公開日2019/6/07
[晴れ時々ちょっと横道]第57回:松山行きフェリー(その2)
この広島宇品港と松山観光港を結ぶフェリーは大学時代に何度も乗りました。私にとっては懐かしい航路です。
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広島宇品港を出港した松山観光港行きクルーズフェリーは、途中の寄港地・呉港中央桟橋を目指します。進行方向右側には、かつては海軍兵学校、現在は海上自衛隊の術科学校があることで知られる江田島が続きます。徐々に広島の市街地が遠ざかっていきます。なかなかいい風景です。
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石崎汽船のクルーズフェリー「旭洋丸」は広島宇品港を出港すると広島湾を途中の寄港地、呉港中央桟橋に向かいます。昨年(2018年)7月の西日本豪雨で高速道路も国道も、さらには鉄道のJR呉線も土砂崩れにより不通となり、呉市は文字通り“陸の孤島”になったのですが、広島宇品港〜呉中央桟橋〜松山観光港航路の高速船とフェリー、呉中央桟橋と江田島・小用港を結ぶ高速船とフェリー、広島宇品港と江田島・小用港を結ぶ高速船は運行されていたので、呉市にお住いの皆さまにとっては、この海路のルートがしばらく広島市内に行く“唯一の足”になっていました。瀬戸内海に面した地域では、防災の意味でも、フェリー航路の維持は極めて重要なことであるということを、再認識させられました。
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広島〜松山航路のクルーズフェリーは、途中、呉港中央桟橋に寄港します。呉港中央桟橋の隣には、『大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)』があります。「大和ミュージアム」の隣には退役した潜水艦の実物を陸に上げて展示している「てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)」があります。
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途中、呉港中央桟橋に寄港します。ご存知の通り、呉は呉鎮守府が置かれ、軍港のあった海軍の街。そして、戦艦「大和」を建造した日本最大の海軍工廠のあった街です。呉港中央桟橋の隣には、『大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)』があります。その1階から2階の吹き抜けには、戦艦大和の10分の1の大迫力の大型模型が飾られています。さらには、大日本帝国海軍 呉海軍工廠で建造された各種軍艦の関する資料が展示されているほか、零式艦上戦闘機62型、“人間魚雷”回天10型(試作型)、特殊潜航艇「海龍」などの海軍兵器の実物が数多く展示されていています。
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さすがに軍港・呉ですねぇ~。「4002」という船体に書かれた番号で調べてみると、これは海上自衛隊の輸送艦「しもきた」です。おおすみ型輸送艦(2代目)の2番艦で、基準排水量8,900トン、満載排水量13,000トン、全長178.0メートル、最大幅25.8メートル。2011年の東日本大地震の際、災害派遣され、大活躍しました。
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呉港中央桟橋を出港すると、本州側の呉市と倉橋島の間にある「音戸の瀬戸」と呼ばれる狭い海峡を通ります。この「音戸の瀬戸」はあの平清盛が開削したという伝説が残り、風光明媚な観光地として知られるところです。南北に伸びる海峡で、南北方向約1,000メートル、幅は北口で約200メートル、南口の狭いところで約80メートル。このような狭い海峡ですが、広島湾から安芸灘に抜ける最短コースであるため船舶の通行量はとても多く、瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路になっています。
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本州側の呉市と倉橋島の間にある「音戸の瀬戸」と呼ばれる狭い海峡を通ります。この「音戸の瀬戸」はあの平清盛が開削したという伝説が残り、風光明媚な観光地として知られているところです。
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狭い海峡で、同時にここを通れる船舶は1隻だけに限られるので、海峡の手前で停泊して、対向する船舶が通り過ぎるのを待ちます。
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「音戸の瀬戸」を抜けると安芸灘と呼ばれる海域に出ます。進行方向右側は倉橋島で、左側には下蒲刈島(しもかまがりじま)、上蒲刈島、豊島、大崎下島、大崎上島、そして岡村島と言った安芸灘諸島の島々が見えてきます。岡村島からが愛媛県(今治市)で、その先に芸予諸島の中心であり、日本の総鎮守と称される大山祇神社のある大三島が連なります。この安芸灘諸島から芸予諸島にかけての一帯が多島海・瀬戸内海の中でも最も多くの島々が点在するところで、日本で最初に指定された瀬戸内海国立公園の中でも、最も美しい風景のところだと私は思っています。
この安芸灘諸島の島々は現在は7つの橋から成る安芸灘諸島連絡架橋(愛称:安芸灘とびしま海道)で繋がっています。このうちの大崎下島と岡村島の間の岡村大橋は小規模な橋ながらも広島県と愛媛県の県境を跨ぐ橋になっています。その先、岡村島と大三島の間の橋も計画されていて、その橋が完成すると、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)に接続されることになり、愛媛県と中国四国地方の中心都市である広島市との行き来がさらに便利になると思われます。
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安芸灘諸島の島々です。左から下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島、大崎上島、そして岡村島です。多島海・瀬戸内海を代表するような風景です。
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瀬戸内海汽船の高速船スーパージェットの「道後」とすれ違います。航海速力32.0ノット(時速約60km)。こりゃあ速いわ!!
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この安芸灘諸島の島々は風光明媚であるばかりでなく、瀬戸内の歴史が詰まっているようなところでもあります。特に下蒲刈島の東部に位置する三之瀬地区。ここは鞆の浦(広島県福山市)とともに瀬戸内海に2ヶ所あった海の関所の1つで、参勤交代の大名や公家達が宿泊する本陣があった場所です。今でも港には戦国武将の福島正則が築いたとされる長雁木(なががんぎ)が残り、当時の繁栄を偲ばせる「三之瀬御本陣芸術文化館」や「松濤園」「御番所跡」等の数多くの史跡があります。また、安芸灘諸島の中心である大崎下島には大長(おおちょう)港や久比(くび)港等、天然の良港が幾つもあるのですが、中でも一番大きい港は御手洗(みたらい)港。ここは江戸時代に天然の良港として栄え、その賑わいは昭和の時代まで続いていました。現在も明治、大正、昭和の時代の建物が数多く残っており、その町並みはまるでタイムスリップしたかのような雰囲気を醸し出していて、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。全長120メートルにも及ぶ防波堤「千砂子波止(ちさごはと)」や、その千砂子波止の先端にあって夜間の入港の際の目印となった灯台「高燈籠(たかどうろう)」、多少の潮位の変化があっても接岸可能な構造をした船着き場である「長雁木」、停泊中の船を結ぶ柱などが当時の姿のまま現存しています。 |
江戸時代の港湾施設がそのまま残る奇跡の港町、鞆の浦のペーパークラフトです。ネットで「簡単に作れて、風情のある小物」をコンセプトにペーパークラフトキットを販売するAMFF CRAFY WORK社さんのHP「旅とクラフト」で見つけて購入しました。大崎下島の御手洗港も千砂子波止や高燈籠、雁木があって、まさにこんな感じの風情のあるところです。
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そして、安芸灘と言うと、愛媛県西条市在住で、地元愛媛で絶大な人気を誇るシンガーソングライター、レーモンド松屋さんのメジャーデビューシングル曲「安芸灘の風」ですね。私もカラオケでよく歌います。この「安芸灘の風」の歌詞には安芸灘諸島の島々の名称や港の名称、観光名所の地名等が幾つも散りばめられていて、このあたりの地理に多少は詳しい者からすると、思わずニヤっとしてしまいます。うまく繋げ合わせたものです。安芸灘諸島の島々を眺めながら、私の頭の中にはそのレーモンド松屋さんの「安芸灘の風」のイントロとサビの部分が何度もリフレインしていました。
https://m.youtube.com/watch?v=DoQO4RDiRgQ レーモンド松屋 / 安芸灘の風(ユニバーサルミュージック公式PV)
……安芸灘諸島のご当地ソングで、PVの中には安芸灘諸島の島々の美しい風景が次々に登場します。
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安芸灘の海域を過ぎると進行方向右手に中島や睦月島、野忽那島といった忽那諸島の島々が見えてきます。このあたりから松山市沖までが斎灘と呼ばれる海域です。
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安芸灘の海域を過ぎると進行方向右手に中島や睦月島、野忽那島といった忽那諸島の島々が見えてきます。このあたりから松山市沖までが斎灘(いつきなだ)と呼ばれる海域です。
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「松山行きフェリー」といえば、シンガーソングライターの村下孝蔵さんの代表曲「松山行きフェリー」を思い出します。(広島宇品港にて)
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「松山行きフェリー」という今回のコラムの題名を見て、察しのいい方の中にはお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、大ヒットした「初恋」「春雨」「ゆうこ」「踊り子」「陽だまり」などの楽曲で知られるシンガーソングライターの村下孝蔵さんのデビューシングル「月あかり」のB面(アナログレコードの裏面、今の言葉で言うとカップリング曲)、さらにはデビューアルバム「汽笛がきこえる街」の第1曲目に収録されている楽曲の題名が、この「松山行きフェリー」でした。私が広島宇品港から松山観光港への移動に敢えてフェリーを選んだもう1つの理由が、この村下孝蔵さんの名曲「松山行きフェリー」でした。
「こんなにつらい別れの時が 来るのを知っていたら
君を愛さず友達のままで 僕は送りたかった♪」
の歌詞で始まる村下孝蔵さんの「松山行きフェリー」ですが、この楽曲を最初に聴いた時の衝撃は、今でも忘れることができません。もちろん“松山”という私の故郷が題名に使われていることもありますが、それ以上に楽曲そのものが素晴らしかったのです。
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瀬戸内海汽船の広島行きクルーズフェリーとすれ違います。
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村下孝蔵さんの代表曲がオリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなった5枚目のシングル「初恋」であることには私も異論はありません。ある一定の年齢以上の人であれば誰もが知っている楽曲で、私もカラオケで必ず歌う十八番の楽曲でもあります。その「初恋」の後に出した「春雨」「ゆうこ」「踊り子」などの一連の楽曲も認知度は高く、素晴らしい楽曲であることを否定はしないのですが、私の中での村下孝蔵さんの代表曲は絶対的にこの「松山行きフェリー」なのです。 村下孝蔵さんの楽曲の特徴はその紡がれる叙情的な旋律にあるのですが、それ以上に私が凄いと思っているのが歌詞。その精緻に綴られた言葉の数々は、曲がなくても“詩”としても十分に成り立ってるほどの完璧さがあります。その頂点とも言える楽曲がこの「松山行きフェリー」ではないでしょうか。とにかく、歌詞がせつない、せつなすぎるのです。メロディーラインはアップテンポのポップな楽曲なのに、どうしてこうも哀しくなるのか…って感じになるくらいにせつないのです。まさに、歌詞の持つ力というものでしょう。
村下孝蔵さんがシングル「月あかり」でプロデビューを果たしたのは昭和55年(1980年)、27歳の時。随分と遅咲きのデビューでした。前述のように、「松山行きフェリー」はそのデビューシングル「月あかり」のB面に収録されていたのですが、私が「松山行きフェリー」をライブで最初に聴いたのは村下孝蔵さんがプロデビューする約3年前、私が広島大学工学部の4年生の時でした。村下孝蔵さんは熊本県の出身ですが、当時、ヤマハ広島店でピアノの調律師の仕事をしながら、地道に音楽活動をやられていました。
当時の広島は音楽、それもフォークソングが盛んな街で、あの吉田拓郎さんが中心となって結成された「広島フォーク村」がその中心でした (吉田拓郎さんは広島商科大学(現・広島修道大学)の出身です)。私が広島大学に在学中はその広島フォーク村の第2期とも言える頃で、その中心人物が村下孝蔵さんでした。実は私もとにかく女の子にモテたいという“下心”バリバリの時期で、大学の友人達と「ビールス」という名のフォークソンググループを結成して、リズムギターとファルセット(裏声)でのバックコーラスを担当していました。作詞も担当して、30曲ほどのオリジナルの詞も書いたりしていました。そのビールスの仲間から誘われて、確かヤマハ広島店での村下孝蔵さんのライブを聴きに行ったのでした。
その時の衝撃たるや、幾つになっても忘れられませんね。村下孝蔵さんはとにかく天才でした。まず驚かされたのはギターテクニック。なんとガット弦を張ったクラシックギターでザ・ベンチャーズのダイヤモンド・ヘッドを演奏するくらいでしたから。もうブッタマゲました。そして、モズライトのエレキギターに持ち替えるや、そのパワフルな音色と次々と繰り出される超絶した演奏テクニックの数々に圧倒されてしまいました。そして、歌。「この人って本当にアマチュアなのか!?」と思ったものです。とにかく上手すぎました。その中で聴いた1曲が「松山行きフェリー」でした。今度はその歌詞に驚かされました。言葉にならない…と言うか、もうなんとも表現のしようがないほどの衝撃でした。私もそれまで30曲ほど作詞を行い、人前で演奏もさせていただいていたのですが、もう自分が恥ずかしくなってしまうほどでした。私には一生かかってもこんな詞は書けない…と思いました (実際、それ以降、私は1曲も作詞をしておりません)。 ちなみに、その時、私が聴いた「松山行きフェリー」と、デビューシングル「月あかり」のB面に収録されて、広く知られるようになった「松山行きフェリー」とでは、歌詞もアレンジも微妙に異なっています。
その後、村下孝蔵さんはプロデビューし、「初恋」「春雨」「ゆうこ」「踊り子」などの楽曲が次々とヒットするのですが、通信エンジニア(その後、ITエンジニア)となった私は「そうだろ、そうだろ、当然だ!」と思うしかなかったですね。なので、アナログレコード盤ですが、村下孝蔵さんが出されたレコード(アルバム)はほぼ全曲持っています。
そんな村下孝蔵さんも平成11年(1999年)6月20日、東京駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴えて緊急入院。4日後の6月24日に高血圧性の脳内出血で逝去されました。まだ46歳の若さでした。実は昭和58年(1983年)に5枚目のシングル「初恋」が大ヒットした頃、村下孝蔵さんは肝炎を患い、その後は入退院を繰り返していたということを、彼の死後に知りました。本当に稀有な才能の持ち主でした。還暦を過ぎた村下孝蔵さんがどういう楽曲を書くのか…、聴いてみたかったです。
村下孝蔵さんが亡くなってから20年。今月(6月)の24日が村下孝蔵さんの命日です。
ちなみに、コアな村下孝蔵ファンの間では、「初恋」や「春雨」をはじめとした世の中の認知度が高い楽曲よりも、この「松山行きフェリー」か、平成4年(1992年)に発売された18枚目のシングル「ロマンスカー」のどちらかを村下孝蔵さんの代表曲だと推す人が多いようで、不肖、私もその1人です。その2曲の中でも、私のイチオシは、もちろん「松山行きフェリー」です。この村下孝蔵さんの「松山行きフェリー」はネットでダウンロードして聴けるようですので、皆さん、是非一度聴いてみてください。心が震えます。
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遠くに四国の山並みが見えてきました。高縄半島でしょうか。
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おおっ!! また瀬戸内海汽船の高速船スーパージェットです。 |
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安芸灘諸島の島々が遠ざかっていきます。
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反対に進行方向右手の忽那諸島の島々の姿が大きく見えるようになってきました。
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進行方向右手に興居島の姿が大きくなってくると、まもなく松山観光港に到着です。広島宇品港を出港してから2時間40分。快適な多島海・瀬戸内海の船旅を楽しむことができました。大満足です。
【追記1】
後年、村下孝蔵さんはエッセイの中で「松山行きフェリー」は自分の実体験に基づいて書いた楽曲だと書かれています。と言うことは、村下孝蔵さんがその時に別れた彼女は松山の方っていうことになります。今、どうされていらっしゃるのでしょうね。私は村下孝蔵さんの3歳年下。なので、その女性も私と同世代の筈です。えっ!?、と言うことは……、もしかして、当時、村下孝蔵さんかその彼女と同じ「松山行きフェリー」に私も乗り合わせていた可能性があるってことですよね。
【追記2】
村下孝蔵さんの「松山行きフェリー」はカラオケに収録されてもいますが、村下孝蔵さんもファルセット(裏声)で歌う最後の高音部のところがどうしても声が出ないので、私は何度挑戦してもいつも挫折してしまいます。村下孝蔵さんは歌唱力も半端なく凄かったです。
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進行方向右手に興居島の姿が大きくなってくると、まもなく松山観光港に到着です。写真右手に見えるのが松山観光港の沖にある小さな無人島・四十島(しじゅうしま)、別名「ターナー島」です。「ターナー島」の名称は、夏目漱石の小説『坊っちゃん』の中で、主人公“坊っちゃん”と一緒に船釣りに出た教頭“赤シャツ”が「ターナーの絵の様だ」と言い、“野だいこ”が「これからここをターナー島と呼びましょう」と応じたことに由来します。
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松山観光港に接岸します。
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松山観光港に到着。2時間40分の快適な船旅でした。
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「旭洋丸」は乗客とクルマの乗降が済ますと、すぐに広島に向かって出港です。慌ただしいですね。松山と広島の間は高速船とクルーズフェリーが頻発しているので、便利です。
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