2018年8月6日月曜日

甲州街道歩き【第5回:日野→高尾】(その1)


519()、最近私が趣味にしている「街道歩き」で、甲州街道を歩いてきました。今回は甲州街道歩きの5回目、日野宿から八王子宿(横山宿)を経て高尾まで、JR中央本線に沿って4つの駅間を歩きます。この区間もこれまでと同様、見どころも少なく、街道歩きで言うところの“繋ぎの区間”です。街道全行程を完歩するために、とにかく歩く、ひたすら歩く、すなわち“歩くために歩く”区間なのではありますが、それでもこれまでの経験から歩いてみるといろいろと発見があるのではないか…という微かな期待感があります。


日野駅東口の駅前に日野宿の案内図の看板が立っています。日野宿は前回【第4回】で訪れたのですが、この案内図を見ると、前回訪れた佐藤本陣跡などの様子が脳裏に蘇ってきます。小さなことですが、街道歩きを継続するにあたっては、意外と重要なことなんです。


ストレッチ体操を終え、この日の甲州街道歩きのスタートです。日野駅からはまずJR中央本線のガードを潜ります。



旧甲州街道は宝泉寺の先が諏訪方(西の入り口)で、枡形が設けられていたようなのですが、日野駅のあるJR中央本線で遮断されているので、JR中央本線をガードで潜り、いったん日野駅の西口へ出て、潜った先にあるこの細い坂道を登って行きます。


上の写真で坂道が右に緩くカーブするあたりからが旧甲州街道です。かつてはここから真っ直ぐ宝泉寺のほうに下り坂で延びていたのですが、前述のようにJR中央本線の線路が敷設されたことで遮断されてしまいました。電車の向こうに見える森が宝泉寺の森です。旧甲州街道はあの森に向かって真っすぐに下っていました。



その地点の右側に3基の庚申塚と高幡山八十八個所の道標が並んで立っています。おそらく旧甲州街道をJR中央本線が遮断する工事を行った時にここに移動し、まとめて祀られたものと考えられます。その3基の石碑の左側の建物には「日野・加組」と書かれています。日野八坂神社の例大祭用の加組の神輿が納められている倉庫のようです。


日野本町から大坂上に向かいます。正面に見える高架の道路は中央自動車道です。道路名は「大坂上通り」と標記されています。すぐに中央自動車道の高架を潜ります。


この大坂、甲州街道を江戸から来ると、最初の難所と言われたところです。約600メートルの距離で約30メートルの高さを登っていきます。とは言え、これまで中山道街道歩きで碓氷峠や笠取峠、和田峠、塩尻峠、鳥居峠などを越えてきた者としてはどうってことのない勾配の坂道です。大坂上三丁目交差点でその登り勾配も終わり、ちょっと一息付けます。このあたりは甲州街道が日野の渡しに変更された頃から新田開発が行われ耕作地となりましたが、それ以前は一面の原野で、よく夜盗が出没した物騒な場所だったのだそうです。


東京都道256号八王子国立線(旧の国道20号線で現在の甲州街道)との合流点、日野大坂上交差点です。ここで右斜めからやって来る東京都道256号八王子国立線と合流し、次の八王子宿に向かいます。道端のアジサイとサツキが綺麗に咲いています。


東京都道256号八王子国立線(現在の甲州街道)になり、道幅が広くなりました。右側に森に囲まれた広大な敷地の工場が見えてきます。ここは俳優のリリーフランキーさんと堤真一さんが出演する「トントン トントン 日野の2トン♪」のテレビCMでお馴染みの日野自動車の本社・工場です。


日野自動車は、主にトラックやバスといった大型商用車両を製造するトヨタグループ(トヨタ自動車の連結子会社)の自動車メーカーです。日本国内の大型・中型トラックの販売においては、2018年現在、44年連続でシェアトップを誇っています。また2007年には海外向けの販売台数が国内向けを上回り、現在は総販売台数の7割以上を海外向けが占めており、台湾やタイ、インドネシア、マレーシア、パキスタン、ペルー等ではトップシェアを誇っています。

日野自動車は明治時代末期から大正時代にかけ、普及期にあったガス・電気器具を生産していた東京瓦斯電気工業を母体としています。東京瓦斯電気工業は第一次世界大戦時には海外から薬莢の大量受注などにより業績を伸ばし、航空機用国産エンジン「神風」なども生産していました。1930年代、大型車両生産を強化しようとする国策により、東京瓦斯電気工業株式会社の自動車部と自動車工業株式会社、および共同国産自動車株式会社とが合併し、ヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)を設立しました。その後、戦時体制下の国策により、総合車両メーカーのヂーゼル自動車工業から特殊車両製造部門の日野製造所が分離独立させられることになり、日野自動車の元となる日野重工業が設立されました。日野重工業では主に九七式中戦車などの軍需車両の製造が行われました。

終戦後の昭和21(1946)には、戦車の製造などで培ったディーゼルエンジンの製造技術を活かして当時としては異例の超大型トレーラートラック・バスを開発、次いで1950年以降は通常シャーシの大型ディーゼルトラック・バスの生産も開始して、母体企業でもあるいすゞ自動車と競合する大型車両業界の有力メーカーとなりました。

現在、我が国の大型トラックを製造販売している国産トラックメーカーは、「いすゞ自動車」「日野自動車工業」「三菱ふそうトラック・バス」「UDトラックス」の4社。このうち三菱ふそうトラック・バスは三菱の名前を冠していますが、現在は世界最古の自動車メーカーの1つで大型トラック製造メーカーでは世界第1位の生産台数を誇るドイツのダイムラーグループ(ベンツ)の連結子会社です。UDトラックスは元々は日産自動車傘下の日産ディーゼル工業という会社だったのですが、平成19(2007)に大型トラック製造メーカーでは世界第2位の生産台数のスウェーデンのボルボ社の完全子会社になり、日産自動車との資本関係は消滅しています。日野自動車工業も平成14(2002)に大型トラックの分野では、ダイムラー、ボルボに次ぐ世界第3位の生産台数を誇るスウェーデンのスカニア社と協業提携を締結したのですが、平成23(2011)にその提携を解消しています。ちなみに、いすゞ自動車も昭和46(1971)に米国・ゼネラルモーターズ(GM)と資本提携をしたのですが、平成18(2006)に提携関係を解消しています。最近の日本のバス、特に高速バスや観光バスに使用されているバスがヨーロッパでよく見かけるバスとデザインのテイストがよく似ているように思えるのは、日本のトラック・バスメーカーがヨーロッパの大手メーカーの傘下に入ったり、協業提携をしていたりしたことに起因するもののようです。

また、現在、高速バスを含む大型バスを製造しているメーカーは、「いすゞ自動車」「日野自動車工業」「三菱ふそうトラック・バス」の3社だけです。平成22(2010)までは、日産ディーゼル工業もバスを作っていたのですが、UDトラックスになってからはバス製造を行っていません。また、大型トラックやバスは事業者の要望でいろいろとカスタマイズすることが多く、自社の車体製造部門以外にも、シャーシを自社で製造せず、上記4メーカーからシャーシを供給してもらってボディーを作って載せて最終的にトラックやバスを作るボディー製造専門のメーカー、いわゆる「コーチビルダー」と呼ばれる企業がありました。呉羽車体工業、富士重工業、西日本車体工業などがその代表的なコーチビルダーで、同じ箱型の車体のように見えても微妙な趣きの違いがあり、バスマニアにとってはどこのシャーシにどこのボディーを載せたバスなのか…とか、何年式なのか(年式によって微妙に仕様が異なるんです)…とか、事業者独自にカスタマイズした部分はどこか…などなど、一般の方ならどうでもいいじゃんと思えるようなところにオタク心をくすぐられたものでした。

しかし、自家用車の普及でバスの需要が減ったこともあり、日産ディーゼル工業だけでなく富士重工業と西日本車体工業の2社もバスの車体製造から撤退。呉羽車体工業が三菱ふそうトラック・バスのボディー製造部門であった三菱自動車バス製造と合併(現在の社名は三菱ふそうバス製造)。いすゞ自動車のボディー製造部門であったいすゞバス製造と、日野自動車のボディー製造部門であった日野車体工業が平成17(2005)に統合されてジェイ・バスとなるなど業界再編が進み、現在では三菱ふそうバス製造とジェイ・バスの2社だけになってしまい、画一化が進んでいます。

私は愛媛県松山市周辺を走る伊予鉄道バス、香川県丸亀市周辺を走っていた琴平参宮電鉄(琴参)バス…と子供の頃に住んでいた街を走るバスが日野自動車製のバスがほとんどだったので、どちらかと言えばバスでは日野自動車製のバスに親しみがあり、好きですね。生垣越しとは言え、その日野自動車の本社・工場が見られて嬉しかったです。

その日野自動車の工場の敷地内に市の史跡である「上人塚」があります。この上人塚は甲州街道の前身ともいわれる街道の建設に尽力し、その後、慶長10(1605)、日野が宿場に指定された時に日野宿の問屋兼名主となった佐藤隼人正信が、問屋兼名主に推薦された時に佐藤家の由緒を作り、その1通を幕府に、もう1通をこの上人塚に納めた…と伝えられています。

日野市は、湧き水がたくさんあり、さらに米作りのために、多摩川と浅川から引かれた農業用水路が市内を網の目のように流れ、大変水に恵まれています。その用水路の中でも日野用水は江戸時代前に開削された、一番古い用水です。日野用水は室町時代後期の永禄10(1567)に開拓されました。開削したのは佐藤隼人正信。美濃国(岐阜県)武儀(むぎ)郡八幡村の出身で、元は美濃国の戦国大名・斎藤道三に仕えていた武士でした。弘治2(1556)、斎藤道三が子の斎藤義龍に長良川の戦いで討たれたことがきっかけで、美濃国から東国を目指し、この日野の地へ移住してきたといわれています。当時の日野は小田原の後北条氏の支配を受けており、滝山城主・北条氏照は多摩地域の開発を積極的に進めていました。佐藤隼人は北条氏照から許可を得ると、罪人を使役して日野用水を開削しました。谷地川と合流させて上・下堰堀を作り、のちに実収3,000石といわれた日野本郷の基礎が作られました。

その後、佐藤隼人は、元亀元年(1570)、北条氏照の命により造られた甲州街道の前身ともいわれる街道の建設にも力を尽くしています。また、慶長10(1605)に日野が宿場に指定された時には地元の人々から推挙されて日野宿の問屋兼名主となり、明治初期までその子孫がその役を勤めました。なので、この佐藤隼人正信は、前回【第4回】の日野宿のところでご紹介した幕末期に佐藤本陣家の当主を務めていた佐藤彦五郎俊正(新選組副長の土方歳三の義兄)の先祖にあたります。


上人塚は甲州街道沿いにあり、ちょうどこの生垣の向こう側にあるということのようなのですが、日野自動車工業の敷地を取り巻く生垣があまりに密生しているので、中の様子が見えません。


昭和5(1930)からの昭和恐慌対策として日野町(現在の日野市)がとった施策が積極的な工場誘致で、昭和11(1936)~昭和18(1943)の間に日野台地上に「日野5社」と呼ばれる5つの大きな工場がこの周辺で操業を始めました。その5社とは、六桜社(現在のコニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計)、ヂーゼル自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(神鋼電機は撤退、跡地は現在都立日野台高校と市立大坂上中学校となっています)、富士電機の5社です。中でも日野自動車は約800メートルも甲州街道に面する工場敷地を有していて、その大きさには圧倒されます。


だだっ広い日野自動車の本社・工場の敷地がやっと途切れたところに江戸の日本橋を出てから10里目の「日野台一里塚跡」の説明板が立っています。説明板によると、このあたりの甲州街道の道幅は約9メートルと広く、塚の上には雑木があり、南の塚は高さが2.6メートルとかなり大きなものだったようです。実際の一里塚はこの説明板の西90メートルほどの地点にあったということですので、右側の写真の日野台バス停あたりだったのでしょうか。


「日本橋から41km」の道標を過ぎると、今度はコニカミノルタの工場があります。ここは日野5社の1社、六桜社です。六桜社はのちに小西六写真工業株式会社へと発展し、昭和62(1987)にコニカ株式会社と改称。平成15(2003)にカメラ・複写機を主力とする同業の精密機器メーカーのミノルタとの合併により、現在はコニカミノルタとなっています。同社は平成18(2006)をもってカメラ、フィルム関連事業より撤退していますが、かつては日本の写真用カメラフィルムのトップブランドの1つ「さくらカラー」を製造販売していました。なので、この工場の所在地の町名はかつてのブランド「さくらカラー」を採って「さくら町」となっています。


コニカミノルタの工場敷地も広く、甲州街道沿いに約400メートルほど生垣と植木が続きます。このコニカミノルタの工場敷地の中にはやはり「富士塚」という名所があります。「富士塚」は富士山の見える高台に築かれた富士山の形をした塚で、この塚に登れば富士山に登ったことと同じとされ、富士山に登れなかった女性や、身体の弱い人たちの信仰を集めました。日野自動車の本社・工場内の上人塚とともに、入口の守衛所で訪ねれば見学もできるそうなのですが、今回は諦め、先を急ぐことにしました。


地名が日野市日野台、さくら町から八王子市高倉町と変わりました。ここから八王子市となります。


八王子市は東京都がまだ東京府と呼ばれていた時代に東京市(現在の東京都区部)に次いで大正6(1917)に市制を施行した市です。人口は約58万人。日本の市町村の中で第24位で、東京都内の市町村で第1位、全国の政令指定都市を除くと都市では船橋市、鹿児島市、川口市に次いで全国第4位で、多摩地域最大の都市です。東京のベッドタウンであることに加え、その周辺部も含め23の大学や短大があり、約11万人の学生が学んでいる全国有数の学園都市でもあります。

八王子市は東京都の南西部、都心から約40kmのところに位置しています。地形的には多摩川及びその支流である秋川と川口川などの河岸段丘である多摩丘陵にあり、西には関東山地の一部である高尾山や陣馬山等の標高500メートルから900メートル級の山々が迫っています。

中世から近世・近代に至るまで東西を走る甲州街道と、川越・桐生・日光(日光脇往還)など関東北西部、小田原・鎌倉・横浜(浜街道)など南西部・南東部を結ぶ街道が交差する交通の要衝であり、江戸時代には、甲州街道の宿場町として栄えました。現在も、東京都心から甲府を経て塩尻へ至る国道20号線(甲州街道)と、横浜から川越方面へと向かう国道16号線(東京環状道路)、そして青梅を経て甲府へ至る国道411号線(滝山街道、青梅街道)の交点となっています。また、八王子ジャンクションにより、中央自動車道と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)との交点ともなっているほか、鉄道輸送においてはJR中央本線と横浜線・八高線の交点であり、また新宿に向かう京王電鉄の京王線と高尾線の始発駅2(京王八王子駅と高尾山口駅)があります。

八王子の繁栄は、戦国時代から安土桃山時代にかけての相模国の戦国大名・後北条氏の第3代目当主である北条氏康の三男、北条氏照が八王子市西部のJR高尾駅に近い標高445 メートルの深沢山(現在の城山)に城を築いたことに始まります。江戸時代以前に八王子の中心部は現在の八王子市街地から南西方向の多摩川河川沿いに築城された滝山城の城下町でした。この小田原を本拠地とした後北条氏の支城であった滝山城は永禄12(1569)に武田信玄の猛攻を受け、三の丸まで攻め込まれる事態となり、これを期に城主・北条氏照は防衛の拠点を要塞堅固な深沢山に新たに築城した八王子城に定め、政治、経済の中心を滝山城としました。この深沢山は華厳菩薩妙行が延喜13(913)に山頂で修行した山で、修行中に牛頭天王と8人の王子が現れたとして延喜16(916)に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられました。この城名が現在の市名をはじめ、このあたりの地名の由来となっています。

天正12(1590)、この八王子城が豊臣秀吉の小田原征伐の際に上杉景勝・前田利家ら北陸勢の猛攻を受けて落城すると、この地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康の領土となりました。徳川家康が江戸に入府すると、八王子は上記のように交通の要衝であるため、江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての重要な役割を担いました。徳川家康が武田家の遺臣を召し抱えて組織した八王子千人同心の根拠地となったのはそのためです。

そして、徳川家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開くと関東各地の直轄領(御料・天領)を支配する代官18人が駐在することとなり、この八王子には武田家旧臣の大久保長安が代官頭を勤めてこの地方の開発および甲州街道の整備にあたりました。その結果、八王子宿は甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として大いに栄えることになりました。

明治維新以降は絹織物産業・養蚕業が繁栄し、江戸時代からの宿場町を中心に街も発展し、「桑の都」や「桑都(そうと)」とも呼ばれました。特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬・秩父や山梨・長野からも荷が集まり、輸出港である横浜に運ぶための中継地としても機能していました。明治時代には南多摩郡の郡役所所在地となり、前述のように、大正6(1917)には多摩地域内で最も早く市制施行を行いました。

1960年代以降は、織物など繊維産業の衰退もあり、市の郊外には北八王子工業団地などの工業団地や多摩ニュータウンなどの大規模な住宅団地が建設されました。また、都心のキャンパスが手狭になった大学の移転が相次ぎ、学園都市と呼ばれるようになりました。市の西部にある高尾山や陣馬山などの山々は観光地やハイキングコースとして人気があります。


大和田坂を下って行きます。八王子市に入ると、甲州街道(国道20号線)は見事な銀杏並木が続きます。


八王子市高倉町に入り、甲州街道沿いには銅葺き屋根の門構え旧家や蔵のある旧家が幾つか見られるようになりました。




高倉町(たかくらまち)交差点です。最近、首都圏を中心にドンドン店舗数を拡大している喫茶店チェーンの「高倉町珈琲(たかくらまちコーヒー)」があります。「高倉町珈琲」はファミリーレストランチェーンの「すかいらーく」の創業者の一人である横川竟さんが、「すかいらーく」の社長退任後に展開した喫茶店チェーンです。パンケーキが有名で、最近、テレビ東京の『カンブリア宮殿』という番組でも取り上げられたほどの注目チェーン店です。「高倉町珈琲」の名称のとおり、その発祥の地はこの八王子市高倉町。その1号店がこの国道20号線沿いにあるはずなのですが、うっかりして見逃してしまいました。


八王子市に入ってまもなくこの高倉町交差点を過ぎたところで左手から国道20号線日野バイパスが接近してきて合流します(写真は振り返って見たところです)。ここからは旧甲州街道は国道20号線と重なるので、しばらく国道20号線を歩きます。「高尾まで8km、甲府まで93km」の道路標識が立っています。八王子までの距離表示が消え、甲府までの距離表示が加わりました。その甲府まで93km100kmを切りました。2桁のkmとなると、十分に歩いていけそうな気になってきます。この日のゴールであるJR高尾駅までは約8kmのようです。




……(その2)に続きます。




0 件のコメント:

コメントを投稿

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...