笹一酒造を出て、阿弥陀海道宿の宿内を進んでいきます。JR笹子駅入口です。阿弥陀海道宿は小さな小さな宿場で、このあたりが諏訪方(西の出入口)でした。往時を偲ばせるものはほとんど残っていません。
で、このJR笹子駅を過ぎたあたりが、次の黒野田宿の江戸方(東の出入口)でもありました。天保14年(1843年)に編纂された「甲州道中宿村大概帳」によると、黒野田宿は家数は79軒で、人口は334人。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒という小さな宿場でした。前述のように、手前の白野宿と阿弥陀海道宿との3宿で人馬の継ぎ立て等の問屋業務を毎月1〜15日は黒野田宿、16〜22日は阿弥陀海道宿、23〜30日は白野宿というように分担して務めていました。甲州道中最大の難所である笹子峠越えを控えて、たいそう賑わった宿場だったそうなのですが、今はその賑わいの跡を偲ばせるものはほとんど残っておらず、鄙びた田舎町って感じです。
黒野田宿の町並みは現在は国道20号線と重なってしまったためか歴史を感じさせるような格子戸の古民家などを見ることはできません。しかし全体として旧街道の雰囲気を微かに感じることはできます。
国道20号線の緩い登り坂を上って行くと、火の見櫓の下に「笠懸け地蔵」と呼ばれる変わった形の石地蔵が祀られています。頭に石の笠を載せているのですが、「地蔵」というより「笠懸け小僧」とでも言った方がピッタリな感じです。この笠懸け地蔵、安政2年(1855年)に創建されたもののようです。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)にかけては日本を揺るがす大事件が起きた年で、安政元年2月13日にはペリーが前年に引き続き黒船に乗って江戸湾に再来。3月3日には日米和親条約を締結しました。いわゆる「開国」です。同年4月6日には京都の大火により内裏を焼失。6月15日、安政伊賀地震、11月4日には安政東海地震、翌11月5日には安政南海地震(稲むらの火のモデル)、11月7日には豊予海峡地震…と甚大な被害をもたらす巨大地震が立て続けに発生しました。これらの地震は、南海トラフを震源とした地震であると推定されています。そして、12月21日には日露和親条約も締結されました。翌安政2年にも大きな地震は相次ぎ、2月1日には飛騨地震、10月2日には安政江戸地震が発生し、江戸小石川の水戸藩邸で、水戸学の大家で全国の尊皇志士に大きな影響を与えたとされる藤田東湖・戸田蓬軒が圧死しています。このように世情が極めて不安定な時期で、この笠懸け地蔵にも世情の安寧を願うこのあたりの住民の思いが込められているのかもしれません。
黒野田宿の本陣跡です。立派な屋敷門です。ここにも明治天皇が巡幸の際に一泊した記念碑が立っています。笹子峠越えを控えて、ここで一泊なさったのでしょう。
ところで、有名な浮世絵画家の安藤広重もこの黒野田宿に宿泊したことがあったようなのですが、そこでかなりご立腹の様子ようです。安藤広重の甲州道中記には「扇屋へ行く、断る故若松屋といえるに泊まる。……壁は崩れ床は落ち、破れ行灯に欠け火鉢……」と散々にこき下ろして書いてあるのだそうです(笑)
黒野田橋で笹子川を渡ります。右手にJR中央本線の鉄橋も見えます。線路はこの鉄橋を渡ると、このまま笹子トンネルに入っていきます。
普明禅院です。前述のように阿弥陀海道宿の宿名の由来となった行基が彫ったと言われる阿弥陀如来像が明治40年(1907年)に発生した山津波によって阿弥陀堂が倒壊したことによってこちらに移され、本尊として祀られています。
寺の門柱の脇に「黒野田一里塚跡」があり、「江戸日本橋より二十五里」と刻まれた石柱が立っています。ですが、実際は「江戸の日本橋を出てから26里目」の一里塚です。塚木は松だったそうなのですが、一里塚の跡は何も残っておりません。
国道20号線を先に進みます。「動物に注意」の標識も出てきました。笹子峠の山が目の前に迫ってきています。確かに野生の動物が出てきそうなところです。
笹子トンネル事故慰霊碑の標識が出ています。平成24年(2012年)12月2日にこのすぐ横を通る中央自動車道上り線の笹子トンネル内で天井板のコンクリート板が約130メートルの区間にわたって落下し、走行中の車複数台が巻き込まれて9名の方が死亡するという痛ましい事故が発生しました。この事故は日本の高速道路上での事故としては、昭和54年(1979年)に静岡県の東名高速道路で発生した日本坂トンネル火災事故や、平成24年(2012年)4月29日に群馬県の関越自動車道で発生した関越自動車道高速バス居眠り運転事故などを死亡者数で上回り、現時点まででは死亡者数が史上最多の事故となっています。その笹子トンネル事故の慰霊碑は事故現場から2km弱離れたこの上にあるトンネル出入り口付近と、8km余り離れた初狩パーキングエリア(PA)内の計2ヶ所に、NEXCO中日本によって建立されています。平成24年(2012年)12月に起きた事故ということで記憶にも新しく、この日の街道歩きの皆さんで慰霊碑のほうに向かって合掌をさせていただきました。
屋影橋で再び笹子川を渡ります。
甲州街道歩きで見慣れた石仏石塔群とも、しばらくお別れです。
この先も国道20号線を進むのですが、緩い登り坂が続きます。目の前に山が迫ってきました。
徐々に傾斜が急になってきたな…と思って振り返ると、「勾配8%」という標識が立っています。8%の勾配ということは、100メートル進むと8メートル登るということ。登坂車線が必要となるくらいの急勾配です。いよいよ甲州街道最大の難所と呼ばれる笹子峠にかかってきました。笹子峠の名所の1つ、「矢立の杉」の案内も出てきました。
その先で新中橋を渡り、右にカーブすると笹子峠へ向かう登山道の登山口が見えてきます。いよいよここからが旧甲州街道最大の難所、笹子峠越えの始まりです。ここからの笹子峠越えは今年(2019年)3月の【第12回】で歩きました。私にとっては目に覚えのある光景です。
今回の【第11回】のゴールはその黒野田宿のはずれで、笹子峠へ向かう登山道の登山口にある天野記念公園の駐車場でした。ここは3月に歩いた【第12回】のスタートポイントであり、これで甲州街道全てが繋がったので、私にとっては、この天野記念公園の駐車場が『甲州街道完歩』の記念すべき地となりました。
そして、ついに貰っちゃいました。『甲州街道四十五次ウォーク
完歩証明書』!! 達成感は半端なく、素直に嬉しいです、はい。バンザァ〜イ!! \( ˆoˆ )/ヽ(´▽`)/ヽ(*^ω^*)ノ
この日は距離にして17.6km、歩数にして24,010歩、歩きました。天気予報では雪も心配されたのですが、そこは『晴れ男のレジェンド』。時折薄陽が射す街道歩き日和でした。もちろん寒くはあったのですが、歩いているので、寒さはさほどでもなかったです。
そうそう、いつも先達(ガイド)を務めていただいているウォーキングリーダーさんによると、私が「おちゃめ日記」や「新・おちゃめ日記」に掲載している“中山道街道歩き』や『甲州街道歩き』が、プロのウォーキングリーダーさん達の間で話題になっているのだそうです。個人のブログでこれだけ詳細に分かりやすく書かれた街道歩きは他にない!!…って。私のブログをガイドの参考にしているウォーキングリーダーさんも多数いらっしゃるのだとか。“街道歩きのプロ”からも高いご評価をいただきました。これは嬉しかったですね。
「もちろん今回の区間もブログに書いてくれますよね」ってプロから言われちゃったので、書かないわけにはいかないってことで、この一文を書かせていただきました。16回にわたって書いてきました『甲州街道歩き』シリーズもこれで完結です。
さぁて、次はどこの街道を歩くことにしようかな?
――――――――〔完結〕――――――――
0 件のコメント:
コメントを投稿