2018年10月26日金曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第7回:竹橋→和田倉門】(その5)


靖国神社です。靖国神社は明治以降の日本の戦争や内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人、軍属らを祀るために設置された神社です。幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6(1853)のペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数は現在約247万柱にも及びます。元来は東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)という名称だったのですが、後に現在の社名である靖國神社に改称されました。この日も大勢の方が参拝に訪れていました。


靖国通り(内堀通り)から分かれて千鳥ヶ淵沿いの遊歩道を歩きます。この靖国通りを分岐したところから千鳥ヶ淵戦没者墓苑入口交差点まで千鳥ヶ淵の濠の西岸に沿って約700メートルの「千鳥ヶ淵緑道」と呼ばれる遊歩道が整備されています。千鳥ヶ淵の向こうに先ほど渡ってきた田安橋と田安御門が見えます。


千鳥ヶ淵も“淵”という字が付いているので、ダム工事によってそこを流れていた小河川を堰き止めて造成したもの。言ってみれば、自然の力を利用して作られた池です。江戸幕府開府後の江戸城拡張の際、局沢川と呼ばれていた小河川を半蔵御門と田安御門という2つの土橋で堰き止めて造られました。北の丸の西半分を囲む濠で、谷のようになった自然の地形を利用して作った濠なので複雑な形状をしています。江戸城の内濠の中で半蔵濠とともに最も水面標高が高く、日比谷濠など最も標高の低い濠との水位差は15メートルほどもあるそうです。現在は先ほどの田安御門の橋のところで牛ヶ淵に水を落としていますが、本来の水系は乾濠~蓮池濠へと繋がっていました。千鳥ヶ淵の北部はおそらく人工的に掘削して田安門を挟んで牛ヶ淵に接する形にしたのではないか…と推察されます。


この住宅が密集してその中にオフィスビル街が混在した町並みが広がっているあたりの地名は番町。一番町や二番町、三番町という地名です。この番町という地名、全国の城下町でよく見かける地名ですが、この地名のところはたいていその藩の家臣達が暮らしていた場所でした。江戸の場合は主君が徳川将軍家なので、徳川将軍家の直参旗本の屋敷が建ち並んでいたところです。


ボート乗り場が見えてきました。千鳥ヶ淵は内濠でボート遊びができる唯一の濠でもあります。


千鳥ケ淵戦没者墓苑です。ここは第二次世界大戦の際に海外で亡くなった身元不明の日本人の遺骨が安置されている墓地で、昭和34(1959)に作られました。御遺族でしょうか、この日も墓地に参拝される方の姿があります。


北の丸のこのあたりは、明治維新以降、「天皇および宮城(皇居)の守護」という任務が課せられた陸軍の近衛師団の司令部が置かれていました。江戸幕府を倒し明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩の「薩長土」に依存する脆弱な体制でした。そのため明治4(1871)、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行しました。この御親兵は、明治5(1872)に初代近衛都督・西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城(皇居)の守護」という任務が課せられました。その後、近衛兵は近衛師団へと改称され、陸軍大臣管轄の下、平時は隷下の各中隊が輪番制で天皇や宮城の警護などに当たり、戦時には野戦師団の1つとして出征し、戦闘に参加することとなりました。その後、近衛師団は第二次世界大戦終結による大日本帝国陸軍の解散まで各戦争・事変・紛争に従軍しました。


その日本陸軍近衛師団の旧司令部庁舎が北の丸公園内のこのあたりにあります。明治43(1910)に完成した赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風の建物で、明治洋風建築としては代表的な存在となっています。関東大震災や第二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめており、国の重要文化財に指定されています。昭和52(1977)に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれかわっています。


千鳥ヶ淵の対岸に吹上大宮御所があります。この吹上大宮御所は昭和64(1989)に昭和天皇が崩御後、皇太后良子様がお住まいになられたところです。平成12(2000)に皇太后良子様が崩御なされたことで吹上大宮御所は居住者が不在となり、現在は宮内庁が建物を管理・維持を行なっています。

また平成5(1993)12月、今上天皇陛下の御在所として、それまでの赤坂御所に替わり、新しい御所がこの吹上大宮御所の先の半蔵門の近くに落成竣工して、今上天皇陛下と皇后陛下が赤坂御所からこの新しい御所へ御在所を移転したことに伴い、今上天皇陛下の御所を「新吹上御所」と称するようになっています。来年、今上天皇陛下が御退位なされ、皇太子殿下が新しい天皇に即位あそばした折には、御在所はどうなされるのでしょうね。


外濠と同じく内濠も現在は首都高速道路として使われていて、この千鳥ヶ淵の上も首都高速都心環状線が走っています。首都高速都心環状線はこの日のスタートポイントであった竹橋にある高架の竹橋ジャンクションから北の丸トンネルを抜け、ここで千鳥ヶ淵の水上に姿を現わします。そして、高架橋で千鳥ヶ淵の最も幅の広い部分を渡りきると首都高速都心環状線は再び地下に潜って半蔵門方向に向かい、この先の三宅坂交差点のあたりで再び地上に顔を出してきます。この地下の区間に首都高速4号新宿線と合流する三宅坂ジャンクションが設けられています。


原地形としての千鳥ヶ淵の谷は、もともとは江戸城の天守台を取り囲む濠の1つである乾濠方面へと続いていましたが、谷の埋め立てが行なわれ、千鳥ヶ淵と乾濠はまるで無関係であるかのように300メートルも離れて位置しています。北の丸トンネルはその埋め立て造成部分を貫通しているのだそうです。


内堀通りに出ます。内堀通りの歩道はランナーが多く、注意して歩かないといけません。


遊歩道が再び内堀通りに合流し、千鳥ヶ淵が尽きたところが竹橋からの代官町通りと直交する千鳥ヶ淵交差点です。代官町通りの築堤の向こうは半蔵濠と呼ばれる濠ですが、江戸時代にはこの築堤はなく、千鳥ヶ淵と半蔵濠は完全に繋がった1つの濠だったようです。ですから半蔵濠という濠の名称は明治後期以降に付けられた名称です。ちなみに、現在の代官町通りという名称も、江戸時代にこの通りにあたりに幕府の代官達の屋敷が数多く並んでいたからと言われています。


千鳥ヶ淵交差点から半蔵門交差点までは千代田区立の千鳥ヶ淵公園(通称「半蔵門公園」)が整備されており、公園からは皇居のお濠の一つである半蔵濠の雄大な景観が楽しめます。

英国大使館です。広大な敷地に、立派な洋風建築の建物が建っています。付近の歩道は散歩にも適するように造られており、都心の中では落ち着いた雰囲気の場所に大使館も溶け込んでいます。


千鳥ヶ淵と言えば桜の名所としてあまりにも有名ですが、この千鳥ヶ淵の桜を植えたのは実は日本人ではなかった…ってことをご存知ですか?


明治34(1898)、当時駐日英国公使を務めていたサー・アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow)はこの英国大使館前の空き地(現在の千鳥ヶ淵公園等)に数百本のソメイヨシノを植栽し、当時の東京市に寄贈しました。これが評判を呼び、さらに植栽が進み、現在のような見事な桜並木が誕生したわけです。


……(その6)に続きます。


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