2018年8月27日月曜日

甲州街道歩き【第6回:高尾→相模湖】(その1)


623()、甲州街道歩きの【第6回】に参加してきました。この日はJR高尾駅から小仏峠を越えて、途中、駒木野宿、小仏宿、小原宿、与瀬宿という4つの宿場跡を経てJR相模湖駅まで歩きます。 この日の天気予報は「曇り時々雨」。見上げると前日までの青空とは一転して、一面の雲に覆われています。1週間ほど前からこの予報はいっさい変わらず、見事的中ってところです。高尾駅を出発する時はまだ雨は降ってきていませんが、これから標高の高いところに登っていくので心配です。いちおう雨具(雨ガッパ)は用意していますが、相模湖駅に到着するまで、酷い雨に当たらないことを祈るばかりです。


軽くストレッチ体操をして出発です。しばらく国道20号線を歩きます。


この辺りに”獅子淵”と呼ばれる小さな渓谷があります。このすぐ先で高尾山の北側を流れる小仏川と南側を流れる案内川が合流し南浅川となり、そこから下って150メートルばかりのところです。JR中央本線のガードの下を潜ります。


そのJR中央本線のガードの下は両界橋という橋になっています。この両界橋は南浅川に架かる橋で、江戸時代から橋が架けられていました。普段の川幅は二間(3.6メートル)ほどなのですが、増水時には十間(18メートル)もの川幅になったと伝えられています。この両界橋のすぐ上流で、高尾山の北側を流れてきた小仏川と南側を流れてきた案内川が合流して南浅川となるので、両界橋と名付けられたのだそうです。


両界橋のたもとに古いたたずまいを残す家屋があります。ここは「花屋旅館」(草土水房)といい江戸時代に創業された古い旅館です(現在は廃業)。ここで作家・中里介山は未完の長編時代小説『大菩薩峠』の「小名路の巻」などを書き上げたといわれています。小名路と書いて”こなじ”と呼びます。小名路はここのあたりの地名で、この名前のバス停もあります。両界橋の北側奥に1364年に開山された金南寺(こんなんじ)という枝垂れ桜で有名な寺院があり、小名路(こなじ)はこの寺の寺号に由来していると言われています。この近辺は江戸時代には宿場町としてそれなりに賑わったそうで、高尾駅北口を出てここまで来る間にも「川原宿(かわらのしゅく)」というバス停がありました。

ちなみに、中里介山作の長編時代小説『大菩薩峠』は、1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編です。幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描いた作品です。連載は約30年にわたり、話は幕末から明治の時代に入らずに架空の世界へと迷い込み、作者の死とともに未完のまま終わっています。大衆文学の傑作と呼ばれることもあり、片岡千恵蔵さん、市川雷蔵さん、仲代達矢さんが主人公の盲目の魔剣士・机竜之介を演じて何度も映画化されました。また、平幹二朗さん主演でテレビドラマ化もされました。ちょっと難解なところもあり、残念ながら私は観ていません。

ちなみに、この花屋旅館には小仏関跡の除幕式に参加するために与謝野晶子や野口雨情などが宿泊しましたという記録が残っているのだそうです。現在は廃業していて営業はしていませんが、現在でも玄関の軒先に小さな旅館の表示があります。江戸時代創業とのことですが、建物はどう見てもそんなに古くはなさそうなので改築されたもののようです。


この両界橋は多重構造で、一番下を南浅川が流れ、その上に甲州街道、そしてその上にJR中央本線の第一淺川橋梁が跨っています。 この両界橋と立体交差しているJR中央本線の第一淺川橋梁ですが、下り線の高尾側に開通当時に作られた煉瓦壁が確認できます。東京市内の御茶ノ水駅を起点に、飯田町、新宿 を経由して多摩郡を横断し、甲州を目指した甲武鉄道が新宿駅〜八王子駅間を開業したのが明治22(1889)のこと。甲武鉄道はその後御茶ノ水までの延伸に力を入れ、明治37(1904)には御茶ノ水駅〜八王子駅間の開業にこぎ着けたのですが、甲武鉄道とは別に官設鉄道(後の日本国有鉄道)が明治34(1901)に小仏トンネルを開通させ、八王子駅 〜上野原駅間のうち浅川駅(現在の高尾駅)〜与瀬駅(現在の相模湖駅)〜上野原駅間を開業させました。この第一淺川橋梁下り線の高尾側の煉瓦壁はその時のものです。

ちなみに、甲武鉄道の御茶ノ水駅〜八王子駅間はその5年後の明治39(1906)に鉄道国有法に基づいて買収・国有化され、官設鉄道により敷設された八王子以西の区間もあわせて、国鉄中央本線として現在の形のように整備されることになります。また、上り線に煉瓦壁がないのは、もともと単線だったのを後年コンクリートを足して複線化したためです。高尾駅~小仏トンネル間の複線が開通したのは昭和37(1962)のことです。

小名路のバス停を過ぎた西浅川のT字路交差点を右折して国道20号線から分かれ、東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線に入ります。この東京都道・神奈川県道516号浅川相模湖線は、東京都八王子市の国道20号線西浅川交差点から神奈川県相模原市緑区の底沢橋付近の国道20号線に至る東京都道・神奈川県道で、この道が旧甲州街道です。距離的には小仏峠を通るこの旧道の方がかなり短いルートとなります。ただ、都県境の小仏峠を挟んだ前後の区間は山道になっていて、自動車の通行はできません。

かつて、この小名路では小仏関所破りの罪人が処刑・磔にされたといいます。『高尾山誌』には、浅川に架かる両界橋際に「小名路の磔場」と呼ばれる処刑場があり関所破りを磔刑した場所だと書かれているのだそうです。磔場にあったとされる供養仏の石地蔵は、金南寺に移されています。


ここからは左に小仏川、右にJR中央本線に挟まれた緩い登りの道となり、旧街道らしい雰囲気の漂う道に変わります。道路の両側には住宅が建ち並んでいるのですが、これさえこの先に宿場を抱えた当時の名残のように感じられます。いよいよ本格的な甲州街道歩きの区間に入りました。旧街道歩きのスイッチが急に入った感じです。

それにしても、この甲州街道、八王子市高尾を境に雰囲気がカラッと変わります。江戸の日本橋を出てから八王子市の高尾までの5回は街道歩きで言うところの「繋ぎの区間」で、クルマの交通量の多い国道20号線にほぼ沿うように日本の首都東京のベッドタウンの住宅街の中を歩いてきたのですが、この高尾からはそれが一変!   いきなりの林道→山道に入り、本格的な旧街道歩きになります。これが甲州街道の魅力なのでしょう!    こんな急激な雰囲気の変化は東海道にも中山道にも奥州街道(日光街道)にもありません!  ちなみに、これまでの「繋ぎの区間」はクルマの排気ガスを吸いながら歩くのは真っ平御免と言っていた妻も、今回の【第6回】から一緒に歩いてくれることになりました。


「八王子市 高尾駒木野庭園」の文字が書かれた幟が立っています。この高尾駒木野庭園は、親しみやすく本格的な日本庭園として平成244月に開園した八王子市立の庭園です。旧甲州街道から見えるこの建物は、この隣にある駒木野病院の前身である小林病院の住居兼医院として利用されていたものです。大正時代に建設された平屋の母屋と、昭和初期に増築された二階屋で構成されている本格的な日本建築です。敷地面積2,900平方メートル(880)の庭園は、池泉回遊式庭園と枯山水庭園、露地(茶庭)から構成されているのだそうです。入口から入ると、まず目に入るのは盆栽棚。樹齢60年以上のもみじや蝦夷松、真柏などが整然と並んでいます。園内中心にある心字池をのぞくと、有名な大正三色や昭和三色、全身金色に輝く山吹黄金など、色とりどりの錦鯉が泳いでいます。回遊式庭園だけあって、池周辺には散策路が整備されており、藤棚の下にベンチも備えられているのだそうです。建物の1階部分には自由に入ることができ、縁側から見る高尾の山々を背にした庭園の眺めは素晴らしく、時の経つのを忘れてしまうと言われています。一番奥の和室からは、枯山水庭園を楽しむことができ、一服の日本画を目の前で見ているような光景に心が安らぐと言われています。そういう話をお聞きすると立ち寄ってみたい衝動に駆られますが、ここは時間の関係でスルーです。機会があれば訪れてみたいところです。


駒木野という文字が出てきましたが、この駒木野病院の建っているあたりが駒木野宿の江戸方(東の出入口)でした。


赤い前掛けをした可愛らしいお地蔵さんが並んで立っています。おそらく道路を改修する時に、このあたりの旧甲州街道沿いに立っていたお地蔵さんを集めて祀ったものではないか…と思われます。お地蔵さんや庚申塔、馬頭観音、道祖神といった石像・石仏は旧街道のシンボルともいうべきもので、これらを見ると、「旧街道を歩いているぞ!」とテンションが高まってきます。


駒木野橋を渡ります。区画整理で橋が無くなったため、橋に嵌め込まれていた橋の名前の表札が、記念に石碑に埋め込まれて保存されています。


駒木野橋を渡ってすぐのところにあるのが小仏関所の跡です。小仏関所は武蔵国と相模国の国境、高尾山の小仏峠周辺に設けられた甲州街道の関所の1つです。江戸時代、甲州街道に設けられた幾つかの関所(多くは口留番所)の中でもっとも堅固と言われた関所で、東海道の箱根関所、中山道の碓氷関所とともに「関東の三関所」とも言われました。


天正年間(1573年〜1592)に北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝の地である小仏峠の頂上に国境警備のために築いたのがはじまりで「富士見の関」と言われ、その後麓に下ろされ、更に北条氏滅亡後の天正18(1590)に関東の地に入った徳川家康によって、元和2(1616)現在地に移設され整備されたといわれています。


小仏関所の役目は、他の関所と同じく鉄砲と婦女の通過の取り締まりでした。特に「入り鉄砲に出女」は最も警戒され、江戸への武器の持ち込みと、人質として江戸住まいさせている諸大名の妻妾たちの脱出を厳しく監視したそうで、関所破りは磔(はりつけ)の極刑に処されるほど、厳重な取り締まりが行われていました。確かに関所の周囲を見回すと、この地は北側が山に閉ざされ、南側が小仏川に阻まれた天然の要害となっており、この関所を通らずして江戸に出入りするのは難しそうなのですが、記録によればこれほどの厳罰が用意されていながらも関所破りは絶えなかったようです。当時、博徒などの前科者は手形の発給をされなかったため、江戸を離れるには山谷を逃亡するしかありませんでした。その関所の厳しさと通行手形の重要性を伝えるものが、今も石碑の前に残っています。地面に置かれた二つの自然石は、一つは手形を置く「手形石」で、もう一つは通行人が手を付き頭を下げるための「手付石」です。


江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に間口5間、奥行3間の番所が設けられていました。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていました。関所周辺には竹矢来が組まれ、川底も深くして通行人の往来を規制していました。江戸からやって来た旅人は駒木野橋を渡って東門から柵に囲われた関所に入り、現在も残っている手形石に手形、もう一つの手付き石に手をついて通行の許しを待ちました。許しを得ると西門から出て行きました。


この関所は道中奉行の支配下に置かれ、関所の警備は当初は八王子千人同心等が関所番を務めていましたが、寛永18(1641)からは川村・佐藤・小野崎・落合の4家が専従で関守を代々引き継ぎました。関守達は関所付近に屋敷地を貰い、江戸との繋がりも深く、関守達は江戸との交流などで教養を身につけ、地域の文化を担う文化人でもありました。甲州街道の性格上、この関所はもともと西を睨んだ軍事的な意味合いの強い関所であったのですが、太平の世が続くに従い、武よりも文に役人の興味が自然に移行していったといえそうです。ちなみに、幕末に関守家の1つ落合家は倒幕運動に走ったと言いますから、先祖から受け継いだ役割も幕末の過激な尊皇攘夷に飲み込まれてしまったともいえます。

全国の関所は、明治2(1869)の太政官布告により廃止されます。小仏関所も例外ではなく、建物は取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っているだけです。

明治21(1888)に甲州街道は小仏峠を通る道から、現在の大垂水を越える道へ路線変更されました。その後旧道を保存しようという気運が高まり、関所跡は昭和3(1928)に国の史跡に指定されました。現在は旧道の面影を残し、また梅の名所としても知られ、シーズン中はハイキングの人たちで賑わうのだそうです。


小仏関所の公園の中に「先賢彰徳碑」と刻まれた大きな石碑があります。これは、幕末の志士、落合直亮・直澄兄弟や落合直文の功績を讃えて、浅川好史会が昭和5年に建立したものです。碑文は尾崎行雄の書により、落合直文の弟子である与謝野鉄幹の句が添えられています。

〝すがすがし関所の跡の松風に とこしへ聞くは大人たちのこゑ〟

落合直亮・直澄兄弟は、この小仏関所の関守の家に生まれました。兄の落合直亮は国学者相楽総三に感銘し、家督を弟の直澄に譲って幕末の尊攘運動に身を投じ、薩摩屋敷浪士組の副総裁となり関東の錯乱計画を実行しました。幕府はこれに激怒し、その報復として薩摩屋敷を焼き打ちし、これを発端として幕府と薩長連合の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争へと発展したといわれています。その後、相楽総三が新たに結成した赤報隊は、偽官軍に仕立てられ指導者は捕らえられて下諏訪で処刑されました。相楽総三の無残な死を知った落合直亮は、この策謀者である岩倉具視を殺害しようと押し入ったのですが逆に岩倉に諭され、その人望に忠誠を誓う結果となりました。明治元年落合直亮は、伊那県判事、3年後に伊那県大参事に昇進しましたが、翌4年に冤罪で失脚します。

落合直澄は、直亮の弟で兄とともに倒幕運動に参加。東京帝国大学の国文学教授となり、明治21年に「日本古代文字考」を発表するなど晩年まで神代文字の研究を続けました。

落合直文は、もともと仙台藩士に家に生まれましたが、後に落合直亮の養子となり、ここ裏高尾の駒木野で少年時代を過ごしました。浅香社を創設し詩歌を発表、短歌革新の第一声をあげます。その傘下に与謝野鉄幹らがいます。国文古典の研究、編纂も行い「孝女白菊の歌」「青葉しげれ桜井の」「萩迺家歌集」など歌・作品・著作も多数あります。なお、碑の除幕式には直文の弟子である与謝野寛・晶子夫妻が出席し、次の歌を詠みました。

〝岩魚をばすすきにとふしひたしたる 山のくりやの朝の水おと〟 寛

〝をかしけれ人目の関の掟には あらぬ山がの関の話も〟 晶子


「甲州街道駒木野宿」と刻まれた大きな石碑のが立っています。小仏関所の前後には軒数73軒の簡易宿場のような位置付けの駒木野宿が併設されていました。駒木野宿は上宿・中宿・下宿に分かれ、甲州街道に沿って約10(1.1km)の長さに渡って続いていました。これから通る摺指(するさし)が上宿、関所周辺が中宿で、ここまで来る途中に通って来た小名路あたりが下宿でした。本陣は関所の東隣にあり、脇本陣もその隣にありました。前述のように、関所関係者や小仏峠を越えようとする旅人や越えて来た旅人のための宿場でした。先の第二次世界大戦における八王子大空襲の焼夷弾爆撃により宿場はあらかた消失してしまい、わずかに旧宿場の面影を残すのみになっています。


このあたりが中宿です。


このあたりが摺指(するさし)。上宿があったところです。


街道脇の坂の途中に念仏塔や馬頭観音、徳本名号塔、青面金剛庚申塔などの石塔が並び、その右端の1つに「甲州街道念珠坂」と刻んだ石碑が立っています。念珠坂は年中坂とも呼ばれましたが、菊地正氏の高尾山説話集『むかしでござる』に、次のような面白い話が記載されているのだそうです。

「昔この辺りに銀河夜叉という鬼がいて、夕暮れ時に出没しては人を襲っていた。ある日、里の婆様が高尾山に参詣した。思いのほか遅くなり、婆様が銀河夜叉のことを心配していると、老師が通りかかり数珠をくれた。婆様は数珠を持って山を降り、坂を越えようとした時、案の定、銀河夜叉が現れて襲いかかってきた。婆様は逃げたが足がもつれてひっくり返った。その弾みで数珠の紐が切れ、数珠球がコロコロと坂道を転がりだした。銀河夜叉は数珠球に足を捕られて、坂の下まで転げ落ち大穴に落ちてしまった。それ以来この坂には銀河夜叉は現れなくなったという。」…とね。


その念珠坂の緩やかな上り坂を登っていきます。家は途絶えることなく建ち並び、アパートが多いことから、東京などに通勤するサラリーマンが多く住んでいるのだと思われます。この細い道路ですが、高尾駅北口と小仏との間を結ぶ京王バスの路線バスと頻繁に行き交います。


この「みどり幼児園」のあるあたりに駒木野宿の諏訪方(西の出入口)がありました。ちなみに、この「みどり幼児園」の建物は平成19年に廃校となった八王子市立浅川小学校の上長房分校のものです。この浅川小学校上長房分校は東京都の小学校における最後の分校だったようで、東京都内のそれも八王子市街からそれほど遠くない地域に、こうした分校が存在していたという事実に、少しばかり驚きを感じます。この地域の子どもたちは低学年のうちはこの分校で学び、高学年になるとバスに乗って高尾駅の南にある本校(浅川小学校)に通っていたそうです。


街道の左側を清らかな清流が流れています。


……(その2)に続きます。

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