2018年10月31日水曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その10)

DNタワー21です。この建物は昭和8(1933)に竣工した農林中央金庫有楽町ビルと、昭和13(1938)に竣工し、終戦後の昭和20(1945)GHQに接収され、総司令部本部として使用された第一生命館をそれぞれ部分保存の上、解体・再構築し一体の建物としたものです。平成元年(1989)から平成7(1995)にかけて再開発され、ともに本社を置く第一生命保険と農林中央金庫の頭文字を取って「DNタワー21」と名付けられました。DNタワー21の西寄り部分に部分保存されているのが第一生命館です。この建物は第二次世界大戦中は陸軍により東部軍管区司令部が置かれ、屋上に高射砲陣地が設置されていました。 終戦後は前述のように占領軍に接収され、昭和27(1952)7月に返還されるまで連合国最高司令官総司令部として使用されていました。館内には連合国軍最高司令官を務めたダグラス・マッカーサー元帥の執務室がそのまま保存されているのだそうです。第一生命館の外観は西側には方柱10本が立ち並んだギリシャ風の豪壮で美しい建築で、平成16(2004)には東京都選定の歴史的建造物に指定されています。


帝国劇場です。帝国劇場は明治44(1911)に竣工した日本初の西洋式演劇劇場で、当初はルネサンス建築様式の劇場でした。大正12(1923)の関東大震災では隣接する警視庁から出た火災により外郭を残して焼け落ちたのですが、改修され、翌大正13(1924)に営業を再開しました。当時の「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句は流行語にもなり、消費時代の幕開けを象徴する言葉として定着しました。大正デモクラシーが台頭し、個人の解放や新しい時代への理想に満ちた大正ロマンの象徴のような建物でした。現在の複合ビルディング形式の建物は昭和41(1966)9月に落成したものです。この帝劇ビルの一部は落成当時から、石油業界大手の出光興産が本社として使用しており、最上階の9階は同社の創業者である出光佐三氏(百田尚樹さんの歴史小説『海賊とよばれた男』のモデルになった方です)による古美術コレクションを展示する出光美術館となっています。



馬場先門橋です。橋を渡った先に馬場先御門がありました。


「馬場先門橋」は皇居(江戸城)の内濠に架かり、丸の内二・三丁目の間から皇居正面に通じる土橋です。馬場先門は寛永6(1629)に造られました。門の名前の由来は、門内の馬場で朝鮮使節の曲馬を上覧したことから、朝鮮馬場の名が生まれ、馬場先の名が付けられました。古くは不開門(あかずのもん)とも呼ばれました。ふだんは閉め切られていたのでしょうね、きっと。橋の北側は馬場先濠、南側は日比谷濠です。日露戦争勝利の提灯行列が、この門にはばまれて大勢の死傷者が出る惨事が発生したため、明治39(1906)に枡形は撤去。堀も埋められて橋ではなくなりました。現在は石垣の一部が残っているだけです。 

馬場先御門から内濠(日比谷濠、馬場先濠)を挟んだ対岸は西の丸下と呼ばれていました。


この立派な建物は明治安田生命保険相互会社の本社にある「明治生命保険相互会社本社本館(略称:明治生命館)」です。この明治生命館は昭和5(1930)9月に起工し、昭和9(1934)3月に竣工した建物で、5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則った外観デザインに特徴があります。第二次世界大戦後は、進駐してきた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、昭和31(1956)に返還されるまで、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。なお、戦争に敗北した日本を連合国が占領するに当たり、GHQの諮問機関として東京に設置された日本占領管理機関である「対日理事会」の第1回会議はこの明治生命館の2階の会議室で行われました。平成9(1997)に、昭和の建造物として初めて国の重要文化財の指定を受けました。平成13(2001)から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現しました。現在も明治安田生命保険の本社屋として現役利用されており、1階には同社の「丸の内お客様ご相談センター」が設けられています。

馬場先門御門から先は馬場先濠です。濠の対岸の岸には樹木が整然と植えられています。


しかし、こちら側の岸はと言うと……、これは酷い!! 先日の台風25号の接近による暴風のため、濠端に植えられた柳の木が何本も根っこからなぎ倒されて折れてしまっています。これだけ何本も倒されるって、物凄い暴風が吹いたってことですね。それにしても酷い!!


馬場先門橋を北に少し進んだところに、「行幸通り」が内濠を横切るように伸びています。この行幸通りは東京駅正面から皇居外苑に通じる道路です。この道路は、工事に大正13(1924)8月から同15(1926)8月までの2年間かかり、当時のお金で数十万円かけて完成しました。内濠の埋め立ては難工事であったと伝えられています。


和田倉御門前に架かる和田倉橋が見えてきました。

和田倉御門は元和6(1620)に構築され、「蔵の御門」とも呼ばれていました。和田倉の和田とはのことです。「聞け、わだつみの声」という言葉がありますが、ワダツミ(綿津見)とは日本神話に登場する海の神のことで、転じて海・海原そのものを指す場合もあり、「ワタ」とは海の古語でした。日比谷入江に望んで蔵が建ち並んでいたことで、慶長12(1607)頃から「和田倉」と呼ばれるようになりました。この和田倉御門のあたりから延びる道三濠という運河が外濠(日本橋川)と繋がっていて、江戸湊から船で運ばれてきた船荷は道三濠の辰ノ口(現在の全国銀行協会の入っている建物のあたり)で荷揚げして、和田倉橋を渡り和田倉で集積保管していました。



和田倉橋を渡ります。和田倉橋は内濠(和田倉濠)に架かり、皇居外苑東側から丸の内一丁目の東京海上ビル前に通じる橋で、渡った先に和田倉御門がありました。明治元年(1868)に明治天皇が京都を離れて初めて東京におこしになった時(東京行幸、略して東幸)、呉服橋御門からこの和田倉御門を通って江戸城西の丸に入られました。和田倉橋は平川御門橋とともに江戸城の木橋を復元した貴重な景観の橋です。現在の橋は木橋の面影を残して復元されたコンクリ-ト橋です。


江戸時代には濠の曲がり角付近から東の方向へも濠が伸びていました。これを「道三濠」といい、今の東京駅北方のJRの線路を越えた呉服橋付近で外濠(日本橋川)に通じていました。この水路により江戸城と隅田川、さらに江戸湾(江戸湊)が結ばれていたわけです。江戸に入府した徳川家康がまず掘削させたのがこの道三濠で、築城に必要となる物資の運搬に利用されましたが、明治42(1909)に埋め立てられ、現存してはおりません。



和田倉橋を渡ったところに和田倉御門がありました。元和6(1620)に造られた立派な桝形門でしたが、明治維新後、和田倉御門の渡櫓門は石垣を残して撤去され、高麗門は半蔵門に移築され、今もその役割を担っています。


この日の『江戸城外濠内濠ウォーク』は、この和田倉御門がゴールでした。この日は18,444歩、距離にして13.6km歩きました。距離は長かったですが、実に面白かったです。



和田倉門内には、かつて陸奥国会津藩23万石 松平容保の上屋敷がありました。松平容保といえば、幕末期に京都守護職として京の都の治安維持に努めた人物です。ですが、その結果としては……。気の毒としか言いようがありません。

明治維新後、この陸奥国会津藩松平家の上屋敷跡には旧幕府軍を威圧するために軍事防衛を司る兵武省が置かれました。しかし、明治5(1872)226日、その兵武省から出火。丸の内、銀座、京橋、築地と約28万坪を消失させる「銀座大火」を引き起こしました。そこで、新政府は不燃化都市建設を目指して、我が国初の歩道と車道を区別した幅27メートルの道路と、その道路に向かい合うようにして銀座煉瓦街通りが建設されました。この「銀座大火」に関しては会津落城の怨念説が巷で囁かれたと言われています。そりゃあそうだ。現在、陸奥国会津藩松平家の上屋敷跡は和田倉噴水公園になっています。和田倉噴水公園は昭和36(1961)に当時の皇太子殿下(現在の今上天皇陛下)の御成婚を記念して噴水が作られたのが始まりで、その後、改修され、様々な噴水が美しい水の景色を演出しています。

ちなみに「銀座大火」を受けて明治政府は兵武省を組織解体して、新たに陸軍と海軍を設立します。その初代の陸軍大将(近衛都督を兼務)に就任したのがその前年の明治4(1871)に帰郷中の鹿児島から参議として新政府に復職したばかりの西郷隆盛でした。ちょうど今、NHKの大河ドラマ『西郷どん』ではそのあたりの時期のことが描かれています。

和田倉噴水公園からは桔梗濠を挟んで巽櫓、そしてその先に桔梗御門が見えます。さぁ〜次回はこの和田倉御門を出発して、いよいよ江戸城本丸に向けて江戸城(皇居)内を探訪することになります。楽しみです。



【余談】

帰りはJR東京駅から電車に乗って帰りました。鉄道マニアにとって歴史的建造物と言えば、この建物を忘れてはいけません。ご存知、東京駅丸の内駅舎です。この建物は明治・大正期を代表する建築家・辰野金吾の設計により大正3(1914)に竣工した鉄骨レンガ造りの駅舎です。関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、第二次世界大戦中の昭和20(1945)の空襲で外壁、屋根、内装等が損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。平成15(2003)に国の重要文化財に指定され、平成24(2012)に元の3階建てに復元されました。近代日本を代表する実に美しい駅舎です。



――――――――〔完結〕――――――――


2018年10月30日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その9)

祝田橋です。この祝田橋は江戸時代にはなく、明治39(1906)に日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路が造られることになり建設された橋です。一般的な橋と異なり橋の下に空間はなく、濠を分断する堤防のような構造の土橋です。日比谷濠の部分は外苑南側の石垣を崩して建設されたのだそうです。

この祝田橋が建設されたことにより日比谷濠は分断され、日比谷濠の西側は凱旋濠と呼ばれるようになりました。祝田橋という橋の名称は、皇居外苑側の旧町名である祝田町から採られました。

祝田橋交差点を渡り、日比谷公園に入ります。このあたりに長州藩の上屋敷があったということなのですが、どこにも案内表示が出ていないので、よく分かりません。


アークライト灯です。このアークライト灯も日比谷公園開設当時の公園灯で、園内には10基が設置されていました。また、園内にはこれ以外にもガス灯が70基設置されていました。先ほどの水飲み場と同じく鋳鉄製で統一されたデザインになっており、両方とも日比谷公園開設当時を偲ばせる記念として、園内に1基ずつ残されています。


面白い形をした水飲み場です。この水飲み場は明治36(1903)の日比谷公園開設当時のものです。鋳鉄製で重厚な中にも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。また、馬も水が飲めるような形に作られていて、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時が偲ばれます。


【第2回】のお茶の水の東京都水道歴史館のところで説明を受けた上水道のための石枡です。


日比谷公園内を進んでいきます。


なかなか気づかないのですが、日比谷公園には面白いものが無造作に展示されています。これは「松石」という松の木の化石です。説明書きによると、「今から35千万年前の植物が水底に運ばれ、埋没した後、珪酸(ケイ酸)質の液が染み込んだものを珪化木と言います。北九州の炭田では炭層中に珪化木が含まれ、これを松石、あるいは松炭と呼んでいます。ここにあるものは、昭和初期、福岡市外の亀山炭鉱の地下300メートルのところから長い木のまま発見されたものの一部です」とのことです。へぇ〜〜。


ここに「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」という案内看板が立っています。ここは仙台藩祖・伊達政宗から三代綱宗の時代、慶長6(1601)から寛文元年(1661)まで仙台藩外桜田上屋敷があったところです。その敷地は現在の日比谷公園内にあり、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷濠沿いの道路(甲州街道)から小音楽堂付近までの広大なものだったようです。伊達政宗は江戸参勤の折、寛永13(1636)5月、この地で70年の生涯を閉じました。



「日比谷見附跡」の碑が建っています。東京メトロ丸ノ内線と銀座線の駅名にもある赤坂見附が有名ですが、「見附」とは、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことです。言ってみれば“交番”のようなところですね。説明書きによると、この石垣は江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部なのだそうです。城の外側から順に、高麗門(こまもん)、枡形、渡櫓、番所が石垣で囲まれていましたが、石垣の一部だけがここに残っているのだそうです。



また、当時、石垣の西側は濠(ほり)となっていましたが、公園造成時にその面影を偲び「心字池(しんじいけ)」としたのだそうです。全体を上から見ると、「心」の字を崩した形をしているのだそうです。禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法の一つだそうです。


日比谷通りと晴海通りが交差する日比谷交差点です。この日比谷交差点は都心部にあり、日比谷通りと晴海通りという都内の二大幹線道路が交差するため昔から交通量が多く、昭和5(1930)に日本初の電気式信号機が設置されました。


日比谷濠です。徳川家康が豊臣秀吉の命によりこの関東の地に移封されて江戸城に入城した時には、この日比谷のあたりは、日比谷入江と呼ばれる入り江の海岸線でした。その後、神田山の切崩しや、神田川の開削、半蔵門から桜田門にかけての桜田濠の掘削等により出た土砂で日比谷の入り江が徐々に埋め立てられていき、陸地化され、そこに次々と大名屋敷が造られていきました。日比谷濠は、このように入江の埋め立てと江戸城整備に伴って慶長13(1608)頃までに出来あがったと言われています。


  

……(その10)に続きます。

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

  公開予定日 2021/04/01 [晴れ時々ちょっと横道] 第79回  風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3) ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第 78 回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢...