2021年7月1日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その5)

 公開予定日2021/10/07

 

[晴れ時々ちょっと横道]第85回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その5)

 

11.3 黒川氏と伊予武田氏の終焉]

そうした黒川氏と伊予武田氏(武田信重・信戻・信明)にも武家としての終焉の時がやって来ます。伊予武田氏の居城である朝倉龍門山城が落城して武田信勝が討ち死にした2年後の天正12(1584)、黒川通博が亡くなったのですが、黒川通博には男子がいなかったため、家督は先代・黒川元春(通尭)の義弟(正室の弟)である黒川通貫が周敷郡の旗頭とともに継承します。おそらくこの頃には伊予武田氏も第6代の武田信繁から子の信戻・信明の代に移っていたのではないでしょうか。この時代になると四国では土佐国の長宗我部元親がほぼ支配権を握るようになります。それまで安芸国の毛利氏と同盟関係を結んでいた河野氏ですが、毛利氏の対織田信長戦の戦況がしだいに不利になり、それに加えて河野氏の権勢の後退が続くなかで、河野氏麾下の国人衆の中では毛利離れが加速し、黒川氏や金子氏といった東予地方の有力国人衆は長宗我部元親と同盟関係を結ぶところが増えていました。特に黒川氏はおそらく黒川通博の先代の黒川元春(通尭)の時代から長宗我部氏と極めて密な関係を築いていたのではないかと推察されます。なんと言っても黒川元春(通尭)は黒川通矩の妹婿になり黒川姓を名乗る前の名前は長宗我部元春。あの長宗我部元親の叔父にあたる人物ですから。

天正10(1582)に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った羽柴秀吉がその後の織田家内部の勢力争いにも勝ち、織田信長の後継としての地位を得ました。羽柴秀吉は、全国統一事業が順調に進むなかで、毛利氏との和睦ができあがると、次に四国平定事業に着手しました。羽柴秀吉・長宗我部元親とも当初は交渉による和解を模索したようなのですが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂。天正13(1585)6、羽柴秀吉は四国への出陣を決定し、淡路国から阿波国、備前国から讃岐国、安芸国から伊予国の三方向から四国への進軍を命じました。伊予国へ進軍して来たのは毛利輝元配下の中国地方8ヶ国の軍勢で、その数は3万人から4万人にも達したと言われています。627日に小早川隆景率いる第一軍が今治浦に上陸。続いて75日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦と新間(現在の愛媛県新居浜市)に上陸しました。その最初の攻撃目標は宇摩郡・新居郡を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である新居郡の金子元宅(もといえ)。金子元宅は当時東予地域の国人衆の実質的な指導者であり、前述のように長宗我部氏とは同盟関係にありました。このどう考えてみても勝ち目の見えない状況においてどう対処するべきかを討議した軍議の場において、圧倒的戦力で攻め込んでくる小早川隆景率いる四国討伐軍を前にして動揺する家臣や他の国人衆からは降伏すべし、とか和睦すべしとの声が多く出されたようなのですが、そういう中、金子元宅は「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて、他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。勝負は時の運なり、死力を尽くして一戦を交えて、刀折れて矢尽きるまで身命を賭して戦うべし」と激しい檄を飛ばし、敵に臆することなく戦うことの決意を表明。その檄を受けて東予の国人衆約2千人は決戦に向けて一致団結したと言われています。これで始まるのが「天正の陣」と呼ばれる戦国時代における四国最大の決戦です。

 


金子氏にとって主家にあたる石川氏の当主であった高峠城城主の石川虎竹丸はまだ8歳と幼く、金子元宅は後見人として高尾城に籠もり、居城である金子城(新居浜市滝の宮町)には実弟の金子元春を置きました。この体勢で地元勢力約2千人とともに小早川隆景率いる四国討伐軍を迎え撃ったのですが、714日、金子城はあえなく落城(金子城の戦い)。金子城落城後、金子元宅は高尾城(西条市氷見)に拠ってなおも抵抗を続けたのですが、その時残っていた戦力は総勢6百人程度であったとされています。圧倒的な兵力で怒涛のように攻めかかる小早川軍に対し、高尾城も多勢に無勢で、717日に落城(高尾城の戦い)。最期を悟った総大将の金子元宅は翌718日に石川虎竹丸を自身の嫡男の毘沙寿丸ともども土佐国の長宗我部元親のもとに逃がした後(おそらくこの逃走には現在の国道194号線ルートが使われたと推定されます)、自ら高峠城に火を放ち、残った100人ほどで野々市ヶ原(西条市野々市)に撃って出て奮戦。その生涯を終えました。金子軍は決して降伏する事はなく、最後は13人になるまで戦ったとされています(野々市ヶ原の戦い)軍事用語に“全滅”・“壊滅”・“殲滅”という言葉があります。いずれも一つの部隊が大きな損害を受け組織戦闘力を喪失した状態を指す言葉です。これによると、“全滅”とは部隊の約3(戦闘兵の約6)を喪失した状態のこと。壊滅とは部隊の約5(戦闘兵の約10)を喪失した状態のこと。殲滅とは部隊の10割を喪失(全部隊消滅)した状態のことを意味します(諸説あります)。この区分から言うと、天正の陣における金子元宅率いる新居郡・宇摩郡の国人衆の最後は、全滅壊滅どころではなく殲滅状態、類義語で言うと、“玉砕”状態だったと言えようかと思います。戦国時代の伊予国(愛媛県)を語る上において、絶対に忘れてはならない壮絶な戦いでした。

 
西条市洲之内にある高峠城跡です。高峠城は松山自動車道の中野トンネルがある山塊(標高233メートル)の上にあります。高峠城は新居郡・宇摩郡の旗頭であった石川氏の居城で、天正13(1585)、豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻してきた際には金子元宅が総大将として高峠城に入り、東予軍の指揮を執りました。

西条市氷見にある山塊(標高240メートル)の上に高尾城がありました。この高尾城は高峠城城主で新居郡・宇摩郡の旗頭であった石川通清が、周敷郡の旗頭として台頭してきた新興勢力の剣山城城主・黒川元春に対する備えとして築いた城とされています。

小早川隆景は金子元宅らの見事な散り様を称え、将兵たちの亡骸に向かって合掌し、鎧の上に法衣を置いて、死者の霊を供養するため「討つ者も、討たれる者も、夢なれや、早くも醒めた、汝等が夢」と謡い、自ら“弔いの舞”を舞ったと言われています。居合わせた将兵の舞に合わせた拍子がトンカカと聞こえた事から、今でも壬生川を中心とした西条市西部に残る「トンカカさん」という盆踊りが生まれたとされています。また、小早川隆景は、この戦闘で戦死した1千人に余る死者の亡骸を1ヶ所に集め、野々市の「千人塚」に手厚く葬ったのだそうです。ちなみに、金子元宅の実弟の金子元春は金子城落城後、落ち延びて自害しようとしたのですが、逃げ込んだ先の寺院の和尚に諭されて出家し、僧となり、その後、金子元宅らの供養のために金子山麓の金子氏館跡に元和4(1618)頃に慈眼寺を建立したのだそうです。

 

西条市野々市にある千人塚です。この千人塚は小早川隆景が野々市ヶ原の戦いで戦死した金子元宅方の軍勢を弔うために建てたものだとされています。

千人塚の横に建つ総大将・金子元宅の供養塔です。

こちらは松木三河守安村の供養碑です。松木安村は新居郡生子山城(新居浜市角野新田)城主で、「高尾城の戦い」では金子山城主・金子元宅に従って高尾城へ入り、籠城ののち野々市ヶ原の合戦で討死しました。

野々市ヶ原古戦場の碑です。小早川隆景に率いられた四国征伐軍の2万人とも3万人とも伝えられる大軍勢による怒涛のような攻撃に対し、金子元宅は総勢6百人程度の戦力とともに高尾城に籠って防戦したのですが、多勢に無勢で落城し、最後は100人ほどで野々市ヶ原に撃って出て、決して降伏することなく全滅しました。


野々市ヶ原の戦い後、残る新居郡・宇摩郡の諸城もことごとく陥落し、両郡での伊予国勢の抵抗は終息しました。この東予二郡の制圧後、小早川隆景率いる四国討伐軍は進路を西へ、そしてすぐに北西に転じます。まずは周敷郡の旗頭である黒川通貫が籠る剣山城に襲いかかります。黒川勢は大いに奮戦したものの圧倒的な兵力で襲いかかってくる四国討伐軍の勢いを止められず、剣山城は落城。黒川通貫をはじめとする黒川勢は河野氏宗家・河野通直が立て籠る道後湯築城に向けて桜三里を越え讃岐街道を西に敗走しました。その際、伊予武田氏も同行したと思われます。勢いに乗った小早川隆景率いる四国討伐軍は周敷・桑村・越智・野間・風早の各郡を次々と制圧して道後平野に達し、8月末には河野通直が籠る湯築城が攻囲されます。その間の86日に長宗我部元親が四国討伐軍の総大将・羽柴秀長に降伏したこともあって、小早川隆景の薦めにより湯築城は開城。河野氏宗家当主の河野通直は大名として残る道を絶たれ、新たな伊予国35万石の支配者となった小早川隆景の元に庇護されました。そして天正15(1587)、河野通直が安芸国竹原で嗣子がないまま没したため、大名としての名門河野氏は57代をもって滅亡しました。

 

新居浜市滝の宮町にある金子城跡です。新居郡と宇摩郡の国人衆の実質的な指導者であった金子元宅の居城で、小早川隆景に率いられた四国征伐軍の侵攻を受けた際には弟の金子元春が入って守ったのですが、多勢に無勢であえなく落城しています。現在は滝の宮公園として整備されています。

金子城への登城口は現在は展望台への遊歩道として整備されています。とは言っても、そこはかつての“中世山城”の登城道。遊歩道と呼ぶには結構キツイ山道です。


金子城の主郭は第一展望台(標高80メートル)のところにありました。写真は第二展望台から見た新居浜市街の風景です。

 

黒川氏もその後は小早川隆景麾下に組み込まれたらしく、天正の陣の翌年の天正14(1586)、小早川隆景が九州征伐に向かった際には黒川通貫も小早川隆景に促されて出陣したという記録が残っているので、伊予武田氏の武田信戻(のぶより)も信明も天正の陣で生き残っていたとすると、それに従ったのではないかと推定されます。江戸時代に入り、黒川氏の一族は小松藩一柳家の家臣や、帰農して各集落の庄屋等になったとされていて、伊予武田氏もおそらく帰農して地域の庄屋等になったのではないかと推察されます。ちなみに、天正10(1582)に龍門山城が落城した際に、討ち死にした城主武田信勝の五男・源三郎信猶が家族とともに周敷郡石田(現在の西条市石田。JR玉之江駅付近)に落ち延びたと(その3)で書きましたが、もしかすると、当時はここに武田信戻か信明、あるいはその有力家臣が住んでいたのかもしれません。このあたりを領地とする城は鷺ノ森城。その鷺ノ森城は天正3 (1575)に金子氏と黒川氏に攻められて落城し、その後は天正15(1585)に小早川隆景率いる四国討伐軍により落城するまで金子氏の支配下に置かれていたとされていますが、もしかしたら、武田信戻か信明が城代等として入城していたのかもしれません。加えて、壬生川を中心とした西条市の旧周桑郡一帯に今でも武田姓の家が多いのは、江戸時代に入って武田信戻や信明といった伊予武田氏一門が刀を捨て帰農して、ここで暮らしていた証拠なのかもしれません。

そうそう、(その3)で西条市石田にある武田信勝の五男・武田源三郎信猶の墓所を訪ねたことを書かせていただきましたが、その際、その武田信猶の墓の隣に非常に興味深い人物の墓が立っていることを知り、少し驚きました。それが、剣山城の最後の城主で周敷郡の国人衆の旗頭であった黒川通貫の墓です。そして、その墓所の隣には「黒川」の表札と家紋が掲げられたお屋敷のような大きな家が。黒川通貫の墓を守っているということは、おそらく黒川通貫から続く黒川氏の本家筋のお宅なのでしょう。こういうことからも、当時、伊予武田氏と黒川氏の間に深い関係があったことが窺えます。

 

剣山城の最後の城主で周敷郡の国人衆の旗頭であった黒川通貫の墓碑です。

武田信猶と黒川通貫の墓の位置関係です。右が武田信猶、左が黒川通貫の墓碑です。


11.4 龍門山城落城の真相]

ここまで書いてきて、天正10(1582) 128日、伊予武田氏の居城である龍門山城が村上(来島)通総の奇襲を受け落城し、伊予武田氏第7代の武田信勝が討ち死にした真相が朧げながらではありますが、少し見えてきた感じがします。実はこの時、村上(来島)通総勢の奇襲攻撃を受けたのは龍門山城だけではありませんでした。私が調べた限りにおいては他にも2城が攻撃を受けています。霊仙山城(今治市宮ヶ崎)では河野十八家の1人だった城主・中川親武が討ち死にしています。また正岡氏(幸門城)の分家・正岡経長の守る鷹取山城(今治市古谷)も攻められ、正岡経長は降伏しています。先ほど、この時期、河野氏麾下の国人衆の中では毛利離れが加速し、黒川氏や金子氏といった東予地方の有力国人衆は長宗我部元親と同盟関係を結ぶところが増えきていたと書きましたが、おそらく原因はこれでしょうね。当時の黒川氏の当主は正岡氏から養子に入った黒川通博。そして、それを客将として補佐していたのは武田信勝の兄の武田信繁。そりゃあ誰がどう見たって黒川氏、正岡氏、伊予武田氏は長宗我部派ですわね。

それを快く思っていなかったのが彼等の主家にあたる伊予国守護の河野氏と、その河野氏と同盟関係にあった毛利氏の毛利輝元。当時、毛利氏は安芸国から中国地方8ケ国(安芸国、備中国、備後国、周防国、長門国、石見国、出雲国、因幡国)を支配する総石高112万石の西国の最大勢力とも言える大大名にまで成長しており、次の領土拡大のターゲットは間違いなく四国だったはずです。それで安芸国とは瀬戸内海を挟んだ対岸にある伊予国の河野氏と同盟関係を築き、四国侵略の足掛かり、橋頭堡にしようと思っていたのでしょうが、河野氏の権力があまりに衰退していたので伊予国を1つにまとめきれず、結果、四国侵攻計画が進まず、相当イライラが募っていたのではないかと思われます。それと、この状況を自らの野望を実現するために利用しようとした真の黒幕がもう一人いました。それが羽柴(豊臣)秀吉。前述のように、織田信長が本能寺で自刃し、主君の仇明智光秀を討つため、速やかに毛利氏との講和交渉を取りまとめ、交戦中だった備前高松城から中国路を京に向けて全軍をもって取って返したいわゆる「中国大返し」に成功し、その後の織田家臣団の中での権力抗争にも打ち勝って、天下統一に向けて動き出した羽柴秀吉にとって次のターゲットは四国と九州。特に四国では一代で土佐国の一国人から四国を代表する戦国大名に成長し、阿波国・讃岐国の三好氏、伊予国宇和郡の西園寺氏らと戦って四国中に勢力を拡大しつつあった長宗我部元親の存在が大いに目障りになっていたのだと思います。そこで羽柴秀吉と毛利輝元が協議し、東予の長宗我部派の国人衆に長宗我部元親と手を切れ!と脅迫に近い警鐘を鳴らすべく村上(来島)通総に命じて行わせたのが龍門山城をはじめとした長宗我部派の国人衆の城への奇襲攻撃だったのではないでしょうか。おそらく毛利氏の兵もその奇襲に加わっていたのではないかと推察します。歴史の教科書や歴史小説に決して取り上げられることはないのですが、こうやって、四国の片田舎でも時代の大きな流れの中で、それに関連する様々な事件が起こっていたということですね。

それにしても、この東予地方の有力国人衆は、武力で平定された南予(宇和郡、喜多郡)の国人衆と異なり、特にドンパチをすることもなく長宗我部元親と同盟を結んでいます。そこには「四国の覇権を四国人以外に渡すわけにはいかない」…という強い意志、伊予国の国人衆としての矜持のようなものを感じます。当然そのような脅迫に屈することもなく、2年半後の天正13(1585)6月には羽柴秀吉に命じられた小早川隆景に率いられた四国討伐軍との戦いに臨むことになるのですが、この戦いでも圧倒的な戦力差を前にしても決して降伏することはなく、最後は野々市ヶ原で壮絶に討ち死にした東予軍の総大将・金子元宅を見ると、決して長宗我部元親に隷属されていたわけではなく、前述の「四国の覇権を四国人以外に渡すわけにはいかない」という強い意志から来る強い同盟関係があったのではないか…と感じてしまいます。

 

11.5 余談:私のファミリーヒストリー?]

まったくの余談ですが、私の母の旧姓は“佐伯”。母方の祖父は文台城のあった西条市丹原町志川から愛媛県道153号落合久万線で中山川に沿って久万高原町や高知県方向に入っていった山深い山中の西条市丹原町明河の保井野集落の出身で、元々は多くの山林を所有して和紙の原料となるコウゾ()やミツマタ(三椏)の栽培を行っていたのですが、若い頃に新居浜市に出てきて別子銅山に勤めていた人でした。母は新居浜市の生まれですが、祖父の生家に何度か訪れたことがあり、そこは深い山中にあるとは思えない古くて大きな家で、愛媛県の方が文化財調査にも来たことがあるような立派な古民家だったそうです(祖父はそこの長男です)。で、その丹原町明河の保井野集落の近くにあるのが赤滝城趾。この赤滝城は妹婿の黒川元春(長宗我部元春)に家督を譲った義兄の黒川通矩が入城したとされる城です。戦国時代末期の黒川通博の時代、赤滝城や鞍瀬大熊城といった愛媛県道153号落合久万線沿いの城の城主を務めたのが黒川氏の重臣(総大官)だった佐伯雄之。佐伯雄之は天正13(1585)の天正の陣で小早川隆景率いる四国討伐軍により剣山城が落城し、主君黒川氏による周敷郡支配が終わったことで帰農し、この明河周辺の集落の長(おさ)として、和紙の原料となるコウゾ()やミツマタ(三椏)の栽培を行っていたのではないかと推定されます(江戸時代、小松藩は製紙業が盛んで、和紙は藩の財政を支える重要な産品だったようです)。もしそうであれば、このあたりで佐伯姓の家はさほど多くないので、母方の祖父の家系はおそらくその黒川氏の重臣の佐伯氏だったのではないかと考えられます。祖父は「佐伯家は平家の落人だ」と生前よく言っていましたが、だとすると、どうも平家の落人ではなくて、天正の陣での“落人”ってことのようです。

また、母方の祖母の旧姓は越智。生家のあった西条市丹原町志川は、まさに伊予武田氏が入った文台城のあったところです。その志川で祖母の生家は今でも屋号で呼ばれるくらいの大きな農家です。この丹原町志川周辺で越智姓の家はさほど多いとは思えないので、いつの時代かに越智郡からやって来た家だと思われます。私の想像では、おそらく伊予武田氏第6代の武田信繁が子の信戻・信明を連れて龍門山城のあった越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉)から周敷郡志川の文台城に移ってきた時に、重臣の一人として従って移り住んできた家ではないかと思われます。ちなみに、母方の祖母の姉は黒川家に嫁いでいます。

私の父方の祖父の家(すなわち私の本籍地)があるのは今治市朝倉の太ノ原。まさに伊予武田氏の居城の1つである重地呂城のあったところです。祖父は次男で父が生まれた家は分家でしたが(父は分家の四男)、祖父の兄が継承した越智本家は武田家菩提寺である無量寺の檀家総代を勤めるような旧家でした。そういうことから、先祖は重地呂城・龍門山城城主の伊予武田氏に使える有力な家臣の1人だったのではないかと推察されます。また、父方の祖母の実家は今治市孫兵衛作(湯ノ浦温泉のあたり)の長井家。この長井家は孫兵衛作という地名の興りとなった新田開拓者の長野孫兵衛通永が、親交のあった周桑郡黒谷村(くろのたにむら:現在の西条市黒谷)の長井甚之丞の次男・又四郎実能を婿養子として迎え、旧姓の長井姓のまま自身が興した事業を継がせた家で、その長井家が代々孫兵衛作村の庄屋を勤めてきました。長野孫兵衛通永は河野十八将の一人である幸門城(今治市玉川町龍岡)城主・正岡経政の旗本衆・長野通秀の三男に生まれたと長野家の系図には書かれています(この長井家の家系が一番はっきりしています)。ちなみに、戦国時代末期に養子に入って黒川氏を継承した黒川通博はこの幸門城城主の正岡氏の出です。また、長井甚之丞のいた周桑郡黒谷村は伊予武田氏の居城であった龍門山城のすぐ南西の麓(現在の朝倉ダムを挟んだ対岸)に位置しています。(その2)でも書きましたが、龍門山城は鎌倉時代に伊予国守護・佐々木三郎盛綱の重臣であった長井斎藤景忠によって築かれたと言われています。その後も長井斎藤一族は龍門山城を守るかのように黒谷の地に暮らし、現在も黒谷の住人のほとんどが長井姓であるとも言われています。したがって、戦国時代、伊予武田氏が龍門山城の城主だった時、長井家も伊予武田氏の重臣だった可能性が極めて高いと思われます。

このように、伊予武田氏について興味を持って調べていくうちに、父方の祖父母と母方の祖父母という4つ家系が、伊予武田氏をキーワードとして朧げながらではありますが見えてきた感じがします。そしてそれぞれが伊予武田氏を軸に微妙に関係し合っている感じさえします。共通しているのは、私の祖先に繋がる父方母方双方の祖父母という4つの家系が、どれも天正13(1585)の天正の陣で小早川隆景率いる四国討伐軍により主家である河野氏、伊予武田氏、黒川氏、正岡氏が滅亡したことで刀を捨て、帰農して農家になった家だということ。これは伊予武田氏所縁の越智郡朝倉郷と周敷郡志川の両方に深い関係のある私でしか気づかなかったことで、おそらく私が伊予武田氏に興味を持った時点で、先祖が私に「オマエのDNAに刻まれているこの面白い関係性の謎を解いてみろ!」と与えた謎解きの問題だったのかもしれません。この謎解きの途中で、越智郡や周桑郡をはじめとした郷里伊予国(愛媛県)の歴史をいろいろと調べてみたのですが、歴史の教科書や歴史小説等で決して語られることのないこうした郷土史の面白さにドンドンはまっていくのを感じます。なにより身近なことですので、リアル感がありますから。

いずれにせよ、戦国時代の荒波、というか激動の中でご先祖様がしぶとく生き延びていただいたおかげで今の私がいるわけで、ご先祖様には深く感謝しないといけません。

 

【12.さらにもう一つの伊予武田氏】

江戸時代以降も消息が分かっている伊予武田氏一族は、調べてみると実はほかにもいました。それが伊予武田氏第3代 武田信高の第3子・信光の子の信治。すなわち武田信重・信勝兄弟の父・信充の従弟にあたります。武田信治は河野通直直属の家臣として湯築城に詰めていたようなのですが、天正13(1585)8月に小早川隆景率いる四国討伐軍の攻撃を受けて、さしたる抵抗もせぬまま開城。河野氏滅亡に伴い、新たに讃岐国の領主となった仙石秀久のもとに身を寄せ、翌天正14(1586)の九州征伐には仙石軍の一員として参戦。豊後国戸次川の戦いで島津軍に大敗を喫した後、高野山へ逃れたのですが、のちに許されて織田信雄に仕え、京都で亡くなったとされています。

その武田信治の嫡男が武田信重(徳丸・道安・法眼・法印)。この武田信重は同族の若狭武田氏出身の建仁寺永雄長老(英甫永雄)に学び、医を業いとして京都に住み、紀伊和歌山藩初代藩主である浅野幸長に仕えたとされています。元和9(1623)、後水尾天皇を診察し、法眼(医師の位)に就き、寛永8(1631)には江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠を、翌寛永9(1632)には第3代将軍の徳川家光を診察したとされています。寛永21(1644)、紀州藩主徳川頼宣(徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖)の病気を治し、法印(医師の最高位)に叙せられ、尾張藩主徳川義直(徳川家康の九男で、尾張徳川家の祖)にも投薬を施したとされています。この武田信重の弟の武田信勝、息子の武田信良・武田信成も父親に継いで医学の道に進み、時の将軍や天皇を診察するなどして、医師の最高位である法印の称号を叙しています。

 

【13.安芸武田氏と若狭武田氏の終焉】

最後に、安芸武田氏と若狭武田氏のその後についても軽く触れておきます。

応仁の乱の最中の文明3(1471)6月に若狭武田氏の当主であった武田信賢が51歳で病死すると、それ以後、若狭武田家は2つに分裂し、嫡流である若狭武田氏は武田信栄・武田信賢の弟で武田信繁の三男・武田国信が継ぎ、もともとの安芸武田氏は同じく武田信賢の弟で武田信繁の四男・武田元綱が継いで新たに独立した安芸武田氏が興ることになったということは(その1)で書かせていただきました。

安芸武田氏と西軍の主力である周防国・長門国・豊前国の守護・大内氏とはもともと対立関係にあり、応仁の乱でも若狭武田氏・安芸武田氏は東軍方について参戦したのですが、武田元綱は大内氏の圧力に屈し西軍に転じました。その後、若狭武田氏と和解し、安芸分郡の経営を守護代として任されたものの、分郡守護職は兄の武田国信が掌握することになりました。応仁の乱に関しても武田元綱も若狭武田氏と同じく東軍に味方し、再び大内氏と敵対することになったのですが、武田元綱の子の武田元繁が、足利義材を奉じた永正5(1508)の大内義興の上洛に際してこれに属したことで、第11代将軍足利義澄方であった若狭武田氏と再度決別することになりました。しかし、永正12(1515)、大内義興が武田元繁を帰国させると、武田元繁は出雲国守護代の尼子氏らと組んで大内氏に対抗するようになりました。

その抗争の中で安芸武田氏は徐々に衰退していき、そして安芸武田氏第9代・武田信実の時代の天文10(1541)に、大内氏の命を受けた毛利元就によって200年以上も安芸武田氏の居城として守り通してきた佐東銀山城は落城し、安芸武田氏も滅亡しました。ちなみに、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、安芸武田氏最後の当主である武田信実の従兄弟である武田信重の子にあたるとされ、安芸武田氏の中で唯一後世に名を残した人物です。

次に若狭武田氏についてです。文明3(1471)6月に若狭武田氏の当主を継承した武田国信は若狭国、丹後国加佐郡を中心に領国経営を行う一方で、室町幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵していたようです。武田国信の子・武田元信と孫・武田元光の代に若狭武田氏は最盛期を迎えます。武田元光は大永2(1522)、小浜に後瀬山城を築き、大永7(1527)には管領・細川高国に頼られ室町幕府第12代将軍・足利義晴を奉じて上洛もしたのですが、細川晴元方の三好氏と波多野氏に敗北しています。その敗戦後、他の守護大名と同様、周辺諸国からの圧力や有力国人の離反などが相次いで国内での勢力を急速に弱めていくことになりました。

武田元光の孫・武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行。武田義統の死去に伴い子の武田元明が家督を継いだ永禄11(1568)には、越前国の戦国大名・朝倉義景の若狭進攻によって120年間守護職を続けた領国を失ってしまいました。武田元明は、朝倉氏によって身柄を保護され、朝倉氏の居城・一乗谷城での居住を強いられていたのですが、天正元年(1573)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国しました。とは言え、織田信長より若狭国を任されたのは丹羽長秀であり、武田元明は大飯郡南部の石山3,000石のみの領有を許されただけでした。天正10(1582)6月に起きた本能寺の変では、旧領回復を狙って丹羽長秀の居城・佐和山城を陥落させ、織田信長を討った明智光秀に加担したのですが、山崎の戦いで明智光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、ここに若狭武田氏は滅亡しました。

このように天文10(1541)に安芸武田氏が、そして天正10(1582)には3月に甲斐武田氏が、6月に若狭武田氏が、そして12月に伊予武田氏が相次いで滅亡し、武門の名門としての武田氏宗家は完全に歴史の表舞台から姿を消しました。

 

【14.あとがき】

ここまで5回にわたり、伊予武田氏を中心に今治市南部の朝倉や西条市西部の旧周桑郡地域の戦国時代の国人衆と呼ばれる地方の弱小豪族達の歴史について、書かせていただきました。決して歴史の教科書や歴史小説、映画やTVドラマ等で取り上げられることのない地方の弱小豪族達の歴史ですが、調べてみるとメチャメチャ面白いです。記録が断片的にしか残っていないので、背景となる伊予国、さらには全国的な社会情勢や動向、領地や居城とした城郭の地政学的分析、近隣の国人衆とのパワーバランス、繰り広げられた戦闘の記録等と組み合わせながら独自の解釈で読み解くしかないのですが、その過程で当主を中心に一族の生き残りを賭けた様々な人間ドラマが見えてくる感じです。それも、歴史小説等で描かれる天下の覇権を狙うような壮大なドラマというわけではなく、大きな時代の流れの中で揉みくちゃに翻弄されながらも、あくまでも一族と領民の生き残りだけを賭けた生活感溢れる家族の物語と言ったほうがいいかもしれません。私も社員数100人にも満たない気象情報会社の経営を15年間務めさせていただきましたが、その経験から読み解ける部分もあり、中小企業の経営にも似ています。加えて、私自身の郷里で400年〜500年前に実際に繰り広げられたであろうドラマだけに、非常に親近感が湧き、現地に出掛けてそこからの風景を眺めていると、当時の様子が頭の中に鮮明に浮かんでくる感じです。皆さんもご自身の郷里を戦国時代に治めていた国人衆にフォーカスして、郷里の歴史を紐解いてみられたらいかがでしょう。謎解きのようでメチャメチャ面白く、すぐにハマってしまうと思います。

歴史には諸説あります。私が今回書かせていただいたのは、私がこれまで調べたことをベースとして立てた一つの仮説や推論に過ぎません。さらに調査を進めることで新たな情報が加わると、その仮説や推論はすぐに変わっていくと思っています。また、私のほかにもこのあたりの郷土史を調べておられる方もいっぱいいらっしゃると思いますので、そういう方々とも意見交換をさせていただきながら、過去の真実に少しでも近づきたいと思っています。400年以上も前のことなので、真実がどうであったのかは、残念ながら誰にも分かりません。

 

……「伊予武田氏ってご存知ですか?」完結

 



2021年6月24日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

 公開日2021/09/02

 

[晴れ時々ちょっと横道]第84回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その4)

 

【11.もう一つの伊予武田氏】

 

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(その2)の最後に、伊予武田氏第6代・武田信重は弟の第7代・武田信勝に龍門山城主を譲り、周敷郡志川(西条市丹原町)にあった文台城の城主になったということを書きました。正確に読むと、武田信重は龍門山城を弟の武田信勝に譲ったとは書いていますが、家督まで譲ったとは記録に残っていないわけです。えらくあっさりと記録に残されているのがかえって謎めいていて、実際には家督までは譲ってなくて、伊予武田氏は第6代の武田信重の代に周敷郡志川にあった文台城に拠点を移し、もともとの居城・龍門山城を弟の武田信勝に任せたと解釈したほうが正しいのではないかと、私には思えてきました。


西条市丹原町志川(旧周敷郡志川)にある文台城跡です。文台城は松山自動車道の高架のすぐ南側、志河川ダムとの間にある山塊(標高約180メートル)の山頂にあり、現在は登城道が整備されています。

文台城のある山塊は竹林に覆われていて、登城道は竹林の中を登っていきます

竹林が途切れると、鬱蒼とした木々の間をひたすら登っていきます。登城道というよりも“登山道”です。途中、道の幅が狭くなっているところもあり、ちょっとワイルドです。

山塊の山頂に文台城の主郭がありました。伊予武田氏の家督と居城・龍門山城を弟の武田信勝に譲った伊予武田氏第6代の武田信重は、息子の信戻・信明とともにこの文台城に移りました。


私の興味を引いたのがその文台城のあった周敷郡志川という“場所”です。ここは現在の西条市丹原町志川(旧周桑郡丹原町志川)。国道11号線で松山市から新居浜市方向に向かうと、桜三里で高縄半島を横断して、周桑平野に出てきてすぐのところです。ここは私の母方の祖父母が晩年暮らしていた西条市丹原町湯谷口のすぐ隣の集落で、母方の祖母の実家があったところ。私にとっては子供の頃からの馴染みの場所の1つでもあります。私の父の生家で本籍地である今治市朝倉太ノ原が伊予武田氏の拠点の1つ重地呂城のあったところで、我が家の代々の菩提寺が伊予武田氏の菩提寺でもある今治市朝倉水ノ上の無量寺だということはこれまでも書かせていただきましたが、伊予武田氏第6の武田信重が移っていった先が母方の祖母の生家がある西条市丹原町志川。この偶然は私になにかを暗示しているとしか思えませんでした。もしかしたら、遠い先祖が「この謎を解けるのはオマエしかいない。解いてみよ」と言っているのかもしれません。私が伊予武田氏第6代武田信重が周敷郡志川に移り住んで文台城の城主になったという記録を目にした時の衝撃たるや、鳥肌が立つくらいでした。

 なぜ伊予武田氏第6代の武田信重の移っていった先が周敷郡志川の文台城なのか? 一族の家督を継承している“長(おさ)”が一族の主だった者達を率いて移り住むためにはそれなりの明確、かつ納得できる理由、言ってみれば必然のようなものがないといけません。その理由とは何か? その謎を探るために、まず当時の周敷郡周辺の状況から調べてみました。当時の伊予国は守護職を務める河野氏の勢力が急速に衰退していって、国内は能島村上氏や来島村上氏、忽那氏、西園寺氏、宇都宮氏、金子氏といった有力な国人衆が新たに勢力を台頭させてきて、その国人衆同士の勢力争いの抗争が絶えなかったということは(その2)で書かせていただきました。その伊予国内の国人衆同士の抗争の中で、周桑平野で急激に台頭してきた一族がいました。それが黒川氏です。

 

11.1 戦国時代末期の周桑平野の状況…黒川氏の台頭]

黒川氏は元々は西条市から加茂川に沿って愛媛県道142号石鎚小松停車場線をドンドン遡り、黒瀬ダムの先で愛媛県道12号西条久万線(かつての有料道路:石鎚スカイライン)が分岐したさらに先の黒川郷(現在の西条市小松町石鎚字黒川)にあった千足山・坦ノ城(標高450500メートル)を居城とする国人でした。この黒川郷ですが、かつてはここが西日本最高峰・石鎚山(1,982メートル)への一番有名な登山口で、最盛期には毎年数万人もの登山客がこの黒川郷から石鎚山に登っていくなど大層賑わったところでした。昭和41(1966)に黒川郷から愛媛県道12号西条久万線(旧石鎚スカイライン)を少し奥に入ったところに石鎚登山ロープウェイが開通し、石鎚山登山のロープウェイ利用が一般的になると急激に過疎化が進み、現在は廃村になっています。 


西条市小松町石鎚の黒川集落跡です。標高約500メートルの山深いこの黒川郷の国人衆であった黒川氏の婿養子になったのが土佐国出身の長宗我部元春。その黒川元春は石鎚山の山奥から平地に出てきて、瞬く間に周敷郡の旗頭へと台頭していきました。千足山・坦ノ城がどこにあったのかは判りませんでした。
加茂川の支流であるこの黒川渓谷を黒川口と呼ばれる登山道で黙々と登っていった先が石鎚登山ロープウェイの山頂成就駅になります。

愛媛県道142号石鎚小松停車場線から分岐し、黒川郷までの道は渓谷に沿ってこんな感じのところが続きます。

また、この黒川郷は四国八十八ヶ所霊場巡りの第60番札所・横峰寺の近くにあります。この横峰寺は西日本最高峰・石鎚山の中腹の標高750メートルの地点にあり、急勾配の坂道を息を切らして登って行った先にあります。この横峰寺へ向かうワイルドな遍路道は伊予国(愛媛県)で唯一「遍路ころがし」と呼ばれているような難所中の難所です。横峰寺や石鎚登山ロープウェイに訪れたことがある方なら、黒川郷がどういうところかイメージできようかと思います。


登山届を出すポストです。かつてこの黒川郷が西日本最高峰・石鎚山登山で一番賑わった登山口であったことの名残です。

石鎚小学校と中学校の跡です。学校があるということは、それなりにまとまった数の人達が暮らしていたことを物語っています。

その石鎚山の山奥にいた黒川氏が台頭してくるのが黒川家14代総領の黒川元春(通尭)の時代です。黒川元春(通尭)に率いられた黒川氏一族は山から平野に降りると享禄年間(1528年〜1532)に現在の松山自動車道・小松JCTのすぐ南側にある標高245メートルの山塊の上に剣山城(つるぎやまじょう:鶴来山城とも)を築き、そこを居城に無類の強さで次々と周辺の国人(豪族)衆を滅亡もしくは臣従させ、瞬く間に周敷郡全域の旗頭となり、黒川氏を繁栄に導きました。この石鎚山中から突如出現した黒川元春(通尭)ですが、明治27年に刊行された『伊予温故録』によると、土佐国の長宗我部元秀(兼序)の次男で、長宗我部氏嫡流の長宗我部元国の弟にあたり、あの長宗我部元親の叔父にあたる人物なのだそうです。享禄年間の初めに兄の長宗我部元国と不和になったため長宗我部氏の本拠である土佐国長岡郡(現在の南国市岡豊町)を出奔して、伊予国周敷郡千足村黒川郷の国人(豪族)黒川通矩の妹婿になり、長宗我部の名を捨てて黒川姓を名乗り、黒川元春(後に通尭と改名)と称したといわれています。この時、黒川通矩は長宗我部元春の面構え・眼光を見てこの乱世に必要な人物と見て、兄弟の契りを結び、妹の婿に迎えて黒川姓を名乗らせたうえ、義弟となった元春にそれまでの居城である千足山の坦ノ城を譲り、自らは明河(西条市丹原町明河:中山川の上流)の赤滝城に移ったとされています。そして加茂川と中山川という石鎚山系から周桑平野に流れ込む2つの河川に沿って黒川通矩・元春の義兄弟が同時に2つの方向から下っていき、無類の強さを発揮して周桑平野を瞬く間に平定していったと言われています。 


西条市小松町妙口にある剣山城跡です。剣山城は黒川元春が築いた城で、黒川氏はこの剣山城を居城として周敷郡の国人衆の旗頭を務めました。

松山自動車道の石鎚山SAのすぐ南側の山塊の上に幻城(まぼろしじょう)の下城がありました。上城は下城の約1km南側の同じ山塊の頂上(標高488メートル)にありました。幻城は南北朝時代からある古城で、黒川元春はこの古城を改修して、剣山城の支城として新居郡の旗頭・高峠城の石川氏と対抗しました。

こんな石鎚山系の山深いところに土佐国の長宗我部元親の叔父が?…と疑問に思われるかと思いますが、その疑問は、私がそうだったように、四国の道路地図をご覧いただければすぐに解けると思います。愛媛県(伊予国)と高知県(土佐国)の県境に沿っては西日本最高峰である石鎚山(標高1,982メートル)をはじめとして、笹ヶ峰(1,860メートル)、瓶ヶ森(1,897メートル)、伊予富士(1,756メートル)、寒風山(1,763メートル)、堂ヶ森(1,689メートル)…と、石鎚山系と呼ばれる標高1,700メートル以上の山々が十数座、東西50km以上にも渡って屏風のように立ち並んでいます。その高い山々に遮られているため、愛媛県、特に東予地方と高知県との直接的なヒトやモノの移動は行われていなかったと考えがちですが、実際はそうした高い山々の山と山の間の鞍部を峠で越えるようにして、何本かの道があり、ヒトやモノの行き来がなされていました。例えば国道194号線。この道路は石鎚山系の高い山々の下を寒風山トンネルで抜けて西条市の加茂川橋交差点と高知市の県庁前交差点を結ぶ道路で、愛媛県東予地方と高知県中央部を直結する最短ルートになっています。寒風山トンネルは平成11(1999)に開通したのですが、それ以前は、寒風山横の鞍部にある峠を曲がりくねった細い道で越えていました。そして、この国道194号線の愛媛県内区間は加茂川の支流である谷川に沿って延びていて、その石鎚山系の山深いところには八ノ川城や高明神城、西後城といった城(砦?)が築かれ、明らかに土佐国からの敵の侵入に備えていたように推察されます。当時、新居郡の旗頭であった石川氏の居城は高峠城(西条市洲之内)。この高峠城の位置も大変に興味深いものがあります。新居郡の旗頭であったにも関わらず、高峠城は新居郡の中心部ではなく、隣接する周敷郡との郡境に非常に近い新居郡の中では著しく偏った場所にあります。現在の国道や県道の多くは旧来からあった街道を自動車が走行できるように整備したものがほとんどです。おそらくこの国道194号線ルートは昔から東予地方と土佐国との間の直接的なヒトやモノの移動の主要ルートの1つであったのではないかと考えられます。そして、おそらく石川氏は土佐国との交易を主目的としてこの場所に居城を構えたのではないか…と推察されます。

 そして、前述の愛媛県道12号西条久万線。この道路は西条市からは加茂川の本流を遡るように延びていて、石鎚山の東側の瓶ヶ森との鞍部を峠で越えると、今度は面河川(高知県内での呼び名は仁淀川)に沿って下り、久万高原町で国道494号線、さらには国道33号線、国道194号線と合流して高知市に至ります。そして、この愛媛県道12号西条久万線が愛媛県道142号石鎚小松停車場線から分岐する地点付近に黒川氏の居城であった坦ノ城がありました。

 実はこれらのルートを使うと、東予地方と土佐国との間の距離は現代人が思っているほど遠くはありません。国道194号線に限ると総延長は76.0km(愛媛県側18.2㎞、高知県側57.8)。長宗我部氏の居城は土佐国府のあった土佐国長岡郡岡豊(現在の南国市)。地図でご覧いただくと、意外と近いことに驚かれると思います。また、山また山が続く険しい山道を進んでいく登山道のようなイメージを持たれるかもしれませんが、それほどでもないと私は推察しています。確かに日本最大の断層帯である中央構造線で形成された四国山地の石鎚山系は中央構造線の北側である愛媛県側は山がスパッとナイフで切ったように断崖絶壁が東西に長く続いているのでそういうイメージを持たれるかと思いますが、峠はその山々の鞍部を通っているため、歩いて通るぶんにはさほどの難路でもありません。さらに、石鎚山系を越えてしまえば高知県側の地形はなだらかな低い山々ばかりなので、距離は長いものの比較的歩きやすいコースであるとも言えます。陸路の主な移動手段が徒歩に限られていた時代の人達は驚くほど健脚で、1日の行程はおよそ8里から10里強(3240km)だったと言われています。それからすると、昔の人なら徒歩で2日間の距離です。私は旧街道歩きを趣味としているのですが、その私の感覚からしてもその程度で十分に移動可能な距離だと思います。このように、あの長宗我部元親の叔父である長宗我部元春が伊予国周敷郡の黒川郷にやってくる下地は元々からあったわけで、特に驚くことでも疑問に思うことでもないということです。

 

11.2 伊予武田氏第6代・武田信重の文台城入城]

その黒川氏と伊予武田氏との接点も時間軸で考えると、ちょうど黒川氏が台頭してきたそのあたりの時期ではないか…と推定されます。(その2)で書かせていただきましたが、大永5(1525)に、大内氏をはじめとする中国勢に攻められて居城の龍門山城が落城し、伊予武田氏第3代の武田信高も討ち死にしたとされています。その後を継いだのが武田信高の末弟の武田信俊。支城の重地呂城の城主だった武田信俊がワンポイントリリーフのような形で第4代を継承し、その後、武田信高の嫡男の武田信充が第5代を継承。その間にいったん落城した龍門山城を再建したようで、伊予武田氏第6代の武田信重の代に龍門山城に入り、再び伊予武田氏の居城となり、永禄5(1562)、弟の第7代 武田信勝に継承されます。第3代の武田信高が討ち死にして伊予武田氏が存続に関わる最大のピンチに見舞われた時、庇護の手を差し伸べたのが、もしかすると隣接する周敷郡で台頭してきた国人・黒川氏だったのかもしれません。

 その黒川氏ですが、黒川元春(通尭)の嫡男・黒川通俊は、天文22(1553)、「大熊館(現在の東温市則之内)の戦い」で戎能通運(かいのうみちゆき)勢と戦い、討ち死にしてしまいます。そのため、黒川氏は河野氏の侍大将十八将の一人で幸門城(さいかどじょう:現在の今治市玉川町龍岡)城主であった正岡通澄の次男・通博を養子に迎え、黒川通博として家督を継がせました。その幸門城のある越智郡竜岡村(現在の今治市玉川町龍岡)は伊予武田氏の初代・武田信友が安芸国から伊予国に移ってきた時に屋敷を与えられたところで、伊予武田氏と正岡氏の間に少なからず関係があったことが推察されます。また、伊予武田氏の居城である龍門山城のある今治市朝倉は幸門城のある今治市玉川町と黒川氏の居城・剣山城のある西条市小松町の途中にあり、その時点では、おそらく黒川氏は伊予武田氏や正岡氏と強い同盟関係を築いていて、このあたり一帯はその同盟の中にあったのではないか…と推察されます。伊予武田氏第6代の武田信重が周敷郡志川に移り住んで文台城の城主になったのが永禄5(1562)。黒川通博が正岡氏から養子に入り、黒川氏の家督を継いだすぐ後のことと推察されます。おそらく、正岡氏からの強い依頼があって、黒川通博を補佐するために移ったのではないかと思われます。

 そのことは文台城の位置から十分に推察されます。前述のように、文台城のあった周敷郡志川は現在の西条市丹原町志川、国道11号線で松山から新居浜方向に向かうと、桜三里で高縄半島を横断して、周桑平野に出てきてすぐのところです。周桑平野(別名:道前平野)は、西日本の最高峰である石鎚山系の堂ヶ森などを源流部とする中山川とその支流が形成した傾斜の急な扇状地で、西は高縄山地に、南は四国山地に囲まれ、東を燧灘に接しています。その扇状地の扇の要(かなめ)にあたるところが文台城のあった周敷郡志川です。文台城は松山自動車道の高架と志河川ダムに挟まれた小高い丘陵(標高約180メートル)の東へ伸びた尾根の先端頂部に築かれており、現在は登山道が整備されています。文台城の築城年代は定かではありませんが、平安時代末期に築かれたものではないかといわれています。治承4(1180)に河野通清が源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げた際に、伊予国府にいた平家方の代官がこの文台城に籠って抵抗したとされていますが、その時は落城しています。そして、享禄年間(1528年〜1532)には剣山城城主・黒川元春(通尭)の持ち城となったとされています。その黒川氏の居城であった小松の剣山城との距離は約10km。主城である剣山城を守る支城としてはちょうどいいくらいの距離にあります。

 

文台城跡から見た周桑平野の風景です。ここがかつての周敷郡一帯です。

しかも、文台城のある志川は交通の要衝でもあります。現在でもすぐ近くを国道11号線が東西に走っていますが、この国道11号線はかつての讃岐街道で、西に向かうと河野氏宗家の居城であった道後湯築城へ、東に向かうと黒川氏の居城・剣山城のあった小松、さらには東予地方の有力国人衆・石川氏や金子氏の領地である宇摩郡・新居郡を経て讃岐国、さらには阿波国まで繋がっていました。北に向かっては愛媛県道48号壬生川丹原線が伸びています。この愛媛県道48号壬生川丹原線の丹原からは愛媛県道155号今治丹原線が分岐していて、伊予武田氏の居城・龍門山城のある今治市朝倉に行くのもさほどの距離ではありません。また、その先には今治市近辺にあったとされる伊予国の国府とも繋がっていました。

 そして注目すべきは南方向。志川から国道11号線を松山方向に約2.5kmほど行った西条市丹原町鞍瀬から愛媛県道153号落合久万線が伸びています。この道路は西条市と上浮穴郡久万高原町を結ぶ県道で、久万高原町で前述の愛媛県道12号西条久万線と同様に国道494号線と合流して、高知県須崎市に至ります。久万高原町直前の標高が高いところで未開通区間が残っているため県道としては全線で繋がっておらず、県道ではなく険道とも揶揄されるほどの道幅の細い道路ですが、かつてはこのルートが四国山地を越えて伊予国と土佐国とを結ぶ重要な交通路の1つだったようなのです。その証拠として、国道11号線と分岐する丹原町鞍瀬には鞍瀬大熊城、楠窪砦、立烏帽子城、そして県道が途切れる最奥部付近の明河集落には赤滝城が築かれており、その赤滝城には黒川元春(通堯)に家督とそれまでの居城・坦ノ城を譲った義兄の黒川通矩が入城したという記録が残っているのだそうです。


西条市丹原町明河・保井野集落から西方向を見たところです。このあたりに黒川氏の支城であった赤滝城趾があります。こんな山奥に城があるということは、この道が久万地方や土佐国(高知県)と繋がっていたということを意味します。

しかも、この赤滝城は前述の文台城同様、治承4(1180)河野通清が源頼朝に呼応して平家討伐の兵を挙げた際に、伊予国府にいた平家方の代官が最後まで立て籠もって徹底抗戦の末に落城したという記録が残る古城なのです。加えて、天文22(1553)に黒川元春(通尭)の嫡男・黒川通俊が「大熊館(現在の東温市則之内)の戦い」で戎能通運(かいのうみちゆき)勢と戦い、討ち死にしたということを書かせていただきましたが、この時、黒川氏が同盟を結んでいたのが浮穴郡大除城(おおよけじょう:上浮穴郡久万高原町菅生)の城主・大野利直。大除城はまさに愛媛県道153号落合久万線の終点付近にあります。なんでこんな四国山地石鎚山系の奥深くに城郭が?って思えるのですが、このルートがかつては四国山地を越えて伊予国国府と浮穴地方(久万)、さらには土佐国国府(現在の高知県南国市)とを結ぶ重要な交通路の1つだったとしたら、それも納得します。


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ちなみに、赤滝城に近い愛媛県道153号落合久万線が途切れる明河(みょうが)保井野(ほいの)集落には堂ヶ森(標高1,689メートル)を経由して石鎚山山頂(標高1,982メートル)に至る縦走路の保井野登山口があります。また、愛媛県道153号落合久万線の久万高原町側で途切れている地点のほど近くには梅ヶ市登山口があり、その2つの登山口からの登山路は堂ヶ森の手前の標高約1,450メートルの地点で合流し、そこから堂ヶ森の山頂を経て石鎚山の山頂に繋がる縦走路が延びています。おそらくこの合流点までの2つの登山路を直通するコースが周敷郡と浮穴郡を結ぶ街道だったのでしょう。私は旧街道歩きを趣味にしているので分かるのですが、標高1,450メートルの峠越えは実は大したことではありません。例えば、昨年私が歩いた五街道最高地点である中山道の和田峠(長野県小県郡長和町〜諏訪郡下諏訪町間)は標高1,531メートルもあり、五街道以外ではその和田峠を越える標高の峠も少なくありません。石鎚山の登山マップを見ると、保井野登山口と梅ヶ市登山口の間は2時間半から3時間で歩くことができそうです。最大の難所はこの区間で、登山路を下って久万高原町に入り、面河ダムの付近で国道494号線に合流すると、あとは面河川、そして仁淀川(仁淀川上流域のうち愛媛県側を面河川と呼びます)に沿って、緩やかに下っていけば、高知市、そして太平洋に至ります。この国道494号線は黒森街道と呼ばれ、かつては黒森峠(標高985メートル)を越えて松山方面と面河地方を結ぶ重要な交通ルートでした。私達現代人はどうしても現在の鉄道網や道路網の上で物事を考えがちですが、それらのインフラは明治時代以降に整備されたもの。わずか150年前までは、陸路の移動は専ら自らの足を使った徒歩によるものでした。それから推察すると、この愛媛県道153号落合久万線のルートはかつては四国山地を越えて伊予国国府と浮穴地方(久万)、さらには土佐国国府(現在の高知県南国市)とを結ぶ最短、かつ最重要な交通路の1つだったと言えようかと思います。


西条市丹原町明河の保井野集落です。石鎚山系の堂ヶ森に向かう大変な山間にあるのですが、意外と大きな民家が建ち並んでいることに驚かされます。写真は久万高原町方向を撮影したものです。道路は愛媛県道153号落合久万線で、蛇行を繰り返しながら徐々に高度を上げていっています。現在県道はこの先の保井野登山口で行き止まりになっています。

西条市丹原町明河は、西日本最高峰である石鎚山系の堂ヶ森を源流とする二級河川・中山川支流の鞍瀬川を、源流に向かって遡っていった先にあります。このあたりは日本最大の断層帯である中央構造線のすぐ北側の領家変成帯にあたり、緑色結晶片岩や緑泥岩片岩といった緑色をした岩で構成される渓谷美が美しいところです。

愛媛県道153号落合久万線は未開通のままで、この保井野が西条市側の行き止まり箇所です。そしてここが堂ヶ森経由で石鎚山山頂に至る保井野登山口です。そしてこの登山道を行くと久万高原町側の梅ヶ市登山口に出て、愛媛県道153号落合久万線に戻ります。

その後の武田信重、子の信戻、信明に関する記録は現時点で私はまだ見つけておりませんが、黒川氏の記録からある程度は推察することができます。黒川通博は、元亀3(1572)、阿波国の戦国大名・三好長治が高峠城(西条市洲之内)城主・石川道清を案内人として伊予国に侵攻してきた際には、これを事前に察知して高峠城に攻め寄せ、三好長治勢を阿波国に撃退するという戦功をあげています(高峠城の戦い)。また天正3 (1575)は新居郡金子城(新居浜市滝の宮町)の城主・金子元宅(もといえ)と結び、鷺ノ森城(西条市壬生川)を攻めて落城させ、城主の壬生川通国を討ち取る戦功を挙げたとされています(鷺ノ森城の戦い)。さらに天正4(1576)の「備中松山城の戦い」では、家臣団の桑村郡象ヶ森城(ぞうがもりじょう:西条市上市)城主・櫛部兼久、周敷郡獅子ヶ鼻城(西条市小松町大頭)城主・宇野家綱らを率い安芸国の毛利輝元から援軍要請を受けた河野氏の一員として毛利氏から離反し織田信長に寝返った備中松山城(岡山県高梁市)城主・三村元親勢と戦い、戦功を挙げたとされています。これらの戦いに武田信重と子の信戻、信明が参戦したのかどうかは不明ですが、留守居役を含め、大いに活躍したのではないかと期待も含め推定しています。

 

……(その5)に続きます。(その5)は第85回として掲載します。




2021年6月17日木曜日

伊予武田氏ってご存知ですか?(その3)

 公開日2021/08/05

 

[晴れ時々ちょっと横道]第83回 伊予武田氏ってご存知ですか?(その3

 

【9.伊予武田氏の終焉】

 

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(その1)で述べたように、天正10311日、織田信長・徳川家康連合軍の怒涛の侵攻を受けた武田勝頼・信勝父子は笹子峠の手前の甲斐国都留郡の田野において滝川一益率いる織田軍に追われて自刃。ここに「風林火山」の旗の下で武勇を馳せた甲斐武田氏宗家は滅亡しました。甲斐武田氏宗家を滅亡させた織田信長ですが、いまだ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国征伐の出兵準備のため安土城から京に上洛し本能寺に逗留していたところ、明智光秀の謀反に遭って燃え盛る炎の中で自害して果てました。享年49歳でした。これが甲斐武田氏宗家滅亡から3ヶ月も経っていない62日のことです。

この時期、河野氏でも大きな動きがありました。当時の河野氏は毛利氏と深い同盟関係・姻戚関係を構築していたのですが、前述の鳥坂峠の戦いの最中に急死した村上道康の家督を継いだ来島村上氏当主の村上(来島)通総が、天正10(1582)、中国攻めをしていた織田信長の重臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勧誘を受けて織田方に寝返るという重大な事態が発生しました。この村上(来島)通総の謀反は織田信長が本能寺で自刃し、羽柴秀吉が主君の仇明智光秀を討つべく全軍をもって中国路を京に向けて取って返すため毛利氏と和睦したことで、一時的に終息に向かいます。それまで村上(来島)通総は毛利氏や河野氏に攻められて本拠地・来島を追われ、一時は羽柴秀吉の元に身を寄せていたのですが、この和睦によって旧領の来島城に復帰しました。これにより、河野氏内で起きていた重大な事態もめでたく収まったかのように見えたのですが……

128日、理由は定かではありませんが、その村上(来島)通総が伊予武田氏の居城である龍門山城を奇襲しました。村上(来島)通総の軍勢450騎が夜陰に乗じて龍門山城へ攻め登り、城に火を放ちました。完全に不意をつかれた城主武田信勝は「敵は誰か、名を名乗れ」と叫びながら奮闘するも多勢に無勢。龍門山城は落城し、武田信勝は深手を負いながらも城を出て落ち延びを図るも、鮎返の滝(あいがりのたき:現在の朝倉ダム付近)にて討ち死にしたと伝えられています。これで武門としての伊予武田氏宗家は応仁の乱のグダグダの中で伊予国朝倉郷に移り住んできてから約110年で終焉を迎えます。

 

【10.伊予武田氏のその後】

討ち死にした武田信勝には5人の男子がいて、次男の清若丸は幼くして亡くなったものの、この時、4人が龍門山城で暮らしていました。この4人のうち三男の彦三郎信則(のぶのり:彦八郎信行とも。幼名不明)は落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にしたものの、長男の真三郎信吉(幼名:富若丸)、四男の政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)、五男の源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)は落ち延びることに成功します。

 

伊予武田氏の菩提寺であると同時に我が家の菩提寺でもある龍門山無量寺(今治市朝倉 水之上)です。


このうち長男の武田真三郎信吉
(幼名:富若丸。当時16)は伊予武田氏の菩提寺である朝倉 水之上の無量寺が匿って隠棲。10年間養育の後、当時の伊予国今治領113千余石の領主であった福島正則に召し出され、福島正則の推挙で水之上郷の代官(大庄屋役)を勤めました。ちなみに、大庄屋役は通常の庄屋・名主と異なり、数か村から10数か村の範囲を管轄する役職で、身分としては農民ではあるものの、一般農民よりは一段高い階層に属し、3人扶持、長く在籍すると5人扶持が与えられ、格式も武士並みに苗字帯刀が許されていたのだそうです。その屋敷に門を構えたり、母屋に式台を設けることもでき、着衣や履物にも特例が許されていました。江戸時代に入ってからも彼の子孫が代々大庄屋職を継いだのですが、明治の時代に入ってこの直系の家系(嫡系)は途切れているとのことです。ちなみに、水之上一帯は江戸時代には幕府直轄の天領であり、そのため、水之上郷の大庄屋役の家は「天領」という屋号で呼ばれていました。


この龍門保育園のあるところに、越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の屋敷がありました。その『天領』家の初代が、伊予武田氏第7代・武田信勝の長男の武田真三郎信吉です。

越智郡水之上郷の大庄屋役『天領』家の庭園は景観優美なところで、江戸時代、今治藩主もたびたび訪れたのだそうです。現在は龍門保育園の園庭の中にあり、見ることができません。

現在、武田信勝が討ち死にした鮎帰(あいがり)の滝近くに建てられている武田信勝の墓碑は、宝暦年間(1750年)に水之上大庄屋らによって建てられたものです(この墓碑はもともとは朝倉ダムのところにあったのですが、朝倉ダムを建設する際に現在のところに移設されたのだそうです)。この武田真三郎信吉から始まる「天領」の屋号で呼ばれる水之上郷の代官(大庄屋)の家系を含め伊予武田氏代々の墓所は無量寺の境内にあり、広大だった屋敷の跡の一部は無量寺が運営する龍門保育園になっており、園庭を少し上がった高台の上に神を祀る小さな社殿が残されています。また、木陰に見え隠れする屋敷内の滝は「木がくれの滝」と呼ばれる景観優美な滝で、江戸時代、今治藩主が度々訪れ、「里山の山滝」と誉め讃えたと伝わっています。


朝倉ダムの近くにある伊予武田氏宗家最後の当主第7代・武田信勝の墓です。もともとは武田信勝が討ち死にした鮎帰の滝近くに建てられていたのですが、朝倉ダム建築時にこの地に移されました。墓碑は、宝暦年間(1750年頃)に水之上大庄屋ら伊予武田氏の子孫によって建てられたものです。


武田信勝の墓碑には討ち死にした「天正十歳()十二月八日」の日付が刻まれています。


ちなみに、この無量寺は我が家の菩提寺でもあります。無量寺の正式名称は龍門山無量寺。この寺は第
37代の斉明天皇(在位:655年〜661)が朝倉の地に僥倖なさった時にお伴の僧侶として随伴した無量上人により、現在のところよりもう少し奥に入った(龍門山城にほど近い)浅地の車無寺 (くるまんじ)というところ開創されました。本尊の阿弥陀如来像は秘仏で、聖徳太子による一刀三礼の御作と伝えられています。開創当時は三論宗で、後に真言宗醍醐派に改め今に至っています。無量上人の後を継いだ第二世の宥量上人は当時伊予国の領主であった越智玉輿の子供(すなわち、河野氏の祖とされる河野玉澄とは兄弟)で、その縁により、 以来この無量寺は長く河野家の祈願寺を務めていました。天正年間(1573年〜1593)のはじめ、当時の住職・宥実上人はこのあたりを治めていた龍門山城城主・武田信勝の外護を得て、寺を現在の場所に移転しました。また、前述のように、宥実上人は天正10(1582)に龍門山城が落城し、城主武田信勝が討ち死にしたおり、その子、富若丸(当時16)を無量寺に隠潜させ、約10年間養育し、ついに天領の大庄屋職に就かせました。この「天領」の屋号で呼ばれる大庄屋の代々の記録は『無量寺文書』、または『武田家文書』とも呼ばれ、今治市朝倉の歴史の謎を紐解く貴重な古文書として、現在もこの無量寺に残されています。私は無量寺を訪れた際、住職から『武田家文書』の話を聞き、そこで初めて伊予武田氏の存在を知り、伊予武田氏について調べてみようと思った経緯があります。


無量寺は“枝垂れ桜”が有名です。私が取材に訪れた日は枝垂れ桜が見頃を迎えていて、多くの人が見学に訪れていました。


無量寺の隣はJFAアカデミー今治になっています。このJFAアカデミー今治は、日本サッカー協会(JFA)が愛媛県今治市と連携して推進する中学校3年間を対象としたサッカーエリート教育機関で、全国4校目。中四国地方初の施設です。20143月に廃校となった今治市立上朝小学校跡地を寮として開校しました。現在は女子のみを受け入れています。


武田真三郎信吉から始まる“天領”水之上郷の大庄屋役としての武田氏ですが、当然のこととして時代を経るにつれ分家が幾つも枝分かれしていきます。その分家筋の中に私の好奇心を大いにくすぐる面白い人物がいたので、ご紹介します。その面白い人物とは武田徳右衛門。

 武田徳右衛門は、愛媛県越智郡朝倉村上乃村の生まれとされています。現在も今治市の富田地区を中心とした地域に府中二十一ヶ所霊場というものがあって、根強い信者を擁しているといわれていますが、この府中二十一ヶ所霊場の開創者が武田徳右衛門です。この武田徳右衛門のもう一つの大きな業績に四国八十八ヶ所霊場の遍路行をする人達のための遍路道の整備、すなわち、丁石(道標)の建立があります。彼は僧侶ではなく、また格別信仰心が深かったわけでもなく、元々はごく平凡な一人の農民でした。その彼の身に不幸が次々と降りかかりました。天明元年(1781)夏、長男七助が急死したのを始めとし、二女おもよ、三女おひち、四女こいそ、五女おいしと天明元年から寛政4(1792)までの11年間に、愛児一男四女を次々と失ったのです。その相次いだ不幸による悲しみの重さが彼自身を、そして彼の人生を大きく変えるきっかけとなったようです。彼がそこで出会ったものがお大師様であり、四国八十八ヶ所霊場遍路の旅だったようです。

 そして、武田徳右衛門は、寛政6(1794)に「四国八十八ヶ所丁石建立」を発願し、農繁期を除いては、ほとんどを寄付勧募と丁石建立に専念し、13年間を要して文化4(1807)に大願成就したと言われています。丁石は本来の意味では1丁目(109メートル)ごとに建てられる道標の石のことですが、武田徳右衛門の建立した丁石は1丁目ごとではなく、ほぼ1(4km)ごとに遍路道の主たる地点に建立されていました。そして、弘法大師の尊像を刻み、◯◯寺まで里と次の札所までの距離を明記していたという特徴がありました。そこには「里数がわかれば目的地(次の札所)への到着時間が予測できるし、それはまた宿の確保にも役立つだろう」という当時としては画期的なアイデアが盛り込められており、遍路道の途中の至るところにこの丁石(道標)を建立することで、お遍路さんの不安感をぬぐい去ろうとしたものであったのであろうと推定されます。これも、自ら遍路を重ねた経験から得た知恵の一つなのでしょうね、きっと。武田徳右衛門の手によって建立された丁石(道標)は、現在でも四国内で130基ほど現存しているのが確認されているのだそうです。その武田徳右衛門の墓も水之上の無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓の中にあります。


無量寺のそばにある伊予武田氏一門の墓です。

武田徳右衛門の墓もこの伊予武田氏一門の墓の中にあります。

討ち死にした武田信勝の3人の遺児のその後に話を戻します。四男の武田政五郎信鳳(のぶおう:幼名不明)も、おそらくどこかで匿われて隠棲したようで、成人後帰農し、龍門山城にほど近い今治市朝倉の浅地に水之上郷の代官(大庄屋役)に就いた武田真三郎信吉家の分家となっています。武田政五郎信鳳から始まる天領(屋号)”家の分家は代々今治市朝倉南(矢矧神社の近く)にある正善寺を菩提寺にしているので、もしかすると政五郎信鳳は龍門山城から落ち延びた後、この正善寺に匿われて隠棲したのかもしれません。ちなみに、この武田政五郎信鳳の直系の家系は今でも浅地にお住まいのようです。


このあたりが浅地。武田信勝の四男・武田政五郎信鳳はこの浅地で帰農し、水之上郷の大庄屋役に就いた武田真三郎信吉家の分家となりました。向こうに見える山は龍門山です。



武田信勝の四男・武田政五郎信鳳から始まる“天領”家分家代々が菩提寺にしている正善寺です。


五男の武田源三郎信猶(のぶなお:幼名不明)はまだ幼かったため、残った家族や家臣とともに周敷郡石田村(現在の西条市石田。JR玉之江駅付近)に落ち延びました。武田源三郎信猶はこの地で成人して帰農し、農家として暮らしていたようです。武田源三郎信猶の墓所は西条市石田の大智寺にあり、そこには武田信猶に始まる武田一門の墓所があります。


西条市石田の大智寺に武田信猶に始まる武田一門の墓所があります

武田源三郎信猶の墓所は大智寺のすぐ北東の場所にあります

その武田信猶の直系の孫にあたるのが武田彦左衛門信盛。武田信盛は万治元年(1658)、桑村郡古田新出(現在の西条市丹原町古田)に移り、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けて(松山藩は中予だけでなく越智郡や周桑郡地域にも飛び地のように幾つかの領地を持っていました)この地を開拓しました。現在、武田信盛が新田開拓した丹原町古田新出には「武田信盛頌徳碑」が建てられています。ちなみに、周桑平野の地図を眺めていると、新田新出などの地名が随所に見られます。これらはいずれも江戸時代に入った以降の近世に水田として開拓された新田集落です。


武田信盛が新田開拓した西条市丹原町古田新出にある「武田信盛頌徳碑」です。武田彦左衛門信盛は武田信勝の五男・信猶の孫で、万治元年(1658)、当時の松山藩主・松平隠岐守定頼の命を受けてこの地を開拓しました。


周桑平野は四国山地(中央構造線)、特に西日本最高峰の石鎚山(標高1,982メートル)から続く石鎚山脈と、四国山地(中央構造線)の北側に突き出した高縄山地が形成する狭隘部の西条市丹原町湯谷口を頂点とし、燧灘に向かって扇形に傾斜して二級河川の中山川によって形成された沖積平野で、山麓部には扇状地が発達し、沿岸部は広い遠浅の海岸が広がっています。ここは古来よりの穀倉地帯で、平野部の少ない伊予国においては米や麦の一大供給地でした。そのため江戸時代には、桑村郡26村と周敷郡24村が松山藩領で、残る周敷郡11村が西条藩領を経て小松藩領と領地が複雑に入り組んでいました。これは伊予武田氏が治めていた越智郡朝倉郷(現在の今治市朝倉)にも当てはまり、こちらは松山藩と今治藩の領地に加えて幕府直轄地である天領が複雑に入り組んで存在していました。これはそこがこうやって奪い合いをしたくなるほど米が収穫できる魅力的なところであったことにほかなりません。そのため、松山藩主としては周敷郡・桑村郡の自藩領内における米の収穫量を少しでも増やすべく、高縄山地の山麓部に広がる大明神川、新川、関屋川が形成する砂礫質土壌の扇状地の新田開拓を積極的に進めたようです。そのうち新川流域の扇状地を開拓したのが、武田信盛が開拓した古田新出ということのようです。この古田新出には今も武田信盛の末裔一族がお住まいとのことです。

この周桑郡(周敷郡・桑村郡)に残る伊予武田氏の形跡は武田信勝の五男の源三郎信猶だけではありません。龍門山城が落城した際、落ち延びる途中の朝倉郷浅地木戸にて討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓石が、西条市西部の壬生川(旧周桑郡)の本源寺にあります。その墓石に刻まれた碑文によると、建立したのは「龍門山城主 武田近江守信勝 室 河野左馬助 息女」。龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母が五男の源三郎信猶と一緒に周敷郡石田郷まで落ち延び、途中で討ち死にした三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓をこの本源寺に建てたのではないかと推察されます。そこから言えることは、当時の周桑郡には落ち延びてきた伊予武田氏一門を温かく迎え入れるための下地が既にできあがっていたということのようです。このあたりの考察は、この後で書きたいと思っています。

龍門山城が落城した際、討ち死にした武田信勝の三男の武田彦三郎信則(彦八郎信行とも)の墓が西条市壬生川の本源寺にあります。建立したのは武田信勝の正室、すなわち5兄弟の母です。


愛媛県全体で見た場合、「武田」はさして多い苗字であるとは言えないのですが、伊予武田氏の居城・龍門山城のあった今治市朝倉と西条市西部の旧周桑郡地域に限っては異様と思えるくらいに多く見かける苗字です。文明3(1471)に安芸武田氏の武田信友が河野教通(通直)に招かれて瀬戸内海を渡り、伊予国越智郡竜岡村に移り住んで伊予武田氏を興してから550年。1代を平均25年として計算すると、その間22代です。なので、一門や武田姓を名乗ることを許された家臣団の末裔を合わせると、現在ではかなりの数になると思われます。その多くが今治市朝倉と西条市の旧周桑郡地域に集中して住んでおられるというところに歴史の“物語”を感じます。清和源氏を祖とし、あの戦国最強と言われた武田信玄を輩出した武門の名族・武田氏の名称と、『武田菱』や『割り菱』と呼ばれるシンプルながら特徴的な形の家紋を使う誇り高き一族がこの愛媛県内にも固まって暮らしていらっしゃるということを、是非知っていただきたいと思っています。

  

……(その4)に続きます。(その4)は第84回として掲載します。






伊予武田氏ってご存知ですか?(その5)

  公開予定日 2021/10/07   [晴れ時々ちょっと横道] 第85回  伊予武田氏ってご存知ですか? (その5)   [ 11.3  黒川氏と伊予武田氏の終焉] そうした黒川氏と伊予武田氏 ( 武田信重・信戻・信明 ) にも武家としての終焉の時がやって...