2018年8月20日月曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第3回:飯田橋→赤坂見附】(その1)


67日、某旅行会社主催の江戸城外濠内濠ウォーキングの【第3回】に参加して、飯田橋→赤坂見附を歩いてきました。この日のスタートポイントは前回のゴールだったJR飯田橋駅の東口でした。


今回も企画、そしてガイドは大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんです。とにかくこの瓜生さんの説明は分かりやすい! なるほどぉ~と思えることばかりで、江戸の謎がドンドン解き明かされていく感じがします。これまで知らなかったことがいかに多かったってことか…。

この現在飯田橋駅前のオフィスやショップの並ぶ複合施設"飯田橋セントラルプラザ(ラムラ)”がある場所は、江戸時代は外濠(飯田濠)で、「牛込揚場(あげば)」と呼ばれる河岸(かし)があったところです。江戸時代には海(江戸湊)から隅田川、神田川を経てここまで船が上って来ることができました。そして、このあたりが船荷が着く最終地点でした。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などの船荷がこの岸で荷揚げされたので、この辺は「揚場(あげば)と呼ばれました。揚場は物流の拠点だったことで、このあたりは大いに栄えました。



このあたりが船荷が着く最終地点だったということを書きましたが、実は江戸城外濠の水面の高さって濠ごとに大きく異なるのです。神田川に続くここまでの飯田濠の水面の高さは海抜0メートル。すなわちこの飯田濠までは海(江戸湊)から隅田川、神田川を経てここまで船が上って来ることができました。飯田濠は牛込土橋でいったん堰き止められ、その先の牛込濠の水面の高さは海抜約3メートル。なので、同じ水運でもこの牛込揚場で積荷を載せ換える必要があったわけです。江戸城外濠は牛込濠の先に市谷土橋で堰き止められ、その先の市谷濠の水面の高さは海抜約10メートル、市谷濠の先には四谷土橋があって堰き止められ、その先、喰違土橋までの四谷濠(真田濠)の水面の高さは海抜約20メートル弱。同じ江戸城外濠と言っても水面の高さの異なる幾つかの独立した濠の集合体でできあがっているということです。


江戸はもともと江戸湾(東京湾)の北西奥にある日比谷入江に武蔵野台地の東端である本丸台地(江戸城)が突き出た構造の土地であったということが、この外濠の水面の高さの違いからも窺えます。この日の『江戸城外濠ウォーク』のメインテーマはまさにその「外濠」そのもの。ここ飯田濠をスタートして、牛込濠、市谷濠、四谷濠(真田濠)という水面の高さが異なる4つの外濠の縁を巡って、赤坂見附まで歩きます。

江戸城(現・皇居)を囲う外濠は、後北条氏を滅亡させた報奨として豊臣秀吉から関東へ国替えをさせられた徳川家康が本格工事に着手し、第3代将軍徳川家光の時代に完成した江戸城防御のための濠です。延長で約14km。本丸の北にあった雉子橋門から時計回りに数え、浅草門までを合計すると、18の城門(御門)36の外郭門(見附)があり、城下の武家屋敷から町地を取り巻いて防御することから「惣構(そうがまえ)」とも呼ばれました。


前述のように、ここはかつてはその江戸城外濠の1つ「飯田濠」だったところです。昭和47(1972)に東京都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったのですが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルの“せせらぎ”を造りました。現在は牛込揚場の碑が残されているのみです。ちなみに、この先にある牛込濠の水は、この“せせらぎ”の地下に作られた地下水路を通って、昔のとおり下流の神田川に注いでいます。


武蔵野台地の東端に位置する東京都内にはかなりの数の坂道があるのですが、その数ある坂道の中でも最もメジャーな坂道の1つが神楽坂ではないでしょうか。この坂道はその神楽坂のすぐ東隣にある軽子坂(かるこざか)です。神楽坂が“商業の坂”なら、軽子坂は“運輸の坂”として発展してきました。「軽子坂」という坂の名称は新編江戸志や新撰東京名所図会などにも見られ、古くからの名称です。“軽子”とは軽籠持(縄で編んだ“もっこ”)の略称です。先ほどの飯田濠あたりにはかつて船着場があり、船荷を軽籠(もっこ)に入れ、江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられたのだそうです。ちなみに、“もっこ”とは、網状に編んだ縄または藁蓆(わらむしろ)4隅に吊り綱を2本つけたものです。吊り綱が作る2つの環に“もっこ棒”を通し、前後2人で“もっこ棒”を担ぎ、運搬に使っていました。主に、農作業などで土や砂を運搬することに使用されました。


神楽坂です。神楽坂は早稲田通りにおけるこの外堀通り交差点から大久保通り交差点まで登る坂のことです。このため、大久保通りとの交差点の名称が「神楽坂上」、外堀通りとの交差点の名称が「神楽坂下」となります。「神楽坂」の名称の由来については、天保7年に記された「江戸名所図会 巻之四」によれば、この坂の右側に高田穴八幡の旅所があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したから…とも、「若宮八幡の社」の神楽の音がこの坂まで聞こえたから…ともいわれています。 また、「改撰江戸志」 には、津久戸明神が元和の頃に牛込の地に移転した時、神輿が重くてこの坂を上ることができなかったが、神楽を奏すると、容易に上ることが出来たため、この時より「神楽坂」の名が付いたとの記載も残っています。


神楽坂周辺は、大正時代に隆盛を誇った花街で、飯田橋駅を背にした坂の右手に残る花街特有の路地は、日本でもここにしかないといわれています。また関東大震災以後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、夜店が建ち並んで「山の手銀座」と言われるほど隆盛しました。この時期の神楽坂の様子は林芙美子や、矢田津世子の小説にも登場します。坂沿いには商店街が建ち並び、瀬戸物屋や和菓子屋など和を思わせるお店が中心だったと言われています。田山花袋は「電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神楽坂の通りへと出かけて行った」と記していて、関東大震災の復興が進むにつれて都市交通網の整備されたことによって、繁華街の中心は神楽坂から銀座や日本橋に戻っていきました。


表通りから一歩入ると静かな路地があり、住宅街のなかにレストランや料亭などが今でも数多く見られます。かつては江戸時代に蜀山人、明治期に尾崎紅葉・泉鏡花などが住み、尾崎紅葉旧居跡は新宿区指定史跡、泉鏡花の旧居跡は新宿区登録史跡になっています。また、坂の周辺には毘沙門天善国寺をはじめ、若宮八幡や赤城神社など多くの寺社が散在しています。


牛込橋を渡りJR飯田橋駅神楽坂口に出ます。この牛込橋は「御府内備考」という書物によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部を成す橋で、江戸六口の1つ、「牛込口」とも呼ばれた上州道に通じる重要な交通路でした(江戸六口とは中山道、奥州街道、東海道、大山道、甲州街道、上州道の6つの街道の起点のこと)。また、現在の外濠にあたる一帯は濠が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番長方」(千代田区側)と「牛込方」(新宿区側)と呼ばれて、たくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。江戸城の外郭門は、敵の侵入を発見し、防ぐために「見附」と呼ばれ、2つの門を直角に配置した「枡形門」という形式を取っています。


江戸城の建設工事は、徳川家康が江戸に入府した天正18(1590)以降、太田道灌が作った小さな城を拡張する形で何次にも分けて進められました。慶長8(1603)に江戸幕府が開かれてからは、全国の大名を動員した天下普請といわれる一大土木事業になりました。寛永13(1636)には第3代将軍徳川家光の命で113家の大名が牛込から市ヶ谷、四谷、溜池におよぶ堅固な深い濠を築き上げました。この牛込見附(牛込御門)や牛込橋もその時に建造されたものです。


この牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)に阿波徳島藩主・蜂須賀忠英(松平阿波守)によって石垣が建設されました。蜂須賀忠英は豊臣秀吉が最も頼りとした腹心の1人、蜂須賀小六の孫にあたります。牛込見附の石垣の大半は、明治35(1902)に撤去されてしまいましたが、その解体中に発見された安山岩製の角石の一部が、早稲田通り沿いのJR飯田橋駅側にある石垣前の交番脇に残されて保存されています。その角石には「松平阿波守」という阿波徳島藩主・蜂須賀忠英を示す文字が刻まれています。


現在、橋のたもとには「史跡・江戸城外堀跡・牛込見附(牛込御門)跡」の碑と説明板が建てられています。説明板には明治初期のまだ壊される前の御門の写真や、江戸時代の牛込見附(牛込御門)の建造物や外濠の位置や大きさが現代の地図と重ね合わせて描かれた復原図が載せられており、往時の姿を偲ぶことができます。それを見ると、高い石垣に幅の広い水堀。櫓(やぐら)が建ち、それでいて橋は狭く小さい。いまにも橋をあげるか壊すかして、籠城に入りそうな雰囲気すら漂ってきます。江戸の「惣構」は、豊臣氏が築いた大坂城(とそれを攻めた経験)を参考に、堀割がなされたともいわれています。この牛込見附(牛込御門)、巨大な石が巧みに組み合わされているさまは、見事としか言いようがありません。



江戸時代の牛込見附は前述のように田安門を起点とする「上州道」の出口といった交通の拠点であり、また周辺には楓(カエデ)が植えられ、秋の紅葉時にはとても見事であったと言われています。その後、明治35年に石垣の大部分は撤去されましたが、現在でも道路(早稲田通り)を挟んだ両側の石垣や、橋台の石垣が残されています。この牛込見附は江戸城外濠跡の幾つかの見附の中でも、最もよく当時の面影を残していると言われています。



最初の牛込橋は、前述のように寛永13(1636)に外濠が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。現在の橋は、平成8(1996)3月に完成したもので、長さ46メートル、幅15メートルの鋼橋です。

この牛込御門、牛込橋の下に牛込土橋と呼ばれる堰があり、その堰(牛込堰)で飯田濠と牛込濠が分断されていました。前述のように、水面の高さが海面と同じ飯田濠に対して、その先の牛込濠の水面の高さは海抜約3メートル。その間を堰き止める牛込土橋では一部で水が牛込濠から飯田濠に向けて滝のように流れ落ちる落し口(小さな滝)が設けられていて、その流れ落ちる音から「どんどん」と呼ばれていました。神田川を遡る荷船はこの「どんどん」と呼ばれる牛込御門下の堰より手前に停泊し、右岸の揚場町へ荷揚げしていました。

ちなみに、牛込は江戸時代、大名や旗本の住む武家屋敷が集中して建ち並んでいた地域で、伝統ある“山の手”の住宅街の1つです。一方で町屋も少なからず形成され、古くからこの地に住む住民が多くコミュニティ活動が活発なことも当地の特色となっています。狭い路地はほぼ江戸時代のままであり、また住居表示に伴う地名の改廃が他地域にくらべて極めて少なく、赤城下町(あかぎしたまち)、揚場町、市谷鷹匠町(いちがやたかじょうまち)といった「丁目」の設定のない単独町名が多いのが特徴で、その町名などからも江戸の雰囲気を色濃く感じ取ることができるところです。近代以降も夏目漱石(父祖の代からこの地の生まれである)や尾崎紅葉をはじめとする作家・文化人が数多く住んだところです。また、“牛込”という地名のとおり、“牛込”の歴史は少なからず牛に縁があるようです。大宝元年(701)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧(ぎゅうまき)」という牧場が設けられ、「乳牛院」という飼育舎がこの地に建てられたという記録が残されています。古代の馬牧が今日東京都内に「駒込」や「馬込」の地名で残されているところから、「牛込」がこの牛牧に比定されています。明治5(1872)頃から東京各地に、ホットミルクを一杯頼めば新聞が閲覧できるという「新聞縦覧所」ができはじめると、にわかに牛乳の需要が増え、その名に違わず牛込区内でも神楽坂、若松町、市谷等において牛畜が広く営まれ、渋谷・代々木辺の畜農家と良き競争関係にあったのだそうです。


石垣の背後には市ヶ谷方面に向かって外濠沿いに土手が続き、千代田区立外濠公園となっています。この土手も、天下普請の際に築かれたものです。外から城内の人間の動きが見えないようにするためのもので、高いところでは数メートルにもなりました。また江戸時代には、防火帯の役割も果たしていました。


この牛込濠の特徴は濠を挟んだ対岸との標高差が大きいこと。おそらくこのあたりは武蔵野台地の斜面を開削して外濠を作ったのではないでしょうか。こちら側(江戸城側)は土手も高く築かれ、下をJR中央線と総武線の線路が通っています。この高低差から江戸城は攻めるに手強く、守るに容易い難攻不落の要塞となっていたようです。また、この高低差があることから、このあたりの外濠(牛込濠)は幅が他の場所よりも幾分狭いという特徴があります。


前述のように、牛込見附(牛込御門)の周辺にはかつて楓の樹が植えられ、秋には眺めが非常に美しかったため、別称を「楓の御門」とか「紅葉門」と呼ばれました。それに対して市ヶ谷御門(市ヶ谷見附)は、あたりに桜が多かったために「桜の御門」と呼称されていました。外濠公園となった今も、外濠沿いの土手には春になるとたくさんの桜が咲き誇り、その下では大勢のサラリーマンや学生たちが花見に興じるのだそうです。


途中、牛込橋から法政大学前にある新見附橋までの間を牛込濠、新見附橋から市ヶ谷橋の間を新見附濠といいます。新見附橋が作られたのは明治以降で、江戸時代にはありませんでした。ちなみに、新見附濠の市ヶ谷寄りはずれあたりに、市ヶ谷御門橋台の石垣石の一部が置かれているのだそうです。それらが使われていた橋の本体は、外濠公園を出た先、JR市ヶ谷駅の手前に架かっています。



……(その2)に続きます。



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