2021年5月13日木曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)

 

公開予定日2021/05/06

[晴れ時々ちょっと横道]第80回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)


藤原純友及び彼が起こした叛乱(藤原純友の乱)に関しては、同時期に関東で叛乱を起こした平将門と比べて有力な史料がほとんど残っておらず、研究を非常に困難なものにしています。藤原純友という人物、及び藤原純友の乱を研究する場合の主要な史料は『日本紀略』、『扶桑略記』および同書に引用された『純友追討記』、『本朝世紀』、『貞信公記』、『師守記』などごく僅かなものしか残されていないのですが、そのどれも後世における編纂物が中心で、記述には承平・天慶年間の海賊活動をすべて賊徒藤原純友の所業に関連づけ、一括して記述してしまおうとする編者の乱暴で偏った歴史観が色濃く投影されているように感じています。私はこのコラムの執筆にあたり、藤原純友の乱に関する歴史書を幾つか読み、参考にさせていただいたのですが、どれも前述の史料に基づくものばかりで、似たり寄ったりの内容だったのですが、唯一、それらとはまったく異なる極めて興味深い記述がされている本がありましたので、ここでそれをご紹介させていただき、それに基づく私の新たな解釈についても記述させていただきます。

本の題名は『瀬戸内水軍史』(松岡進著)。昭和41(1966)に初版が発行され、私が入手して読んでいるのは昭和43(1968)に発行された第3版です。著者の松岡進氏は大正2年、まさに伊予水軍(越智三島水軍)の本拠地であった愛媛県越智郡大三島町(現今治市)の出身。愛媛県師範学校を卒業後、芸予諸島の島々の幾つかの小学校で教壇に立ち、最後は大三島町立宮浦小学校長。その関係からか、発行所は愛媛県越智郡大三島町立宮浦小学校となっています。非売品となっていますが、少なくとも第3版まで印刷されているということは発行当初多くの人に読まれた本のようです。著者の松岡進氏は教職の傍ら、ライフワークとして地元に伝わる伝承や史料、記録等に基づく調査を長年地道に続けられたのでしょう。全756ページ、かなり分厚い超大作です。

中古本ゆえ破れてしまっている帯には、本の紹介として次のようなことが書かれています。

「瀬戸内海を舞台として一大政治集団を作り、三島大明神を守護神として東洋の天地を闊歩した越智・村上両三島水軍を軸とする雄渾(ゆうこん)な水軍通史。登場人物1000余人、写真300余枚、あくまで資料に立脚し根拠を明らかにしながら、日本史に残された一大盲点にライトをあてる。」

この記述にも書かれていますように、不確かな仮説であってもあくまでも前述の史料に加えて、地元に残る伝承等の資料に立脚し、仮説の根拠を明らかにしているので、非常に説得力があり、少しでも地元の地理や歴史を知る者にとっては大いに腑に落ちるところがあります。それにしても、西暦で言うと紀元前の第10代 崇神天皇の時代から江戸時代に至るまで、よく調べられたものだと思います。瀬戸内海一帯の制海権をほぼ掌握し、海上兵力としてだけでなく、兵站輸送にも深く関わっていたことから、越智・村上両三島水軍をはじめとした伊予水軍は、白村江の戦い、藤原広嗣の乱、承平天慶の乱(藤原純友の乱)、平氏の隆盛、壇ノ浦の決戦、承久の変、文永・弘安の役(元寇)、足利義満の西国征伐、応仁の乱、厳島合戦、織田信長との木津川口の戦い、豊臣秀吉の四国征伐、関ヶ原の合戦と日本史で習う様々な戦闘に深く関わっています。それらを水軍の側からの視点で通史として纏めたというところが本書の特徴です。日本史に残された一大盲点にライトをあてる……と本の帯に書かれている通りの内容です。なかには日本史のこれまでの常識とされていることを覆すような内容も幾つか含まれていますが、通史だけに時代背景の把握の仕方がしっかりしていますし、時系列的にも筋が通っていて、松岡進先生の説のほうが納得できるように私には思えます。

『瀬戸内水軍史』では藤原純友の乱についても「第五章 平安時代」の「第三節 藤原純友と活神大祝」の項で触れられています。そこにも日本史のこれまでの常識とされていることを覆すような内容が記されています。なんと、「系図纂要」(愛媛県編年史)の記述によると、藤原純友は越智氏族の有力な傍流の1つ、今治の高橋郷(FC今治の本拠地であるありがとうサービス.夢スタジアム付近)を本拠とした高橋氏の高橋友久の子で、藤原氏の中でも最も栄えた藤原北家の家系の一人、藤原良範が伊予の国司として赴任した折にこの藤原良範のところに養子に入り、藤原姓を名乗ることになった人物らしいとのことなんです。私の親戚にもいますが、高橋姓も藤原姓も今治市周辺には比較的多い苗字で、特に芸予諸島の島嶼部には藤原姓の家が多くあるように感じます。そういうところからも、古代越智氏族とあの名門藤原氏族との間には深い繋がりがあったように思われます。松岡進先生の『瀬戸内水軍史』には次のような興味深いことも書かれています。当時の越智氏族は大山祇神社の神職で活神(いきがみ)として奉られた大祝(おおほうり)家を頂点に越智(河野)氏、紀氏、橘氏という主たる三家が三家三職と呼ばれてそれをサポートする集団指導体制だったようです。高橋氏はそれに準ずる家柄のように思われますが、実は大祝家はもともとは高橋郷に居を構えていたので、むしろ大祝家に繋がる越智氏族の本家本流の1つであるとも言えます。この松岡進先生の考察によると、藤原純友は越智氏族の本家本流とも言える大祝家に繋がる血筋なので、地元民には絶大な信頼があった筈です。

「第77回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」に書かせていただきましたが、藤原純友は、承平元年(931)に従七位下の伊予掾として伊予国に赴任。その後「伊予国警固使」の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続け、承平6(936)までには瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功。そこから驚くことに、九州と四国の間の宇和海に浮かぶ伊予国日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、いくら武勇に優れた人物であったと言っても所詮は京の軍事貴族。わずか5年で海賊達を鎮圧し、彼等を支配することにはさすがに無理があるように思えます。陸戦と海戦は根本的に違うものですから。しかし、松岡進先生の考察のように、藤原純友が越智氏族の本家本流とも言える大祝家に繋がる血筋の者であったとするならば、話はまったく違ってきます。越智氏族を含め地元民には最初から絶大な信頼があった筈ですから、5年という期間はむしろ長すぎるくらいであるとも言えます。

当時の越智氏族は大山祇神社の神職で活神として奉られた大祝家を頂点に越智(河野)氏、紀氏、橘氏という三家がそれをサポートする集団指導体制だったということを書きましたが、この三家、(その1)及び(その2)に書かせていただきました藤原純友の乱の項にその名前が登場してきています。まずは紀氏。藤原純友が海賊になるキッカケを作ったとされるその当時の藤原純友の上司である伊予国国司、伊予守の名前は「紀淑人」。この紀淑人が海賊の鎮圧という藤原純友の手柄を横取りし、純友の勲功を黙殺してしまったことを機に藤原純友は上司や朝廷に不満を持つようになり、それまでとは反対の立場である海賊になったと言われています。次に越智(河野)氏。朝廷より純友追討の宣旨を蒙って、追補使として博多湾の戦いに臨み、藤原純友軍を壊滅させた朝廷軍の主力、伊予水軍の水軍大将の名前は「越智(河野)好方」でした。最後は橘氏。博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた藤原純友親子を捕らえその首を朝廷へ進上したとされる伊予国警固使の名前は「橘遠保」でした。これらは単なる偶然とは思えません。

先ほど藤原純友は越智氏族の有力な傍流の1つである高橋氏の高橋友久の子で、藤原北家の家系の一人、藤原良範が伊予の国司として赴任した折にこの藤原良範のところに養子に入り、藤原姓を名乗ることになった人物らしいということを書かせていただきましたが、ここに登場する越智氏族の紀氏も橘氏も、藤原純友の場合と同様、おそらく京の有力貴族である紀氏、橘氏の誰かが過去に伊予の国司として赴任してきた折に越智氏族の有力傍流の誰かが子息を養子縁組させて、以降、子孫の出世栄達を願って家柄に箔を付けるために紀氏姓、橘氏姓を名乗らせるようになったのかもしれません。そして京にいる本来の伊予国司の貴族に代わって、現地での実務を代行していたと考えるのが妥当かと思われます。

そういうことから、どうも藤原純友の乱も、平将門の乱と同様、実際のところは古代越智氏族の氏族内で起きた内紛だったのではないか…と考えられるとのことのようです。それも瀬戸内海を東西に分けての内紛。西軍が宇和海の日振島に拠点を構えた藤原純友で、東軍が芸予諸島の大三島に拠点を構えた越智氏族本家本流の越智(河野)好方。越智好方は勅を得て錦旗を翻したから朝廷軍。表向きは小野好古が藤原純友追討軍の大将とされていますが、小野好古は所詮は京のお公家さんに過ぎません。陸戦はともかく、実際のところ海上戦力の総大将は越智水軍の越智(河野)好方。じゃないと、博多湾で千隻を超えると言われた荒くれ者集団の藤原純友軍の大艦隊を100余隻の船で襲撃して800余隻を捕獲すると完膚なきまでに勝利するなんてことはできっこありません。加えて言うと、撃破ではなくわざわざ捕獲と戦記に記載されているのは、おそらく本家筋の伊予水軍の主力艦隊が、天皇の勅を受けた朝廷軍であることを表す錦旗を翻しながら大型船を並べて統率の取れた行動で大挙繰り出してきたのを見て、荒くれ者の寄せ集め集団に過ぎず小型船が主体だった藤原純友軍の艦船の多くが戦意を喪失して次々と投降したのではないか…と、この二文字から推察されます。同じ一族である以上、本気になった伊予水軍(越智三島水軍)主力艦隊の強さを一番知っていたのは間違いなく彼等だった筈ですから。

これも私の推察ですが、越智氏族の主流三家三職が本気になったのは、朝廷のある間違った判断が直接のキッカケだったのではないか…と私は思っています。藤原純友が朝廷に対して叛旗を翻すような行動をとった直後、朝廷はまず東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、西の藤原純友に対しては「従五位下」の位階を授けて懐柔するという方策に出ました。これにより藤原純友らの反乱は一時沈静化したかのように見えたのですが、その一方で納得しなかったのが越智氏族の指導層である主流三家三職の面々だったのではないでしょうか。そして最大の問題にしたのがその「位階」だったのではないかと思われます。

推古天皇11(603)に冠位十二階の制度が定められて以降、律令制下の日本においては官僚や官吏の序列を位階によって標示されてきました。だいたいの目安として、地方の国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位が正六位でした。この正六位はそれなりの位ではあったのですが、実はその1つ上の従五位下とは大きな一線が画されていました。朝廷に仕える廷臣のうち、京都御所の天皇の日常生活の場である清涼殿殿上間に上がれる堂上に対し、上がれない階位の者は地下人(じげにん)と呼ばれていたのですが、その地下人の最高位が正六位でした。京都御所の清涼殿殿上間に上がれる(昇殿と言います)堂上は五位(従五位下)以上。したがって、従五位下以上がいわゆる貴族と見做されていました。

越智氏族のうち、正一位の大祝家を除き、最高位はおそらく伊予国国司であった紀淑人の正六位。それまで従七位下の位階であった藤原純友にいきなり昇殿を許される貴族階級の従五位下の位階を授けられたことにかなりの衝撃を受けたのは間違いないことだと思います。いくら懐柔するためとは言え、大祝家を飛び越えて朝廷が越智氏族内に手を突っ込んできて、いきなりこんなことをされたのでは越智氏族内での序列が一気に崩れ、秩序を保つことも困難になって、最悪、越智氏族が内部から脆くも崩壊してしまうことになるという強い危機感を持ったのではないか…と思われます。越智氏族の崩壊は、大和朝廷海軍の主力艦隊としてそれまで瀬戸内海の秩序を保つことのみならず、外敵の侵入から我が国を護ってきた伊予水軍の崩壊をも意味します。それでおそらく当時の第61代 朱雀天皇に近かかったであろう正一位の大祝家を通して朝廷に対してすぐさま強い苦情を申し入れ、朝廷もすぐに自らの判断の間違いを認めたことから、越智氏族主要三家の中で水軍大将を務めていた越智(河野)好方に対して藤原純友追討の勅を発して、一族内部で問題を解決するように命じたのではないかと私は推察しています。瀬戸内海で起きている事件であるにも関わらず、それまで様子見をしていたのか、あるいは同じ氏族である藤原純友達の動きを半ば黙認していたのかほとんど表に出てこなかった伊予水軍(越智三島水軍)が、突然このあたりから出てくるわけですから。時系列で考えてみると、そういう風に考えるのが妥当なのではないでしょうか。

朝廷が東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、藤原純友に従五位下という位階を授けて懐柔策に出たのが天慶3(940)130。平将門が下総国猿島郡幸島付近で交戦中、どこからか飛んできた流れ矢が額に命中してあえなく討ち死にし、乱自体も鎮圧されたのが翌214日。平将門討伐に向かった東征軍が5月に帰京すると、6月には藤原純友追討令が出されたというのは「第77回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」に書いた通りですが、いくらその場凌ぎの懐柔策だったとは言え、従五位下という位階を授けて貴族階級に取り立てた人物に対して半年も経たないうちに追討令を出すというのは、いくらなんでも不自然です。朝廷サイドに相当のドタバタがあったと容易に想像できます。

「その時、歴史は動いた」って瞬間が、まさにこのタイミングだったのではないでしょうか。ここから一気に藤原純友は追い詰められていき、「藤原純友の乱」は終結に向かっていくことになるわけですから。このように古代越智氏族の中では氏族存亡の危機と言ってもいいほどの一大ドラマが間違いなく繰り広げられていたに違いない…と私は思っています。そういう意味では、「藤原純友の乱」とは古代越智氏族内部で起きたナショナリズム(主流三家を中心とした保守派)とグローバリズム(藤原純友を中心とした急進派)の間の内紛だったってことが言えるのではないでしょうか。

実際、18世紀の元文5(1740)に編纂されたとされる河野氏の盛衰に関わる各種伝承をもとに纏められた軍記物語「予陽河野盛衰記」には、藤原純友討伐に向かうにあたり、活神大祝・越智安義と越智、紀、橘の主流三家、それに藤原純友討伐の勅命を受けた越智(河野)好方らによる協議の様子が記されており、その中では一族の中から逆賊を出してしまったことの自責の念と、これから越智水軍自体の命運を賭けて同族討伐に向かわねばならないその悩みとが読み取れる記述が書かれていると、松岡進先生は『瀬戸内水軍史』の中でその部分を引用して紹介されています。

松岡進先生の『瀬戸内水軍史』では日振島についても触れられています。実はもともと日振島は伊予水軍の西の重要な拠点だったところのようなのです。西暦663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍の前に大敗を喫して以来、倭国(大和朝廷)は唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から主として九州北部の沿岸に防人(さきもり)”と呼ばれる辺境防御の武人を配置するなどの国防体制を著しく強化しました。それまで九州全体の統治と大陸や朝鮮半島からの使者の接待用の施設として使われてきた太宰府の周囲にも大きな堤に水を貯えた水城(みずき)を築いたほか、北に大野城、南に基肄城などの城堡を建設し、一気に前線基地として軍事要塞化しました。

私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』の「第34回: 全国の越智さん大集合!(追記編)」で大和朝廷の最終防衛ラインについて私の推論を述べさせていただいたのですが、これにはある重大な見落としがありました。

https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20170703-11389.html 『晴れ時々ちょっと横道』第34回: 全国の越智さん大集合!(追記編)…201778

四方を海で囲まれた日本列島ですので、朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威は西あるいは北から海路でやって来ることは間違いないことですので、大和朝廷もそれへ備えるための拠点を整備していたのは確かなこと。瀬戸内海を進んで来た際の最終防衛ラインが大三島を中心とした芸予諸島の島々であることは間違いないと思っているのですが、見落としがあったのはその前。言ってみれば前線基地に当たる部分です。外敵が東シナ海から玄界灘に向かうコース、あるいは朝鮮半島から朝鮮海峡、対馬海峡を渡って日本列島に進んで来るコースで進んできた場合は、太宰府を司令基地として博多湾あたりの九州北部に軍港を設けて迎撃しようとしていたと思われるのですが、もう一つ重要な外敵侵入コースがあることをうっかり見落としていました。それが東シナ海から太平洋に出て、さらに豊後水道を北上して瀬戸内海に入ってくるコース。玄界灘コースは関門海峡という難所が控えているので、当時の造船技術と操船術だと兵船が大船団で通過するのは難しく、むしろこの豊後水道コースのほうが侵入ルートとしては考えやすいとも言えます。その豊後水道を通って来襲してくる敵船団を待ち受けて迎え撃つ前線基地となっていたのが日振島とその周辺だったようなんです。現代の航空自衛隊の基地で言えば、太宰府が西部航空方面隊司令部等が配置されている春日基地(福岡県春日市)で、日振島はその西部航空方面司令部配下の第5航空団等が配備されている新田原基地(にゅうたばるきち:宮崎県児湯郡新富町)ってところでしょうか。


そして、その日振島の前線基地に駐屯していたのも古代越智氏族だったようなのです。実際、日振島から豊後水道を挟んだ九州側は大分県の津久見市なのですが、その津久見市で豊後水道に突き出た四浦半島には越智ノ浦(現在の地名表記は落ノ浦)という湾があるのだそうです。かつては津久見市立越智小学校という名前の学校があったようで(現在は休校中)、現在も落浦郵便局という郵便局があるようです。また、藤原純友の乱終焉後の天慶4(941)8月に日向国の国衙(現在の宮崎県西都市)を襲って国司の藤原貞包に捕われた藤原純友軍の次将の1人である佐伯是基は、その姓から推測されるように津久見市の南に隣接する大分県佐伯市あたりを拠点としていた豪族で、藤原純友を日振島に誘った人物であると言われています。この佐伯市周辺も佐伯湾をはじめリアス式の小さな湾が多いことからここも伊予水軍の拠点の1つで、豊後水道を挟んだ日振島と一体となって豊後水道での防衛ラインを形成していたと考えられます。なるほどぉ〜。そういうことか…。

ならば、なおのこと藤原純友は海賊達との交流の中からグローバリズムの気づきをし、琉球、台湾、中国、フィリピン等海外の地との交易を目指していたのではないか…という私の仮説にも結びつきます。彼等は唐をはじめとした海外からの勢力の侵攻に対する国防のために前線基地である日振島周辺に駐屯していたわけで、敵となりうる近隣諸国の情勢に敏感で、常に情報を収集していたでしょうからね。もしかすると、情報収集目的で近隣諸国との人的交流も日常的に行われていたのかもしれません。

このように、藤原純友の乱の本質は古代越智氏族内部で起きた内紛だった、それも私が推察しているように朝廷の間違った判断の尻拭いをすることを目的とした内紛であったとするならば、藤原純友の最期もまた一般に言われている論とは少し違ったものになるように思います。一般的には藤原純友は博多湾の戦いで大敗を喫した後、子の重太丸とともに小船で本拠地伊予国へ逃れたとされていて、同天慶4(941)6月に伊予警固使・橘遠保により現在の新居浜市種子川町にある中野神社の裏にある生子山で討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、また、今治にあった国府か京に移されて処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではありません。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったとも言われています。

一番の疑問は、小船で本拠地伊予国に逃れたという点。いくら本拠地であると言っても、自らの追討軍の本拠地でもある伊予国に易々と戻ってこられる筈がありません。おそらく捕らえられ、伊予国にある伊予水軍の拠点の1つに密かに連行されてきたのではないでしょうか。そして、その時、おそらく大祝家をはじめ越智氏族の主流三家三職の間でも藤原純友に対する措置に大いに苦慮したものと思われます。藤原純友は伊予水軍(越智三島水軍)本体に戦いを仕掛けてきたわけではなく(藤原純友の一派も伊予国国衙だけは襲撃していませんし)、仕掛けたのはむしろ伊予水軍(越智三島水軍)のほう。それも、多分やむなく。しかも、藤原純友は越智氏族の頂点である大祝家に血筋の繋がる人物。加えて従五位下の位を冠する“貴族”。なにより同じ氏族なので、深い血縁関係もあったであろうですし、違っていたのが私が推察しているように自分達の世界観、と言うか進もうとしている方向性の部分だけだったのだとしたら、現代人の私が考えても、極めて難しい判断です。だって、彼等だって海賊ですから、藤原純友が進もうと思っていた方向性についても十分に理解をしていた筈ですから。

大祝家を中心に越智氏族の主流三家の間で議論に議論を重ねた結果、最終的に彼等が下した決断は藤原純友を彼の希望通り海外に逃すというもの。そして、藤原純友を逃したことに対する責任を橘遠保が負うということになったのではないか…と私は推察しています。朝廷からは藤原純友親子を始末しろと命じられていたと思われるので、橘遠保が生子山で討った等の虚偽の話を作りあげてそれを広め(何故、現場が橘遠安の拠点に近い生子山で捕らえられたのかの疑問もこれで解けます)、その上で藤原純友に二度と日本列島には戻ってこないことを約束させた上で密かに逃し、そして藤原純友は残った仲間達と船に乗って南海の彼方に消えていった…、というのが私の立てた推論です。こうなると、もう完全に“ドラマ”ですよね。しかし、こういう泥臭い人間ドラマはいつの時代も絶対にある筈で、こういうドラマチックなテイストを少し加えるだけで、真実味が一気に増してくるような感じがしませんか?() しかも、前回「第79回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)」の最後に挙げた私の素朴な疑問も、この解釈ですべて説明がつきます。私にもう少しストーリーテラーとしての文才があれば、海音寺潮五郎先生の考察とは全く異なる伊予水軍の側から捉えたこのストーリーで、歴史小説が一本書けそうです。

以上、松岡進先生の考察も参考にさせていただきながら私が到達した「藤原純友の乱」の本質に関する解釈を書かせていただきました。本文にも書きましたように藤原純友、及び藤原純友の乱に関しては有力な史料がほとんど残っていないことから、謎に包まれている部分があまりにも多く、いろいろな解釈ができようかと思います。真実に迫るためにも、読者の皆さんからの異論・反論を心よりお待ちいたします。

そうそう、前々回の「第78回 風と雲と虹と承平天慶の乱(その2)」では、首領である藤原純友をはじめ藤原純友軍の主力のほとんどは、中央()で出世が望めなくなった下級貴族や没落貴族、失業した舎人と呼ばれる役人達で、伊予国とは関係のない、言ってみればよそ者。そのよそ者達が勝手に伊予国内に拠点を構え、瀬戸内海一帯を暴れ回り、その挙句、朝廷に対して叛乱を起こし、勝手に朝廷の討伐軍に敗れて滅んだわけで、これじゃあ神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのも当たり前だということを書かせていただきましたが、藤原純友が実は古代越智氏族の出身で、藤原純友の乱の本質は伊予水軍、越智氏族内部の内紛だったとするならば、根本から話は異なってきます。古代越智氏族にとって一族内の内紛についてはなんとしても隠しておきたいまさに“黒歴史”。むしろ古代越智氏族のほうから真実が出来るだけ残らないように、積極的な歴史の改竄作業を行ったというのが正解なのではないでしょうか。前述のように藤原純友という人物、及び藤原純友の乱を研究する場合の主要な史料である『日本紀略』、『扶桑略記』等はすべて『純友追討記』という軍記文書を引用して後世に書かれたものです。この『純友追討記』は文字数が僅か800字にも満たない短い戦闘報告書に過ぎず、おそらくこれを書いたのは越智(河野)好方、紀淑人、橘遠保といった越智氏族の主流三家三職の面々だったのではないかと私は推察しています。なので、間違いなく越智氏族にとって都合がいいように捏造されていると言うか、ほとんど記録らしい記録を残さなかったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。藤原純友に関する神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのは、これが主たる要因なのかもしれません。いくら1,000年以上昔のこととは言え、不自然に思えるほど、記録や史跡が残されていませんからね。

したがって、「藤原純友の乱」が古代越智氏族の内部で起きた内紛という解釈が腑に落ちてしまった以上、私は“越智”の2文字を苗字に、そして大三島の大山祇神社の社紋を家紋にいただく越智氏族に属する者として、今後もその仮説の下で藤原純友の乱の真実に迫り続けてみたいと思っています。それにしても伊予水軍(越智三島水軍)をはじめとした瀬戸内水軍の歴史ってメチャメチャ面白いです。

 

……『風と雲と虹と…承平天慶の乱』【完結】

 




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