2019年6月4日火曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その5)

甲州街道歩き【第13回:石和宿韮崎宿】2日目(519)、今日は前日のゴールだった山梨県立美術館駐車場を出発して韮崎市役所まで歩きます。甲府柳町宿から韮崎宿までは32050間ということですので、およそ14km。他の旧街道に比べ宿場間の距離が短い甲州街道の中では、韮崎宿の次の台ケ原宿までの間の4(16km)に次いで長い区間です。

午前8時、宿泊したホテルルートインコート甲府石和をバスで出発しました。前線を伴った低気圧が日本列島に接近している影響で、九州の南部では土砂災害警戒情報が出されるくらいの大雨になっているようですが、山梨県地方はまだその影響は出ておらず、前日以上によく晴れて、朝から強い陽射しが照りつけています。この日の甲府市の予想最高気温は25℃。湿った大気の流れ込みも前日ほどではなさそうで、遠くの山々もクッキリ見えます。絶好の街道歩き日和です。ただ、初夏のような暑さで、街道歩きにあたっては熱中症を心配しないといけないですね。そのため、ペットボトル入りのミネラルウォーターを1本余計にリュックサックの中に入れて出発しました (この日は基本的に国道沿いを歩くので、道中に飲料の自動販売機も数多く設置されているので、そこまで心配しないでもいいのですが、念のためです)
ホテルを出発して20分ほどで前日のゴールだった山梨県立美術館の駐車場に到着。ストレッチ体操の後、2日目の甲州街道歩きをスタートしました。前夜はホテルの大浴場(人工温泉)にゆったりと浸かった後、両脚のふくらはぎ(脹脛)に冷水のシャワーを1分間ほど浴びせるというケアを行なったので、心配された筋肉痛はいっさいありません。ただ、股関節がいつもより硬くなっていることが自覚症状として分かったので、そこは入念にストレッチしておきました。旧街道歩きは10km以上の距離を歩くし、アップダウンのあるところを歩くので、事前のストレッチ体操は大事です。その後の疲労の具合が全然違いますから。
山梨県立美術館の駐車場を出るとほどなく前方に中央自動車道の高架が見えてきます。その高架の手前で甲斐市に入ります。甲斐市の人口は約75千人。甲府市に次ぎ山梨県内で第2位の人口の都市です。平成16(2004)91日に中巨摩郡竜王町・敷島町・北巨摩郡双葉町が合併して発足しました。南北に伸びる細長い形状をしていて、旧敷島町にあたる北部は森林資源の豊富な山岳や丘陵地帯。旧竜王町にあたる中南部は釜無川の左岸に展開する平野部で、市街地が形成されています。東側は同じく南北に長い形状の甲府市と完全に隣接し、JR中央本線や国道20号線など諸道によって接続されており、同市のベッドタウンとして人口が急増しています。また、北西部は旧双葉町地域を通じて韮崎市と隣接しています。
今日歩く区間も都市化が進んでいて、往時の面影が残っているところは少ないのですが、それでも路傍のあちこちに道祖神や馬頭観音像、二十三夜塔、石の道標と言った石塔石仏群が立っていて、ここが旧甲州街道であったことが偲ばれます。

中央自動車道の高架を潜った先に最初の道祖神が祀られています。これは文化10(1813)に建立された道祖神で、土台に「道祖大神」と刻まれています。これも道祖神です。甲州街道では丸い球体をした石の道祖神が多いのですが、このあたりからは信州長野県が近づいてくるので、信州の影響を受けて様々な形をした道祖神も現れてきます。
日蓮上人の遠忌碑です。遠忌とは、遠く歳月を経過した後に行われる忌日法要のことです。各宗派では、宗祖やそれに準ずる高僧の年忌が50年、100年とまとまった周期ごとに盛大な法要を行い、これを遠忌といいます。この日蓮遠忌碑に刻まれている年号は右側の碑が安永10(1781)、左側の碑が天保元年(1831)です。日蓮宗の宗祖・日蓮上人が入寂(死去)されたのは弘安5(1282)1013日のことでしたから、それぞれ日蓮上人の五百遠忌、五百五十遠忌に建立されたもののようです。このあたりは日蓮宗の総本山、身延山久遠寺にほど近いことから、「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれた石碑など、日蓮宗に関連する石塔石仏群が多いように思われます。
山縣神社への参道を示す道標が立っています。山縣神社は江戸時代中期に医学、儒学を極め、尊王を説き、明和4(1767)の明和事件で幕府により処刑された山縣大弐を祀る神社です(墓所もあります)。山縣大弐は江戸時代中期の儒学者で、武田二十四将の1人、山県三郎兵衛昌景の末裔として生まれ、その教えは幕末の吉田松陰に大きく影響を与えたといわれています。山縣神社は大正8(1919)に創建された新しい神社ですが、学問や尊皇の志士として現在も多くの崇敬者が訪れるのだそうです。山縣大弐に関してはこの後訪れるJR竜王駅に銅像が建っているので、そちらを観ることにして、山縣神社への参拝はパスさせていただきました。
この日はよく晴れて、南アルプスの山々がクッキリと見えます。邪魔な建物がない更地があったので、そこでパチリ!
JR竜王駅に立ち寄ります。竜王駅には正直ビックリしました。甲斐市の中心駅で、特急「かいじ」のうち朝晩の一部列車が竜王駅始発・終着となっているものの、昼間は特急列車も停車しないローカル駅。単式ホーム11線と島式ホーム12線の計23線のホームを有するふつうの地上駅なのですが、なんとガラス張りの洗練された近代的な橋上駅舎を有しているのです。さらに、駅前のロータリーはまるで光の差し込む美術館の回廊のようになっています。実はこの竜王駅の駅舎は世界的建築家の安藤忠雄さんが設計した近代建築による駅舎なのです。旧竜王町、旧敷島町、旧双葉町が合併して誕生した甲斐市の玄関口である竜王駅の駅舎と駅前広場の設計を、安藤忠雄さんに依頼し、平成20(2008)に完成した駅舎なんだとか。駅舎の外観は山梨県特産の『水晶』をイメージしたガラスの多面体で構成されていて、面の交わる点が三角になっているのは、三町の和合を表しているのだそうです。時間の関係で橋上構造となっている駅舎の中には入れなかったのですが、全面ガラス張りになった駅舎からは南アルプスや八ヶ岳、富士山と言った山々が雄大な大パノラマで見えるのだそうです。凄い!!の一言です。
その近代的なJR竜王駅の駅前ロータリーの片隅に、山縣大弐の像が建っています。前述のように、山縣大弐は江戸時代中期の儒学者、思想家で、武田二十四将の1人で名将として知られた山県三郎兵衛昌景の末裔として、享保10(1725)にここ竜王で生まれました。甲府城に勤務した後、江戸で私塾を開き、儒学、兵学、医学などを教えていましたが、明和3(1766)に幕府が尊王論者を弾圧したのに抵抗し、翌明和4(1767)、江戸幕府に対する謀反などの罪で藤井右門、兄の山縣昌樹らとともに捕えられ処刑されました(明和事件)。山県大弐は幕府に対し最期まで大義名分を説き王政復古を唱えたとされています。倒幕思想の先駆けとなる事件で、その思想は幕末の吉田松陰をはじめとした勤王の志士達にも大きな影響を与えたとされています。
山縣大弐の像の隣に立つ、こちらはコロンとした格好が印象的な甲斐市のマスコットキャラクター「やはたいぬ」です。焦げ茶色の毛とおなかのギザギザ柄は、地元の名産の八幡芋と甲斐犬がモチーフで、頭に八幡芋の葉っぱを載せています。ちなみに、八幡芋は粘り気がことのほか強いこの地方名産の里芋のことです。度重なる川の氾濫で堆積した肥沃な土壌が産み出した名産品なんでしょうね。
頂上部分が雲に隠れていますが、竜王駅から下り方向の線路の先(西方向)には、南アルプスの山々が見えています。駅舎が邪魔でここからは見えませんが、北西には遠く八ヶ岳の姿も見えているはずです。
竜王駅から国道52号線に戻ったところにあるのが国際梵字仏協会の「梵字殿堂」と「窪田成円サロン」の建物です。梵字とはインドのサンスクリット語を表記する文字のことです。武田信玄は梵字をことのほか重要視したのだそうです。
土蔵の前に梵字で刻まれた石仏が並んでいます。土蔵の中には梵字で書かれた書が幾つも保管されているのでしょうね。
国道52号線から国際梵字仏協会の建物に沿って右折し、脇道に入ります。この脇道が旧甲州街道です。脇道ということは旧甲州街道の趣きを色濃く残しているということで、この区間はほかの区間よりも石塔石仏群が多いように感じます。甲州街道独特の丸い球体をした道祖神です。ここは竜王新町下宿道祖神場というのだそうで、丸い球体をした道祖神と白檀古樹と古井戸の3つを1箇所にまとめて保存してあります。ここに江戸時代、村人の互助的な集会協議実行の場所として地域の発展の基盤であった「寄り合い場」があったことによるものだと説明板に書かれています。
一般の民家の庭先に石碑が建っていて、「山縣斎宮宅趾」の文字が刻まれているのが確認できます。山縣斎宮は山縣大弐の兄の山縣昌樹のことで、ここが山縣昌樹の屋敷、すなわち、山縣大弐の生家だったところです。今も山縣昌樹の末裔の方がお住いのようで、中へは入れませんでした。
この道が旧甲州街道です。
一般の民家の庭に「明治天皇 龍王御小休所趾」と刻まれた石碑が建っています。説明板には、明治13(1880)に国内視察のため明治天皇は山梨・三重・京都を巡幸されました。その際、甲府出発後の最初の「御小休所」としてこの龍王村の小宮山定彰邸が選ばれた旨のことが書かれています。
浄土宗の寺院、必得山 称念寺です。慶長11(1606)に建立された寺院ですが、ここの注目は「くりぬき石枠井戸」です。説明書きによると、一枚岩で加工された石枠は珍しく、井戸とともに現存しているものはごく僅かなのだそうです。この石枠は高さ61cm192cmの正四角形で、四隅の面を削り隅丸になっており、内径は65cmです。この井戸は上水道が整備されるまで付近の集落の生活用水として利用されてきました。称念寺は信州往還(甲州街道)に面しており、ここを往来する旅人が休憩したことから、古くから「お休み井戸」とも呼ばれていました。この井戸がいつ造られたのかは分かりませんが、称念寺が慶長11(1606)に建立されているので、その頃と考えられていますとのことです。
称念寺の入口にもおそらく旧甲州街道沿いに建てられていた石塔石仏群が集められて祀られています。ウォーキングリーダーさんが指し示しているのは青面金剛で、下部に「見猿 言わ猿 聞か猿」の三猿が刻まれています。
この区間、旧甲州街道はほぼJR中央本線に沿って伸びています。第一信州往還踏切で中央本線を渡ります。写真の車両はJR東日本の最新鋭車両E353系直流特急型電車を使った上り特急「スーパーあずさ」です。速い!! そしてカッコイイ!!
踏切を渡った先に道祖神が祀られています。言われないとちょっと見落としそうです。
旧甲州街道沿いらしく、歴史を感じさせる古い民家が建っています。
ここにも道祖神が祀られています。


……(その6)に続きます。

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