2019年6月6日木曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その6)

ここから「赤坂」と呼ばれる長くて少し急な登り坂になります。この高台は赤坂台地と呼ばれる台地です。この日のコースの高低差は84メートルということでしたが、この坂、そして台地がその高低差84メートルということなのですね。このあたり一帯は火山地帯で、主に火山であった八ヶ岳あたりから流れ出した溶岩がこのような地形を生み出したと考えられます。ほぼまっすぐに延びる坂道で、昔は今のように舗装された道路ではなかったので、雨が降ると滑って大変だっただろうなぁ〜と推察されます。
赤坂供養塔です。高さ4.3メートル、幅1.12メートルと巨大な自然石を加工した石碑で、正面に「南阿弥陀仏」と刻まれています。近隣の信者が組織した念仏講中が無縁者供養のため建立したことが刻銘により明らかになっているのだそうです。このあたりの甲州街道沿いで行き倒れになった旅人(無縁仏)をまとめて供養したのかもしれません。この赤坂供養塔は安政年間(1854年〜1860)に建立されたもののようです。
今回は立ち寄りませんでしたが、この赤坂供養塔から道路を挟んで反対側を少し入ったところにある曹洞宗の寺院 慈照寺には、「竜王」の地名の由来となった井戸があるのだそうです。ちなみに、その由来とは……
その昔、釜無川の高岩(赤岩)近くの淵に悪竜が住み着いて人々を困らせていました。そこで慈照寺の初代住職が秘符(護符)を授けたところ、竜は改心して、住職の求めに応じて、慈照寺の境内に清浄な水を湧き出させました。これが甲斐市竜王の地名の由来にもなっているという「竜王水」の伝説です。

コンクリートで囲まれた祠の中に石仏が鎮座しています。
さらに赤坂を登ります。写真では分かりづらいのですが、かなり急な登り坂で、さすがに息があがります。
坂の途中に諏訪神社があります。諏訪神社は甲州街道の終点、下諏訪宿近くの諏訪大社を総本社とする神社で全国に約25,000社あります。ここもその1つですね。
諏訪大社では6年に一度、御柱と呼ばれる4本の柱を立てる御柱祭が行われることで有名ですが、全国の諏訪神社でも同様の祭が行われるようです。ただ、ここの諏訪神社では御柱は1本だけのようです。

赤坂をまだまだ登ります。
やっと平らなところに到着。振り返るとこの坂がいかに急な坂であったかが分かります。随分と登ってきました。高低差84メートルということでしたが、実際に歩いた感じはそれ以上の高低差がありそうです。かなり疲れました。
坂を登りきったところは赤坂ソフトパークという工業団地になっていて、IT関連の専門学校(サンテクノカレッジ)IT企業数社の建物があります。坂を登りきった一番手前にある会社の建物の前の木陰でしばし休憩をとらせていただいたのでパチリ!! ちなみにこの会社は主にコンピューターゲームソフトウェアの開発を行っている株式会社HAL研究所さんです。IT関連に携わった者にとって、HALと聞くとスタンリー・キューブリック監督の伝説のSF映画『2001年宇宙の旅』に登場する人工知能を備えた架空のコンピュータ「HAL9000」を連想するのは私だけでしょうか? ちなみに『2001年宇宙の旅』に登場するコンピュータ「HAL」という名称は、「IBM」のアルファベットを1字ずつ前へずらして並べたものです。
赤坂台地の上はほぼ真っ平らな土地になっています。どう考えてみても、ここは火山から噴出された流動性に富んだ大量の溶岩が積み重なってできた溶岩台地ですね。
赤坂台地の上には山梨県環境科学検査センターや山梨県発電総合制御所(クリーンエネルギーセンター)といった施設もあります。
ホント台地の上は真っ平らです。ちなみに、赤坂台地のこのあたりのすぐ右手下には中央自動車道の双葉サービスエリア(SA)があります。
遠くに見える山々は曲岳(まがりたけ:標高1,642メートル)や黒富士(標高1,635メートル)といった山々でしょうか? 方向からいうと八ヶ岳も見えそうなのですが、残念ながら雲がかかっていて確認できませんでした。
大きなラブホテル前の道路脇の草叢の中にトタン板で囲まれた中に地蔵尊や供養塔など幾つかの石塔石仏群が放置されています 。手前に小さな鳥居のようなものも立っていますが、これはさすがに祀っているとは言いがたい状況ですね。「右江戸道 左五ケ村道」と刻まれた道標も確認できます。
ここで左側に分岐する脇道に入ります。
その分岐点に小さく「甲州道中」の案内標識が立っています。
脇道を進みます。前方に見えるのは南アルプスの山々です。雄大な山々の景色を眺めながらの旧街道歩きは爽快ですね。
アヤメでしょうか。綺麗に咲き誇っています。月1回、旧街道歩きをやっていると、旧街道脇に咲く花が変わってくるので、季節の移ろいを感じます。1ヶ月前の【第12回】ではサクランボやモモの濃淡のあるピンク色が主体でしたが、あれから1ヶ月が経ち、今回はバラやアヤメで、さらに色とりどりになっています。
ここから下り坂になります。かなり急な下り坂です。坂道の両側には歴史を感じさせる白い漆喰塀や“なまこ壁”の土蔵が建ち並んでいます。なかなか風情のある光景です。
下り坂の先はT字路になっていて、旧甲州街道はここで右に曲がります。このT字路は市川郷(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)を経てと駿河国(静岡県)へ向かう駿州往還の1つ「市川駿河道」が分岐する追分で、左に曲がる道が市川駿河道です。その市川駿河道側の角に庚申供養塔と庚申塔道標が並んで立っています。
おや!、これは男女が仲睦まじく並んだ双体道祖神です。相当に古いもののようで、中の石仏も形が崩れてしまっています。双体道祖神は信州で数多く見られる道祖神で、信州長野県に近づいてきたことが分かります。
下今井の寺町と呼ばれている地域を進みます。白い漆喰壁の土塀や土蔵、長屋門が残る家々が建ち並ぶ家並みに感動します。往時の面影を色濃く残す光景は、風情があって実に素晴らしいですね。
このあたりが寺町と呼ばれているのは、この寺院があるからですね。元亀元年(1570)に開山した曹洞宗の寺院、天真山自性院です。この自性院の参道の石畳は江戸時代のままなのだそうです。
そこにこの看板が…。水戸光圀(黄門)が蹴躓いた石は真ん中の白くなった石で、確かに蹴躓きやすいように段差になっています。ちなみに、史実では水戸光圀の諸国漫遊は後年の作り話で、光圀自身は日光東照宮以外は江戸と水戸から出ていないそうなので、ここで蹴躓いたというのは眉ツバではあります。
天真山自性院の本堂です。説明書きによると、自性院は旧塩崎村山本坊沢百坊の中にあった真言宗の寺院 慈勝院が2度の水害に遭ったため現在地に移し、新たに曹洞宗の寺院として元亀元年(1570)に関刹界翁禅師が開山された寺院です。2世 一翁全刹禅師が「證道歌」の一句「本源自性天真仏」により、寺院の名称を天真山自性院と改めました。本尊は木座像御丈七寸余りで弘法大師の作と伝えられています。本堂は明和2(1765)に建てられたもので、その後何度か改修を繰り返し、現在に至っているものなのだそうです。
自性院の先代の住職はなかなかのアイデアマンだったようで、寺院の境内にはいろいろと興味深いものが置かれています。これは「みんな元気甲斐 ピンコロ地蔵尊」です。「ピンコロ」の意味は説明書きをお読みください。
こちらは日本国歌「君が代」にも出てくる「さざれ石」。落ちそうで落ちない「合格祈願の石」なのだそうです。
現代の六地蔵菩薩です。
そして、こちらは江戸時代の六地蔵菩薩です。
文久3(1863)に京都伏見の愛深寺(現在の伏見稲荷)より勧請した大森稲荷大明神です。
自性院の別名は「つつじ寺」。境内のツツジはほぼ時期を過ぎていましたが、一区画だけ花が残っていました。実に手が行き届いた綺麗な境内の庭です。
この日はこの自性院の駐車場に停車した観光バスの車内で、お昼のお弁当をいただきました。


……(その7)に続きます。

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