2021年4月11日日曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

 公開予定日2021/04/01

[晴れ時々ちょっと横道]第79回 



ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第78回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていなかった…と言うことは、本拠地の日振島をはじめ船舶を隠す幾つかの港があるところを除けば、伊予国内に領地をほとんど有していなかったということを意味します。生きていく上で必要な食糧は海賊行為を働くことで幾らでも簡単に入手することができたでしょうから、特に広い耕作面積の田畑というものは必要ありません。なので、藤原純友とすれば海賊集団を支配しその首領であれば十分なわけで、平将門のように領土を拡張し、そこに住む民衆をも統率し、ともに独立王国を築こうというような野望は、実はまったく持ち合わせてはいなかったのではないか…と考えられます。では、藤原純友はいったい何を目指していたのか?……これが私の中で芽生えた新たな疑問です。

 そして、その疑問を解くヒントは藤原純友が本拠とした日振島にあるのではないか…と私は考えました。日振島は、愛媛県宇和島市に属し、宇和島新内港から西方に約28km。宇和海で最大の島ではあるのですが、面積は約4平方kmという南北に細長い形をした小さな島です。多島海の宇和海にあるのですが、豊後水道に最も近く、ここから西の豊後水道には島が1つもないという一番西に位置しています。そんな日振島を、何故、藤原純友は選んで拠点にしたのか? 瀬戸内海を暴れ回る海賊達を首領として統べるのであれば、瀬戸内海から離れたそのようなところを拠点とするのは適しません。古代越智氏族の伊予水軍がそうであったように、瀬戸内海の中心とも言える大三島をはじめとした芸予諸島の島々を拠点とするのが最適です。ましてや朝廷に叛旗を翻すのであればなおのことで、芸予諸島をガッチリと固めることで、西(九州方面)から京へ向かう物資の流れを完全に遮断し、朝廷を一種の兵糧攻めにすることだって可能になるわけですから。実際、その後の河野水軍や村上水軍も芸予諸島の戦略的重要性が十分に分かっていて、芸予諸島の島々を活動の拠点としました。しかし、藤原純友だけはそうしなかったのです。瀬戸内海からは東西に細長い佐田岬半島をグルっと回って、さらに南下したところにある宇和海に浮かぶ日振島を拠点としたわけです。そこには間違いなく瀬戸内海の海賊達を統べる以外の明確な目的があると考えられます。「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」……日振島に拠点を構えたことには藤原純友の明確なメッセージが込められていて、「藤原純友はいったい何を目指していたのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という大きな謎を探るヒントが日振島に隠されているように私は思ったのでした。実はこれは私が藤原純友に興味を持って以来ずっと抱いていた疑問でした。

 そこで、この「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」の謎を探るため、実際に日振島に行ってみようと思いました。現場第一主義の私としては、藤原純友が見たのと同じ景色をこの目で眺め、自らが当時の藤原純友の気分になって日振島を拠点にした理由を推察してみようと考えたわけです。世の中の最底辺のインフラは地形と気象。そして、昔も今も人間の考えることや個々人の能力にさほど大きな違いはない。これが私の歴史探求における基本的な考え方ですから。

 宇和島新内港から日振島までは盛運汽船の高速船「しおかぜ」が13便出ています。宇和島新内港630分発(10月~4)1便が宇和島新内港→能登港→明海(あこ)港→喜路(きろ)港→水ヶ浦港→宇和島新内港、宇和島新内港1130分発2便と1530分発の3便が宇和島新内港→喜路港→明海港→能登港→宇和島新内港の航路で運航されており、このうち、喜路港、明海港、能登港の3港が日振島内の港です。私は宇和島新内港1130分発の2便で島の一番南にある喜路港に渡り、4時間ちょっと滞在して日振島内を歩いて北上。島の一番北にある能登港から3便に乗って宇和島新内港に戻って来ることにしました。観光地としての開発はほとんどなされていませんので、残念ながら日振島内には飲食ができる施設は1つもありません。加えて人口が500人にも満たない過疎の島なので、島内にコンビニエンスストアはもちろんのこと、飲料水の自動販売機さえもないということなので、私は宇和島新内港そばのコンビニエンスストアでオニギリとペットボトル入りの飲料水をちょっと多めに買って乗船することにしました。

 いよいよ乗船です。私が乗る日振島行きの高速船「しおかぜ」は左側。右側は「しおかぜ」の5分後に出港する日振島の隣の戸島行きの客船です。盛運汽船は宇和島市沖の宇和海に浮かぶ島々と宇和島新内港を結ぶ航路を幾つも運航しています。どれも島に住む人達の貴重な生活路線になっています。ちなみに、「しおかぜ」は乗客40人乗りの双胴の高速船です。

宇和島新内港を定刻の1130分に出港。発高速船「しおかぜ」の船内からは多島海・宇和海の島々の風景が楽しめます。リアス式の海岸線と相まって美しく、実に素晴らしい風景です。この便の乗客は10名ほどでしょうか。卒塔婆をお持ちの袈裟を着たご住職がいらっしゃいます。宇和島市内の寺院から島に住む檀家様のところに法事に向かわれているのだと思われます。

日振島の形状と各港(各集落)の位置関係です。日振島は宇和島の西方沖約28kmのところにあり、ここより西側には島はなく、豊後水道を隔てた先は九州(大分県南部・宮崎県北部)です。また、喜路、明海、能登、日振島にはこの3つの集落しかなく、それぞれに港があります。

宇和島新内港からきっかり40分。日振島に3つある港のうち、一番南にあるこの喜路港に到着しました。上陸します。

この日振島、釣りを趣味になさっている一部の方を除けば、地元愛媛県人でも訪れたことがある人はほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。日振島の島の形は北西から南東に細長く延びており、島の北にはいずれも無人島で属島の沖の島、竹ヶ島、西には横島が隣接、さらに南方約5kmの海上には御五神島があるのですが、他の有人島とは群島を形成していません。また、島全体が山のようになっていて、平地は極めて少なく、切り立った崖が多いのが特徴です。特に豊後水道に面した西側海岸は懸崖が続き、容易に接近することができません。島の大部分と属島の横島、沖の島、竹ヶ島の全域は足摺宇和海国立公園に属しており、多島海の大変美しい風景を楽しむことができます。日振島という地名の由来に関しては、昔から船の往来があり、島民が松明(たいまつ)の火を振ることで灯台の代わりをしたことに因むとの説があります。

 歴史的には藤原純友が本拠を構えたことで知られていますが、天正14(1587)、九州の豊後国で行われた戸次川の戦いで敗退した土佐国主・長宗我部元親の一行が土佐国に逃れる前にしばらく潜伏していたところでもあるのだそうです。江戸時代には宇和島藩の領地となり、イワシの曳網漁で隆盛を誇りました。明治22(1889)、北宇和郡日振島村となり、昭和33(1958)、周辺4村との合併により宇和海村に、そして昭和49(1974)、宇和島市に合併・編入されました。現在、行政区画としては愛媛県宇和島市に属し、市域の最西端にあたります。

 喜路港の桟橋から見た海です。海水は透き通っていて、海底まで見えます。大小様々な魚が群れをなして泳いでいるのが見て取れます。日振島の周囲が豊かな海であることが、よく分かります。

喜路港から北上。明海集落を経て、一番北にある能登集落の能登港まで歩きます。喜路港は大きく入り組んだ湾の一番奥にあります。この湾内でも魚類の養殖筏が幾つも浮かんでいます。これは真珠の母貝の養殖用の筏のようです。


湾内だけでなく、日振島の周囲はいたるところに魚類や真珠母貝の養殖用の筏が浮かんでいます。真珠母貝の養殖と言えば三重県の伊勢志摩が有名ですが、実は養殖真珠の生産量のダントツ日本一は愛媛県。それも、この宇和海一帯です。現在の日振島はブリ()やタイ()、ヒラメといった魚類の養殖や真珠母貝の養殖が盛んな水産業の島になっています (近海の海で獲れるアワビやサザエ、ヒジキ、テングサ等も特産品のようです)。島中いたるところにある複雑に入り組んだ湾には、そうした魚類や真珠母貝の養殖いかだが無数に見られます。かつてはこの複雑に入り組んだ湾に海賊達の大小無数の船舶が停泊していたのでしょう。1,000年以上の年月が経過した今、かつて藤原純友がこの日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部にかけての多くの海賊集団を支配し、瀬戸内海一帯を暴れ回っていた痕跡はほとんど残っておりません。ただ、かつて藤原純友も見たであろう宇和海の景色は、瀬戸内海以上に美しかったです。予想した以上に素晴らしいところでした。(ただし、美しい風景以外には、なぁ〜んにもありませんでしたが…)


この湾なんか、かつては海賊達の大船団を隠しておくのに最適な場所だったのでしょうね。実は日振島は3つの島が連結されたような特殊な形状をしています。湾の先に左右の島から橋が架かったように見えるところがありますが、近づいてみるとそれは橋ではなく、細い陸地なのです。いつ頃陸続きになったのかは解りませんが、もしかすると藤原純友が拠点とした時代には、狭い水路になっていたのかもしれません。だとすると、当時の軍港としては完璧な形状をしたところです。

島内の道路は海岸線に沿って伸びているのではなく、アップダウンを繰り返しながら、かなり標高の高いところを通っています。登り道の勾配は結構キツく、歩くとかなり脚にきます。島内には基本的にこの1本の道路しかありませんので、初めて来たところではありますが、迷いようがありません。遠くに明海(あこ)の集落が見えます。


海賊がいたところには、だいたい財宝の埋蔵伝説なるものがあるものですが、この日振島にも御多分に洩れず藤原純友の隠した莫大な財宝が眠っているという「財宝伝説」が伝わっています。地中に埋めた説、洞窟に隠した説、海底に沈めた説などいろいろあるようですが、詳しいことはよく分かっておりません。そもそも財宝が実在するのかどうかも確かではありません。

ここが2つの島の連接部分。砕けた岩の集まりで連接されています。ちょっとワイルドな光景です。

遠くにうっすらと見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から西の海域は豊後水道。ここから九州までは1つの島もありません。ちなみに、右に見える島のような山は日振島の一部です。なるほど、この位置関係が、藤原純友がこの日振島を海賊支配の拠点とした理由の一つかもしれません。


明海の集落に近づいてきました。このあたりの海も海水が透き通っていて、岸から随分先の海底までもが見えます。そこを小さな魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。このあたりも養殖用の筏が浮かんでいます。この筏は真珠母貝の養殖用の筏ではなく、ブリやタイといった魚類の養殖用の筏でしょうか。形が異なります。



明海集落の背後に立つ、高さ約80メートルの小山城が森。その名が示すとおり、ここには土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っています。その山頂には藤原純友の碑が立っているとのことで、登ってみようと思い、明海港の桟橋で釣り糸を垂らしていた地元の方に山頂へ向かう道の登り口を訊いたところ、「山には野生のイノシシが出没して、最近地元の住民が襲われて怪我をしたところだから、危険なので立ち入らないほうがいい」とのアドバイスを貰い、散々迷ったのですが、最終的に登ることを断念しました。


明海集落から能登集落に向かいます。本当は能登へ向かう道路にも野生のイノシシが出没するので、歩いていくのは危険なので、やめておいたほうがいい…と先ほどアドバイスをいただいた地元の方からは伺っていたのですが、明海港の宇和島新内港行きの3便の出港時間まで2時間以上もあり、藤原純友の砦の跡へ行けないのであれば他に見るべきところもないので、ここは敢えて危険を冒して能登集落を目指して歩くことにしました。

明海集落から能登集落に向かう途中、ドスンドスンと大きな音がするので何事か!?…と思って音がするほうを覗いてみると、檻に入ったイノシシが暴れているところでした。この檻が罠だったのでしょうね。捕まってすぐのようです。このあたりは野生のイノシシが本当にいるのですね。捕まっていたのは体長1メートルほどの大きなイノシシで、こいつに襲われたら、そりゃあ一大事です。さすがに怖くなったので、明海集落に戻ろうかとも思いましたが、そのまま能登集落に向かうことにしました。ただし、坂道(山道)が続いていましたが、周囲を用心しながら、かつ大声で歌を歌いながら、歩く速度をかなり速くして。(なので、異常に疲れました)

眼下には宇和海の美しい光景が広がります。次の写真は島の北側を眺めたところです。遠くに東西約40kmに渡って細長く直線的に伸びる佐田岬半島が、付け根から先端の佐田岬までしっかり見えます。おおっ!! ちょっと感動です。

日振島ではマスクを外していました。だって、ほとんど人と出会いませんでしたから。喜路港を出てから2時間以上歩いてきましたが、途中で出会ったのは、明海港で道を訊いた釣り人1人だけです。軽トラックに乗って横を通り過ぎていった人は数人いらっしゃいましたが、歩いている人は私1人だけでした。

 豊後水道を挟んで遠くに見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から九州までの距離、すなわち豊後水道の幅は約30kmあるのですが、この地点はこの道路の最高地点のようで標高が高いところにあるので、その九州がすぐ近くにあるようによく見えます。先ほど通り過ぎた明海集落の背後に立つ高さ約80メートルの小山城が森には、その名が示すとおり、土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っており、その山頂には藤原純友の碑が立っているということを書かせていただきましたが、おそらくその砦の跡も同じくらいの標高なので、藤原純友の目にも同じように豊後水道を隔てて九州の陸地が間近に見えていた筈です。

前述のように、私は「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」ということに疑問を抱き、その答えを見つけるために日振島にやって来たわけですが、ここから豊後水道を隔てた先に見える九州の姿をしばらく眺めているうちに、「なるほど、そういうことかっ!」…と藤原純友がこの日振島を拠点に選んだ答え、言ってみれば“必然”のようなものを感じました。

 平将門が関東の地で自らを「新皇」と称して、独立王国を築くことを目指したように、おそらく藤原純友も西国で独立王国を築くことを目指したのではないでしょうか。それも“九州”の地で。実際、藤原純友は乱が起こってすぐに太宰府を攻略していますし、討伐軍に本拠地・日振島を襲撃された際にも、捲土重来を期して太宰府を占拠しています。このように藤原純友は九州への思いが強く、九州支配の意思は海賊集団の首領となった当初からあったのではないか…と思われます。

 もし藤原純友が京の朝廷に対して本気で謀反を起こし、朝廷にとって代わろうと挙兵したのであれば、日振島が拠点ではダメなんです。いくら武勇と組織統率力に優れた強い藤原純友を慕って仲間に加わったと言っても、藤原純友率いる海賊集団は、所詮は暴れん坊の寄せ集め集団です。大将である藤原純友が京から遠いそんな後方に拠点を置いたのでは弱腰と見られ、まとまるものもまとまりません。藤原純友は日振島に拠点を構えることで、配下の海賊集団を固く結束させるための何らかのメッセージを発出していたと考えるのがふつうです。それが九州侵攻と制圧であったのではないか…と、ここからの景色を眺めているうちに思い至ったわけです。

 その九州も、正しくは太宰府の置かれた北九州ではなくて、おそらく現在の宮崎県や鹿児島県といった南九州の支配ではなかったでしょうか。当時の中国は唐が滅んだ直後で、国内は五代十国時代と呼ばれる群雄割拠する混乱期にあったと思われますし、朝鮮半島も高麗によって統一されたばかりで、ここも国内における混乱が引き続き続いていたと思われますので、海外貿易どころではなく、したがって交易量も少なく、海賊集団にとって北九州はさほど魅力的な地には思えなかったでしょうから。太宰府占領はあくまでも朝廷勢力の南九州への侵攻を防ぐための防御策。なので、博多湾の戦いの直前にはせっかく手に入れた大宰府に火を放ち、惜しげもなく燃え尽くしてしまっています。

 こう考えてみると、日振島は南九州攻略のための最前線基地の色彩が強くなってきます。その先には南九州をベースとして、富を求めて、琉球、台湾、中国(当時は唐が滅亡して北宋が成立するまでの間の五代十国時代)、フィリピン等、南の国々との海上貿易を目論んでいたのではないかと私は勝手に推察しています。船を利用して海上を進めば、どこまでも行けますからね。

 古代の伊予水軍は、私達現代人が驚くほど進んだ造船技術や操船技術を持っていたと考えられます。藤原純友が瀬戸内海を支配して暴れ回った頃から約300年近く前の西暦663年。水軍大将・越智守興が率いる伊予水軍を主力とした倭国海軍の大船団は、かつて伊予国(現在の愛媛県)のどこか(私の推定では今治市桜井)にあったとされる熟田津軍港を出港して、今でも海の難所と言われる関門海峡を抜けて博多湾へ。博多湾から対馬海峡、朝鮮海峡を渡って朝鮮半島の白村江に百済救済に向かったわけです(白村江の戦い)。それ以前も遣隋使船、その後も遣唐使船を操船して東シナ海を渡り、大陸と往復していたわけで、古代から優れた造船技術と操船技術を持っていたことは容易に想像できます。

 なので、藤原純友はこの日振島を拠点に選んだのだ…という結論に、私は日振島からのこの景色を眺めているうちに、至りました。海賊という海の民ですから、領地にこだわる陸の民(ほとんどの日本人)とは根底を流れる発想がまるで違っていたのでしょう、きっと。第77回「風と雲と虹と承平天慶の乱(その1)」で、藤原純友のもとに集まった海賊達の多くは、元々は舎人(とねり)と呼ばれる朝廷の雑用をする役人だった人達だったこと。そして、瀬戸内海で働く舎人達は、中国や朝鮮など海外の客人のための対外的な儀式を執り仕切る人達だったということを書かせていただきました。このように、藤原純友軍の主力の人達は日頃から中国や朝鮮など海外の文化や文物に触れていた人達、現代風の言葉で言うと「グローバリスト」とでも呼ぶべき人達でした。しかも、彼等の多くは領地を持たない下級貴族や没落貴族達。寛平6(894)の遣唐使廃止、さらには907年の唐の滅亡以降、貿易も儀式も途絶えたことでほとんど仕事がなくなり、余剰人員となって朝廷からリストラされた人達でした。そのため彼等は(生活するために仕方なく)京へ向かう重要物流路である瀬戸内海を支配し、海賊として海外から運ばれてくる文物を収奪することを主たる生業としていたのですが、貿易量が激減してきたのでそれも成り立たなくなってしまっていたのではないでしょうか。また、いわゆる「藤原純友の乱」勃発後、藤原純友軍は讃岐国の国衙(こくが:国の役所)や備前国・備後国といった瀬戸内沿岸諸国の国衙、ついには北九州の大宰府までをも襲撃していますが、おそらくこれらは国衙の倉庫に備蓄されていた食料の収奪が目的の海賊行為、すなわち略奪だったのではないでしょうか。せっかく襲撃に成功しても、彼等は長くはその場に留まらず、さっさと撤収しているようにしか見えませんから。このように彼等は生きていくために相当追い詰められていたのは確かなようです。そうなると、「よしっ! 海外からの文物が運ばれて来ないのならば、こっちから出向いて奪ってくるか!」と考えるのは、とても自然な成り行きではなかったかと私は推測しています。

 藤原純友の最期に関して、「博多湾の戦い」で大敗を喫した後、伊予国に逃れ、そこで伊予警固使・橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではないこと。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説もあるということを書かせていただきましたが、上記の私の仮説が正しいとするならば、その「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説」が一番しっくり来ますし、第一カッコいいですよね。私に文才があって、藤原純友に関する歴史小説を書くとするならば、絶対にそういう終わり方にしますね。

 以上は今の時代に残されている幾つかの状況証拠をもとに私が勝手に推察した1つの仮説に過ぎませんが、この日振島からの風景を眺めながら立てた仮説だけに、私の中では「多分そういうことだったのだろう」とストンと腹に落ちるところがあり、大いに納得しちゃいました。これは実際に現地に足を運んで、そこから見える風景を目にしたからこその感覚ですね。

 私が今回日振島を訪れた目的である「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」の謎解きに私なりの答えを見出せたことで、後は気持ちよく島内ハイキングの続きです。ここからはゴールである日振島北部にある能登港を目指して坂道を下っていきます。

オヤッ!? 10月だというのに、季節はずれのサクラ()が開花しています。この1本だけでなく、周囲に何本も咲いているので、秋咲きの品種なのでしょうか?

能登の集落まで下ってきました。この日は日振島の約13km、歩数にして17,425歩を、約3時間半の時間をかけて歩きました。島内はアップダウンの激しい道路で、歩数以上に疲れました。ただ、美しい宇和海の景色を眺めながらのウォーキングは気持ちよく、心の底から癒されました。

能登港に盛運汽船の高速船「しおかぜ」の3便が入港してきました。桟橋前の待合室を兼ねた小さな事務所で乗船券を販売していたオバちゃんが桟橋に出てきて、船から係留索(係留用のロープ)を受け取り、ビットと呼ばれる係船具に結わえます。慣れた手つきです。


「藤原純友が本当に目指したものは何であったのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という謎を探るための糸口は、「なぜ藤原純友は日振島を本拠地にしたのか?」ということの解明からだと思い日振島を訪れてみたわけですが、実際に日振島から見える風景を眺めてみて、私なりにこの謎を解くヒントが得られたように思っています。

 平安時代中期の承平年間(西暦931年~938)から天慶年間(938年~947)のほぼ同時期に起きた『承平天慶の乱』、この朝廷に対する2つの叛乱の首謀者とされる関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友、そもそも彼等2人を同じ土俵で論じ、分析することが間違っているのではないかと思い始めました。叛乱を起こすに至った彼等2人の根底に流れる政治思想のようなものが根本的に違っていたのではないかと私は思っています。現代風の言葉で言うと、平将門の場合のそれは「ナショナリズム」、すなわち、独立した共同体を自己の所属する民族のもとで形成するという考え方。いっぽう、藤原純友の場合のそれは「グローバリズム」、すなわち国境を超えて世界を1つの共同体として捉えるという考え方とでも言えばいいでしょうか。とにかく、当時の藤原純友は現代人である私達から見ても相当に進んだ価値観・世界観を持っていたのではないかと思えてきました。

 そう考えてみると、おそらく藤原純友は平将門よりも壮大で、ある意味危険なことを企てていたのかもしれません。それはおそらく瀬戸内海の海賊達との交流の中から気づいたことなのでしょう。伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務に就いていた藤原純友は、瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功した後、突然、日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、その急変の背景も、海賊ならではのグローバリズムの気づきという観点で捉えると、なんとなく分かる気がします。真実がなんであったかはまったく分かりませんが、そう考えることで私は腑に落ちているところがあります。そして、これが藤原純友に関してこれまでの歴史学者がなかなか研究を深められずにきた主たる要因のように、私は思っています。

それにしても、藤原純友、及び彼が中心となって起こした藤原純友の乱に関しては、時系列を整理しながら冷静になって考えてみると、実に様々な素朴な疑問が次から次へと湧いてきます。例えば、

① 藤原純友がいくら武勇に優れていたと言っても、京のお公家さんがどうしてわずか5年ほどの間で千艘以上の船を操る瀬戸内海の海賊集団を率いるまでになれたのか?

② 藤原純友軍は備前国や播磨国、淡路国、讃岐国の国衙等を襲撃しているのに、朝廷の地方出先機関の中で最も手っ取り早い筈の伊予国の国衙(国府)を襲った記録が残されていないのはなぜか?

③ 瀬戸内海周辺でこんなに組織だった海賊行為が行われているのに、当時の朝廷の主力海軍である筈の伊予水軍(越智三島水軍)が博多湾の戦いに至るまで直接鎮圧に乗り出していないのはなぜか?

④ 博多湾の戦いで藤原純友軍を壊滅させたのは伊予水軍(越智三島水軍)だと分かっている筈なのに、いくら自分の拠点があったと言っても、藤原純友親子が博多湾の戦いでの大敗後、伊予水軍の拠点でもある伊予国に逃げ帰って来たのはなぜか?

……等々。

このようにこの藤原純友という人物、次から次へと出てくる謎が多すぎて、調べ甲斐のある実に面白い人物です。もう少し藤原純友に関していろいろな角度から調べてみようと、帰りの船の中で美しい宇和海の景色を眺めながら考えていました。とにかく歴史の解明は面白いです。

 

……(その4)に続きます。



2021年3月11日木曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)

公開予定日2021/03/04

晴れ時々ちょっと横道]第78回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2) 


前回第77回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」の一番最後に書かせていただきましたが、今では中学校や高校の歴史の教科書にも載っている『承平天慶の乱』の2人の主人公、平将門と藤原純友ですが、その後の扱いは大きく違っているように私には感じられます。私に言わせれば、「平将門の乱」はあくまでも平氏一族内での「私闘」の延長線に過ぎず、しかもわずか2ヶ月で平定されたのに対し、「藤原純友の乱」は朝廷に強い不満を持つようになった下級貴族や没落貴族達が集団に起こした朝廷に対する叛乱で、それまでの公地公民をベースとした律令国家体制の崩壊を象徴するような歴史的に見ても大きな出来事。それも約2年という長期間に及んだにも関わらず、この扱いの差はいったいどこから来ているのか…と不思議に思ってしまいました。

平将門と藤原純友のその後の扱いの差を決定的にしていると思われるのが“怨霊伝説”の存在ではないでしょうか。天皇(朝廷)に叛逆したことから、道鏡、足利尊氏と並んで「日本三悪人」の1人と扱われている平将門には怖い逸話が数多く残されています。そのうち最も有名なのが「将門の首塚伝説」です。

 平貞盛・藤原秀郷の地元鎮圧軍によって討たれたのち、平将門の胴体は現在の茨城県坂東市岩井にある延命院に埋葬されたのですが、その首は平安京へと持って行かれ、京都の七条河原に晒されたと言われています。しかし、平将門の無念の思いはよっぽど強かったのか、平将門の首は何ヶ月経っても腐敗せず、それどころか眼をぐっと見開いては歯ぎしりをし、「俺の身体はどこだ!首を繋いでもう一戦しよう!」という叫び声が夜な夜な響いていたという怖い逸話が残っているのです。そしてある時、晒されていた将門の首が突然、白い光を放ちながら胴体を求めて東の方へと飛び去って行ったのだそうです。関東の地を目指して空高く飛び上がった平将門の首は、途中で力尽きて、幾つかに分かれて地上に落下してしまったとされており、そんな無念やるかたない平将門を偲んだ人々によって、将門の首塚が建てられています。同じような首塚伝承は関東地方の各地に残っているのですが、その中でも最も有名なのが、東京都千代田区大手町1丁目の三井物産本社ビル(Otemachi One)の傍にある「将門塚」です。丁重に祀られたと言っても、それでも平将門の霊は鎮まることがなかったようで、平将門の墳墓の周りでは様々な天変地異が頻発したりすると、それは平将門の怨霊の祟りのせいだと噂されるようになり、いつのまにか平将門は菅原道真・崇徳上皇とともに“日本三大怨霊”の一人と呼ばれるようになりました。

皇居にほど近い東京・大手町のオフィスビル街のど真ん中に「平将門の首塚」があります。「都史跡 将門塚」という碑が立っています。

ガラスケースに覆われた石碑が「平将門の首塚」です。根強い平将門ファンは多いようで、この日も多くの参拝客が訪れていました。そのほとんどが女性。平将門ファンに圧倒的に女性が多いことに驚かされました。

山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている神田祭を執り行う神社として知られる神田明神。この神田明神も平将門所縁の神社です。神田明神は天平2(730)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと:いわゆる大黒様)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町の将門塚周辺)に創建されたとされる神社です。その後、平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威(祟り)として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門の御霊を供養し疫病が沈静化したことから、延慶2(1309)、平将門が祭神として神田明神に祀られました。したがって、神田明神に祀られている祭神は一ノ宮が大己貴命、二ノ宮が少彦名命(スクナヒコナノミコト、いわゆる恵比寿様)で、三ノ宮が平将門命です。このうち少彦名命が二ノ宮として祀られたのは明治7年のことで、明治天皇が行幸する際、天皇が参拝する神社に朝廷に叛旗を翻した逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきことであるとして、いったんは祭神から外されたことによるものです。その後、昭和59年に平将門は三ノ宮として祭神に戻されています。

山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている神田祭を執り行う神社として知られる神田明神。この神田明神も平将門所縁の神社です。

また、慶長5(1600)、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが起きると、徳川家康が合戦に赴く際にこの神田明神で平将門の御霊に必勝の祈祷を行い、見事に勝利し、天下統一を果たしました。それにより、神田明神は江戸幕府の尊崇する神社となり、元和2(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の場所に遷座し、幕府により社殿が造営されました。明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称したのですが、今でも一般的には神田明神と呼ばれていて、東京の守護神となっています。

 また、この将門の首塚がある場所は、江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代に大老職を務めた上野国厩橋藩15万石第4代藩主・酒井雅楽頭忠清の上屋敷があったところです。この酒井雅楽頭忠精の上屋敷は江戸時代前期に陸奥国仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」において評定(裁判)が行われた場所で、その評定の最中、被告であった仙台藩重臣・原田甲斐(原田宗輔)が原告である仙台藩一門で涌谷伊達家2代当主の伊達安芸(伊達宗重)らを斬り殺し、自身も斬られて死亡した場所です。この伊達騒動は山本周五郎先生の歴史小説『樅ノ木は残った』に描かれており、昭和45(1970)には平幹二朗さん主演でNHK大河ドラマにもなっています。その山本周五郎先生の歴史小説『樅ノ木は残った』においては、この伊達騒動の黒幕は仙台藩伊達家取り潰しを画策した酒井雅楽頭忠精だという設定になっています。まぁそういうことで、ここは言ってみれば、呪われた場所でもあります。

これも平将門の御神威(祟り)のなせることなのでしょうか。「平将門の首塚」があるところは、江戸時代前期に陸奥国仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のクライマックスとも言える殺害事件が起きたところです。


現代に至っても平将門の凄まじい怨念は続いていると言われ、第二次世界大戦後、米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止したとか、昭和の高度成長期、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚を見下ろす窓側に座っていた行員が次々に病気になる事態が発生しお祓いしたとか、平将門の呪いのせいであるとされる奇異な出来事が、この将門塚の周辺で度々発生しています。

 また、昭和63(1988)、帝都東京の守護霊をテーマに盛り込んだ荒俣宏さんの小説を原作とした映画『帝都物語』が公開されると、平将門の存在は広く知れ渡るようになり、「東京の守護神」として多くのオカルトファン、都市伝説ファンの注目を集めるようになりました。この『帝都物語』は平将門の怨霊により関東大震災などの大災厄を引き起こし帝都破壊を目論む謎の軍人・加藤保憲と、その野望を阻止すべく立ち向う人々との攻防を描いた作品なのですが、映画で俳優・嶋田久作さんが演じた主人公・加藤保憲(魔人加藤)の非常にインパクトのあるキャラクターは強烈すぎて、私は今も忘れられません。

 ちなみに、もともと主祭神として神田明神に祀られていた平将門が明治7年に明治天皇が参拝するにあたって祭神から外されたのは上述のとおりなのですが、昭和59年に三ノ宮として祭神に戻された背景としては、昭和51(1976)に放送されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』があります。このドラマの影響で時ならぬ平将門ブームが起こり、ファンの後押しがあって主祭神に戻されたという経緯があるようです。

このように怨霊として恐れられた平将門は、東京・大手町にある首塚や神田明神だけでなく、本拠とした下総国豊田・猿島郡地域(現在の茨城県結城郡・猿島郡地域)を中心に日本(主に関東地方)各地に彼に関わる塚や神社、さらには逸話が数多く残っています。

 ところが、藤原純友については平将門ほど研究も進んでおらず、藤原純友に由来する場所もあまり知られていません。まぁ、既に1,000年以上が経過していることもあり、仕方ない部分もありますが、それでもねぇ〜。藤原純友は伊予掾や伊予国警固使の役職として伊予国国府(現在の今治市)を拠点として海賊鎮圧の任務に就き、その後、宇和海に浮かぶ伊予国日振島(宇和島市)を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけで、「藤原純友の乱」はまさに伊予国、愛媛県が舞台の中心でした。しかし、残念なことに、藤原純友は地元民からも忘れ去られているようなところがあります。したがって、藤原純友が平将門ほど有名でないのは、愛媛県人のアピール下手、観光下手以外の何物でもないのではないか…と私は思ってしまうのですが…。

 調べてみると、藤原純友を祭神として祀る神社は全国に3つあります(3つしかない…とも言えますが)。岡山県倉敷市の下津井港の沖に浮かぶ松島という小島にあるその名も「純友神社」。新居浜市種子川にある「中野神社」。そして、松山市古三津5丁目の住宅街の中にある「久枝神社」の3つです。このうち2つの神社が愛媛県にあります。

 まずは岡山県の「純友神社」。この純友神社の社殿の近くには大丸と呼ばれる高台があり、それが藤原純友の居城の1つ大丸城だった場所ではないかと言われています。藤原純友の乱の発端になったのは備前国(現在の岡山県)に土着した海賊衆の1人、藤原文元が備前国の役人(備前介)だった藤原子高を襲撃したことだということは前述のとおりです。この藤原文元の居城であったとも推察されています。

 次に新居浜の「中野神社」です。新居浜市種子川町に新高(にいたか)神社と称される神社があり、中野神社はその境内社として祀られています。この中野神社には和霊神(山家清兵衛公頼)も祭神として祀られているため、近所では和霊さんと呼ばれることもあるとのことです。この新高神社の鎮座地は、生子山(しょうじやま)と呼ばれる標高150メートルを少し越えるほどの丘陵の麓ですが、その生子山と種子川と称される川を挟んでほぼ同じ高さの中野山があり、もともと中野神社はその中野山に祀られていました。中野神社の創健は天慶4(941)の藤原純友の死後まもなくと思われるのですが、時期は不詳とされています。新高神社の境内社として遷されたのは明治2(1869)のことです。

新居浜市種子川町にある新高神社です。現在、中野神社は新高神社の境内社として祀られています。

由緒書きの碑には、「伊予掾として赴任した藤原純友が大いに慕われ、やがて伊予水軍の頭領となって伊予の地で中央に反旗を翻した結果、討伐軍に敗れて中野神社に近い中野山で討たれた」と記されています。博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた藤原純友親子を捕らえて殺害し、その首を朝廷へ進上したとされる伊予国警固使・橘遠保はその恩賞として、それまでの領地である周布一郡(現西条市の橘郷のJR石鎚山駅周辺)に加えて宇和二郡を賜ったとされています。橘遠保の姓のは橘郷の地名に因んだものとも考えられます。その後、橘遠保は美濃介に転任したのですが、天慶7(944)26日、何者かに斬殺されたと言われています。この斬殺に関して、当時は怨みを残して殺された藤原純友の怨霊によるものだと考えられていて、その藤原純友の怨霊を鎮めるために橘郷の人達によって中野神社が創健されたとも伝えられています。

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で取材に行けないため、実はこの写真は生まれも育ちも新居浜市で、新居浜市役所勤務、しかも新高神社のすぐ近所に住む従弟に撮影してきて貰いました。そんな彼でも、ここに藤原純友が祀られていることは初めて知ったのだそうです。


藤原純友とは離れますが、新高神社のある生子山には別子銅山の産業遺産である山根製錬所の大きな煙突があることから、現在は「煙突山」の愛称で新居浜市民から親しまれています。ちなみに、戦国時代の末期までこの生子山には生子山城とうい名の砦があり、中野山にも麓城と呼ばれる砦があって、いずれも新居氏の流れをくむ松木氏が支配していました。天正13(1585)、全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)は四国攻め(四国平定戦)を決意。秀吉の命を受けた毛利氏の小早川隆景率いる総勢約3万人とも言われる大軍勢が瀬戸内海を渡り伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸しました。それを金子城(新居浜市滝の宮町)城主・金子元宅率いる地元勢力約2千人が迎え撃ちました。これが「天正の陣」(金子城の戦いとも)で、この戦いで松木氏を含む新居氏一族は悲劇的な最期を遂げたため、今では砦の存在を示す遺跡はいっさい残っていません。金子城落城後、金子元宅は高尾城(西条市氷見)に拠ってなおも抵抗を続けたのですが、その時残っていた戦力は総勢6百人程度であったとされています。 圧倒的兵力で怒涛のように攻めかかる小早川軍に対し、高尾城は多勢に無勢であえなく落城(高尾城の戦い)。総大将の金子元宅は高峠城(西条市洲之内)に陣を構えていたのですが、最期を悟った金子元宅は自ら高峠城に火を放ち、百人ほどで野々市ヶ原(西条市野々市)に打って出て奮戦。その生涯を終えました(野々市ヶ原の戦い)

 藤原純友所縁の地巡りに戻って、最後は松山市古三津5丁目にある久枝神社です。

松山市古三津5丁目にある久枝神社です。カーナビで検索しても出てこないような小さな神社です。とりあえず古三津5丁目まで行き、近くのコンビニで聞いて、やっと場所がわかったほどでした。


この神社の境内には、駒、すなわち馬に乗った藤原純友がこの岩の上から潮の干満を見たという伝承が残る「藤原純友の駒立岩」があります。天慶4(941)5月、藤原純友率いる海賊衆の船団が博多湾の戦いにおいて朝廷より派遣された小野好古、源経基率いる追捕使軍により壊滅させられ、藤原純友は子・重太丸とともに本拠地である伊予国へ逃れたとされているのですが、その際に上陸したのが現在の松山市古三津のこの地。その際に藤原純友が駒を立てて沖を見たと伝えられる岩がこの岩ということのようです。近くの谷に埋没していたものを掘り出して場所をこの神社境内に移して復元したということです。


久枝神社にある「藤原純友の駒立岩」です。この場所で駒を立てて沖を見たと伝えられている岩です。


また久枝神社の境内には「藤原純友 駒つなぎの松跡」の碑も立っています。藤原純友伝説の一つとして地元に語り継がれている伝承です。

こちらは「藤原純友 駒つなぎの松跡」です。

その久枝神社に隣接する明神丘と呼ばれる小高い丘陵は、現在は常福寺という真言宗の寺院と松山市営の墓地になっているのですが、その頂に「藤原純友館跡」の碑が立っています。ここはまだ藤原純友が伊予掾、さらには伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続けていた頃の館()の跡だと推定されています。松山市の沖は、古来より九州と近畿とを結ぶ海上航路上に位置するため、海上の往来が盛んな地域で、そこに点在する中島をはじめ7つの島からなる忽那(くつな)諸島は、平安時代から忽那氏と呼ばれる有力な海賊集団の根拠地でした。その忽那氏を制圧するためにこの地に館()を築いたことは十分に考えられます。


明神丘の頂に立つ「藤原純友館跡の碑」です。眼下に古三津の街並み、その向こうは瀬戸内海で、忽那諸島の島々が見渡せます。忽那諸島を本拠にする海賊衆に睨みを効かせるには、絶好のロケーションです。

藤原純友は海賊衆の頭領になってからは本拠地を日振島に移すのですが、その後もこの館()はそのまま残っていたと考えられ、博多湾の戦い後、敗走した藤原純友親子がこの地に逃げ帰ったと考えるのもおかしなことではないと私も思います。現在、館の跡は全く残っていませんが、館があった当時使用されたと伝えられる井戸の跡が残っています。大宰府と博多湾の戦いで大敗した藤原純友が北九州から伊予に敗走してこの地に住んでいた当時の名残なのだそうです。その関係から、天慶4(941)に藤原純友が捕まって殺害されたのがこの地だという伝承も残っています。

 私も新居浜市の中野神社と松山市の久枝神社を訪れてみたのですが、『承平天慶の乱』で歴史の教科書に残るほどの有名人・藤原純友を祀っている神社と言われるわりには、申し訳ないけれどショボい神社です。参拝客もほとんど見掛けず、まさに人知れずひっそりと佇んでいるって感じです。平将門を祭神として祀る神田明神の賑わいや華やかさと比べると、あまりにも大きな違いがあります。しかも藤原純友は平将門のように神(怨霊)や英雄として崇められることも少なく、地元にもこれと言った伝説や逸話は残っておりません。ここが平将門との決定的な違いです。

 私は愛媛県の歴史を調べる時、『愛媛県史』を参考にしています。その『愛媛県史 古代・中世(昭和59年3月31日発行)』の「第一編 古代、第三章 律令国家の動揺、第二節 海賊の跳梁」に藤原純友に関する項があります。その中に次のような非常に興味深い記述があります。それを抜粋して示します。

 ・『予章記』によれば、この時、越智好方なる者が純友追討の宣旨を蒙って百余艘の兵船を率いて九州に渡り、これと戦ったとも伝えられ、好方は越智郡押領使、その子好峰は野間郡押領使に任じられている。純友の乱に際して越智氏がその軍事力で純友追討の戦闘に参加、乱後その功績により押領使・追捕使などの地位を獲得していった動きはほぼ事実とみなして差し支えなかろう。

 ・純友追討軍を構成する諸国兵士のなかに、伊予国兵士が当然含まれていたであろうが、その動員形態は越智氏のような古代伊予を代表する伝統的豪族層が、その影響下にある一般兵士を組織、これを統率して参加したのではなかったろうか。

 ・藤原純友の反乱と伊予国との関わりをみていく時、特に注目すべき事実の一つは、この越智氏の場合に典型的にみられるように、純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていないという点である。

 ・純友が本格的な反乱に蜂起していった後、彼の次将と呼ばれるクラスには、前記のように確実な伊予国出身者は史料上見出し得ない。

 ・結局伊予国の在地勢力の主要な部分は、ほとんど国家側にとどまり、越智氏のように伊予国兵士として純友軍に対峙したと考えざるを得ず、そこに純友の限界を考えてみるべきでもあろう。

 なるほどぉ〜。藤原純友は伊予国を拠点に朝廷に対して叛乱を起こしたにも関わらず、愛媛県(伊予国)でまったく人気がないどころか、ほとんど関心さえ示されない理由がここにあるのでしょうね、きっと。首領である藤原純友をはじめ藤原純友軍の主力のほとんどは、中央(京の都)で出世が望めなくなった下級貴族や没落貴族、失業した舎人と呼ばれる役人達で、伊予国とはほとんど関係のない、言ってみればよそ者。そのよそ者達が勝手に伊予国内に拠点を構え、瀬戸内海一帯を暴れ回り、その挙句、朝廷に対して叛乱を起こし、勝手に朝廷の討伐軍に敗れて滅んだわけです。ホントいい迷惑…ってところだったのでしょうね。実際、博多湾の戦いで藤原純友軍の海賊船団を打ち破った朝廷側の討伐軍の船団の主力は、越智氏族をはじめとした古代伊予を代表する伝統的豪族層、すなわち伊予水軍だったと考えられます。瀬戸内海の覇権(制海権)を“よそ者”であった海賊集団から在地勢力の伊予水軍が奪い返したってことなのでしょう、きっと。これが在地勢力を上手く巻き込んで勢力を伸ばしていった平将門との決定的な違いなのではないでしょうか。

 余談ですが、芸予諸島の大三島にある大山祇神社には、藤原純友の乱にあたって勅により錦旗をいただき、藤原純友追捕に大活躍した越智(河野)好方が戦勝の御礼に奉納したと伝えられる沢瀉威(おもだかおどし)の鎧と兜が保管されています。この種の鎧としては日本最古のものであると言われ、国宝に指定されています。

 平将門に関して多くの伝説や逸話が生まれたのは、恵まれた貴族の寄り集まりである朝廷に逆らい、地方の農民や虐げられている者たちのために戦った…そういう印象の強い平将門に同情し、平将門の無念さを、自分のことのように感じる人が多かったからだという説もあるようです。さらに、敗れたとはいえ公家政治に果敢に挑んだ平将門は、徳川家康に至るまで後世の関東武士から敬愛の念を抱かれ続けたと言われています。そのいっぽうで、藤原純友にはまったくと言っていいほどそういう部分が見受けられません。これもそのあたりが影響しているのかもしれません。納得しました。これじゃあ神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのも当たり前です。むしろ、消し去りたい忌まわしい過去、黒歴史…って感じですものね。

 でも、ここで新たな疑問が湧いてきました。何故、藤原純友は宇和海の日振島に拠点を構えたのか?…という疑問です。その疑問を解決するには藤原純友が見たのと同じ景色を見て、藤原純友の気持ちになって考えてみるしかないと思い、実際に日振島に行ってみることにしました。次回第79回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)」では、その「日振島探訪記」を書かせていただきます。

 

 【追記】

それにしても、市内に藤原純友に関連する史跡があることを知らない松山市民のなんと多いことか……。それ以前に、誰とは言いませんが、ある若い松山市民(女性)との会話の中で出てきた「藤原純友? それ誰? 藤原竜也なら知っているけど……」には思わず絶句しちゃいましたが() こりゃあ、絶対に藤原純友のことをもっと発掘しないといけませんね。

 

……(その3)に続きます。

2021年2月26日金曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)

 公開予定日2021/02/04

[晴れ時々ちょっと横道]第77回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)


『承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)』ってご存知ですか? 『承平天慶の乱』は平安時代中期の年号の承平から天慶年間のほぼ同時期に起きた、関東での平将門(たいらのまさかど)の乱と瀬戸内海での藤原純友(ふじわらすみとも)の乱の総称のことです。


それぞれの乱について簡単に振り返ってみます。まずは「平将門の乱」についてです。

 

【平将門の乱】

 

平将門は朝廷より平氏の姓を授けられた桓武平氏の祖・高望王(たかもちおう:第50代桓武天皇の孫)の孫にあたり、9世紀末以降、下総(しもうさ)国豊田・猿島(さしま)郡地域(現在の茨城県結城郡・猿島郡地域)の石井に本拠を構えて土着した軍事貴族でした。本格的な反乱が始まる前の承平年間(931年~938)には、伯父の平良兼と親族内での内紛 (亡くなった平将門の父・平良将の遺領を巡る一族内の個人的ないざこざ) を起こし、嵯峨源氏で常陸大掾(ひたちだいじょう)であった源護(まもる)や、その娘婿でもあった自身の叔父の平国香・平良正・平良兼らの同族を巻き込んで小さな合戦を繰り返していました。武勇に優れ、組織統率力もあった平将門は、どの合戦においてことごとく勝利し、ついには承平5(935)、叔父の平国香を討ち取ったのですが、承平6(936)10月、平将門はこれらの戦いのことで源護に訴えられ、京都の朝廷に召喚されます。この時は朱雀天皇元服の大赦で赦されて、全ての罪は不問とされました。

しかし、下総国への帰郷後も一族内での紛争は収まらず、もう1人の叔父の平良兼や討ち取った平国香の息子の平貞盛、さらには源護なども巻き込んでどんどんと泥沼化していきました。さらには天慶2(939)2月、武蔵国(現在の埼玉県・東京都)へ新たに赴任した権守興世王(ごんのかみおきよおう)と源経基(つねもと:清和天皇の孫で清和源氏の祖)が、足立郡の郡司・武蔵武芝との間に起きた紛争に介入し、平一族とは全く関係のない地方役人たちの領地争いにも参画していくようになります。この時は興世王と武蔵武芝を会見させて和解に持ち込んだのですが、武蔵武芝の兵がにわかに源経基の陣営を包囲し、驚いた源経基は京都へ逃げ帰ってしまいました。この頃から抗争は次第に一族の内紛から、京都の朝廷への反抗の様相を見せ始めることになるのですが、もはやこの時期の関東地方においては、朝廷の地方支配はほとんど機能しておらず、大混沌に陥っていたということもできるかと思われます。

 この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守・百済貞連と不和になり、国庁の会議に全く列席させて貰えなかった興世王は任地を離れて下総の将門のもとに身を寄せるようになり、平将門も徐々にその争いの渦中に巻き込まれていきます。その数ヶ月後の天慶2(939)1121日、平将門は常陸国(ひたち:現在の茨城県北部)の国衙(こくが:国の役所)を襲い、国守・藤原維幾(これちか)を捕らえました。この戦闘は国衙側から宣戦布告されてもので、平将門はやむなく戦うこととなったのですが、結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して叛旗を翻す形になってしまいました。すなわち、これまでの一連の戦いは、あくまでも平氏一族内での「私闘」という扱いでしたが、国の役所である国衙を攻撃し占領してしまったことは、図らずとも平将門が朝廷に対して叛旗を翻してしまったことを意味するわけです。

 その後、平将門は彼の側近となっていた興世王の進言を受け入れて下野国(しもつけ:現在の栃木県)・上野国(こうずけ:現在の群馬県)・相模国(さがみ:現在の神奈川県)などの関東諸国を巻き込み、破竹の勢いで瞬く間に次々と制圧。朝廷から派遣されていた国司を追放し、弟達や主要な従者達を各地の国司に任じて、自らは京都の朝廷・朱雀天皇に対抗して「新皇」と称し、関東に独立王国を築く姿勢を示しました。

 これに対して朝廷は平将門を、朝廷に対して反乱を起こした叛逆者として位置づけ、鎮圧へと乗り出すこととなります。平将門と敵対関係にあった平貞盛ら平一門の武力を借り、さらには下野国の藤原秀郷ら関東の群党的領主たちを抱き込んで地元の鎮圧軍として編制。天慶3(940)2月初旬には藤原忠文を征東大将軍、源経基らを副将軍に任命して追討軍を編成し、京都から出征させました。213日、平将門は京都からの追討軍主力が到着する前に、平貞盛・藤原秀郷らの数に勝る地元鎮圧軍に攻められて「川口村の戦い」(戦闘のあった場所は現在の茨城県結城郡八千代町水口付近)で敗北。この手痛い敗戦により追い詰められた平将門は、翌214日、地の利のある本拠地石井(現在の茨城県坂東市中根付近)近くの下総国猿島郡幸島付近に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けたものの、奮戦虚しく、どこからか飛んできた流れ矢が平将門の額に命中し、あえなく討ち死に。乱は実質わずか2ヶ月ほどで平定されてしまいました。

 この平将門の乱の鎮圧に功があった平貞盛や藤原秀郷たちは、朝廷から恩賞として四位、五位の位階に叙せられ、関東の国司に任命されました。彼らはこれをもとに、中央・地方を問わず武門として発展する基盤を築いていくことになるのですが、のちの鎌倉幕府の有力御家人の多くは、この乱の功労者たちの末裔でした。平将門によって芽ばえた東国政権樹立の夢は、それから250年後の建久3(1192)、源頼朝に征夷大将軍の宣下がなされ、武家政権である鎌倉幕府が成立することによって、実現することになります。ちなみに、朝廷から差し向けられた平将門追討軍の副将軍を務めた源経基は源頼朝の父祖にあたります。

 以上が「平将門の乱」の概要です。続いて「藤原純友の乱」の概要です。

 

【藤原純友の乱】

 


藤原純友は藤原氏の中でも最も栄えた藤原北家の出身で、大叔父には清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握り、日本史上初の関白に就任した藤原基経がいます。そのような名家の出なのですが、大宰少弐だった父・藤原良範を早くに亡くし、出世に必要な人脈を失ったことから都での出世は望むべくもなくなり、やむなく地方官となりました。承平元年(931)、父の従兄弟である藤原元名が伊予国の受領(ずりょう:実際に任国に赴く諸国の長官)として伊予国に赴任するのに従って従七位下 伊予掾(いよのじょう:身分の低い役人)として伊予国に赴任し、瀬戸内に横行する海賊の鎮圧に従事しました (当時の伊予国の国府は現在の今治市にありました)

 瀬戸内海は古代より西日本からの物資や租税の多くが運ばれる物資運送の重要な海上交通路でした。瀬戸内海で海賊行為が行われ始めたのは、とても古く、奈良時代に遡ります。聖武天皇が天平2(731)に「京および諸国の盗賊と海賊を対武する」という詔を発布しているほどです。奈良・平安時代、当時の律令政治は一般庶民に重税や労役を課していたため、生活に困窮した瀬戸内の島民が、航行する船を襲い、積み荷を奪ったのが、海賊の発祥とされています。前述のように、瀬戸内海は古代より西日本からの物資や租税の多くが運ばれる物資運送の重要な海上路だったのですが、見方を変えれば、瀬戸内海の海運を握ってしまえば、朝廷の力を削ぐことも、自分達だけ豊かになることもできるわけです。当然、朝廷は税収確保のために、こういった海賊を厳しく取り締まるようになります。本来ならば、伊予掾の藤原純友も海賊達を厳しく取り締まる側だったはずなのですが……。

 その後、伊予国がよっぽど気に入ったのか、上司の藤原元名が任期を終えて都に帰任した後も藤原純友は帰京せず、伊予国に土着する道を選びます。伊予掾は解任されたものの、武勇に優れ、強さと組織統率力において海賊を圧倒してきた藤原純友は、すぐに「伊予国警固使」の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続けます。承平6(936)までには瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功したのですが、そこから驚くことに、彼は九州と四国の間の宇和海に浮かぶ伊予国日振島(ひぶりじま:宇和島市)を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げます。その背景には、藤原元名を引き継いで新しく上司の伊予守となった紀淑人が海賊の鎮圧という藤原純友の手柄を横取りし、純友の勲功を黙殺してしまったことがあるとされています。それを機に藤原純友は上司や朝廷にかなりの不満を持つようになり、それまでとは反対の立場である海賊になったということのようです。

 9世紀後半になると、瀬戸内海では航行する船を襲い、積み荷を奪う海賊がそれ以前よりも多く出没するようになりました。この背景には、実は遣唐使の廃止があるとされています。海賊というとジョニー・ディップ主演のディズニー映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に出てくるような海の荒くれ者集団のイメージが強いのですが、瀬戸内海にいた海賊達はちょっと違っていました。彼等はなりたくて海賊になったわけではありませんでした。その多くは、もともとは朝廷の舎人(とねり)と呼ばれる朝廷の雑用をする役人だった人達でした。瀬戸内海で働く舎人達は、中国や朝鮮など海外の客人のための対外的な儀式を執り仕切る人達でした。ところが、寛平6(894)の遣唐使廃止、さらには907年の唐の滅亡以降、対外貿易も儀式も途絶え、舎人はほとんど仕事がなくなり、余剰人員になったのでした。舎人はもともと朝廷の役人であり免税の特権があったので、これにより何もしない多くの舎人達、はっきり言ってプー太郎達が瀬戸内海一帯の地域に大量にはびこることになりました。いっぽう、税の徴収が仕事である国司(受領)としてはその状態を苦々しく思い、彼等をどうにかしてほしいと朝廷に訴えました。朝廷は、税の取り立て役人である受領の機嫌を損ねたくないことから、受領に舎人をリストラ、すなわちクビにする権利、逮捕する権利を与えてプー太郎と化した舎人達を容赦なく排除させました。リストラされた舎人達は現金収入の道が突然閉ざされたわけで、手に職があるわけでもなく、生きていくために仕方なく瀬戸内で生産される米を強奪する海賊になるしかなかったとも言えます。

 海賊集団の首領となった藤原純友のもとには、純友と同じように中央で出世が望めない下級貴族や没落貴族達も集まり、共に活動を始めました。さらには、それまで藤原純友に鎮圧されていた元舎人の海賊達さえも武勇と組織統率力に優れた強い藤原純友を慕って仲間に加わりました。すなわち、努力が報われなかったり、地方に放置されたままになったりして追い詰められ、朝廷に強い不満を持つようになった“負け組”の者達が藤原純友のもとに結束し、強大な船団を作り上げ、瀬戸内海をコントロールしはじめたというわけです。言ってみれば“怒りの海賊船団”で、彼等は瞬く間に各国の国司(受領)たちの手には負えないほどの軍事力を持つようになり、千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らす海賊行為を繰り広げ、やがて広い瀬戸内海全域にその勢力を伸ばしていきました。

 東国で平将門が朝廷に対して叛旗を翻した直後の天慶2(939)12月、その海賊達の不満が一気に爆発する事件が起きます。藤原純友と親交の深かった備前国(現在の岡山県)に土着した海賊(元舎人)、藤原文元が備前国の役人(備前介)だった藤原子高とトラブルになり(トラブルの原因は藤原子高による税金の着服ではないか言われています)、藤原文元が摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)に逃亡中だった備前介 藤原子高と播磨介 島田惟幹を襲撃し殺害。この事件は海賊達の首領であった藤原純友との共謀により起こったこととされ、藤原純友は朝廷から叛逆者扱いされることとなり、これが「藤原純友の乱」の発端となりました。

 平将門と藤原純友がほぼ同時に朝廷に対して叛乱を起こしたことから、この両者で「共同謀議」があったのではないかとする説があります。その共同謀議説とは、京都で朝廷に中級官人として出仕していた青年時代の平将門と藤原純友は、ある日、一緒に比叡山に登り平安京を見下ろした。二人はともに、将来、乱を起こして都を奪い、平将門は桓武天皇の子孫だから天皇になり、藤原純友は藤原氏だから関白になろうと約束した…とする伝説です。また、比叡山上には、この伝説にちなんだ「将門岩」なるものも存在し、そこには将門の無念の形相が浮かび出るという伝承までがあります。

 しかし、実際には、両者の共同謀議の痕跡はいっさいなく、むしろ別々に自らの地位向上を目指してもがいているうちに、たまたまほぼ同時期に東国で平将門が叛乱を起こし、藤原純友は西国で蜂起に追い込まれてしまった色合いのほうが強いと言えます。まぁ、当時の日本は公地公民をベースとした律令国家体制が崩壊し、特に地方の政治は大きく乱れ、日本中で誰かがいつどこで朝廷(正しくは地方を治める国司)に対して武装蜂起を起こしてもおかしくないギリギリの切迫した状況にあったということではないでしょうか。そのうち歴史に残るほどの大きな武装蜂起をしたのが平将門と藤原純友だったという風に見たほうがいいと思います。

 こうして始まった藤原純友の乱ですが、当初は意外な展開を見せます。朝廷はまず東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、天慶3(940)130日、西の藤原純友に対しては従五位下の位階を授けて懐柔するという方策に出ました。これにより藤原純友らの反乱は一時沈静化したかに見えたのですが、その直後の214日、平将門が下総国猿島郡幸島付近で交戦中に討ち死にし、5月に平将門の乱を鎮圧した軍が帰京してくると同時に、朝廷は藤原純友追討を本格化させます。

 8月になって藤原純友軍は讃岐国の国衙(こくが:国の役所)を攻撃し、さらに備前国・備後国といった瀬戸内沿岸諸国を襲い、10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行いました。いっぽう、朝廷側は藤原純友軍追討のために右近衛少将(武官)の小野好古を山陽道追捕使長官に、平将門追討軍でも副将軍を務めた源経基を次官、藤原慶幸・大蔵春実を主典に任じ、討伐の準備を進めました。ちなみに山陽道追捕使長官となった小野好古は、小倉百人一首では参議篁で知られる歌人の小野篁(たかむら)の孫で、「三蹟」の1人と称された書家の小野道風は弟にあたります。また、一説には「六歌仙」の1人で絶世の美女と言われた女流歌人の小野小町の従弟にあたると言われています。

 藤原純友が率いた軍勢は、彼が鎮圧した海賊だけではなく、前述のように、その大半は武芸に通じた下級貴族や没落貴族達でした。そのため藤原純友軍は滅法強く、1年以上もの長きにわたって日振島を拠点に、瀬戸内海を制圧し続けました。しかし翌天慶4(941)2月、藤原純友軍の次将の1人だった大幹部の藤原恒利が藤原純友を裏切り朝廷軍に降ると、一気に形勢が逆転します。朝廷の討伐軍は藤原純友の本拠地・日振島を攻め、これを破ります。藤原純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領。藤原純友の弟の藤原純乗は柳川に侵攻しますが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池(かまち)で敗れました。

 天慶4(941)5月、小野好古率いる討伐軍が九州に到着。小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から100余隻の船団で藤原純友軍に対し攻撃を開始しました。藤原純友軍は大宰府を焼き払い、一挙に起死回生を賭けて博多湾で大蔵春実率いる討伐軍の水軍を迎撃したのですが、大激戦の末に大敗。この時、捕獲された藤原純友軍の船団は800余隻、死傷者は数百名を数えたと言われています。こうして藤原純友軍は壊滅させられました(博多湾の戦い)。

 この後、藤原純友軍の生き残った兵士達は各地に離散していき、藤原純友自身も実子の重太丸とともに小舟に乗って再度本拠地伊予国へ逃れたとされています。その後、藤原純友は同年6月に伊予国警固使・橘遠保(とおやす)により現在の新居浜市種子川町にある中野神社の裏にある生子山で討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、また、今治にあった国府か京に移されて処刑されたともいわれていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではありません。また、一説によると、それらは国府側によるまったくの捏造で、真実は藤原純友は残った海賊の船団を率いて、映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパロー船長のように南の海を目指して消えていった…とも言われています(私は、ロマンがあるので、俄然その説を支持します)。そのあたりが、調べてみると実に面白そうです。

 その後、藤原純友軍の残党による叛乱もあったようですが、同年末までにはほぼ鎮圧され、瀬戸内海も約1世紀にわたった海賊跳梁による混乱から、徐々に平静を取り戻していきました。これが「藤原純友の乱」のあらましです。この「藤原純友の乱」の合戦の様子は、『純友追討記』として追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されています。

 

平将門も藤原純友も、その叛乱の動機は自身の野心というよりも中央に対する不満、反発でした。2人とも叛乱を起こしたゆえに朝敵とされてしまった訳ですが、彼等は当時の腐敗した貴族社会を心底嫌っており、叛乱を起こすことが正義だと思っていたような節が感じられます。これには一理も二理もあるでしょう。「叛乱」というのは体制側から見た場合の呼び名であって、平将門や藤原純友側も言い分は「自由を回復するための戦い」でもあったのではないかと私は思っています。朝廷に虐げられた、地方の自由の回復とでも言いますか。これは、東京一極集中の現代日本にも通じるところがあるかも知れません。このように、平清盛が登場してくる250年ほど前に、貴族政治の翳(かげ)りが既に表われていたことが分かります。

 平将門と藤原純友、『承平天慶の乱』の首謀者2人はともに地方で実際に力を持っていた豪族達です。前述のように、彼等は貴族の出身ではあっても自身は身分が低く、京の都の貴族達からは全く相手にされないような存在でした。しかし、彼等が謀反を起こしたことによる朝廷の驚きは大きく、「討伐した者は、もとの身分に関わらず、貴族に取り立てる」という布告をするほどでした。どちらの叛乱に対しても、武力を持たない貴族達はまったくの無力でしたが、武力(防衛力)を有する地方の豪族達の力を借りることによって鎮められました。その結果、武力を有する地方の豪族達の力がとても強いものであることを認識させるきっかけになります。

 ちなみに、この『承平天慶の乱』の鎮定に功績のあった者の子孫達が、その後、平安時代後期の荘園公領制成立期あたりから荘園領主や国衙と結びつき、その強力な軍事警察力をもって正統な“武士”として認められるようになり、武士団形成への一歩を築くことになります。また、約250年後、関東に武士による政権(鎌倉幕府)を開くことになる源頼朝と、瀬戸内海を制して莫大な力を蓄えた平清盛。彼らにこの『承平天慶の乱』がなにがしかの影響を与えたことは想像に難くありません。

 本コラムの題名とした『風と雲と虹と』は昭和51(1976)に放送されたNHK大河ドラマの題名で、この『承平天慶の乱』を描いたTVドラマでした。この作品は海音寺潮五郎先生の歴史小説『平将門』と、同じく『海と風と虹と』を原作としたもので、主人公の平将門を加藤剛さん、藤原純友を緒形拳さんが演じたのですが、主人公はあくまでも平将門、藤原純友は重要な脇役という感じの扱いでした。このように今では中学校や高校の歴史の教科書にも載っている『承平天慶の乱』の2人の主人公、平将門と藤原純友ですが、その後の扱いは大きく違っているように私には感じられます。私に言わせれば、「平将門の乱」はあくまでも平氏一族内での「私闘」の延長線に過ぎず、しかも京から遠く離れた坂東の地で行われたものであり、わずか2ヶ月で平定されたのに対し、「藤原純友の乱」は朝廷に強い不満を持つようになった下級貴族や没落貴族達が集団に起こした朝廷に対する叛乱で、それまでの公地公民をベースとした律令国家体制の崩壊を象徴するような歴史的に見ても大きな出来事。それも京に近い、と言うか京へ向かう物資運送の重要な海上交通路であった瀬戸内海一帯を舞台にした大規模な叛乱であり、約2年という長期間に及んだにも関わらず、この扱いの差はいったいどこから来ているのか…と不思議に思っていました。そのあたりを、次回第78回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」で書きたいと思います。

 

……(その2)に続きます。


風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

  公開予定日 2021/04/01 [晴れ時々ちょっと横道] 第79回  風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3) ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第 78 回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢...