2018年9月25日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その1)


98()、『江戸城外濠内濠全周ウォーク』の第6回に参加してきました。今回はJR新橋駅前を出発して、幸橋御門、山下御門、数寄屋橋御門、鍛冶屋橋御門、呉服橋御門、神田橋御門、一ツ橋御門、雉子橋御門を経て竹橋まで歩きます。このうち、新橋の幸橋御門から呉服橋御門の先までは昭和33(1958)頃まで外濠があったのですが、現在は埋め立てられて外堀通りとなり、交差点名称にその名残りが残っているだけです。

9月に入ったとは言え、今年の夏は記録的猛暑が続いていて、この日の東京もよく晴れて、真夏の太陽が容赦なく照りつける暑い1日でした。水分補給をしながら熱中症に気をつけてウォーキングを楽しむこととしました。


今回の集合場所はJR新橋駅西口(日比谷口)にあるSL広場。このSL広場には小型のC11型蒸気機関車(C11 292)が静態保存されているのですが、さすがにJR新橋駅前という多くの人が集まる場所に保存され、待ち合わせのためのランドマーク(モニュメント)にもなっている蒸気機関車です。清掃や整備がこまめに行われているようです。

ちなみに、説明書きによると、この展示車両「C11 292」は昭和20(1945)に日本車輌製造によって製造され、兵庫県の姫路機関区に所属し、引退するまでずっと姫路機関区で播但線や姫新線といった近距離路線や駅構内の貨車の入替えなどで活躍していた機関車です。なので、新橋駅前に静態保存されている蒸気機関車なのですが、東京周辺で一度も走っていなかったという衝撃の事実があります。新橋駅前への設置は昭和47(1972)10月。日本で初めて鉄道が開業したのが明治5(1872)10月の新橋(汐留)駅〜横浜(現在の桜木町)駅間の開業で、それからちょうど100周年を記念したものなのだそうです。新橋駅前の展示車両として東京周辺で一度も走っていなかった「C11 292」が選ばれた理由は、おそらく「引退する時に最も状態が良かったから」ではないかと想像されます。昭和47(1972)8月に現役を退いて品川機関区へ移動され、9月に廃車となって、10月から展示されているので、新橋駅前で展示されるためにわざわざ遠く姫路から運ばれてきたようです。


そのJR新橋駅前のSL広場を出発して、この日の江戸城外濠内濠ウォークの開始です。すぐに外堀通りを渡ります。前回第5回でご紹介したように、この外堀通りはかつては外濠だったところです。外堀通りを渡るということは、すなわち外濠を渡るということを意味します。その外濠を渡ったところに江戸時代には幸橋御門(見附)がありました。現在は外濠は埋め立てられ、それと同時に門も橋も取り壊されて、現在は上をJR山手線や京浜東北線、東海道本線(上野東京ライン)、東海道新幹線と言った多くの線路が通る幸橋架道橋にその名を残すだけになっています。


ちなみに内幸町という地名は、この幸橋の内側(江戸城側)にあったことから、その地名が付けられました。また幸橋を渡って南方向にまっすぐ進んだところにあるのが芝大門。この芝大門は徳川家康をはじめ徳川家の歴代将軍の菩提寺の1つである増上寺の境内に入るための門でした。歴代の徳川将軍は徳川家康の月命日には増上寺に必ず墓参りに訪れないといけないという決まりがあり、その都度、この幸橋を通らないといけないということで、この幸橋は極めて重要な橋で、ここに幸橋御門という枡形門が設けられていました。現在、第一ホテル東京が建っているあたりにその幸橋御門がありました。



余談ですが、地下鉄の都営三田線に御成門駅という駅がありますが、その増上寺近くに御成門という門があります。虎ノ御門や幸橋御門が江戸城の外濠に面した外郭門であったためか、御成門も江戸城の門と思いがちですが、 実は芝の増上寺の北方馬場にあった裏門の別称のことなのです。すなわち、増上寺の門の名称なのです。前述のように、増上寺は徳川家の菩提寺の一つで、歴代の徳川将軍は徳川家康の月命日には増上寺に必ず墓参りに訪れないといけないという決まりがあり、将軍が参詣する際には、現在、国の重要文化財に指定されている正面の三解脱門ではなく、この裏門がもっぱら用いられたので、この門が御成門と呼ばれるようになりました。もともと現在の日比谷通りにある御成門交差点のところにありましたが、明治25(1892)の東京市区改正計画で道路(日比谷通り)が新設された際に、現在の東京プリンスホテルの駐車場脇に移設され、今も現存しています。また、地下鉄の都営浅草線の駅名にもなっている「大門」も、増上寺の旧総門のことを指します。


前回【第5回】でも書きましたが、この幸橋が架かっていたところで外濠は浜離宮(濱御殿)へと続く本線とは別に、北方に山下御門、数寄屋橋御門、鍛冶屋橋御門、呉服橋御門と続く支線とも言うべき濠が分岐していました。今回第6回ではその濠に沿って歩きます。この濠の幅は約50メートル。進行方向右手に壁のように立っているJR山手線や京浜東北線、東海道本線(上野東京ライン)、東海道新幹線の高架の線路の下はすべてが外濠でした。


新幸橋交差点です。ここにかつて新幸橋という橋が架かっていました。この新幸橋は江戸時代にはなくて、大正12(1923)の関東大震災の後、地元の有志により架けられたものだそうです。その場所は現在は上を山手線をはじめとする線路が通る内幸橋架道橋となっています。ちなみに、有楽町駅〜新橋駅間の高架鉄道が開通したのは、明治43(1910)。この赤レンガ(煉瓦)造りの高架橋脚は、なんと当時のものが今も残っているのだそうです。


その内幸橋架道橋で線路を抜けた先にかつてここが外濠であったことの証拠が残っています。私も大好きなNHKの人気番組『ブラタモリ』風に言うと、
「タモリさん、この段差はなんでしょう?」
(・・?) (´⊙ω⊙`)!! 「お堀ですか?」
「正解です。ここは外濠の跡で、段差の一番下がお堀の底にあたります」

って具合になります。現在、この段差の底の部分は駐車場になっているのだそうです。


ここに新幸橋の跡を示す石碑が立っています。石碑には寄付を行なった人の名前が刻まれています。


JR線の高架に沿った銀座コリドー街です。この銀座コリドー街のコリドー(corridor)とは建物の各部をつなぐ回廊、廊下、また、一般的に通路を意味する言葉で、ここでは飲食店が立ち並ぶ通路という意味で名付けられたと思われます。私は若い頃、この銀座コリドー街とはJRの線路を隔てて向こう側の内幸町にあった日本電信電話公社本社の技術局という部署で勤務していたことがあります。当時、飲みに行くと言ったら、ほとんどこの銀座コリドー街でした。その銀座コリドー街が私が生まれた昭和31(1956)当時はお堀だった、すなわち水の中だったってことを当時は知りませんでした。



……(その2)に続きます。

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