2018年8月21日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第3回:飯田橋→赤坂見附】(その2)

市谷御門(市谷見附)の跡です。市谷御門は寛永13(1636)に美作国津山藩主の森長継が築いたものです。森長継は本能寺の変で討ち死にしたあの織田信長の近習・森蘭丸の弟・森忠政の養子にあたります。通常の枡形門は橋を渡り高麗門に入ると左右いずれかの渡櫓門から出るように作られているのですが、この市谷御門は地形から左右に渡櫓門を設けられず、左斜めに直進して通り抜けるような作りになっていました。枡形の周りは広小路でそれを囲むように旗本屋敷が立ち並んでいて、左正面に渡櫓門を置いていました。そして、市谷見附の周辺には多くの桜が植えられ、桜の名所になっていました。市谷御門(市谷見附)は明治4(1871)に撤去されてしまいました。現在の市ヶ谷橋は昭和2(1927)に架設されたコンクリート製の橋です。



市ヶ谷橋を市谷見附交差点の方に渡って、飯田橋側にある釣り堀に面した橋台の斜面を見ると、そこには江戸時代のままの石垣が残っています。ところどころに大名家や職人による刻印が見られます。橋から見て飯田橋側の外濠を牛込濠(明治時代以降は新見附濠)、四ッ谷側の外濠を市谷濠といいます。



外堀通りを渡ります。


市谷亀岡八幡神社です。この市谷亀岡八幡神社は太田道灌が文明11(1479)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まりとされています。その際、「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称しました。当時は市谷御門の中にあったのですが、その後戦火にさらされ荒廃。江戸時代に入り寛永13年頃(1636年頃)に江戸城の外濠が出来たのを機に現在地に移転され、第3代将軍・徳川家光や桂昌院などの信仰を得て、市谷亀岡八幡宮として再興されました。江戸時代には市谷八幡宮と称しました。境内には茶屋や芝居小屋なども並び、人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったといわれています。その後明治の時代に入り、1872年に神仏分離令により別当寺であった東円寺が廃寺となり、芝居小屋などは撤退し樹木が植えられ、かつての賑わいはなくなっていきました。その後、昭和20(1945)に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失したのですが、1962年に現在の社殿が再建されました。


ちなみに、市谷亀岡八幡神社の祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊、与登比売神。茶ノ木稲荷神社は、稲荷大神です。



文化元年(1804)に建立された銅造の明神形鳥居です。高さは4.6メートル、台石の高さは55cmという立派な鳥居です。市谷亀岡八幡神社の別当寺であった東圓寺の第7世住職智光の発願により建立されたもので、柱には造立者、鋳物師らの建造銘と、寄進者442名の名前や職業が刻印されています。「八幡宮」の額は播磨国姫路藩3代藩主酒井忠道の筆によるもので、八の字は八幡神の使いとされる一対の鳩が向かい合う姿で描かれています。新宿区内で唯一の銅製の鳥居で、意匠や鋳造技術に優れており、
新宿区の有形文化財(建造物)に指定されています。


また市谷亀岡八幡神社には太田道灌が奉納したといわれる軍配団扇(ぐんばいうちわ)が所蔵されており、新宿区登録有形文化財(工芸品)に指定されています。



これは市谷亀岡八幡神社に伝わる力石です。力石は祭礼の時などに村人が力比べをし、その石を奉納したものです。市谷亀岡八幡神社の力石は合計7個が保存されています。卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者、あるいは持ち上げた者の名前が刻まれており、うち3個には奉納された年も刻まれています。年代の分かるものでは寛永6(1794)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと推定されています。当時の祭りや娯楽を知るうえで貴重な民俗資料であり、新宿区の有形民俗文化財に指定されています。


こちらは境内社(摂社)の茶ノ木稲荷神社です。この茶ノ木稲荷神社は弘法大師が開山したと伝わる古い神社です。市谷亀岡八幡神社の現在の境内地は、今を去ること1,200年以上前に弘法大師が開山した稲荷山という神社(寺院)でした。市谷亀岡八幡神社が江戸時代の初頭にこの地に遷座してくるまでは、この茶ノ木稲荷神社が約700年間に渡りこの山の本社だったのだそうです。


市ヶ谷と言えば防衛省。この市谷亀岡八幡宮の境内の裏手からも防衛省本省の建物が見えます。この防衛省本省、もとは徳川御三家の1つ尾張藩徳川家上屋敷があったところです。尾張藩徳川家上屋敷跡に防衛省本省があるのには、実は大きなわけがあります。




明治元年(1868)、新政府軍の江戸城総攻撃は、東海道、甲州街道・中山道(東山道)、北陸道の三方面から行われました。江戸に真っ先に到着した東山道軍の先鋒総督であった土佐藩士・板垣退助は、土佐藩と因州鳥取藩の兵を率いて甲府城を陥落、甲州街道を江戸に向い、314日、内藤新宿に到着し、そこに本陣を置きました。やがて全軍が続々と江戸に集結すると、この市谷の尾張藩徳川家上屋敷に布陣しました。驚くことに、徳川御三家の1つで徳川本家の親藩である尾張藩徳川家ですが、実は幕末の戊辰戦争において、この尾張藩徳川家は幕府軍ではなく、なんと新政府軍のほうに味方していたのです。いや、尾張藩徳川家だけでなく、徳川御三家と呼ばれる紀州藩、水戸藩徳川家までも新政府軍のほうに味方したのです。それは尾張藩徳川家初代藩主・徳川義直(徳川家康の9)が掲げた家訓「王命に依って催さるること」によるものです。徳川義直は勤王家で、この家訓の意味は「幕府の家臣ではなく、天皇に忠義を尽くす」ということでした。水戸藩徳川家にも「徳川将軍家と朝廷との争いが起こったら、迷わず天皇に味方せよ!」という家訓があったようで、水戸藩徳川家で形成されてきた勤皇思想は「水戸学」と呼ばれ、幕末の志士たちに大きな影響を与え、明治維新への原動力となりました。なので、幕末の戊辰戦争において、この尾張藩徳川家をはじめとする徳川御三家は幕府軍ではなく、なんと新政府軍のほうに味方していたのです。味方していたというのは言い過ぎかもしれません。すぐに恭順の姿勢を示しました。

(ちなみに、新政府軍の振り上げた拳のおろし先として矛先が向けられたのは、会津藩松平家をはじめとした旧幕府の「抗戦派」の各藩でした。特に会津藩松平家は「会津戦争」において会津の悲劇とまで言われるほど、徳川本家のために最後まで戦い続けます。)

なので、新政府軍は江戸に到着後、すぐに戦略上有利となる標高30メートルのこの市谷台にある尾張藩徳川家上屋敷を占拠して、そこから外濠を隔てた江戸城へ大砲(四斤砲という榴弾砲)の筒先を向けたわけです。そうすることで、徳川幕府方に精神的な圧力をかけ続け、同時に三田の薩摩藩邸では西郷隆盛が勝海舟と交渉したことで、414日に江戸城無血開城となったわけです。そのことがきっかけとなり、この尾張藩徳川家上屋敷は「東京鎮台砲兵営」となります。その後、新政府軍の母体は陸軍幹部となり、その教育諸機関をこの尾張藩徳川家上屋敷に置きました。以後、陸軍士官学校・中央幼年学校、陸軍大本営、陸上自衛隊市谷駐屯地を経て、防衛庁から念願の防衛省になるまで、この尾張藩徳川家上屋敷は日本陸軍の最重要拠点の1つとなりました。

あまり知られていない幕末の真実です。


JR市ヶ谷駅のほうに戻ります。ここで東京メトロ有楽町線・南北線の市ヶ谷駅に向けて階段を下っていきます。改札口も抜け、ここから地下鉄に乗るのかな…と思っていると……。



東京メトロ南北線の市ヶ谷駅構内にある「江戸歴史散歩コーナー」があります。平成元年から7年まで行われた南北線の工事にともなって、史跡江戸城外濠跡の門・土橋・石垣・土手をはじめ、港区・千代田区・新宿区・文京区にまたがる14地点の地下に埋もれている文化財の発掘調査が行われました。この東京メトロ南北線市ヶ谷駅構内にある「江戸歴史散歩コーナー」ではその文化財発掘調査の成果と江戸時代の文献・絵図・絵画などをもとにして、地下に埋もれた江戸城の遺跡を紹介しています。ちなみに、駅の構内にあるので、改札を入らないとみることができません。私はこれまで市ヶ谷駅を使うことがほとんどなかったので、この「江戸歴史散歩コーナー」の存在は今回初めて知りました。


中でも見ものなのは、再現された江戸城外濠の石垣です。九段下そばの雉子橋門跡付近で発見された石垣の石材を使って、江戸時代初期(17世紀初頭)の「打ち込みハギ」と呼ばれる石積みの技法を再現して積み上げられたものだそうです。地下道の壁面を床から天井まで埋めるほどの大きさのもので、なかなか立派なものです。地下鉄の駅の構内にあるので、石垣が天井に突き刺さっているように見え、ちょっと異空間のような感じを受けますが、あくまでもここに再現したものです。


石には、「矢穴」と言われる小さな穴がしっかりと残されています。当時石を割るには、割りやすいように石の目に沿って石切ノミで「矢穴」を堀り、これに「矢」と呼ばれる楔(くさび)と、その両側に「せりがね」と呼ばれる薄い鉄板を差し込み、「玄翁(げんのう)」で矢を叩いて割り、適当な大きさにしたのだそうです。なるほどぉ〜。


また、コンコースの壁には、小田原藩大久保家が幕府へ献上する石材の切り出しから運搬までの手順を描いた『石曳図(いしびきず)』や、徳川家康の命を受けた諸大名による駿府城築城の模様を描いた『築城図屏風』の複製が見られるほか、江戸城外濠の普請、玉川上水と外濠の関係外濠発掘時の様子などをパネル展示で紹介していて、江戸時代の高度な土木技術について学ぶことができます。


石材の切り出しから運搬までの手順を描いた『石曳図(いしびきず)』です。


駿府城築城の模様を描いた『築城図屏風』です。


玉川上水と外濠の関係を示すパネルです。


江戸の地震跡というパネルもあります。江戸時代も江戸の町は何度も大きな地震に見舞われたようです。


外濠発掘時の様子です。


幕府が諸大名に築かせた江戸城の石垣には、多くの刻印が残されていて、牛込御門や赤坂御門の石垣にも、多種多様な刻印が認められたのだそうです。こうした刻印は一般に普請(土木工事)を行った大名やその家臣、石丁場(いしちょうば:石切場)の地名、石材の運搬や不審にかかわった集団、石材の寸法などを示すといわれているのだそうで、ここにも、その石垣に残された刻印が幾つか掲示されていました。


寛永13(1636)の江戸城外濠の工事の説明や、正保2(1645)の濠浚い(ほりざらい:浚渫工事)の丁場図などの説明板が設置されており、市ヶ谷周辺の外濠がどのように築かれたが、簡潔に解説されています。


江戸城外濠が築かれた10年後の正保2(1645)に幕府の命により行われた濠浚いは主として東国6藩の大名によって行われました。赤坂見附(赤坂御門)から吉祥寺橋(現在の水道橋)までの工事範囲は8つの区域(丁場)に分けられ、各区域内は6つの藩に分割されました。ここに展示されているのは市谷土橋(市谷御門)から糀町土橋(四谷土橋、四谷御門)までの市谷濠の丁場図です。この丁場図で目立つのは真田家の文字。NHK大河ドラマ『真田丸』にも登場した真田幸村(信繁)の兄の真田信之(信濃松代藩初代藩主)のほか、実子の信重(信濃埴科藩第2代藩主)、信政(信濃松代藩第2代藩主)、さらには孫の信利(上野沼田藩第2代藩主)…と4人の名前が書かれています。信濃松代藩は初代と第2代が別々の作業区域を受け持ったほどです (ちなみに、孫の信利は上野沼田藩第2代藩主と言っても、この時はまだ10歳の子供でした)。このように真田家は濠浚いを進んで行ったようで、このことが後述する四谷濠のことを真田濠と呼ばれるようになることに結びつきます。



「江戸歴史散歩コーナー」の床には江戸時代の「江戸切絵図」のうち、現在の紀尾井町周辺の拡大図が描かれています。現在の様子もジオラマ模型で展示されています。紀州藩徳川家、彦根藩井伊家、尾張藩徳川家の江戸屋敷がどこにどのようにあったのかが身近にわかり、現在と対比して見ると面白いです。


この東京メトロ南北線の市ヶ谷駅構内にある「江戸歴史散歩コーナー」、また訪れて、ゆっくりと見学したいと思っています。皆さんも東京メトロ南北線の市ヶ谷駅を利用する際には是非一度立ち寄ってみてください。お薦めです。


……(その3)に続きます。







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