2018年8月23日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第3回:飯田橋→赤坂見附】(その4)

この特徴ある建物はホテルニューオータニです。ここは近江国彦根藩井伊家中屋敷があったところです。

ホテルニューオータニは、昭和39(1964)に東京オリンピックが開催されることが決まり、東京の宿泊地不足を懸念した政府からの依頼を受けた大相撲の力士出身の実業家である故・大谷米太郎氏が昭和38(1963)に「大谷国際観光株式会社」として創業し、東京オリンピックが開催された昭和39(1964)に開業したホテルで、今では帝国ホテル、ホテルオークラとともに、ホテルの「御三家」と称されています。ホテルニューオータニは、日本の高層ビル時代を拓いた歴史的建築物であり、ブランド品などの店舗を館内に擁したプラザ型ホテルという新しいコンセプトを日本で初めて導入したホテルとしても知られています。


また、モダンで目立つ外観のため、多くの映画やTVドラマ等で背景に使われることが多く、森村誠一さんの小説で映画化もされた『人間の証明』の重要な舞台となったことでも知られています。最上部の「回る展望台レストラン」のシルエットが物語の重要な鍵になりました (この展望台レストランの回転技術は、戦艦大和の主砲の回転技術を考案した技術者により実現されたものです)。また、1967年に公開されたイギリスのスパイ映画『007は二度死ぬ』では、悪役組織の日本の本拠「大里化学」の本社ビルとしても登場しました。また、創業者の大谷米太郎氏が力士出身だったため、大相撲関係者の結婚式などのイベントにもたびたび使用されています。



前述のように、ホテルニューオータニの敷地は彦根藩井伊家中屋敷があったところです。彦根藩井伊家中屋敷となる前は、朝鮮で虎退治をしたという伝説で知られる武将、肥後国熊本藩主・加藤清正の下屋敷が置かれていたところで、寛永9(1632)に加藤清正の息子・加藤忠広が改易になって以降、加藤家の上屋敷・中屋敷・下屋敷はすべて井伊家が譲り受けました。また、井伊家は江戸幕府にあって強大な勢力を持った家柄で、中でも大老職をつとめた井伊直弼は、安政5(1858)、日本の鎖国を解いて米国のハリスと日米修好通商条約を結び、これを恨んだ攘夷派により 桜田門外で暗殺されたことで知られています。このためホテルニューオータニの日本庭園は加藤清正の下屋敷や彦根藩井伊家の中屋敷の庭園として400年余りの歴史を有しており、江戸城外濠に囲まれた約4万平方メートルの広大な日本庭園は、東京都内にある名園の1つに数えられています。


明治維新後、この土地は伏見宮邸宅となり、松樹、楠の木に包まれた美しい庭園として知られるようになりました。第二次世界大戦後、伏見宮家がここを手放すにあたり、外国人の手に渡ろうとしたのを、ホテルニューオータニの創業者である故・大谷米太郎氏が、“この由緒ある土地を外国に売り渡すのは惜しい”として買い取って自邸とし、荒れ果てた庭を大谷米太郎氏自らが陣頭指揮を執って改修したものです。そして、前述のように昭和39(1964)、大谷米太郎氏は政府の依頼に応じて、東京オリンピックのため、この地にホテルニューオータニを建設。こうして、今や加藤清正の下屋敷や彦根藩井伊家の中屋敷の庭園として400年余りの歴史を有する日本庭園はホテルニューオータニの一部となっているわけです。それから、半世紀。ガーデンタワーや、ガーデンコートの建設により、ホテルニューオータニの日本庭園は少しずつ形を変えながらも、江戸時代から残る風情を今に伝えています。



懐石料理の老舗「なだ万」が経営する“山茶花荘”です。 これはホテルニューオータニの開業前、創業者である故・大谷米太郎氏の自宅だった建物です。 古くからあった日本家屋を名建築家の村野藤吾氏が数奇屋風の建物に改築したもので、しっとりと落着いたつくりは日本庭園にふさわしいたたずまいを見せています。


江戸城外濠と大小の木立に囲まれた園内には往古をしのぶ石灯籠が点在し、散策をする人々の目を楽しませてくれます。寛永寺灯籠、ぬれさぎ灯籠、春日灯籠、桃山灯籠、山灯籠、支那灯籠など、その数42基にのぼる灯籠群が、あるものは小道の片隅に、あるものは斜面に、そしてあるものは池のほとりに、それぞれの歴史を刻みながら佇んでいます。


寛永寺灯籠です。この灯籠は上野寛永寺より最後に放出されたものを大谷米太郎氏が購入したものです。江戸時代のもので、力強く風格があります。


ぬれさぎ灯籠です。江戸時代の形式で、大きさ並びに灯籠そのものが数少なく、たいへん貴重なものです。


春日灯籠です。鎌倉時代の形式で、6角形には十二支の動物が刻まれそれぞれの方角に向いて設置されています。第3代将軍・徳川家光の戒名である大猷院殿(たいゆういんでん)の文字が刻まれたものと、第11代将軍・徳川家斉の戒名である文恭院殿(ぶんきょういんでん)の文字が刻まれたものの2つがあります。


十三重の塔です。南北朝時代の型で、四角大層坊塔といいます。


茶室の和楽庵です。茶室の名前の由来は、人を心広く受け入れ和すること、人に楽を捧げ自らも楽しむことです。 1953年、英国エリザベス女王戴冠式に出席された当時の皇太子殿下の御帰朝祝賀茶会のため、日本橋白木屋に数寄屋師、三代目木村清兵衛が建てたものを移築したものです。


「イヌマキ」と「カヤ」の2本の木は、ともに天明年間(1780年代)からこの地に生育していたものと考えられ、江戸時代から伝わる貴重な樹木として、千代田区の天然記念物に指定されています。


大滝です。高さ6メートルの大滝は、約3トン~5トンの組石82個と玉石5トン、小滝は、2トン~5トンの石を58個と玉石3トン、 池周り1トン~4トンの石78個と100キログラム石2トンを使用した組石で、見事な風光美を醸し出しています。


赤玉石です。この赤玉石は佐渡島の金山より運ばれた高価な庭石で、赤褐色の独特色彩から赤玉石と呼ばれています。 庭園にある一番大きいものは重量22トンもあり、これは日本一の大きさと言われています。 砕くと金が出てくるというこの石は、現在は門外不出という佐渡の産です。 その他にも、庭園の所々には、群馬の三波石、ひすいの原石、龍眼石、化石石、ぶどう玉石など多くの奇石、名石も多く、四季折々表情を変える石との対話が楽しめます。



このあたりの町名は千代田区紀尾井町。紀尾井町の町名は江戸時代、このあたりが紀伊(紀州藩徳川家)、尾張(尾張藩徳川家)、井伊(彦根藩井伊家)それぞれの屋敷があった場所であることに由来します。前述のように東京ガーデンテラス紀尾井町(旧グランドプリンスホテル赤坂)は江戸時代まで紀州藩徳川家の上屋敷があったところであり、清水谷公園付近で隣の彦根藩井伊家の中屋敷(現在のホテルニューオータニ)と接していました。また、上智大学は尾張藩徳川家中屋敷でした。


清水谷公園に入ります。ここに「江戸水道の石枡と木管」が展示されています。この石枡は昭和45(1970)の麹町通りの拡幅工事の際に出土した玉川上水幹線(本管)の一部で、四谷門から江戸城内に向かう上水幹線用の石枡なのだそうです。数段重ねた石枡に木樋を繋いでいました。この巨大な石枡は上水幹線の大きさを示すとともに、当時の水道技術の高度さや都市施設の実態を偲ばせてくれます。



ここに「贈右大臣大久保公哀悼碑」と刻まれた高さ6.27メートルの大きな石碑が建っています。大久保公とは初代内務卿(実質上の首相)を務めた大久保利通のことです。大久保利通は私が説明するまでもなく元薩摩藩士で、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される明治維新の元勲。明治維新後は初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった人物です。


明治11(1878)514日午前830分頃、赤坂仮宮殿の明治天皇に謁見するため霞が関の自邸から赤坂仮皇居へ向かう内務卿・大久保利通の馬車がこの紀尾井町清水谷の紀尾井坂(現在の参議院清水谷議員宿舎前)に差し掛かった時、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一、及び島根県士族の浅井寿篤の6名から成る不平士族6名に襲われ斬殺されました。これが「紀尾井坂の変」と呼ばれる事件です。かつての盟友・西郷隆盛が西南戦争に敗れ、鹿児島の城山で自刃したのが明治10(1877)924日のこと。それから8ヶ月弱で起きた出来事でした。享年47歳でした。


暗殺犯6名の中心的存在であった島田一郎は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたのですが、西郷隆盛の唱えた征韓論に共鳴しており、明治6年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走していました。「維新の三傑」と称された3(西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允)のうち西郷隆盛と大久保利通の2人はこうして相次いで非業の死を遂げました。ちなみに、「維新の三傑」の残りの1人、木戸孝允も西郷隆盛が非業の死を遂げる4ヶ月前、大久保利通が非業の死を遂げる1年前の明治10(1877) 526日に京都の別邸で病死しています。この明治10年から11年にかけてが、明治維新がこの「維新の三傑」の死によって大きな区切りをつけた年と言えるかもしれません。

きしくも暗殺された当日の514日の早朝、大久保利通は、福島県令山吉盛典の帰県の挨拶を受けているのですが、山吉盛典が辞去しようとした時に、大久保利通は明治維新に関する自身が描く「三十年計画」について述べたのだそうです。これは、明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として戊辰戦争や士族反乱などの兵事に費やした時期、次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期とするもので、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた…と伝えられています。その第2期を見ずして、創業の時期である第1期で非業の死を遂げたわけです。

事件翌日の515日に大久保利通に対して正二位右大臣が追贈され、517日には霞が関の大久保邸において葬儀が行われました。この葬儀の参列者は1,200名近くにのぼり、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀でした。また、この「贈右大臣大久保公哀悼碑」は明治21(1888)5月に、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らによって建てられたものです。


清水谷公園です。紀州藩徳川家上屋敷と彦根藩井伊家中屋敷との境目付近はちょっとした谷になっていて、しかも、紀州藩徳川家上屋敷の敷地内から清水が沸き出ていたことから、付近は「清水谷」と呼ばれました。(現在は清水は涸れて、人工的に復元したものが公園内にあるだけです)。


明治11(1878)、前述のようにこの地で明治の元勲・大久保利通が暗殺されるという事件が起きました(紀尾井坂の変)。この事件は人々に衝撃を与え、後に暗殺の現場となった当地に大久保利通哀悼碑が建てられました。哀悼碑の建立者から当公園付近が東京市に寄贈されたのを受け、東京市は都市計画で公園として整備を行い、明治23(1890)に「清水谷公園」として開園しました。現在では大久保利通哀悼碑を中心に心字池や各種樹木があり、この界隈を行きかう人々の憩いの場となっています。かつてはデモ集会の場としても知られました。特に周辺を含め八重桜が多く植わっており、シーズンには多くの人々が訪れます。


「東京ガーデンテラス紀尾井町」です。ここは元のグランドプリンスホテル赤坂(旧称:赤坂プリンスホテル)の跡地の再開発事業により建設された複合型施設で、ホテル「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」、オフィス、商業施設からなる「紀尾井タワー」と、全室賃貸マンションの「紀尾井レジデンス」、旧李王家東京邸(旧グランドプリンスホテル赤坂旧館)を移設した「赤坂プリンスクラシックハウス」によって構成されています。この「東京ガーデンテラス紀尾井町」も、徳川御三家の1つ、紀州和歌山藩徳川家上屋敷があったところです。


赤坂見附です。赤坂見附はその名の通りかつて江戸城三十六見附(江戸城門に置かれた見張り番所)1つ、赤坂見附(赤坂御門)が置かれていた場所で、門前の富士見坂から西へ延びる大山道(現在の青山通り・国道246)へと連なる江戸城の西南の関門「赤坂口」でした。赤坂見附(赤坂御門)は寛永13(1636)、筑前国福岡藩主の黒田忠之が構築したものです。赤坂見附(赤坂御門)は地盤の軟弱な低地を避けた高台に置いたため、南の溜池と北の弁慶濠との水位差を保つための土橋の建設は難工事となり、枡形門に付属する橋は架けられていませんでした。現在は赤坂見附の地名とともに、枡形門石垣の一部が遺されています。その枡形門石垣の北側下に首都高速の赤坂トンネルが通っています。



赤坂見附の先に続く外濠が溜池です。ここはもともと水の湧く沼沢地だったところで、その地形を活かしたまま外濠に取り込んだものです。江戸時代中期から徐々に埋め立てられ、明治後期には完全に水面を失われてしまいました。現在は、細長かった溜池の長軸を貫く形で外堀通りが走っています。



この日は江戸城の外濠そのものがテーマでしたが、外濠についてホントよく分かりました。この濠がほぼすべて人工のものであったことに驚かされます。満足な重機もない時代にほぼ人力だけでこの立派な濠を作り上げ、そして維持してきたことに敬意を払わざるを得ません。江戸時代の日本の技術力はとにかくとんでもなく凄いです!!


この日はこの赤坂見附がゴールでした。この日は外濠ウォーク以外にもなんやかやも含めて17,082歩、距離にして12.7km歩きました。見慣れた東京都心部の風景もこうやって専門家の解説付きで歩いてみると、「ああ、そういうことだったのか!」…って、いろいろな発見があります。江戸は本当に面白いところで、私の好奇心を大いに刺激してくれます。次回はこの赤坂見附がスタートポイントです。今度はどんな発見があるのか、今から楽しみです。



――――――――〔完結〕――――――――

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