2021年9月2日木曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その2)

 公開予定日2021/12/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第87回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その2)


とは言え、まずは、天目山で自害したのは実は影武者で、武田勝頼・信勝父子は伊予武田氏を頼って土佐国の大崎村(現在の高知県吾川郡仁淀川町大崎)まで落ち延びたとする新たな説が入り込む余地が天目山の戦いにあるのかどうかを調べないといけません。入り込む余地がなければ、それ以上は進めませんから。

 

【天目山の戦い…甲陽軍鑑による記述】

『甲陽軍鑑』によれば、天目山の戦いの顛末は以下の通りです。

天正元年(1573)、遠江国三方ヶ原の戦いの最中に病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田家の当主となった武田信玄の四男である武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いにおいて大量の鉄砲と馬防柵(ばぼうさく)を用いた織田信長・徳川家康連合軍の画期的な戦法の前に大敗を喫し、それを機に甲斐武田氏は急激に弱体化していきました。その後失地回復に努めたのですが、天正9(1581)、徳川家康に高天神城(静岡県掛川市)を奪還された際、武田勝頼が味方に援軍を出さなかったことがきっかけとなり、堰を切ったように甲斐武田家では家臣の造反が続出します。

天正10(1582)、織田信長と徳川家康は、長篠の戦いの敗戦以降勢力が急激に衰えた武田勝頼の領国である甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)、駿河国(静岡県)、上野国(群馬県)へ侵攻します。これがいわゆる甲州征伐です。21日、新府城築城のため更に賦役が増大していたことに不満を募らせた武田信玄の娘婿(武田勝頼の義弟)で木曽福島城(長野県木曽郡木曽町)の城主である木曾義昌がついに武田勝頼を裏切り、織田氏に寝返りました。これを知った武田勝頼は激怒し、従弟の武田信豊が率いる木曾征伐の軍勢5千余を先発隊として木曽谷へ差し向け、さらに木曾義昌の生母と側室と子供を磔にして処刑。そして武田勝頼自身も軍勢約1万を率いて木曽谷に向け出陣しました。織田信長は23日にこの武田勝頼による木曾一族の殺害と木曽への出兵を知ると、これを待っていたかのように即座に武田勝頼討伐を決定し、動員令を発令しました。このあまりのタイミングの良さ。この木曾義昌の寝返りは間違いなく織田信長方による調略だったのでしょうね。同日(23)、まず森長可、団忠正、河尻秀隆に率いられた織田軍先鋒隊が岐阜城(岐阜県岐阜市)を出陣。26日、先鋒隊のうち森長可、団忠正率いる部隊は木曽街道から、河尻秀隆率いる部隊は伊那街道から信濃国(長野県)に兵を進めました。破竹の勢いで侵攻してくる織田軍の前に木曽街道や伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、次々と武田氏から寝返って投降。織田軍はほとんど戦うことなく南信濃に進軍しました。212日、織田軍の本隊を率いる織田信長の嫡男・織田信忠と滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城(三重県桑名市)を出陣し、翌々日の214日には美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)の国境にある岩村城(岐阜県恵那市岩村町)にまで兵を進めました。同日、浅間山が噴火。この浅間山の噴火は武田軍内に大きな動揺を生み、これを機に武田勢の中で寝返りや離反・逃亡が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。それでも武田勝頼は木曽口からの織田勢の侵攻を防ぐべく木曽谷に向け兵を進めたのですが、216日、鳥居峠で織田軍の支援を受けた木曾義昌勢に手痛い敗北を喫します。武田勝頼はそれでも諏訪氏の居城・上原城(長野県茅野市茅野)に籠り諏訪で反抗を続けるのですが、228日、それも放棄し、約1,000人にまで減った兵とともに居城である新府城(山梨県韮崎市中田町)に撤退しました。

地図はクリックすると拡大されます

いっぽう、相模国の戦国大名・北条氏政も織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に呼応するかのように小仏峠や御坂峠など相甲国境に先鋒軍を派遣した後、2月下旬に武田領となっていた駿河国(静岡県)の東部に攻め入り、228日には駿河国に残された武田側の拠点の1つである戸倉城(静岡県駿東郡清水町徳倉)と三枚橋城(静岡県沼津市大手町)を落とし、続いて3月に入ると沼津や吉原にあった武田側の諸城を次々と陥落させていきました(そのほとんどが守備兵の放棄によるものです)。上野国(群馬県)方面でも北条氏政の弟・北条氏邦が厩橋城(群馬県前橋市)城主・北条高広に圧力をかけ、さらに真田昌幸の領地をも脅かしていきました。さらに、31日、駿河国西部でも武田信玄の娘婿(武田勝頼の義兄)で武田親族衆筆頭であった甲斐国南部の河内領及び駿河国江尻領の領主・穴山信君(梅雪)が徳川家康に通じ、織田信長側に寝返るという事態が発生。既に三河国(愛知県東部)から駿河国(静岡県)への侵攻を開始し、221日に駿府城(静岡市)にまで進出していた徳川家康は、34日、穴山梅雪を案内役として、ついに駿河国から甲斐国に向けて兵約1万人で侵攻を開始しました。そういう中、32日には武田勝頼の弟(武田信玄の五男)である仁科信盛が約3千人の兵とともに籠城する高遠城(長野県伊那市高遠町)が、伊那街道を北上する織田信忠と滝川一益が率いる約3万人の織田軍本隊の猛攻を受けて落城。仁科信盛は自害しました(長野県民なら誰でも歌えると言われている長野県歌『信濃の国』の中でも「仁科の五郎信盛」と歌われているその仁科信盛です)

このように四方から怒涛のように侵攻してくる織田・徳川連合軍、それに加えて後北条氏の大軍による猛攻を受けて、武田勝頼率いる甲斐武田氏は文字通り四面楚歌の状態に陥り、かつ組織的な抵抗が行えなくなり、新府城では武田勝頼を囲んでどうするかの軍議が重ねられました。この新府城は織田信長の来襲に備えてその前年の天正9(1581)から真田昌幸に命じて築城が開始された新しい城で、天正9年の年末には武田勝頼が祖父の武田信虎の代から長く甲斐武田氏の居城としてきた躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)を出て移住してきたものの、まだまだ城塞としては未完成。防御も弱く、このままでは織田・徳川連合軍の猛攻をとても防ぎきれないような状況でした。それでも武田勝頼の嫡男である武田信勝は新府城における籠城を主張したのですが、これに対し信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案。いっぽう、武田勝頼側近の一人・長坂光堅が小山田信茂を頼り、郡内地方の岩殿山城(大月市賑岡町)へ逃れるべきと主張。武田勝頼はいったんは真田昌幸の岩櫃城で再起を期すことを決したのですが、これまで裏切っていった家臣のほとんどが信濃衆であり、また先祖代々支配した甲斐国から離れがたいということもあって、長坂光堅の意見を取り入れて岩殿山城まで退却して織田勢を迎え討つことに方針を変更。最終的に武田勝頼は姻戚関係のある武田一族でもあり古参の小山田信茂の守る岩殿山城行きを決断したとされています。

韮崎市中田町にある新府城の本丸跡です。新府城は八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地の上に立地した平山城で、西側は高い侵食崖で、東側に流れの速い塩川が流れ、難攻不落の城郭を築城しようとしていました。

岩殿山城は甲斐国都留郡(郡内地方)を治めていた国人衆・小山田氏の持ち城で、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られています。相模川水系の桂川と葛野川とが合流する地点の西側に位置する岩殿山(標高634メートル)の頂上に築かれ、頂上の南側直下は鏡岩と呼ばれる礫岩が露出した約150メートルの高さの絶壁の崖で、狭い平坦地を挟んで、さらに急角度で桂川まで落ち込んでいます。岩殿山城は東西に細長いその大きな岩山をそのまま城にしているため、全方面が急峻で、特に南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜地で、容易には接近ができないようになっていました。東西からはなんとか接近できるのですが、それも左右が断崖絶壁になった細くて厳しい隘路を通らなければならない上、各種の防御施設が配されていたので、まさに難攻不落の天然の要塞のような城でした。

この巨大な岩山が岩殿山(標高634メートル)です。この岩殿山の山頂にあった岩殿山城は、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られています。


こうして天正10(1582)33日、未完成の居城・新府城に火をかけて放棄した武田勝頼と嫡男・信勝らの一行約700人は岩殿山城のある郡内地方を目指します。そして、運命の笹子峠へと向かいます。(ここから武田勝頼一行の四国への逃避行が始まったと私は思っています。)

甲斐市下今井の甲州街道沿いにある「泣石」です。武田勝頼一行が未完成の新府城に放火して岩殿山城を目指して落ち延びる途中、武田勝頼の継室である北条夫人がここから新府城が炎上するのを見て涙を流したという言い伝えがあり、「泣石」と呼ばれています。新府城はここから直線で約10km。確かにここからだと城が炎上して濛々と立ち上る煙は見えたでしょうね。

しかし、その途上で小山田信茂の離反に遭います。『甲陽軍鑑』によると武田勝頼一行は鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し、籠城準備のため先に岩殿山城に戻っていた小山田信茂の迎えを待っていたのですが、39日夜に小山田信茂は笹子峠の登り口である駒飼(甲州市大和町日影)にある郡内領への道を封鎖し、武田勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、小山田信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯が小山田信茂の人質を郡内へ退避させると、小山田信茂は武田勝頼一行に向け虎口から鉄砲を放ちました。ここで小山田信茂の謀叛を知り、武田勝頼は岩殿山城行きを断念。行き場を失った家臣が次々と逃亡をはかる中、側近の土屋昌恒の進言で、武田勝頼は武田家所縁の天目山(甲州市大和町)を目指して逃亡することにしました。 

甲州街道・駒飼宿にある「武田勝頼公腰掛石」です。岩殿山城へ向かう途中の武田勝頼一行は笹子峠を越える前にこの駒飼に留まり小山田信茂の迎えを数日間待っていたのですが、その際に武田勝頼が腰掛けていたと言われる石です。

甲州街道・駒飼宿の最寄り駅であるJR中央本線の甲斐大和駅のホームには「武田家終えんの郷」という表示が掲げられています。

JR中央本線の甲斐大和駅の近くにある国道20号線の景徳院入口交差点です。この景徳院入口交差点から山梨県道218号大菩薩初鹿野線が左に分岐します。武田勝頼が自害したといわれる田野は、ここから県道を少し先に行ったところにあります。

なお、「天目山の戦い」などと今では呼ばれていますが、実際には天目山という山はなく、あるのは木賊山(とくさやま)という山なのだそうです。ただそこには天目山栖雲寺(甲州市大和町木賊)という寺院があり、目指したのはその天目山栖雲寺ということのようです。この天目山栖雲寺のあたりは室町時代の応永24(1417)に当時の甲斐武田家第10代当主・武田信満が上杉禅秀の乱に加担して郡内地方の都留で敗戦し、笹子峠を越えて当時石和にあった居城まで敗走する途中に上杉憲宗の追討を受けて自刃したところで、天目山栖雲寺にその武田信満の墓があります。 

武田勝頼一行が目指した天目山棲雲寺です。棲雲寺は、木賊山(現・天目山)山中の標高約1,050メートルの日川渓谷の上流左岸にある臨済宗建長寺派の寺院です。武田勝頼らが自害した田野の景徳院からは日川を約5kmほど遡った上流に位置します。

311日、武田勝頼一行は天目山の目前にある田野の地で追ってきた織田信長・徳川家康連合軍の滝川一益隊と対峙します。ここでは土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、特に土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せました。武田勝頼最後の戦となった田野の四郎作・鳥居畑では、滝川一益率いる約3千の大軍を43人という僅かな手勢で奮闘撃退したといわれています。しかし衆寡敵せず、311日巳の刻(午前11時頃)武田勝頼・信勝父子、勝頼の継室の北条夫人(桂林院)は自害し、これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡しました。この時、武田勝頼は37歳、嫡男の武田信勝は16歳。継室の北条夫人は19歳でした。

「四朗作(つくり)古戦場の碑」です。国道20号線から天目山に向かう県道の分岐点の付近に建つのがこの四朗作古戦場の碑です。新府城を出立した時は1千人程居たと言われる武田勝頼一行も、郡内に向かう途中で脱落者が続出し、この田野に着いた辺りで百人も居なかったと伝えられます。

鳥居畑古戦場の碑」です。もはやこれ以上逃れるのは不可能と悟った武田勝頼が、自害するまでの時間を稼ぐために家臣達が奮戦した、甲斐武田氏最後の戦いが行われたのがこの地です。景徳院と目と鼻の先に位置します。

「土屋惣蔵片手切跡」です。武田勝頼一行は田野より先の天目山を目指したものの、迂回した織田勢に行く手を遮られたために、再度田野に引き返します。この時に土屋惣蔵昌恒が崖の最も狭い所に踏みとどまって、織田勢の追撃を阻止して、勝頼一行が離脱するまでの時間を稼ぎました。この時昌恒は崖の蔦に片手を絡ませ、もう片方の手で刀を操り奮戦した事から、土屋惣蔵片手切の伝説が生まれました。

景徳院の駐車場の奥に、この裏にある日川の淵に身を投じて殉死した北条夫人の侍女16名を顕彰し慰霊するための石碑が建立されています。

武田勝頼・信勝父子、勝頼の継室の北条夫人(桂林院)らが自害した場所には天童山景徳院という曹洞宗の寺院が建立されています。この景徳院は、天正10(1582)の天目山の戦い、さらには本能寺の変、さらにはその後の天正壬午の乱を経て甲斐国を領することとなった徳川家康が、同年7月に武田勝頼や信勝、北条夫人、さらには主君・武田勝頼に殉じて亡くなった武田家家臣たちの菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進して創建した寺院です。

田野の武田勝頼一行が自害した場所、すなわち甲斐武田氏宗家が滅亡したとされる地に建てられた曹洞宗の寺院・天童山景徳院です。創建したのは徳川家康。天正10(1582)6月、本能寺の変により発生した天正壬午の乱を経て甲斐国は三河国の徳川家康が領するようになったのですが、徳川家康は同年7月に武田勝頼と家臣ら殉死者の菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進し、実際勝頼が自害した跡に景徳院を建立しました。無主となり緊張状態にあった甲斐国における領民懐柔政策の1つだったのでしょうね。

景徳院の境内にある武田勝頼・信勝父子、北条夫人の墓です。この武田勝頼の墓は、現存する宝篋印塔の銘文によれば二百周忌にあたる江戸時代の安永4(1775)に景徳院第11世住職により造立された供養塔で、勝頼を中心に信勝と北条夫人のものが両脇に配されています。

「武田勝頼公 生害岩」です。武田勝頼はこの岩の場所で自害したと言われています。この岩がその時もあったものなのか、後年この場所に置かれたものなのかは定かではありません。

武田勝頼・信勝父子の墓の隣には彼らに殉じた家臣たちの墓があります。また、手前には武田勝頼父子の辞世の句が刻まれた石碑が建っています。

ちなみに、武田勝頼の辞世の句は

「おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端」

北条夫人の辞世の句は

「黒髪の みだれたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」

武田信勝の辞世の句は

「あだに見よ 誰も嵐の  桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢」

です。

繰り返された火災から類焼を逃れた山門が唯一の創建時からの建物で、山梨県の有形文化財に指定されています。

没頭地蔵」です。自害した武田勝頼一行の首級は織田軍総大将の織田信忠の元に送られますが、首のない勝頼父子の胴体をこの場所に埋めたと伝えられています。

2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』は、この『甲陽軍鑑』の記述に従い、武田家中の国人衆であった真田家の真田昌幸と信幸、信繁(幸村)兄弟がこの主家・甲斐武田氏宗家の滅亡によって乱世の大海原に放り出されるところから始まりました。武田氏の滅亡は、真田氏にとっても一大転機となりました。主君を失い織田・徳川・北条・上杉という強大勢力に囲まれた真田氏は、生き残りをかけて戦国という大海原へと漕こぎ出すことになる……、これがNHK大河ドラマ『真田丸』の冒頭のシーンでした。

 

【天目山の戦い…甲陽軍鑑以外の史料による記述】

以上が『甲陽軍鑑』に書かれている天目山の戦いのあらましで、現在ではこれが通説のようになっているのですが、実は他の史料にはこの『甲陽軍鑑』とは少し異なることが書かれているようなのです。まずは武田信玄の従妹(武田信虎の弟・勝沼信友の娘)で一時期武田勝頼の乳母も務めていたとされる理慶尼(俗名:松葉)が書き残した理慶尼記(別名:武田滅亡記)。理慶尼は勝沼(甲州市勝沼町勝沼)の雨宮氏に嫁いでいたのですが、雨宮氏及び勝沼氏の滅亡後、勝沼に所在する大善寺の慶紹和尚を頼り剃髪して尼となり、理慶尼と号して境内に小さな庵室を構えて暮らしていました。『理慶尼記』によると、33日早朝、新府城から落ち延びた武田勝頼一行は途中武田信玄によって創建された甲斐善光寺(甲府市善光寺)に立ち寄り、約35kmの距離を僅か1日で甲府盆地を駆け抜け夕方遅く理慶尼の庵室のあった勝沼の大善寺に到着。理慶尼は温かく彼等一行を迎え入れ、同寺の薬師堂に武田勝頼、継室の北条夫人、武田信勝を招いて理慶尼と4名で一晩寝所を供にしたとされています。しかし、夜陰にまぎれて多くの家臣が逃走したとも記されています。また、小山田信茂の離反を37日の出来事とし、小山田信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)であるとしています。笹子峠までやって来ていた武田勝頼一行はここで引き返し、天目山に向かったと記されているのだそうです。この理慶尼が書いた『理慶尼記』は別名『武田勝頼滅亡記』とも呼ばれ、武田勝頼の最期の様子を叙事詩的に描いており、現在大善寺に写本が残されています(原本は高野山に保管されているのだそうです)

勝沼にある大善寺の山門です。国宝の本殿はこの山門の奥にあります。この大善寺には『理慶尼記』を書き残した理慶尼が眠る五輪塔があります。2016年に放映されたTVドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』でロケ地となったことから、最近は逃げ恥詣でと呼ばれる観光客が一気に増えたといわれています。

次に武田勝頼に対する木曾義昌の謀反から始まって、恵林寺の焼失・織田信長の甲府入城までの甲斐武田氏の滅亡を記した軍記物語『甲乱記』では小山田信茂の離反の日付は記されておらず、武田勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において小山田信茂の迎えを待ち、笹子峠の登り口である駒飼(甲州市大和町)まで移動する途中で信茂の離反を知ったとしています。柏尾は大善寺のあるところの地名で、柏尾で小山田信茂の迎えを待ったとするのは『理慶尼記』と同じですが、小山田信茂の謀反を知った場所が駒飼ということで、ここは『甲陽軍鑑』と同じです。

一方、織田・徳川方の史料はまったく別のことが書かれていて、織田信長旧臣の太田牛一が著したとされる織田信長の一代記である『信長公記』では武田勝頼は小山田信茂の館まで辿り着いたのですが、小山田信茂は武田勝頼の使者を撥ねつけたと簡潔に記しているだけです。また大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書『三河物語』では、小山田八左衛門が登場し、武田勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を小山田信茂のもとに派遣したが帰還せず、そこで小山田信茂離反を知ったということになっています。

さらには武田勝頼の最期に関しても自害ではなく討ち取られたと記されているものもあります。武田勝頼を攻めた徳川勢の記録『三河後風土記』によると、後に福島正則の家臣となる伊藤永光(伊藤伊右衛門永光)が武田勝頼を襲い、一刀のもとに討ち果たして首を挙げたとされています。討ち取られた武田勝頼の首は、伊藤永光の鞍の四緒手(しおで)にくくり付けられ、総大将・織田信忠のもとに届けられたのですが、首実検の際、多くの大将首が運ばれてきていたため、武田勝頼の首がどれか分からなくなってしまったのだそうです。当初は小原継忠(小原丹後守継忠)の首が武田勝頼のものとされていたのだそうですが、武田勝頼の首の斬口に、伊藤永光の馬の毛がついていたので、やっと判別ができたと言われています。このように天正10(1582)311日に天目山の戦いが行われ、そこで武門の名門・甲斐武田氏宗家が滅亡したことは事実なのですが、そこに至る顛末の詳細や武田勝頼の最期に関しては諸説様々あるということが分かりました。

 

【一次史料と二次史料】

歴史の研究は必ず「史料」に基づいて行われます。過去に存在した事象を把握し筋道を立てるのに役立つ材料のことを「史料」と呼びます。史料は歴史家が歴史を研究・記述する際に用いるもので、紙に文字で書き記された文献や、考古学上の遺構・遺物・遺跡、イメージ史料となる絵画、写真、オーラル・ヒストリー、伝承などを含みます。史料は一次史料と二次史料に分類されます。一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙、文書、日記などを指します。記述対象の観点から言うと、「その時に(When)」「その場で(Where)」「その人が(Who)」の三要素を全て充たした文献を「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼びます。二次史料は第三者が記した物や、後の時代に書かれた記録が該当します。

上記でご紹介した史料のうち、一次史料に該当するのは『理慶尼記』くらいで、『甲陽軍鑑』をはじめそれ以外の史料のほとんどは二次史料です。もちろん一次史料は信憑性が高いものが多いのですが、ただし、一次史料が必ずしも正確というわけでもありません。日記や手紙などは主観的で偏った記述であることが付き物ですし、歴史知識の乏しい人間が偏向した一次史料の記述を直接読めば誤った情報を得ることにもなりかねません。また、二次史料は一般には一次史料よりも正確性や重要性が劣るとされていますが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らないとも言われています。例えば、先にご紹介した太田牛一の記した『信長公記』は、現代の歴史学者の間では高い信頼性を有していると評されています。

今では武田信玄期の甲斐武田氏の栄華と武田勝頼期の滅亡を語る上で定説のようになっている『甲陽軍鑑』もあくまでも二次史料です。『甲陽軍鑑』は武田信虎時代の甲斐国の国内統一を背景に次々と領国拡大を行っていった武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成された備忘録のような書物で、軍学以外にも武田家の儀礼に関する記述などが豊富で、注目される記述も多いのが特徴です。『甲陽軍鑑』の成立は武田家重臣が数多くが戦死した長篠の戦いの直前にあたる天正3(1575)5月から天正5(1577)とされ、天正14(1586)5月の日付で終っています。記述したのは武田信玄・勝頼期の武田家重臣で武田四天王の一人・高坂弾正昌信の名で知られる春日虎綱。春日虎綱が武田家の行く末を危惧して、武田勝頼や勝頼の側近である跡部勝資、長坂光堅らに対しての「諫言の書」として献本されたものであるとされており、春日虎綱の甥である春日惣次郎と春日家家臣の大蔵彦十郎らが春日虎綱の口述を書きとったという体裁になっています。春日虎綱が天正6(1578)に没するといったん途切れるのですが、春日惣次郎は甲斐武田氏滅亡後、天正13(1585)に亡命先の佐渡島(新潟県)において没するまで執筆を引き継いだとされています。しかし、この春日惣次郎は天目山の戦いには参加しておらず、天目山の戦いの顛末についてはあくまでも伝聞によるものと思われ、土屋昌恒の「片手千人斬り」のくだりなど武門の名門・甲斐武田氏、そして自身もその一員であった戦国時代最強を誇った武田軍団の最期はこうであって欲しいという春日惣次郎の希望的な推測が多く含まれていると考えておかないといけないと思います。現在、『甲陽軍鑑』の原本は存在していませんが、武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡昌盛の子の小幡景憲が写本を入手し、さらにそれに手を加えたとされる元和7(1621)に編纂された「小幡景憲写本本」が最古写本として残されています。その後、『甲陽軍鑑』は甲州流軍学の聖典とされ、江戸時代には出版されて広く流布し、読み物として親しまれ、『甲陽軍鑑評判』などの解説書や、信虎・晴信(信玄)・勝頼の武田家三代期を抽出した『武田三代軍記』なども出版されました。ここで多くのドラマチックな脚色が次々と盛り込まれていったようで、江戸時代期の講談や歌舞伎をはじめ、明治時代以後の演劇・小説・映画・テレビドラマ・漫画など甲斐武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持つ書になっています。

このように、今では通説のようになっている天目山の戦いの顛末も、必ずしも真実がどうであったかは明確になっているとは言えず、少なくとも史実として言えることは、天正10(1582)311日、甲斐武田氏第20代当主・武田勝頼は甲斐国の国中地方と郡内地方を隔てる笹子峠の近辺で歴史の表舞台から完全に姿を消したということだけのようなのです。こうなると、天目山で自害したのは実は影武者で、武田勝頼・信勝父子は伊予武田氏を頼って土佐国の大崎村(現在の高知県吾川郡仁淀川町大崎)まで落ち延びたとする新たな説が入り込む余地は十分に残されているということが言えようかと思います。こりゃあ俄然面白くなってきました。

 

……(その3)に続きます。(その3)88回として掲載します。


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