2021年6月17日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その3)

 公開日2021/08/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第83回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その3

 

【9.伊予武田氏の終焉】

 

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(その1)で述べたように、天正10311日、織田信長・徳川家康連合軍の怒涛の侵攻を受けた武田勝頼・信勝父子は笹子峠の手前の甲斐国都留郡の田野において滝川一益率いる織田軍に追われて自刃。ここに「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡しました。甲斐武田氏宗家を滅亡させた織田信長ですが、いまだ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国征伐の出兵準備のため安土城から京に上洛し本能寺に逗留していたところ、明智光秀の謀反に遭って燃え盛る炎の中で自害して果てました。享年49歳でした。これが甲斐武田氏宗家滅亡から3ヶ月も経っていない62日のことです。

 この時期、河野氏でも大きな動きがありました。当時の河野氏は毛利氏と深い同盟関係・姻戚関係を構築していたのですが、前述の鳥坂峠の戦いの最中に急死した村上道康の家督を継いだ来島村上氏当主の村上(来島)通総が、天正10(1582)、中国攻めをしていた織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返るという事態が発生しました。この村上(来島)通総の謀反は織田信長が本能寺で自刃し、羽柴秀吉が主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍をもって取って返すため毛利氏と和睦したことで、毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われて一時は羽柴秀吉の元に身を寄せていた村上(来島)通総も旧領の来島城に復帰し、めでたく収まったかのように見えたのですが……

 128日、理由は定かではありませんが、その村上(来島)通総が伊予武田氏の居城である龍門山城を奇襲しました。村上(来島)通総の軍勢450騎が夜陰に乗じて龍門山城へ攻め登り、城に火を放ちました。完全に不意をつかれた城主武田信勝は「敵は誰か、名を名乗れ」と叫びながら奮闘するも多勢に無勢。龍門山城は落城し、武田信勝は深手を負いながらも城を出て落ち延びを図るも、鮎返の滝(あいがりのたき:現在の朝倉ダム付近)にて討ち死にしたと伝えられています。これで武門としての伊予武田氏宗家は応仁の乱のグダグダの中で伊予国朝倉郷に移り住んできてから約110年で終焉を迎えます。

 

【10.伊予武田氏のその後】

討ち死にした武田信勝には5人の男子がいて、次男の清若丸は幼くして亡くなったものの、この時、4人が龍門山城で暮らしていました。この4人のうち三男の彦三郎信則(のぶのり:彦ハ郎信行とも。幼名不明)は落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にしたものの、長男の真三郎信吉(幼名:富若丸)、四男の政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)、五男の源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)は落ち延びることに成功します。

 

伊予武田氏の菩提寺であると同時に我が家の菩提寺でもある龍門山無量寺(今治市朝倉 水之上)です。


このうち長男の武田真三郎信吉
(幼名:富若丸。当時16)は伊予武田氏の菩提寺である朝倉 水之上の無量寺が匿って隠棲。10年間養育の後、当時の伊予国今治領113千余石の領主であった福島正則に召し出され、福島正則の推挙で水之上郷の代官(大庄屋役)を勤めました。ちなみに、大庄屋役は通常の庄屋・名主と異なり、数か村から10数か村の範囲を管轄する役職で、身分としては農民ではあるものの、一般農民よりは一段高い階層に属し、3人扶持、長く在籍すると5人扶持が与えられ、格式も武士並みに苗字帯刀が許されていたのだそうです。その屋敷に門を構えたり、母屋に式台を設けることもでき、着衣や履物にも特例が許されていました。江戸時代に入ってからも彼の子孫が代々大庄屋職を継いだのですが、明治の時代に入ってこの直系の家系(嫡系)は途切れているとのことです。ちなみに、水之上一帯は江戸時代には幕府直轄の天領であり、そのため、水之上郷の大庄屋役の家は「天領」という屋号で呼ばれていました。


この龍門保育園のあるところに、越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の屋敷がありました。その『天領』家の初代が、伊予武田氏第7代・武田信勝の長男の武田真三郎信吉です。

越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の庭園は景観優美なところで、江戸時代、今治藩主もたびたび訪れたのだそうです。現在は龍門保育園の園庭の中にあり、見ることができません。

現在、武田信勝が討ち死にした鮎帰(あいがり)の滝近くに建てられている武田信勝の墓碑は、宝暦年間(1750)に水之上大庄屋らによって建てられたものです(この墓碑はもともとは朝倉ダムのところにあったのですが、朝倉ダムを建設する際に現在のところに移設されたのだそうです)。この武田真三郎信吉から始まる「天領」の屋号で呼ばれる水之上郷の代官(大庄屋)の家系を含め伊予武田氏代々の墓所は無量寺の境内にあり、広大だった屋敷の跡の一部は無量寺が運営する龍門保育園になっており、園庭を少し上がった高台の上に神を祀る小さな社殿が残されています。また、木陰に見え隠れする屋敷内の滝は「木がくれの滝」と呼ばれる景観優美な滝で、江戸時代、今治藩主が度々訪れ、「里山の山滝」と誉め讃えたと伝わっています。


朝倉ダムの近くにある伊予武田氏宗家最後の当主第7代・武田信勝の墓です。もともとは武田信勝が討ち死にした鮎帰の滝近くに建てられていたのですが、朝倉ダム建築時にこの地に移されました。墓碑は、宝暦年間(1750年頃)に水之上大庄屋ら伊予武田氏の子孫によって建てられたものです。


武田信勝の墓碑には討ち死にした「天正十歳()十二月八日」の日付が刻まれています。


ちなみに、この無量寺は我が家の菩提寺でもあります。無量寺の正式名称は龍門山無量寺。この寺は第
37代の斉明天皇(在位:655年〜661)が朝倉の地に僥倖なさった時にお伴の僧侶として随伴した無量上人により、現在のところよりもう少し奥に入った(龍門山城にほど近い)浅地の車無寺 (くるまんじ)というところ開創されました。本尊の阿弥陀如来像は秘仏で、聖徳太子による一刀三礼の御作と伝えられています。開創当時は三論宗で、後に真言宗醍醐派に改め今に至っています。無量上人の後を継いだ第二世の宥量上人は当時伊予国の領主であった越智玉輿の子供(すなわち、河野氏の祖とされる河野玉澄とは兄弟)で、その縁により、 以来この無量寺は長く河野家の祈願寺を務めていました。天正年間(1573年〜1593)のはじめ、当時の住職・宥実上人はこのあたりを治めていた龍門山城城主・武田信勝の外護を得て、寺を現在の場所に移転しました。また、前述のように、宥実上人は天正10(1582)に龍門山城が落城し、城主武田信勝が討ち死にしたおり、その子、富若丸(当時16)を無量寺に隠潜させ、約10年間養育し、ついに天領の大庄屋職に就かせました。この「天領」の屋号で呼ばれる大庄屋の代々の記録は『無量寺文書』、または『武田家文書』とも呼ばれ、今治市朝倉の歴史の謎を紐解く貴重な古文書として、現在もこの無量寺に残されています。私は無量寺を訪れた際、住職から『武田家文書』の話を聞き、そこで初めて伊予武田氏の存在を知り、伊予武田氏について調べてみようと思った経緯があります。


無量寺は“枝垂れ桜”が有名です。私が取材に訪れた日は枝垂れ桜が見頃を迎えていて、多くの人が見学に訪れていました。


無量寺の隣はJFAアカデミー今治になっています。このJFAアカデミー今治は、日本サッカー協会(JFA)が愛媛県今治市と連携して推進する中学校3年間を対象としたサッカーエリート教育機関で、全国4校目。中四国地方初の施設です。20143月に廃校となった今治市立上朝小学校跡地を寮として開校しました。現在は女子のみを受け入れています。


武田真三郎信吉から始まる“天領”水之上郷の大庄屋役としての武田氏ですが、当然のこととして時代を経るにつれ分家が幾つも枝分かれしていきます。その分家筋の中に私の好奇心を大いにくすぐる面白い人物がいたので、ご紹介します。その面白い人物とは武田徳右衛門。

 武田徳右衛門は、愛媛県越智郡朝倉村上乃村の生まれとされています。現在も今治市の富田地区を中心とした地域に府中二十一ヶ所霊場というものがあって、根強い信者を擁しているといわれていますが、この府中二十一ヶ所霊場の開創者が武田徳右衛門です。この武田徳右衛門のもう一つの大きな業績に四国八十八ヶ所霊場の遍路行をする人達のための遍路道の整備、すなわち、丁石(道標)の建立があります。彼は僧侶ではなく、また格別信仰心が深かったわけでもなく、元々はごく平凡な一人の農民でした。その彼の身に不幸が次々と降りかかりました。天明元年(1781)夏、長男七助が急死したのを始めとし、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと天明元年から寛政4(1792)までの11年間に、愛児一男四女を次々と失ったのです。その相次いだ不幸による悲しみの重さが彼自身を、そして彼の人生を大きく変えるきっかけとなったようです。彼がそこで出会ったものがお大師様であり、四国八十八ヶ所霊場遍路の旅だったようです。

 そして、武田徳右衛門は、寛政6(1794)に「四国八十八ヶ所丁石建立」を発願し、農繁期を除いては、ほとんどを寄付勧募と丁石建立に専念し、13年間を要して文化4(1807)に大願成就したと言われています。丁石は本来の意味では1丁目(109メートル)ごとに建てられる道標の石のことですが、武田徳右衛門の建立した丁石は1丁目ごとではなく、ほぼ1(4km)ごとに遍路道の主たる地点に建立されていました。そして、弘法大師の尊像を刻み、◯◯寺まで里と次の札所までの距離を明記していたという特徴がありました。そこには「里数がわかれば目的地(次の札所)への到着時間が予測できるし、それはまた宿の確保にも役立つだろう」という当時としては画期的なアイデアが盛り込められており、遍路道の途中の至るところにこの丁石(道標)を建立することで、お遍路さんの不安感をぬぐい去ろうとしたものであったのであろうと推定されます。これも、自ら遍路を重ねた経験から得た知恵の一つなのでしょうね、きっと。武田徳右衛門の手によって建立された丁石(道標)は、現在でも四国内で130基ほど現存しているのが確認されているのだそうです。その武田徳右衛門の墓も水之上の無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓の中にあります。


無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓です。

武田徳右衛門の墓もこの伊予武田氏一門の墓の中にあります。

討ち死にした武田信勝の3人の遺児のその後に話を戻します。四男の武田政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)も、おそらくどこかで匿われて隠棲したようで、成人後帰農し、龍門山城にほど近い今治市朝倉の浅地に水之上郷の代官(大庄屋役)に就いた武田真三郎信吉家の分家となっています。武田政五郎信鳳から始まる天領(屋号)”家の分家は代々今治市朝倉南(矢矧神社の近く)にある正善寺を菩提寺にしているので、もしかすると政五郎信鳳は龍門山城から落ち延びた後、この正善寺に匿われて隠棲したのかもしれません。ちなみに、この武田政五郎信鳳の直系の家系は今でも浅地にお住まいのようです。


このあたりが浅地。武田信勝の四男・武田政五郎信鳳はこの浅地で帰農し、水之上郷の大庄屋役に就いた武田真三郎信吉家の分家となりました。向こうに見える山は龍門山です。



武田信勝の四男・武田政五郎信鳳から始まる“天領”家分家代々が菩提寺にしている正善寺です。


五男の武田源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)はまだ幼かったため、残った家族や家臣とともに周敷郡石田村(現在の西条市石田。JR玉之江駅付近)に落ち延びました。武田源三郎信猶はこの地で成人して帰農し、農家として暮らしていたようです。武田源三郎信猶の墓所は西条市石田の大智寺にあり、そこには武田信猶に始まる武田一門の墓所があります。


西条市石田の大智寺に武田信猶に始まる武田一門の墓所があります

武田源三郎信猶の墓所は大智寺のすぐ北東の場所にあります

その武田信猶の直系の孫にあたるのが武田彦左衛門信盛。武田信盛は万治元年(1658)、桑村郡古田新出(現在の西条市丹原町古田)に移り、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けて(松山藩は中予だけでなく越智郡や周桑郡地域にも飛び地のように幾つかの領地を持っていました)この地を開拓しました。現在、武田信盛が新田開拓した丹原町古田新出には「武田信盛頌徳碑」が建てられています。ちなみに、周桑平野の地図を眺めていると、新田新出などの地名が随所に見られます。これらはいずれも江戸時代に入った以降の近世に水田として開拓された新田集落です。


武田信盛が新田開拓した西条市丹原町古田新出にある「武田信盛頌徳碑」です。武田彦左衛門信盛は武田信勝の五男・信猶の孫で、万治元年(1658)、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けてこの地を開拓しました。


周桑平野は四国山地(中央構造線)、特に西日本最高峰の石鎚山(標高1,982メートル)から続く石鎚山脈と、四国山地(中央構造線)の北側に突き出した高縄山地が形成する狭隘部の西条市丹原町湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜して二級河川の中山川によって形成された沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅の海岸が広がっています。ここは古来よりの穀倉地帯で、平野部の少ない伊予国においては米や麦の一大供給地でした。そのため江戸時代には、桑村郡26村と周敷郡24村が松山藩領で、残る周敷郡11村が西条藩領を経て小松藩領と領地が複雑に入り組んでいました。これは伊予武田氏が治めていた越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉)にも当てはまり、こちらは松山藩と今治藩の領地に加えて幕府直轄地である天領が複雑に入り組んで存在していました。これはそこがこうやって奪い合いをしたくなるほど米が収穫できる魅力的なところであったことにほかなりません。そのため、松山藩主としては周敷郡・桑村郡の自藩領内における米の収穫量を少しでも増やすべく、高縄山地の山麓部に広がる大明神川、新川、関屋川が形成する砂礫質土壌の扇状地の新田開拓を積極的に進めたようです。そのうち新川流域の扇状地を開拓したのが、武田信盛が開拓した古田新出ということのようです。この古田新出には今も武田信盛の末裔一族がお住まいとのことです。

この周桑郡(周敷郡・桑村郡)に残る伊予武田氏の形跡は武田信勝の五男の源三郎信猶だけではありません。龍門山城が落城した際、落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦ハ郎信行とも)の墓石が、西条市西部の壬生川(旧周桑郡)の本源寺にあります。その墓石に刻まれた碑文によると、建立したのは「龍門山城主 武田近江守信勝 室 河野左馬助 息女」。龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母が五男の源三郎信猶と一緒に周敷郡石田郷まで落ち延び、途中で討ち死にした三男の武田彦三郎信則(彦ハ郎信行とも)の墓をこの本源寺に建てたのではないかと推察されます。そこから言えることは、当時の周桑郡には落ち延びてきた伊予武田氏一門を温かく迎え入れるための下地が既にできあがっていたということのようです。このあたりの考察は、この後で書きたいと思っています。

龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦ハ郎信行とも)の墓が西条市壬生川の本源寺にあります。建立したのは武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母です。


愛媛県全体で見た場合、「武田」はさして多い苗字であるとは言えないのですが、伊予武田氏の居城・龍門山城のあった今治市朝倉と西条市西部の旧周桑郡地域に限っては異様と思えるくらいに多く見かける苗字です。文明3(1471)に安芸武田氏の武田信友が河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村に移り住んで伊予武田氏を興してから550年。1代を平均25年として計算すると、その間22代です。なので、一門や武田姓を名乗ることを許された家臣団の末裔を合わせると、現在ではかなりの数になると思われます。その多くが今治市朝倉と西条市の旧周桑郡地域に集中して住んでおられるというところに歴史の“物語”を感じます。清和源氏を祖とし、あの戦国最強と言われた武田信玄を輩出した武門の名族・武田氏の名称と、『武田菱』や『割り菱』と呼ばれるシンプルながら特徴的な形の家紋を使う誇り高き一族がこの愛媛県内にも固まって暮らしていらっしゃるということを、是非知っていただきたいと思っています。

  

……(その4)に続きます。(その4)は第84回として掲載します。






2021年6月9日水曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その2)

 

公開予定日2021/07/01

 [晴れ時々ちょっと横道]第82回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その2)

 

【5.河野氏と応仁の乱について】

当時、伊予国の守護職を務めていた河野氏も、細川氏と大内氏の勢力争いに翻弄されていた一族でした。伊予国の有力豪族である河野氏は、古代越智氏族の越智玉澄(河野玉澄)を家祖とする一族です。天智天皇2(663)に起こった日本古代史上最大の対外戦争と言われる「白村江の戦い」の時、水軍大将として伊予水軍を率いて出陣し、手痛い敗戦を喫した後に新羅の捕虜になり、長い間新羅(朝鮮半島)に抑留された後に脱走して帰還したとされる越智守興。その越智守興は抑留中に唐の武将の娘との間にできた2人の兄弟を帰還時に一緒に連れ帰ってきたそうなのですが、そのうちの弟のほうが越智玉澄。その後、越智玉澄は伊予国温泉郡(風早郡)河野郷(現在の松山市北条付近)に移り住んで河野姓を名乗り、河野氏の家祖になったとされています (兄の越智玉守は矢野氏・伊予橘氏の家祖とされています)河野の読み方は今ではこうのが一般的になっていますが、元々の河野郷の地名の読み方はかわの。なのでかわのという読み方が正しいのではないかとも言われています。

 この河野氏は長らく大三島の大山祇神社の宮司家・大祝家を頂点とした古代越智氏族の中で今治にあったと考えられる国衙(こくが)の役人(水軍大将?)を務めていたようなのですが、この河野氏が一躍有名になるのが平安時代末期の治承4(1180)から元暦2(1185)にかけての6年間にわたる大規模な内乱「治承・寿永の乱」、いわゆる源平合戦です。この「治承・寿永の乱」においては河野通信が河内源氏の流れを汲む源頼朝の求めに応じて源氏に味方し、平氏打倒に大いに貢献したことで鎌倉幕府の御家人となり、東国の武将中心の鎌倉幕府の中で西国の武将でありながら大きな力をつけていきました。その後の元寇、中でも2度目の「弘安の役」(1281)の時には勇将・河野通有が「河野の後築地(うしろついじ)」として名が残るほどの大活躍をしてその武名を馳せ、河野氏の最盛期を築き上げました。

 南北朝時代には、河野通盛は足利尊氏に従い北朝側につき、四国へ進出し伊予へ侵攻した南朝側の細川氏と争いました。河野通盛はそれが認められて、建武3年(1336)、ついに伊予国守護職を手にし、その後、室町期に松山市道後に湯築城(ゆづきじょう)を築き、そこに本拠を移しました。湯築城に本拠を移したことで道後平野での稲作による豊富な食料確保が可能となり、一時的に河野氏の兵力は、瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれました。ここが島嶼部に拠点を置いた他の水軍との大きな違いでした。


松山市道後公園内にある湯築城跡です。湯築城は建武3(1336)に伊予国守護職に任じられた河野通盛によって築城された平山城で、250年近く河野氏の居城でした。日本100名城の1つで、国の史跡にも指定されています。松山市の城というと加藤嘉明が築城した松山城があまりにも有名ですが、湯築城は江戸時代に入ってから築城された松山城よりも約300年も前に築城された城です。なんと、日本100名城に選定されている城のうち松山市内には 2城、愛媛県内には5城があります。城好きにはたまりません。

道後公園の濠は、湯築城があった時代からの濠です。

湯築城の本丸跡は展望台になっていて、そこからは松山城が見えます。実は松山城を築城する際に、湯築城から石垣の石をあらかた持っていったのだそうです。

伊予国の守護職を手にした河野氏ですが、阿波国、讃岐国、土佐国の守護を兼任し、残る伊予国を手中に入れて管領として四国を支配しようとした細川頼之の術中に嵌ってすぐに伊予国の守護職を奪われ、南北朝の混乱の中で翻弄され急激に衰退していきます。途中から南朝方について衰退していった河野氏ですが、天授5/康暦元年(1379)、室町幕府内で「康暦の政変」が発生し細川頼之が管領を罷免されて失脚する政変が起こると、河野通盛の孫である河野通直は新たに四国管領となった斯波義将から伊予国守護職に補任されて北朝方に寝返り、細川頼之討伐を命じられ進軍したのですが、伊予国周敷郡(周桑郡)で細川頼之の奇襲に遭い討死してしまいました。しかし、河野通直の子の河野通義は細川頼之と和睦して伊予国守護に任じられ、以後、伊予国守護職は河野氏の世襲となりました (細川頼之の阿波国、讃岐国、土佐国の守護職は継続)

その後も度重なる細川氏の侵攻や河野氏の庶流である予州家との内紛、有力国人の反乱に悩まされ続けたようです。特に予州家との間の家督相続争いは管領職が代わるたびに幕府の対応が変わるなど、情勢が混迷を極めたようです。その予州家との家督相続争いが頂点に達したのが、河野氏本家・河野教通と予州家の河野通春の争い。河野氏本家の河野教通(のち通直に改名)は永享7(1435)、大友持直征伐のさなかに父・河野通久が戦死したため、家督と伊予守護職を継承しました。河野教通(通直)は永享11(1439)、将軍・足利義教の命を受け関東で起きた永享の乱や大和永享の乱に出陣するなど伊予国守護として室町幕府に貢献したのですが、文安3(1449)に伊予国守護職を又従兄弟で予州家の河野通春に突如交替させられるという事態が発生しました。この時は幕府の命令を受けた小早川盛景・吉川経信らの援軍で盛り返し、河野教通(通直)は伊予国守護に返り咲きました。河野教通を伊予国守護から解任した幕府が、次には河野教通の再起を助けると言う矛盾した方針は、河野氏本家本流の河野教通を支持する足利義政・畠山持国と、庶流である予州家の河野通春を支持する細川勝元の間で河野氏家督に対する意見対立が幕府内であったことが原因とみられています。

さらにその後も伊予国守護職を巡る河野教通(通直)と河野通春の間で互いに奪還を繰り返すドタバタ事態が続いたのですが、ここで何故か細川勝元と河野通春の間で対立が発生して、寛正3(1462)には細川勝元が一族の細川賢氏を伊予国守護に任命するという信じがたい事態が発生しました。伊予国を細川氏に奪われた予州家の河野通春は周防国・長門国・豊前国の守護を務めていた大内教弘・政弘父子を頼り、それにより寛正5(1464)には細川・大内両軍が伊予国に侵攻してきて衝突する事態にまで陥りました。この時、どちらにも与し得ない河野氏本家本流の河野教通(通直)は蚊帳の外に置かれる形になっていました。ちなみに大内氏第13代当主である大内教弘は大内氏の伊予国侵攻の最中の寛正6(1465)9月に興居島で死去し(享年46)、死後、大内氏の家督は長男の大内政弘が継ぎました。

 応仁元年(1467)に応仁の乱が発生すると、大内政弘と盟友関係を結んでいた予州家の河野通春は西軍の一員として上洛しました。河野氏本家本流の河野教通(通直)は当初は静観していたものの、西軍が予州家の河野通春を伊予国守護に任じると、細川勝元の誘いに応じて東軍に参戦し、河野通春に対抗する形になりました。もうグダグダです。このグダグダが「応仁の乱」と言えば「応仁の乱」らしいところなのですが、日本全国の守護大名家でこのようなグダグダが起きて小競り合いを繰り返したのがこの時期でした。

 この時、大内氏というかつてない強敵を相手にするため河野氏本家本流の河野教通(通直)が思いついたのが、それまで大内氏と幾多の武力衝突を繰り返していた安芸武田氏との連携だったのではないでしょうか。しかし、文明3(1471)6月に若狭武田氏(安芸武田氏)頭領の武田信賢が病死し、新たに佐東銀山城城主として安芸武田氏を興すことになった武田元綱が大内氏側に転向したことで、安芸武田氏との連携自体は断念。代わりに武田元綱が大内氏側に転向したことで居場所がなくなった武田信繁の弟の武田信友を客将としてヘッドハンティングしたのではないでしょうか。武田国信が継承した嫡流である若狭武田氏は東軍のまま残っていたので、若狭武田氏頭領となった武田国信の意向もあって、にっくき宿敵の大内氏を抑えるために武田信友を瀬戸内海を渡って伊予国に入らせたという解釈もできようかと思います。また、地方豪族に過ぎない古代越智氏族を出自とする河野氏は「源平藤橘」(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)のように天皇家との血筋の繋がりが明白な名門の家系ではなかったため、清和源氏系の河内源氏の血筋を汲む武門として名門の安芸武田氏との連携は大変に魅力的なものだったはずです。いずれにせよ、応仁の乱のグダグダぶりが伊予武田氏を生むことになったと言えようかと思います。

 

【6.伊予武田氏の興り】

 

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このようにして、武田信友は文明3(1471)に河野氏本家本流の当主 河野教通(通直)に招かれ、嫡男の武田信保をはじめとする旧安芸武田氏の多数の一族を伴って瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(りゅうおかむら:現在の今治市玉川町龍岡)に移り住み、伊予武田氏を興すことになったのですが、河野氏内では客将としてそれなりの扱いをされていたようです。武田信友自身は既に高齢になっていたため竜岡村に屋敷を与えられてそこで余生を送ったようなのですが、代わりに嫡男(伊予武田氏第2代当主)の武田信保は朝倉郷太ノ原(現在の今治市朝倉太ノ原)にあった重地呂城(ちょうじろうじょう)の城主となり、朝倉郷の太ノ原周辺を領地にしています。

 

玉川ダム湖畔にある今治市玉川町龍岡(りゅうおか)です。安芸国(広島県)の佐東銀山城城主であった武田信友は、文明3(1471)、河野氏の河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町龍岡)に移り住み、伊予武田氏を興しました。また、この龍岡には河野氏一門の正岡氏の居城・幸門城がありました。

携帯電話の電波塔が立っている山が今治市朝倉の太ノ原にある重地呂(ちょうじろう)です。伊予武田氏第2代当主の武田信保はこの重地呂山の山頂にあった重地呂城の城主となり、龍門山城と並んでここが伊予武田氏の拠点となりました。


応仁の乱のグダグダの中で、予州家との家督相続争い、さらには中国地方の一大勢力である大内氏の脅威に備えるために安芸武田氏の先代当主 武田信繁の弟である佐東銀山城城主 武田信友をヘッドハンティングしてきた河野氏本家本流の河野教通(通直)ですが、文明5(1473)に細川勝元が亡くなった後に伊予国守護に任命されています。このあたりが応仁の乱らしいところで、あまりにグダグダ過ぎて、よく分かりません。延べ数十万人の兵士が京の都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたその応仁の乱は西軍が消滅したことで一応文明9(1477)に終結したことになっているのですが、それは単に京の都での戦闘が終結したということに過ぎず、一度崩壊した幕府の権力は弱まり、世の中は戦国時代という大動乱の時代に突入していくことになります。文明11(1479)には阿波国守護・細川成之の次男・細川義春が伊予国に攻め寄せてきたのですが、この時はどういうわけか予州家の河野通春と和睦し国内の諸豪族と連携して撃退しました。その予州家当主の河野通春が文明14(1482)に没すると、河野氏本家本流の河野教通(通直)は伊予国守護職の座を河野道春の子の河野通篤と争うことも起こったのですが、その頃には伊予国の主導権を河野氏本家本流側がほぼ掌握しており、予州家を圧倒。その後、予州家は急速に没落していきました。

 

重地呂山の麓から見た伊予武田氏の領地であった越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉太ノ原)の風景です。当時も今と同じように頓田川に沿って田園地帯が広がっていたと思われます。

そうしたゴタゴタの中で、伊予武田氏は河野氏の客将として大いに活躍したのでしょう、河野氏家臣団において河野十八将の1人に数えられるほどの重要な一翼を為していったようで、第3代・武田信高の時代になると同じく朝倉郷にある龍門山城の城主となり、朝倉郷の広い範囲を領地にしています。その後、第4代・武田信俊、第5代・武田信充、第6代・武田信重、第7代・武田信勝と伊予武田氏は継承されます。




【7.龍門山城】

この龍門山城は今治市(旧越智郡朝倉村)と西条市(旧東予市。それ以前は周桑郡三好町)の境に跨がる標高439メートルの竜門山(龍門山)の山頂に築かれた山城です。竜門山は尖って見える山頂部が特徴的な山で、山の上部は豊かな自然林、下部は水源資源林として保護されています。麓には朝倉ダム、大明神池など、竜門山や周囲の山々が満たす湖水があり、頓田川や黒谷川、スミヤ川(北川)など、今治平野や周桑平野を潤す河川もこの龍門山付近の山々から発しています。龍門山城があったとされる竜門山の山頂に立ってみると、眼下に今治平野が一望でき、城を築城するには最適な場所のように思えます。この竜門山の山頂に龍門山城が築かれた時期は定かではありませんが、一説によると鎌倉時代に長井斎藤景忠によって築かれたとも言われています。この長井景忠は当時の伊予国守護・佐々木三郎盛綱の重臣で、守護代を務めていた人物であるとも言われています。龍門山城の建物等はいっさい現存しておりませんが、今も山頂付近に石積みや井戸の跡の一部等が遺構として残っているのだそうです。

 

朝倉ダムの向こう側に聳えているのが今治市(旧朝倉村)と西条市(旧東予市)の境に跨がる龍門山です。この龍門山の山頂付近に伊予武田氏の居城・龍門山城がありました。


別の角度から見た龍門山です。手前に重地呂山も見えます。


龍門山城は伊予武田氏第3代・武田信高の時代の一時期、河野氏一門の河野通明が入城していた時代があったようなのですが、大永5(1525)に、大内氏をはじめとする中国勢に攻められて一度落城。河野通明は高市郷(現在の今治市高市)で討ち死にしたとされており、墓石に刻まれた没年から推察する限り、その際に武田信高も討ち死にしたと思われます。その後を継いだのが武田信高の末弟の武田信俊。重地呂城の城主だった武田信俊がワンポイントリリーフのような形で第4代を継承し、その後、武田信高の嫡男の武田信充が第5代を継承。その間にいったん落城した龍門山城を再建したようで、伊予武田氏第6代の武田信重の代に龍門山城に入り、再び伊予武田氏の居城となり、永禄5(1562)、弟の第7代 武田信勝に継承されます。

龍門山城の登城口です。龍門山城はあくまでも戦闘用のいわゆる「中世山城」です。城郭として馴染みの深い天守を備えた「近世城郭」ではありません。加えて戦闘用の城だけに登城口の位置も分かりづらく、1人で登城することを怯ませる雰囲気があります。私も今回は時間の都合もあり、ここまでにしました。


龍門山城の登城口から東の方角を眺めたところです。眼下に見えるのは西条市壬生川周辺でしょうか。



【8.戦国時代の伊予武田氏】

この間、伊予武田氏の主家となった河野氏をはじめ、日本全国で大きな変化がありました。応仁の乱が終わり、日本は15世紀の終わりから16世紀の終わりにかけて約100年間の「戦国時代」と呼ばれる戦乱が頻発した時代に突入します。応仁の乱を経て室町幕府の権威が著しく低下したことに伴って世情は不安定化し、全国各地でそれまでの守護大名に代わって戦国大名が台頭してきて、彼等個々の領国内の土地や人を一元的に支配する傾向を強めるとともに、領土拡大のため隣接する他の大名達と戦闘を繰り広げるようになってきます。伊予国守護職を務める河野氏もその例外ではありませんでした。予州家当主の河野道春が文明14(1482)に没したことで予州家との抗争は一応の終息は見たものの、能島村上氏や来島村上氏、忽那氏、西園寺氏、宇都宮氏、金子氏といった有力な国人衆(こくじんしゅう:各地の村落を支配した領主。国衆とも言う)が新たに勢力を台頭させてきます。伊予国ではこの新たに台頭してきた有力国人衆の反乱や抗争、河野氏内部での家督争い等が相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることをとてもできる状態ではなかったようです。特に河野氏宗家の当主が河野通直(弾正少弼:河野教通の孫)だった時代の天文9(1540)、家臣団や有力国人の村上通康を巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟と家督をめぐって争いが起こります。この争いは河野晴通の死と河野通直自身の失脚により収束はしたのですが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになりました。この隙を突いて、周防国の大内氏の侵攻が激化し、芸予諸島は概ね大内方の制圧するところとなります。結果的に、国内的には新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも大内氏に代わって台頭してきた安芸国の戦国武将・毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮はかなわず、衰退への道を転げ落ちていくことになります。

 ちなみに、国人衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度を整えていくなど、権力構造を形成していきました。したがって、表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。それでは戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国人衆とは戦国大名に従属する存在としてのみ存在し続けることができたという点です。その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃を受ければ国人衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。従って、国人衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分達を庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。 (このあたりを武士道が確立された江戸時代以降の感覚で読み解くと、誤った解釈がなされる危険性があります。)

 こうした時代背景の中で伊予武田氏も居城・重地呂城や龍門山城のある伊予国越智郡朝倉郷を拠点に伊予国の有力国人として勢力を拡大していく道を選んだようです。その勢力拡大の方向は東南方向。周敷(しゅうふ)郡や桑村(くわむら)(明治30年に周桑郡に合併。現在の西条市西部地域)といった周辺地域に進出していったようです。例えば、第6代 武田信重は弟の第7代 武田信勝に龍門山城主を譲り、周布郡志川(西条市丹原町)にあった文台城の城主になっています。また、それ以外にも伊予武田氏が旧周桑郡地域に勢力を伸ばした痕跡が数多く残っていて、この地方には武田家の子孫や家臣達が多く住み着いたためなのか、今治市朝倉と同様、今も武田姓の家が異様に多く残っています。 


一面のレンゲの花の向こうに見えるのは朝倉村の象徴とも言える笠松山。笠松山の名前に相応しくアカマツで覆われた美しい山で瀬戸内海国立公園の中でも景勝地の1つだったのですが、2008年に大規模な山火事が起きてハゲ山になってしまいました。植林はされているそうなのですが、まだまだ元の美しい姿に戻るには時間がかかりそうです。かつてはこの笠松山にも城があり、城主の岡氏と伊予武田氏は深い姻戚関係を持っていたようです。

永禄5(1562)に兄の武田信重から家督と龍門山城を譲られた第7代・武田信勝ですが、永禄11(1568)、大洲城を拠点に伊予国の喜多郡地方で勢力を築いていた伊予宇都宮氏の宇都宮豊綱が土佐国西部を支配する土佐国守護であった土佐一条氏の一条兼定の支援を受けて宇都宮氏と対立関係にあった有力国人の宇和郡の西園寺氏の領内に侵入するという事態が発生。瞬く間に西園寺公広率いる西園寺氏を従属させ、その軍勢を加えて河野氏の支配地域に対して侵入を開始しました。この伊予国の覇権を巡る戦いにまで発展しそうな事態を受けて、河野氏の来島村上氏の村上通康(河野氏当主・河野通宣が病気療養中だったため、政権代行中)は同盟関係を結んでいた安芸国の毛利元就に支援を要請。鳥坂峠(とさかとうげ:国道56号線の大洲市と西予市の市境にある標高470メートルの峠)の東にある高島(現在の大洲市梅川地区)まで進んできた宇都宮・一条連合軍に対して、村上吉継(来島村上氏の一族。村上通康が陣中で急死したため、指揮を継承)は鳥坂峠に陣を構えて対峙。しばらく膠着状態が続いたのですが、毛利氏の援軍(小早川隆景)が合流するや一気に反転攻勢に出て、撃退に成功し、一条軍も土佐に撤退ました。この「高島の戦い・鳥坂峠の戦い」と呼ばれる戦いにも武田信勝は河野氏の一員として一族を率いて参戦し、大いに活躍したというが記録に残っています。

 余談ですが、この戦いの大敗後、宇都宮豊綱は毛利方に捕らえられ、8代続いた宇都宮氏による喜多郡支配は終焉を迎えます。また、土佐国内でも守護家である一条氏の勢力が急激に弱体化し、それとともに長宗我部元親が急速に台頭してきて、天正元年(1573)、一条兼定は土佐を追われ、土佐国は長宗我部元親の支配と移ります。そして運命の天正10(1582)を迎えます。

 

……(その3)に続きます。(その3)は第83回として掲載します。


2021年6月3日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)

公開予定日2021/06/03

[晴れ時々ちょっと横道第81回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その1)


戦国時代最強の武将は誰か?…と問われれば、『甲斐の虎』の異名を持つ武田信玄の名前を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。

「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた武田信玄は甲斐国の守護を務めた甲斐武田氏第15代・武田信虎の嫡男として大永元年(1521)に生まれました。母は郡内地方(山梨県東部の都留郡一帯)の有力国人大井氏の娘・大井夫人と言われています。諱(いみな)は晴信。「信玄」とは出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄といいます。甲斐武田氏は長らく甲斐国の守護を務める名門の家系だったのですが、応永23(1416)に前の関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱「上杉禅秀の乱」に敗れたことを契機に守護としての権威が著しく失墜し、甲斐国にはしばらく幾つかの有力国衆が台頭する時代が続いていました。その甲斐武田氏の勢力を回復に向かわせたのは信玄の曾祖父にあたる武田信昌。信昌期には守護代跡部氏を排斥するなど、国衆勢力を次々と服従させて国内統一が進み、先代の父・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成しました。



JR甲府駅前にある甲斐国(山梨県)のシンボル「武田信玄公銅像」です。川中島の戦いの陣中における姿を模したその姿は、戦国時代最強と謳われた名将にふさわしく、堂々としています。

その父・武田信虎を駿河国に追放して武田晴信(後の信玄)が甲斐源氏武田氏の第16代目の家督を相続したのが天文10(1541)、信玄の19歳の時のことです。武田信玄には数々の伝説が残されています。その智力あふれる戦略は、身内に嫉妬されるほど素晴らしいものだったといわれています。例えば周りの武将の成長も考えた成長戦略をとったり、常に領土拡大を図ったりすることで、家臣らの結束を固めていったと言われています。また、武田信玄は「武田二十四将」として知られる戦国時代最強との呼び声の高い家臣団を有し、生涯に72回合戦を行いましたが、49320引き分け(勝率94)だったと言われています(この数字に関しては勝敗の捉え方によって諸説あります)。ちなみに、敗北した3回の対戦相手はいずれも北信濃の猛将・村上義清(上田原の戦い・砥石崩れ・ 葛尾城攻め)で、一説にはこの信濃村上氏が伊予国の村上水軍の祖であるともいわれています。


武田信玄は大永元年(1521)の生まれなので、今年は武田信玄生誕500周年です。JR甲府駅のコンコースでも武田信玄生誕500周年記念のイベントが行われています。

甲斐武田氏の家督を相続した武田晴信(信玄)は追放した父・信虎の体制を継承して引き続き隣国・信濃国に侵攻。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争を繰り返し、信濃国をほぼ領国化しました。その後も周辺諸国への領国拡張の野心を見せ、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野および遠江、三河、美濃、飛騨などの一部を領するまでになり、戦国時代最強の武将と呼ばれるまでになりました。その当時の石高はおよそ120万石に達していたと推察されています。次代の武田勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いたものの、遠江・三河平定による織田信長包囲網の形成を目的とした西上作戦の途上、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)で徳川家康軍を撃破した(三方ヶ原の戦い)直後に持病が悪化し、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)でしばらく滞在後、元亀4(1573)412日、軍を甲斐国に引き返す途中の三河街道上の信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)の地で死去しました。享年53歳でした。あの織田信長も、もし武田信玄がこの西上作戦の途中で病死しなかったらどうなっていたかわからないともいわれています。

 西上作戦の途中、病没した武田信玄の跡を継いで甲斐武田氏の第17代目の家督を相続したのが四男の武田勝頼でした。武田勝頼は、天正3(1575)、長篠の戦いで織田信長・徳川家康の連合軍の前に敗北。その後失地回復に努めたのですが、天正10(1582)、信玄の娘婿で木曾口の防衛を担当する木曾義昌が離反して織田信長に通じたのを契機に再び織田信長・徳川家康連合軍との戦いが始まりました。織田信長・徳川家康連合軍の侵攻に対して武田軍では家臣の離反が相次ぎ、組織的な抵抗ができず敗北を重ねていきました。武田勝頼は未完成の本拠地・新府城に放火して逃亡。家族を連れて笹子峠を越えて家臣の岩殿城主・小山田信茂を頼り、小山田信茂の居城である難攻不落の岩殿山城に逃げ込み、そこに篭城しようとしました。しかし、小山田信茂は織田方に投降することに方針を転換。岩殿山城に向けて敗走中の武田勝頼は小山田信茂離反の知らせを甲州街道最大の難所と言われる笹子峠(標高1,096メートル)を越える直前の駒飼宿の地で受けて、駒飼の山中に逃げ込みます。武田勝頼親子が駒飼の山中に逃げ込んだことを知った滝川一益率いる織田軍は勝頼一行を追撃。逃げ場所が無いことを悟った武田勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、その途上の田野というところで追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害し果てました(天目山の戦い)。享年37。これによって、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡し、江戸時代には庶家だけが僅かに残るだけとなりました。

 これが後年『甲斐の虎』の異名を持ち、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せ、戦国時代最強の武将と言われた武田信玄と、彼の死後約10年後に訪れる甲斐武田氏の滅亡です。このようにあまりにも武田信玄が有名なだけに、武田氏と言えば甲斐国(現在の山梨県)というイメージがあり、確かに清和源氏、河内源氏の流れを汲む嫡流である武田氏の本拠は甲斐国なのですが、この他にも「安芸武田氏」、「若狭武田氏」をはじめとする「甲斐武田氏」の分家筋にあたる傍流の武田氏が幾つかあり、そういう中に愛媛県にも「伊予武田氏」という一族がいたのをご存知でしょうか?

 その「伊予武田氏」についてご紹介するには清和源氏、河内源氏の流れを汲む嫡流(本家筋)である「甲斐武田氏」の興りから振り返る必要があります。


【1.甲斐武田氏について】


山梨県韮崎市役所の前に立つ甲斐武田氏初代当主である武田太郎信義の銅像です。


甲斐源氏武田氏は、平安時代末から戦国時代の武家で本姓は源氏。第56代清和天皇(在位858年〜876)の皇子・諸王を祖とする源氏氏族である清和源氏。その支流である河内国壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の棟梁・源頼義の三男・源義光(新羅三郎義光:第56代清和天皇から数えると第7)を始祖としています。河内源氏を称し、河内源氏の祖とされる源頼信は長元2(1029)に甲斐守に任官し、嫡男の伊予守・頼義の三男の義光にこの官職は継承されました。源義光(新羅三郎義光)の長兄は源義家(八幡太郎義家)。この源義家は河内源氏の嫡流を形成し、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる人物です。源義家は陸奥守を拝命して陸奥国に入ったのですが、清原氏との間の「後三年の役」(1083年〜1087)に巻き込まれ、苦戦を続けていました。長兄義家が陸奥国で苦戦しているとの知らせを受けると、源義光(新羅三郎義光)は長兄義家を援けるために官途を捨てて、陸奥国に下向しました。この「後三年の役」を終結させた功績により源義光は甲斐守を拝命しました。甲斐守といってもそれまでの甲斐守は在京で現地へは直接赴いていないと考えられているのですが、源義光は初めて甲斐国へ着任し土着した人物とも言われ、そこから甲斐源氏と呼ばれる一族が生まれることになります。山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は源義光の在所であったとする伝承が残されています。

 この河内源氏の本流とも言える甲斐源氏の血筋が武田氏を名乗るようになったのは、源義光の子である源義清が常陸国那珂郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市武田)を本貫としたことからとする説が定説になっています。大治5(1130)に源義清の嫡男・清光の狼藉行為が原因で義清・清光父子は常陸国を追放され、甲斐国巨摩郡市河荘(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流されたのですが、その後、義清・清光父子は八ヶ岳山麓の逸見(へみ)荘へ進出し、源清光は逸見姓を名乗るようになります。その後、源(逸見)清光の次男で源義清の孫にあたる源信義が保延6(1140)13歳で現在の山梨県韮崎市にある武田八幡宮にて元服したことから祖父義清が名乗った武田姓に戻し、その後に続く甲斐武田氏の初代となったとされています。ちなみに、この武田八幡宮ですが、『甲斐国志』によると、日本書紀や古事記に登場する日本武尊(ヤマトタケル)の子である武田王が御殿を設けたことが武田の地名の由来であり、武田王が館の北東に祠を祀ったのが武田八幡宮の起源とされています。



武田()信義は甲斐国巨摩郡武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)を本拠地と定め、そこから甲斐源氏の一族は甲府盆地の各地に徐々に進出して土着していったのですが、治承4(1180)4月に以仁王から平氏討伐の令旨を受け取ると、嫡男(長男)の一条忠頼や弟の安田義定ら甲斐源氏の一族を率いて挙兵。甲斐源氏は、同年1020日の富士川の戦いにおいて奇襲をもって平家軍を敗走させるなど主力となって戦ってこれに勝利し、その後も木曾義仲追討・平家討滅などに転戦し、武功をあげました。当時配流されていた伊豆国で北条時政、北条義時などの坂東武士らと共に挙兵した河内源氏嫡流の棟梁である源頼朝から武田信義が駿河国の守護に、弟の安田義定が遠江国の守護に補任されました。この戦いは必ずしも頼朝の傘下での行動ではなく独自の勢力による行動であったと考えられ、敗走する平家方を追討した武田信義・安田義定らの軍勢が駿遠地方を占拠した後、甲斐源氏の戦功を源頼朝が追認したものであるという風に考えられています。その後、鎌倉時代になると武田信義は鎌倉幕府の御家人となるのですが、その勢力を警戒した源頼朝から粛清を受けて武田信義はまもなく失脚。嫡男(長男)の一条忠頼をはじめ弟や息子たちの多くが死に追いやられたのですが、武田信義の五男・信光だけは源頼朝から知遇を得て甲斐国の守護に任ぜられ、本拠である甲斐国武田郷(現在の山梨県韮崎市一帯)にて甲斐武田氏の嫡流となりました。

 これが後年『甲斐の虎』の異名を持ち、「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた武田信玄を生んだ「甲斐武田氏」です。この甲斐武田氏から「安芸武田氏」、「若狭武田氏」をはじめとする甲斐武田氏の分家筋にあたる傍流の武田氏が興ります。「伊予武田氏」の興りについてはこの「安芸武田氏」と「若狭武田氏」の興りと深く関係があるので、次にそのあたりをご紹介します。

 

【2.安芸武田氏について】

安芸武田氏は甲斐武田氏第2代の武田信光の時代の承久3(1221)に起こった承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱)の戦功によって、甲斐武田氏第2代の武田信光が鎌倉幕府より安芸国の守護に任じられたことから始まります。任命された当初は守護代を派遣していたのですが、後に信光の孫(甲斐武田氏第4)の武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城(さとうかなやまじょう:現在の広島市安佐南区祇園町)を築き本格的な領土支配に乗り出すようになりました。


 

元弘3/正慶2(1333)に鎌倉幕府が滅亡した時には甲斐武田氏第7代の武田信武は幕府の六波羅に味方しており、建武の親政において後醍醐天皇方となった甲斐国守護・武田政義(石和流武田氏)の後塵を拝していたのですが、南北朝時代に武田政義が南朝方であったのに対し、武田信武は北朝側の足利尊氏に属して戦功を上げ、室町幕府足利将軍家より甲斐国と安芸国の両守護に任命され、信武の子・甲斐武田氏第8代の武田信成が甲斐国守護、信成の弟の武田氏信が安芸国守護を分けて継承しました。この武田氏信が安芸武田氏の初代となりました。しかし応安元年(1368)、武田氏信は幕府によって安芸国の守護職を解任されたものの(以降、安芸国の守護職は今川氏や細川氏といった足利一門が担いました)、安芸武田氏第4代の武田信繁の代まで安芸武田氏自体は佐東銀山城を中心とした分郡守護として足利将軍家に仕え存続しました。


広島市安佐南区祇園町にあるその名も武田山。安芸武田氏の居城・佐東銀山城はこの武田山の山頂にありました。手前に見える建物群は2015年と2020年の2回最優秀選手賞を受賞した福岡ソフトバンクホークスの柳田悠岐選手の母校・広島経済大学のキャンパスです。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)



【3.若狭武田氏について】

その武田信繁の嫡男である安芸武田氏第5代の武田信栄(のぶひで)が室町幕府第6代将軍・足利義教の命を受けて大和永享の乱に参戦し、永享12 (1440)に丹後国・若狭国・三河国・山城国の4ヶ国を兼ねる有力守護大名であった一色義貫と伊勢国守護の土岐持頼を誅殺した功績により若狭国(現在の福井県南部。国府は福井県小浜市)の一国守護職に任命され、それを機会に安芸武田氏は本拠地を安芸国から若狭国に移し、ここに若狭武田氏が誕生します。武田信栄は武田信繁の嫡男であることから、安芸武田氏の嫡流は若狭武田氏、安芸武田氏は庶流ということになりました。同時に多くの家臣が若狭国に移住しました。この武田信栄は足利将軍家の信任が厚く、歴代の多くが始祖武田信光以来の武田伊豆守の名乗りを許されていたこと、武田氏一門の中で一番高い官職に任じられていたこと、丹後国守護を兼ね、幕府のある畿内周辺で2ヶ国もの守護に任じられていたことなどから、この若狭武田氏が武田氏の本流という見解も存在するほどです。この時、武田信栄は佐東銀山城を中心とした安芸国の分郡守護職も兼務していたのですが、この安芸国の領地の経営は弟の武田信賢に守護代として任せました。これがその後の安芸武田氏の分裂と伊予武田氏の誕生に繋がります。

 若狭国守護職となり若狭武田氏初代となった武田信栄は永享13 (1441)28歳の若さで病死したため、跡を弟の武田信賢が継ぎ、若狭武田氏第2代として安芸国と平行して若狭国の経営に乗り出しました。武田信賢は若狭国内の一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では細川勝元率いる東軍に属して一色義直が籠る丹後国に侵攻するなどの活躍し、室町幕府からも厚い信頼も得ていました。しかし、文明3(1471)6月に武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家は2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになりました。

 

【4.応仁の乱と安芸武田氏について】

実はこの直前まで安芸武田氏の本拠・佐東銀山城には武田信繁の弟である武田信友が城主として入城し、安芸国の分郡守護職も兼務する若狭武田氏当主の武田信賢に成り代わって守護代を務めていた武田国信を補佐していたようなのですが、武田国信が若狭武田氏を継承して若狭国守護職を務めることになり、武田元綱が新たに安芸武田氏を興して安芸国の分郡守護職を務めることになったので彼等の叔父である武田信友は佐東銀山城を出ることになったようです(この際、多少の諍いがあったようです)。この武田信友は嫡男の武田信保を伴って瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町)に移り住み、河野教通(通直)の傘下に入りました。この武田信友が伊予武田氏の初代となります。

 この背景には「応仁の乱」が深く関与しています。応仁の乱は、応仁元年(1467)に発生し、文明9(1477)までの約11年間にわたって継続し、京の都全域を焼き尽くすことになった長期間の内戦のことです。最初は室町幕府の有力守護大名である管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから始まったのですが、そのうち足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、細川勝元率いる東軍が16万人、山名宗全率いる西軍が11万人、合計27万人が京の都を主な舞台に争いを行いました。たった一回の内戦で27万人もの軍勢を集めて戦いを行なったのは、後にも先にもこの応仁の乱ぐらいです。また、京の都だけでなくそれぞれの守護大名家の領国内にも争いが拡大していきました。その規模もさることながら、明応2(1493)に発生した明応の政変と並んで戦国時代への移行の主たる原因とされる大きな内戦なので歴史の教科書には必ず載っており、皆さんも「応仁の乱」の名称くらいはご存知の方も多いのではないかと思われますが、日本の歴史の中でこの応仁の乱ほど分かりにくいイベントは他にないのではないかと私は思っています。とにかくこの「応仁の乱」というのは今一つよく分からない「グダグダ内戦」というか「ダラダラ内戦」です。登場人物があまりに多く、そういう中で際立った英雄が不在。「◯◯の戦い」と呼ばれるような主たる合戦が行われた形跡は乏しく、京の都全域が焼き尽くされ、餓死者が8万人も出たと言われるわりには戦死者の数が極端に少ない内戦。そもそも内戦に至った理由もはっきりせず、おまけに勝敗なんかもまったく付かず、なぁ〜んとなく終わってしまった感じさえ受ける戦いなのです。とにかく最初から最後までグダグダの内戦なのです()

 応仁の乱を全体で見ると今一つ訳が分からないグダグダ内戦ではあるのですが、視点をある一つのことに絞った局地戦で捉えてみれば、なんともはや人間臭い権力抗争劇が見えてきます。まぁ〜これも呆れるくらいのグダグダぶりなのですが…。


佐東銀山城の御門跡です。佐東銀山城は慶長5(1600)の関ケ原の戦いまで毛利氏の支配下に置かれたのですが、後に広島城が築かれるとその重要性が低下し、毛利氏が関ケ原の戦いの後に移封されると廃城となりました。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)

安芸武田氏は武田信栄・信賢・国信・元綱の父である武田信繁の時代から安芸国に隣接する周防国・長門国・豊前国の守護・大内氏と争いが絶えなかったのですが、永享12 (1440)に安芸武田氏第5代の武田信栄が若狭国守護となり、本拠を若狭国に移し、家臣の多数も若狭国に移住したことから安芸国側の守りが手薄になると大内氏との対立がより深まっていました。武田信栄が若狭国に移って以降は父親の安芸武田氏第4代・武田信繁が分郡守護代として佐東銀山城に残り、安芸武田軍を指揮していました。文安4(1447)、東西条(現在の東広島市)にも領地を所有していた大内氏が安芸国内に侵攻し、安芸武田軍と大内軍が衝突する事態が起きていました。この時に窮地に陥った安芸武田氏に援軍を差し向けたのは瀬戸内海の支配や対外貿易をめぐって大内氏と対立関係にあった細川氏。細川氏が安芸武田氏支援の姿勢を強めてきたことで、安芸武田氏と大内氏の対立は中央政界とも直結するものとなりました。また、長禄元年(1457)には、厳島神社の神主・佐伯親春が武田信繁との所領争いで舅の大内教弘を頼ったため、大内教弘が安芸国に再び侵攻し、居城の佐東銀山城と己斐城が攻め込まれました。この時は室町幕府の命令を受けた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経らの救援で落城を免れたのですが、これも細川氏がバックで動いたからでした。このように安芸武田氏にとって大内氏は不倶戴天の敵とも言える存在で、細川氏とは力強い同盟関係にあったと言えます。

ちなみに、武田信繁は寛正6(1465)に死去し(享年76)、その後、ワンポイントリリーフの形で安芸武田氏の本拠・佐東銀山城の城主として入城し、安芸国の分郡守護職も兼務する若狭武田氏当主の武田信賢に成り代わって守護代を務めていた武田国信のそのまた代わりの留守居役を務めて領国を守っていたのが、その後、伊予武田氏を興し初代当主となる武田信繁の弟の武田信友でした。


こちらは佐東銀山城の本丸跡です。江戸時代以降も城地が荒らされることはなく、現在は周辺地域の住民による保全活動により、ハイキングコースとして定着しています。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)


応仁元年(1467)から始まった応仁の乱では武田信賢は弟の国信、元綱ら若狭武田氏&安芸武田氏一族を率いて細川氏頭領の細川勝元率いる東軍に属し、赤松政則らとともにその中核をなし、京の都で市街戦を展開しました。これは大内政弘率いる大内氏が山名宗全率いる西軍の主力として参戦していたことが大きく影響していたのは間違いないことです。文明3(1471)6月に武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家(安芸武田氏)2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになったというのは前述のとおりなのですが、ここに大内氏が深く絡んできます。四男の武田元綱が大内氏方の毛利・福原氏らの勧誘を受け、西軍、すなわち大内氏方に突如転向したのです。武田元綱が大内氏方に奔ったのは、安芸国の佐東銀山城にあって父・武田信繁から受け継いだ安芸分郡守護代という武田氏の庶流的な地位から脱却して、安芸武田氏として嫡流である若狭武田氏惣領家からの分離独立を図りたかったからだとされています。しかし、当時、安芸武田氏勢力も東軍に属しており、思うように独立できなかった武田元綱は西軍に属する大内氏に摺り拠っていったのであろうと容易に推察されます。


武田山の標高は410.5メートル。意外と高い山です。本丸のあった山頂からは、麓に広がる祇園の町、ゆったりと南流する太田川、高層ビルが林立する市街地を一望することができます。さらに向こうには、絵のような島々が浮かび、光り輝く瀬戸内海の絶景が続きます。(写真は広島市在住の井渕努様よりご提供いただきました)



新たに佐東銀山城城主として安芸武田氏を興すことになった武田信繁の四男・武田元綱が大内氏側に転向したことで居場所がなくなったのが佐東銀山城の城代を務めていた武田信繁の弟の武田信友。彼は兄・武田信繁と共に幾度も大内氏と命がけで戦ってきたと思われますので、甥っ子・武田元綱に「はい、そうですか」とついていくことができなかったのだと思います。そして向かった先が瀬戸内海を渡った先の伊予国。ここにも大内氏と対立している一派が存在していました。それが伊予国守護の河野教通(通直)でした。

  

……(その2)に続きます。(その2)は第82回として掲載します。


伊予武田氏ってご存知ですか?(その3)

  公開日 2021/08/0 5   [晴れ時々ちょっと横道] 第83回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その3 )   【9.伊予武田氏の終焉】   地図はクリックすると拡大されます ( その 1) で述べたように、天正 10 年 3 月 11 日、織田信長...