2020年8月16日日曜日

栄光の松山高知急行線

 公開日2019/5/02

[晴れ時々ちょっと横道]第56回:
栄光の松山高知急行線

5月から新元号『令和(れいわ)』に変わりました。明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)と来たので、今度の元号はあ行(AIUEO)”か、な行(N)”わ行(W)”を予想していたので、ら行(R)”が来たのにはちょっと意外な感じがしました。

 『令和』の出典は『万葉集』。万葉集に収められている梅花の歌、三十二首の序文にある『初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和らぎ(やわらぎ)、梅は鏡前(きょうぜん)の粉()を披き(ひらき)、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす』から引用したものだそうです。また、安倍総理大臣によると、「『令和』には人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている」のだそうです。なるほどぉ~。

日本の元号は、「平成」までの247すべてが中国の古典から引用されたものとされていますが、日本の古典から引用されたのは初めてだということです。これはいいですね。しかもの文字が入っています。「和をもって尊しとなす」は聖徳太子が8世紀に制定したとされる「十七条憲法」の第一条の冒頭にある言葉です。「十七条憲法」は廃止されたとも改正されたとも聞かないので、今も日本人の行動規範の基本中の基本とも言うべきものです。そのの字を使ったことが、ちょっと嬉しいですね。

平成の時もそうでしたが、この新しい元号も最初は違和感がありますが、使っていくうちに馴染み、広く国民に受け入れられるようになると思っています。

 と言うことで、『令和』最初のコラム『晴れ時々ちょっと横道』です。

JR四国バスの高速バスで使用されているスーパーハイデッカー車「三菱ふそうエアロクイーン」のプラモデルです。

ここのところペーパークラフトを幾つか作ってきましたが、今回はプラモデルです。故郷・四国を走るJR四国バスの高速バスのプラモデルを作ってみました。製作したのは青島文化教材社製のプラモデルキットで、JR四国バス(正しくはジェイアール四国バス”)の高速バスで使用されているスーパーハイデッカー車「三菱ふそうエアロクイーン」です。

この「三菱ふそうエアロクイーン」、導入当初は『ドリーム松山号』等の東京と四国各県の県庁所在地を結ぶ深夜高速バス『ドリーム○○号』に使用されたJR四国バスのフラッグシップとも言える花形車両でしたが、2000年に2階建て車両(ダブルデッカー車)の「三菱ふそうエアロキング」が導入された後は、フラッグシップの座をエアロキングに譲り(『ドリーム松山号』はその後さらにスーパーハイデッカー車の新型エアロクイーンに車種が代わっています)、主に大阪や京都、神戸といった関西方面と松山等を結ぶ路線や、高知~松山線や高松~松山線といった短距離の島内高速路線で活躍している車体です(多客時に東京線の『ドリーム号』の続行便(増便用)として使用されることもあります)

縮尺1/32、全長40cm弱という大型のプラモデルですので、随分とリアルで迫力があります。

なので、私の中では、JR四国の高速バスと言えばこの「三菱ふそうエアロクイーンというイメージが固まっているくらいの代表的な車体です (最近は最新型の車両が数多く走っていますが、私の中ではJR四国のバスと言えば、これです)。プラモデルを組み立てるにあたっては、現在の高知~松山線で『なんごくエクスプレス』として活躍する姿をイメージして製作してみました。ナンバープレートが「高知ナンバー」で、行き先が「松山駅・JR松山支店行き」の車体です。

JR四国バスにとって伝統の路線と言えるのが『松山高知急行線』です。まだ四国に高速道路網が整備されていなかった頃、国道33号線(総延長122.9)経由で愛媛県の松山市と高知県の高知市を結ぶこの路線は国鉄(JR)の看板路線でした。四国には高さが1,500メートル以上の山々が屏風のように連なる四国山地が中央を東西に背骨のように横切っています。このため瀬戸内海側の松山市と太平洋側の高知市という2つの隣接した県の県庁所在地の間に鉄道を敷設するのは極めて難しく、松山市から高知市に鉄道で行こうとすると、松山駅から予讃線で香川県の多度津駅に行き、そこで土讃線に乗り換えて高知駅に向かうしかありませんでした (宇和島駅経由で予土線を使うというルートもありますが、こちらもやたらと遠回りになります)

そこで松山市と高知市の間を国道33号線経由でバスで結ぼうとして路線設定されたのが国鉄バスの『松山高知急行線』でした。開業したのはなんと戦前の昭和9(1934)のことで、松山市の有志の皆さんが「鉄道が無理なら、せめて自動車線を」という熱い想いで鉄道省に陳情を繰り返し、なんとか実現した路線なのだそうです。当初は省営自動車(のちの国鉄バス)予土北線・南線と呼ばれ、愛媛・高知県境に近い落出(愛媛県上浮穴郡久万高原町)で乗り継ぐ運行形態でした。昭和26(1951)、両線を繋いで松山駅~高知駅間の急行便の運転を開始、『松山高知急行線』と呼ばれるようになりました。

 『松山高知急行線』とは言うものの、当時はレトロな小型のボンネットバスが主力で、高く険しい四国山地の山中の1車線しかない細い道をクネクネと曲がりくねりながら越えていっていました。戦後も国道33号線が全通するまでは、大型車が通れないような細く険しい山道を通るので、14人乗りのマイクロバス(日本初のワンマンマイクロバスなのだそうです)で運行されていました。1960年代後半になって国道33号線が全通した以降は、松山市と高知市という両県庁所在地間を結ぶ都市間連絡輸送の幹線路線として大型の観光バスタイプの最新車両が次々と投入され、夜行便や特急便(停車場所限定)も含め最大115往復が所要時間3時間半弱で両都市間を結んでいました。全便座席指定が必要なほどで、業績は好調。特に四国旅客鉄道(JR四国)発足当時は、鉄道も含めたJR四国全体の路線の中で唯一黒字のドル箱路線でありました。当時は松山~高知間の本線とは分岐する形で、久万や落出から幾つもの枝線も設定されるほどでした。全便、事前の座席指定が必要なくらい利用者の多い人気路線でした。

こちらは「国鉄専用型式」と呼ばれる国鉄ハイウェイバスのペーパークラフトです。昭和44(1969)の東名高速道路全通を受けて導入された三菱ふそう製のB906R型と呼ばれる車両(1969年式)です。当時の常識を打ち破った高速性能と、空気抵抗を意識したモノコック構造の流線型の車体が特徴です。昭和39(1964)に開通した東海道新幹線を意識して、このB906R型から国鉄ハイウェイバスの塗装は白地に青く太いストライプの塗装に変わり、今に至っています。松山高知急行線は高速道路を通行するわけではありませんが、急峻な四国山地を横断するルートだったので、登坂性能のいい高出力のこの国鉄専用型式と同じタイプのバスが使われていました。

昭和61(1986)に導入された三菱ふそう製P-MS735SA(1986年式)です。「国鉄専用型式」としては最後の形式の車両で、その後は国鉄ハイウェイバスもメーカー標準仕様の車両を使用することになりました。スケルトン構造のP-MS735SA型は車体が角張っているのが特徴です。車体表面のリベットが無くなり、窓も大きくすることができました。さらにハイデッカー車とすることも容易です。この2つの形式の車両を並べてみると、その違いがよく分かります。ちなみに、今年(2019)は東名高速道路が全通してから半世紀の50年です。

この『松山高知急行線』、松山駅を出て伊予郡砥部町に入ると、すぐに四国山地の急峻な地形に入ります。国道33号線のヘアピンカーブが幾つも連続する急な勾配の坂道を一気に登りきると、松山市と愛媛県上浮穴郡久万高原町の市町境にある標高720メートルの三坂峠に出ます。ここまでの道は日本最大の断層である中央構造線そのものを登るような感じになっていて、瀬戸内海側(松山側)は断崖絶壁のようなところもある交通の難所です。よくこんなところに国道を建設したものだと思うほどです(現在の国道33号線ができる前から、旧国鉄はマイクロバスを使って「松山高知急行線」というバス路線を運行していたわけで、驚きます)。この中央構造線上にある三坂峠は国道33号線の最高地点で、瀬戸内海側と太平洋側との分水嶺になっていて、北側の眼下には松山平野と瀬戸内海の美しい風景が望めます(標高が高いので冬期は雪も結構降り、近くにはスキー場もあります)

東温市から見える皿ヶ嶺(標高1,271メートル)です。東温市と上浮穴郡久万高原町に跨る皿ヶ嶺は、東は陣ヶ森、石墨山、堂ヶ森さらには石鎚山と連なる皿ヶ嶺連峰を形成し、西には松山平野と久万高原とを隔てる三坂峠が位置しています。山の北斜面(松山側)は中央構造線に当たり断層が多く見られ、このため中腹までは急傾斜の斜面が続きます。山頂付近にはなだらかな竜神平が広がり、皿を伏せたような山容であるため、皿ヶ嶺という名が付きました。

この三坂峠は前述のように川の流れが瀬戸内海側と太平洋側に分かれる分水嶺になっていて、三坂峠を過ぎるとそれまでの急峻な風景とは一変し、南側はなだらかな久万高原の先に高知県側の山々が続きます。川の流れも変わり、ここから南側に降った雨は太平洋側(南側)に流れます。国土交通省が毎年発表する「全国一級河川の水質ランキング」で、ここ数年、連続1位に輝く仁淀川は四国の明峰・石鎚山に源を発し、高知県高知市付近を河口とする全長約124kmの清流ですが、源流となる川は三坂峠の南側の久万高原町を流れる久万川と面河川です(すなわち、仁淀川の源流は愛媛県です。また、同じ高知県を流れる一級河川である四万十川も清流として全国区の知名度を誇りますが、水の美しさに関しては、実は仁淀川のほうが上ということです)。三坂峠を出たバスは、その日本一の清流・仁淀川に沿って、これまでの道とは一変して、緩やかに続く坂道を太平洋側の高知市に向かって、渓谷美を車窓に眺めながらダラダラと下っていきます。なので、この国道33号線は、四国という島の本質的な地形的特徴を最も実感できる、なかなかに変化に富んだ素晴らしい車窓が楽しめる道路ではないかと、私は思っています。
三坂峠です。標高720メートルの三坂峠から眼下に松山平野(道後平野)が見渡せる光景は絶景です。松山市街の先には瀬戸内海(斎灘)や忽那諸島の島々も見えます。現在は高知松山自動車道開通に向けて整備された三坂第1トンネル(2006年貫通:全長3,097m)および三坂第2トンネル(2007年貫通:全長1,300m)が掘削されたことで、201541日より愛媛県上浮穴郡久万高原町東明神から三坂峠を通り愛媛県伊予郡砥部町大平に至る延長約9.2kmの区間は国道33号線の指定を外され、国道440号線となっています。
ここが標高720メートルの三坂峠で、ここは国道33号線の最高地点になっています。

しかし、1988年の瀬戸大橋開通以降、四国島内でも次々と高速道路網が整備され、特に四国山地の下を長いトンネルで貫く高知自動車道が開通してからは、松山~高知間も快適で時間的にも速く行ける高速道路を利用した移動が一般的になり、平成13(2001)1221日、JR四国バスの『松山高知急行線』も松山自動車道~(川之江JCT)~高知自動車道経由の高速道路を利用した高速バス路線にルート変更がされました。その際、『松山高知急行線』の『なんごく号』という愛称が引き継がれ、『なんごくエクスプレス』という愛称になったわけです。なので、『なんごくエクスプレス』はJR四国バスの数ある路線の中でも、車体側面にデッカク描かれた国鉄時代からの伝統あるツバメのマークが最も似合う、栄光ある伝統の路線というわけなのです(まぁ、あくまでも私の中ではのことですが…)

 私は小学校4年生の時に、父の転勤の関係で松山市の小学校から高知県安芸市の小学校に転校したのですが、その引っ越しの時に乗車したのが『松山高知急行線』の『なんごく号』でした。仲の良かった友達と別れる辛さと未知なる土地へ行く不安から、泣きながら乗ったのを今も覚えています。なので、私の中でJR四国のバスと言うと、どうしても『なんごくエクスプレス』になってしまうんです。

 ちなみに、その伝統の『松山高知急行線』は、高速バス路線にルート変更がされた翌年の平成14(2002)に落出~高知駅間の高知県内区間が廃止され、さらに平成29(2017)3月末には愛媛県内の久万高原~落出間20.0kmも廃止され、現在は愛媛県内の松山駅~久万高原間の区間のみ「久万高原線」の名称で残っていますが、通常の路線バスを使用しています。これまでの『松山高知急行線』の廃止区間のうち、久万高原町内における支線区間や久万高原~落出間は久万高原町の町営バスが、また、落出からJR土讃線・佐川駅(高知県佐川町)までの区間は黒岩観光が代替となるバスをそれぞれ運行しています。

栄光の「松山高知急行線」ですが、現在は愛媛県内の松山駅~久万高原間の区間のみ「久万高原線」の名称で残っています。伝統の国鉄バス塗装が残っているのが嬉しいですね。
久万高原駅の“駅舎”です。さすがにJR四国バスです。バス停留所名にもの名称が付いています。

私が久万高原駅を訪れたのは3月上旬だったので、駅舎の中には幾つもの雛人形が飾られて、バスを待つ乗客達の目を楽しませていました。

久万高原駅の駅舎内に国道33号線の断面のイメージが表示されています。中央構造線は四国の瀬戸内海に近いところを通っているので、松山を出るとヘアピンカーブが幾つも連続する急な勾配の坂道を登って高度を上げ、国道33号線の最高点である標高720メートルの三坂峠を越えるとこれまでの道とは一変して、緩やかに続く坂道を太平洋側の高知市に向かってダラダラと下っていきます。

実はこのプラモデル、10年以上前にふと立ち寄った都内の模型店で見つけて、「四国のバスが模型化されるなんてメチャメチャ珍しい」と思って衝動買いしちゃったものです。バスのプラモデル自体が極めて珍しいものであるうえに、どちらかと言うとマイナーな故郷四国のバスが模型化されるなんてことは奇跡(大袈裟ですが…)だと思って、後で後悔したくないために購入したってわけでした。まぁ〜、その場の勢いってやつです。

JR四国バス「三菱ふそうエアロクイーン」のプラモデルの乗降ドアは開閉することができます。

ですが、当時は会社の仕事がメチャメチャ忙しい盛りの頃だったので、時間的にも気持ち的にもまったく余裕がなかったために、「まっ、そのうち時間や気持ちに余裕ができたら作ろう」と思い、押し入れにしまったままにしていたものです(買っただけで満足しちゃってたようなところもありました)。半年ほど前、妻から命じられて自宅の押し入れの片付けをしていて、発見(発掘)しちゃいました(^^)d。それで、発掘したついでに製作に着手したというわけです。

車内もしっかり作り込んでいて、シートカバーのかかった3列シートの座席が並びます。

実は、その時、こういうその場の勢いで買ったまま(箱に入ったまま)で、まったく手をつけていないプラモデルをあと5つも発掘しちゃいました。これはいかんです。無駄遣いだと妻に叱られています。不思議なことに、忙しくて時間的、気持ち的にまったく余裕がない時のほうが、妙に製作意欲が湧いてしまって、買っちゃうんですよね(^_^;)

プラモデルと言っても、この青島文化教材社製のバスの模型、縮尺は1/32。実車の全長が12メートルという大型バスの模型ですので、全長が40cm近くにもなるかなり大きなものなのです。なので、箱形のバスの模型だと言っても部品の数がメチャメチャ多く、塗装箇所もいっぱいあるので、組み立ては想像した以上に大変でした。休日に時間があるたびにチョコチョコチョコチョコ作っていったので、完成までに約半年もの時間を要してしまいました。(発掘したプラモデルの中で、不用意にも、どうも一番難易度の高い上級者向けのものから、私は手をつけてしまったようです。)

私は“超”の字が付くほど手先が不器用ですし、おまけに還暦を過ぎて3年も経っているので、老眼が進み、手もとの小さい文字がやたらと見えづらくっていけません。なので、細かい部品の取り付けや細かい部分の塗装(筆塗り)で大苦戦。各部で塗装がみっともなくはみ出してしまい、塗装を剥がしての再塗装や修正にやたら時間がかかっちゃいました。

車体が大きいので素材には硬く厚みのあるABS樹脂が使われていて、通常のプラモデルで使用される溶剤系の接着剤や塗料が使えないため、接着剤と塗料選びから始めないといけませんでした(いろいろと試した結果、接着には酢酸ビニル系の木工用ボンドを使用しました。これ、意外と接着強度も強く、使えます)。しかも、中国製なのが原因なのか、はたまた放ったらかしの時間が長かったのが原因なのかわかりませんが、歪みや反りが酷く、組み立てるにあたっては、各部でチョコチョコと整形が必要でした。途中、何度完成を諦めて、放ってしまおうと思ったことか(^_^;) しかも、同時にペーパークラフト製作も並行して行っていたこともあって、実際、3ヶ月近く、途中で作業を投げ出していた期間もありました。

でもまぁ、作り直しや、整形、塗り直し、修正等を繰り返し、スッキリ満足とはいかないまでも、なんとかそれなりの完成にまでは漕ぎ着けることができました。微妙に模型に付属の組み立て説明図と実際の車体に違いがあるのがわかったので、ネットで見つけた実際の車体の画像を参考にして製作し、車体の外側だけでなく、運転席やズラァ~っと並ぶ客座席等、車内までもしっかりそれなりに作り込んでみました(^^)d。車体が大きいし、窓が広いので、ここまでしっかり作り込まないと、見映えがよくなりませんから。実際、30個以上の座席の組み立てを含む室内の組み立てが一番大変でした。組み立てるには、各座席で微妙な歪みの修正を必要としましたし(組み立てを始めた当初は軽く見ていたのですが…)

この背面から見たJR四国バスの塗装の塗り分けが秀逸で、なんともいいですねぇ~。

ですが、私も理系の男の子ですので、プラモデルは子供の頃よく作りましたが、ブランクは40年以上。まったくの初心者に等しく、おまけに、前述のように超不器用で老眼が進んでいるので、最後は妥協と割り切りの産物になっちゃいました。特に10年以上も押し入れの中で眠っていたので、デカールの劣化が激しく、色が褪せてしまっていたほか、貼るときにビリビリ破れて、ジグソーパズルのようにしてなんとか粘り強く頑張って貼った箇所が幾つもあります。一番重要な車体横の燕のマークが悲惨で、それなりに見せるまでには、かなり難産しました(^^;)

細部のことを言い出すと、ああすればよかった、こうすればよかった…とキリがないのですが、ちょっと遠目から眺めてみるとそれなりには見えるので、私的にはギリギリ合格点の作品に仕上げることができたかな…と思っています。そもそも老眼なので、接近して細部を眺めるなんてことはできませんし…()。初心者としては上出来のほうでしょう。さすがに縮尺1/32、全長40cm弱の大型モデルですので、プラモデルと言っても写真に撮ると本物っぽく見えます(まぁ~、大きいので、置き場に困っていますが…)。で、出来上がったJR四国バスをさいたま市の自宅の玄関に飾り、このところ毎朝、出がけにこの“作品”を眺めては、故郷四国に思いを馳せています(^^)d

このJR四国バスのプラモデルを製作したことでしばらく眠っていた理系男子の製作意欲が完全に覚醒されてしまったようなので、さあて、次は何を作ろうかと思っているところです。半年前に自宅の押し入れの中から発掘したプラモデルは呉市交通局のボンネットバスや土佐電鉄の路面電車、プロペラ旅客機ダグラスDC-3等、今ではなかなか手に入りにくいレア物ばかりで、しかも、どれも私が好きで、自分の手で作って手もとに飾っておきたいと思ったものばかり (プラモデルの定番である戦艦や戦闘機、戦車等のミリタリー物やフィギュアと呼ばれるキャラクター物は1つもありません)。今回製作したJR四国の高速バス同様、時間や気持ちに余裕ができたら作ろうと思って購入したものばかりなので、一度火がつくと、ペーパークラフトと同様、やたらと製作意欲が掻き立てられています。

【おまけ】 私が蒐集しているTOMYテック社のバスコレクション(縮尺1/150)から、旧・国鉄バスです。昭和44(1969)に導入された国鉄専用型式から新幹線車両と同様の白地に青く太いストライプの車体塗装になりましたが、それ以前の国鉄バスはこんな感じでした。


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