)でした。


大月警察署の前を過ぎたあたりで、左手に坂道を登り、民家の間を進んでいる生活道路のような細い道があります。実はこれが旧甲州街道です。


旧街道は明治以降の鉄道や国道の建設や都市開発、場合によっては河川氾濫や斜面崩壊といった自然災害によって寸断や消滅しているところが多々あるのですが、ここから笹子峠までの間は特に激しく、いたるところで寸断されていて、旧街道を正しくなぞって歩くことができない状態です。というのも、ここから笹子峠までの区間は笹子川の侵食によってできた渓谷のような地形で、旧甲州街道はここしか通れないと言った狭い平地の部分を縫うように進んでいました。明治以降、ここに鉄道(現在のJR中央本線)や、自動車が走行可能な国道20号線、さらには中央自動車道等を建設するにあたっては、どうしても旧甲州街道と同じルートを通って建設するしかなく、それによって旧甲州街道はいたるところで分断され、さらに消滅してしまっているところがあるのです。

ここからは旧甲州街道はJR中央本線を挟んだ南側を通っていました。写真では国道20号線と並行するように2本の鉄柵が伸びているのがお分かりいただけると思いますが、手前に伸びている鉄柵がJR中央本線の鉄柵、その奥、鉄道の線路の上に伸びている鉄柵が旧甲州街道の鉄柵です。旧甲州街道もこのあたりはJR中央本線のすぐ向こう側を通っているのですが、残念ながらその先で道が消滅して残っておらず、今は通行することができません。


仕方ないので、JR中央本線や旧甲州街道と並行するように延びている国道20号線を歩きます。


笹子川を真木橋で渡ります。


大月市真木歩道橋の右手に「親鸞聖人舊跡太布名号」と刻まれた石碑があります、ここから北に向かって道なりに約1.5kmほど進むと福正寺という寺院があり、そこには親鸞聖人が白布に南無阿弥陀仏と描いた名号布が納められた名号堂があるのだそうです。もともと真言密教の寺院であった福正寺は、当時の住職が親鸞聖人と出会い、感動して浄土真宗の寺院となりました。親鸞聖人は白布に「南無阿弥陀仏」と名号を書かれました。これが「太布(たふ)の名号」と呼ばれているもので、今でも年1回奉懸して法要が勤まっているのだそうです。


その「親鸞聖人舊跡太布名号」と刻まれた石碑が建っている場所から国道20号線を少し進むと、右手に石段が見えてきます。その石段を上ると「真木(まぎ)諏訪神社」が鎮座しています。真木諏訪神社の創建は不詳ですが古くから諏訪大社(信濃国一宮)の分霊が勧請され、真木村の産土神として信仰されてきた神社で、当時は奥宮や下宮があった大社として社運が隆盛していたと思われています。当初は狩猟神として信仰されていたようで、狩場となった複数の山々に祭られていましたが、1ヶ所に纏められ、その後周辺が牧として整備された事で牧場の守護神となり、中世は領主から武神として信仰されていたようです。


現在の入母屋造りの真木諏訪神社本殿は文政10(1827)に真木村出身の金左衛門が棟梁として再建されたもので、一間社流造、銅板葺(元檜皮葺)、正面屋根には千鳥破風が設けられ、一間棟唐破風向拝が付いている立派な建物です。社殿全体には禅宗の高僧の伝説や道教の神仙などを模した彫刻や、龍や獅子、植物など縁起の良い彫刻が施され、八王子出身の腕利きの彫師・藤兵衛父子が手掛けたとされます。甲府県内でも大月方面は武蔵国に接していることもあり江戸系の大工が携わっている例が多く、文化の交差している点も注目される建物です。


それにしても、見事な彫刻の数々です。



ちなみに、これって「瓢箪から駒」を描いたものです。真ん中下に割れた瓢箪があり、左上にその割れた瓢箪から飛び出してきた馬()が天に向かって駆け上る様子が描かれています。分かりますか?


真木諏訪神社本殿は江戸時代後期に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重な事から昭和49(1974)に大月市の指定文化財に指定されています。



この日の甲州街道歩きはこの真木諏訪神社がゴールでした。神社の境内でストレッチ体操を行い、境内下で待っていた観光バスに乗って埼玉に戻りました。駐車場の前を流れる川は桂川の支流の笹子川のそのまた支流の真木川で、切り立った深い渓谷は紅葉が進んでいました。


この日は19,699歩、距離にして14.3km歩きました。この日のコースでは猿橋宿、駒橋宿、大月宿、下花咲宿、上花咲宿と5つの宿場を通ってきたのですが、どれも規模の小さな宿場ばかりで、めぼしい見どころもなく、ほとんど国道20号線を歩く、言ってみれば甲州街道を完歩するための繋ぎの区間と言ってもいいコースだったので、果たしてブログは書けるのかと思っていたのですが、まぁ〜それなりに書けるものですね。

次回【第11回】は真木諏訪神社を出発して下初狩宿、中初狩宿、白野宿、阿弥陀海道宿という小さな宿場を通り、甲州街道最大の難所であった笹子峠への登り口である黒野田宿まで歩くのですが、あいにく私はどうしても外せない用事が入っているので参加することができません。ここまで皆勤賞できた甲州街道歩きですが、ここで途切れることになってしまいました。まぁ、ウォーキングリーダーさんの話によると、【第11回】のコースも、基本国道20号線に沿っているということなので、機会があれば自力で歩いて、空白になる区間を埋めたいと思っています。

と言うことで、私の甲州街道歩きは次々回【第12回】の笹子峠越えになります。ただ、笹子峠はこれから冬季、雪に覆われて通行不能となるため、【第12回】の笹子峠越えは年が明けた3月下旬になる予定です。ついに甲州街道最大の難所と言われる笹子峠越えです。楽しみです。

今日も甲州街道歩きの道中は曇り一時晴れで、一度も雨具を使うことはなかったのですが、さいたま市に戻ってきたら小雨が降っていました。ウンウン、「晴れ男のレジェンド」はまだまだ健在です。


――――――――〔完結〕――――――――


2018年11月23日金曜日

甲州街道歩き【第10回:猿橋→真木】(その5)

桂川を新大月橋で渡ります。おやおや、新大月橋のたもとに「鮎供養」と刻まれた石碑が建っています。ここらの桂川では鮎がいっぱい獲れたのでしょうね。


桂川の上流側を見ると、先ほど立ち寄った追分がすぐそこに見えます。


桂川の下流側です。桂川は新大月橋の先で大きく右(東方向)に曲がっているのですが、その湾曲部で左(西)から流れてくる支流と合流します。この支流が笹子川。2回後の甲州街道歩きで越える予定の甲州街道最大の難所である笹子峠を源流として流れてくる川です。笹子の地名が出てきて、いよいよ笹子峠越えが現実味を帯びてきました。


新大月橋を渡り終えると、右側から合流してくる狭い道があります。これが旧甲州街道でした。実は、先ほど江戸時代には大月橋はなかった…ということを書きましたが、当然のこととしてこの新大月橋もありませんでした。では旧甲州街道はどこを通っていたかと言うと、追分からまっすぐ北に進み、急な坂道を下り、そこで桂川を渡って、桂川の対岸を大きく迂回してこの場所に出てきました。現在はそのルートで桂川を渡る手段がないので、新大月橋を渡るしかありません。従って、この新大月橋から先は再び旧甲州街道になります。


すぐに大月橋を渡ってきた国道20号線と合流します。すぐ左手に「甲州街道 下花咲宿」の標柱が立っています。このあたりの甲州街道は小規模な宿場が連なっていて、宿場間の距離も短いのですが、それにしても短い。大月橋のたもとの追分が大月宿の諏訪方(西の出入口)だったのですが、その大月橋を渡ったと思ったら、すぐ次の下花咲宿の江戸方(東の出入口)です。これは現在のことで、大月橋が架かっていなかった江戸時代には、旧甲州街道は、前述のように、もっと北のほうで桂川を渡り、対岸を大きく迂回するルートを辿っていたので、それなりに宿間の距離はあったようです。しかし、昔はここからだとおそらく大月宿の追分がすぐ先に見えていたはずで、旅人達は大いに不思議に思ったことでしょうね。


標識の後ろには夥しい数の石仏石塔群があります。近隣の旧甲州街道沿いに建っていた石仏石塔を国道20号線の拡幅工事の際にここに一箇所に集めて祀ったものと思われます。その中に天保13(1842)に建立された松尾芭蕉の句碑があります。句碑には
「しばらくは 花の上なる 月夜かな」

という句が刻まれています。


ここに独特の個性的な字体で「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が建っています。旧街道歩きでは時々見かける徳本上人の念仏碑です。徳本上人(1758年~1818)は江戸時代後期に全国を行脚し、念仏講を広めたとされる浄土宗の念仏行者で、全国的にも高名であり、ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えて日本各地を行脚し、庶民の苦難を救った清貧の思想の持ち主です。庶民からは「生き仏様」と慕われていたのだそうです。紀州(和歌山県)の出身で、信者は近畿地方に多く、東海、北陸、信州、関東地方にまでも広がり、現在でも「徳本講」は引き継がれ、その気高い生き方は時代を超えて人々に大きな影響を与えていると言われている方です。


念仏碑は、徳本上人が巡教された土地に多く建てられていますが、建立の狙いは、旅の交通安全、海上安全、病魔退散、子育て、古戦場の慰霊等と実に様々で、それぞれの人々の願いに即したものなのだそうです。徳本上人の書かれた文字は、丸みを帯び、筆の終わりが跳ね上がっているので縁起がよいといわれ、「徳本文字」と呼ばれています。「南無阿弥陀仏」の文字の下に「徳本」、そして田という字を丸くした様な花押も彫られています。

その石塔石仏群の並びに、江戸の日本橋を発ってから24里目の「下花咲の一里塚」があります。塚は辛うじて残っていますが、一里塚という面影は全くなく、表示も出ていないので、見逃しそうです。それにしても24里目の一里塚ですか24里と言うことは約96km。区切りの25里目(100km)はまもなくです。


前述のように、この下花咲の一里塚のあたりが下花咲宿の江戸方(東の出入口)でした。下花咲宿は天保14(1843)の甲州道中宿村大概帳によると下花咲宿の宿内家数は77軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠22(6軒、中5軒、小11)で、宿内人口は374(202人、女172)でした。下花咲宿と次の上花咲宿は合宿(あいのしゅく)で、問屋継立業務は月のうち上15日を上花咲宿が、下15日を下花咲宿が勤めました。


下花咲宿で本陣と脇本陣を勤め、問屋・名主も兼ねて勤めた星野家の住宅です。幕末には薬の商いも行っていたほか、農地解放前には、25町歩(25ヘクタール)ほどの田畑を所有し、養蚕では100(375kg)ほどの収穫があったと伝えられています。江戸時代には、甲州勤番をはじめ大名や幕府の役人らが宿泊しましたが、天保6(1835)の火災で焼失し、その後、再建されました。現在の母家は、焼失以前のものと比べると、規模は少し小さくなりましたが、上段の間を含む間取りと部屋数は変えず、街道により近づいて建てられました。明治13(1880)618日には、明治天皇が京都へ御巡幸の際に小休所にあてられました。江戸時代から続く荘厳な佇まいは、由緒ある歴史を今に伝えます。
 

甲州街道に現存する本陣の建物は、日野宿、小原宿とこの下花咲宿の3ヶ所のみで、味噌蔵、文庫蔵の付属家屋とともに3棟が国の重要文化財に指定されています。文庫蔵横に植えられたモミジが色濃く紅葉しています。由緒ある建物と相まって美しい光景です


是非、本陣の中を見学したかったのですが、あいにく「都合により当分休館します」という張り紙が玄関に貼られていて、残念ながらそれはかないませんでした。


稲村神社です。下花咲宿も小さな宿場で、もうこのあたりが下花咲宿の諏訪方(西の出入口)でした。



……(その6)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...