2019年6月10日月曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その8)


塩川大橋を渡ったところから韮崎市に入ります。
ここから韮崎宿にかけてはJR中央本線に沿って歩きます。列車が近づく音がすると嬉しくなって写真を撮ってしまうのは、鉄ちゃんの性(サガ)です。
JR中央本線の線路に沿って1.5kmほどほぼまっすぐ直線に黙々と歩きます。徐々に韮崎宿が近づいてきました。
下宿交差点です。ここが韮崎宿の江戸方(東の出入口)でした。その下宿交差点のところに鰍沢横丁と刻まれた道標と説明板が立っています。その説明板によると、ここは身延を経由して富士川沿いを東海道の岩淵(現在の静岡県富士市)や興津(現在の静岡市清水区)、由良宿へ向かう「身延路(みのぶみち)」の1つ「西郡路(にしこおりじ)」が分岐する追分でした。この西郡路は駿信往還ともいい、甲斐国の峡北地方(韮崎市、北杜市)や信濃国の諏訪・佐久地方の江戸城納めの年貢米を馬の背に積んで、鰍沢は甲府盆地の南西端、釜無川と笛吹川が合流して富士川となる山梨県南巨摩郡富士川町にあった鰍沢河岸という船着き場まで通行する道筋でした (鰍沢河岸以南は富士川を水運で運ばれていました)。このため、沿道には駄菓子屋や馬方茶屋などが軒を並べて賑わっていましたが、明治36(1903)、国鉄中央本線が開通して荷物の輸送経路は一変し、往時の活況は消え失せたのだそうです。
ちなみに、幕末にはこのすぐ先を流れる釜無川に船山河岸が設けられ、富士川水運の終点として大いに賑わっていたのですが、明治31(1898)に起こった釜無川の大水害で流失してしまったのだそうです。
韮崎宿は甲州街道、佐久往還、駿信往還が交わる交通の要衝で、また富士川水運の終点に当たるため、甲府街道と富士川水運の物資の集散地として海産物の陸揚げ、年貢米の積み出しなどで人馬の往来が激しく大いに賑わった宿場でした。特に、馬で荷物を運ぶ人達が活用する中馬宿としての商業が発達していました。その一方で、本陣跡碑の側面説明書きによると「諸大名の通過は有ったが、日程の関係で宿泊はごくわずかだったため、本陣は問屋の兼務であった」とのことです。参勤交代で甲州街道を利用していた藩は諏訪の高島藩諏訪家 3万石、伊那の高遠藩内藤家 33000石、信濃飯田藩脇坂家(のち堀家) 27000石の3藩だけで、いずれも譜代の中規模禄高の大名の藩ばかりでしたからね。地名の由来は、韮の葉のように続く七里岩の台地の先端にあるとか、台地上に野生の韮が多かったからとか、ニラミの略で七里岩の出崎と船山と睨み合っているが如きであったからとかの説があります。
江戸時代後期の記録によると、韮崎宿の宿内人口は1,142人、宿内総家数は237軒。本陣1軒、旅籠17軒で、脇本陣は設けられていませんでした。この宿場の特徴は、家が街道に対して少し斜め(鋸歯状)に建てられていたことで、今でも何軒かの家並みにその面影が、僅かではありますが残っています。
左手にあるのが日蓮宗の寺院 大蓮寺で、境内に縁切り地蔵があるそうなのですが、あいにく工事中で境内には入れませんでした。
千野眼科医院のところの路地を右に入ると正面に一橋家陣屋跡があります。
徳川御三卿の1つ、一橋家(10万石)はこの甲州韮崎周辺の巨摩郡3万石を領地としていました。その一橋家が所領支配のため置いた陣屋跡です。一橋家の陣屋は宝暦3(1763)にこの韮崎の地に移ってきたのですが、その後、寛政13(1801)に遠江国相良村(静岡県相良町)に所替えになったので、陣屋は廃止され、幕府直轄領(天領)になりました。陣屋では租税・訴訟・断獄などの民政を行い、その屋敷は東西が約33メートル、南北が約52メートルの広さで、本屋・土蔵・長屋・同心役宅等の建物がありました。ちなみに、一橋家からは家斉(いえなり)が第11代将軍に、水戸徳川家から養子に入った慶喜(よしのぶ)が第15代将軍になっています。
千野眼科医院の前に韮崎宿本陣跡の碑が立っています。この本陣は問屋場を兼ねていました。甲州道中を通行する参勤交代の大名は高島藩、高遠藩、飯田藩の3藩に限られていましたが韮崎宿に宿泊することは少なかったと言われています。
本陣の向かいにある弘化2(1845)創業の清水屋旅館です。建物は新しくなって、現在も旅館として営業しているようです。
ところどころに土蔵を備えた民家があるところが、旧宿場町ですね。
本町第二交差点の右手の上田商店前ある馬つなぎ石です。
韮崎と言えば平和観音。高台のよく目立つところにかなりグラマラスな巨大な観音像が立っています。この高台は約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊による韮崎岩屑流によってできた高台で、長さが約30kmもある細長い形をしていて、七里岩と呼ばれています。その長く伸びる七里岩がニラ(韮)の葉のように見え、その先端(崎)に宿場町が位置していたことから、韮崎という地名が付けられたという説があります。
この先の本町交差点を右に入ってJR韮崎駅に向かう道路は「佐久往還」や「佐久甲州街道」と呼ばれる街道で、ここが追分でした。この佐久往還は八ヶ岳の東側山麓を北上し、清里、野辺山といった高原地域を経て中山道の岩村田宿まで延びていました。現在の国道141号線に相当します。
この道路のすぐ左手が険しい丘陵になっており、この険しい丘陵がここから延々と約30km近く続く「七里岩」の南端にあたります。
この奥に曹洞宗の寺院 雲岸寺があり、裏手の七里岩末端の崖の途中に「窟観音堂」が岸壁からせり出して建っています。天長5(828)、空海(弘法大師)が観音石仏を洞窟に安置したのが始まりだと言われ、室町時代の寛正5(1464)に、祖慶和尚が雲岸寺を開基しました。現在、窟観音堂には聖観世音菩薩、弘法大師御尊体、千体地蔵尊のほか数知れない石仏が安置されているのだそうです。
左側の樹木の中に小林一三翁生家跡の碑がひっそりとあります。阪急電鉄の創業者で、宝塚歌劇団などの創始者としても有名な小林一三は、ここ山梨県韮崎市の出身です。ちなみに、私が参加している甲州街道歩きツアーを主催している旅行会社は、阪急電鉄関連の旅行会社です。
この日のゴールは韮崎市役所の駐車場でした。
韮崎はサッカーの街でもあります。韮崎市役所前にはサッカーボールを模したモニュメントが幾つも飾られています。そう、元日本代表の司令塔・中田英寿選手は、山梨県立韮崎高校の出身です。
また、韮崎は平成28年度(2016)のノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智博士の生誕地で、中田英寿選手と同じく山梨県立韮崎高校の出身。韮崎高校を卒業後、山梨大学学芸学部(現:教育学部)自然科学科へ進学しました。

韮崎市役所の前には武田太郎信義の銅像が立っています。武田太郎信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、甲斐武田氏の初代当主です。その武田太郎信義の墓所は韮崎にあります。
この日は約14.2km、歩数にして19,462歩、歩きました。
次回【第14回】は来月、韮崎宿から台ヶ原宿、教来石宿を経て、蔦木宿まで歩きます。次回は甲斐国(山梨県)を抜けて、いよいよ信濃国(長野県)に入ります。甲州街道の全長(日本橋〜下諏訪宿)532420(210.8km)、今回の韮崎宿までは391025(154.3km)。随分と歩いてきました。残りは約55km。甲州街道歩きもゴールの下諏訪宿まであと残りは3回。楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――



2019年6月8日土曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その7)

昼食を終え、甲州街道歩きの再開です。歴史を感じさせる趣きのある下今井の寺町の家並みのなかを進みます。
これは分かりやすい双体道祖神です。
かなり坂道を下ってきました。赤坂台地の上では下を通っていた高速道路の高架が、今度は上に見えます。この道路は中部横断自動車道の高架で、このすぐ先に中央自動車道と合流する双葉ジャンクション(JCT)があります。
このあたりは中央自動車道と中部横断自動車道が合流する双葉ジャンクションがあったり、国道20号線が通っていたりと道路の構造が複雑で、しかも近代化されているのでこの道がそうだ!とは言いきれませんが、おそらくこの道路でほんの少し行った先を、武田信玄によって整備された甲斐国から他国に通じる9本の軍事用道路「甲斐九筋」の1つ「穂坂路(ほさかみち)」が通っています。穂坂路は、甲斐国と信濃国を結ぶ街道の1つで、別称は川上路。道筋は甲府から北西に進み茅ヶ岳南麓を通過し、小笠原(山梨県北杜市明野地区)から塩川沿いに江草・小尾(北杜市須玉地区)を経て信州峠を越え、信濃国佐久郡川上郷(長野県南佐久郡川上村)へ至る街道です。酒折宮を出てからJR中央本線の北側に沿って通り、ここまで伸びていました (旧甲州街道はJR中央本線のほぼ南側に沿って通っています)。穂坂路はこの先もしばらくJR中央本線の北側を中央自動車道に沿って伸びていくのですが、旧甲州街道はJR中央本線の線路の下を潜り、JR中央本線の南側に沿って進みます。
丸い球体の道祖神です。比較的新しい道祖神です。中央自動車道か中部横断自動車道の工事の際にでも建てられたのでしょう。
JR中央本線の線路下を古いレンガ造りの架道橋で潜ります。この架道橋は「信州往還架道橋」といい、明治36(1903)の国鉄中央本線敷設当初に架けられたものです。
JR中央本線の架道橋を潜った先で、国道20号線ではなく山梨県道6号甲府韮崎線をJR中央本線の線路に沿って歩いて行きます。
右側に大きな「泣石」がデェ〜ンと立っています。
元亀4(1573)412日、武田信玄が西上作戦の途中で病死したため、家督を相続し、武田氏第20代当主となった武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍の前に敗北。その後、領国再建のため相模国の後北条氏との間で甲相同盟を結んだものの、天正6(1578)313日、越後国で上杉謙信が病死するとその後の家督相続争い、いわゆる御館の乱に巻き込まれて甲相同盟はあえなく破綻。翌天正7(1579)、後北条氏の北条氏政が徳川家康と同盟を結んだため、徳川・後北条氏連合軍との戦いが繰り返されます。いっぽうで、天正9(1581)には現在の韮崎市中田町中條に新たに新府城を築城し、躑躅ヶ崎館の所在する甲府城下町からの本拠移転を開始しました。

そういう中、天正10(1582)2月、武田信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が織田信長に寝返り、これを期に織田信長・徳川家康連合軍が満を持して信州甲州の武田領に侵攻。織田信忠が伊那方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻を開始しました。武田軍の将兵は次々と寝返り戦線はあえなく崩壊、織田信長・徳川家康連合軍は怒涛の進軍で韮崎の新府城に迫ってきました。唯一、組織的な抵抗を見せたのは武田勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけでした。その高遠城も落城し、木曽戦線に続いて伊那戦線も崩壊。

高遠城落城の知らせを受け、同年3月、武田勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡。小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城を目指して落ち延びようとしました。その途中、武田勝頼の正室の北条夫人(北条氏政の妹)がここから新府城が炎上するのを見て、涙を流したという言い伝えがあります。それで「泣石」と呼ばれています。新府城はこれから行く韮崎宿の先のJR新府駅近くの高台の上にあったので、ここから直線で約10km弱。確かにここからだと城が炎上してもうもうと立ち上る煙は見えたでしょうね。JR中央本線の鉄道開通時に100メートルほど移動してこの場所に置かれたそうで、その鉄道開通までは岩の中央部にある割れ目から水が流れていたそうです。

しかし、これまで何度も書いてきましたように、武田勝頼が最後の頼みとした家臣で岩殿山城の城主・小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換し、勝頼は進路を塞がれ、後方からは織田方の滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼の一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野で追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害しました(天目山の戦い)。享年37。これによって、甲斐武田家は滅亡しました。

JR塩崎駅前あたりで雲が切れ、南アルプス(赤石山脈)の山々がハッキリと見えるようになってきました。手前に見える高い山が鳳凰三山と呼ばれる地蔵岳(2,764メートル)、観音岳(2,840メートル)、そして薬師岳(2,780メートル)で、その奥に南アルプスを代表する甲斐駒ヶ岳(2,967メートル)の姿が薄っすらと確認できます。甲斐駒ケ岳はまだ頂上付近に雪を頂いているようです。
山梨県道6号甲府韮崎線を進みます。旧街道らしいS字カーブです。
光善寺という寺院の跡に石塔石仏群が並んで立っています。丸石道祖神、三界萬霊塔、そして二十二夜塔です。ちなみに三界萬霊塔とは、多くの人々、あらゆる生物の霊が成仏するよう願って建立されたものです。
その光善寺跡の向かいに歴史を感じさせる豪壮で立派な屋敷があります。このあたりの庄屋を勤めていた富農の屋敷で、今も住宅としてそのまま使われています。このあたりの民家の蔵は、旧甲州街道に面して建ち、防火壁の様になっています。その防火壁のような土蔵が屋敷を取り囲んでいるので、中は窺えません。昔、このあたりで大火でもあって、このような造りになったのだろうと推察されます。これまでの甲州街道歩きで立派な家は幾つも見てきましたが、その中でも飛び抜けて大きな家です。あまりに立派すぎて、メチャメチャ維持費がかかりそうです。
その向かいのお宅も蔵囲いの随分と立派な屋敷です。
双葉西小学校前で左の脇道に入り、少し行ったY字路で右へ行くと、すぐに山梨県道6号甲府韮崎線に戻ります。
その戻ったところに舟形神社があります。その船形神社の石鳥居は明神鳥居の形式をしていますが、柱の太さに比べて背の低いズングリムックリの印象を受ける特徴的な形をしています。この背の低い小さな鳥居は応永4(1397)に建立されたものだそうで、山梨県の指定文化財になっています。室町時代期の遺構としては第一に推すべき逸作と説明には書かれています。ただし、あまりに古くて鳥居に刻まれている銘は読めませんでした。この舟形神社ですが、「甲斐国志」によると、古来より釜無川沿いに崩壊した古墳があり、崩れた古墳の石室が舟のようにみえたことから「舟形神社」と呼ばれるようになったのだそうです。参道の先に神社が見えるのですが、神社自体は普通の神社の建物でした。
松尾芭蕉の句碑が立っています。
「昼見れば 首すじ赤き 蛍哉  芭蕉」

横を流れる六反川は、昔はホタル()が飛び交う清流として知られていたのだそうです。
六反川を渡り先に進んだ右側の奥の更地に一橋陣屋跡の解説板がポツンと立っています(そこまでは見にいきませんでしたが)。一橋家は徳川吉宗の四男の一橋宗尹(むねただ)を初代とする徳川御三卿(田安家、清水家、一橋家)1つです。ここは延亭3(1746)、一橋家10万石のうち巨摩郡3万石所領支配のため置かれた陣屋で、宝暦3(1763)、陣屋が河原部村(現在の韮崎市)に移るまで存続しました。雲が切れて、右手前方に八ヶ岳がその特徴的な姿を見せてくれました。いいですねぇ〜。
山梨県道6号甲府韮崎線から右の脇道に入ります。このあたりは金剛地と呼ばれて、この先にある金剛寺の寺領だったところです。その金剛地に向けては登りの坂道になっています。
街道脇に植えられたアヤメが綺麗です。
坂を登りきったところに二十三夜塔が2つ並んで立っています。二十三夜塔に代表される月待塔(つきまちとう)は、特定の月齢の夜に集まり、月待行事を行った講中(民間信仰)において、供養の記念として建てられた塔のことです。月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月の出を待ち、上がってきた月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事でした。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で、二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広く見られます(十五夜塔も多い)
旧暦の23日の月待の記念として、二十三夜講中によって造立された塔が「二十三夜塔」です。二十三夜講のほとんどは女人講、すなわち、その地域の女性、特に嫁仲間で結成された講でした。如意輪観音を本尊とすることがほとんどですが、准胝観音を本尊とする地方もあるようです(如意輪観音は、富を施し六道に迷う人々を救い、願いを成就させる観音様として、江戸時代中期以降、民間信仰に広く取り入れられ、二十三夜様の本尊として女性の盛んな信仰を受けました)。「二十三夜」「二十三夜念仏供養」などと刻まれた文字塔と如意輪観音の刻像塔があります。地域の女性達が月に一度集まっては、亭主や舅姑の愚痴を言いあってフラストレーションの捌け口にしていたのではないでしょうか。二十三夜というと満月から新月に向かうちょうど半月の夜です。日付けが変わる深夜に月が地表から顔を出してくるので、月を拝もうとすると、深夜過ぎまで待たなくてはいけないことを意味します。遅くまでの夜遊びを正当化するにはちょうど都合がいいですね() また、かつて助産師をやっていた妻によると、統計的に半月の時って出産が少ないのだそうです。そういうことも少しは関係しているのかもしれません。新しいほうの1基には「向左滝沢駒沢二通ス 滝沢青年団」もう1基には「天保七丙甲年二月吉日建立」と銘が刻まれています。天保7年とは1836年のことです。

その二十三夜塔のところで左に曲がり、今度は坂を下っていきます。
その坂道の途中には、歴史を感じさせる古く立派な民家が建ち並んでいます。この民家の裏にこのあたりを寺領にしていた金剛寺があります。
坂を下りきったところで山梨県道6号甲府韮崎線とぶつかり、右折します。
突き当たった左側、民家の高い石垣の上に石祠があり、小さな道祖神が祀られています。昔からこの高い石垣の上に置かれていたのか、最近になって置かれたのかは不明です。
塩川大橋で塩川を渡ります。前方には甲斐駒ケ岳をはじめとした雄大な南アルプス(赤石山脈)の山々が見えます。山々の景色が楽しめるのも甲州街道や中山道の魅力です。もちろん江戸時代には塩川大橋はなく、150メートルほど下流に水神橋と呼ばれる木橋が架かっていました。現在の橋も建て替えられたようで、古い塩川橋の橋脚の跡が残っています。


……(その8)に続きます。

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

  公開予定日 2021/04/01 [晴れ時々ちょっと横道] 第79回  風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3) ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第 78 回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢...