2018年11月22日木曜日

甲州街道歩き【第10回:猿橋→真木】(その4)

昼食を終え、甲州街道歩きの再開です。

駒橋宿は小規模な宿場であったと書きましたが、宿場の長さは10(1.1km)余という長い区間に渡り、国道20号線に合流してからも味わいのある民家をポツポツ見ることができます。


木造2階建、切妻、出桁造り非常に趣きのある町屋造りの家があります。橿屋(たじや)という旅籠だったお宅です。


このあたりが駒橋宿の諏訪方(西の出入口)でした。


ラーメン店のところで斜め右側の側道に入ります。こちらが旧甲州街道でした。この分岐を曲がらずに国道20号線を直進すると左手に大槻三嶋神社があります。大槻三嶋神社も、猿橋の三嶋大明神と同様、平安時代初め、この地方が開拓され、村落が生まれつつあった大同元年(806)に、伊予国(愛媛県)大三島の大山祇神社より勧請されたものだということのようです。富士山の噴火が相次ぎ、田畑山林の荒廃が厳しいため、富士即木花咲耶姫命の御怒りを鎮むべく、父神に坐す大山祇命をお迎へし、復興の精神的よりどころとしたと伝えられているそうです。大月の総鎮守で、境内には大槻紀念碑があります。境内に樹齢約1200年の大槻(おおつき)と呼ばれるケヤキ()の古木が4本あり、これが大月の地名の由来となりました


その大槻三嶋神社には立ち寄らず、岩殿山に向かうような形で先へ進みます。


JR中央本線の線路が見えてきました。まもなくJR大月駅のようです。またこの道を下っていく道が大月市街から岩殿山へのハイキングコースのようです。


大月駅です。この大月駅にはJR東日本の中央本線と、富士急行の大月線が乗り入れていて、富士急行の大月線はこの駅を起点としています。東京駅・新宿駅とこの駅を結ぶ快速電車が朝夕を中心に運行されていて、その中にはこの大月駅で前4両を切り離し、富士急行線河口湖駅まで直通するものもあります。JR東日本の駅舎は丸太造りの平屋建て、山小屋風の建築物で昭和3(1928)11月に完成したものです。古いわりには、なかなかお洒落な駅舎です。


こちらは神社のような鳥居が建っています。さすがに霊山富士山の麓に向かう路線の起点駅です。富士急行線は、富士急行が運営する鉄道路線で、この大月駅から山梨県富士吉田市にある富士山駅までを結ぶ大月線と、富士山駅から山梨県南都留郡富士河口湖町にある河口湖駅までを結ぶ河口湖線の2路線があり、直通運転を行っています。線形は、最急40‰(パーミル)の急勾配と半径200メートル前後の急曲線が小刻みに連続する山岳路線で、大月駅(標高358メートル)から富士山駅でスイッチバックし、終点の富士山麓の河口湖駅(標高857メートル)まで約26.6kmで約500メートル登ります。


駅前に「甲州街道 大月宿」の標柱が立っていますが、実は大月駅周辺は大月宿ではありません。大月宿の江戸方(東の出入口)はもうちょっと先です。


大月駅を出てJR中央本線に並行して歩くと、「さつき通り」に入ります。どこにでもある商店街って感じの通りですが、実はこの通りが旧甲州街道でした。言われてみると、道幅が狭く微妙にカーブもしていて、なんとなく昔の街道跡らしい感じはします。


お菓子屋さんのようですが、こんな歴史を感じさせる古い商家もありますし


「さつき通り」を抜け国道20号線に合流するこの大月二丁目交差点のあたりが大月宿の江戸方(東の出入口)でした。ここからが大月宿となります。これは、大月宿の人々が宿の近くに鉄道の施設ができることを嫌ったためだと言われています。


大月宿は富士街道との追分を控え、富士講の人々で大いに賑わった宿場でした。天保14(1843)の甲州道中宿村大概帳によると、大月宿の宿内家数は92軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋1軒、旅籠2(1軒、小1)で、宿内人口は373(171人、女202)でした。元は駒橋と合わせた一村だったのですが、寛文年間(1661年〜1673)に分村し、それぞれ駒橋宿、大月宿を形成しました。なので、駒橋宿と大月宿の間の距離が短いのです。


大月市役所前を通り過ぎると左手に「明治天皇御招所址碑」の説明碑が建てられています。ここが大月宿の溝口本陣跡です。当主は代々溝口五左衛門を襲名していました。道路向かい側に脇本陣が有ったようなのですが、今はその痕跡は残っていません。


さらに宿並を進むと富士急行大月線の線路を越えます。向こうに見えるのは富士急行の上大月駅です。いかにもローカル線って感じの味わいのある駅です。



その先で大月橋東詰に突き当たります、ここが富士山道との追分(分岐点)です。ここを左折していく道が富士山道です。昔は富士山と身延山を中心に山岳信仰が展開され、江戸の庶民を中心に富士講が拡大し、甲州街道は信仰の道として利用され、富士山道と分岐する大月宿は富士講の行者達で大いに賑わいました。この追分には文久2(1862)建立の道標「右甲州道中 左ふじミち」、並びには名号碑道標、津島牛頭天王社、馬頭観音、文政13(1830)建立の常夜燈などが建っています。


江戸時代、大月橋はなく、この追分はT字路の構造をしていました。左折すると富士山道でしたが、右折すると甲州街道でした。現在、この旧甲州街道の道筋は消滅してしまっています。なので、いったん「明治天皇御招所址碑」の建つ溝口本陣跡のところまで戻り、溝口本陣跡前の交差点を左折して迂回します。


富士急行大月線、次いでJR中央本線を跨ぎ、次の交差点を左折します。



……(その5)に続きます。

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