2019年11月25日月曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その9)

1日目で甲州街道歩きも終了したので、2日目の930日はエピローグとして諏訪大社観光でした。それも歩きではなくて、観光バス利用の()
前述のように、諏訪大社は、諏訪湖の周辺に4箇所のお宮をもつ神社です。諏訪湖を挟んで南に「上社(かみしゃ)」、北に「下社(しもしゃ)」があり、「上社」には「本宮(ほんみや)」と「前宮(まえみや)」、「下社」には「秋宮(あきみや)」と「春宮(はるみや)」の2つずつのお宮があります。下社の秋宮は前日に訪れたので、この日は残りの3つの神社を訪れます。

まず向かったのは下社の春宮です。まずは春宮の周辺の森を散策します。境内のすぐ横に長い真っ直ぐな棒が何本も保管されています。これは「建方(たてかた)」と呼ばれる人達が御柱を立てる時に使う道具でしょうか。
砥川を橋で渡ります。渡った先が浮島で、ここに浮島社という小さな社があるのですが、どんな大水にも流されず下社七不思議の一つと言われているのだそうです。 
春宮の森、砥川の扇状地の一角の畑の奥に石仏が鎮座しています。「万治(まんじ)の石仏」です。ここの石仏は普通の石仏とは違い、大きな自然石の上に首がちょこんと乗っているだけの稚拙な感じがするユニークな形をした石仏なのですが、この石仏は「芸術は爆発ダァ~!」で有名な画家・岡本太郎さんが「こんな面白いものは見たことがない」と激賞した石仏なのだそうです。不格好ではありますが、確かに岡本太郎さんが好みそうな石仏です。作家・新田次郎さんはこの石仏を見て、イースター島のモアイ像を連想したそうなのですが、私も同意見です。これは明らかにモアイ像です。ちなみに、“万治”の名は、胴石に「万治三年(西暦1660)十一月一日 願主」の刻銘があることによるのだそうです。 
伝承によると、この石仏は、石工職人達が諏訪大社下社春宮に石の大鳥居を造る為にこの石仏に使われている石を材料にしようと鑿を入れたところ(その鑿は現存しているそうです)、傷口から血が流れ出てきたため職人達は祟りをおそれ、その晩に職人達が夢枕で上原山に良い石材があるという夢を見て、探しに行ったところ運よく見つけることが出来たので、職人達はその石を彫って頭部を作り、この石仏を阿弥陀如来として祀ったのだそうです。 
「万治の石仏」にはお参りの仕方というものがあって
1.正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる
2.石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する
3.正面に戻り、「よろずおさめました」と唱えてから一礼する
のだそうです。

皆さん、お参りの仕方に忠実に従って参拝しています。もちろん私もこの列に入って石仏の周囲を三周回りました。 
ちなみに、「万治の石仏」の近くには「万治の石仏」に感動した岡本太郎さんの碑が立っています。「こんな面白いもの見たことがない」との自筆の書が刻まれているそうですが、時間の関係で立ち寄れませんでした。 
「万治の石仏」のあたりからは春宮の背後の森が見えます。裏から見る感じになるのですが、写真中央奥に春宮三の御柱が立っているのが分かります。春宮の御神木とされる杉の巨木を見つけたかったのですが、それはよく分かりませんでした。 
「おんばしら館よいさ」で、7年に一度開催される「御柱祭」に対する諏訪人の思いとその迫力を楽しみました。これは凄い祭りです。
諏訪大社春宮に着きました。入口の御影石の大鳥居は万治2(1659)の建立と推定されていて、「万治の石仏」と同じ作者(石工)の手によるものだと言われます。この大鳥居のある社頭からJR下諏訪駅方向に真直ぐ800メートルほど伸びる道路は、かつては春宮の専用道路で、多くの武士達が流鏑馬を競った馬場でもありました。 
春宮の大鳥居のすぐ近くに下馬橋(げばばし)という屋根付きの太鼓橋があります。かつては御手洗川(みたらしがわ)がこの橋の下を流れていたのですが、今は川は埋められ、道路に橋だけが残っています。この下馬橋は室町時代の建立ですが、建築様式は鎌倉時代のもので1730年代の元文年間に修築されました。下社では現存する最も古い建物の一つで、下社の御祭神が秋宮から春宮へ、反対に春宮から秋宮へ遷される「遷座祭」の折に、神輿はこの橋を渡ります。 
諏訪大社春宮を参拝しました。 
境内に入ると、中央に神楽殿が出迎えてくれます。ブットイ注連縄(しめなわ)が見事です。この春宮の神楽殿は修改築が幾度となくなされているということで、申し訳ないけれど、前日に見た秋宮の神楽殿のような圧倒的な存在感までは感じられません。
その神楽殿の裏に、国の重要文化財に指定されている幣拝殿が建っています。その幣拝殿の左右の建物を片拝殿といい、この片拝殿も国の重要文化財に指定されています。ちなみに、幣拝殿と片拝殿を合わせたものを総称として“拝殿”と呼ぶようです。 
春宮の幣拝殿は「御門屋(みかどや)」とも言われ、天正6(1578)に下馬橋と共に造営されたものです。現在の建物は、地元の大隈流宮大工・柴宮(伊藤)長左衛門矩重の手によるものです。安永6(1777)、秋宮を諏訪立川流の立川和四郎富棟が請負うことを知った高島藩御用の地元の宮大工・柴宮(伊藤)長左衛門矩重は兄の伊藤儀左衛門と相談して、春宮の建築を秋宮と同じ絵図面で、35両扶持米(ふちまい)なしで請負い、不足分は自分で勧化(かんげ)して造る旨の一札を出しました。これは採算を度外視した秋宮の半額以下の条件で、立川流と競り合う形となり、すぐ仕事にかかりました。秋宮より遅く始めたのですが、安永8(1779)6月に、秋宮より約1年早く工事を終えています。 
ちなみに、立川流と大隈流は江戸時代を代表する宮大工の2つの流派。中でも大隈流は完成した「規矩(きく)(規則・技法)を持った当時全国に知れた一派でした。この春宮も一間一戸の楼門造りの幣殿と拝殿で見事です。屋根は切妻造平入の銅板葺き。正面は軒唐波風をつけ、二階四方は吹き放ちとなっています。左右の片拝殿は、桁行柱間5(11メートル)、梁行柱間1(3.1メートル)、屋根は棟を上げ「片流招屋(かたながれまねきや)造り」で、正面側に屋根が長く裏面側は短くなっています。三面は吹き放ち、裏面に格子窓がはめてあります。 
拝殿正面には、飛末をあげる波から上層に向かって、水・空・地の構成で彫刻を配置しています。梁の上には牡丹の花咲く岩野に戯れる親子獅子、上層中央には二体の麒麟、さらには雲をまく龍や鶴…と技術の高さが窺える様々な彫刻に囲まれ見事です。また、幣拝殿内部の桁に巻きついた守護龍には迫力があります。両脇には雌雄の鶏、欄間の獅子が彫られているなど、彫刻の構成はあまりに見事で、大隈流の代表作と言えるのだそうです。

拝殿の奥には、神明造りの御宝殿があります。前述のように、諏訪大社は御本殿をもたない神社としても有名で、この御宝殿の奥には建物がありません。その代わりとして、下社の春宮では御宝殿の奥の杉の御神木を御神体としてお祀りしています(秋宮は一位の木)

御宝殿の四隅には御柱が建立されています。この御柱は7年毎に行われる御宝殿の造営とともに建て替えられ、この御柱は昨年平成28(2016)に建て替えられたものです。
この春宮の上を中山道が通っていて、御柱はその中山道を通って運ばれてきて、この「春宮上(はるみやうえ)」と呼ばれる地点から急傾斜の斜面を木落されます。境内に曳きつけられた春宮一から春宮四の4本の御柱は、「冠落しの神事」が行われ、柱の先端を三角錐の形に化粧直しされます。その後、「建御柱」が行われます。この建御柱は「建方(たてかた)」と呼ばれる人達が中心となって執り行われ、4本の御柱が御宝殿の四方を取り囲むように垂直に立てられます。直径約1メートル、長さ約17メートル、重さ約10トンにもなる樅(モミ)の木の巨木を重機も用いず、人力だけで真っ直ぐ垂直に立てる…、物凄い技術だと思います。その神事を遥か昔からやっていたとは……。感嘆以外の言葉が出ません。ホント凄いことだと思います。 
ちなみに、下社の秋宮に立てられる秋宮一から秋宮四の御柱は、春宮上から急傾斜の斜面を木落され、いったん春宮の境内を経由して、秋宮を目指して運ばれるのだそうです。


……(その10)に続きます。


2019年11月24日日曜日

甲州街道歩き【第16回:茅野→下諏訪宿ゴール】(その8)

記念撮影後は諏訪大社下社秋宮を訪れました。

諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所のお宮をもつ神社です。諏訪湖を挟んで南に「上社(かみしゃ)」、北に「下社(しもしゃ)」があり、「上社」には「本宮(ほんみや)」と「前宮(まえみや)」、「下社」には「秋宮(あきみや)」と「春宮(はるみや)」の2つずつのお宮があります。諏訪大社は十二支の寅、申の年の7年毎の「御柱祭」と呼ばれる天下の奇祭があることで知られています。信濃国一之宮で神位は正一位。全国各地に5,400社余りある諏訪神社の総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。諏訪大社の歴史は大変古く、古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したとも書かれています。
諏訪大社の最大の特徴は、本殿と呼ばれる建物がないことです。下社でも「秋宮」は一位(イチイ)の木を、また、この「春宮」は杉の木を御神木とし、上社は御山・守屋山を御神体として拝しています。古代の神社には社殿がなかったとも言われています。つまり、諏訪大社はそうした古くからの原始信仰の姿を今に伝える神社で、こうした神社の建て方は「諏訪神社造り」ともいわれています。祀られている主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)の子・建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃である八坂刀売神(やさかとめのかみ)。両方の神を合わせて、「諏訪大明神」と呼ばれています。

諏訪大明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神、すなわち、農業の神様です。諏訪大社の下社は春になると、神が山から里に下ってきて農耕を司るということから、その年の農作物の作柄を占う「筒粥(つつがゆ)神事」が毎年114日の夕刻から翌未明にかけて、夜を徹して行われます。下社の「春宮」と「秋宮」ですが、下社の御祭神は21日に春宮に遷され、81日になると秋宮に遷されるので「春宮」、「秋宮」と呼ばれるのだそうです。その下社の御祭神の移動を祝う祭りのことを「遷座祭」と言います。

また、諏訪大明神は古くから軍神(武勇の神)としても広く崇敬され、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたとも伝えられています。現在は生命の根源・生活の源を守る神として御神徳は交通安全・縁結び・産業の神と広大無辺で、1年を通して多くの方が参拝に訪れています。

さすがに諏訪大社。手水舎も立派です。諏訪湖の竜神伝説にちなんだ龍の口から水が流れ出ています。手水舎で手水をとり、心身の穢れを清めてから鳥居を潜り、御神前に進みます。
鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木は「根入の杉」と呼ばれ樹令は約八百年の御神木です。前述のように秋宮はイチイの御神木を御神体としているのですが、まずは杉の巨木です。

身長1.7メートル、青銅製では日本一と言われる狛犬を両脇に従えた秋宮の神楽殿は三方切妻造りで、諏訪立川流の宮大工・2代目立川和四郎富昌の手により、天保6(1835)に完成したものです。この秋宮の神楽殿は、国の重要文化財に指定されており、諏訪大社と言う古い歴史を持つ神社に相応しく、圧倒されるほどの存在感のある佇まいです。
目を引く「大きな注連(しめ)縄」は、地元の下諏訪町の氏子有志による「大しめ縄奉献会」の方々が、わざわざ出雲から注連縄職人を呼び寄せて作らせたものだということのようです。出雲大社の注連縄とよく似ており、長さが13メートル、重さは約500kgほどもあるといわれています。出雲大社型の注連縄としては日本一の長さなのだそうです。

神楽殿の奥に、二重楼門造りの弊拝殿と左片拝殿及び右片拝殿から成る拝殿が横に並んで建っています。これらの建物も国の重要文化財に指定されています。この拝殿は江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されており、現在の建物は安永10(1781)春に諏訪立川流の宮大工・初代立川和四郎富棟が棟梁となって落成しました。この秋宮も春宮も社殿の建替が諏訪藩によって計画された時、基本的に同じ絵図面(設計図面)で建てられたものなので、大きさこそ微妙に違っていますが、神楽殿と弊拝殿、左右の片拝殿、御宝殿と続く建物の配置等、その構造は全く同じで、瓜二つと言っていいくらい非常によく似ています。 (ちなみに、幣拝殿と片拝殿のみで本殿を持たない、諏訪大社の建物様式は「諏訪造り」と呼ばれる独持の様式です。)
ただ、この秋宮の建築を請け負ったのが前述のように諏訪立川流の宮大工・初代立川和四郎富棟、いっぽう春宮の建築を請け負ったのが地元の大隅流の宮大工・柴宮(伊藤)長左衛門。この両者、激しいライバル関係にあったようで、春宮を請け負った大隅流の柴宮(伊藤)長左衛門のほうは秋宮より後から着工したにもかかわらず、秋宮より1年早い安永9(1780)に竣工しました。また春宮・秋宮両社の建築は建物に施された細かい彫刻において、宮大工界を二分する両派、両棟梁の技が競われているのだそうです。特に秋宮の建設を請け負った諏訪立川流は彫刻の巧みさ・美しさに特徴があるのだそうで、近寄ってみると、見事の一言です。昔の宮大工の技というものには感嘆させられます。
拝殿奥の神明造りの建物は御宝殿で、新しい方を神殿、古い方を権殿と呼び、寅年と申年毎に左右の遷座祭を行います。諏訪大社の宝殿は上社、下社共に平素二殿並んでいます。室町時代の記録では新築後六年間雨風に晒し清めて御遷座をなし、直ちに旧殿を解体新築という形式だったようですが、いつしかこれが逆になり、祭典の直前に旧殿を建て直して新殿に御遷座するようになったのだそうです。

前述のように、諏訪大社は御本殿をもたない神社としても有名で、この御宝殿の奥には建物がありません。その代わりとして、下社の秋宮では一位の木を御神体としてお祀りしています (春宮では御宝殿の奥の杉の御神木を御神体としてお祀りしています)

御宝殿の四隅には4本の巨大な御柱が建立されています。この御柱は7年毎に行われる御宝殿の造営とともに建て替えられ、この御柱は昨年平成28(2016)に建て替えられたものです。既に3年が経過しているので、風雨に晒されて、少し木の表面に味わいが出てきています。
秋宮の境内には、諏訪湖の竜神伝説にちなんだ龍の口から温泉がこんこんと湧く「御神湯」があります。手をはじめ身の穢れを清めるための手水舎で、「長寿湯」といわれているそうなのですが、ここの下諏訪温泉の源泉の温度は49℃ということなので、ハッキリ言って熱い!です。でも、ご利益がありそうですね。
この日のコースは広い意味での諏訪大社の境内を進みようなコースで、比較的距離も短く、基本、下り坂で、甲州街道完歩のビクトリーロードのような感じでした。この日は16.9km、歩数にして22,939歩、歩きました。

観光バスに乗車して宿泊するホテルに向かう途中で、それまでの青空が一天にわかに掻き曇り、激しい雨になりました。大粒の雨が音を立ててバスのフロントガラスを打ちつけます。天気予報の「曇り時々雨」は当たりました。しかし、私達は一粒の雨に当たることもなく、街道歩きを楽しむことができました。今回も『晴れ男のレジェンド』は健在でした。
宿泊するホテルに着いてからの宴会では全16回の完歩者に「甲州街道45宿 完歩証明書」が授与されました。今回は34名の方が完歩証明書を授与されたのですが、私は前述のように1区間(【第11回】真木笹子間)が所用があって不参加だったので、残念ながら完歩証明書をゲットできませんでした。いつかこの区間を踏破して、完歩証明書をゲットしたいと思っています。
この女性5人組は東海道に引き続いての完歩。もともとは1人参加の方ばかりで、東海道を歩いている間で仲良くなり、お互いに励まし合いながら東海道を完歩。続いて甲州街道も完歩で、現在は中山道を京都三条大橋目指して歩いているのだそうです。素晴らしいですね。
最後は甲州街道完歩最高齢の方がご挨拶。82歳なのだそうです。お元気ですね。私もまだまだ頑張ろう!!と、元気を分けて貰いました。
ですが、ここで残念なお知らせ。これまで中山道、甲州街道と歩いてきたのですが、松山大学の非常勤講師としての講義も始まったので、これからしばらく大好きな「街道歩き」をお休みする…という苦渋の決断を行いました。もちろん、日帰りの単発で峠越えなどの街道歩きは継続するつもりですが、◯◯街道完歩といったシリーズは一時お休みです。完全にリタイアしてから、心置きなく街道歩きを楽しみたいと思っています。なんと言っても、中山道はちょうど中間地点の宮ノ越宿で中断していますので、京都三条大橋までの残りを歩かないといけませんし、街道歩きのメイン「東海道」を残していますから。


……(その9)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...