2022年6月18日土曜日

鉄分補給シリーズ(その6):伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線①

 公開予定日2022/12/01

 

[晴れ時々ちょっと横道]第99回 鉄分補給シリーズ(その6):伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線


このところ佐田岬半島やら忽那諸島やら海に関する旅が続いたので、次は山です。愛媛県はどちらも国立公園に指定されている瀬戸内海や宇和海といったメチャメチャ美しい海に囲まれているのですが、美しい風景は海だけじゃあないんです。美しい山の風景だってたくさんあります。むしろ、山のほうが多いかもしれません。愛媛県も四国本島側は平地が少なく、ほとんどが山です。なんと言っても、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)は愛媛県にありますから。

ということで、向かった先は西日本最高峰・石鎚山の登山口の1つである石鎚土小屋と面河渓。今回も私自身の鉄分補給と、コロナ禍で乗客数が激減して大変ご苦労をなさっているJR四国バスさんと伊予鉄南予バスさん応援のため、路線バスを利用しての日帰り旅です。

650JR松山駅発のJR四国バスの久万高原(くまこうげん)行きに乗車しました。JR松山駅で乗車した乗客は私を含め男性ばかり5名。うち2名はおそらく私と同じく伊予鉄南予バスの終点の石鎚土小屋まで乗り継いで、石鎚山や瓶ヶ森の登山をしようという登山客で、登山靴を履いてリュックを背負った登山姿、残りの2人も登山装備ではありませんが、トレッキングをする格好での乗車です。久万高原のどこかの山歩きをなさるのでしょうね。一眼レフのカメラを携行しているので、写真撮影かも。一番の軽装備は私。いちおうウォーキング用の小さなリュックを背負ってウォーキングシューズを履いてはいますが、まぁ〜、路線バスに乗車するのが一番の目的なので、お気楽なものです。


JR松山駅前で出発の時間を待つJR四国バス久万高原線の路線バスです。

このJR四国バスが運行する久万高原線ですが、かつては国道33号線経由で愛媛県の県都・松山市と高知県の県都・高知とを最速3時間9分で結ぶ松山高知急行線(愛称:なんごく号)の一部でした。この松山高知急行線は、昭和62(1987)に国鉄(日本国有鉄道)が民営化され、四国島内の国鉄がJR四国として発足した当時、鉄道も含めたJR四国全体で唯一の黒字路線であったことから、「栄光の松山高知急行線」とも呼ばれた一大幹線路線でした。

しかし、四国島内でも松山自動車道や高知自動車道といった高速道路の整備が進み、松山市〜高知市間の移動も高速道路利用の方が快適で、時間的にも早くなったことから、平成13(2001)、松山高知急行線は廃止され、高速道路経由の「なんごくエクスプレス」に生まれ変わりました。その際、JR松山駅と落出(旧上浮穴郡柳谷村)間の愛媛県内の区間のみは旅客需要もそれなりに多かったことから一般路線バスによる運行になり、久万高原線と路線名称も変更になりました。平成29(2017)、久万高原〜落出間が廃止され、廃止区間を久万高原町営バスが代替運行されるようになり、現在に至っています。そのかつて「栄光の松山高知急行線」と呼ばれたバス路線に久々に乗れるということで、さすがにちょっと興奮してしまいます。

 

この日の行程図です。JR松山駅から路線バスを乗り継いで、標高1,492メートルの石鎚土小屋まで登っていきます。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

バスはJR松山駅を出発すると大街道交番前交差点を右折して、伊予鉄立花駅前を通り、天山交差点から国道33号線に入ります。ここからは国道33号線をひたすら進むのですが、森松のあたりだけ愛媛県道194号久谷森松停車場線に入り、森松本町バス停に停車します。この愛媛県道194号久谷森松停車場線1982年に重信大橋が完成し、新道が開通するまでは国道33号線の一部だったところです。ちなみに、森松本町バス停は伊予鉄バス森松営業所(旧伊予鉄道森松駅)のすぐ近く(ほぼ同一場所)にあり、同じバス停でも運行するバス会社により名称が異なるという競合バス区間でよく見られるあるあるを呈しています。


森松本町バス停に停車します。この森松本町は伊予鉄バスの森松営業所前の愛媛県道194号久谷森松停車場線(旧国道33号線)上にあり、JR四国バスは伊予鉄バス森松営業所のバスプールには入りません。

一級河川・重信川を重信橋で渡ると、伊予郡砥部(とべ)町に入ります。


重信橋で重信川を渡ります。重信川を渡った先は伊予郡砥部町です。

世の中の最底辺のインフラは地形気象とさまざまな機会に公言している私の中では、砥部町と言えば中央構造線、「砥部衝上断層(しょうじょうだんそう)」ですね。私は愛媛県の地形や景色を決定づけているものは日本列島最大の断層帯(世界的に見ても最大級規模の断層帯)である「中央構造線」だと思っています。佐田岬半島がそうですし、私がイチオシの伊予市双海町の風景も、中央構造線の活動により形成された断層崖によるものです。また西日本最高峰の石鎚山をはじめとした屏風のように連なる四国山地の山々も、中央構造線に沿って延びています。その中央構造線の断層面が露出する極めて珍しいところが、砥部町にあります。それが「砥部衝上断層」です。


中央構造線の断層面が露出する砥部衝上断層です。この写真は別の日に撮影したものです。

砥部衝上断層 は、1,200万年~1,400万年前の地殻変動によって6,500万年前の古い地層(和泉層群)が、4,000万年前の新しい地層の上に乗り上げたものとされています(1,200万年前には断層線に沿ってマグマが貫入しています)。通常、断層線の上には土砂が堆積していることから、断層線そのものは見えないのですが、この砥部町では、砥部町を流れる砥部川(一級河川・重信川の支流)の浸食によって断層線(砥部衝上断層)が洗い出され、その河岸に断層が露出し、観察できるようになっています。この砥部衝上断層は中央構造線上の逆断層の露頭として「日本の地質百選」にも選定されており、もちろん国の天然記念物にも指定されています。きっと『ブラタモリ』のタモリさんなら大興奮されることでしょうね。

そして、一般的には砥部町と言えば陶磁器「砥部焼」ですね。200年以上の歴史がある砥部焼は全国的に有名です。実はこの砥部焼にも中央構造線が深く関係しています。中央構造線の南側には、石英、長石、カオリンといった磁器作りに不可欠な成分を含む陶石鉱床が分布しており、中央構造線の近くには砥部をはじめ、陶磁器の生産地や温泉が数多くあります。全国的に超有名な佐賀県の伊万里と有田は中央構造線そのものとは違いますが、中央構造線から分岐した松山・伊万里構造線という中央構造線の支線とも言える断層帯のすぐ近くに位置しています。

さらには、砥部という地名にも中央構造線が関係しています。砥部は古来より良質の砥石「伊予砥」が採れるところとして知られています。砥石の利用は古く、磨製石器の製作に利用された時まで遡り、新石器時代以降、あらゆる年代の遺跡から出土し、最も初期の道具の1つであるともいわれています。砥石は地底奥深くにあることで地圧により非常に硬く固められた良質な砥石の原料となる堆積物の地層が、造山活動により採掘可能な深さにまで隆起してくることで掘り出すことができます。砥部町の場合、その造山活動と言うのはもちろん中央構造線の断層活動です。中央構造線の断層面が露呈する砥部衝上断層がある砥部町は、縄文時代より前の新石器時代より、良質な砥石を産出するところとして知られていました。そして、その良質な砥石を採掘する技術を持った人達のことを、大和朝廷では「砥部」と呼んでいました。この砥部が多く住むところ、これが砥部町という地名の由来とされています。

現在の砥部町は、松山市と高知市とを結ぶ国道33号線が縦貫する交通の便の良さと、変化に富んだ緑豊かな自然により、松山市のベッドタウンとして宅地開発が進んでいます。また、敷地面積、内容ともに西日本有数の動物園である愛媛県立とべ動物園、サッカーJリーグの愛媛FCのホームゲームが開催されるニンジニアスタジアム(愛媛県総合運動公園陸上競技場)などの大きなレクリエーション施設が集中しているところになっています。

愛媛県道194号久谷森松停車場線は重信橋を渡り終えると、すぐに重信大橋を渡ってきた国道33号線と合流します。国道の中央分離帯に大きな砥部焼の壺が並んでいます。砥部町には「陶街道(とうかいどう)五十三次』と言って、砥部町内の砥部焼にちなむ地点を53箇所選定し、それらを街道における宿場町のごとく繋ぎ合わせて、一つの観光資源として広く集客を図ろうとする取組みが行われています。もちろん、東海道五十三次にヒントを得て、語呂あわせしたものです。


国道33号線の中央分離帯には大きな砥部焼の壺が並んで置かれています。さすがに陶磁器「砥部焼」で有名な砥部町です。

バスは砥部町の中心部を過ぎたあたりから、目の前に迫る山をかなりキツい勾配の坂でグングン登っていきます。ここは中央構造線の活動により形成された断層崖で、かなりの急斜面です。そこを右へ左ヘカーブが何度も続く九十九折(つづらおり)の坂道でドンドン登っていきます。坂を一気に登り詰める形になるので、進行方向左側の車窓には松山平野(道後平野)や松山市の中心市街地を眼下に見ることができます。かなり登ってきました。


国道33号線のこの先の地点の現在気温の表示が出ています。確認すると、この時点の松山市中心部の気温が23℃でしたから、標高が相当高いところに行くということが、この気温の数字からも読み取れます。

バスは砥部町の中心部を過ぎたあたりから、目の前に迫る山をかなりキツい勾配の坂でグングン登っていきます。国道33号線は登坂車線が続きます。

進行方向左側の車窓には松山平野(道後平野)や松山市の中心市街地を眼下に見ることができます。かなり登ってきました。

愛媛県の県都松山市と高知県の県都高知市を結ぶ国道33号線はこの先の三坂峠が最高地点です。石鎚山(1,982メートル)を最高峰として四国山地西部に高く屏風のように東西に連なる石鎚山脈、その石鎚山脈のうち石鎚山、ニノ森(1,930メートル)、堂ヶ森(1,689メートル)、石墨山(1,457メートル)と連なる石鎚山より西側の山脈の一番西に位置する皿ヶ嶺(1,271メートル)、三坂峠はこの皿を伏せたような山容をした皿ヶ嶺のすぐ西側の鞍部にある峠で、峠の標高は720メートル。三坂峠は松山市と久万高原町との境界にある峠で、分水嶺にもなっていて、北側の御坂川(重信川水系)は瀬戸内海に、南側の久万川(仁淀川水系)は太平洋に流れます。


三坂峠の手前で国道33号線(新道)は国道440号線(旧国道33号線)と分岐し、右に曲がります。三坂峠は国道440号線(旧国道33号線)をさらに登っていった先にあります。

三坂峠は古くから松山と高知とを結ぶ主要陸路である土佐街道の交通の難所とされてきたところで、明治27(1894)に大規模な改修工事が完成し、なんとか自動車が通行できる道路となり、のちにこの道路が国道33号線に指定されました。その後も改修工事が繰り返され、昭和41(1966)には自動車が対面で通行可能な2車線の道路に整備されたのですが、あまりに急峻な地形に作られた道路であり、なおも幅員の狭いところや一部でヘアピンカーブの連続した8%もある急勾配の坂道が続くことなどから、相変わらず交通の難所である状況は続きました。


第二三坂トンネル(長さ1,300メートル)を潜ります。

その状況が抜本的に解消したのは難所である三坂峠のすぐ下を第一三坂トンネル(長さ3,097メートル)第二三坂トンネル(長さ1,300メートル)という連続する2本の長いトンネルで貫く三坂道路が開通した平成24(2012)のことです。三坂道路開通後、国道33号線はこの三坂道路を経由するルートに変更され、従来の三坂峠を越える砥部町大平〜久万高原町東明神の約9.2kmの区間は国道33号線の指定を外されて、国道440号線となっています。同時に、JR四国バスの久万高原線も三坂道路経由に路線変更が行われています。バスは三坂道路を進みます。


次に第一三坂トンネル(長さ3,097メートル)を潜ります。登坂車線が見えるように、この区間もかなりの登り坂です。

第一三坂トンネルを抜けたところから上浮穴郡久万高原町に入ります。久万高原町は平成16(2004)に上浮穴郡久万町、面河村、美川村、柳谷村の13村が合併して誕生した町です。人口は約7千人。面積は580平方kmで県内市町村で最大の自治体です。主たる産業は農林業と観光。特に農業では、高原の気候と、県都・松山市への近さを生かした野菜等の農業が主に行われています。トマト、とうもろこし、ピーマンなどのほか、果樹としてリンゴ等も栽培されています。面河渓、石鎚山、御三戸、四国カルスト、皿ヶ嶺など風光明媚なところが多く、春の新緑や夏の涼、秋の紅葉を求めての山岳観光は昭和の時代から有名です。


第一三坂トンネルを抜けたところから上浮穴郡久万高原町に入ります。三坂峠を越えてきた国道440号線と再び合流する交差点が前方に見えています。

三坂峠を越えてきた国道440号線と合流する東明神のバス停でJR松山駅から乗車してきた2名のトレッキング客が下車しました。下車する際に三坂峠までの距離を運転手に確認していたので、おそらく三坂峠から眼下に見える松山平野(道後平野)の写真を撮影しに来たものと思われます。この日はよく晴れているので、きっといい写真が撮影できるはずです。


東明神のバス停JR松山駅から乗車してきた2名のトレッキング客が下車しました。三坂峠から眼下に見える松山平野(道後平野)の写真を撮影しに来たものと思われます。この東明神バス停がある道路は、改修前の国道33号線なんでしょうね。

三坂峠(三坂トンネル)を過ぎ久万高原町に入ると、国道33号線は緩やかな下り勾配に変わります。険しい山は車窓から姿を消し、自治体名称どおりに久万高原の風景となります。松山市中心部から三坂峠までの距離は約22km。砥部町の中心部を過ぎたあたりから中央構造線の活動により形成された断層崖をカーブが続く急勾配の坂道でドンドン登ってきたわけですが、その急勾配の坂道の距離は10kmちょっと。それが三坂峠を越えると後はずっと緩やかな下り坂に変わり、仁淀川(愛媛県側の名称は久万川)に沿って約100kmの距離を緩やかな下り坂で下って行くと高知県高知市です。この約22km(いや約10km)と約100kmの差が四国の地形の特徴です。分水嶺は瀬戸内海側にずっと寄ったところを通っているわけです。


国道33号線の最高地点である三坂峠を越えたので、ここから高知市に向かって長く緩やかな下り勾配が続きます。反対車線側に登坂車線が設けられていることで、ここが下り坂であることがお判りいただけるかと思います。車窓はなだらかな高原の風景に変わりました。

白装束を着て歩いているお遍路さんの姿が見えます。久万高原町にも四国霊場八十八ヶ所の第44番札所・大寶寺と第45番札所の岩谷寺という2つの札所があります。特に第45番札所の岩谷寺は半端なく険しい山の中にある寺院で、このあたりは急勾配の遍路道が続く巡礼路としては一番キツい区間となります。やはり四国の風景にはお遍路さんの姿がよく似合います。


白装束を着て歩いているお遍路さんの姿が見えます。久万高原町にも四国霊場八十八ヶ所の第44番札所・大寶寺と第45番札所の岩谷寺という2つの札所があります。

802分、久万中学校前バス停で下車しました。JR四国バスの久万高原線は、この2つ先の久万高原営業所が終点なのですが、ここで下車したのには訳があって、この久万中学校前バス停は伊予鉄南予バスの久万営業所前と同じ位置にあるのです。同じ場所にあるバス停でも運行するバス会社が異なるとバス停の名称が異なるという路線バスの“あるある”です。


久万高原町の中心部に入っていきます。高知県との県境は目の前に見える山のさらに向こうにありますが、ここから国道33号線は三坂峠付近の皿ヶ峰を源とする久万川と、石鎚山を源とする面河川に沿ってダラダラと下っていくだけなので、難所といわれるような峠はありません。ちなみに、面河川は高知県内に入ると仁淀川と名称が変わります。

久万中学校前バス停で下車しました。この久万中学校前バス停は伊予鉄南予バスの久万営業所のすぐ前の国道33号線上にあります。

伊予鉄南予バスの久万営業所には810分発の伊予鉄南予バスの石鎚土小屋行きのバスが発車の時間を待っていました。石鎚土小屋行きのバスの使用車種は1998年式の日野レインボーRJサイクルバスです。佐田岬灯台を目指した際に乗車した伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線で乗車した日野メルファ同様、車体前面に可倒式のサイクルラックが付いていて、自転車を2台運べるようになっています。


伊予鉄南予バスの久万営業所には810分発の伊予鉄南予バスの石鎚土小屋行きのバスが発車の時間を待っていました。車種は異なりますが、佐田岬灯台を目指した際に乗車した伊予鉄バスの八幡浜・三崎特急線で乗車したバスと同じくサイクルバスです。

夏季の土日祝日の面河方面行き面河線のバスは、この石鎚土小屋行きが午前と午後の12往復のみ。この午前のバスに乗るためにJR松山駅を朝650分という早い時間に出ました。私のほかにJR松山駅からJR四国バスの久万高原線に乗車してきた2名の登山客の男性も乗車しました。

この日の伊予鉄南予バスも最前列のシートは三密回避のために使用禁止。既にカカシ(案山子)君が座っています。


伊予鉄南予バスの最前列のシートは三密回避のために使用禁止。既にカカシ(案山子)君が座っています。


定刻の810分に石鎚土小屋行きのバスは伊予鉄南予バス久万営業所を出発しました。終点の土小屋の標高は1,492メートル。驚くことに、石鎚山はその地点まで路線バスで行くことができます。四国山地の山々は北側の瀬戸内海に面した側は中央構造線の活動で形成された断層崖で、切り立ったように断崖絶壁を含む急峻な斜面なのですが、反対の南側、すなわち太平洋側は比較的なだらかな山々で形成されており、その山々の間を縫うように愛媛県道12号西条久万線が延びています。バスは出発してすぐに国道33号線を左折し、その愛媛県道12号西条久万線に入ります。


伊予鉄南予バス久万営業所を出発したバスは、すぐに国道33号線を左折し、その愛媛県道12号西条久万線に入ります。ここから先は、一気に1,000メートル以上もの標高を登っていく山岳路線です。カカシ君は毎日この車窓を眺めているのですね。

愛媛県道12号西条久万線は西条市と久万高原町を結ぶ県道で、昭和45(1970)に石鎚スカイラインとして開通し、途中の面河渓のスカイライン入口から石鎚山の登山口の1つである土小屋までが有料道路区間となっていました。平成7(1995)に石鎚スカイラインが全線で無料開放され、現在の名称となりました。全長が約75kmと愛媛県の県道の中で最も長い道路なのですが、西日本最高峰の石鎚山を跨ぐように県道が整備されているため、山頂付近の一部に通行不能(未整備)区間が存在しています。久万高原町側からの終点は土小屋で、標高が1,492メートル(“伊予の国と読みます)。これは愛媛県の県道で最も標高の高いところになっています。全線が石鎚山脈の急峻な地形を縫うようにして急勾配の登り坂が続く山岳道路で、かつては降雨のたびに崩壊箇所が続出するような大変な悪路でした。現在は相当改修されていますが、それでも面河渓〜土小屋間の旧有料道路(石鎚スカイライン)区間は年間を通して夜間通行止めになっており、毎年12月上旬から3月下旬までは冬季封鎖期間となっています。そういう大変な山岳道路を路線バスで走るなんて経験は、滅多にできることではありません。


伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線のバスは愛媛県道12号西条久万線(石鎚スカイライン)をひたすら登っていきます。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

前述のように、現在は面河方面へ行く路線バスは伊予鉄南予バスが運行する久万営業所〜面河間の面河線のバスが平日の5往復と、夏季の土日祝日に久万営業所〜石鎚土小屋まで延長して運転される12往復のみですが、かつて、面河渓が愛媛県内随一の景勝地であった頃には、伊予鉄バスが松山市駅〜面河間の直通バスを1日複数便走らせていたほか、国鉄バス(現在のJR四国バス)も松山駅〜面河間の直通バスを1日複数便走らせていました。さらに石鎚スカイラインが昭和45(1970)に土小屋まで開通すると、土小屋ルートによる石鎚山登山ブームが起き、伊予鉄バスが松山市駅〜面河〜土小屋間の直通バスを1日複数便走らせていました。子供の頃、松山市内で見かけて、どんなところなのか気になって仕方がなかったバスの終点「石鎚土小屋」にこれから向かうわけですから、ワクワクしてきます。

久万営業所の次のバス停が大宝寺口。四国霊場八十八ヶ所の第44番札所・大寶寺の最寄りバス停ですが、道路から離れた場所にあるので、その姿は確認できませんでした。ちなみに1つ前の第43番札所の明石寺は西予市宇和町にあり、そこからの距離は約80km、峠越えの難所が続き、歩けば20時間をゆうに超す「遍路ころがし」の霊場と呼ばれています。大寶寺は第44番札所ということで四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」と言われています。

石鎚山に源を発する面河川が県道の横を流れています。面河川を流れる水は非常に澄んでいて、その色はエメラルドグリーンの神秘的な色をしています。まさに清流と呼ぶべき綺麗な流れです。水質日本一に輝く清流・仁淀川は河口のある高知県の河川のイメージが強いのですが、実は源流はこの面河川です。愛媛県内区間の名称が面河川、高知県に入ってから名称が仁淀川に変わります。三坂峠付近を源とする久万川は御三戸で面河川に合流するのですが、その久万川と面河川の合流点にある奇岩「御三戸嶽」は、聳え立つ姿が軍艦のように見えるので「軍艦岩」とも呼ばれています。


石鎚山に源を発する面河川が県道の横を流れています。面河川を流れる水は非常に澄んでいて、その色はエメラルドグリーンの神秘的な色をしています。まさに清流と呼ぶべき綺麗な流れです。

バスはところどころ古い集落の中に入って行くのですが、そこでは車幅がギリギリいっぱいという細い道路もあります。面河渓の観光ブームで昭和30年代に県道が整備される以前の旧道でしょうね。人々が暮らす集落は、基本的に旧道に沿って点在しているわけですから。


バスはところどころで車幅がギリギリいっぱいという細い道路を通り、古い集落の中に入っていきます。

岩谷寺バス停です。ここは四国霊場八十八ヶ所の第45番札所・岩谷寺の最寄りバス停です。岩谷寺はここから参道を30分近く歩いて登った先にあります。参道の途中にはおびただしい数の石仏が重なるように置かれています。標高700メートルにある境内には山に向かって右が金剛界峰、左が胎蔵峰と呼ばれる天を突く礫岩峰に挟まれ、堂宇は巨岩の中腹に埋め込まれるように佇み、神仙境を思わせる典型的な山岳霊場だと言われています。昔から修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されているのだそうです。


岩谷寺バス停です。ここは四国霊場八十八ヶ所の第45番札所・岩谷寺の最寄りバス停です。岩谷寺はここから参道を30分近く歩いて登った先にあります。

仕七川で国道494号線と合流し、しばらく愛媛県道12号西条久万線と国道494号線は重複します。この国道494号線は松山市を起点に、黒森峠(標高985メートル)で四国山地(石鎚山脈)を越えて、高知県仁淀川町、佐川町を経て須崎市に至る延長114kmの一般国道ですが、他の道路と重複しない実延長区間の多くは狭隘な山道で、しかも整備があまり進んでいない、いわゆる「酷道」となっています。


バスはいったん愛媛県道12号西条久万線から離れ、久万高原町役場面河支所(旧面河村役場)や面河郵便局もある渋草学校前バス停で折り返し、ふたたび愛媛県道12号西条久万線に戻ります。

渋草学校前バス停です。この渋草学校前バス停付近が旧面河村の中心部だったようです。

愛媛県道12号西条久万線は通仙橋で面河川を渡ったところにある通仙橋交差点で国道494号線と分岐するのですが、ここでいったん左折。黒森峠方面に分岐する国道494号線をしばらく走り、久万高原町役場面河支所(旧面河村役場)や面河郵便局もある渋草学校前で折り返し、再び来た道を通り通仙橋に戻ってきます。この渋草学校前バス停付近が旧面河村の中心部だったようです。

通仙橋から再び愛媛県道12号西条久万線を進みます。


面河川沿いのほんの少し開けたところに集落が幾つかあります。いかにも山間の山村って感じですが、比較的新しい家も建っています。

久万営業所を出発してから約1時間、912分に面河渓の入口にある面河バス停に到着しました。面河線のバスは平日はこの面河バス停が終点で、ここで折り返します。石鎚土小屋まで行くのは夏季の土日祝日のみで、それも午前と午後の12往復のみです。

ここまでほとんどノンストップで順調に走ってきたので、トイレ休憩も兼ねて3分ほど時間調整の停車を行いました。乗客3名が戻って来たのを確認して出発。私は2時間後にはこの面河バス停に戻ってきます。


久万営業所を出発してから約1時間、912分に面河渓の入口にある面河バス停に到着しました。県道上には面河渓及び石鎚国定公園の入口を示す大きな鳥居が立っています。

面河バス停です。面河線のバスは平日はこの面河バス停が終点で、ここで折り返します。石鎚土小屋まで行くのは夏季の土日祝日のみで、それも午前と午後の12往復のみです。

石鎚スカイラインが有料道路だった頃、ここが面河側の有料道路の入り口でした。現在は無料開放されていますが、現在もゲートが設けられていて、年間を通して夜間通行止め。また、毎年12月上旬から3月下旬までは冬季封鎖期間となっており、ゲートが閉じられます。

ここから先、終点の土小屋まで、途中のバス停はありません。


ここから先はかつて有料道路だった石鎚スカイラインの区間。終点の石鎚土小屋まで途中にバス停も信号機もなく、ノンストップでひたすら山道を登っていきます。

バスは石鎚山脈の急峻な地形を縫うようにして急勾配の登り坂が続く山岳道路を、ディーゼルエンジンの音をフルに轟かせて、ただひたすら登っていきます。道の両側にはずっと高い樹々が生い茂っているのですが、突然、その樹々の間から石鎚山の最高峰、天狗岳(1,982メートル)の頂上の姿が間近に飛び込んできました。これには「おおっ!」っと声が出るほど感動しちゃいました。石鎚山は見る角度によって見える形が大きく変わるのですが、ここからは鋭く尖った山の形をしています。


唐突に樹々の間から西日本最高峰の石鎚山、その石鎚山の中でも最高峰の天狗岳(1,982メートル)の頂上の姿が間近に飛び込んできました。これには感動しました。

石鎚山天狗岳の向こうに見えるのは瓶ヶ森でしょうか。石鎚山系の山々が間近に見えます。


950分、面河バス停を出てから35分、久万営業所を出発してから1時間40、この日の旅の起点となったJR松山駅からはちょうど3時間で終点の石鎚土小屋バス停に到着しました。前述のように、子供の頃、松山市内で見かけて、どんなところなのか気になって仕方がなかった路線バスの終点「石鎚土小屋」についに到着しました。こういうところだったのですね。感動です。乗って来たこのバスが1025分発の久万営業所行きとなって折り返すので、それに乗って途中の面河まで行く予定にしています。なので、それまでの約30分間、しばしこの土小屋バス停の周辺を散策することにしました。


久万営業所を出発してから1時間40分、伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線の終点、石鎚土小屋バス停に到着しました。

終点の土小屋の標高は1,492メートル。語呂合わせで「いよのくに(伊予の国)」と言うのだそうです。


終点の土小屋の標高は1,492メートル。松山からここまで路線バスを乗り継いでやって来れることに驚きです。


鉄分補給シリーズ(その6):伊予鉄南予バス面河・石鎚土小屋線は、明後日(620)に掲載します。


2022年6月16日木曜日

鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路④

 公開予定日2022/11/06

[晴れ時々ちょっと横道]第98回 鉄分補給シリーズ(その5):中島汽船忽那諸島航路④


前回の忽那諸島巡りから4ヶ月が経った522日、睦月島に行ってみることにしました。三津浜港1010分発の中島汽船東線航路のフェリー「ななしま」に乗船しました。


三津浜港1010分発の中島汽船東線のフェリー「ななしま」で出発です。新型コロナウイルスによる移動制限も緩和されたことと、天気に恵まれた休日ということもあり、この日はそこそこの乗客が乗船しています。

睦月島は、③でも書きましたが、周囲13km、面積3.82平方km。現在、人口は現在280人ほどで、農業(柑橘類)と水産業(タイ、メバル等)の島です。睦月島の島名の由来は、第7代孝霊天皇の皇子の彦狭島命(ひこさしまのみこと:別名・伊予王子)と和気姫の子「むつき」がこの島に流れ着いたという説や、河野家(古代越智氏族)の祖先(彦狭島命の三男の小千王子)がこの島に逃げ落ちた時に月が出ていなかったからという説、また災いが続いたので「無須喜」を改めたとの説など様々な説があるようなのですが、いずれにしても古くからある島名であることは間違いないようです。ちなみに、彦狭島命は伊予郡松前町にある伊予神社に主祭神として祀られています。

で書きましたが25年前に亡くなった私のたった1人の弟は、最初の赴任地である中島中学校のあと、昭和62(1987)4月にこの睦月島にある睦月中学校(中島中学校睦月分校を経て、現在は廃校)に赴任しました。全校生徒20数名の離島の小さな中学校だったので、理科のほかに数学や技術家庭科も教えていたと聞いた記憶があります。そして、その睦月中学校に赴任した昭和6210月に開催された沖縄国体(国民総合体育大会)に陸上競技の成年男子1万メートル競歩の同競技愛媛県初の選手として出場し、12位に入って、愛媛県に貴重な天皇杯のポイント1をもたらしました。 

繰り返しになりますが、中学から大学まで野球部に所属した弟が競歩を始めたのは理科の教師として中島中学校に赴任してからのことです。そこで今は中島トライアスロンのコースになっている中島の周回道路で独学で競歩を練習し、練習開始から3年目に腕試しのつもりで初めて出場した愛媛県の記録会で、いきなり当時の1万メートル競歩の愛媛県記録を更新し、さらには国体の出場標準記録を突破し、沖縄国体出場ということになったわけです。なんと、公式戦2戦目が国体でした。25歳の時のことです。愛媛陸上競技協会からコーチがついたのは国体出場が決まってから。とは言え、コーチが島まで来て指導してるわけでもなく、ほとんど独学での練習で国体に出場したわけです。

全校生徒20数名の離島の中学校の教師が、教師になって始めた競歩で国体に出場し、多くの選手が沖縄の強い陽射しと猛烈な暑さにやられて途中棄権する中、最後はヘロヘロになって倒れ込むようにゴール(完歩)。男子1万メートル競歩はマイナーな競技なのでテレビの実況中継などなかったのですが、その日の夜のスポーツニュースで、「猛暑との闘いとなった沖縄国体」という特集の冒頭で、明らかに焦点が定まっていない虚な目で、フラフラになりながらも、倒れ込むようにゴールする弟の様子が映りました。その時点で既に弟からは「12位になった!」と明るい声で電話をもらっていたので、「12位なんて凄いじゃん」って声をかけていたのですが、まさかこんな過酷な試合の中での12位とは思ってもみませんでした。まさに死力を振り絞って勝ち取った12位でした。

まったくの無名でほとんど期待されてもいなかった選手が公式戦2戦目にしていきなり12位に入って、愛媛県に貴重な天皇杯のポイント1をもたらしたということで、一躍注目を集めました。漫画やテレビのドラマのようなとんでもないことをやっちゃったわけです。明るい話題ということで、愛媛新聞にも大きく紙面を割いて取り上げていただきました。「死力を尽くしたぞ、先生は」とか「やればできるということを生徒達に教えたくて」という見出しの文字が踊っていたのを記憶しています。

その亡き弟が沖縄国体に出場した当時に勤務していた睦月中学校を訪ねるとともに、弟が練習していた睦月島の周回道路をウォーキングしてみようと思ったわけです。現在、仕事の関係もあり、埼玉県の自宅と松山市の実家を毎月のように行ったり来たりする生活を送っている関係もあり、すぐに行くことができず、どうせなら中島汽船のフェリーの船内で何度も案内放送のたびに流れる坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』の歌詞の通りにレモンや伊予柑、ミカンの白い花が咲き誇り、島中を甘い香りが包む5月のこの時期に睦月島を訪れてみることにしたわけです。


この1010分発のフェリーは、途中、松山観光港に寄港します。広島宇品港行きの石崎汽船の高速船スーパージェットが出発を待っています。次の寄港地は睦月港です。

三津浜港を出港した中島汽船東線のフェリーは途中松山観光港に寄港し、1055分に睦月島の睦月港に到着しました。三津浜港を出港してから45分、松山観光港からはわずか25分。近いです。


睦月港が近づいてきました。ここで坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』をバックに、睦月港到着の案内放送が流れてきました。中島汽船と言えば、この坂本冬美さんの『白いかおりの島へ』ですね。忽那諸島のイメージにピッタリです。

船内に、坂本冬美さんが歌う旧中島町のイメージソング『白いかおりの島へ』をバックに、睦月港への入港を知らせる案内放送が流れたので、車両甲板前方にある下船口へ。まもなく接岸。10名ほどの乗客と軽のワゴン車1台が下船しました。


1055分定刻に睦月港に到着しました。三津浜港を出港してから45分、途中の松山観光港からだと25分。近いです。

睦月港の桟橋から見える海は、海水が澄んでいて、とても綺麗です。海岸沿いに民家が建ち並んでいます。

まずは睦月中学校の跡を訪ねることにしました。睦月中学校は島の生徒数の減少により平成13(2001)3月末に廃校になっています。廃校になってから既に20年以上の月日が経っており、校舎も当時のまま残っているのかどうかさえも分からなかったので、睦月港の傍で獲ってきたばかりの魚の売買をしている私より少し歳上と思われる地元のご婦人3人に声をかけて、訊いてみることにしました。


港のそばで獲れたばかりの魚を売り買いしているこの地元の奥さん達に道を聞いたところから、奇跡のような出会いが生まれました。真ん中のスクーターに乗って魚を売りに来ているご婦人が「ご婦人A」です。

私「廃校になった睦月中学校の跡ってどこにあるのですか?」

ご婦人B「そこを曲がってすぐ。まだ建物は残っているから、すんぐに分かるよ」

しかし、廃校になった中学校を訪ねてきた私を不審に思ったのか、

ご婦人B「もしかして、卒業生なん?」

私「いや、私の弟が随分昔にその睦月中学校の教員をやっていたので、どんなところだったのか知りたくて、訪ねてきたんです」

ご婦人B「へぇ〜。で、弟さんのお名前は?」

私「越智哲朗です」

そこに割り込んできたのが魚を売りに来ていた主婦

ご婦人 A「えっ!越智先生!! もしかしてウチの子供の担任だった越智先生のことかもしれん。それって何年のこと?」

私「たぶん、昭和62年から平成元年のことです」

ご婦人 A「やっぱりぃ、あの越智先生のことやわ。ウチの子は昭和63年の3月に卒業したから、確か卒業した時の担任が越智先生やった。若くてほっそかった先生やったよね。あそこの教員住宅に住んでおられたわ」

私「えっ! そうなんですか!」

ご婦人A「越智先生は朝に夕に島の周囲を走っていたのを、よぉ〜く覚えてるわ。確か大きな大会にも出場して…」

私「ええ、沖縄国体!」

ご婦人A「そうそう、睦月中のヒーローだったからねぇ。覚えてない? わっかい先生が朝に夕にこのへんを走っておったろ」

ご婦人 C「ウチの下の子はその2年前に卒業したから、直接教えて貰ってはないけど、よぉ〜このへんを走りよった先生なら覚えとるで」

ご婦人B「おったおった」

奇跡のようなことが起きました。道を尋ねた相手の人の中に、偶然にも弟が受け持ったクラスの生徒さんのお母さんがいらっしゃったのです。しかも他のお二人も弟のことを覚えていてくださいました。ビックリすると同時に嬉しかったです。弟がこの睦月島で頑張っていた痕跡が今も残っていることを知りました。

その後は、弟が睦月中学校に3年間勤務した後、松山市内の椿中学校、そして湯山中学校に異動になったこと、椿中学校時代に結婚して、子供が2人いること。25年前に敗血症による多臓器不全で亡くなったこと、弟が亡くなった時に生後3ヶ月だった下の子(私の甥っ子)が今は青年海外協力隊の一員としてアフリカのガーナ共和国に派遣されて、小学校の先生をやっていることなどをお話ししました。また、過日、25回忌の法事で弟の遺影を見つめているうちに、私が知らない弟の生きていた当時の痕跡を訪ねてみようと思い立ったことなども話させていただきましたが、ご婦人がたは目にうっすらと涙を浮かべておられました。お子さんが弟の教え子だったご婦人Aからは、弟の睦月中学校教諭時代の逸話のようなものもお聞かせいただきました。突然のことだったとは言え、本当にありがたかったです。

そんな弟の思い出話を30分ほどさせていただいた後、睦月中学校跡を訪ねてみました。教えていただいた角を曲がるとすぐに明らかに学校と思える建物が見えました。正門の門柱には「松山市立 睦月小学校」の文字の表札が掲げられています。この睦月小学校と同じ敷地に睦月中学校もありました。その睦月中学校の校舎も取り壊されることもなく、今も残っています。


睦月小学校と睦月中学校の跡地です。子供の数が少なくなって、今は両校とも廃校になってしまっています。

ここが弟が勤務していた睦月中学校(中島中学校睦月分校を経て現在は廃校)です。

「中島町立睦月中学校跡」と刻まれた記念碑が立っています。


生徒数の減少により、睦月中学校は中島中学校睦月分校を経て、平成13(2001)3月末に廃校となりました。弟が睦月中学校を離任したのは平成2(1990)のことですので、それから11年後のことです。現在、睦月島の中学生は、中島にある松山市立中島中学校へ通学しているとのことです。中島汽船東線のフェリーは1日に4往復、睦月港に寄港するのですが、朝の740分に出るフェリーに乗ると中島の大浦港に着くのが815分。この便で登校し、帰りは大浦港1730分のフェリーに乗ると、睦月港到着は1808分。十分に通学はできます。

いっぽう、睦月小学校のほうは睦月中学校が廃校になった後もしばらく存続したようなのですが、平成21(2009)4月以後は休校となっています。廃校ではなく休校ということなので、再開される可能性も僅かながらでもあるということ。したがって、正門の門柱には「松山市立 睦月小学校」の文字の表札が掲げられているのでしょう。校舎も時々松山市の職員が整備をしているようで、休校になってから13年が経過しているというのに、今すぐにでも使えそうなくらいに綺麗です。睦月中学校の校舎のほうも、廃校になって20年以上が経過しているというのに、こちらも今でも使えそうなくらいに綺麗です。狭い運動場も、地元の人達が整備しているのでしょう、雑草が生い茂っているという状態ではなく、今すぐにでも子供達が元気に走り回れる状態が保たれています。まさに、時間が止まっているかのような風景です。ここが弟の勤務した職場だったのですね。中学校の校舎の横に「中島町立 睦月中学校跡」と刻まれた石碑が建っています。

睦月島は、大洲市長浜の沖にある青島と並んで、島のいたるところで自由に猫が暮らす猫好きにはたまらない“猫島”として有名なところなのだそうです。確かに睦月港でフェリーから上陸した瞬間に多くの猫達が出迎えてくれ、私がご婦人がたに道を尋ね、その後、話をさせていただいている間も、人懐っこい数匹の猫が脚にまとわりついてきていました。そんな猫達の格好の遊び場が睦月小学校・睦月中学校跡の運動場で、今は子供達に代わって、猫達が思い思いの場所で昼寝をしたり、元気に運動場を駆け回っていたりしています。そういう猫達と触れ合いたくて、わざわざフェリーに乗って睦月島を訪れる人もいるのだそうで、この日も猫好きの若いカップルが餌や猫と遊ぶ玩具を持って、松山から私と同じフェリーに乗って訪れていました。睦月小学校・睦月中学校跡の運動場は、そういう猫好きのかたと猫達との触れ合いの場になっています。


睦月中学校と睦月小学校はどちらも廃校になっていますが、今は校内に猫がいっぱい暮らしています。睦月島は猫島として有名らしく、私と同じフェリーで松山から猫好きの若いカップルが餌を携えて、猫と戯れにやって来ていました。


睦月中学校を訪れた後は、かつて弟が練習を積んだであろう睦月島の周回道路をウォーキングしてみることにしました。睦月島の周囲は約13km。先ほどお話をさせていただいたご婦人がたによると、睦月島の主要な道路は『睦月スカイライン』と呼ばれる1本の道路だけで、迷いようがないとのことでした。弟が練習を積んだのもこの『睦月スカイライン』で間違いがないようです。


睦月島の案内図です。島には8の字を横に倒したように周回道路があります。主な道路はこの周回道路だけなので、迷うことはありません。その周回道路の愛称が「睦月スカイライン」。行ってみると、ただの農道なのですが

睦月島の地形図です。睦月島は南側の睦月港の周辺にわずかばかりの平野があって、そこに集落がある以外は、ほとんどが山です。睦月スカイラインはその山の中腹、海抜100メートルあたりを通っています。(国土地理院ウェブサイトの地図を加工して作成)

案内図によると、ここが睦月小学校中学校跡近くにある「睦月スカイライン」の入口です。


睦月島の集落は睦月港を中心とした1箇所に固まってあります。その集落のはずれに、當田八幡神社(とうだはちまんじんじゃ)という古い神社が建っています。創建約1,100年という歴史ある神社で、祭神としては田心姫(たぎりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)3人の女神、いわゆる「宗像三女神」が祀られているとのことです。この宗像三女神は海上交通の平安を守護する玄界灘の神。この當田八幡神社も海上交通の平安を守護するために創建された神社なのでしょうね。鳥居の横には乃木希典が揮毫した「日露戦役記念碑」があります。かなりの達筆です。もしかして、203高地での戦死者の中に睦月島出身者がいらっしゃったのかもしれませんね。


當田八幡神社(とうだはちまんじんじゃ)です。

當田八幡神社は創建約1100年という歴史ある神社で、田心姫(たごりひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)の三女神が祀られています。

鳥居の横には乃木希典が揮毫した「日露戦役記念碑」があります。かなりの達筆です。もしかして、203高地での戦死者の中に睦月島出身者がいらっしゃったのかもしれませんね。

集落を出て、地元で『睦月スカイライン』と呼ばれている島の周回道路を歩きます。睦月島には幟立山と高松山という2つの山があり、その2つの山を8の字を横に倒したような形で取り囲むように『睦月スカイライン』と呼ばれている周回道路が延びています。この日はその西側の幟立山の周囲を回る道を歩くことにしました。


典型的な島の漁村の風景です。その中を睦月スカイラインは伸びています。

これが「睦月スカイライン」。ただの農道です。

歩き始めてすぐに気づいたこと。この道路は『睦月スカイライン』というお洒落な名前で呼ばれていますが、実際のところはただの細い農道だってことです。考えてみると、睦月島には睦月港周辺の集落が1箇所あるだけで、ほかの場所には人は暮らしておらず、島のほとんどがミカンや伊予柑、レモンといった柑橘類の畑になっています。なので集落と集落を結ぶ道路は必要とされず、必要な道路はそんな柑橘畑と人が暮らす集落とを結ぶ農道だけというのは当然のことです。

そうした農道ですので、道の両側の急な斜面はずっと一面の柑橘畑になっています。ちょっと終わりかけてはいましたが、この時期の柑橘畑にはミカンやレモンの白い花が咲き誇り、その花が放つ甘い香りが周囲を包んでいます。中島汽船のフェリーの船内で頻繁に流れる坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』、まさにその歌の通りの世界でした。なんとも幸せな気分になります。


周囲は一面の柑橘畑です。中島汽船のフェリーの船内で頻繁に流れる坂本冬美さんが歌う『白いかおりの島へ』、今日の睦月島は、まさにその歌の通りでした。ちょっと終わりかけていましたが、ミカンやレモンの白い花が咲いて、島中を甘い花の香りが漂っていました。

ミカンの花です。

こちらはレモンです。花はちょっと黄色がかっていて、ミカンより大きめです。

睦月スカイラインは幟立山の中腹の海抜100メートル前後の高いところをアップダウンを何度も繰り返しながら進んでいきます。スカイラインは一般的に標高が高いところを通る山岳道路に使われる名称なので、まさに『睦月スカイライン』は言い得て妙と言える愛称です。弟はこのキツい道路で練習を積んだことで、1万メートル競歩の当時の愛媛県記録を塗り替え、この種目の愛媛県最初の選手として国体に出場し、12位に入ったというわけですね。


睦月スカイラインです。まだまだ登り坂です。こんなアップダウンの激しい道で、弟はトレーニングを積んでいたのですね。そりゃあ陸上のトラックでは速く歩けるわ。

睦月スカイラインはかなり標高が高くなってきました。

睦月島では民家は睦月港の周囲にひと塊りに固まっていて、他に集落はありません。あるのは柑橘畑ばかりです。

手前に見える島は興居島(ごごしま)。その向こうは松山市の高浜あたりです。

ちなみに、弟が公式戦2試合目に関わらず、全国からトップアスリート達が集まる沖縄国体でいきなり12位に入ったのには訳があると私は思っています。前述のように、沖縄国体は強い直射日光と猛烈な暑さとの闘いになりました。成年男子1万メートル競歩では、有力選手の多くが競技途中で脱水症状を起こして次々と途中棄権。そういう中で弟はフラフラになりながらも最後まで歩ききり、12位でゴールしたというわけです。その頑張りの背景には、この起伏の激しい『睦月スカイライン』でのトレーニングが間違いなくあったのではないか…と私は思いました。ここで毎日走っていたら、そりゃあちょっとやそっとのことでは、へこたれません。根性もつきます。沖縄国体12位は、明らかにこの睦月スカイラインで練習を積んだ成果ですね。


今日も穏やかな瀬戸内海です。海水が澄んでいるのがよく分かります。綺麗な風景です。興居島の小富士がはっきり見えます。

忽那諸島の島々が綺麗に見えます。気温が高いので、ちょこっと靄っています。

向こうに見える島は忽那諸島の主島である中島です。

中島との間の海峡を漁船が進んでいます。瀬戸内海らしい風景です。

綺麗な入り江がありますが、そこに下りる道はなさそうです。島の周囲はずっとこんな感じで、海岸線に平地はほとんどありません。

起伏の激しいキツいコースではありますが、標高が少し高いぶん、景色は抜群にいいです。景色の良さでは以前に歩いた中島以上かもしれません。きっと弟もこの美しい瀬戸内海の景色を眺めながらトレーニングを積んだものと思われます。5月にはこうして柑橘の白い花と甘い香りに包まれて。兄としても感慨深いものがあります。それにしても美しい風景です。

5月のこの時期、『睦月スカイライン』の沿道には柑橘だけでなく、さまざまな花が咲いています。まさに花盛りです。その幾つかをご紹介します。


センダン(栴檀)の花です。このセンダンの葉は強い除虫効果を持ち、かつては虫除けに利用されていました。木材は弱い芳香があり、建築や家具、数珠に使われます。

ノイバラ(野茨)です。


ショウジョウカ(猩猩花)です。

ゴールドキウイの雄花です。雌花の畑はまた別にあるようです。

ビワの実がなっています。

2時間弱ウォーキングをして睦月港周辺にある集落に戻ってきました。前述のように睦月島の集落はここだけで、島の集落は、港近くに寄り集まるように家が立ち、細く長い路地の多い独特の景観を形作っています。


集落を流れる川ですが、海水が逆流しているので、泳いでいる魚は海の魚ばかりです。30cm近いボラが幾つもの群れで泳いでいるのが見えます。10㎝ほどのフグはウジャウジャいます。

常夜燈です。昔の港の灯台ですね。

島の集落は、港近くに寄り集まるように家が立ち、路地の多い独特の景観を形作っています。歩くと、古めかしい窓や細工をほどこした玄関を持つ家に出会います。

歩くと、古めかしい窓や細工をほどこした玄関を持つ家に出会います。集落には、焼いた木の板を壁に貼った家々が数多く並んでいることに気づきます。島の風景の中で黒っぽい外壁の家屋が建ち並ぶ姿はどこか郷愁を覚えてしまいます。この外壁材は「焼杉(やきすぎ)」と呼ばれるもので、その名の通り、杉板の表面を焼き、炭化させたものです。この炭化させるというのがポイントで、炭化層があることで、通常の杉板にはない耐久性がプラスされます。通常の杉板を外壁に使用すれば、木目の柔らかい部分(夏目)が風雨に曝されることで痩せてしまったり、日に当たりにくい部分から腐ってしまうことがあります。焼杉の場合、表面の炭化層は腐ることはありませんので、腐食のリスクはぐっと下がります。この焼杉という手法は西日本の一部の地域で古くから伝わる手法で、全国的なものではないようです。他の地域でも外壁を黒く塗った古い建物を見かけることがありますが、これは「黒塀」。「黒塀」の黒い塗装は渋墨(しぶずみ)塗といって、これも日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもので、防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられています。


集落には、焼いた木の板を壁に貼った家々が数多く並んでいることに気づきます。この外壁材は「焼杉(やきすぎ)」と呼ばれるもので、その名の通り、杉板の表面を焼き、炭化させたものです。


明治から昭和の中頃まで、睦月島では「縞売り」という伊予かすりの行商が全国各地へ赴き、集落には繁栄した人の豪邸が立ち並んでいたといわれています。東海岸には今も「長屋門」と呼ばれる立派な門がまえの家屋が並び、その面影を留めています。長屋門は台風や高波から家を守るとともに、蔵や居室の役割も果たしています。門をくぐると「ヒノリワ」と呼ばれる中庭があり、その奥に母屋があります。


明治から昭和の中頃まで、睦月島では「縞売り」という伊予かすりの行商が全国各地へ赴き、集落には繁栄した人の豪邸が立ち並んでいたといわれています。東海岸には「長屋門」と呼ばれる立派な門がまえの家屋が並び、その面影を留めています。

長屋門は台風や高波から家を守るとともに、蔵や居室の役割も果たしています。門をくぐると「ヒノリワ」と呼ばれる中庭があり、その奥に母屋があります。


ウォーキングを終えて睦月港に戻ってきてみると、前述のご婦人Aが待ってくれていました。(睦月港に寄港するフェリーは14便で、午後は2便しかありませんから)「やっぱりこの便だ」と言って出迎えてくれたご婦人Aがわざわざ自宅から持ってきてくれたのは、お子さんの卒業アルバム。そこにはしっかり担任教諭として弟が写っていました。話しているうちにご婦人Aの目にうっすらと涙が。「スマホで撮影して、越智先生の奥さんとお子さんに、是非見せてあげてください。特に、アフリカのガーナで小学校の先生として頑張っている越智先生の息子さんに」と…。さらには「越智先生の墓前にでも…」と、でっかい夏柑を5個もお土産にいただきました。歩き疲れた身体にはいくぶん重かったですけれど、その重みがメチャメチャ嬉しかったです。それにしても、学校の先生って羨ましくなるくらいに素晴らしい職業だと思っちゃいました。


弟の教え子のお母さんであるご婦人A が、なんと、お子さんの卒業アルバムを持って、港の前で待っていてくれました。ありがたいです。

私とご婦人Aが卒業アルバムを見ながら話していると、地元の人が集まってきて、話の輪に入ってくれました。この男性2人も弟が毎日トレーニングで走って(歩いて)いたのをよぉ〜く覚えていてくれて、そりゃあメチャメチャ速かったよ…などと言ってくれました。ありがたいです。

卒業アルバムに弟が写っていました。担任教諭なので、真ん中に写っています。昭和62年度卒業ということは沖縄国体に出場した時に受け持っていた生徒さん達なのですね。この時、弟は26歳でした。


お土産にいただいた夏柑です。かなりデッカいです。

そういうとんでもなく素晴らしい出会いが、今日はありました。全校生徒20数名の離島の中学校の教師が、教師になって独学で始めた競歩で国体に出場し12位になったことといい、今回の出会いといい、弟はなんともドラマチックなことを残してくれたものです。弟の凄さというものを実感しました。こういう出会いがあったので、一気に親近感が湧き、初めて訪れた島ではあるのですが、亡き弟のおかげで、「第二の故郷と呼んでもいいくらいの島」ができたような気分になっています。景色は興居島や中島以上に綺麗だし。港の桟橋から眺めても、綺麗に澄んだ海の中に魚がウジャウジャ泳いでいるのが確認できますし。また季節を変えて必ず訪れようと思っています。弟が毎日練習を積んだであろう周回道路「睦月スカイライン」の東半分を歩くのをまだ残していますし


睦月港1448分発の三津浜港行きのフェリーが定刻通りにやってきました。睦月港に寄港するフェリーは14便。次の船は1808分。なので、ちょっと早いですが、このフェリーで松山に帰ることにしました。

睦月島が小さくなっていきます。また、絶対に来ますね。

さぁて、次の鉄分補給はどこに行こうかな?

 

【追記】

中島汽船のフェリーの船内で案内放送のつど流れる坂本冬美さんが歌う旧中島町イメージソング『白いかおりの島へ』です。忽那諸島の島々は、まさにその歌のとおりのところでした。

『白いかおりの島へ』YouTube 坂本冬美+中島汽船プロモーションビデオ







愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...