2018年8月8日水曜日

甲州街道歩き【第5回:日野→高尾】(その3)

昼食を終え、甲州街道歩きの再開です。横山町交差点を横切ります。


オッ、横山町交差点の傍に「内外青果 バナナ 恒川商店」と書かれた看板の古い青果店があります。バナナが珍しい果物だった昭和の時代の香りがプンプンと漂ってきますね。


この八王子横山町郵便局前交差点の左角が「川口脇本陣跡」です。


その八王子横山町郵便局の横に「野猿街道」という道路標識が立っています。この「野猿(やえん)街道」とは八王子市の中心部と多摩市とを結ぶ街道のことで、現在の東京都道160号下柚木八王子線に相当します。野猿街道の八王子市側の起点は甲州街道沿いのこの八王子横山町郵便局前交差点で、JR中央本線の線路を南へ越えて八王子駅南口を経て東へ辿ります。北野から南東へと丘を登り、野猿峠を越えて柚木へ至り、さらに東進して京王電鉄相模原線の京王堀之内駅のすぐ傍を通り、次に北東に向きを変えて京王線聖蹟桜ヶ丘駅と百草園駅の間にある多摩市一ノ宮へ至ります。現在では八王子市街と多摩ニュータウン方面を繋ぐルートとして交通量の非常に多い道路になっていますが、かつての野猿峠はかなり険しい山道であったのだそうです。

甲州街道はこの横山宿、八日市宿、八幡宿…と町並みが長く連なり追分町に達していました。八日町一丁目バス停です。このあたりから八王子十五宿の1つ、八日市宿ってことですね。


ユーミンこと松任谷由実さんのご実家、大正元年(1912)創業の『荒井呉服店』です。この『荒井呉服店』は今年1月に起こった「はれのひ騒動」ですぐに助け舟を出したことでも有名になりました。ユーミンが八王子のかなり大きな呉服店の娘であることは知ってはいましたが、実際に見たのは初めてでした。ここであのユーミンサウンドが生まれたのですね。


荒井呉服店の隣のビュータワー八王子という高層マンションの前に八日市宿跡と刻まれた石碑が建てられています。前述のように、八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣が置かれ、山上家や新野家が本陣や脇本陣役を勤めるなど、八王子の中心的な役割を担っていました。また、四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で市が立ち多くの人々で賑わいました。


この国道16号線が交差する八幡町交差点の手前右側が「山上脇本陣」、左側が「新野本陣」があったところですが、現在、説明板等は一切設置されていません。



この八幡町交差点で北に分岐する現在の国道16号線が、かつて八王子千人同心が日光勤番のために整備した日光脇往還(通称:日光千人同心街道)です。この日光脇往還は起点はこの先の追分町交差点にあった追分でしたが、ここで甲州街道から分岐して北に進み、浅川橋で浅川を渡り、現在の国道16号線や首都圏中央連絡自動車道(圏央道)等に沿って東京都心からおおむね半径40km60kmの位置をグルっと環状に結び、吹上(間の宿)で中山道と交差し、佐野(天明宿)で日光例幣使道と合流し、さらに楡木で壬生道、今市で日光街道本道と合流、その後日光東照宮へ向かう街道でした。日光東照宮まで約40(160km)、日光脇往還(日光千人同心街道)単独としては八王子から佐野までの約90kmの区間が該当し、途中に拝島、根ヶ崎、二本木、扇町屋、根岸、高萩、坂戸、高坂、松山、吹上、忍、新郷、川俣、館林、天明(佐野)15の宿場が設けられました。

本郷横丁バス停です。このあたりが八王子十五宿の1つ、本郷宿のあったあたりなのでしょうね。ここまで新町、横山宿、八日市宿、八幡宿、本郷宿…と歩いてきましたが、八王子十五宿の残りの10宿、本宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、上野宿、横町、寺町、久保宿、嶋坊宿は甲州街道から1歩入ったところに位置していました。このように八王子宿は甲州街道筋で最大のと言われるくらいの規模の宿場でした。


本郷横丁交差点の右角にある、蔵を利用した雑貨屋・加島屋さんです。


本郷横丁交差点では東京都道32号八王子五日市線と交差します。この東京都道32号八王子五日市線は東京都道31号青梅あきる野線とともに通称「秋川街道」と呼ばれています。秋川街道は古くは「八王子道」とも呼ばれ、現在も八王子市と青梅市・五日市町とを結ぶ重要な生活道路としての役割を果たしています。五日市は、江戸時代から木炭などの市場として賑わいを見せていました。そして、当時の五日市が経済的な取引で深い関係を持ったのは、江戸と並んでこの八王子でした。また、五日市の住民の一般生活における経済圏も、その後に発展した立川や福生ではなく八王子に属していました。そのため、当時からこの秋川街道(八王子道)は人の往来が途絶えない街道だったと言われています。


こちらは創業125年の「なかの屋」蒟蒻店です。自家工場で蒟蒻(こんにゃく)を作り続け、その味と手作りの文化を現代に残しています。蒟蒻のほか、寒天の製造・販売も行っていて、ところてん、あんみつ、味噌こんにゃくなどは店内で食べられるのだそうです。旧宿場町らしく近代的な中にも風情が感じられる街並みです。


追分町交差点です。ここで甲州街道は陣場街道(案下道)と分岐します。陣場街道とは案下川、案下峠を経由して相模国の津久井郡佐野川に至る古道です。案下峠を通ることから案下道(あんげみち)とも呼ばれ、また、甲州街道の裏街道であったことから甲州裏街道または甲州脇街道とも呼ばれました。この追分町交差点で真っ直ぐ行くのが“陣馬街道”、斜め左に行くのが“甲州街道”です。


甲州街道から一旦はずれてちょっと陣馬街道のほうに入ると、すぐに「八王子千人同心屋敷跡記念碑」が立っています。


八王子と言えば「八王子千人同心」です。日野宿のところでも書きましたが、八王子千人同心は、江戸幕府の職制のひとつで、武蔵国多摩郡八王子(現・東京都八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団のことです。徳川家康の江戸入府に伴い、1600(慶長5)に発足。甲斐武田家滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、後北条氏の遺臣や近在の地侍・豪農などで組織され、甲州街道の宿場である八王子を拠点として八王子宿周辺の農村に住まわせ、甲州街道方面から江戸への侵攻、すなわち甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持を主な任務としました。しかしながら、甲斐が天領(幕府直轄領)に編入され、太平の世が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となりました。



八王子千人同心は、小人頭を起源とする10名の千人頭(せんにんがしら)に率いられた同心約1,000名から組織されていました。前述のように八王子千人同心の役割は、前述のように甲州街道の甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持だったのですが、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。

八王子千人同心は平素は農業を営み、平時は農民の姿をしていましたが、武士として日光勤番等にあたる時には、直参御家人の戦時装束である陣笠・手甲・脚絆・帯刀し長柄を持った姿をしていたそうです。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で新編武蔵風土記稿の執筆に携わった人々、天然理心流の剣士などを多数輩出しました。天然理心流と言えば新撰組局長の近藤勇。天然理心流は家元の近藤家が千人同心だったこともあり、八王子千人同心の中には習う者も多くいたようです。また、千人同心の配置された多摩郡はとかく徳川幕府の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は同心だけでなく農民層に至るまで徳川恩顧の精神が強かったとされていて、幕末期、八王子千人同心の中から新撰組に参加するものが何人も現れることになります。

また、八王子千人同心は蝦夷地の開拓事業にも駆り出されました。18世紀も後半になると、江戸幕府はロシアの進出による防衛強化の必要から蝦夷地の一部を直接支配しました。こうした動向に呼応して、千人頭の原半左衛門胤敦(たねあつ)は蝦夷地の開拓と警備を幕府に願い出ます。寛政12(1800)、幕府の許可を得て、胤敦は弟の新介とともに、千人同心の子弟100名を率いて北海道に渡りました。胤敦は白糠(しらぬか:現在の白糠町)、新介は勇払(ゆうふつ:現在の苫小牧市)にそれぞれ向かいますが、現地の気候の厳しさは彼らの想像を超えるものでした。開拓による収穫は乏しく、病人や死者が続出し、4年後の文化元年(1804)、開拓事業を終了し帰国せざるを得ませんでしたが、こうした胤敦らの事業が所縁となって、昭和48(1973)、八王子市と北海道苫小牧市は姉妹都市となっています。



甲州街道と陣馬街道、その2つの街道に挟まれた追分交番前の三角点に道標が建っています。この道標は文化8(1811)に江戸の清八という足袋職人が、高野山に銅製の五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州街道の内藤新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の3ヶ所に立てた道標の1つです。その後、昭和20(1945)82日の八王子空襲で4つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。現在の道標は最近になって復元されたものですが、2段目と4段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものなのだそうです。

幕末になると、国内外の政情不安を背景に、幕府は軍制改革を行い、千人同心も西洋式軍隊への近代化が図られました。慶応2(1866)には名称も「千人隊」と改称され、長州出兵、横浜の警備、将軍が京都へ行く際の御供などに動員されました。慶応3(1867)、第15代将軍・徳川慶喜の大政奉還により、幕府は政権を返上、明治維新を迎えると、新政府軍は旧幕府勢力の討伐のために、関東へと軍を進めます。慶応4(1868)3月、土佐藩の板垣退助の率いる新政府軍の軍隊が甲州街道を通って八王子にやってきました。千人隊は礼装で官軍を迎え、徳川家への寛大な処置をしたためた嘆願書を提出するとともに、すべての武器を差し出して新政府軍に恭順しました。慶応4(1868)6月、新政府から去就を迫られ、徳川家に従い静岡に移住する者、新政府に仕える者が何人か出ましたが、多くの隊士が武士身分を捨てて農民となりました。こうして千人隊は解体され、八王子千人同心は終わりを迎えました。



甲州街道に入ると、高尾駅前交差点までイチョウ(銀杏並木)が続きます。これは多摩御陵造営記念に植えられたもので800本弱のイチョウが道の両側に並んでいます。


『萌え寺』として有名な日蓮宗の寺院、松栄山 了法寺です。延徳元年(1489)に開山されたそれなりに歴史のある寺院なのですが、ここを一躍有名にしたのが入口に設置された美少女の イラスト看板。このイラストが話題となり、テレビ番組などでも取り上げられたことから『萌え寺』と呼ばれるようになりました。誰でも気軽に入れる雰囲気の寺院にしたいという住職の熱い思いを檀家の広告企画会社の社長が聞き、声優でイラストレーターの「とろ美さん」を起用。弁財天をモチーフにした「とろ弁天」など、とろ美さんのイラストによる案内看板や携帯サイトを次々と製作したところ、若い男性の参拝客が急増しているのだそうです。


「千人町」交差点です。このあたりにあった八王子千人同心が多く住んだ居住区域は、今も「千人町」という町名が残っています。


西八王子駅西交差点のところに「馬場横丁」の石碑が立っています。この近くの宗格院という寺院の北側に千人同心の馬場があったことから、地元ではここから宗格院までの通りを「馬場横丁」と呼んでいたのだそうです。


「八王子桑志高校入口」とあります。八王子桑志高校の“桑志”がいかにも絹織物産業・養蚕業で繁栄し、「桑の都」や「桑都(そうと)」と呼ばれた八王子らしい高校の名称だな…と思って調べてみると、平成19(2007)に開校した新しいタイプの都立高等学校のようです。日本で初めて「産業科」を設置し、デザインとコンピュータに特色のある教育を行っているのだそうです。


次の長房団地入口交差点のところで「右折:高尾街道」の道路標識が出ています。高尾街道は現在の東京都道46号八王子あきる野線のことで、JR高尾駅に近い八王子市東浅川町にある町田街道入口交差点を起点として楢原町を経由してあきる野市に至る道路なのですが、長房団地入口交差点から右折する道路はその短絡路のようです。もちろん甲州街道は真っ直ぐ進みます。




……(その4)に続きます。

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