2021年9月23日木曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その8)

公開予定日2022/06/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第93回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その8)

 

【松姫(信松尼)

実は武田勝頼が新府城を放棄し、郡内地方の岩殿山城を目指して脱出を図った際、その武田勝頼の一行とは別行動を取り、うまく脱出に成功したある1人の女性を中心にした集団がいました。その女性というのが武田信玄の五女(すなわち武田勝頼の異母妹)の松姫です。松姫は7歳であった永禄10(1567)12月に、武田・織田同盟の証しとして当時11歳だった織田信長の嫡男・織田信忠と婚約。しかし、元亀3(1572)、武田信玄が三河・遠江方面への大規模な侵攻である西上作戦を開始。織田信長の同盟国である三河国の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが起こると織田信長は徳川方に援軍を送ったことから武田・織田両家は手切れとなり、松姫と織田信忠との婚約も解消されました。5年間の婚約期間中、松姫と織田信忠は頻繁に書状のやり取りを行い、プラトニックな愛を育てていっていたようです。

 

東京都八王子市台町にある信松院に建つ松姫(信松尼)の銅像です。甲斐国から脱出した際の姿なのでしょうね。


天正元年(1573)に武田信玄が死去し、異母兄の武田勝頼が家督を継承すると、松姫は実兄の仁科盛信の庇護のもと信濃国伊那郡の高遠城城下(長野県伊那市)の館に移り、そこに身を寄せて暮らしていたのですが、天正10(1582)2月、織田信長・徳川家康連合軍が甲斐国へと進撃を開始します。織田軍の総大将は皮肉にもかつての婚約者である織田信忠でした。高遠城は、32日、織田信忠率いる甲州征伐軍約3万人による総攻撃を受け落城し、兄・仁科盛信は自害しました。松姫は織田軍の攻撃が始まる前に仁科盛信により韮崎にある新府城まで逃されていたのですが、今度は異母兄の武田勝頼が新府城を放棄して郡内地方の岩殿山城を目指して脱出することになったので、松姫は休むまもなく東に向け脱出することになりました。同行したのは高遠城をともに脱出した仁科盛信の長男の仁科信基(当時8歳:のちに江戸幕府旗本)と妹の小督姫(当時4歳:若くして病没)の幼い兄妹、武田勝頼の娘・貞姫(当時4歳:のちに江戸幕府高家旗本・宮原義久室)、小山田信茂の娘・香具姫(香貴姫とも。当時4歳:のちに陸奥国磐城平藩第2代藩主・内藤忠興室)など。

松姫ら一行はいったん武田家重臣の姫が尼僧として住んでいた海島寺(山梨市上栗原)、さらには臨済宗向嶽寺派の本山である向嶽寺(甲州市塩山上於曽)にしばらく身を隠して滞在したのち、向嶽寺の住職の紹介で後北条氏の支配下にあった武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市上恩方町)の金照庵に向かったとされ、その恩方の金照庵には327日に到着したとされています。その松姫一行の逃避ルートは確かにはなっておらず諸説ありますが、国道139号線の山梨県都留郡小菅村と山梨県大月市の間にある大菩薩嶺を越える峠に松姫峠(標高1,250メートル)という名の峠があり、その名称の由来というのが松姫が織田信長の軍勢から逃れるためにこの峠を越えたとされることによるということなので、松姫一行は海島寺のある勝沼の手前から青梅街道(現在の国道411号線)に入り、大菩薩峠(標高1,897メートル)とこの松姫峠を越え、最後は陣馬街道(現在の山梨県道・神奈川県道・東京都道521号上野原八王子線の一部)で陣馬山系にある相模国・武蔵国国境の案下峠(別名・和田峠:標高690メートル)を越えるという古甲州道とも呼ばれるルートを主に辿ったのではないかと考えられています。

 

地図はクリックすると拡大されます

この古甲州道は前述のように青梅街道(甲州裏街道)とも重なる部分があり、現在では一部国道や都県道になっている区間もありますが、それでも酷道険道と呼ばれ、その方面のマニアにしか知られていないような交通量が極めて少ない狭隘な峠道です。標高1,897メートルの大菩薩峠を越えるなど、さぞや大変な逃避行だったのではなかったでしょうか。当然、松姫をはじめとした若い女性や幼い子供達だけでこの山中の峠道を迷わずに安全に逃げきれたとは思えず、必ずや護衛する警護の男性陣が同行していたと思われます。その役割を担ったのが武田勝頼直参の横目衆のうちの何人かだったのではないでしょうか。私の希望的推察で言わせていただくと、その松姫の逃避行を護衛した横目衆の中に、先にご紹介した伊予国出身の河野但馬守通重もいたのではないか…と思われます。もしそうなると、河野通重は武田勝頼の脱出に加えて松姫の脱出にも深く関与していたということになります。こりゃあ、伊予国出身の河野通重を主人公にした歴史小説が1本書けそうです。主な登場人物も武田信玄や武田勝頼、小山田信茂だけでなく、松姫、織田信忠、織田信長、徳川家康など錚々たる歴史上の人物も加わってくるので、一大歴史巨編になりそうです。NHKの大河ドラマとまでは言いませんが、正月特番の3時間ドラマの原作くらいには十分になりそうですね()

ちなみに、前述のように、古甲州道の途中、甲府側から向かうと大菩薩峠の手前に雲峰寺(甲州市塩山上荻原)という臨済宗の寺院があります。『甲斐国志』によると、この雲峰寺は甲府の鬼門(北東)に位置するため代々甲斐武田氏の祈願所となっていたといわれていて、おそらく幼い子供連れの松姫一行はこの雲峰寺にも立ち寄り、滞在したのではないかと思われます。前述のように、この雲峰寺には天正10(1582)に武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで自害した時、部下に命じて密かに山伝いに運んだとされる甲斐武田家の家宝である日本最古の 「日の丸の御旗」や「孫子の旗(俗に風林火山の旗と呼ばれる旗)」、「諏訪神号旗」、「馬標旗」といった武田軍旗が現在も6旒残されていて、山梨県の文化財に指定されています。

天目山の戦いでの甲斐武田氏の滅亡後、八王子に落ち延びていた松姫のもとに織田信忠から迎えの使者が訪れます。正室として迎えたいとのことでした。心を通わせあったかつての婚約者からの思いがけない言葉に喜んだ松姫は、すぐに織田信忠に逢うため織田信忠の居城であった岐阜城に向かうのですが、その道中の62日に本能寺の変が勃発し、織田信忠は二条御所で明智光秀を迎え討ち、自害してしまいました。つくづく歴史の荒波に翻弄された悲劇の女性のように思います。重なる失意のうちに八王子に戻った松姫は、その年の秋に、武蔵国守護代で滝山城(東京都八王子市高月町)城主であった後北条氏一門の北条氏照の庇護下にて心源院(八王子市下恩方町)に移り、出家して信松尼と称し、武田一族とともに織田信忠の冥福を終生祈ったといわれています。出家した当時、松姫はまだ22歳でした。また、八王子には信松尼は北条氏照の正室・比左(ひさ)姫の話し相手を務めていたという伝承も残っています。

なぜ、この織田信忠からの迎えの使者がこんなに早く八王子に落ち延びていた松姫のもとを訪れたのか…ですが、私はこのことに小山田信茂が関係しているのではないかと推察しています。天目山の戦いの後、甲斐善光寺に出頭してきた小山田信茂に会った織田信忠は、最後にこのように尋ねたのではないか…と推察されます。「松姫は無事か?」。その織田信忠の問いに対して小山田信茂は「はい、松姫様はたぶんご無事だと存じます。仁科盛信様の嫡男の信基様と小督姫、武田勝頼様のお子様の貞姫、それとそれがし小山田信茂の娘・香具と一緒に武蔵国多摩郡に向けて落ち延びている途中かと存じます。幼い子供を何人も連れて山々を越えていく厳しい旅ではありますが、傅役(もりやく)として河野通重ほか何名かが付き従っておりますれば、大丈夫かと」と応えたのではないでしょうか。自身の娘・香貴姫が同行していることもありますが、落ち延びようとする先もある程度知っていたように思います。甲斐善光寺で小山田信茂とともに処刑された武将の中に小菅五郎兵衛の名前があります。この小菅五郎兵衛は小山田信茂配下の国人衆で現在の北都留郡小菅村にある天神山城(小菅城とも)の城主です。この天神山城は古甲州道を甲府方面から進むと大菩薩峠を越えた先の古富士道との分岐点付近にある城で、古甲州道を使って攻め込んで来る敵の侵入から甲斐国、特に郡内地方を守っていた城です。ということは、古甲州道を使って落ち延びる途中の松姫一行と会っていた可能性が十分にあったように思います。松姫が落ち延びる途中に通ったとされる松姫峠のすぐ近くですから。もしかすると古甲州道最大の難所であった大菩薩峠を越えてきた松姫達一行の疲れがとれるまで、数日間ほど匿っていたとも考えられます。そうだとすると、小菅五郎兵衛から話を聞いて、小山田信茂も松姫、そして自身の娘である香具姫の消息をある程度知っていたと思われます。その小山田信茂の話を聞き、甲斐国から戻った織田信忠は父・織田信長の了承をすぐに取り付けた上で、織田家と同盟関係にあり当時武蔵国を支配していた後北条氏を通じて松姫が落ち着いた先を探し出したのではないか…と私は推察しています。そうじゃないと、あの大混乱の中で、これほど早く松姫の落ち着いた先を織田信忠が知ることはできなかったのではないか…と私は思っています。

ちなみに、小山田信茂は織田信忠にこの話をした後、武田勝頼脱出に関するすべての謎を自分の胸の内にしまいこんだまま、自害…、正確には自ら望んで「裏切り者」「不忠者」として処刑(斬首)を受けたと私は思っています。小山田信茂が甲斐善光寺で処刑されたのは天正10324日。松姫一行はその3日後の327日に武蔵国多摩郡恩方の金照庵に到着しました。


その後、信松尼は天正18(1590)に八王子御所水(現在の八王子市台町)の草庵に移り住み、尼としての生活の傍ら、寺子屋で近所の子供たちに読み書きを教え、蚕を育て、織物を作り、それらで得た収入で3人の姫(仁科盛信の娘・小督姫、武田勝頼の娘・貞姫、小山田信繁の娘・香具姫)を養育する日々だったと言われています。この信松尼が養育した3人の姫のうち、小山田信茂の娘・香具姫は成人して譜代大名である陸奥国磐城平藩7万石の第2代藩主・内藤忠興の側室となり、嫡男・内藤義概(よしむね:磐城平藩第3代藩主)をはじめ21女をもうけています。正室との間に子供ができなかったことで、世継ぎを産むことを期待されて迎えられた側室であり、もし小山田信茂が広く世の中で言われているような武田勝頼を裏切った「裏切り者」「不忠者」であったのであるならば、7万石の譜代大名家にその小山田信茂の血筋が入ることになる婚姻を徳川家康が認めるはずがなく、なにより内藤忠興も側室として迎えるはずがありません。このことは小山田信茂が笹子峠への峠道を封鎖などしていなかったことの最大の証拠となるかと思います。おそらく徳川家康は信松尼あたりからことの真相を聞いて、小山田信茂こそ真の忠義者であることを知っていたのではないかと私は思っています。また、香具姫が産んだ内藤忠興の娘、要するに小山田信茂の孫娘が、武田信玄の曾孫にあたる江戸幕府高家武田家(武田宗家)の武田信正(父の武田信通が武田信玄の次男・海野信親の子)に正室として嫁ぎ、嫡男・武田信興を産み、甲斐武田氏の血脈を現代にまで残しているという驚くべき事実があります。この歴史的事実をどのように読み解くのか…ってことです。

ちなみに、内藤忠興は藩主となった翌年から約10年間にわたって領内の総検地と新田開発に取り組み、これにより7万石の所領から実質的に約2万石の増収をもたらしたとされる名君なのですが、大変な恐妻家だったといわれ、それを示す逸話が残っています。小山田信茂の娘である側室の香具姫は気の強い女性であったそうで、ある時、内藤忠興が香具姫に内緒で家中でも特に美女といわれる女性を呼び寄せたそうなのです。すると香具姫はこれに怒って、薙刀を振りかざして内藤忠興を追い回したといわれています。このため、以後は女性関係を慎み、藩政に関しても、常に香具姫の意見を聞いたといわれています。そりゃあ、あれだけの苦難を乗り越えてきたのなら、気も強くなりますわな()

 

八王子市の東浅川山王社にある「子育て地蔵尊」です。この子育て地蔵尊は“松姫地蔵尊”とも呼ばれ、松姫(信松尼)と大変に深いゆかりのある地蔵尊だそうです。八王子には松姫(信松尼)に所縁の場所が他にも幾つかあります。

天正19(1591)に元武田家家臣である大久保長安が徳川家康より代官頭として武蔵国八王子に8,000石の所領を与えられると、大久保長安は信松尼のために様々な支援をしたとされています。また、八王子を拠点にして元甲斐武田家の家臣達で構成された八王子千人同心が結成されると、彼等の心の支えともなったとされています。信松尼は慶長18(1613)頃より、異母姉で穴山信君(梅雪)の正室であった見性尼(見性院)とともに第2代将軍・徳川秀忠の四男である幸松を八王子にて預かり養育したとされています。この幸松は第3代将軍・徳川家光の異母弟にあたり、成人ののちに会津藩23万石初代藩主で、かつ第3代将軍・徳川家光と第4代将軍・徳川家綱を輔佐して幕閣に重きをなし、“会津中将”と通称された保科正之となります。ちなみに、幸松は元和3(1617)、見性尼の縁で旧甲斐武田家家臣の信濃国高遠藩主だった保科正光に預けられ、保科家の養子となります。21歳で幸松から保科肥後守正之と名を改めたのですが、最初に実の父である第2代将軍・徳川秀忠から命じられたのは信濃国高遠藩3万石の藩主の継承であり、甲斐武田氏宗家が滅亡した際に仁科盛信が自害した甲斐武田氏所縁の高遠城に入りました。

信松尼(松姫)は元和2(1616)に死去。享年56歳でした。信松尼の暮らした草庵は、旧甲斐武田家家臣である八王子千人同心達からの多額の寄進もあって、信松院という曹洞宗の寺院となっています。

東京都八王子市台町にある信松院です。本堂の上に舎利殿が乗っている特徴的な構造をした寺院です。
 
信松院に保管されている木造松姫坐像です(八王子市指定有形文化財)。寄木造、玉眼。彩色されており、剃髪し法衣に袈裟をつけた尼僧の姿で、松姫百回忌に当たる正徳5(1715)頃に彫られたものと考えられています。

信松院にある松姫尼公墓です(八王子市指定史跡)。延享5(1748)、八王子千人同心により墓を囲む玉垣が寄進されました。


【信松院】

その信松院には(その4)の武田水軍の項でご紹介した武田水軍の安宅船(あたけぶね)と関船(せきぶね)2艘の縮尺1/25と推定される長さが約1メートルにも及ぶ精巧な大型模型が保管され、一般公開されています。この2艘の軍船の模型は高遠城で自害した仁科盛信の曾孫、すなわち松姫と一緒に高遠城から八王子に落ち延びた仁科信基の孫である仁科資真が正徳4(1714)の信松尼公百回忌の際に寄進したもので、寄進目録とともに東京都指定の有形文化財になっています。この軍船の模型は文禄・慶長の役(1592年〜1598)における朝鮮出兵の際、小早川隆景軍が使用した(すなわち村上水軍の)軍船の模型といわれていますが、帆に武田菱のマークが付いていますし、それは違うと私は思います。これは間違いなくかつてあった武田水軍の軍船、それも伊予水軍出身という説もある小浜景隆が率いた安宅船の模型です。武田水軍は甲斐武田家滅亡後、徳川幕府の主力水軍として江戸湾(東京湾)の守りの任に就いて活躍していましたからね。文禄・慶長の役における朝鮮出兵の際に小早川隆景軍が使用した軍船の模型であるはずがありません。だとすると、海なし国であった甲斐国の甲斐武田氏の仁科信基が信松尼の百回忌に戦国時代最強と言われた騎馬軍団に因んだものではなく、わざわざ当時でも大変に高価なものであったであろうこの武田水軍の軍船の精巧な大型模型を寄進したことの意味するものとは何か?ってことです。それはここまで私のコラムをお読みいただいた皆さんのご推察の通りです。

 

信松院に保管されている武田水軍の安宅船の木製軍船ひな形模型です(東京都指定有形文化財)

こちらも信松院に保管されている武田水軍の関船の木製軍船ひな形模型です(東京都指定有形文化財)

ちなみに、(その4)でご紹介した静岡市清水区にあるフェルケール博物館に展示されている武田水軍の安宅船と関船の大型模型は、この信松院に寄進され保管されている武田水軍の安宅船と関船の模型を参考に製作されたものです。

しまなみ海道の途中の大島(愛媛県今治市宮窪町)にある村上海賊ミュージアムに展示されているものとほぼ同形の安宅船と関船の300年前に作られた精巧な大型模型が、どうして東京都八王子市の甲斐武田氏に所縁の深い信松院にあるのか?…、実は私の謎解きもこの信松院に寄進された2艘の軍船の模型から始まりました。私の推論が正しいとするならば、甲斐武田氏終焉時の謎を解く鍵は、意外なことに山梨県ではなく、東京都八王子市と愛媛県今治市にあったということです。これは伊予武田氏の居城・龍門山城のあった愛媛県今治市朝倉を本籍地とし、かつ街道歩きを趣味にして甲州街道の笹子峠を実際に歩いて越えた経験を持つ私でしか辿り着けなかったことなのかもしれません。なんだか映画『ダ・ヴィンチ・コード』で主演のトム・ハンクスさんが演じたハーバード大学のロバート・ラングドン教授のようになってきましたね。ラングドン教授のように、私も誰かに追いかけられることになるのでしょうか?()

河野通重は文禄4(1595)、八王子において86歳で死去したということを書かせていただきましたが、河野通重の晩年は信松尼と甲斐武田家が繁栄した頃を懐かしみながらの昔話をする毎日だったのかもしれません。河野通重は甲斐武田氏が滅亡した直後の天正10(1582)4月に、駿河国の浜松城において徳川家康に謁見し、甲州九口之道筋奉行に命じられたとなっていますが、この時に河野通重は72歳。前述のように、河野通重は記録では天正15(1587)に官職を退いたということになっていますが、さすがに隠居して、実質的には家督を息子の河野通郷に譲っていたと思われるので、徳川家康に謁見したのはその河野通郷だったのではないかと思われます。そして、実際には“爺(ジイ)”と呼ばれながら、八王子でずっと松姫(信松尼)や一緒に甲斐国を脱出した幼い子供たちの身の回りの世話をしていたのではないでしょうか。

 

信松院の近くに甲州街道(国道20号線)と陣馬街道の追分(合流点)があり、そこに「八王子千人同心屋敷跡記念碑」が建っています。このあたりの地名は八王子市千人町。ここはかつて旧甲斐武田氏の直参家臣団から成る八王子千人同心の拝領屋敷が建ち並んでいたところです。

八王子千人同心屋敷跡記念碑の横に嘉永7(1854)に描かれた千人同心の在村の様子が分かる在所図表が紹介されています。その左下に赤字で各同心が所属する千人頭(同心100名を束ねる役目)9家の家紋が凡例として記載されています。その中の上段右から3つ目に、「折敷に三文字」という伊予河野氏をはじめとした越智氏族の家紋が見て取れます。河野但馬守通重から始まる千人頭(徳川幕府直参旗本)河野家の家紋ですね。

千人町のはずれの甲州街道に面した通りに往時を偲ばせる随分と趣のある黒塀の立派な屋敷があります。たぶん、八王子千人同心の屋敷だったお宅なのでしょう。


ちなみに、もし私が河野通重を主人公にした歴史小説を書くとするならば、ラストのシーンはこの信松尼と河野通重がお茶を飲みながら昔話をするシーン以外に考えられません。そして、信松尼が夕焼けに染まる西の空を見やりながら河野通重にポツリと告げるこの一言を物語の最後にします。

「勝頼様と信勝様は今頃どうしておいでなのでしょうね……」

 

【あとがき】

いかがでしたでしょうか? 以上、高知県吾川郡仁淀川町に残る武田勝頼生存説に刺激を受けて、私なりの推論を述べさせていただきました。この私の説はあくまでも状況証拠だけからの推論であり、確たる証拠があってのものではありません。少なくとも、天目山の戦いで自害したのが武田勝頼の影武者だとするならば、その後、笹子峠を越えて土佐国まで落ち延びることができた一つの可能性について、その推定される逃走ルートとともに示したものに過ぎません。なので、単なる“読み物”として楽しんでいただけたら、それだけで十分かと思っております。まぁ、もし甲斐武田氏の最後が私の推論の通りだったとしても、それでもって日本の歴史が大きく変わるというものでもありませんし。しかし、その可能性について調べていくうちに河野通重や武田水軍(小浜景隆)といったそれまで知らなかった伊予国と甲斐武田氏の間の意外な繋がりも発見できて、メチャメチャ面白かったです。しかも、岩殿山城や笹子峠など、2年前に自分の足で歩いた甲州街道の風景と、その時に私が感じた違和感も含めた心情などが重なってくるので、それもリアルで、思いっきり推理に楽しめました。

武田勝頼以外で歴史上の人物の生存説として有名なものには、源義経は岩手県平泉町での「衣川館での戦い」で敗れた後に外国に渡り生きていたとされる伝説や、「本能寺の変」後の「山崎の戦い」で敗れた明智光秀も実は出家して生きていた…と言うような伝説もあります。どれも都市伝説のようなものですが、“火のないところに煙も立たない”という言葉もあるように、その気になって調べてみると何か面白い発見があるかもしれませんね。そこが歴史探求の奥深さと言うものです。

歴史には諸説あります。しかし、「歴史の真実」はタイムマシンが開発され、人類がその時代に行ってみて、その目で見てみないと分かりません。1905年にあの天才アインシュタインが『相対性理論』を発表して、「時間」という概念を再定義したことでタイムトラベルが可能であることを科学的に実証したのですが、残念ながら今日現在、タイムマシンは、いまだ存在してはおりません。タイムマシンが存在していない以上、私達現代人にできることは、残されている事実を論路的に分析し、空間軸上・時間軸上で繋ぎ合わせ、様々な分野からの視点で様々な仮説を立て、さらにその仮説同士を論理的に戦わせることで、歴史の真実に一歩一歩近づいていくしかありません。それが「理系の歴史学」というものだと、私は思っています。いずれ遠い将来、アインシュタインを超えるような新たな天才が世の中に登場してきて、タイムマシンが開発された時に「歴史の真実」が明らかになる筈なので、それまではこの論理の“遊び”で楽しまないといけませんよね。当面、正解が見えないだけに、こんなに面白い“遊び”は他にありません。しかも、正解、すなわち「歴史の真実」は1つだけですから!! (^-^) 

この「伊予武田氏をご存知でしょうか?」から続く一連の文章で、愛媛県の伊予武田氏と山梨県の甲斐武田氏の末裔の皆さんの交流が活発になり、今も全国各地に根強くいらっしゃる戦国時代最強と言われた「風林火山」甲斐武田軍団ファンをはじめ歴史マニアの皆さんが愛媛県を訪れてくれるようになれば、いいですね。きっと河野但馬守通重が一番喜ぶと思います。

 

……「武田勝頼は落ち延びていた!?」完結

 

2021年9月20日月曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その7)

 公開予定日2022/05/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第92回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その7)

 

 【芹澤玄蕃】

戦国時代、駿河国(静岡県)の東部、御厨(みくりや)地方と呼ばれる現在の御殿場市の周辺は、駿河国・甲斐国・相模国の境界地帯として幾多の争奪戦の舞台になったところです。ここは昔から日本の大動脈であった旧東海道(矢倉沢往還)や甲斐国の国中地方と相模国西部の小田原を結ぶ甲斐路(御坂路・鎌倉街道)が通り、甲斐路を少し北へ進めば都留や大月といった甲斐国郡内地方への街道(富士道)も分岐するという交通の一大要衝でもありました。元亀2(1571)、武田信玄が北条氏が守る深沢城(静岡県御殿場市)を攻撃し攻め落とすと、御厨地方は武田氏の支配するところとなったのですが、天正10(1582)、織田信長と徳川家康連合軍による甲州征伐が始まると、それに呼応するように相模国の北条氏政が小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河国東部に攻め入り、228日には駿河国に残された武田側の拠点の1つである戸倉城・三枚橋城(ともに現在の静岡県沼津市)を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を次々と陥落させていきました。その中で、深沢城も武田勢が戦わずして放棄したために、後北条氏によって占領されていました。その駿河国東部地方をどうやって突破するかが武田勝頼一行の脱出劇の最後の鍵を握っていたのではないか…と思われます。

そういう状況の中で、武田勝頼一行の脱出の手助けをしたのではないか…と思われる1人の人物の名が浮上してきます。それが芹澤玄蕃です。

芹澤玄蕃は駿河国の守護大名・今川氏の重臣で駿河国駿東郡の国人衆・葛山氏元(かつらやまうじもと)から甲斐国や相模国、駿河国等に通ずる交通の一大要衝である茱萸沢(ぐみざわ:静岡県御殿場市)宿の代官の地位を認められた土豪です。しかし同時期には葛山氏元と敵対する甲斐国郡内地方の国人衆・小山田信茂からも葛山氏元から受けてきたのとほぼ同様の特権を認められると、いち早く葛山氏元から離れ、小山田信茂と誼を強めていきました。元亀2(1571)、武田信玄が北条氏が守る深沢城(静岡県御殿場市)を攻撃し攻め落とすと、御殿場を中心とする御厨地方は甲斐武田氏の支配するところとなり、天正4(1576)に芹澤玄蕃は小山田信茂の推挙により武田勝頼から棠沢(茱萸沢)郷宿の伝馬掟の命令を受けています。さらに、天正7(1579)には「対馬守」の受領名を許され、より高い地位と栄誉を与えられています。このように芹澤玄蕃は小山田信茂、さらには武田勝頼と深い誼があったということで、もし武田勝頼がこの脱出ルートを辿って駿河湾に面するどこかの港に出て、土佐国まで海路を使って落ち延びたとするならば、芹沢玄蕃がこの脱出ルートのうちの駿河国内の区間の案内役を務めたのではないか…と私は推察しています。

ちなみに、御殿場という地名の由来は、徳川家康の最晩年である元和2(1616)4月に、沼津代官の長野九左衛門清定が御厨地方の有力者であった芹澤将監(しょうげん)に対し徳川家康の隠居所となる御殿の造営及びその周辺に新町を建設することを命じたことに由来します。徳川家康はその直後の元和2417日に亡くなっているので、徳川家康が実際にその隠居所を使用することはありませんでしたが、御殿を中心に御殿新町が生まれました。「御殿場」という地名はこの芹澤将監によって構築された「御殿」に由来していいます。御殿場市のホームページによると、沼津代官の長野九左衛門清定が芹澤将監に対して徳川家康の死後も御殿新町御屋敷の造営を継続するよう命じた書状の写しが今も残されているのだそうです。将監も玄蕃も武家の官位を示す名称で、御厨地方の有力者(土豪)であったということから、芹沢玄蕃と芹澤将監はおそらく同一人物ではないかと思われます。

また武田勝頼が土佐国に落ち延びて名乗った名前が大崎玄蕃。「武田勝頼土佐の会」の方によると、武田勝頼の身代わりとなって天目山の戦いで自害した影武者の名前が玄蕃だったので、大崎玄蕃と名乗ったと思われるとのことですが、もしかするとこの芹澤玄蕃と関係があるのかもしれません。

余談ですが、天正10(1582)、織田信長と徳川家康連合軍による甲州征伐が始まると、それに呼応するように相模国の北条氏政が小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒を派遣した後、2月下旬に駿河国東部に攻め入ったとされています。ですが、私に言わせると、この時の後北条氏の動きはどう考えても武田勝頼の脱出をアシストしているとしか思えません。小仏峠は武蔵国と相模国を遮る甲州街道の峠で、御坂峠は甲斐国の国中地方とも郡内地方を遮る鎌倉街道の峠です。本当なら駿河国東部に攻め入ったのなら、小山田信茂の領地である郡内地方に一気に攻め込んでもいいように思えるのですが、不思議なことにそうしていないのですよね。特に鎌倉街道の御坂峠など、甲府から鎌倉街道を使って郡内地方に入ってくるかもしれない織田信長・徳川家康連合軍を牽制するために進出したとしか思えません。

後述の武田信玄の五女・松姫の脱出でも、落ち延びた先は武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市) の金照庵(八王子市上恩方町)。これも謎です。当時、武蔵国多摩郡(現在の東京都八王子市)一帯を治めていたのは武蔵国守護代で滝山城(東京都八王子市高月町)城主であった北条氏照でした。この北条氏照は後北条氏当主である小田原城主・北条氏政の実弟(北条氏康の三男)。一説によると、北条氏政には武田信玄の長女(すなわち松姫の異母姉)である黄梅院(実名不明)が正室として嫁いでいて、その姉を頼って後北条氏領である武蔵国八王子まで落ち延びたと言われており、この説が有力視されています。しかし、永禄11(1568)、武田信玄の駿河侵攻により甲相駿三国同盟が破綻し、武田信玄の駿河侵攻に激怒した相模国の北条氏康は嫡男・氏政の正室の黄梅院を甲斐国に送り返したと伝えられています。別の説では、離縁はさせられたものの、同盟破綻後も小田原城に留め置かれてそのまま死去したとする説もあります。いずれにせよ、松姫の姉である黄梅院は北条氏政と離縁させられていたわけで、「御館の乱」で武田勝頼の同盟破棄により北条氏政、氏照兄弟の弟である上杉景虎が自害に追い込まれた直後でもあり、松姫が姉である黄梅院を頼って後北条氏領である武蔵国八王子まで落ち延びた…というのはいささか無理がある分析のように思えます。さらに北条氏照は松姫以外にも武蔵国に落ち延びてきた甲斐武田氏の旧家臣を数多く庇護するなど、この時の後北条氏って甲斐武田氏に対しどこか寛大なところが見受けられるのですよね。おそらく、(その6)の小山田信茂の項で書かせていただいたように、武田勝頼の継室である北条夫人(桂林院:北条氏康の6女、北条氏政の妹)を後北条氏に無事に返すことを条件に、武田勝頼一行の駿河国内での通行を見逃してくれるように、小山田信茂が北条氏政に働きかけを行なっていたのかもしれません。そして、そこでも芹澤玄蕃がいろいろと活躍したのではないかと考えられます。もちろん天目山の戦いで自害した北条夫人は身代わりになった影武者。そして、土佐国に落ち延びた武田勝頼一行の中に北条夫人と思われる女性は含まれておりませんから。

 

【土佐国への航海:小浜景隆】

いずれにせよ、武田勝頼一行は笹子峠を越え、岩殿山城には立ち寄らず、岩殿山城の手前の大月から古富士道に入り現在の富士急行線に沿って桂川を遡って富士吉田に出て、富士吉田で左折して甲斐路に。山中湖の横を通って茱萸沢(御殿場)、そして黄瀬川に沿って旧東海道を下って駿河湾に面する沼津あたりに出たと私は推定しています。このルートなら当時の状況でも比較的安全に駿河湾まで辿り着けたのではないか…と推察します。そして後は、武田水軍のおそらく小浜景隆率いる安宅船(あたけぶね)に乗って、海路土佐国へと脱出したのではないでしょうか。もし小浜景隆率いる安宅船に乗ったのだとしたら、出港した港は小浜景隆が拠点としていた江尻港か清水港(ともに静岡市清水区)だったはずです。 


江尻港(清水港)を出港したところです。富士山が美しい姿を見せてくれています。あの富士山の向こう側に甲斐国がある…武田勝頼はそういう風に思いながら、甲板から富士山を眺めていたのではないでしょうか。

地図はクリックすると拡大されます

途中、他国の水軍が待ち構えていて、海戦になったのではないかと思われる方もいらっしゃるかと思いますが、土佐国までの航路の途上で気にしないといけない強力な水軍は、唯一、九鬼嘉隆率いる伊勢国を拠点とした九鬼水軍のみ。小浜景隆にとっては伊勢・志摩の地を奪った宿敵とも言える人物とその水軍なのですが、その九鬼水軍の主力は、この時、伊勢国にいない状態でした。九鬼水軍は天正6(1578)に行われた第二次木津川口の戦いに秘密兵器とも言える6隻の大型の鉄甲船のほか艦隊のほぼすべてを率いて織田水軍の主力として参戦。石山本願寺の抵抗をモノともせず大坂・堺の港に入り、その後の海戦でも燃えない鉄甲船の威力により石山本願寺に物資輸送をしようとした毛利水軍・村上水軍の軍船600隻を破ることに成功しました。この海戦の勝利により石山本願寺の孤立と織田信長軍の優位が決定的になったといわれています。以後も九鬼水軍は本拠地の伊勢国に戻らず、堺にそのまま駐留し、瀬戸内海の制海権確保にあたっていました。天正10(1582)の天目山の戦いが起きた時は、ちょうど織田信長に命じられた羽柴秀吉が中国攻めを行なっている真っ最中で、九鬼水軍も圧倒的水軍力で瀬戸内海の覇権を握っていた毛利水軍・村上水軍と真っ正面から対峙していた時期にあたります。そのため、土佐国への航路上には行く先を遮る脅威となる他国の水軍がほぼいなかった状況だったのではないか…と推測されます。しかも、当時伊勢国を領地として治めていたのは滝川一益。皮肉なことに滝川一益は織田信忠率いる甲州征伐軍の主力部隊を率いていて、まさに天目山の戦いで武田勝頼(の影武者)を追い詰めて自害に追い込んだ人物です。このように伊勢国の軍勢はほぼ全軍が駆り出されて甲斐国や瀬戸内海に遠征していたと思われますので、完全な手薄の状態だったのではないでしょうか。まぁ、不審に思われたとしても、織田軍の援軍のために瀬戸内海に向かう北条水軍の軍船だと偽れば、すぐには確認のとりようがなかったので、なんとか欺けたのではないか…と思われます。また、その九鬼水軍と毛利水軍・村上水軍等の軍船がウジャウジャいて、極度の緊張状態にあった瀬戸内海に入ることができなかったため、直接伊予国ではなく、土佐国を目指したという見方もできようかと思います。おそらくそのような西国の情勢、及び迫り来る敵方の主力が伊勢国領主の滝川一益だということを河野通重は知り、それらを十分に考慮に入れた上で海路により土佐国へ落ち延びる策を武田勝頼に献策したのではないか…と私は思っています。その策の成功の可能性を武田勝頼はじめその時点で残っていた武田家家臣団の大部分が納得できたので、一度は決まっていた岩櫃城での籠城策が土壇場になってひっくり返ったのではないか…と、私は推察しています。

当時の安宅船や関船の速力はせいぜい3ノット(時速約5)程度で、順風帆走や沿岸航法しかできず、各地で風待ちを繰り返しながらの航海だったと思われます。しかも駿河国の港から土佐国のどこかの港までは黒潮に逆らって西に向かう航海なので、23週間はかかったのではないかと思われます。そして到着した土佐国の港とは、私の推測ではおそらく土佐国(高知県)最東部にある甲浦港(かんのうら:高知県安芸郡東洋町)ではなかったかと思われます。この甲浦港だと紀伊半島最南端の潮岬を過ぎて、紀伊水道を横断すればすぐに着くことができ、黒潮に逆らって室戸岬を大きく回り込んで土佐湾に入るという危険な航海をする必要がありませんから。しかも、甲浦港からは現在の国道493号線と国道55号線のルートを使えば、土佐国で頼ろうとした香宗我部氏の拠点があった香美郡に歩いても2日で行くことができますし。いずれにしても、この土佐国へ逃避行する武田勝頼一行を乗せた航海は、遠江、三河、尾張、伊勢といった織田信長勢力圏の各国の沖合を堂々と通っていくということで、東海地方随一と謳われた武田水軍にとっては最後を飾るに相応しい痛快な“意地の大航海”になったのではないでしょうか。また、おそらく生まれて初めて船に乗り大海原を航海したことで、武田勝頼の中でも考え方、そして今後の生き方に対して大きな変化が生じたことは想像に難くありません。まぁ〜、船酔いが激しくて、それどころじゃあなかったのではないか…とも思いますが()

 

静岡市清水区にあるフェルケール博物館に展示されている武田水軍の安宅船と関船です。武田勝頼はこの船に乗って土佐国へ落ち延びたのでしょうか。


ちなみに、小浜景隆は九鬼嘉隆率いる九鬼水軍に敗れて伊勢・志摩の地を追われ、元亀2(1571)に水軍編成を急ぐ甲斐武田氏の招致に応じて、駿河湾に面した江尻港・清水港(ともに静岡市清水区:三保の松原の対岸)に拠点を移し、武田水軍の一翼を担うようになったのですが、その際、甲斐武田氏からはかなり破格の条件で招かれたようです。実際、元亀4(1573)、武田勝頼はかねてからの約束として小浜景隆に3千貫(現在の貨幣価値に換算すると約36千万円)もの知行(港のあった江尻・清水を含む大井川河口部一帯)を与えたという記録も残っています。『甲陽軍鑑』によれば、小浜景隆は武田水軍の中では唯一「安宅船」と呼ばれる大型の軍船を含む総勢13艘もの船団を有して、武田水軍の押しも押されもしない主力であったのですが、その一方で、甲斐武田氏から相対的に独立した立場にある「海賊商人」としての側面も持ち合わせていたようです。天正8(1580)12月、小浜景隆が伊勢国から清水港に着岸した船2艘の諸役免除を甲斐武田氏から認められたという書状が残されており、小浜景隆がこの段階でも伊勢国との関係を残し、独自の廻船事業を営んでいたことが窺えます。また、陸上においても商業活動を行っていた痕跡も残っていて、小浜景隆は伊勢国〜駿河国間の海上輸送とともに、陸上においても商品の集積、販売を行っていたと思われます。ここで間違いなく茱萸沢(御殿場)の代官職や伝馬掟を務めていた芹澤玄蕃との接点があったと推定されます。このように、小浜景隆は海陸の流通全般に関与する、商人としての側面も有していたということができようかと思います。ここが海賊らしいところで、国人衆を含む陸の武将(領主)達と同じように考えてはいけないってことです。なので、当然のこととして、土佐国までの航海の成功報酬はたんまりと武田勝頼から貰っていたと思われます。

小浜景隆をはじめとした武田水軍は天正10(1582)の甲斐武田氏滅亡後、徳川家康配下で三河三奉行の1人であった本多重次の仲介で、常設の水軍が欲しくてたまらなかった徳川家康に従って徳川水軍となり、やがてそのまま江戸幕府の常設水軍へと改組されました。伊予水軍の出身ではないかとの説もある小浜景隆も徳川家康に水軍大将として仕え、駿河国内で1,500(現在の貨幣価値に換算すると約4億円)を与えられました。その後は向井正綱・間宮高則らとともに本多重次の指揮下にあって水陸両戦に活躍し、特に天正12(1584)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍の間で行われた小牧・長久手の戦いでは、海上封鎖により羽柴秀吉を大いに苦しめました。天正18(1590)の徳川家康の関東移封後は相模国・上総国で3,000石を与えられるとともに、江戸湾(東京湾)への入口である相模国三浦郡三崎村(現在の神奈川県三浦市三崎町三崎)に駐屯し、三崎四人衆の筆頭として、向井氏・間宮氏・千賀氏とともに活躍しました。慶長2(1597)に死去。享年58歳でした。

繰り返しになりますが、平安時代中期の藤原純友の例を出すまでもなく、領地というものに特にこだわらない“海の民”である“海賊”を、陸の武将(領主)達と同じように捉えてはいけません。優れた造船技術や航海術、操船技術を持つ専門家集団である海賊は、現代風の言い方をさせていただくとフリーランスであったと言えようかと思います。それも優秀な者なら引くて数多(あまた)。しかも、多くの陸の武将がそうであったように戦場だけが戦いの場ではなく、「板子一枚下は地獄」という言葉があるように、彼等は日々の仕事そのものが戦場です。強大な織田信長軍や羽柴秀吉軍をも圧倒するような破壊力を有する自然が相手なので、日々命がけの仕事なのです。なので、戦いに対する考え方が陸の武将達とは根本的に違っていたと思います。これは後世の歴史学者の先生方に対しても言えることで、日本の歴史を捉えるにしても、四方を海に囲まれた私達日本人は、もっと“海”、さらには“海賊(水軍)”という集団の存在という側面から捉えてみる必要があるのではないかとと私は思っています。そこが西洋史や中国史、東洋史の研究と日本史の研究との大きな違いなのではないでしょうか。そして、そうすることで、歴史の見え方も少し変わってくるように、私は思っています。


余談ですが、2021410日、国道138号線・須走道路の須走口南IC~水土野IC間と、それに続く御殿場バイパスの水土野IC~ぐみ沢IC間、さらには新東名高速道路の新御殿場IC〜御殿場JCT間が開通し、中央自動車道の大月JCTから中央自動車道富士吉田線〜東富士五湖道路~須走道路~御殿場バイパス~新東名高速道路までが自動車専用道路で繋がりました。このルートは私が推定した武田勝頼一行の逃避ルートとほぼ一致します。今なら新府城に近い中央自動車道の韮崎ICから駿河湾に面した東名高速道路の清水ICまで、富士山と富士五湖の絶景を間近に見ながらの2時間ほどの快適なドライブで着く距離なのですが、当時の武田勝頼一行は常に敵の追跡に気を配りながら、笹子峠(標高1,096メートル)、鳥居地峠(標高1,002メートル)、そして籠坂峠(標高1,104メートル)という3つの峠を越えていく大変な旅だったろうと推察されます。

 

 【その後の武田勝頼一行】

土佐国のおそらく甲浦港に上陸した武田勝頼一行は最初に頼ろうとした甲斐武田氏とも深い繋がりのある香美郡の香宗我部氏の館を訪ね、歓迎を受け、そこにしばらく滞在したものと思われます。ただ、(その1)にも書きましたように、当時の香宗我部氏はかなり勢力が衰退しており、長宗我部国親の三男・親泰(すなわち長宗我部元親の弟)を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入る道を選択していたくらいなので、その様子をしばらく見ていた武田勝頼は香宗我部氏を頼っての甲斐武田氏の再興は不可能と判断して、最後の望みである伊予武田氏を頼って伊予国越智郡の龍門山城を目指したのだと私は推察しています。そして、その途中で龍門山城の落城と伊予武田氏宗家の滅亡の知らせを聞き、吾川郡大崎村川井(現在の高知県吾川郡仁淀川町大崎)にとどまった…というのが私の勝手な推測です。

その高知県吾川郡仁淀川町に残る伝承「武田勝頼生存説」では、吾川郡大崎村川井に落ち着いた武田勝頼は、その後、名前を大崎玄蕃と変名し、この地で27年ほど暮し、慶長14(1609)825日に64歳で逝去。鳴玉神社(現大崎八幡宮)に葬られたというのは(その1)で書かせていただいた通りです。仁淀川町役場からほど近いところに武田勝頼(大崎玄蕃)とその夫人が埋葬されたとされる墓があります。その武田勝頼ご夫婦の墓の前には鳴玉神社が建立されています。

 

高知県吾川郡仁淀川町大崎にある武田勝頼(大崎玄蕃)の墓の前に建立された鳴玉神社です。

武田勝頼(大崎玄蕃)とその妻の墓です。


その武田勝頼(大崎玄播)の墓の近くに大崎八幡宮があります。この大崎八幡宮は天正14(1586)に武田勝頼(大崎玄蕃)により建立されたとされ、地元では「武田八幡宮」という別名で呼ばれています。この大崎八幡宮のある地形と建立時期が非常に興味深いですね。大崎八幡宮は国道33号線と国道439号線、国道494号線の合流地点のすぐ近く、すなわち交通の要衝に位置し、清流・仁淀川の流れを見下ろせる小高い高台の上にあります。北側の背後には仁淀川の急流による侵食で形成された急峻な山が迫り、東側から南側にかけては蛇行する仁淀川の峡谷、西側には仁淀川支流の土居川と周囲を自然に断たれた天然の要害って感じのところです。神社の周囲の風景を眺める限り、ここはどう考えてみてもただの神社ではなくて()”ですね。ここに城がなかったことのほうがおかしく思えるほどの好立地なところです(これは実際に現地に来てみないと分からないことですが…) 

 

地図はクリックすると拡大されます

仁淀川町役場です。この仁淀川町役場のすぐ裏に武田勝頼(大崎玄蕃)の墓があり、手前の国道33号線を挟んで斜めはす向かいに大崎八幡宮があります。かつて国鉄(日本国有鉄道:現在のJR四国)が松山市と高知市を四国山地を越えて国道33号線経由でバスで短絡する松山高知急行線を運行していた頃、仁淀川町役場前には「土佐大崎駅」という自動車駅が設けられ、ここから支線も出ていました。

仁淀川町は武田勝頼が落ち延びたという伝承で町おこしをしているようです。

加えて、新府城がそうだったように武田勝頼は築城好き。甲斐国のように断崖絶壁に囲まれた険しい山がなく、なだらかな山がほとんどの土佐国なので、岩櫃城や岩殿山城のような難攻不落の城ってわけにはいきませんが、ここなら工夫次第でそこそこ堅固な城は築けそうです。武田勝頼(大崎玄蕃)はこの地に「大崎城(仮称)」を築き、地元で強い兵を育成するとともに、散り散りになったかつての家臣団を呼び寄せ、長宗我部元親の下で武門の名門・甲斐武田氏の再興を本気で果たそうとしていたのかもしれません。その際に、伊予武田氏“宗家”は残念ながら滅亡していましたが、金子元宅や黒川通貫、正岡経政といった伊予国(愛媛県)東部の国人衆達とも深い交流があったことは、その位置関係から十分に考えられます。そういう中に伊予武田氏の第6代当主であった文台城の武田信重やその子・武田信戻、信明なども含まれていたかもしれません。


武田勝頼(大崎玄蕃)が創建したとされる大崎八幡宮です。

大崎八幡宮は小高い丘の上にあり、この長い石段を登っていった先にあります。

大崎八幡宮は仁淀川の急流で侵食された小高い河岸段丘の上にあり、頂上は平らな空き地になっています。

大崎八幡宮の周囲はいたるところに石垣が築かれています。こりゃあどう見ても神社ではなく城郭()にしようと建設しかけたところですね。

石段の途中から見た仁淀川町中心部(大崎郷)の風景です。大きな建物はないものの、このあたりの中心部らしく民家が密集して建っています。山々の感じなど、甲斐国(山梨県)の風景とどことなく似ています。


それが天正13(1585)に行われた羽柴秀吉による四国征伐で長宗我部元親だけでなく、同志とも言える存在であったであろう金子元宅をはじめとした伊予国東部の国人衆達もすべて羽柴秀吉の前に屈し、長宗我部元親は土佐一国の領有を安堵された代わりに豊臣政権に繰り込まれることになります。それにより、大崎城(仮称)を拠点とした武田勝頼(大崎玄播)による甲斐武田氏の再興計画は完全に頓挫。武田勝頼(大崎玄播)は築城途中だった大崎城(仮称)を大崎八幡宮という神社として残すことで、いつのことになるか分からないものの、来るべき時期がきっとやってくることを信じて待つことにしたのではないかと私は推察しています。それが大崎八幡宮が建立されたとされる天正14(1586)のことで、残念ながらそれは争い(あらがい)ようもない時代の流れというものであったと言えます。そして、武田勝頼(大崎玄播)は父・武田信玄に命じられた通り嫡男・信勝に家督を譲り、あとは帰農してこのあたりの土地の開拓に励み、慶長14(1609)825日に64歳で逝去したのではないかと思われます。もしかすると、その後、武田勝頼(大崎玄播)の子孫達は、伊予国越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』となった伊予武田氏第8代・武田真三郎信吉の子孫達等ともなんらかの交流があったのではないでしょうか。


武田勝頼(大崎玄蕃)は由緒ある武田という姓を名乗れなかっただけでなく、家紋も武田家本来の武田菱と呼ばれる割菱紋から変形とも言える花菱紋に変更しています。こういうところ、招かれて来た者(伊予武田氏)と落ち延びて来た者の違いでしょうね。

ちなみに、大崎八幡宮(鳴玉神社)の由緒書きによると、大崎八幡宮(鳴玉神社)祀られている御祭神は「玄蕃頭比古神」と「美津岐大神」の2体の夫婦神となっています。「玄蕃頭比古神」はもちろん武田勝頼(大崎玄蕃)のことなのですが、謎なのがもう1体の「美津岐大神」です。この「玄蕃頭比古神」、すなわち武田勝頼の夫人(継室)ですが、『甲陽軍鑑』の記述も含め通説では北条氏康の娘である北条夫人ということになっているのですが、大崎八幡宮(鳴玉神社)の由緒書きによると三枝夫人(美津岐夫人)ということになっています。『甲陽軍鑑』によれば、武田信勝の生母である龍勝院は奥美濃の国人衆の苗木遠山氏の出自で、織田信長の養女として永禄8(1565)に武田勝頼のもとへ嫁ぎ、永禄10(1567)の武田信勝を出産した際に死去したとされています。武田勝頼には信勝以外にも何人も子供がいたようですので、この正室・龍勝院以外にも多くの側室がいたと考えられます(北条夫人が産んだとされる子供は、記録上はいないことになっています)。三枝夫人(美津岐夫人)はおそらくその側室の1人だったのではないでしょうか。調べてみると、甲斐武田氏の家臣で武田二十四将の1人に数えられる足軽大将に三枝昌貞という人物がいますので、三枝夫人(美津岐夫人)はおそらくその三枝昌貞か親族の娘なのではないかと思われます。すなわち、私の推察のとおりなら、北条夫人は甲斐国からの逃避行の途中で、離縁のうえ、兄である北条氏政のもとに無事に送り返されたのではないか…ということです。

 

地図はクリックすると拡大されます

武田勝頼の嫡男・信勝は仁淀川町に隣接する現在の高岡郡津野町に移り、「大崎五郎」と名乗り、町内の葉山地区を流れる川を“甲斐の川”と名付け(現在の貝ノ川”)、玄蕃踊りを広め大崎神社を勧請したといわれています。この大崎五郎という名前、もしかしたら父・武田勝頼のかつての名前「諏訪四郎勝頼」に関係しているのかもしれません。天正13(1585)に長宗我部元親が秀吉の四国征伐に敗れて土佐国一国のみの領有を許された際、長宗我部元親の三男で津野の姫野々城城主であった津野親忠が人質として豊臣秀吉のもとに差し出されたのですが、その時に大崎五郎(武田信勝)はこの津野の地での恩義からか津野親忠に御家人として付き従ったとされています。慶長5(1600)、その津野親忠が長宗我部元親亡き後の家督を継いだ弟の長宗我部盛親に殺害されたのですが、それを機に大崎五郎(武田信勝)も帰農したようで、その後の消息ははっきりしていません。ですが、今度はその長宗我部盛親が豊臣側からの誘いに乗って大坂城に入った大坂夏の陣の際には、大崎玄播・五郎の一族が大坂城に馳せ参じたとの話も地元には伝わっているのだそうです。この中には武田勝頼に従って土佐国に落ち延びたと推定される武闘派の土屋昌恒などが混じっていた可能性もあります。もしそうだとすると、天目山の戦いで「片手千人斬り」の異名を残す土屋昌恒と真田信繁(幸村)が大坂城に籠っていたわけで、そりゃあ強かったはずです。でもまぁ~、このあたりはお伽話のようで、私にはよく分かりません。地元高知県の皆さんに是非とも調査をお願いしたいと思います。

ちなみに、「武田勝頼土佐の会」のホームページには会員の方々が調べられた武田勝頼から始まる土佐武田氏の系図が掲載されています。

土佐武田氏一族之系図

 この系図には武田勝頼の兄弟と思われる葛山三郎信仲の名前が見えますが、武田信玄の三男(武田勝頼の兄)で三郎と呼ばれたのは西保三郎信之(武田信之)。この武田信之は天文22(1553)11歳で夭折しています。また、武田信玄の六男(武田勝頼の弟)は葛山六郎信貞。この葛山信貞は天目山の戦いの後、甲斐善光寺において小山田信茂とともに自害したことになっています。この系図はおそらく歴史書を基にして作成された年代記や雑録といった編纂物ということで、言ってみれば「三次史料」とも言うべきジャンルに分類されるものです。歴史学では基本的に一次史料を使用しますが、一次史料が現存しない場合には二次史料を使用します。三次史料は歴史学では参考程度に用いられ、事象を検証する基本史料として使用されることはまずありません。今回の一連のコラムでは、甲斐武田氏の滅亡に関して今や通説のようになっている『甲陽軍鑑』の記述に怪しいところがあるという指摘を行なっているわけですが、この『甲陽軍鑑』も二次史料であって一次史料ではありません。なので、この系図に関してはこれ以上のコメントは避けたいと思います。

実は武田勝頼が新府城を放棄し、郡内地方の岩殿山城を目指して脱出を図った際、その武田勝頼の一行とは別行動を取り、うまく脱出に成功したある1人の女性を中心とした集団がいました。そして、その女性の存在が、武田勝頼の土佐国落ち延び説に関する私の謎解きの、そもそものきっかけとなりました。次回「武田勝頼は落ち延びていた!?」の最終回となる(その8)では、そのあたりのことを書かせていただきます。

 

【余談】

私が“越智”という苗字である以上、仁淀川町まで来るとやはりここに立ち寄らないわけにはいきません。高知県吾川郡仁淀川町の隣町、高岡郡“越知町”役場前にある「おち駅」です。ここはかつての国鉄バス松山高知急行線の自動車駅である“越知駅”があったところで、現在は越知町の観光物産館になっています。この高知県の越知町には伊予国(愛媛県)から古代越智氏族がやって来て開拓したところだという伝承が残っています。

 

高知県高岡郡越知町にある観光物産館「おち駅」です。ここはかつての国鉄バス松山高知急行線の“越知駅”があったところで、現在も国鉄バスの路線を引き継いだ黒岩観光バスと仁淀川町コミュニティバスの停留所になっています。自動車駅と呼ばれていましたが、構造が鉄道の駅そのものです。

観光物産館「おち駅」の玄関前で出迎えてくれるのは、絶滅種に指定されているニホンカワウソ君の置物です。二ホンカワウソは、かつては日本全国に広く棲息していたようなのですが、現在の分布域は、四国の愛媛県および高知県のみ。当然国の特別天然記念物に指定されているほか、愛媛県の県獣にも指定されています。生きている姿を見てみたいものです。


……(その8)に続きます。(その8)は来月62日に第93回として掲載します。

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...