2020年8月8日土曜日

伊予八藩(その1)



公開日2020/02/06
[晴れ時々ちょっと横道]第65回 伊予八藩(その1)

郷里愛媛を長く離れ、再び郷里に戻ってきた者にとって、いささか気になっているのが愛媛県人の県民性です。申し訳ないけど、愛媛県民としての一体感があまり感じられず、ハッキリ言わせていただくと、向いている方向がどこかバラバラ。私が現在住んでいる埼玉県がそうですが、昔からの土着の人間が少なく、他地域からの移住者が大半を占める首都圏や関西圏といった大都市の周辺地域ならいざ知らず、地方の県でこんなにも一体感が希薄な道府県は他に例を知りません。かと言って、郷土意識が低いのかと言ったら、決してそういうわけではなく、むしろ他県に比べ高いほうかもしれません。ただ、その郷土意識の向く方向が愛媛県という大きな単位ではなく、松山や宇和島、今治といったもう少し狭い地域単位のほうにより強く向けられているようにも感じられます (気に障った方がいらっしゃったら、ごめんなさい)。そんな県民性をはじめ郷里愛媛県のことをあれこれ調べていく中で、この謎を読み解くある重要なキーワードがあることに気づきました。それが『伊予八藩』です。

藩とは、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語のことです。『伊予八藩』と言われるように、愛媛県(旧伊予国)には、江戸時代、主として次の8つの藩が置かれていました。

伊予松山藩 (親藩15万石。城は松山市)
宇和島藩 (外様7万石。城は宇和島市)
大洲藩 (外様6万石。城は大洲市)
今治藩 (譜代35千石。城は今治市)
西条藩 (親藩御連枝・紀州徳川家分家3万石。陣屋敷が西条市)
伊予吉田藩(3万石。宇和島藩の支藩。陣屋敷が宇和島市吉田町)
小松藩 (外様1万石。陣屋敷が西条市小松町)
新谷藩 (大洲藩の支藩1万石。陣屋敷が大洲市新谷)

このほかに寛永13(1636)から寛永19(1642)までの6年間、西条藩の支藩として川之江藩(外様23千石)があったのですが、廃藩後、天領(江戸幕府直轄領)となっています。また、松山藩の支藩として、桑村郡・越智郡の一部を領地とする松山新田藩(まつやましんでんはん)1万石が享保5(1720)から明和2(1765)まであったのですが、廃藩後、こちらも天領となっています (ちなみに、この松山新田藩跡の天領のおかげで、私の本籍地である今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)は元今治藩領と元松山藩領と元天領とが複雑に入り組んで存在しています)

 伊予八藩分布図(幕末)
愛媛県史県政編 第1章第2節「近代へのあゆみ」より

このように1つの県に8つも藩が置かれていたというのは極めて異例のことで、同じ四国でも、香川県(旧讃岐国)は高松藩(親藩12万石、城は高松市)、丸亀藩(外様51千石、城は丸亀市)、丸亀藩の支藩である多度津藩(外様1万石、陣屋が仲多度郡多度津町)3藩、徳島県(旧阿波国)は徳島藩(外様257千石、城は徳島市)1藩のみ(一時期支藩の阿波富田藩があった)、高知県(旧土佐国)も土佐藩(外様202,600石、城は高知市)、土佐藩の支藩である土佐新田藩(外様13千万石、定府大名であったため城や陣屋はなし)2藩のみです。

伊予八藩のうち最も大きな伊予松山藩の規模(石高)15万石なので、いささか小さな感じは受けますが、伊予国(愛媛県)8藩全体の石高の総合計は、天領となった藩の部分も加えると40万石を超え、これは四国全体の総石高の1/3を超える約38パーセント。備前国(岡山県)を実質1藩支配していた大藩の岡山藩(外様315千石)をしのぎ、安芸国(広島県)を実質1藩支配していた同じく大藩の広島藩(外様426千石)とほぼ同規模だったということが分かります。

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を米(コメ)の生産力に換算して“石”という単位で表したものです。豊臣秀吉が天正19(1591)に日本全国で行なった太閤検地以降、明治6(1873)に明治政府が行った地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記されました。また農民に対する年貢も石高をもとにして徴収されました。また、1石は大人1人が1年間に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになり、石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していました。実際、江戸時代の軍役令によると、大名は江戸幕府の命令に応じて石高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていたと言われています。

このように伊予国(現在の愛媛県)は昔から自然に恵まれ、気候温暖で災害も少なく、生産力も高く、生活も豊かで人々が暮らしやすいところでした。伊予国が正式に誕生したのは、孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる「大化の改新」以降、第37代斉明天皇、代38代天智天皇、第40代天武天皇、第41代持統天皇らにより強力な中央集権体制確立のため当時の中国()に倣った律令制への移行が徐々に整備されていき、第42代文武天皇の時代の大宝元年(701)に、ついに『大宝律令』が制定・施行された時のことです。この改革の大きな柱は公地公民、すなわち、豪族らの私有地を廃止し、中央による統一的な地方統治制度を創設すること、さらには戸籍・計帳・班田収授法を制定し、租税制度を再編成することでした。これにより、それまでの国造制が廃止になり、代わって各地に国府が置かれることになりました。新たに定められた伊予国の中心地として国府(現在の県庁)が置かれたのが現在の今治市でした。平安時代中期に作られた辞書「和名類聚抄(略称:和名抄)」にも「国府在越智郡」という記述があります(現在、伊予国の国府が今治市のどこにあったかは不明で、諸説あります)

ちなみに伊予国は大和朝廷にとって重要な国だったようで、歴代の国司には錚々たる名前が並んでいます。貞観7(865)に就任した藤原基経、天延2(974)に就任した藤原道隆はともに後に関白になっていますし、寛和2(986)に就任した藤原公任は和漢朗詠集の編者、実際に赴任したかどうかは分かりませんが平治元年(1159)には平重盛、文治元年(1185)にはあの源義経が伊予国の国司に任命されています。さらに建保3(1215)には新古今和歌集の選者となった藤原定家が就任しています。伊予国はそれほど朝廷にとって重要なところだったと推定されます。また、中世、豊臣秀吉の時代には「賤ヶ谷の七本槍(七将)」の1人として有名な福島正則を113千余石で国府城(今治)に、同じく加藤嘉明を6万石で正木城(伊予郡松前町)に、藤堂高虎を7万石で板島城(宇和島市)と、名だたる子飼いの重鎮をこの伊予国に配置していました。これはいったい何を意味しているのかです。少なくとも伊予国のポテンシャルに注目し、重要視していたことは容易に窺えます。おそらく江戸幕府もこの伊予国を1人の大名に持たせるのは危険と判断して、8つの藩に分割して統治させたとも推察できます。

また、伊予八藩に関しては、地政学的側面からの分析も必要かと思います。『晴れ時々ちょっと横道』の第5(201525)「愛媛県の地形と気象」でも書かせていただきましたが、私は「世の中の最底辺のインフラは地形気象」という基本的考え方を持っていて、愛媛県の文化や歴史を考察する上においては、この地形気象からの検討アプローチが極めて重要であると考えています。中でも、ここで注目すべきは地形です。
愛媛県は日本最大の断層帯である中央構造線が瀬戸内海の海岸線に沿って東西方向に伸びています。中央構造線は屏風のように連なる高い山々を形成し、しかもその中央構造線が瀬戸内海の間際を走っているため、県内の陸地はほとんどが山で、平野と呼ばれるのは海岸線沿いの極僅かな土地に過ぎません。愛媛県は東予、中予、南予に大別されるのですが、東予と中予を分けているのは瀬戸内海に大きく突き出た高縄半島です。四国山地ほどではないですが、ここもなにげに1,000メートル級の高い山々が連なっています。しかも高縄半島が瀬戸内海に突き出た突端のあたりは山がそのまま海に突っ込むように迫っているため、同じ伊予国といってもかつては人々の往来もこの高縄半島を境にして東西に分断されていました。中予と南予も同様に基本的に高い山々で区分されます。ここの区分を決定付けているのが前述の中央構造線で、愛媛県西部において、基本的に中央構造線より北側の地域が中予、南側の地域が南予…と私は理解しています(実際には中央構造線より多少南にその区分線はありますが、それは中央構造線により形成された山の形状によるものです)。このため、かつては人々の往来も容易ではなかったと推測されます。 


室町期伊予の支配領域
愛媛県史資料編 古代・中世 第2編第2節「守護と国人」より

それを補っていたのが海上交通です。現在のように全国に道路網や鉄道網が整備されたのは、明治維新後に西洋の技術が取り入れられ、土木建設技術が急速に発達した以降のことで、それ以前は人流も物流も主体は海上交通でした。江戸時代にも東海道や中山道といった五街道をはじめ、全国に街道が整備されはしたのですが、険しい峠道を人馬で越えるのには無理があり、主要な輸送手段は海上交通でした。四国は周囲を海で囲まれていることもあり、瀬戸内海や太平洋を利用した海運が盛んで、島内の陸上交通網はさほど発達してこなかった歴史があります。『晴れ時々ちょっと横道』の第24(201692)「リアル版『ブラタモリ』、街道歩きの魅力」でも書かせていただきましたが、伊予国(愛媛県)関連でも讃岐街道や今治街道、大洲街道といった旧街道が整備はされたのですが、どれも地形の関係で険しい峠道が続く山道で、幹線道路というほどの利用はされず、海上交通には及ばなかったようです。

第24回:リアル版『ブラタモリ』、街道歩きの魅力(その1)
第24回:リアル版『ブラタモリ』、街道歩きの魅力(その2)

従って、隣の地域に行くにしても主な交通手段は船でした。そうすると、隣の地域に行くのも、同じ海を渡って京都や大阪といった関西地方や、岡山、広島、山口といった中国地方、九州の大分といった瀬戸内海の対岸に行くのも感覚としては同じことで、それによりそれぞれの地域が独自の経済圏を構築し、長い年月をかけてそれぞれの独自の文化や地域性を形成していったのではないか…とも分析できます。すなわち、伊予国とは、陸地で捉えるのではなく、瀬戸内海という海のほうから眺めて捉える必要があるのではないか…と考えられます。その瀬戸内海を活動拠点としていたのが水軍(海賊衆)です。特に南北朝時代(1336年〜1392)以降、能島、因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の絶対的な制海権を握っていたのが村上水軍と河野水軍です。

その水軍はもともとは瀬戸内海の沿岸に拠点を構える土豪達の集合体であり、河野氏や村上氏はそれら土豪達の棟梁といった位置付けだったと考えられます。土豪達は主として食料の確保と日々の生活のために四国本島の沿岸部の平地に独自の領地を持ち、そこを守るために砦()を築きました。村上武吉(武慶)が居城とした国府城と今治平野、河野通直が居城とした湯築城と河野氏の拠点の1つであった正木城(松前城)と道後平野、伊予金子氏の金子元宅が居城とした金子城(新居浜市)とその周辺などがそれにあたります。彼等は主たる生業(なりわい)を瀬戸内海の海上に求めていたため、前述の地政学的側面も相まって領地に対する執着心がどこか希薄で、領土拡張の野心もほとんど持っていなかったと考えられます。すなわち、自分達の食料の確保と日々の生活ができるだけの領地があればそれで十分だったわけです。なので、陸上交通網はほとんど発展せず、土豪達による都市国家のようなものが幾つも形成されていたのではないか…と考えられます。その意味で、愛媛県(伊予国)はその時点からバラバラで一体感に乏しかったのではないかと言えます (戦国時代に有力な1人の戦国大名も輩出しなかった理由も、そのあたりにあるかと思います)

伊予における主要中世城郭所在図
愛媛県史資料編 古代・中世 第2編第5節「中世の城郭」より


……(その2)に続きます。




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