2018年9月30日日曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その6)



東京国際フォーラムを出て、先へ進みます。

このレンガ(煉瓦)造りの建物は三菱一号館です。この三菱一号館とは、明治27(1894)、現在の東京都千代田区丸の内に建設された日本初のオフィスビルで、レンガ(煉瓦)造りの建物内に三菱グループに属する会社や銀行が入居していました。元々の建物は昭和43(1968)に三菱地所が解体したのですが、平成21(2009)に元の場所とはやや異なる位置に同社により復元されました。


遠くに見えるレンガ(煉瓦)造りの建物はJR東京駅丸の内駅舎です。この建物は辰野金吾博士の設計により大正3(1914)に竣工した鉄骨レンガ(煉瓦)造り駅舎です。関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、昭和20(1945)の空襲で外壁、屋根、内装等が損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。2003年に国の重要文化財に指定され、2007年〜2012年にかけて行われた大改修の際に元の3階建てに復元されました。日本を代表する美しい駅舎です。前述のように、1階と2階の部分は大正3年に竣工した当時のレンガ(煉瓦)が残っているのですが、3階の部分だけは第二次世界大戦の東京大空襲で燃え落ちたため、2012年に昔の姿に戻されたものです。近くでよく見ると2階と3階で使われているレンガ(煉瓦)が異なり、その境界が分かるのだそうですが、遠目からだとまったく違いは分かりません。


JR山手線等の線路の下を鍛冶橋架道橋で抜け、外堀通りまで歩きます。この外堀通りがかつて外濠だったところで、堀が埋め立てられたのは昭和33(1958)のことです。ここに「鍛冶橋御門跡」の表示が立っています。


鍛冶橋御門は寛永6(1629)に陸奥国や出羽国といった東北地方の大名によって築かれました。門前には鍛冶屋職人が多く住み鍛冶町と呼ばれていたので、その名を取って鍛冶橋御門と名付けられたと言われています。鍛冶橋交差点より少し内側に入った鍛冶橋通り上に枡形があり、その外側に橋が架かっていました。外濠通りと交差する鍛冶橋通りを左にいくと江戸城(現在の皇居)馬場先門に通じます。


鍛冶橋交差点を渡り、JR東京駅の八重洲口のほうに進んでいきます。



JR東京駅の八重洲口です。この八重洲という地名はオランダ人の航海士ヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン)に因むものです。ヤン・ヨーステンはオランダの商船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)とともに極東を目指していたのですが、大変な航海の後、関ヶ原の戦いが起こる直前の慶長5(1600)に豊後国(今の大分県)臼杵に漂着しました。その後、航海長であったイギリス人ウィリアム・アダムスとともに徳川家康に徴用され、外国使節との対面や外交交渉に際しての通訳を務めたほか、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を家康以下の側近に指導しました。その功績により旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人女性と結婚しました。屋敷のあった場所は現在の東京駅の東側にある八重洲のあたりで、この“八重洲”の地名は彼の名前ヤン・ヨーステンに由来すると言われています。すなわち、ヤン・ヨーステンが訛った日本名“耶楊子(やようす)”が後に八代洲(やよす)”となり、さらに八重洲(やえす)”になったとされています。


JR東京駅の八重洲口は大きな高速バスのバスセンターになっていて、関東近郊のみならず首都東京と全国の主要都市を結ぶ長距離の高速バスが頻繁に出ています。



……(その7)に続きます。

2018年9月29日土曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その5)

JR山手線の線路等を第三有楽町架道橋で潜り、山手線の内側、すなわち外濠の内側を進みます。


東京国際フォーラムです。東京国際フォーラムは、西新宿に移転する前の東京都庁舎跡地に建てられたものですが、江戸時代、ここには阿波国徳島藩蜂須賀家2579百石と土佐国高知藩山内家242千石という四国の外様の大大名の上屋敷が置かれていました。


江戸時代には主に石高1万石以上の所領を幕府から禄として与えられた藩主のことを大名と呼んでいました。また、石高が十万石以上の大名を大大名、十万石未満 三万石以上の大名を中大名、それ以下の大名を小大名と呼んでいました。大名の数は260270家あったと言われ、加賀国・能登国・越中国のほとんどを領有した金沢藩の前田家の120万石余が最高で、その前田家のみならず、大大名と呼ばれる大名は薩摩国鹿児島藩728千石の島津家、陸奥国仙台藩62万石の伊達家、肥後国熊本藩54万石の細川家、筑前国福岡藩473千石の黒田家といった豊臣の時代から(戦国の時代から)続く名門大名か、尾張国名古屋藩6195百石の尾張徳川家、紀伊国和歌山藩555千石の紀州徳川家といった徳川御三家、もしくは越前国福井藩32万石の松平家や近江国彦根藩23万石の井伊家などの徳川将軍家と密接な血縁関係のある大名、徳川家を支える重臣大名に限られていました。大大名の数は約501万〜3万石の小大名が大部分でした。この阿波国徳島藩蜂須賀家2579百石と土佐国高知藩山内家242千石も蜂須賀小六と山内一豊を藩祖とし、戦国時代から続く豊臣恩顧の名門大名家でした。


ここに「江戸城の昔と今」と題された絵地図が展示されています。江戸の町歩きには必需品とも言える貴重な絵地図で、実は私も持っていて、このブログを書くにあたっても大いに参考にさせていただいているのですが、これまでは著作権の関係もあって、これまではそれをご紹介することは避けてきました。ですが風景写真ということなので、それも問題ないかな…ということで、ここでご紹介します。


その「江戸城の昔と今」と題された絵地図には、幕末期における江戸中心部の各大名の江戸藩邸(上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷等)の位置が住宅地図のように描かれています。それを見ると「松平」という文字がやたらと目立ちます。有力な外様大名のほとんど、前田家も島津家も伊達家も細川家もすべて「松平」と表記されています。これは江戸幕府、特に第11代将軍・徳川家斉の時代に進められたある政策によるものです。家斉は徳川御三卿の1つ一橋家の第2代当主徳川治済の長男なのですが、第11代将軍になった時、父・徳川治済の命により40名という大量の側室を持ち、100名を超える子供をもうけました。その100名を超える子供達を有力外様大名の養子に出したり、正室として嫁がせたりすることによって各大名と血縁関係を持ち、江戸幕府への忠誠心を高めようとしたわけです。こうして徳川将軍家と血縁関係を持った大名は表向きは松平を名乗るようになりました。それは嫁がせたお姫様が亡くなって以降も同じで、松平を名乗らせたわけです。なので、絵地図の上では「松平」だらけになっています。ちなみに、この絵地図では(前田)(島津)といったように( )付きで元の苗字を表記しています。

東京国際フォーラムの1階に太田道灌の銅像が立っています。太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将で、武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰(家老)を務めた人物です。享徳の乱、長尾景春の乱で活躍し、最初に江戸城を築城したことでも有名です。


東京国際フォーラムのガラス棟1階の太田道灌銅像前に、太田道灌コーナーが開設されています。「太田道灌のプロフィール」「関東戦国史と太田道灌の足跡」「道灌の戦績とその後」と題する日英両語による解説版と「12体の太田道灌銅像写真」のパネル、また中央には「江戸城(寛永年期)天守閣」の模型も置かれています。


そのうちの「太田道灌のプロフィール」には次のように書かれています。

*******************************************
太田道灌(1432年〜1486)は室町時代中期の武将。30数回戦って負けなしという名将である。関東管領上杉氏の一族で、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰である太田資清(道真)の子として相模で生まれたとされるが、詳細については諸説があり定かではない。道灌は出家後の名前で、元は資長(すけなが)といった。鎌倉五山や足利学校(栃木県足利市)で学んだ後、品川湊近くに居館を構え(現在の御殿山あたり)、ここでの通商を押さえて力を蓄えた。政商の鈴木道胤との交わりなど経済面での才覚も示している。父資清を継いで扇谷上杉家の家宰となり、江戸城を最初に築城したことで知られ、最後は主君に謀殺されるという、戦国の世を駆け抜けた悲劇の武将でもある。

太田道灌についての伝説は関東一円に様々あるが、もっとも有名なのが山吹伝説であろう。突然のにわか雨に遭って蓑を借りようと立ち寄った家で、出て来た娘は無言で一輪の八重山吹の花を差し出した。道灌はわけが分からず怒って出て行ったが、後で家臣に話をしたところ、それは「七重八重 花を咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」という歌にかけて、貧しくて蓑(みの=実の)さえ持ち合わせず申し訳ありません、と言いたかったのだと教えられた。道灌は自らの教養の浅いことを恥じ、その後は歌を学び、歌人としても後世に名をとどめるという、多才な面をもった武将となった。

この言い伝えを残す場所は数多くあり、都内では豊島区高田の神田川面影橋近くや新宿区山吹町など、そして荒川区荒川7丁目の泊船軒にも山吹の塚がある。新宿区新宿6丁目の大聖院には紅皿というその少女の墓が残っている。また、埼玉県越生町には山吹の里歴史公園がある。

戦国の世にあって人心の風情を知る人柄や、下克上の世の中ゆえの非業の死から、太田道灌を偲ぶ人は多く、「道灌紀行」の著者尾崎孝氏によると、戦場の数が多いこともさることながら、道灌の銅像は関東一円、周辺も含めて12体もあり、人々の道灌に対する愛惜の思いを語っているということである。

*******************************************


「道灌の戦績とその後」と題する解説版です。30数回戦って負けなしという太田道灌の輝かしい戦歴が記されています。強い!!


太田道灌が築城した当時の江戸城の全体想定図です。太田道灌が江戸城を築城したのは長禄元年(1457)とされています。道灌が25歳の時です。当時の城ははっきり言って、すなわち軍事上の要塞で、城に天守閣を構築するということはありませんでした。天守閣は日本の戦国時代以降の城に建てられた象徴的な建造物ですが、軍事的目的というよりは城主の権威を誇示するための象徴としての建造物でした。見晴らしや防御力などの軍事的実用性を求めるのであれば、頑丈な物見櫓がその役を担っていました。城に天守閣が作られたのは織田信長が築いた岐阜城、そしてその後の安土城が最初だとされています。この初期の江戸城、さすがに30数回戦って負けなしという戦さ上手の太田道灌が築城した城だけのことはあります。二の丸と本丸の標高差が20メートル以上もあり、まさに鉄壁の砦って感じです。

余談ですが、太田道灌は扇谷上杉家の家宰であり、戦国時代、主君である扇谷上杉家の本拠は河越城(埼玉県川越市)に置かれていました。すなわち、この初期の江戸城は数ある河越城の出城(支城)1つにすぎませんでした。現在、川越は小江戸と呼ばれ、主従関係で言えばのようになっていますが、江戸時代になるまでは川越のほうがでした。その証拠に、江戸城の鎮守である山王日枝神社は、文明10(1478)、太田道灌が江戸城を築城するにあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるといわれています。その関係が逆転するのは徳川家康が関東に移封されてきて、江戸城を居城と定めて以降のことです。おそるべし川越。埼玉県民として誇りに思います。川越は私が住むさいたま市からは近いので、今度改めてゆっくり訪れてみたいと思います。


江戸城天守閣の模型です。江戸城の天守閣は、初代将軍徳川家康によって慶長12 (1607)に、第2代将軍徳川秀忠によって元和9(1623 )に、そして第3代将軍徳川家光によって寛永14 (1637)にと代替えごとに3度建築されています。特に第3代将軍徳川家光の代に建てられた五層の寛永天守閣は江戸幕府の権威を象徴するわが国最大の天守閣でした。模型はその寛永天守閣のものです。

天守台は小天守を付設した南が正面で、石垣は南北36.5メートル、東西33メートル、石垣の高さは11メートルもありました。天守台の地下室は深さ4メートル、広さ135坪で御金蔵・武器庫。その上の天守一重は336坪、二重、三重と順に狭くなり、最上の五層は92坪となっています。石垣の下から金鯱までの高さは51.5メートル。屋根は瓦葺きで、壁面は白漆喰の塗込めに、より防火に優れた黒い錆止めを塗布した銅板を要所に用いて火災旋風に備えていました。天守の上に金色の鯱をいただく外観五層、内部六階の寛永天守がかつては聳えていたわけです。


しかしながら、第3代将軍徳川家光の嫡男家綱が第4代将軍となって6年目の明暦3(1657(118日午後2時頃、本郷円山町の本妙寺から出火して、翌19日にかけ江戸市中に延焼しました。明暦の大火です。その後、牛込方面から出火、市谷、麹町など城の北西からの強風にあおられ、火は内濠を越えて江戸城内にも延焼しました。徳川家光が造営した天守二層の窓の止め金のかけ忘れにより窓の隙間から火災旋風が侵入、瞬く間に天守閣が火焔に包まれ、さらに本丸要所の櫓や多聞に保管した鉄砲の火薬に引火、これを機に本丸御殿、二の丸と主要な建物を全焼してしまいました。しかし、途中で風向きが変わり、西丸御殿は罹災を免れ、本丸の避難先となりました。

すぐに江戸城天守閣の再建が計画され、土台となる天守台までは完成したのですが、第4代将軍徳川家綱の後見人で叔父にあたる幕府重臣・保科正之(徳川秀忠の4)は、天守閣の再建について、「織田信長が岐阜城に築いた天守閣が発端で、戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、眺望を楽しむだけの天守に莫大な財を費やすより、城下の復興を優先させるべきである」との提言で再建は後回しにされました。この保科正之の提言の根底には、これまで秀忠、家光と代替りのたびに、ともに父親との確執で天守を破却して、50年で3度建て替えるという愚挙を見かねて阻止したのであろうと考えられます。その後、江戸城の天守閣は再建されないまま今に至っています。

ちなみに、明治30(1897)~大正12(1923)、江戸城本丸北側跡地には中央気象台(現在の気象庁)が置かれ、また、天守台には風力計が設置され、東京観測点になっていました。


……(その6)に続きます。

2018年9月28日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その4)

そしてここは人気TVドラマ『大岡越前』で知られる「南町奉行所」の跡です。徳川幕府の三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)1つ、江戸町奉行は南北両奉行に分かれており、今から300年近く遡った時代、名奉行と謳われた大岡越前守忠相が南町奉行所町奉行として職務を執っていたところです。


江戸時代における町奉行の役割は、町人地における警察、司法、行政、消防など多岐に渡り、南北2つの奉行所が月番(月替わり)で任務を行なっていました。現在で言うと、東京都庁と東京裁判所(地方、高等)と警視庁と東京消防庁の役割を1つの組織で果たしていたのが江戸町奉行所でした。管轄区域は外濠の外側にある江戸の町方のみで、江戸の面積の半分以上を占める武家地・寺社地には権限が及びませんでした。原則的に町奉行の定員は南北の奉行所それぞれ2名体制でしたが、元禄15(1702)〜享保4(1719)の間だけは1名増員されており、一時的に、鍛冶橋門内(東京駅八重洲南口付近)に中町奉行所が設置されていた時期もありました。町奉行の下に付く与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずつという極めて限られた人数の陣容でした。

奉行所の呼称はあくまでも設置されていた場所によるものであり、管轄区域を示すものではありません。したがって、上記のように限られた人員で当時世界最大の人口(100万人)を誇る大都市江戸の町人地全体の行政、警察、司法、消防などを取り仕切っていました。さぞや大変な重労働だったように思えます。しかも南北の町奉行所は奉行の役宅も兼ねていて、町奉行は24時間勤務。なので、南北2つの奉行所が月番(月替わり)で任務を行なっていたわけです。TVドラマ『大岡越前』では、大岡越前守忠相が世情を知るために着流しの浪人姿で町の様子を見て回る姿が定番になっていますが、もしそういうことを実際にやっていたとしても、それは非番の月のことだったように思えます。

ちなみに、大岡越前守忠相は延宝5(1677)1,700石の旗本・大岡忠高の四男として江戸に生まれました。貞享3(1686)、同族の1,920石の旗本・大岡忠真の養子となり、忠真の娘と婚約し、家督と遺領を継ぎました。第5代将軍・徳川綱吉の時代に、寄合旗本無役から元禄15(1702)には書院番となり、翌年には元禄大地震に伴う復旧普請のための仮奉行の1人を務めました。第6代将軍・徳川家宣の時代の正徳2(1712)に遠国奉行のひとつである山田奉行(伊勢奉行)に就任。第7代将軍・徳川家継の時代の享保元年(1716)には普請奉行となり、江戸の土木工事や屋敷割を指揮しました。そして、同年、徳川吉宗が第8代将軍に就任すると、その翌年の享保2(1717)、江戸町奉行(南町奉行)に就任しました。その後、元文元年(1736)に寺社奉行となるまでの約20年間、江戸町奉行(南町奉行)を務めました (町奉行は旗本が就く役職としては最高のもので、目付から遠国奉行・勘定奉行等を経て司法・民政・財政などの経験を積んだ者が任命されました)

この間、第8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わりました。町奉行として大岡越前守忠相が残した業績は、町人による町火消し(いろは四十七組)を編成し消火活動にあたったこと、困窮者救済策として小石川療養所の開設運営にあたり病気になった困窮者を入院させ薬を与えたりしたこと、庶民の要求・不満などの投書を受け取るために評定所の門前に箱を設置したこと、江戸で流通する金貨と上方で流通する銀貨の相場の安定を両替商に指導したこと……等々、実に多岐に渡ります。また、町奉行として江戸の都市政策に携わることに加えて評定所一座にも加わり、司法にも携わりました。この頃、奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され南北両町奉行所の支配領域が拡大し、大岡越前守忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていました。

江戸町奉行時代の裁判の見事さや、上記のような江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、大岡越前守忠相は庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で様々な架空のエピソードが人々の間に広がりました。「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などがその代表で、これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言われています。


ですが、史学的検証によると、数ある物語のうち大岡越前守忠相が約20年間の南町奉行時代に実際にお裁きを下したのは難事件とされた享保12(1727)の「白子屋お熊事件」をはじめ3件のみで、そのほかの事件は裁判が主任務であった吟味与力が裁いていたそうです。大変な激務だったわけですから、仕方ないですね。


南町奉行所を数寄屋橋御門内のこの場所に移したのは富士山の宝永大噴火のあった宝永4(1707)のことです。南町奉行所は2,700坪という広大な広さの土地で、数寄屋橋御門のあった現在の有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)のところからJR有楽町駅の東口にかけての一帯が南町奉行所でした。この歴史を証明する遺跡が確認されたのが平成16(2004)。現在「有楽町マルイ」や「有楽町イトシア」などのビルが建ち並ぶ有楽町駅前エリアの再開発事業計画のため、千代田区教育委員会が執り行った遺跡確認の試掘調査で、南町奉行所などの遺跡を確認。翌年から本格発掘調査へと移行した結果、宝永4(1707)から同地にあった南町奉行所跡のみならず、江戸時代初期の大名屋敷跡といった貴重な数々が発見されました。南町奉行所の遺跡として発見されたのは、屋敷の表門から裁判執行のための役所部分。井戸、土蔵の跡や石組の溝などだけでなく、「大岡越前守様御屋敷」と記された札など、歴史を紐解く資料が多数発掘されました。


この南町奉行所に関する発掘成果は、誰もが気軽に触れられる珍しい展示方法を取っているのが特徴です。まず、有楽町駅前広場の一角にあるのが、発掘により出土した石組。オブジェのような重厚感ある石組ですが、実はそれこそ南町奉行所で使用されていた本物の石垣です。


地下広場へと降りると、「有楽町イトシア」B1Fエントランスの左手に壁に埋め込まれるような形で置かれている大きな木枠があります。これは、南町奉行所の地下にあった穴蔵の跡です。大火災に見舞われることが多かった江戸時代の人々の知恵で、焼失を避けたい貴重品などの収納場所として地下に穴蔵を造る文化があり、南町奉行所に当時存在していた貴重な穴蔵がここに残っています。



穴蔵から両サイドに伸びるように置かれた横長の木製ベンチは、なんと江戸時代の水道管(木樋)の実物です。


また、地上からエスカレーターを降りて、すぐ左手にある柱をぐるりと取り囲むように置かれた石造りのベンチも、南町奉行所の跡地から発掘された石組(石垣)の石です。きっと「そうとは知らずに休憩などで使用していた!」という人が多いのではないでしょうか。それらはあの大岡越前も触ったかもしれない江戸時代の貴重な遺跡です。


ところで「大岡越前」と言えば、1970年から1999年にかけてと2006年にTBS系列の「ナショナル劇場」で月曜日の20時台に放送されていた時代劇TVドラマ『大岡越前』で主人公の大岡越前守忠相を演じた俳優の加藤剛さんですね 。30年以上も大岡越前守忠相を演じられてきただけに、私もそうですが、大岡越前守忠相と言えば加藤剛さんのイメージでいる方って多いのではないでしょうか。2013年からはNHK BSプレミアムにて「スペシャル時代劇 」として『大岡越前』のリメイク版が放映されていますが、こちらで大岡越前守忠相を演じているのは俳優の東山紀之さん。タイトルの題字・主題歌・音楽はTBS時代と同じものが使用され、放送される内容もTBSで過去に放送したものを参考にしているようですが、やはり大岡越前守忠相は加藤剛さんのイメージが強すぎて、どうしてもまだ違和感を感じてしまいます。でもまぁ、東山紀之さんも素晴らしい俳優さんなので、回を重ねるごとに大岡越前守忠相らしくなっていくことでしょう。期待しています。

加藤剛さんは今年(2018)618日、胆嚢癌のためお亡くなりになりました。享年80歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます。


……(その5)に続きます。




2018年9月27日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その3)

ここから数寄屋通りに入ります。


数寄屋橋交差点の手前にある数寄屋橋公園の一角に奇抜なモニュメントが立っています。大阪万博のシンボルタワー「太陽の塔」に似ていると思ったら、やはり「芸術は爆発だぁ!」でお馴染みの前衛芸術家・岡本太郎さん作の『若い時計台』という作品だそうです。岡本太郎さんは「岡本太郎以降、世界に名だたる芸術家は(日本からは)出ていない」と言われるほど著名な芸術家と言われていますが、私はその方面の造詣は持ち合わせていないので、申し訳ないことに、ただの奇抜なモニュメントという以外、その凄さはよく分かりません。



外堀通りと晴海通りが交差する数寄屋橋の交差点です。江戸時代、ここに外濠に架けられた数寄屋橋(すきやばし)と数寄屋橋御門(見附)がありました。数寄屋橋御門は当初「芝口御門」と呼ばれていましたが、新橋に芝口御門を築くにあたり、数寄屋橋御門と改称しました。最初の数寄屋橋は、寛永6(1629)、陸奥国仙台藩初代藩主伊達政宗によって木製の橋として石垣と枡形門とともに築かれました。関東大震災により焼失し、震災後の帝都復興事業によって昭和4(1929)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられました。その後、外濠の埋め立てに伴い橋は取り壊されて現存しないのですが、今も交差点の名称と周辺の地名にその名残りを残しています。


今回の企画も大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんによるものです。その瓜生さんが掲げているのが昭和28年当時の数寄屋橋の風景写真です。現在の外堀通りと首都高速道路になっているところはまだ埋め立てられていなくて、外濠になっています。ちなみに、この写真に写っている石造りの二連アーチ橋の数寄屋橋は前述のように昭和4(1929)の建造。泰明小学校の建造も昭和4(1929)。朝日新聞本社は昭和3(1928)、当時日本屈指4,000名収容の大劇場「日劇」は昭和8(1933)の建造。これらは数寄屋橋御門の跡地に建てられたもので、第二次世界大戦の東京大空襲でも焼け落ちなかったのですが、戦後、朝日新聞の本社は築地に移転し、日劇はなくなり映画館のみとなり、現在は昭和59(1984)に竣工した複合商業施設「有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)」に生まれ変わっています。


数寄屋橋の碑が立っています。その碑に刻まれた説明文によると、

「寛永6(西暦1629)、江戸城外廊見附として数寄屋橋が架けられた時は木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったことに依るという。見附の城門枡形は維新の際に撤去され、ついで大正大震災後の復興計画により完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼(あく)することとなった。」

と書かれています。この中で、数寄屋橋の名称となっている「数寄屋」とは日本の建築様式の1つである数寄屋造りのこと。語源の「数寄」とは和歌や茶の湯、生け花など風流を好むことであり、「数寄屋」は「好みに任せて作った家」といった意味で茶室を意味します。こういうことから、数奇屋大工が造る木造軸組工法の家屋のことを数寄屋と言い、その数寄屋造りを造る数寄屋大工が集団でまとまって住んでいた地区がこのあたりの外濠の外側ってことなのでしょう。外濠の内側は大名屋敷が建ち並ぶ武家の町、外濠の外側は町人の町でしたから。その数寄屋大工をとりまとめる幕府の数寄屋役人の公宅もこのあたりにあったということなのでしょう。


『放浪記』や『君の名は』で知られる劇作家の菊田一夫先生の石碑が建っています。石碑には「数寄屋橋 此処に ありき」という文字が刻まれています。菊田一夫先生の書かれた名作ラジオドラマ『君の名は』。「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」の冒頭ナレーションが流れ放送が始まるとたちまち女湯はガラガラになると言われ、主人公の1人真知子が巻いていた「まちこ巻」が一躍、流行のファッションとなりました。その主人公の真知子と春樹が再会を約束した場所がこの数寄屋橋でした。


その左手、南西方向に外濠は続いていました。

晴海通りの数寄屋橋方向を眺めたところです。左右に走っている高架が首都高速道路で、元外濠があったところです。現在、首都高速道路が通っているところの約85%は外濠だったところです。


東京はどこも激しく変貌してきました。数寄屋橋界隈はその最たるものの1箇所かもしれません。昔の面影は微塵も残っていませんが、晴海通りの立体交差道路の壁に昔の数寄屋橋の写真が嵌めこんであります。私もうっかりして写真を撮るのを怠ってしまいましたが、毎日、何十万人と行き交う通行人の中で、この写真に気付いて、立ち止まって見る人は何人いるのでしょうか? それを見ると、かつての数寄屋橋は幅約30メートル、長さ約40メートルの立派な橋でした。


有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)です。前述のようにかつてここに数寄屋橋御門がありました。

この数寄屋橋を渡った外濠の内側あたりが有楽町です。この有楽町は織田信長の実弟・織田有楽斎こと織田長益の屋敷があった場所とされ、有楽町の名前も有楽斎から来ています。有楽町マリオン前に、ちょっとした解説版が設置されています。場所が場所だけに開発されつくされ遺構は望むことが難しい場所で、往時を偲ぶものは何も残っていません。

この織田有楽斎。実兄の信長が本能寺で斃れた後は、豊臣家に所属したり、その後関ヶ原では東軍に所属し徳川家に所属したりなど75年の天寿を全うした戦国時代の武将ですが、最期を迎えたのは京都の東山であるとも伝わり、この江戸には暮らしたという記録は残されていないのだそうです。また江戸時代の初期は銀座界隈はまだ海だったとのことで、本当に織田有楽斎の江戸屋敷がここにあったのかどうかは実は不明なのだそうです。


「あなたを待てば 雨が降る♬」で始まるフランク永井さんの大ヒット曲『有楽町で逢いましょう』の歌碑が建っています。佐伯孝夫さん作詞、吉田正さん作曲で、昭和32(1957)7月に発表されたこの楽曲は、もともとは「有楽町そごう」のコマーシャルソングとして作られたものです。大阪資本の百貨店の「そごう」が東京進出の出店地として選んだのが有楽町。有楽町の更なる活性化と高級化キャンペーンの一環として製作された楽曲ということのようです。


有楽町センタービルディング(通称:有楽町マリオン)の東側に回り込みます。ここに「朝日新聞東京本社跡」を示す記念プレートが掲げられています。それによると……


「朝日新聞社は1879(明治12)大阪で創業9年後に東京に進出し本拠を現在の銀座6丁目に置いた。社勢の伸張に伴ってここ有楽町に東京本社を移したのは関東大震災の復興なお半ばの1927(昭和2)3月であった。
その建物は当時の最高傑作とうたわれ外濠に影を落とした景観は東京の新名所となった。以来半世紀戦争と敗戦をふくむ波乱の時代を通じて朝日新聞の言論・報道活動の中心であり続けた。今日世界有数の新聞となるに至った歴史はこの有楽町の地を抜きにしては語り得ない。
しかしながら社業の発展とともに社屋の挟隘と不便さは限度に達し1980(昭和55)9月をもって築地に移転した。
創業者村山龍平はじめ万余の社員・関係者の汗と感慨のにじむこの地に新時代を象徴する巨棟を建設したのを機に一文を掲げて末永く記念するものである。
  198410月 朝日新聞社」

なのだそうです。




……(その4)に続きます。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...