2021年5月13日木曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)

 

公開予定日2021/05/06

[晴れ時々ちょっと横道]第80回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)


藤原純友及び彼が起こした叛乱(藤原純友の乱)に関しては、同時期に関東で叛乱を起こした平将門と比べて有力な史料がほとんど残っておらず、研究を非常に困難なものにしています。藤原純友という人物、及び藤原純友の乱を研究する場合の主要な史料は『日本紀略』、『扶桑略記』および同書に引用された『純友追討記』、『本朝世紀』、『貞信公記』、『師守記』などごく僅かなものしか残されていないのですが、そのどれも後世における編纂物が中心で、記述には承平・天慶年間の海賊活動をすべて賊徒藤原純友の所業に関連づけ、一括して記述してしまおうとする編者の乱暴で偏った歴史観が色濃く投影されているように感じています。私はこのコラムの執筆にあたり、藤原純友の乱に関する歴史書を幾つか読み、参考にさせていただいたのですが、どれも前述の史料に基づくものばかりで、似たり寄ったりの内容だったのですが、唯一、それらとはまったく異なる極めて興味深い記述がされている本がありましたので、ここでそれをご紹介させていただき、それに基づく私の新たな解釈についても記述させていただきます。

本の題名は『瀬戸内水軍史』(松岡進著)。昭和41(1966)に初版が発行され、私が入手して読んでいるのは昭和43(1968)に発行された第3版です。著者の松岡進氏は大正2年、まさに伊予水軍(越智三島水軍)の本拠地であった愛媛県越智郡大三島町(現今治市)の出身。愛媛県師範学校を卒業後、芸予諸島の島々の幾つかの小学校で教壇に立ち、最後は大三島町立宮浦小学校長。その関係からか、発行所は愛媛県越智郡大三島町立宮浦小学校となっています。非売品となっていますが、少なくとも第3版まで印刷されているということは発行当初多くの人に読まれた本のようです。著者の松岡進氏は教職の傍ら、ライフワークとして地元に伝わる伝承や史料、記録等に基づく調査を長年地道に続けられたのでしょう。全756ページ、かなり分厚い超大作です。

中古本ゆえ破れてしまっている帯には、本の紹介として次のようなことが書かれています。

「瀬戸内海を舞台として一大政治集団を作り、三島大明神を守護神として東洋の天地を闊歩した越智・村上両三島水軍を軸とする雄渾(ゆうこん)な水軍通史。登場人物1000余人、写真300余枚、あくまで資料に立脚し根拠を明らかにしながら、日本史に残された一大盲点にライトをあてる。」

この記述にも書かれていますように、不確かな仮説であってもあくまでも前述の史料に加えて、地元に残る伝承等の資料に立脚し、仮説の根拠を明らかにしているので、非常に説得力があり、少しでも地元の地理や歴史を知る者にとっては大いに腑に落ちるところがあります。それにしても、西暦で言うと紀元前の第10代 崇神天皇の時代から江戸時代に至るまで、よく調べられたものだと思います。瀬戸内海一帯の制海権をほぼ掌握し、海上兵力としてだけでなく、兵站輸送にも深く関わっていたことから、越智・村上両三島水軍をはじめとした伊予水軍は、白村江の戦い、藤原広嗣の乱、承平天慶の乱(藤原純友の乱)、平氏の隆盛、壇ノ浦の決戦、承久の変、文永・弘安の役(元寇)、足利義満の西国征伐、応仁の乱、厳島合戦、織田信長との木津川口の戦い、豊臣秀吉の四国征伐、関ヶ原の合戦と日本史で習う様々な戦闘に深く関わっています。それらを水軍の側からの視点で通史として纏めたというところが本書の特徴です。日本史に残された一大盲点にライトをあてる……と本の帯に書かれている通りの内容です。なかには日本史のこれまでの常識とされていることを覆すような内容も幾つか含まれていますが、通史だけに時代背景の把握の仕方がしっかりしていますし、時系列的にも筋が通っていて、松岡進先生の説のほうが納得できるように私には思えます。

『瀬戸内水軍史』では藤原純友の乱についても「第五章 平安時代」の「第三節 藤原純友と活神大祝」の項で触れられています。そこにも日本史のこれまでの常識とされていることを覆すような内容が記されています。なんと、「系図纂要」(愛媛県編年史)の記述によると、藤原純友は越智氏族の有力な傍流の1つ、今治の高橋郷(FC今治の本拠地であるありがとうサービス.夢スタジアム付近)を本拠とした高橋氏の高橋友久の子で、藤原氏の中でも最も栄えた藤原北家の家系の一人、藤原良範が伊予の国司として赴任した折にこの藤原良範のところに養子に入り、藤原姓を名乗ることになった人物らしいとのことなんです。私の親戚にもいますが、高橋姓も藤原姓も今治市周辺には比較的多い苗字で、特に芸予諸島の島嶼部には藤原姓の家が多くあるように感じます。そういうところからも、古代越智氏族とあの名門藤原氏族との間には深い繋がりがあったように思われます。松岡進先生の『瀬戸内水軍史』には次のような興味深いことも書かれています。当時の越智氏族は大山祇神社の神職で活神(いきがみ)として奉られた大祝(おおほうり)家を頂点に越智(河野)氏、紀氏、橘氏という主たる三家が三家三職と呼ばれてそれをサポートする集団指導体制だったようです。高橋氏はそれに準ずる家柄のように思われますが、実は大祝家はもともとは高橋郷に居を構えていたので、むしろ大祝家に繋がる越智氏族の本家本流の1つであるとも言えます。この松岡進先生の考察によると、藤原純友は越智氏族の本家本流とも言える大祝家に繋がる血筋なので、地元民には絶大な信頼があった筈です。

「第77回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」に書かせていただきましたが、藤原純友は、承平元年(931)に従七位下の伊予掾として伊予国に赴任。その後「伊予国警固使」の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続け、承平6(936)までには瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功。そこから驚くことに、九州と四国の間の宇和海に浮かぶ伊予国日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、いくら武勇に優れた人物であったと言っても所詮は京の軍事貴族。わずか5年で海賊達を鎮圧し、彼等を支配することにはさすがに無理があるように思えます。陸戦と海戦は根本的に違うものですから。しかし、松岡進先生の考察のように、藤原純友が越智氏族の本家本流とも言える大祝家に繋がる血筋の者であったとするならば、話はまったく違ってきます。越智氏族を含め地元民には最初から絶大な信頼があった筈ですから、5年という期間はむしろ長すぎるくらいであるとも言えます。

当時の越智氏族は大山祇神社の神職で活神として奉られた大祝家を頂点に越智(河野)氏、紀氏、橘氏という三家がそれをサポートする集団指導体制だったということを書きましたが、この三家、(その1)及び(その2)に書かせていただきました藤原純友の乱の項にその名前が登場してきています。まずは紀氏。藤原純友が海賊になるキッカケを作ったとされるその当時の藤原純友の上司である伊予国国司、伊予守の名前は「紀淑人」。この紀淑人が海賊の鎮圧という藤原純友の手柄を横取りし、純友の勲功を黙殺してしまったことを機に藤原純友は上司や朝廷に不満を持つようになり、それまでとは反対の立場である海賊になったと言われています。次に越智(河野)氏。朝廷より純友追討の宣旨を蒙って、追補使として博多湾の戦いに臨み、藤原純友軍を壊滅させた朝廷軍の主力、伊予水軍の水軍大将の名前は「越智(河野)好方」でした。最後は橘氏。博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた藤原純友親子を捕らえその首を朝廷へ進上したとされる伊予国警固使の名前は「橘遠保」でした。これらは単なる偶然とは思えません。

先ほど藤原純友は越智氏族の有力な傍流の1つである高橋氏の高橋友久の子で、藤原北家の家系の一人、藤原良範が伊予の国司として赴任した折にこの藤原良範のところに養子に入り、藤原姓を名乗ることになった人物らしいということを書かせていただきましたが、ここに登場する越智氏族の紀氏も橘氏も、藤原純友の場合と同様、おそらく京の有力貴族である紀氏、橘氏の誰かが過去に伊予の国司として赴任してきた折に越智氏族の有力傍流の誰かが子息を養子縁組させて、以降、子孫の出世栄達を願って家柄に箔を付けるために紀氏姓、橘氏姓を名乗らせるようになったのかもしれません。そして京にいる本来の伊予国司の貴族に代わって、現地での実務を代行していたと考えるのが妥当かと思われます。

そういうことから、どうも藤原純友の乱も、平将門の乱と同様、実際のところは古代越智氏族の氏族内で起きた内紛だったのではないか…と考えられるとのことのようです。それも瀬戸内海を東西に分けての内紛。西軍が宇和海の日振島に拠点を構えた藤原純友で、東軍が芸予諸島の大三島に拠点を構えた越智氏族本家本流の越智(河野)好方。越智好方は勅を得て錦旗を翻したから朝廷軍。表向きは小野好古が藤原純友追討軍の大将とされていますが、小野好古は所詮は京のお公家さんに過ぎません。陸戦はともかく、実際のところ海上戦力の総大将は越智水軍の越智(河野)好方。じゃないと、博多湾で千隻を超えると言われた荒くれ者集団の藤原純友軍の大艦隊を100余隻の船で襲撃して800余隻を捕獲すると完膚なきまでに勝利するなんてことはできっこありません。加えて言うと、撃破ではなくわざわざ捕獲と戦記に記載されているのは、おそらく本家筋の伊予水軍の主力艦隊が、天皇の勅を受けた朝廷軍であることを表す錦旗を翻しながら大型船を並べて統率の取れた行動で大挙繰り出してきたのを見て、荒くれ者の寄せ集め集団に過ぎず小型船が主体だった藤原純友軍の艦船の多くが戦意を喪失して次々と投降したのではないか…と、この二文字から推察されます。同じ一族である以上、本気になった伊予水軍(越智三島水軍)主力艦隊の強さを一番知っていたのは間違いなく彼等だった筈ですから。

これも私の推察ですが、越智氏族の主流三家三職が本気になったのは、朝廷のある間違った判断が直接のキッカケだったのではないか…と私は思っています。藤原純友が朝廷に対して叛旗を翻すような行動をとった直後、朝廷はまず東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、西の藤原純友に対しては「従五位下」の位階を授けて懐柔するという方策に出ました。これにより藤原純友らの反乱は一時沈静化したかのように見えたのですが、その一方で納得しなかったのが越智氏族の指導層である主流三家三職の面々だったのではないでしょうか。そして最大の問題にしたのがその「位階」だったのではないかと思われます。

推古天皇11(603)に冠位十二階の制度が定められて以降、律令制下の日本においては官僚や官吏の序列を位階によって標示されてきました。だいたいの目安として、地方の国の国司及び国府の次官である介が叙せられる位が正六位でした。この正六位はそれなりの位ではあったのですが、実はその1つ上の従五位下とは大きな一線が画されていました。朝廷に仕える廷臣のうち、京都御所の天皇の日常生活の場である清涼殿殿上間に上がれる堂上に対し、上がれない階位の者は地下人(じげにん)と呼ばれていたのですが、その地下人の最高位が正六位でした。京都御所の清涼殿殿上間に上がれる(昇殿と言います)堂上は五位(従五位下)以上。したがって、従五位下以上がいわゆる貴族と見做されていました。

越智氏族のうち、正一位の大祝家を除き、最高位はおそらく伊予国国司であった紀淑人の正六位。それまで従七位下の位階であった藤原純友にいきなり昇殿を許される貴族階級の従五位下の位階を授けられたことにかなりの衝撃を受けたのは間違いないことだと思います。いくら懐柔するためとは言え、大祝家を飛び越えて朝廷が越智氏族内に手を突っ込んできて、いきなりこんなことをされたのでは越智氏族内での序列が一気に崩れ、秩序を保つことも困難になって、最悪、越智氏族が内部から脆くも崩壊してしまうことになるという強い危機感を持ったのではないか…と思われます。越智氏族の崩壊は、大和朝廷海軍の主力艦隊としてそれまで瀬戸内海の秩序を保つことのみならず、外敵の侵入から我が国を護ってきた伊予水軍の崩壊をも意味します。それでおそらく当時の第61代 朱雀天皇に近かかったであろう正一位の大祝家を通して朝廷に対してすぐさま強い苦情を申し入れ、朝廷もすぐに自らの判断の間違いを認めたことから、越智氏族主要三家の中で水軍大将を務めていた越智(河野)好方に対して藤原純友追討の勅を発して、一族内部で問題を解決するように命じたのではないかと私は推察しています。瀬戸内海で起きている事件であるにも関わらず、それまで様子見をしていたのか、あるいは同じ氏族である藤原純友達の動きを半ば黙認していたのかほとんど表に出てこなかった伊予水軍(越智三島水軍)が、突然このあたりから出てくるわけですから。時系列で考えてみると、そういう風に考えるのが妥当なのではないでしょうか。

朝廷が東国における平将門の乱を制圧することに集中するため、藤原純友に従五位下という位階を授けて懐柔策に出たのが天慶3(940)130。平将門が下総国猿島郡幸島付近で交戦中、どこからか飛んできた流れ矢が額に命中してあえなく討ち死にし、乱自体も鎮圧されたのが翌214日。平将門討伐に向かった東征軍が5月に帰京すると、6月には藤原純友追討令が出されたというのは「第77回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」に書いた通りですが、いくらその場凌ぎの懐柔策だったとは言え、従五位下という位階を授けて貴族階級に取り立てた人物に対して半年も経たないうちに追討令を出すというのは、いくらなんでも不自然です。朝廷サイドに相当のドタバタがあったと容易に想像できます。

「その時、歴史は動いた」って瞬間が、まさにこのタイミングだったのではないでしょうか。ここから一気に藤原純友は追い詰められていき、「藤原純友の乱」は終結に向かっていくことになるわけですから。このように古代越智氏族の中では氏族存亡の危機と言ってもいいほどの一大ドラマが間違いなく繰り広げられていたに違いない…と私は思っています。そういう意味では、「藤原純友の乱」とは古代越智氏族内部で起きたナショナリズム(主流三家を中心とした保守派)とグローバリズム(藤原純友を中心とした急進派)の間の内紛だったってことが言えるのではないでしょうか。

実際、18世紀の元文5(1740)に編纂されたとされる河野氏の盛衰に関わる各種伝承をもとに纏められた軍記物語「予陽河野盛衰記」には、藤原純友討伐に向かうにあたり、活神大祝・越智安義と越智、紀、橘の主流三家、それに藤原純友討伐の勅命を受けた越智(河野)好方らによる協議の様子が記されており、その中では一族の中から逆賊を出してしまったことの自責の念と、これから越智水軍自体の命運を賭けて同族討伐に向かわねばならないその悩みとが読み取れる記述が書かれていると、松岡進先生は『瀬戸内水軍史』の中でその部分を引用して紹介されています。

松岡進先生の『瀬戸内水軍史』では日振島についても触れられています。実はもともと日振島は伊予水軍の西の重要な拠点だったところのようなのです。西暦663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍の前に大敗を喫して以来、倭国(大和朝廷)は唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から主として九州北部の沿岸に防人(さきもり)”と呼ばれる辺境防御の武人を配置するなどの国防体制を著しく強化しました。それまで九州全体の統治と大陸や朝鮮半島からの使者の接待用の施設として使われてきた太宰府の周囲にも大きな堤に水を貯えた水城(みずき)を築いたほか、北に大野城、南に基肄城などの城堡を建設し、一気に前線基地として軍事要塞化しました。

私のコラム『晴れ時々ちょっと横道』の「第34回: 全国の越智さん大集合!(追記編)」で大和朝廷の最終防衛ラインについて私の推論を述べさせていただいたのですが、これにはある重大な見落としがありました。

https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20170703-11389.html 『晴れ時々ちょっと横道』第34回: 全国の越智さん大集合!(追記編)…201778

四方を海で囲まれた日本列島ですので、朝鮮半島や中国大陸からの異国の脅威は西あるいは北から海路でやって来ることは間違いないことですので、大和朝廷もそれへ備えるための拠点を整備していたのは確かなこと。瀬戸内海を進んで来た際の最終防衛ラインが大三島を中心とした芸予諸島の島々であることは間違いないと思っているのですが、見落としがあったのはその前。言ってみれば前線基地に当たる部分です。外敵が東シナ海から玄界灘に向かうコース、あるいは朝鮮半島から朝鮮海峡、対馬海峡を渡って日本列島に進んで来るコースで進んできた場合は、太宰府を司令基地として博多湾あたりの九州北部に軍港を設けて迎撃しようとしていたと思われるのですが、もう一つ重要な外敵侵入コースがあることをうっかり見落としていました。それが東シナ海から太平洋に出て、さらに豊後水道を北上して瀬戸内海に入ってくるコース。玄界灘コースは関門海峡という難所が控えているので、当時の造船技術と操船術だと兵船が大船団で通過するのは難しく、むしろこの豊後水道コースのほうが侵入ルートとしては考えやすいとも言えます。その豊後水道を通って来襲してくる敵船団を待ち受けて迎え撃つ前線基地となっていたのが日振島とその周辺だったようなんです。現代の航空自衛隊の基地で言えば、太宰府が西部航空方面隊司令部等が配置されている春日基地(福岡県春日市)で、日振島はその西部航空方面司令部配下の第5航空団等が配備されている新田原基地(にゅうたばるきち:宮崎県児湯郡新富町)ってところでしょうか。


そして、その日振島の前線基地に駐屯していたのも古代越智氏族だったようなのです。実際、日振島から豊後水道を挟んだ九州側は大分県の津久見市なのですが、その津久見市で豊後水道に突き出た四浦半島には越智ノ浦(現在の地名表記は落ノ浦)という湾があるのだそうです。かつては津久見市立越智小学校という名前の学校があったようで(現在は休校中)、現在も落浦郵便局という郵便局があるようです。また、藤原純友の乱終焉後の天慶4(941)8月に日向国の国衙(現在の宮崎県西都市)を襲って国司の藤原貞包に捕われた藤原純友軍の次将の1人である佐伯是基は、その姓から推測されるように津久見市の南に隣接する大分県佐伯市あたりを拠点としていた豪族で、藤原純友を日振島に誘った人物であると言われています。この佐伯市周辺も佐伯湾をはじめリアス式の小さな湾が多いことからここも伊予水軍の拠点の1つで、豊後水道を挟んだ日振島と一体となって豊後水道での防衛ラインを形成していたと考えられます。なるほどぉ〜。そういうことか…。

ならば、なおのこと藤原純友は海賊達との交流の中からグローバリズムの気づきをし、琉球、台湾、中国、フィリピン等海外の地との交易を目指していたのではないか…という私の仮説にも結びつきます。彼等は唐をはじめとした海外からの勢力の侵攻に対する国防のために前線基地である日振島周辺に駐屯していたわけで、敵となりうる近隣諸国の情勢に敏感で、常に情報を収集していたでしょうからね。もしかすると、情報収集目的で近隣諸国との人的交流も日常的に行われていたのかもしれません。

このように、藤原純友の乱の本質は古代越智氏族内部で起きた内紛だった、それも私が推察しているように朝廷の間違った判断の尻拭いをすることを目的とした内紛であったとするならば、藤原純友の最期もまた一般に言われている論とは少し違ったものになるように思います。一般的には藤原純友は博多湾の戦いで大敗を喫した後、子の重太丸とともに小船で本拠地伊予国へ逃れたとされていて、同天慶4(941)6月に伊予警固使・橘遠保により現在の新居浜市種子川町にある中野神社の裏にある生子山で討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、また、今治にあった国府か京に移されて処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではありません。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったとも言われています。

一番の疑問は、小船で本拠地伊予国に逃れたという点。いくら本拠地であると言っても、自らの追討軍の本拠地でもある伊予国に易々と戻ってこられる筈がありません。おそらく捕らえられ、伊予国にある伊予水軍の拠点の1つに密かに連行されてきたのではないでしょうか。そして、その時、おそらく大祝家をはじめ越智氏族の主流三家三職の間でも藤原純友に対する措置に大いに苦慮したものと思われます。藤原純友は伊予水軍(越智三島水軍)本体に戦いを仕掛けてきたわけではなく(藤原純友の一派も伊予国国衙だけは襲撃していませんし)、仕掛けたのはむしろ伊予水軍(越智三島水軍)のほう。それも、多分やむなく。しかも、藤原純友は越智氏族の頂点である大祝家に血筋の繋がる人物。加えて従五位下の位を冠する“貴族”。なにより同じ氏族なので、深い血縁関係もあったであろうですし、違っていたのが私が推察しているように自分達の世界観、と言うか進もうとしている方向性の部分だけだったのだとしたら、現代人の私が考えても、極めて難しい判断です。だって、彼等だって海賊ですから、藤原純友が進もうと思っていた方向性についても十分に理解をしていた筈ですから。

大祝家を中心に越智氏族の主流三家の間で議論に議論を重ねた結果、最終的に彼等が下した決断は藤原純友を彼の希望通り海外に逃すというもの。そして、藤原純友を逃したことに対する責任を橘遠保が負うということになったのではないか…と私は推察しています。朝廷からは藤原純友親子を始末しろと命じられていたと思われるので、橘遠保が生子山で討った等の虚偽の話を作りあげてそれを広め(何故、現場が橘遠安の拠点に近い生子山で捕らえられたのかの疑問もこれで解けます)、その上で藤原純友に二度と日本列島には戻ってこないことを約束させた上で密かに逃し、そして藤原純友は残った仲間達と船に乗って南海の彼方に消えていった…、というのが私の立てた推論です。こうなると、もう完全に“ドラマ”ですよね。しかし、こういう泥臭い人間ドラマはいつの時代も絶対にある筈で、こういうドラマチックなテイストを少し加えるだけで、真実味が一気に増してくるような感じがしませんか?() しかも、前回「第79回 風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)」の最後に挙げた私の素朴な疑問も、この解釈ですべて説明がつきます。私にもう少しストーリーテラーとしての文才があれば、海音寺潮五郎先生の考察とは全く異なる伊予水軍の側から捉えたこのストーリーで、歴史小説が一本書けそうです。

以上、松岡進先生の考察も参考にさせていただきながら私が到達した「藤原純友の乱」の本質に関する解釈を書かせていただきました。本文にも書きましたように藤原純友、及び藤原純友の乱に関しては有力な史料がほとんど残っていないことから、謎に包まれている部分があまりにも多く、いろいろな解釈ができようかと思います。真実に迫るためにも、読者の皆さんからの異論・反論を心よりお待ちいたします。

そうそう、前々回の「第78回 風と雲と虹と承平天慶の乱(その2)」では、首領である藤原純友をはじめ藤原純友軍の主力のほとんどは、中央()で出世が望めなくなった下級貴族や没落貴族、失業した舎人と呼ばれる役人達で、伊予国とは関係のない、言ってみればよそ者。そのよそ者達が勝手に伊予国内に拠点を構え、瀬戸内海一帯を暴れ回り、その挙句、朝廷に対して叛乱を起こし、勝手に朝廷の討伐軍に敗れて滅んだわけで、これじゃあ神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのも当たり前だということを書かせていただきましたが、藤原純友が実は古代越智氏族の出身で、藤原純友の乱の本質は伊予水軍、越智氏族内部の内紛だったとするならば、根本から話は異なってきます。古代越智氏族にとって一族内の内紛についてはなんとしても隠しておきたいまさに“黒歴史”。むしろ古代越智氏族のほうから真実が出来るだけ残らないように、積極的な歴史の改竄作業を行ったというのが正解なのではないでしょうか。前述のように藤原純友という人物、及び藤原純友の乱を研究する場合の主要な史料である『日本紀略』、『扶桑略記』等はすべて『純友追討記』という軍記文書を引用して後世に書かれたものです。この『純友追討記』は文字数が僅か800字にも満たない短い戦闘報告書に過ぎず、おそらくこれを書いたのは越智(河野)好方、紀淑人、橘遠保といった越智氏族の主流三家三職の面々だったのではないかと私は推察しています。なので、間違いなく越智氏族にとって都合がいいように捏造されていると言うか、ほとんど記録らしい記録を残さなかったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。藤原純友に関する神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのは、これが主たる要因なのかもしれません。いくら1,000年以上昔のこととは言え、不自然に思えるほど、記録や史跡が残されていませんからね。

したがって、「藤原純友の乱」が古代越智氏族の内部で起きた内紛という解釈が腑に落ちてしまった以上、私は“越智”の2文字を苗字に、そして大三島の大山祇神社の社紋を家紋にいただく越智氏族に属する者として、今後もその仮説の下で藤原純友の乱の真実に迫り続けてみたいと思っています。それにしても伊予水軍(越智三島水軍)をはじめとした瀬戸内水軍の歴史ってメチャメチャ面白いです。

 

……『風と雲と虹と…承平天慶の乱』【完結】

 




2021年4月11日日曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)

 公開予定日2021/04/01

[晴れ時々ちょっと横道]第79回 



ここで新たな疑問が湧いてきたということは、前回第78回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)」の最後に書かせていただきました。藤原純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていなかった…と言うことは、本拠地の日振島をはじめ船舶を隠す幾つかの港があるところを除けば、伊予国内に領地をほとんど有していなかったということを意味します。生きていく上で必要な食糧は海賊行為を働くことで幾らでも簡単に入手することができたでしょうから、特に広い耕作面積の田畑というものは必要ありません。なので、藤原純友とすれば海賊集団を支配しその首領であれば十分なわけで、平将門のように領土を拡張し、そこに住む民衆をも統率し、ともに独立王国を築こうというような野望は、実はまったく持ち合わせてはいなかったのではないか…と考えられます。では、藤原純友はいったい何を目指していたのか?……これが私の中で芽生えた新たな疑問です。

 そして、その疑問を解くヒントは藤原純友が本拠とした日振島にあるのではないか…と私は考えました。日振島は、愛媛県宇和島市に属し、宇和島新内港から西方に約28km。宇和海で最大の島ではあるのですが、面積は約4平方kmという南北に細長い形をした小さな島です。多島海の宇和海にあるのですが、豊後水道に最も近く、ここから西の豊後水道には島が1つもないという一番西に位置しています。そんな日振島を、何故、藤原純友は選んで拠点にしたのか? 瀬戸内海を暴れ回る海賊達を首領として統べるのであれば、瀬戸内海から離れたそのようなところを拠点とするのは適しません。古代越智氏族の伊予水軍がそうであったように、瀬戸内海の中心とも言える大三島をはじめとした芸予諸島の島々を拠点とするのが最適です。ましてや朝廷に叛旗を翻すのであればなおのことで、芸予諸島をガッチリと固めることで、西(九州方面)から京へ向かう物資の流れを完全に遮断し、朝廷を一種の兵糧攻めにすることだって可能になるわけですから。実際、その後の河野水軍や村上水軍も芸予諸島の戦略的重要性が十分に分かっていて、芸予諸島の島々を活動の拠点としました。しかし、藤原純友だけはそうしなかったのです。瀬戸内海からは東西に細長い佐田岬半島をグルっと回って、さらに南下したところにある宇和海に浮かぶ日振島を拠点としたわけです。そこには間違いなく瀬戸内海の海賊達を統べる以外の明確な目的があると考えられます。「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」……日振島に拠点を構えたことには藤原純友の明確なメッセージが込められていて、「藤原純友はいったい何を目指していたのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という大きな謎を探るヒントが日振島に隠されているように私は思ったのでした。実はこれは私が藤原純友に興味を持って以来ずっと抱いていた疑問でした。

 そこで、この「何故、藤原純友は日振島を拠点にしたのか?」の謎を探るため、実際に日振島に行ってみようと思いました。現場第一主義の私としては、藤原純友が見たのと同じ景色をこの目で眺め、自らが当時の藤原純友の気分になって日振島を拠点にした理由を推察してみようと考えたわけです。世の中の最底辺のインフラは地形と気象。そして、昔も今も人間の考えることや個々人の能力にさほど大きな違いはない。これが私の歴史探求における基本的な考え方ですから。

 宇和島新内港から日振島までは盛運汽船の高速船「しおかぜ」が13便出ています。宇和島新内港630分発(10月~4)1便が宇和島新内港→能登港→明海(あこ)港→喜路(きろ)港→水ヶ浦港→宇和島新内港、宇和島新内港1130分発2便と1530分発の3便が宇和島新内港→喜路港→明海港→能登港→宇和島新内港の航路で運航されており、このうち、喜路港、明海港、能登港の3港が日振島内の港です。私は宇和島新内港1130分発の2便で島の一番南にある喜路港に渡り、4時間ちょっと滞在して日振島内を歩いて北上。島の一番北にある能登港から3便に乗って宇和島新内港に戻って来ることにしました。観光地としての開発はほとんどなされていませんので、残念ながら日振島内には飲食ができる施設は1つもありません。加えて人口が500人にも満たない過疎の島なので、島内にコンビニエンスストアはもちろんのこと、飲料水の自動販売機さえもないということなので、私は宇和島新内港そばのコンビニエンスストアでオニギリとペットボトル入りの飲料水をちょっと多めに買って乗船することにしました。

 いよいよ乗船です。私が乗る日振島行きの高速船「しおかぜ」は左側。右側は「しおかぜ」の5分後に出港する日振島の隣の戸島行きの客船です。盛運汽船は宇和島市沖の宇和海に浮かぶ島々と宇和島新内港を結ぶ航路を幾つも運航しています。どれも島に住む人達の貴重な生活路線になっています。ちなみに、「しおかぜ」は乗客40人乗りの双胴の高速船です。

宇和島新内港を定刻の1130分に出港。発高速船「しおかぜ」の船内からは多島海・宇和海の島々の風景が楽しめます。リアス式の海岸線と相まって美しく、実に素晴らしい風景です。この便の乗客は10名ほどでしょうか。卒塔婆をお持ちの袈裟を着たご住職がいらっしゃいます。宇和島市内の寺院から島に住む檀家様のところに法事に向かわれているのだと思われます。

日振島の形状と各港(各集落)の位置関係です。日振島は宇和島の西方沖約28kmのところにあり、ここより西側には島はなく、豊後水道を隔てた先は九州(大分県南部・宮崎県北部)です。また、喜路、明海、能登、日振島にはこの3つの集落しかなく、それぞれに港があります。

宇和島新内港からきっかり40分。日振島に3つある港のうち、一番南にあるこの喜路港に到着しました。上陸します。

この日振島、釣りを趣味になさっている一部の方を除けば、地元愛媛県人でも訪れたことがある人はほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。日振島の島の形は北西から南東に細長く延びており、島の北にはいずれも無人島で属島の沖の島、竹ヶ島、西には横島が隣接、さらに南方約5kmの海上には御五神島があるのですが、他の有人島とは群島を形成していません。また、島全体が山のようになっていて、平地は極めて少なく、切り立った崖が多いのが特徴です。特に豊後水道に面した西側海岸は懸崖が続き、容易に接近することができません。島の大部分と属島の横島、沖の島、竹ヶ島の全域は足摺宇和海国立公園に属しており、多島海の大変美しい風景を楽しむことができます。日振島という地名の由来に関しては、昔から船の往来があり、島民が松明(たいまつ)の火を振ることで灯台の代わりをしたことに因むとの説があります。

 歴史的には藤原純友が本拠を構えたことで知られていますが、天正14(1587)、九州の豊後国で行われた戸次川の戦いで敗退した土佐国主・長宗我部元親の一行が土佐国に逃れる前にしばらく潜伏していたところでもあるのだそうです。江戸時代には宇和島藩の領地となり、イワシの曳網漁で隆盛を誇りました。明治22(1889)、北宇和郡日振島村となり、昭和33(1958)、周辺4村との合併により宇和海村に、そして昭和49(1974)、宇和島市に合併・編入されました。現在、行政区画としては愛媛県宇和島市に属し、市域の最西端にあたります。

 喜路港の桟橋から見た海です。海水は透き通っていて、海底まで見えます。大小様々な魚が群れをなして泳いでいるのが見て取れます。日振島の周囲が豊かな海であることが、よく分かります。

喜路港から北上。明海集落を経て、一番北にある能登集落の能登港まで歩きます。喜路港は大きく入り組んだ湾の一番奥にあります。この湾内でも魚類の養殖筏が幾つも浮かんでいます。これは真珠の母貝の養殖用の筏のようです。


湾内だけでなく、日振島の周囲はいたるところに魚類や真珠母貝の養殖用の筏が浮かんでいます。真珠母貝の養殖と言えば三重県の伊勢志摩が有名ですが、実は養殖真珠の生産量のダントツ日本一は愛媛県。それも、この宇和海一帯です。現在の日振島はブリ()やタイ()、ヒラメといった魚類の養殖や真珠母貝の養殖が盛んな水産業の島になっています (近海の海で獲れるアワビやサザエ、ヒジキ、テングサ等も特産品のようです)。島中いたるところにある複雑に入り組んだ湾には、そうした魚類や真珠母貝の養殖いかだが無数に見られます。かつてはこの複雑に入り組んだ湾に海賊達の大小無数の船舶が停泊していたのでしょう。1,000年以上の年月が経過した今、かつて藤原純友がこの日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部にかけての多くの海賊集団を支配し、瀬戸内海一帯を暴れ回っていた痕跡はほとんど残っておりません。ただ、かつて藤原純友も見たであろう宇和海の景色は、瀬戸内海以上に美しかったです。予想した以上に素晴らしいところでした。(ただし、美しい風景以外には、なぁ〜んにもありませんでしたが…)


この湾なんか、かつては海賊達の大船団を隠しておくのに最適な場所だったのでしょうね。実は日振島は3つの島が連結されたような特殊な形状をしています。湾の先に左右の島から橋が架かったように見えるところがありますが、近づいてみるとそれは橋ではなく、細い陸地なのです。いつ頃陸続きになったのかは解りませんが、もしかすると藤原純友が拠点とした時代には、狭い水路になっていたのかもしれません。だとすると、当時の軍港としては完璧な形状をしたところです。

島内の道路は海岸線に沿って伸びているのではなく、アップダウンを繰り返しながら、かなり標高の高いところを通っています。登り道の勾配は結構キツく、歩くとかなり脚にきます。島内には基本的にこの1本の道路しかありませんので、初めて来たところではありますが、迷いようがありません。遠くに明海(あこ)の集落が見えます。


海賊がいたところには、だいたい財宝の埋蔵伝説なるものがあるものですが、この日振島にも御多分に洩れず藤原純友の隠した莫大な財宝が眠っているという「財宝伝説」が伝わっています。地中に埋めた説、洞窟に隠した説、海底に沈めた説などいろいろあるようですが、詳しいことはよく分かっておりません。そもそも財宝が実在するのかどうかも確かではありません。

ここが2つの島の連接部分。砕けた岩の集まりで連接されています。ちょっとワイルドな光景です。

遠くにうっすらと見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から西の海域は豊後水道。ここから九州までは1つの島もありません。ちなみに、右に見える島のような山は日振島の一部です。なるほど、この位置関係が、藤原純友がこの日振島を海賊支配の拠点とした理由の一つかもしれません。


明海の集落に近づいてきました。このあたりの海も海水が透き通っていて、岸から随分先の海底までもが見えます。そこを小さな魚が群れをなして泳いでいるのが見えます。このあたりも養殖用の筏が浮かんでいます。この筏は真珠母貝の養殖用の筏ではなく、ブリやタイといった魚類の養殖用の筏でしょうか。形が異なります。



明海集落の背後に立つ、高さ約80メートルの小山城が森。その名が示すとおり、ここには土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っています。その山頂には藤原純友の碑が立っているとのことで、登ってみようと思い、明海港の桟橋で釣り糸を垂らしていた地元の方に山頂へ向かう道の登り口を訊いたところ、「山には野生のイノシシが出没して、最近地元の住民が襲われて怪我をしたところだから、危険なので立ち入らないほうがいい」とのアドバイスを貰い、散々迷ったのですが、最終的に登ることを断念しました。


明海集落から能登集落に向かいます。本当は能登へ向かう道路にも野生のイノシシが出没するので、歩いていくのは危険なので、やめておいたほうがいい…と先ほどアドバイスをいただいた地元の方からは伺っていたのですが、明海港の宇和島新内港行きの3便の出港時間まで2時間以上もあり、藤原純友の砦の跡へ行けないのであれば他に見るべきところもないので、ここは敢えて危険を冒して能登集落を目指して歩くことにしました。

明海集落から能登集落に向かう途中、ドスンドスンと大きな音がするので何事か!?…と思って音がするほうを覗いてみると、檻に入ったイノシシが暴れているところでした。この檻が罠だったのでしょうね。捕まってすぐのようです。このあたりは野生のイノシシが本当にいるのですね。捕まっていたのは体長1メートルほどの大きなイノシシで、こいつに襲われたら、そりゃあ一大事です。さすがに怖くなったので、明海集落に戻ろうかとも思いましたが、そのまま能登集落に向かうことにしました。ただし、坂道(山道)が続いていましたが、周囲を用心しながら、かつ大声で歌を歌いながら、歩く速度をかなり速くして。(なので、異常に疲れました)

眼下には宇和海の美しい光景が広がります。次の写真は島の北側を眺めたところです。遠くに東西約40kmに渡って細長く直線的に伸びる佐田岬半島が、付け根から先端の佐田岬までしっかり見えます。おおっ!! ちょっと感動です。

日振島ではマスクを外していました。だって、ほとんど人と出会いませんでしたから。喜路港を出てから2時間以上歩いてきましたが、途中で出会ったのは、明海港で道を訊いた釣り人1人だけです。軽トラックに乗って横を通り過ぎていった人は数人いらっしゃいましたが、歩いている人は私1人だけでした。

 豊後水道を挟んで遠くに見えるのは九州(大分県南部・宮崎県北部)です。日振島から九州までの距離、すなわち豊後水道の幅は約30kmあるのですが、この地点はこの道路の最高地点のようで標高が高いところにあるので、その九州がすぐ近くにあるようによく見えます。先ほど通り過ぎた明海集落の背後に立つ高さ約80メートルの小山城が森には、その名が示すとおり、土塁などの遺跡が残り、藤原純友の砦の跡であるとの伝承が残っており、その山頂には藤原純友の碑が立っているということを書かせていただきましたが、おそらくその砦の跡も同じくらいの標高なので、藤原純友の目にも同じように豊後水道を隔てて九州の陸地が間近に見えていた筈です。

前述のように、私は「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」ということに疑問を抱き、その答えを見つけるために日振島にやって来たわけですが、ここから豊後水道を隔てた先に見える九州の姿をしばらく眺めているうちに、「なるほど、そういうことかっ!」…と藤原純友がこの日振島を拠点に選んだ答え、言ってみれば“必然”のようなものを感じました。

 平将門が関東の地で自らを「新皇」と称して、独立王国を築くことを目指したように、おそらく藤原純友も西国で独立王国を築くことを目指したのではないでしょうか。それも“九州”の地で。実際、藤原純友は乱が起こってすぐに太宰府を攻略していますし、討伐軍に本拠地・日振島を襲撃された際にも、捲土重来を期して太宰府を占拠しています。このように藤原純友は九州への思いが強く、九州支配の意思は海賊集団の首領となった当初からあったのではないか…と思われます。

 もし藤原純友が京の朝廷に対して本気で謀反を起こし、朝廷にとって代わろうと挙兵したのであれば、日振島が拠点ではダメなんです。いくら武勇と組織統率力に優れた強い藤原純友を慕って仲間に加わったと言っても、藤原純友率いる海賊集団は、所詮は暴れん坊の寄せ集め集団です。大将である藤原純友が京から遠いそんな後方に拠点を置いたのでは弱腰と見られ、まとまるものもまとまりません。藤原純友は日振島に拠点を構えることで、配下の海賊集団を固く結束させるための何らかのメッセージを発出していたと考えるのがふつうです。それが九州侵攻と制圧であったのではないか…と、ここからの景色を眺めているうちに思い至ったわけです。

 その九州も、正しくは太宰府の置かれた北九州ではなくて、おそらく現在の宮崎県や鹿児島県といった南九州の支配ではなかったでしょうか。当時の中国は唐が滅んだ直後で、国内は五代十国時代と呼ばれる群雄割拠する混乱期にあったと思われますし、朝鮮半島も高麗によって統一されたばかりで、ここも国内における混乱が引き続き続いていたと思われますので、海外貿易どころではなく、したがって交易量も少なく、海賊集団にとって北九州はさほど魅力的な地には思えなかったでしょうから。太宰府占領はあくまでも朝廷勢力の南九州への侵攻を防ぐための防御策。なので、博多湾の戦いの直前にはせっかく手に入れた大宰府に火を放ち、惜しげもなく燃え尽くしてしまっています。

 こう考えてみると、日振島は南九州攻略のための最前線基地の色彩が強くなってきます。その先には南九州をベースとして、富を求めて、琉球、台湾、中国(当時は唐が滅亡して北宋が成立するまでの間の五代十国時代)、フィリピン等、南の国々との海上貿易を目論んでいたのではないかと私は勝手に推察しています。船を利用して海上を進めば、どこまでも行けますからね。

 古代の伊予水軍は、私達現代人が驚くほど進んだ造船技術や操船技術を持っていたと考えられます。藤原純友が瀬戸内海を支配して暴れ回った頃から約300年近く前の西暦663年。水軍大将・越智守興が率いる伊予水軍を主力とした倭国海軍の大船団は、かつて伊予国(現在の愛媛県)のどこか(私の推定では今治市桜井)にあったとされる熟田津軍港を出港して、今でも海の難所と言われる関門海峡を抜けて博多湾へ。博多湾から対馬海峡、朝鮮海峡を渡って朝鮮半島の白村江に百済救済に向かったわけです(白村江の戦い)。それ以前も遣隋使船、その後も遣唐使船を操船して東シナ海を渡り、大陸と往復していたわけで、古代から優れた造船技術と操船技術を持っていたことは容易に想像できます。

 なので、藤原純友はこの日振島を拠点に選んだのだ…という結論に、私は日振島からのこの景色を眺めているうちに、至りました。海賊という海の民ですから、領地にこだわる陸の民(ほとんどの日本人)とは根底を流れる発想がまるで違っていたのでしょう、きっと。第77回「風と雲と虹と承平天慶の乱(その1)」で、藤原純友のもとに集まった海賊達の多くは、元々は舎人(とねり)と呼ばれる朝廷の雑用をする役人だった人達だったこと。そして、瀬戸内海で働く舎人達は、中国や朝鮮など海外の客人のための対外的な儀式を執り仕切る人達だったということを書かせていただきました。このように、藤原純友軍の主力の人達は日頃から中国や朝鮮など海外の文化や文物に触れていた人達、現代風の言葉で言うと「グローバリスト」とでも呼ぶべき人達でした。しかも、彼等の多くは領地を持たない下級貴族や没落貴族達。寛平6(894)の遣唐使廃止、さらには907年の唐の滅亡以降、貿易も儀式も途絶えたことでほとんど仕事がなくなり、余剰人員となって朝廷からリストラされた人達でした。そのため彼等は(生活するために仕方なく)京へ向かう重要物流路である瀬戸内海を支配し、海賊として海外から運ばれてくる文物を収奪することを主たる生業としていたのですが、貿易量が激減してきたのでそれも成り立たなくなってしまっていたのではないでしょうか。また、いわゆる「藤原純友の乱」勃発後、藤原純友軍は讃岐国の国衙(こくが:国の役所)や備前国・備後国といった瀬戸内沿岸諸国の国衙、ついには北九州の大宰府までをも襲撃していますが、おそらくこれらは国衙の倉庫に備蓄されていた食料の収奪が目的の海賊行為、すなわち略奪だったのではないでしょうか。せっかく襲撃に成功しても、彼等は長くはその場に留まらず、さっさと撤収しているようにしか見えませんから。このように彼等は生きていくために相当追い詰められていたのは確かなようです。そうなると、「よしっ! 海外からの文物が運ばれて来ないのならば、こっちから出向いて奪ってくるか!」と考えるのは、とても自然な成り行きではなかったかと私は推測しています。

 藤原純友の最期に関して、「博多湾の戦い」で大敗を喫した後、伊予国に逃れ、そこで伊予警固使・橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したとも、処刑されたとも言われていますが、資料が乏しく事実がどうであったかは定かではないこと。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説もあるということを書かせていただきましたが、上記の私の仮説が正しいとするならば、その「海賊の大船団を率いて南海の彼方に消えていき、そのまま消息を絶ったという説」が一番しっくり来ますし、第一カッコいいですよね。私に文才があって、藤原純友に関する歴史小説を書くとするならば、絶対にそういう終わり方にしますね。

 以上は今の時代に残されている幾つかの状況証拠をもとに私が勝手に推察した1つの仮説に過ぎませんが、この日振島からの風景を眺めながら立てた仮説だけに、私の中では「多分そういうことだったのだろう」とストンと腹に落ちるところがあり、大いに納得しちゃいました。これは実際に現地に足を運んで、そこから見える風景を目にしたからこその感覚ですね。

 私が今回日振島を訪れた目的である「藤原純友は何故に日振島を本拠にしたのか?」の謎解きに私なりの答えを見出せたことで、後は気持ちよく島内ハイキングの続きです。ここからはゴールである日振島北部にある能登港を目指して坂道を下っていきます。

オヤッ!? 10月だというのに、季節はずれのサクラ()が開花しています。この1本だけでなく、周囲に何本も咲いているので、秋咲きの品種なのでしょうか?

能登の集落まで下ってきました。この日は日振島の約13km、歩数にして17,425歩を、約3時間半の時間をかけて歩きました。島内はアップダウンの激しい道路で、歩数以上に疲れました。ただ、美しい宇和海の景色を眺めながらのウォーキングは気持ちよく、心の底から癒されました。

能登港に盛運汽船の高速船「しおかぜ」の3便が入港してきました。桟橋前の待合室を兼ねた小さな事務所で乗船券を販売していたオバちゃんが桟橋に出てきて、船から係留索(係留用のロープ)を受け取り、ビットと呼ばれる係船具に結わえます。慣れた手つきです。


「藤原純友が本当に目指したものは何であったのか?」、もっと言うと「そもそも藤原純友の乱とは何であったのか?」という謎を探るための糸口は、「なぜ藤原純友は日振島を本拠地にしたのか?」ということの解明からだと思い日振島を訪れてみたわけですが、実際に日振島から見える風景を眺めてみて、私なりにこの謎を解くヒントが得られたように思っています。

 平安時代中期の承平年間(西暦931年~938)から天慶年間(938年~947)のほぼ同時期に起きた『承平天慶の乱』、この朝廷に対する2つの叛乱の首謀者とされる関東の平将門と瀬戸内海の藤原純友、そもそも彼等2人を同じ土俵で論じ、分析することが間違っているのではないかと思い始めました。叛乱を起こすに至った彼等2人の根底に流れる政治思想のようなものが根本的に違っていたのではないかと私は思っています。現代風の言葉で言うと、平将門の場合のそれは「ナショナリズム」、すなわち、独立した共同体を自己の所属する民族のもとで形成するという考え方。いっぽう、藤原純友の場合のそれは「グローバリズム」、すなわち国境を超えて世界を1つの共同体として捉えるという考え方とでも言えばいいでしょうか。とにかく、当時の藤原純友は現代人である私達から見ても相当に進んだ価値観・世界観を持っていたのではないかと思えてきました。

 そう考えてみると、おそらく藤原純友は平将門よりも壮大で、ある意味危険なことを企てていたのかもしれません。それはおそらく瀬戸内海の海賊達との交流の中から気づいたことなのでしょう。伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務に就いていた藤原純友は、瀬戸内海西部の海賊達を武力と懐柔によってほぼ鎮圧することに成功した後、突然、日振島を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけですが、その急変の背景も、海賊ならではのグローバリズムの気づきという観点で捉えると、なんとなく分かる気がします。真実がなんであったかはまったく分かりませんが、そう考えることで私は腑に落ちているところがあります。そして、これが藤原純友に関してこれまでの歴史学者がなかなか研究を深められずにきた主たる要因のように、私は思っています。

それにしても、藤原純友、及び彼が中心となって起こした藤原純友の乱に関しては、時系列を整理しながら冷静になって考えてみると、実に様々な素朴な疑問が次から次へと湧いてきます。例えば、

① 藤原純友がいくら武勇に優れていたと言っても、京のお公家さんがどうしてわずか5年ほどの間で千艘以上の船を操る瀬戸内海の海賊集団を率いるまでになれたのか?

② 藤原純友軍は備前国や播磨国、淡路国、讃岐国の国衙等を襲撃しているのに、朝廷の地方出先機関の中で最も手っ取り早い筈の伊予国の国衙(国府)を襲った記録が残されていないのはなぜか?

③ 瀬戸内海周辺でこんなに組織だった海賊行為が行われているのに、当時の朝廷の主力海軍である筈の伊予水軍(越智三島水軍)が博多湾の戦いに至るまで直接鎮圧に乗り出していないのはなぜか?

④ 博多湾の戦いで藤原純友軍を壊滅させたのは伊予水軍(越智三島水軍)だと分かっている筈なのに、いくら自分の拠点があったと言っても、藤原純友親子が博多湾の戦いでの大敗後、伊予水軍の拠点でもある伊予国に逃げ帰って来たのはなぜか?

……等々。

このようにこの藤原純友という人物、次から次へと出てくる謎が多すぎて、調べ甲斐のある実に面白い人物です。もう少し藤原純友に関していろいろな角度から調べてみようと、帰りの船の中で美しい宇和海の景色を眺めながら考えていました。とにかく歴史の解明は面白いです。

 

……(その4)に続きます。



2021年3月11日木曜日

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2)

公開予定日2021/03/04

晴れ時々ちょっと横道]第78回 

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その2) 


前回第77回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その1)」の一番最後に書かせていただきましたが、今では中学校や高校の歴史の教科書にも載っている『承平天慶の乱』の2人の主人公、平将門と藤原純友ですが、その後の扱いは大きく違っているように私には感じられます。私に言わせれば、「平将門の乱」はあくまでも平氏一族内での「私闘」の延長線に過ぎず、しかもわずか2ヶ月で平定されたのに対し、「藤原純友の乱」は朝廷に強い不満を持つようになった下級貴族や没落貴族達が集団に起こした朝廷に対する叛乱で、それまでの公地公民をベースとした律令国家体制の崩壊を象徴するような歴史的に見ても大きな出来事。それも約2年という長期間に及んだにも関わらず、この扱いの差はいったいどこから来ているのか…と不思議に思ってしまいました。

平将門と藤原純友のその後の扱いの差を決定的にしていると思われるのが“怨霊伝説”の存在ではないでしょうか。天皇(朝廷)に叛逆したことから、道鏡、足利尊氏と並んで「日本三悪人」の1人と扱われている平将門には怖い逸話が数多く残されています。そのうち最も有名なのが「将門の首塚伝説」です。

 平貞盛・藤原秀郷の地元鎮圧軍によって討たれたのち、平将門の胴体は現在の茨城県坂東市岩井にある延命院に埋葬されたのですが、その首は平安京へと持って行かれ、京都の七条河原に晒されたと言われています。しかし、平将門の無念の思いはよっぽど強かったのか、平将門の首は何ヶ月経っても腐敗せず、それどころか眼をぐっと見開いては歯ぎしりをし、「俺の身体はどこだ!首を繋いでもう一戦しよう!」という叫び声が夜な夜な響いていたという怖い逸話が残っているのです。そしてある時、晒されていた将門の首が突然、白い光を放ちながら胴体を求めて東の方へと飛び去って行ったのだそうです。関東の地を目指して空高く飛び上がった平将門の首は、途中で力尽きて、幾つかに分かれて地上に落下してしまったとされており、そんな無念やるかたない平将門を偲んだ人々によって、将門の首塚が建てられています。同じような首塚伝承は関東地方の各地に残っているのですが、その中でも最も有名なのが、東京都千代田区大手町1丁目の三井物産本社ビル(Otemachi One)の傍にある「将門塚」です。丁重に祀られたと言っても、それでも平将門の霊は鎮まることがなかったようで、平将門の墳墓の周りでは様々な天変地異が頻発したりすると、それは平将門の怨霊の祟りのせいだと噂されるようになり、いつのまにか平将門は菅原道真・崇徳上皇とともに“日本三大怨霊”の一人と呼ばれるようになりました。

皇居にほど近い東京・大手町のオフィスビル街のど真ん中に「平将門の首塚」があります。「都史跡 将門塚」という碑が立っています。

ガラスケースに覆われた石碑が「平将門の首塚」です。根強い平将門ファンは多いようで、この日も多くの参拝客が訪れていました。そのほとんどが女性。平将門ファンに圧倒的に女性が多いことに驚かされました。

山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている神田祭を執り行う神社として知られる神田明神。この神田明神も平将門所縁の神社です。神田明神は天平2(730)に出雲氏族で大己貴命(おおなむちのみこと:いわゆる大黒様)の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町の将門塚周辺)に創建されたとされる神社です。その後、平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威(祟り)として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く将門の御霊を供養し疫病が沈静化したことから、延慶2(1309)、平将門が祭神として神田明神に祀られました。したがって、神田明神に祀られている祭神は一ノ宮が大己貴命、二ノ宮が少彦名命(スクナヒコナノミコト、いわゆる恵比寿様)で、三ノ宮が平将門命です。このうち少彦名命が二ノ宮として祀られたのは明治7年のことで、明治天皇が行幸する際、天皇が参拝する神社に朝廷に叛旗を翻した逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきことであるとして、いったんは祭神から外されたことによるものです。その後、昭和59年に平将門は三ノ宮として祭神に戻されています。

山王祭、三社祭と並んで江戸三大祭の一つとされている神田祭を執り行う神社として知られる神田明神。この神田明神も平将門所縁の神社です。

また、慶長5(1600)、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが起きると、徳川家康が合戦に赴く際にこの神田明神で平将門の御霊に必勝の祈祷を行い、見事に勝利し、天下統一を果たしました。それにより、神田明神は江戸幕府の尊崇する神社となり、元和2(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の場所に遷座し、幕府により社殿が造営されました。明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称したのですが、今でも一般的には神田明神と呼ばれていて、東京の守護神となっています。

 また、この将門の首塚がある場所は、江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代に大老職を務めた上野国厩橋藩15万石第4代藩主・酒井雅楽頭忠清の上屋敷があったところです。この酒井雅楽頭忠精の上屋敷は江戸時代前期に陸奥国仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」において評定(裁判)が行われた場所で、その評定の最中、被告であった仙台藩重臣・原田甲斐(原田宗輔)が原告である仙台藩一門で涌谷伊達家2代当主の伊達安芸(伊達宗重)らを斬り殺し、自身も斬られて死亡した場所です。この伊達騒動は山本周五郎先生の歴史小説『樅ノ木は残った』に描かれており、昭和45(1970)には平幹二朗さん主演でNHK大河ドラマにもなっています。その山本周五郎先生の歴史小説『樅ノ木は残った』においては、この伊達騒動の黒幕は仙台藩伊達家取り潰しを画策した酒井雅楽頭忠精だという設定になっています。まぁそういうことで、ここは言ってみれば、呪われた場所でもあります。

これも平将門の御神威(祟り)のなせることなのでしょうか。「平将門の首塚」があるところは、江戸時代前期に陸奥国仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」のクライマックスとも言える殺害事件が起きたところです。


現代に至っても平将門の凄まじい怨念は続いていると言われ、第二次世界大戦後、米軍が首塚を取り壊し始めたところ、重機が横転し運転手が亡くなったことから工事を中止したとか、昭和の高度成長期、首塚の一部が売却され、その地に建った日本長期信用銀行の首塚を見下ろす窓側に座っていた行員が次々に病気になる事態が発生しお祓いしたとか、平将門の呪いのせいであるとされる奇異な出来事が、この将門塚の周辺で度々発生しています。

 また、昭和63(1988)、帝都東京の守護霊をテーマに盛り込んだ荒俣宏さんの小説を原作とした映画『帝都物語』が公開されると、平将門の存在は広く知れ渡るようになり、「東京の守護神」として多くのオカルトファン、都市伝説ファンの注目を集めるようになりました。この『帝都物語』は平将門の怨霊により関東大震災などの大災厄を引き起こし帝都破壊を目論む謎の軍人・加藤保憲と、その野望を阻止すべく立ち向う人々との攻防を描いた作品なのですが、映画で俳優・嶋田久作さんが演じた主人公・加藤保憲(魔人加藤)の非常にインパクトのあるキャラクターは強烈すぎて、私は今も忘れられません。

 ちなみに、もともと主祭神として神田明神に祀られていた平将門が明治7年に明治天皇が参拝するにあたって祭神から外されたのは上述のとおりなのですが、昭和59年に三ノ宮として祭神に戻された背景としては、昭和51(1976)に放送されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』があります。このドラマの影響で時ならぬ平将門ブームが起こり、ファンの後押しがあって主祭神に戻されたという経緯があるようです。

このように怨霊として恐れられた平将門は、東京・大手町にある首塚や神田明神だけでなく、本拠とした下総国豊田・猿島郡地域(現在の茨城県結城郡・猿島郡地域)を中心に日本(主に関東地方)各地に彼に関わる塚や神社、さらには逸話が数多く残っています。

 ところが、藤原純友については平将門ほど研究も進んでおらず、藤原純友に由来する場所もあまり知られていません。まぁ、既に1,000年以上が経過していることもあり、仕方ない部分もありますが、それでもねぇ〜。藤原純友は伊予掾や伊予国警固使の役職として伊予国国府(現在の今治市)を拠点として海賊鎮圧の任務に就き、その後、宇和海に浮かぶ伊予国日振島(宇和島市)を拠点として豊後水道から瀬戸内海西部の多くの海賊集団を支配し、その首領として「南海の賊徒の首」と呼ばれるまでに変貌を遂げたわけで、「藤原純友の乱」はまさに伊予国、愛媛県が舞台の中心でした。しかし、残念なことに、藤原純友は地元民からも忘れ去られているようなところがあります。したがって、藤原純友が平将門ほど有名でないのは、愛媛県人のアピール下手、観光下手以外の何物でもないのではないか…と私は思ってしまうのですが…。

 調べてみると、藤原純友を祭神として祀る神社は全国に3つあります(3つしかない…とも言えますが)。岡山県倉敷市の下津井港の沖に浮かぶ松島という小島にあるその名も「純友神社」。新居浜市種子川にある「中野神社」。そして、松山市古三津5丁目の住宅街の中にある「久枝神社」の3つです。このうち2つの神社が愛媛県にあります。

 まずは岡山県の「純友神社」。この純友神社の社殿の近くには大丸と呼ばれる高台があり、それが藤原純友の居城の1つ大丸城だった場所ではないかと言われています。藤原純友の乱の発端になったのは備前国(現在の岡山県)に土着した海賊衆の1人、藤原文元が備前国の役人(備前介)だった藤原子高を襲撃したことだということは前述のとおりです。この藤原文元の居城であったとも推察されています。

 次に新居浜の「中野神社」です。新居浜市種子川町に新高(にいたか)神社と称される神社があり、中野神社はその境内社として祀られています。この中野神社には和霊神(山家清兵衛公頼)も祭神として祀られているため、近所では和霊さんと呼ばれることもあるとのことです。この新高神社の鎮座地は、生子山(しょうじやま)と呼ばれる標高150メートルを少し越えるほどの丘陵の麓ですが、その生子山と種子川と称される川を挟んでほぼ同じ高さの中野山があり、もともと中野神社はその中野山に祀られていました。中野神社の創健は天慶4(941)の藤原純友の死後まもなくと思われるのですが、時期は不詳とされています。新高神社の境内社として遷されたのは明治2(1869)のことです。

新居浜市種子川町にある新高神社です。現在、中野神社は新高神社の境内社として祀られています。

由緒書きの碑には、「伊予掾として赴任した藤原純友が大いに慕われ、やがて伊予水軍の頭領となって伊予の地で中央に反旗を翻した結果、討伐軍に敗れて中野神社に近い中野山で討たれた」と記されています。博多湾の戦いの後、伊予国へ逃れた藤原純友親子を捕らえて殺害し、その首を朝廷へ進上したとされる伊予国警固使・橘遠保はその恩賞として、それまでの領地である周布一郡(現西条市の橘郷のJR石鎚山駅周辺)に加えて宇和二郡を賜ったとされています。橘遠保の姓のは橘郷の地名に因んだものとも考えられます。その後、橘遠保は美濃介に転任したのですが、天慶7(944)26日、何者かに斬殺されたと言われています。この斬殺に関して、当時は怨みを残して殺された藤原純友の怨霊によるものだと考えられていて、その藤原純友の怨霊を鎮めるために橘郷の人達によって中野神社が創健されたとも伝えられています。

新型コロナウイルスの感染拡大の影響で取材に行けないため、実はこの写真は生まれも育ちも新居浜市で、新居浜市役所勤務、しかも新高神社のすぐ近所に住む従弟に撮影してきて貰いました。そんな彼でも、ここに藤原純友が祀られていることは初めて知ったのだそうです。


藤原純友とは離れますが、新高神社のある生子山には別子銅山の産業遺産である山根製錬所の大きな煙突があることから、現在は「煙突山」の愛称で新居浜市民から親しまれています。ちなみに、戦国時代の末期までこの生子山には生子山城とうい名の砦があり、中野山にも麓城と呼ばれる砦があって、いずれも新居氏の流れをくむ松木氏が支配していました。天正13(1585)、全国統一を目指す羽柴秀吉(豊臣秀吉)は四国攻め(四国平定戦)を決意。秀吉の命を受けた毛利氏の小早川隆景率いる総勢約3万人とも言われる大軍勢が瀬戸内海を渡り伊予国新居郡(現在の愛媛県新居浜市)に上陸しました。それを金子城(新居浜市滝の宮町)城主・金子元宅率いる地元勢力約2千人が迎え撃ちました。これが「天正の陣」(金子城の戦いとも)で、この戦いで松木氏を含む新居氏一族は悲劇的な最期を遂げたため、今では砦の存在を示す遺跡はいっさい残っていません。金子城落城後、金子元宅は高尾城(西条市氷見)に拠ってなおも抵抗を続けたのですが、その時残っていた戦力は総勢6百人程度であったとされています。 圧倒的兵力で怒涛のように攻めかかる小早川軍に対し、高尾城は多勢に無勢であえなく落城(高尾城の戦い)。総大将の金子元宅は高峠城(西条市洲之内)に陣を構えていたのですが、最期を悟った金子元宅は自ら高峠城に火を放ち、百人ほどで野々市ヶ原(西条市野々市)に打って出て奮戦。その生涯を終えました(野々市ヶ原の戦い)

 藤原純友所縁の地巡りに戻って、最後は松山市古三津5丁目にある久枝神社です。

松山市古三津5丁目にある久枝神社です。カーナビで検索しても出てこないような小さな神社です。とりあえず古三津5丁目まで行き、近くのコンビニで聞いて、やっと場所がわかったほどでした。


この神社の境内には、駒、すなわち馬に乗った藤原純友がこの岩の上から潮の干満を見たという伝承が残る「藤原純友の駒立岩」があります。天慶4(941)5月、藤原純友率いる海賊衆の船団が博多湾の戦いにおいて朝廷より派遣された小野好古、源経基率いる追捕使軍により壊滅させられ、藤原純友は子・重太丸とともに本拠地である伊予国へ逃れたとされているのですが、その際に上陸したのが現在の松山市古三津のこの地。その際に藤原純友が駒を立てて沖を見たと伝えられる岩がこの岩ということのようです。近くの谷に埋没していたものを掘り出して場所をこの神社境内に移して復元したということです。


久枝神社にある「藤原純友の駒立岩」です。この場所で駒を立てて沖を見たと伝えられている岩です。


また久枝神社の境内には「藤原純友 駒つなぎの松跡」の碑も立っています。藤原純友伝説の一つとして地元に語り継がれている伝承です。

こちらは「藤原純友 駒つなぎの松跡」です。

その久枝神社に隣接する明神丘と呼ばれる小高い丘陵は、現在は常福寺という真言宗の寺院と松山市営の墓地になっているのですが、その頂に「藤原純友館跡」の碑が立っています。ここはまだ藤原純友が伊予掾、さらには伊予国警固使の役職を与えられて海賊鎮圧の任務を続けていた頃の館()の跡だと推定されています。松山市の沖は、古来より九州と近畿とを結ぶ海上航路上に位置するため、海上の往来が盛んな地域で、そこに点在する中島をはじめ7つの島からなる忽那(くつな)諸島は、平安時代から忽那氏と呼ばれる有力な海賊集団の根拠地でした。その忽那氏を制圧するためにこの地に館()を築いたことは十分に考えられます。


明神丘の頂に立つ「藤原純友館跡の碑」です。眼下に古三津の街並み、その向こうは瀬戸内海で、忽那諸島の島々が見渡せます。忽那諸島を本拠にする海賊衆に睨みを効かせるには、絶好のロケーションです。

藤原純友は海賊衆の頭領になってからは本拠地を日振島に移すのですが、その後もこの館()はそのまま残っていたと考えられ、博多湾の戦い後、敗走した藤原純友親子がこの地に逃げ帰ったと考えるのもおかしなことではないと私も思います。現在、館の跡は全く残っていませんが、館があった当時使用されたと伝えられる井戸の跡が残っています。大宰府と博多湾の戦いで大敗した藤原純友が北九州から伊予に敗走してこの地に住んでいた当時の名残なのだそうです。その関係から、天慶4(941)に藤原純友が捕まって殺害されたのがこの地だという伝承も残っています。

 私も新居浜市の中野神社と松山市の久枝神社を訪れてみたのですが、『承平天慶の乱』で歴史の教科書に残るほどの有名人・藤原純友を祀っている神社と言われるわりには、申し訳ないけれどショボい神社です。参拝客もほとんど見掛けず、まさに人知れずひっそりと佇んでいるって感じです。平将門を祭神として祀る神田明神の賑わいや華やかさと比べると、あまりにも大きな違いがあります。しかも藤原純友は平将門のように神(怨霊)や英雄として崇められることも少なく、地元にもこれと言った伝説や逸話は残っておりません。ここが平将門との決定的な違いです。

 私は愛媛県の歴史を調べる時、『愛媛県史』を参考にしています。その『愛媛県史 古代・中世(昭和59年3月31日発行)』の「第一編 古代、第三章 律令国家の動揺、第二節 海賊の跳梁」に藤原純友に関する項があります。その中に次のような非常に興味深い記述があります。それを抜粋して示します。

 ・『予章記』によれば、この時、越智好方なる者が純友追討の宣旨を蒙って百余艘の兵船を率いて九州に渡り、これと戦ったとも伝えられ、好方は越智郡押領使、その子好峰は野間郡押領使に任じられている。純友の乱に際して越智氏がその軍事力で純友追討の戦闘に参加、乱後その功績により押領使・追捕使などの地位を獲得していった動きはほぼ事実とみなして差し支えなかろう。

 ・純友追討軍を構成する諸国兵士のなかに、伊予国兵士が当然含まれていたであろうが、その動員形態は越智氏のような古代伊予を代表する伝統的豪族層が、その影響下にある一般兵士を組織、これを統率して参加したのではなかったろうか。

 ・藤原純友の反乱と伊予国との関わりをみていく時、特に注目すべき事実の一つは、この越智氏の場合に典型的にみられるように、純友は最終的に伊予国の在地勢力をほとんど組織しえていないという点である。

 ・純友が本格的な反乱に蜂起していった後、彼の次将と呼ばれるクラスには、前記のように確実な伊予国出身者は史料上見出し得ない。

 ・結局伊予国の在地勢力の主要な部分は、ほとんど国家側にとどまり、越智氏のように伊予国兵士として純友軍に対峙したと考えざるを得ず、そこに純友の限界を考えてみるべきでもあろう。

 なるほどぉ〜。藤原純友は伊予国を拠点に朝廷に対して叛乱を起こしたにも関わらず、愛媛県(伊予国)でまったく人気がないどころか、ほとんど関心さえ示されない理由がここにあるのでしょうね、きっと。首領である藤原純友をはじめ藤原純友軍の主力のほとんどは、中央(京の都)で出世が望めなくなった下級貴族や没落貴族、失業した舎人と呼ばれる役人達で、伊予国とはほとんど関係のない、言ってみればよそ者。そのよそ者達が勝手に伊予国内に拠点を構え、瀬戸内海一帯を暴れ回り、その挙句、朝廷に対して叛乱を起こし、勝手に朝廷の討伐軍に敗れて滅んだわけです。ホントいい迷惑…ってところだったのでしょうね。実際、博多湾の戦いで藤原純友軍の海賊船団を打ち破った朝廷側の討伐軍の船団の主力は、越智氏族をはじめとした古代伊予を代表する伝統的豪族層、すなわち伊予水軍だったと考えられます。瀬戸内海の覇権(制海権)を“よそ者”であった海賊集団から在地勢力の伊予水軍が奪い返したってことなのでしょう、きっと。これが在地勢力を上手く巻き込んで勢力を伸ばしていった平将門との決定的な違いなのではないでしょうか。

 余談ですが、芸予諸島の大三島にある大山祇神社には、藤原純友の乱にあたって勅により錦旗をいただき、藤原純友追捕に大活躍した越智(河野)好方が戦勝の御礼に奉納したと伝えられる沢瀉威(おもだかおどし)の鎧と兜が保管されています。この種の鎧としては日本最古のものであると言われ、国宝に指定されています。

 平将門に関して多くの伝説や逸話が生まれたのは、恵まれた貴族の寄り集まりである朝廷に逆らい、地方の農民や虐げられている者たちのために戦った…そういう印象の強い平将門に同情し、平将門の無念さを、自分のことのように感じる人が多かったからだという説もあるようです。さらに、敗れたとはいえ公家政治に果敢に挑んだ平将門は、徳川家康に至るまで後世の関東武士から敬愛の念を抱かれ続けたと言われています。そのいっぽうで、藤原純友にはまったくと言っていいほどそういう部分が見受けられません。これもそのあたりが影響しているのかもしれません。納得しました。これじゃあ神格化された逸話や英雄伝説が愛媛県内にほとんど残っていないのも当たり前です。むしろ、消し去りたい忌まわしい過去、黒歴史…って感じですものね。

 でも、ここで新たな疑問が湧いてきました。何故、藤原純友は宇和海の日振島に拠点を構えたのか?…という疑問です。その疑問を解決するには藤原純友が見たのと同じ景色を見て、藤原純友の気持ちになって考えてみるしかないと思い、実際に日振島に行ってみることにしました。次回第79回「風と雲と虹と…承平天慶の乱(その3)」では、その「日振島探訪記」を書かせていただきます。

 

 【追記】

それにしても、市内に藤原純友に関連する史跡があることを知らない松山市民のなんと多いことか……。それ以前に、誰とは言いませんが、ある若い松山市民(女性)との会話の中で出てきた「藤原純友? それ誰? 藤原竜也なら知っているけど……」には思わず絶句しちゃいましたが() こりゃあ、絶対に藤原純友のことをもっと発掘しないといけませんね。

 

……(その3)に続きます。

風と雲と虹と…承平天慶の乱(その4)

  公開予定日 2021/05/06 [晴れ時々ちょっと横道]第80回  風と雲と虹と…承平天慶の乱 (その4) 藤原純友及び彼が起こした叛乱 ( 藤原純友の乱 ) に関しては、同時期に関東で叛乱を起こした平将門と比べて有力な史料がほとんど残っておらず、研究を非常に困難なもの...