2021年8月30日月曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その1)

 公開日2021/11/04

 

[晴れ時々ちょっと横道]第86回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その1)


81回から前回の第85回まで5回にわたり「伊予武田氏ってご存知ですか?」と題して、あの戦国時代最強の武将と言われる武田信玄と同族の清和源氏、河内源氏、甲斐源氏の流れを汲む「伊予武田氏」という一族が愛媛県にもいたことをご紹介させていただきました。その中で、戦国時代の伊予国(愛媛県)の情勢や、伊予武田氏を取り囲む越智郡、周敷郡、桑村郡、新居郡、宇摩郡といった東予地域の国人衆(地域豪族)についても触れさせていただきました。そうした伊予国のマイナーな弱小国人衆は歴史の表舞台に登場することがないため決して歴史の教科書や歴史小説等で取り上げられることはないのですが、なかなか魅力的な人物が多く、調べていても楽しかったです。特に圧倒的戦力で迫ってくる小早川隆景率いる四国討伐軍を、その1/10にも満たない僅かな兵力で迎え撃ち、どう考えてみても勝ち目のない戦闘に文字通り刀折れ矢尽きるまで戦い、最後は野々市ヶ原の戦いで壮絶な討ち死にを遂げた金子元宅などは、もっともっと世間から(特に愛媛県内で)注目されていい戦国武将だと私は思います。

 しかし、そういう中で特に私の好奇心のアンテナを一際くすぐってくれた人物は、やはり黒川元春ですね。石鎚山の山奥から忽然と平野部に出てきて、瞬く間に他の国人達を駆逐し周桑平野の旗頭になったという謎の人物で、元の名前が長宗我部元春。あの長宗我部元親の叔父にあたる人物だとされています。土佐国の長宗我部氏の時の当主の実弟が、何故に石鎚山の山中を拠点とする伊予国の国人衆のところにやって来て養子に入ったのか?

通説によると、長宗我部元春は土佐国長宗我部氏嫡流の長宗我部元秀(兼序)の次男で、長宗我部元国の弟にあたり、あの長宗我部元親の叔父にあたる人物で、享禄年間(1528年〜1532)の初めに兄の長宗我部元国と不和になったため土佐国長岡郡(現在の南国市岡豊町)を出奔して、伊予国周敷郡千足村黒川郷の国人衆(豪族)黒川通矩の妹婿になり、長宗我部の名を捨てて黒川姓を名乗り、黒川元春(後に通尭と改名)と称したとされています。伊予国(愛媛県)の東部、東予地方と土佐国(高知県)中央部の間には標高1,700メートルを超える高い山々が屏風のように立ち並んでいるため昔はヒトやモノの交流がほとんどなかったと思われがちなのですが、実際はそうした高い山々の鞍部を越える街道が何本かあり、ヒトやモノの交流も活発になされていたということは第84回で書かせていただきました。しかも距離も歩いて2日程度と意外と近いということも。そういう状況の中で、長宗我部氏の嫡流の1人が不和により出奔というのはあまりに不自然ですし、出奔した先があまりに近すぎます。加えて、黒川元春の代になってからの黒川氏の台頭ぶりは異常過ぎます。石鎚山の山奥にある黒川郷における戦力は足軽を加えてもせいぜい数十名程度と推察されます。その黒川氏が瞬く間に周桑平野の他の国人衆達を武力で征圧したり、懐柔したりして周敷郡の旗頭となるわけです。おそらくその背景には長宗我部氏の精強な援軍が少なくとも100名規模で加わっていたのではないか推察されます。そして新たに居城である剣山城の築城までやってしまうわけです。それも隣の新居郡の旗頭であった石川氏の居城・高峠城のすぐ近くに。これはどう考えてみても不自然です。おそらく、石川氏もその時点までに既に長宗我部氏と密かに同盟関係を構築していて、長宗我部元春が伊予国にやって来ることを歓迎していたと考えるのが自然です。脅威の拠点がすぐ近くに築かれることを黙って見過ごすわけがありませんもの。これらにはどうしても長宗我部氏の戦略的意図のようなものを感じてしまいます。

とは言え、長宗我部元春が伊予国周敷郡にやって来た当時、長宗我部氏は土佐国守護で幡多郡中村城を中心に土佐国一円に影響力を持っていた一条氏の家臣で、土佐国の有力七豪族(土佐七雄)に数えられてはいたものの、土佐国長岡郡を領地とする在地領主(国人)の一人にすぎませんでした。ちなみに、土佐七雄とは長宗我部氏(長岡郡)、本山氏(長岡郡)、吉良氏(吾川郡)、安芸氏(安芸郡)、津野氏(高岡郡)、大平氏(高岡郡)、香宗我部氏(香美郡)という各郡の旗頭のことですが、長宗我部氏は拠点である長岡郡には本山氏がいたこともあって、その土佐七雄の中でもむしろ弱小勢力とも言える一族でした。それが長宗我部元親が家督を相続して以降、その圧倒的武力で急速に台頭していき、ついに守護大名・一条兼定を豊後国に追放して土佐国を完全に統一することになります。それが天正元年(1573)のこと。そして、隣接する阿波国・讃岐国・伊予国への侵攻を開始します。だとすると、長宗我部氏はあの長宗我部元親の父の長宗我部元国の時代から四国制覇の野望を抱いて、密かに、そして戦略的に着々と動いていたということになります。

これは四国の戦国史を語る上でこれまでの定説を大きく覆すことで、こりゃあ、ちょっくら本腰を入れて調べてみる価値がありそうだと思い、高知県にまで範囲を広げ、黒川氏、石川氏、金子氏といった伊予国東部(東予)地域の国人衆と土佐国の長宗我部氏との間の関係に関して調べ始めたのですが……、その途中で、それよりももっと私の好奇心のアンテナを激しく反応させてくれる伝承に行き当たりました。それが「武田勝頼生存説」です。

 

【武田勝頼生存説…高知県仁淀川町に伝わる伝承】

『甲陽軍鑑』や『信長公記』等の記述によると、甲斐武田氏第17代当主・武田勝頼は天正10(1582)311日に甲斐国の天目山(現在の山梨県甲州市大和町)において、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に加えて家臣の小山田信茂の謀反に遭い、妻子ともども自害し、甲斐武田氏は滅亡したとされていて、今ではこれが定説、史実のようになっています。ですが、高知県に残る伝承『武田勝頼生存説』では、天目山で自害したのは実は影武者で、武田勝頼は織田信長軍からの敗走後、当時の土佐の武将(国人衆)の一人・香宗我部(こうそかべ)氏を頼って土佐国に落ち延びてきたのだというのです。

高知県吾川郡仁淀川町大崎には、天目山で自害した武田勝頼は影武者で、実は本人はこの土佐国の仁淀川町に落ち延び、大崎玄蕃と変名して64歳まで暮らしたという伝承が残っているのだそうです。これには大いに好奇心を擽ぐられました。

武田勝頼(大崎玄蕃)の墓の前に建立された鳴玉神社です。

その伝承が残っている場所が高知県吾川郡仁淀川町。この仁淀川町は高知県北西部の愛媛県との県境に接した四国山地中央部に位置し、面積の約9割を山林が占める山間の町です。町域の中央を西から東に仁淀ブルーの名称で全国に知られる清流「仁淀川」が流れ、それが町名になっていますが、平成17(2005)に合併して仁淀川町になる以前は、吾川郡池川町、吾川村、高岡郡仁淀町でした。伝承が残っているのは、そのうちの吾川村。吾川村に残る伝承によると、土佐国に落ち延びた武田勝頼はその後、この大崎村川井(大崎村はその後合併して吾川村。現在の仁淀川町大崎)に入り、以後、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で土地開拓をしながら25年ほど暮し、慶長14(1609)825日に64歳で逝去。鳴玉神社(現大崎八幡宮)に葬られたという記録が仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記載してあるのだそうです。

「武田勝頼土佐の会」ホームページ


地図はクリックすると拡大されます

私が注目したのは武田勝頼生存説の残る高知県仁淀川町の場所です。地図を見ると、ここは伊予国の国府から土佐国の国府に向かう最短コースである愛媛県道153号落合久万線国道494号線ルートの途中、ほぼ中間地点である伊予国(愛媛県)と土佐国(高知県)との国境(県境)近くに位置します(仁淀川町大崎は仁淀川町の中心部で仁淀川町役場もあり、国道33号線、国道439号線も通る交通の要衝です)。同じ高知県でも、もしこの武田勝頼生存説の伝承が残る場所が仁淀川町でなければ、「ふぅ~~~ん」の一言で済ませていたと思うのですが、仁淀川町となると話は別です。仁淀川町に残る伝承では、武田勝頼は土佐の国人衆・香宗我部氏を頼って土佐国に落ち延びた…というふうになっていますが、正しくは伊予武田氏を頼って落ち延び、その途中でなんらかの理由で仁淀川町大崎で足止めを食らい、そのままそこに落ち着いて暮らすようになったとは考えられないでしょうか。その理由とは伊予武田氏の居城である龍門山城の落城と伊予武田氏宗家の滅亡。天目山の戦いで武田勝頼が自害したとされるのが天正10(1582)311日。龍門山城の落城が同じく天正10(1582)128日のことですので、その間約9ヶ月。逃避行というには少し時間がかかっているような印象は受けますが、甲斐国の天目山からここまでの距離と、途中の各所で甲斐武田氏所縁の人達にしばらく匿われながらの逃避行だったとしたら、さほど不自然なことでもありません。

 

“仁淀ブルー”で有名な仁淀川町を流れる清流・仁淀川です。中央構造線の南側の三波川変成岩帯に位置するこのあたりの渓谷は主に緑色片岩でできているので、このような神秘的な青緑色をしているのでしょうね。美しいです。

仁淀川に架かる久喜沈下橋です。この久喜沈下橋は昭和10(1935)に作られた鉄筋コンクリート製の沈下橋で、高知県内では現存する最も古い沈下橋と言われています。2004年に国の登録有形文化財に指定されています。

甲斐武田氏所縁の人達ということで、伝承に出てくる土佐国の有力国人である香宗我部(こうそかべ)氏について調べてみて、さらに驚きました。香宗我部氏は長宗我部(ちょうそかべ)氏と同様、土佐国の有力七豪族(土佐七雄)1つに数えられる有力国人衆で、香美郡(現在の高知県香美市と香南市)を拠点とする一族です。この香宗我部氏ですが、そのルーツは武田信玄・勝頼親子と同じ甲斐源氏に遡ることができるのです。甲斐源氏の嫡流当主であった武田()信義が治承4(1180)4月に以仁王から平氏討伐の令旨を受け取ると、嫡男(長男)の一条忠頼や弟の安田義定ら甲斐源氏の一族を率いて挙兵。富士川の戦いやその後の木曾義仲追討・平家討滅などにおいて目覚ましい武功をあげたということは、第81回の「伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)」に書かせていただいたとおりです。そして鎌倉時代になると武田信義は鎌倉幕府の御家人となるのですが、鎌倉幕府成立直後の建久4(1193)、その勢力を警戒した源頼朝から粛清を受けて武田信義はまもなく失脚。嫡男(長男)の一条忠頼をはじめ弟や息子たちの多くが死に追いやられたということも書かせていただきました。どうも香宗我部氏はその時に暗殺された武田信義の嫡男(長男)である一条忠頼に繋がる一族ということのようなのです。建久4(1193)、一条忠頼の家臣の中原秋家が土佐国香美郡宗我部郷(現在の香南市赤岡町・吉川町周辺)の地頭職となり、土佐国に下ってくるのですが、その時に暗殺された主君・一条忠頼の嫡男である中原(武田)秋通を密かに養子として迎え、同行して連れてきたようなのです。中原秋家は香美郡宗我部(そかべ)郷に入ると香宗城(香南市野市町土居)を築城し、その城に中原(武田)秋通を入城させ、その秋通が香宗我部氏を称して初代となったということのようです。



 

この香宗我部氏ですが、当初は宗我部姓を名乗ろうとしたようなのですが、そこである問題が発生しました。香美郡と隣接する長岡郡にも宗我部郷があり、そこを拠点とした一族も宗我部姓を名乗ろうとしていたのです(どっちが先という議論もあるようですが、それは割愛します)。それが後の長宗我部氏です。その長宗我部氏の先祖は中国秦王朝の始皇帝の末裔の秦氏であるとされています。西暦587年に起きた丁未(ていび)の乱で聖徳太子と蘇我馬子が物部守屋を倒した際に功を立てたとされる秦河勝(はたのかわかつ)。その秦河勝の子孫を自称する秦能俊(はたのよしとし)が平安時代末期の保元元年(1156)に起きた「保元の乱」に敗れ、京の都から瀬戸内海を渡って土佐国長岡郡宗我部郷(現在の高知県南国市岡豊町)まで落ち延び、そこに城(岡豊城)を築いて土着したのが最初とされています(諸説あるようです)。この香美郡の宗我部氏と長岡郡の宗我部氏でどちらが正統な宗我部氏なのかの諍いがあったようなのですが、最終的には長岡郡の宗我部氏を「長宗我部」とし、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」を名乗ることで互いを区別することとしたと言われています。鎌倉時代初期の建仁元年(1201)に書かれた書状には既に「香宗我部」の文字が確認できることから、その当時から長宗我部氏と香宗我部氏は存在していたということのようです。

このように甲斐源氏本家本流の武田信義の嫡男(長男)である一条忠頼に繋がる一族が香宗我部氏。第81回でも書きましたが、嫡男(長男)の一条忠頼をはじめ武田信義の弟や息子たちの多くが死に追いやられた中、武田信義の五男・信光だけは源頼朝から知遇を得て甲斐国の守護に任ぜられ、本拠である甲斐国武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)にて甲斐武田氏の嫡流となりました。すなわち、武田信玄も武田勝頼もその五男・武田信光を祖としているわけで、実は、この土佐国の香宗我部氏が甲斐源氏の本当の意味での嫡流だということもできようかと思います。ちなみに、香宗我部氏の家紋は「武田菱」「割り菱」と呼ばれるもので、しっかりと甲斐源氏の嫡流であることを主張しています。また、一族の中には武田姓や中原姓と本姓に戻して名乗る家もあったようです。なお、香宗我部氏の初代となった香宗我部(武田)秋通の養父である中原秋家はその時に土佐山田城に入り、山田姓に改名し、これも土佐国の有力国人衆の1つである山田氏の祖となりました。このように、少なくとも土佐国には天目山の戦いに敗れて命からがら落ち延びてきた武田勝頼を温かく迎え入れる下地はあったということです。

ですが、武田勝頼が落ち延びてきた当時の香宗我部氏はかなり勢力を衰退させていたようです。1520年代の香宗我部親秀の時代、東隣の安芸郡に拠る安芸氏と抗争しながら土佐で勢力を広げたのですが、大永6(1526)に安芸氏の攻撃で嫡男の秀義を失います。また西隣の長岡郡で長宗我部国親が勢力を急激に拡大し、香宗我部領の北側・香美郡中北部を勢力下としていた有力国人衆の山田氏はこの長宗我部国親に滅ぼされてしまいました。このように香宗我部氏は東西から安芸氏と長宗我部氏に圧迫されるようになっていたため、たまらず弘治2(1556)、当主の香宗我部親秀は長宗我部国親の三男・親泰(すなわち長宗我部元親の弟)を養子に迎えて長宗我部氏の影響下に入る道を選択しました。この香宗我部親泰は、長宗我部国親の跡を継いだ長宗我部元親の下で長宗我部一門として土佐・四国の統一戦に参加し活躍したと伝えられています。このように香宗我部氏を頼り、父である武田信玄から後を託された甲斐武田氏の再興を図ろうとした武田勝頼ですが、香宗我部氏のあまりの衰退ぶりを目にして、ここ土佐の地では甲斐武田氏の再興は不可能であると判断し、次に頼ろうとしたのが伊予武田氏だったのではないかというのが私の推論です。この時期、安芸武田氏は既に天文10(1541)に滅亡し、若狭武田氏も天正10(1582)6月に滅亡し、残る武門としてのめぼしい武田氏宗家は伊予武田氏だけだったので、その伊予武田氏を頼るために伊予国を目指している途中に、この吾川郡の大崎村川井(現在の仁淀川町大崎)の地で龍門山城の落城と武門としての伊予武田氏宗家の滅亡を知り、武門の名門・甲斐武田氏の再興を諦め、この大崎村川井の地で名を変えて生きる道を選んだとも推定されます。もしそうだとすると、伊予武田氏とあの甲斐武田氏の繋がりがあったということになるので、これは面白いことになります。

ということで、伊予国東予地域の国人衆と土佐国の長宗我部氏との間の関係に関する調査は一時中断し、武田勝頼の天目山からの脱出に関して調べることにしました。調べると言っても世の中の多くの人が盲目的に信じている従来からの定説とは大きく異なり、これまで誰も言ってこなかった説ですし、確たる証拠が残っているわけでもないので(隠密裏に行われた逃避行なので、証拠が残っているわけがありませんよね)、あくまでも私の頭の中での勝手な推論に過ぎません。まぁ、そういう可能性もあるよね…程度のことが示せればいいかな…と思っています。

 

 ……(その2)に続きます。(その2)は第87回として掲載します。

 

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