昼食を摂った後は観光バスで接待茶屋のところまで戻り、街道歩きの再開です。高度を調べてみると、約1,300メートル。男女倉口の登山口の標高が1,100メートルだったので、男女倉口から200メートル、和田宿の標高が820メートルだったので、和田宿からは480メートル登ってきたことになります。和田峠の頂上は1,531メートルなので、残りは約230メートル。ゴールまであとわずかです。
中山道を示す道標と接待茶屋に関する説明版が立っています。
和田峠接待茶屋の近くに「近藤谷一郎巡査
殉職の地」の碑が建てられています。近藤谷一郎巡査は明治22年(1889年)2月4日、長野県巡査を拝命し、同年3月9日に巡査教習所を卒業して、上田警察署丸子分署詰めとなりました。上田警察署丸子分署に勤務中の明治22年8月22日、窃盗犯人を下諏訪警察分署へ護送する途中、当地においてやにわに逃走した犯人を捕らえようとしてこの付近の谷川で格闘となり、犯人の投げた石を顔面に受けて倒れ、さらに近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職しました。享年22歳。犯人は頭部を負傷しこの接待茶屋に逃げ込んできたのですが、茶屋の主人が近藤巡査に護送されていった犯人であることに気付き、通りがかった住民2人と取り押さえ、人力車に犯人を乗せて和田村巡査駐在所に届け出て事件が判明しました。近藤巡査の遺体は翌8月23日に捜索隊によって谷川の中で発見されました。治安維持の崇高な使命にその尊い身命を捧げた若き近藤谷一郎巡査の霊を慰めるため、和田村では翌年から毎年8月22日の命日に村民をあげて慰霊祭を挙行し続け、殉職から48年が過ぎた昭和12年(1937年)、丸子警察署庁舎改築を機に、依田窪(現在の長和町)全町村長の発意により、この地に「殉職警察官近藤谷一郎君之碑」と称する慰霊碑が建立されました。…と、説明書きに書かれています。実際の殉職した場所の碑はこの先にあるのだそうです。
接待茶屋から旧国道を100メートルほど歩き、左の草道に入っていきます。入り口に「常夜灯」が設置されています。この常夜灯は昭和55年(1980年)に再建されたもので、元々ここにあった常夜灯は嘉永4年(1851年)の山津波で流されてしまったのだそうです。
時代劇のロケに使われそうな山道が続きます。破れた三度笠を被った木枯し紋次郎が「あっしには関わりのないことでござんす」という決め台詞を吐いて、ただひたすら急ぎ旅を続けるシーンが似合いそうな山道です。往時もこんな感じだったのでしょう。
ところどころに石畳の道が残されています。石畳の道と言っても、ほとんどが雑草に隠れています。とは言え、よく整備された歩きやすい快適な道です。
幾つかの沢を木橋で渡ります。
接待茶屋の近くに「殉職の地」の碑が建てられていた近藤谷一郎巡査が実際に殉職した場所がここです。
若き近藤谷一郎巡査はこの谷川で脱走しようとした犯人と格闘になり、犯人の投げた石を顔面に受けて倒れ、さらに近藤巡査の所持する剣で腹部を切られて殉職したのですね。
さらに先に進みます。東餅屋まで1.2kmですか…。ゴールまでもうちょっとです。
こんな感じの山道を黙々と登っていきます。勾配がかなりキツく、息があがります。
街道脇を流れる和田川も源流が近づいてきました。
途中に限りなく廃墟に近い休憩舎(避難小屋?)もあります。
このあたりから苔むした滑りやすいかなり大きめの石がゴロゴロしている坂に変わっていき、少し歩きづらくなります。
街道脇を流れる和田川も源流近くなってきました。滝のようになって流れています。
和田峠の頂上が近づいてきて、最後の“胸突き八丁”とでも言うのでしょうか、かなり傾斜がキツクなってきました。石畳の上にコケ(苔)が付いていて滑りやすくなっていますが、さほど危険ではありません。それよりも息があがって、ちょっと苦しくなってきました。
この左手に高地性の湿地があり、遊歩道が整備されています。この湿地からも「和田峠遺跡群」といって縄文時代のものと推定される黒曜石の石器が幾つも出土しているのだそうです。
接待茶屋跡から沢沿いの道を右岸・左岸と渡り返しながら緩やかに40分ほど登っていくと、苔むした道が途切れて、しばらくすると谷間から広い高原に移る街道の脇に江戸の日本橋から数えて52番目の「広原一里塚」があります。塚跡らしきものが南塚のみ現存していて、北塚は不明です(北塚らしいものの跡は残っていますが、確証はないとのことです)。もちろん塚木は残っていません。かつてこのあたりは、笹と萱が生い茂る原であったそうで、加えて降雪期には一面の雪の原と化して道も埋もれ、この一里塚が旅人にとってのよい道標となったのだそうです。
この先から道はきちんと舗装された現代の“石畳道”となり、再び国道142号線と合流して進みます。
合流した先に今は廃墟と化した「東餅屋(もちや)」のトライブインがあります。かつてここには5軒の茶屋があって繁盛していたそうです。寛永年間(1624年~1644年)には江戸幕府が1軒につき一人扶持(いちにんぶち)を給付し、峠越えで難渋する旅人達の救助にあたっていました。“一人扶持”とは武士1人1日の標準生計費用を米5合と算定して、1ヶ月に1斗5升、1年間に1石8斗、俵に直して米5俵を支給することで、茶屋としての収入以外にそれが給付されていたということは、それなりに保護されていたということです。そういうことからも江戸幕府における中山道和田峠の重要性が窺えます。幕末には茶屋本陣が置かれ、土屋氏が本陣を勤めていました。明治維新後は交通機関が発達して中山道を歩いて旅する人が減り、5軒の茶屋はすべて廃業してしまったそうです。しかしこの東餅屋茶屋跡から石垣を一段上がったところに昼食を摂ったドライブイン『和田峠茶屋』が復活していて(ここも5軒あった茶屋の跡地です)、そこで名物だった力餅も売られています。東餅屋の石垣は昔と変らず、その面影を今も残しています。
和田峠は碓氷峠と並んで『中山道最大の難所』の筈なのですが、ここまでさほど難儀もせずに、さすがにちょっとキツかったですが、気持ちよく登って来られました。第17回でこの和田峠から下諏訪宿に向かって下っていくのですが、既に3年前にその区間を歩いた時の感想から言うと、下るのは楽だけれど、ここを登るのはかなり大変なことだっただろうな…って思っています。碓氷峠は京都側からが登りの区間が短くて全然楽なのですが、江戸側からだと距離も長いうえに傾斜の急な山道が続いてキツく、反対に和田峠は江戸側からだと距離は長いものの傾斜はさほどキツくなくて歩きやすく、京都側からだと厳しい急な登り坂が続いてキツいってことのようです。なるほど、京都側からだと和田峠が『中山道最大の難所』で、江戸側からだと碓氷峠が『中山道最大の難所』ってことのようですね。
ここが今回のゴール。そして、これで私の中で起点である江戸の日本橋から中間地点で36番目の宿場である木曽の宮ノ越宿まで67里32町13間(266.6km)が一本に繋がりました。達成感が半端ないです。さぁ〜、中山道の残りは宮ノ越宿から京の三条大橋までの68里1町54間(約267.3km)。俄然やる気が戻ってきました。この日は13.5km、歩数にして18,436歩、そしてなにより標高差にして約710メートルを歩きました。
和田峠の東餅屋茶屋跡から観光バスに乗って東京駅に戻る途中、中部横断自動車道佐久南ICすぐ近くの道の駅『ヘルシーテラス佐久南』にトイレ休憩も兼ねて立ち寄りました。目の前に雄大な浅間山の風景が広がっています。よく見ると山頂あたりから噴火と思われる白煙が立ち昇っているのが見てとれます。
和田峠頂上近くの東餅屋茶屋跡を私達を乗せた観光バスが出たのが15時頃。中部横断自動車道、上信越自動車道、関越自動車道、東京外環自動車道、首都高速5号線というルートで東京駅丸の内口まで戻ってきたのですが、途中激しい渋滞に巻き込まれて東京駅丸の内口に到着したのは20時50分頃。6時間ほどかかってしまいました。ですが、心地良い疲れと達成感で道中はほとんど爆睡状態でした。東京駅丸の内口周辺は今年もイルミネーションが始まっています。とても綺麗です。
JR東京駅からは上野東京ライン、埼京線というルートで自宅に帰りました。その車中で考えていたことは、「さて、次はどこを歩こう? せっかく私の中で中山道が木曽の宮ノ越宿まで繋がったので、京の三条大橋目指して西へ歩くか、はたまた松尾芭蕉の「奥の細道」に倣って奥州街道を北へ歩くか……」、道中を想像しながらあれこれ考えるのも旧街道歩きの楽しみです。
――――――――〔完結〕――――――――
0 件のコメント:
コメントを投稿