2021年9月16日木曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その6)

 公開日2022/04/07

 

[晴れ時々ちょっと横道]第91回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その6)

  

【小山田信茂】

小山田信茂の名は、戦国時代好きの歴史ファンであれば一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。小山田信茂は戦国時代最強とも評された甲斐武田氏の家臣団の中にあって譜代家老を務めたほどの人物なのですが、彼の名を有名にしているのは、主君・武田勝頼を最後の最後に裏切って、初代・武田信義以来約400年、17代続いた伝統ある甲斐源氏の名門・甲斐武田氏宗家を最終的に滅亡へと追いやったという「裏切り者」「不忠者」としてののイメージからのものではないでしょうか。

小山田氏は甲斐国(山梨県)東部の郡内地方を領する国人衆です。郡内地方は富士山の外輪山である御坂山地と大菩薩嶺を境とした山梨県東部地域のことで、現在の市町村名で言うと、大月市、都留市、上野原市と北都留郡(丹波山村、小菅村)、南都留郡(道志村)、富士吉田市、南都留郡(山中湖村、西桂町、富士河口湖町、鳴沢村、忍野村)に相当します。相模川水系・多摩川水系の流域と富士山北麓という広い面積の地域で、平坦な甲府盆地が広がる山梨県西部の国中地方に対し、急峻な地形の山林が大半を占めます。気象庁による山梨県内の気象区分では「東部・富士五湖地方」と呼ばれ、今ではこの呼称が用いられることが多くなっています。ここでは概ね甲斐武田氏の本領が富士山外輪山の外側の国中地方で、外輪山の内側が小山田氏が治める郡内地方だったと捉えればよろしいかと思います。現在ではJR中央線の通勤電車が大月駅まで延長して運行されていることもあり上野原市や大月市は完全に首都東京の通勤圏となりニュータウン化が進んでいますが、方言習俗も関東と通じるところがあり、同じ甲斐国(山梨県)に属しているとは言っても、甲府盆地が中心の国中地方とは異なる1つの地域的まとまりをもった土地として捉える必要がある地域です。

地図をご覧いただくとお分かりのように、この郡内地方は富士山の外輪山を隔てて西の国中地方と接するほか、北と東は武蔵国(埼玉県、東京都)、相模国(神奈川県)、南は駿河国(静岡県)と国境を接していて、そのため国中地方を本領とする甲斐武田氏、武蔵国・相模国を治める後北条氏、駿河国を治める今川氏の侵攻を繰り返し受けてきたところです。このため、ここを治める小山田氏の当主は常にこれら周辺国の情勢に気を配る必要があり、外交的に優れたバランス感覚が求められたのではないかと思われます。小山田信茂のことを理解しようとすると、まず彼が治めたこのような郡内地方の地理的条件を理解しておく必要があるように思います。


ここで小山田信茂理解のための重要なキーワードである“国人衆”についても少し解説しておきます。小山田信茂が生まれた小山田氏は、甲斐武田氏の配下でありながら「国人衆(国衆)」でもあるという性質を持っていました。この「国人衆」という立場が、後の小山田信茂による情勢判断や行動に大きく関わってくることになったと私は思っています。国人衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度を整えていくなど、権力構造を形成していきました。従って、表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。それでは戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国人衆とは戦国大名に従属する存在としてのみ存在し続けることができたという点です。その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃を受ければ国人衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。従って、国人衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分達を庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。 (このあたりを武士道が確立された江戸時代以降の感覚で読み解くと、誤った解釈がなされる危険性があります。)

実際に、小山田氏は国人衆として同じ甲斐国でも国中地方を本領とする甲斐武田氏と敵対関係にあった時期もありました。信茂の祖父にあたる小山田弥太郎という人物は、永正6(1509)、武田信玄の父である武田信虎との戦闘で討ち死にしています。その後も武田信虎との小競り合いがありましたが、やがて信茂の父である小山田信有の代に武田信虎と和睦し、領国であった都留郡(郡内地方)を武田信虎が庇護する形で小山田氏も力を伸ばしていったようです。その後は甲斐武田氏が武田信玄の代に変わると、相模国の後北条氏や駿河国の今川氏と争いが何度も繰り返されることになるのですが、その都度、相模国・武蔵国・駿河国と国境を接する小山田氏が治める郡内地方は軍事的拠点となり、小山田氏は国境警備のための重要な役割を果たしていたように思われます。そして小山田信茂が家督を継ぐ頃には甲斐武田氏の重要な家臣の1人と見做されるようになっていたようです。従って、小山田信茂は国人衆と甲斐武田氏家臣という両方の側面をもち合わせていた武将であったといえます。しかも、甲斐武田氏との主従関係は父の代からと短く、それ以前は敵対関係にあった時期もありました。


小山田信茂は、天文9(1540)に、小山田信有(契山)の次男として生まれました。兄に家督を継ぐことになる信有(桃隠)がいます。天文21(1552)に父が病死し兄が家督を継ぎますが、その兄も永禄8(1565)に病死し、次男ながら信茂が家督を継ぐことになりました。信茂は譜代家老衆に属す「御小姓衆」として、騎馬250騎を率いたとされています。この時期には既に小山田家は甲斐武田氏の譜代家老として数えられていたことから、信茂はこの当時の主君・武田信玄の信任を得ていたことが窺えます。

また、小山田信茂は、武田信玄の治世下で文武に活躍していた様子が確認できます。その文武両道ぶりは自他ともに認めるものであったようで、教養人としてもその名が知られていました。『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで先陣を切ったという記録や、駿河での合戦に参加したという記録があります。永禄12(1569)の小田原城包囲戦では後北条氏方の武蔵国御嶽城(埼玉県上川町)や鉢形城(埼玉県奇居町)など数か所に攻撃を加え、滝山城(東京都八王子市)にも小仏峠を越えて攻撃を加えたことが確認されています。元亀3(1572)には、主君・武田信玄に同行する形で、いわゆる「西上作戦」に従軍し、三方ヶ原の戦いでは先陣を務めたという記録が残されています。戦さに参加する際に先陣を務めることは武士の名誉とされ、それゆえに武勇に優れた武将がその任を受けるのが一般的でした。つまり、小山田信茂は戦国時代最強と言われた甲斐武田氏家中においても、屈指の戦さ上手の武将であったことが分かります。甲斐国と信濃国を拠点に騎馬軍団を率いて、戦国最強の武将と呼ばれた甲斐源氏を祖とする名家甲斐武田氏の第16代当主・武田信玄。その常勝無敵と言われた武田信玄家臣団のなかでも精鋭とされる武将は、後に「武田二十四将」と呼ばれました。その武田二十四将の中に、山本勘助や穴山梅雪、真田幸隆(真田信繁の祖父)、真田昌幸(真田信繁の父)らと並んで、小山田信茂も名を連ねています。

戦さ上手でもあった小山田信茂は、教養人としても様々な点で能力を発揮しました。まず、臨済寺の僧侶・鉄山宗純と優れた漢詩による詩の交換をしていたという記録が『仏眼禅師語録』にて確認されています。漢詩の交換は、当時における教養人のたしなみとして認知されていました。また、元亀元年(1570)には焼失した上吉田西念寺の再興に乗り出しました。この際、『西念寺寺領仕置日記』を作成させることで、伽藍再興の負担者を明文化するとともに、今でいうところの決算報告の作成をも義務としました。さらに、富士参詣道(古富士道)の利用者の減少を憂いた信茂は、関銭の半減を指示し、やがてこれは常態化していきました。この政策は地元では「小山田の半関」と呼ばれています。このように、戦さに強かっただけでなく、文化面や領地の運営にもマルチな才能を発揮していた、極めて優秀な武将であったと言えるでしょう。


ここまでは順調な生涯を送っていた小山田信茂ですが、元亀3(1572)に三方ヶ原の戦いの最中に主君・武田信玄が持病の悪化により急逝して以降、国と運命を共にするように信茂の人生を暗い影が覆うようになります。天正3(1575)に勃発した長篠の戦いでは、敗北後に武田勝頼の護衛として退却に貢献しました。しかし、小山田信茂自身は討ち死にせずに退却したことを終生恥じており、この時点では武田家と運命を共にする覚悟であったことが窺えます。その後は、かつて後北条氏との間の取次(パイプ役)を務めていたことから、房総国の里見氏や関東管領職でもあった越後国の上杉氏の取次として、和睦の道を探ることになりました。 その一環として、天正6(1578)313日の上杉謙信急死後に越後国上杉氏の家督相続を巡ってともに上杉謙信の養子の間で起きた争い、いわゆる「御館(おたて)の乱」では上杉景勝(長尾政景の実子)を支持し、武田勝頼の妹である菊姫の輿入れにも関与したとされています(この御館の乱では上杉景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となります)。しかし、このことは負けた上杉景虎の兄である後北条氏の当主・北条氏政との関係を悪化させ、武田信玄時代から続いていた甲相同盟の決裂を招くことになってしまいました。その影響もあり、その後、小山田信茂の領内には頻繁に後北条氏が侵入を試みるようになってしまいました。

天正9(1581)になると、後北条氏の侵攻を自らの力だけでは防ぎきれなくなった小山田信茂は、主君・武田勝頼に支援を要請。そして翌年天正10(1582)には織田信長・徳川家康連合軍の侵攻が開始されて、いよいよ甲斐武田氏は存亡の危機を迎えます。小山田信茂も武田勝頼に従って着陣しましたが、同じ取次という立場の人達が、小山田信茂が上杉景勝側へと離反したことにより後北条氏の援軍が得られなくなったことを強く非難したとも言われています。この時点で、小山田信茂は武田勝頼の側近をはじめ家中から疎んじられ、被害者意識を強く持っていたことも確認されています。 しかし、結局のところ防戦すらもままならない状況となった武田軍は、武田勝頼の居城・新府城で軍議を執り行ない、小山田信茂の領内に退避した後に難攻不落と言われた岩殿山城で籠城戦を行なうことが決定されます。そして運命の笹子峠へ向かいます。


その後の天目山の戦いの“通説”については(その2)で書かせていただいたので省略しますが、ここではその後の小山田信茂についてのみご紹介します。『甲陽軍鑑』によると、小山田信茂は武田勝頼自害後に甲斐善光寺で陣をはる織田軍の総大将・織田信忠の前に意気揚々と出仕したのですが、逆に「主君を裏切る輩は信用ならん!」と織田信忠の逆鱗に触れ、「不忠者」として誹りを受けたのち、葛山信貞(かつらやまのぶさだ:武田信玄の六男で駿河国葛山領の分郡領主)、武田信堯(武田信玄の甥で駿府城城代。小山田信茂とは相婿の関係)、小菅五郎兵衛(甲斐武田氏の縁戚で小菅の天神山城城主)などとともに324日に甲斐善光寺において処刑されました。この時、小山田信茂の老母・妻・男子・女子と血縁者もろとも処刑されたとされ、郡内領領主であった小山田氏は滅亡しました。小山田信茂は享年42歳でした。


甲州街道中初狩宿(大月市初狩町)近くにある小山田信茂の首塚です。甲斐善光寺で処刑された小山田信茂の遺体は、甲斐善光寺の北に葬られたのですが、小山田信茂の従者が密かに首を持ち帰り、この地にあった詳雲山瑞龍庵の住職が、ここに葬ったとされています。その瑞龍庵も、明治40(1907)にこのあたりを鉄砲水が襲い、流されてしまったそうで、それ以降、再建されておらず、平坦な土地だけが残されているのだそうです。


【天目山の戦いの真相とは】

武田勝頼が土佐国に落ち延びたとする説においては、この小山田信茂の最期が謎を解く最も重要な鍵だと私は思っています。果たして小山田信茂は世間一般で言われているように、本当に「裏切り者」「不忠者」だったのでしょうか?

兵法の分野では「旗幟鮮明」は出来るだけ早くすべし!!…という言葉がよく使われます。この時点での甲斐武田氏の家臣団の中では穴山信君(梅雪)がその典型ですが、主君を裏切るのであればもっと早くに裏切っていればどうなっていたか分かりません。勝敗の結果が誰の目にもハッキリと見えてきたギリギリの土壇場での裏切りは、相手方ばかりでなく、世間の受けもよくありません。そういうことはここで私が言わずとも戦さ上手で教養にも長けたとされている小山田信茂は十分に分かっていたはずです。彼が領していた郡内地方は武蔵国・相模国・駿河国と国境を接していました。しかも富士山の外輪山の高い山々を峠で越えていかないといけない甲斐武田氏の本領である国中地方よりも、武蔵国・相模国・駿河国のほうがよっぽど行きやすいところでした。ならば、もっと早い時点で当時武蔵国と相模国を支配していた後北条氏を頼り、後北条氏の傘下で本領安堵の約束を取り付けるほうが郡内地方を領する国人としてはよかったのではないか…と私は思ってしまいます。しかし、小山田信茂はそうしなかった。それだけ小山田信茂は甲斐武田氏に対して強い忠義の念を持っていたのではないか…と私は思っています。

それは「御館の乱」の一件からも窺えます。「御館の乱」では小山田信茂は取次として武田勝頼に後北条氏を裏切り上杉景勝を支持する決断をさせ、武田信玄時代から続いていた甲相同盟を決裂させることになったとされていますが、このあたり、甲斐武田氏配下の家臣でありながら国人衆(国衆)でもあるというバランスの上で考えると、小山田信茂の中では国人衆よりも甲斐武田氏配下の家臣団の一員としてのウェイトのほうがはるかに大きかったということが窺えます。なぜなら、後北条氏を怒らせて甲相同盟が決裂という状況になった時に、甲斐武田氏一門の中で真っ先に被害を受けるのは武蔵国や相模国という後北条氏と国境を接する郡内地方。その領主が小山田信茂でしたので、後北条氏からすぐに攻め込まれることは十分に分かっていたことだと思います。それでも敢えて上杉景勝を支持したというのは、郡内地方というよりも甲斐武田氏にとって何が一番に優先されるかを十分に判断した上のことだと思われますし、それだけ甲斐武田氏に対する忠義の念が強かったのではないか…と私は推察しています。


加えて、岩殿山城における籠城ですが、小山田信茂は最初からこんなことが上手くできるはずがないと思っていたのではないでしょうか。いくら四方を断崖絶壁で囲まれた難攻不落の岩殿山城と言っても、どこからも援軍が期待できない状況の中で籠城しても、城の周囲を数万の軍勢に取り囲まれてしまえば食料の補給もままならなくなり、1ヶ月もすれば自ら落城せざるを得なくなります。そんなことは城主である小山田信茂が一番よく分かっていたはずで、最初からそういうことは考えていなかったのではないかと私は思っています。それでは岩殿山城籠城論が出てきた時に小山田信茂は何を考えたのか? それは武田勝頼をどうやってこの窮地から逃し、栄光ある甲斐武田氏の“再興”のために伊予武田氏を頼って落ち延びさせるかではなかったか…と私は思っています。なので、岩殿山城で籠城する…は、あくまでも笹子峠を使って郡内地方に入ることのデコイ(decoy:軍事用語で、敵を攪乱するために使われるおとり”)に過ぎなかったのではないかと私は思っています。同じ難攻不落の山城に籠城するにしても、真田昌幸の持ち城である上野国(群馬県)の岩櫃城ならば、反織田信長勢力の一員で、その当時唯一の甲斐武田氏の同盟国であった隣接する越後国(新潟県)の上杉景勝の援軍が少しは期待できるのですが、甲斐国内の郡内地方にある岩殿山城ではそれはまったく期待できません。隣接する相模国(神奈川県)の北条氏政とは、御館の乱で同盟を解消して以来、信頼関係を失墜して敵対関係にありましたから。また、いくら難攻不落と言われる堅城であっても、援軍がまったく期待できない状況の中で籠城をして、補給路をいっさい断たれてしまったらどういう悲惨な結末を迎えることになるのか…については、武田勝頼も小山田信茂も高天神城の落城の経験で痛いくらいに分かっていたはずで、いくらほとんど瓦解しかけていると言っても、その少し前まで戦国時代最強と謳われた甲斐武田軍団が学習能力の低い人達ばかりの集団だったとは、とても思えませんから。

すなわち、岩櫃城に向かうことと岩殿山城に向かうことを同じ“籠城”という目的で考えてはいけないってことです。岩殿山城に籠城する…は、誰がどう考えても得策とは思えませんもの。すなわち、籠城先が単に岩櫃城から岩殿山城に変わったのではなくて、おそらく伊予国出身の河野通重が提起したであろう案が採用されて、根本的に籠城策から伊予国(あるいは土佐国)まで落ち延びてそこで甲斐武田氏の再興を図るという策に大きく方針が変更になった…と捉えるのが正しい解釈のように私は思っています。そして、繰り返しになりますが、難攻不落な城として広く知られていた岩殿山城での籠城は、織田信長・徳川家康連合軍に加えて北条氏政軍をも欺くために意識的にばら撒かれたデコイ(おとり)というわけです。もちろんその目的は笹子峠を越えて郡内地方に入った後の古富士道甲斐路(御坂路)→ 旧東海道(矢倉沢往還)という行程における武田勝頼一行の身の安全を少しでも確保すること。そのデコイの効果はあまりにも抜群だったようで、400年以上経った現代でも多くの人がそのデコイを信じ込んでいるほどです。ギリギリまで追い詰められた状況の中で苦し紛れに放ったであろう1発のデコイがこれほどまでに効果があったとは、おそらく武田勝頼一行の逃避行の全体シナリオを書いたと思われる河野通重も思ってもみなかったことでしょうね。私のこの推論が正しければ、日本の歴史上最も効果のあったデコイ(おとり)がこの岩殿山城での籠城だったと言えるのではないでしょうか。


伊予武田氏を頼ってまずは駿河湾の港から海路土佐国に武田勝頼を落ち延びさせるというこの逃避行の全体像を描いたのは伊予国出身の河野通重だと私は推定していますが、その逃避行の詳細、特に笹子峠という場所の選定や後に「天目山の戦い」と呼ばれることになる甲斐武田氏宗家滅亡のシナリオの詳細を描いたのは、このあたりの地理に詳しい小山田信茂だったのではないか…と私は思っています。

そのシナリオとはどういうものだったのか?…を次に推定してみたいと思います。


まず最初に小山田信茂が考えたことは、いかにして追っ手の探索、そしてその後に続く織田信長・徳川家康連合軍の侵攻を食い止めるかだったことは間違いありません。私でもそうします。そのために彼が考えたことは武田勝頼をはじめ武田家家臣の主だった者を討ち死に、あるいは自害させ、甲斐武田氏を歴史の表舞台から完全に消してしまうか…だったのではないでしょうか。もちろん武田勝頼本人を死なせるわけにはいかないので、小山田信茂の家臣の中から武田勝頼や息子の武田信勝に似た年格好の若者を選び、影武者に仕立てたのだと思います。武田勝頼一行には継室の北条夫人も含まれていましたから、影武者の中には若い女性達も混じっていたと思います。彼等に対して小山田信茂は「すぐに私も行くから、先にあの世に行って待っていてくれ」と言ったのではないかと思われます。とは言え、用意できた影武者は武田勝頼、信勝父子や北条夫人、土屋昌恒など主だった役を演じるほんの数人で、“天目山の戦い”で実際に戦うことになる家臣は笹子峠の手前に残っていたと思われます。また、『甲陽軍鑑』によると、小山田信茂の謀叛を知り岩殿山城行きを断念した武田勝頼一行は行き場を失った家臣が次々と逃亡をはかったとされていますが、それの解釈も変わってきます。実際はそこまでの武田勝頼一行護衛の役目を終えてその場を離れた家臣が多かったということではないかと私は思っています。笹子峠の登り口である駒飼には宿泊できそうな大きな寺院等もなく大人数の集団が何日間も滞在するには不向きなところで、なにより食料の補給が難しいところですから(地図で調べてみると国宝山養真寺という浄土宗の寺院があるようですが、さほど大きな寺院ではありません。おそらく江戸幕府が甲州街道を整備する際に宿場整備の一環で建てた寺院ではないかと思われます。甲州街道沿いにはそういう寺院が数多くありますから)。新府城を出た時、武田勝頼の一行は約700人いたとされていますが、先を急ぐ逃避行においてそんな大人数で移動することはほぼ不可能なことで、本当はその1/10780人程度だったのではないでしょうか。あとの家臣達は、追ってくる織田軍を撹乱するために、同じく数十人程度の集団で各地に散っていったのではないかと私は思っています。


次に場所の選定です。小山田信茂が選んだのは天目山棲雲寺。応永24(1417)に当時の武田家の当主・武田信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地で、その武田信満の墓がある甲斐武田氏所縁の寺院です。栄光ある甲斐武田氏を後世の人々の記憶に残るように歴史の表舞台からドラマチックに消滅させるには、このあたりではここしかないと判断したのでしょう。で、追っ手が迫ってきたら天目山棲雲寺手前の田野の地に柵を設け、そこで出来る限り華々しく討ち死にせよと影武者達に命じたと思われます。そのためにも笹子峠の登り口である駒飼で待つというのは都合が良かったのではないかと思われます。当時はまだ五街道(甲州街道)としての整備がなされておらず、駒飼も鶴瀬も宿場ではなく人里離れた山間の超鄙びた小規模の集落に過ぎなかったはずなので、まず人に見られる心配がありません。なので、影武者にすり替わったことを誰かに気付かれる危険性も少なかったでしょうからね。

そしてその駒飼で影武者達は小山田信茂の迎えを待つふりをした。その目的は時間稼ぎと織田信長軍の追討部隊を引き寄せるためだったのではないか…と私は推察しています。時間稼ぎとは武田勝頼一行が無事に駿河湾の港から武田水軍の船で出港するまでの時間稼ぎのことです。もしかすると、後述する北条氏政との秘密の交渉のための時間稼ぎも含まれていたのかもしれません。武田勝頼一行が韮崎の新府城を出立したのが33日。途中、勝沼の大善寺にある理慶尼の庵で一晩過ごし、笹子峠の登り口である駒飼にまで到着したのが34日の早朝。『甲陽軍鑑』によると小山田信茂の謀反を知ったのが39日。そして311日に天目山の戦いが起こります。34日から39日。笹子峠の登り口である駒飼から駿河湾までは約100km6日間もあれば十分に到達することができます。この間に武田勝頼一行が笹子峠の登り口である駒飼にとどまっていることを噂で流し、織田信長軍の追討部隊をここまで誘き寄せたのではないかと思われます。

天目山の戦いは、いわば死ぬことが目的の戦い。それに臨む影武者を含む武田軍の将兵の覚悟はいかばかりのものだったろうか…と思います。武田信玄恩顧の彼等の願いは、偏に武田勝頼による栄光ある甲斐武田氏の再興、再び「風林火山」の旗を靡かせて戦場を駆け回ることだったのではないでしょうか。その願いを子や孫の時代に実現するために、自らの命を投げ出そうとしたのではないでしょうか。武田勝頼に付き従って落ち延びる土屋昌恒などに対して、きっと「武田家の再興をよろしく頼むぞ」と口々に声をかけて送り出したのではないか…と思います。

こうして影武者と入れ替わった武田勝頼の一行は変装して郡内地方に向かいます。


次に小山田信茂が行ったことは、相模国の領主・北条氏政との交渉だったのではないでしょうか。小山田信茂は後北条氏をはじめ房総国の里見氏や関東管領職でもあった越後国の上杉氏の取次(パイプ役)をこなしていた人物で、優れた外交交渉能力があったと思われます。この時、小山田信茂は「御館の乱」の時の非礼に対する詫びを丁重に入れたうえで、武田勝頼一行が駿河国内を通り、武田水軍の船が待つ港に着くまでの安全確保を北条氏政に要求したのではないでしょうか。その取引条件として小山田信茂が出したのは、北条氏政の妹で武田勝頼の継室となっていた北条夫人(桂林院)を無事に後北条氏に返すこと。そして、自分の領地であった郡内地方だったのではないか…と私は思っています。「私はこの後、御館の乱から始まる一連の出来事の責任をとって一族もろとも自害する。その後の郡内の領地と領民は北条氏政殿にお任せしたい」とでも言ったのではないかと推察します。領地と領民を守る…これが郡内地方を治める国人衆としての小山田信茂の矜持だったのかもしれません。彼は郡内地方を織田軍に蹂躙されたくなかったのだと思います。織田軍が入ってくると、すぐに後北条氏との間で領地を巡る血を血で洗う熾烈な戦いが繰り広げられ、ただでさえ狭い田畑は荒らされ、多くの領民が命を落とすことになりかねませんから、それを小山田信茂は領主として一番恐れていたのではないでしょうか。

 

甲斐善光寺(甲府市善光寺3丁目)です。この甲斐善光寺は永禄元年(1558)、武田信玄によってこの山梨郡板垣郷の地に創建された浄土宗の寺院です。この甲斐善光寺は織田信忠が甲州征伐の際に本陣を置いたところで、天目山の戦いの後、武田勝頼の従兄弟の葛山信貞、郡内領主・小山田信茂、小山田一族の小山田八左衛門尉、小菅五郎兵衛らがここで処刑されました。

甲斐善光寺の山門です。本堂と同じく、国の重要文化財に指定されています。甲斐善光寺では、このほか現在の本尊である銅造阿弥陀如来及両脇侍立像、木造阿弥陀如来及両脇侍像2組が国の重要文化財に指定されています。

 

実際、天目山の戦いで甲斐武田氏が滅び、小山田信茂が一族とともに甲斐善光寺で処刑されたことで郡内地方は無主となり、その後の論功行賞により郡内地方を含む甲斐一国と信濃国諏訪郡は織田信忠の副将を務め高遠城攻めで大きな功績のあった河尻秀隆が統治することになったのですが、そのわずか3ヶ月後の天正10(1582)62日に起きた本能寺の変で織田信長が自害すると、甲斐国・信濃国・上野国といったかつて甲斐武田氏が治めていた諸国では統治不在の混乱状態となります。甲斐国では国人衆が一揆を起こし、領主になったばかりの河尻秀隆が殺害されるという事態が発生します。その直後、甲斐国・信濃国・上野国の支配を巡る北条氏政と徳川家康との間のいわゆる「天正壬午の乱」が起こると、後北条氏はたいした抵抗を受けることもなく瞬く間に小山田氏の本領であった郡内地方を制圧し、北条氏政の弟の北条氏忠が小山田氏の居城であった谷村城に入城しました。しかし「黒駒合戦」(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で後北条氏は徳川勢に敗れ、同年10月に後北条氏・徳川氏間で和睦が成立すると、郡内地方を含む甲斐国一国は徳川家康の領地となりました。この時、小山田信茂はこういう結果になることまでは思いもしなかったことでしょうけどね。ただ、この天正壬午の乱の時も郡内地方で大きな戦闘が起きて、領地が荒らされたという記録は残っていないようなので、最低限その点だけは小山田信茂が願っていたとおりになったようです。


ということで、甲斐善光寺における小山田信茂の最期も処刑ではなく、全ての秘密を自分の胸の内にしまった上での覚悟の自害だったと私は思っています。彼が望んだのは、武田勝頼による伊予武田氏を足掛かりとした栄光ある甲斐武田氏の再興。甲斐武田氏が再興された暁には、必ず武田勝頼のもとに馳せ参じるようにと残った家臣達に言い残していたのではないでしょうか。おそらく織田信忠も天目山の戦いで自害した武田勝頼は影武者で、本人は落ち延びたのではないか…と薄々気づいていて、取り逃した責任を取りたくないこともあり、最大の「裏切り者」「不忠者」を演じようとする小山田信茂の演技に乗っかったのではないか…とも私は思っています。これは『信長公記』に、武田勝頼は小山田信茂の館まで辿り着いたのだが、小山田信茂は武田勝頼の使者をはねつけた…と記されていることからも窺えます。この私の推察が当たっていたとするならば、小山田信茂は「裏切り者」でも「不忠者」でもなく、「大忠臣」ということになろうかと思います。

  

……(その7)に続きます。(その7)は第92回として掲載します。

2021年9月13日月曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その5)

 公開日2022/03/03

 

[晴れ時々ちょっと横道]第90回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その5)

 

【笹子峠】

このように、武田勝頼一行が駿河湾に面した港を目指すべく郡内地方に入るのに選んだ道が笹子峠越えの峠道で、笹子峠を目指して甲州街道を東に向かって進んでいきました。笹子峠は甲州街道の起点である江戸日本橋と終点である下諏訪宿のほぼ中間の、黒野田宿(山梨県大月市)と駒飼宿(山梨県甲州市)の間にある標高1,096メートルの峠で、甲州街道最大の難所と言われた峠です。笹子峠は秩父山地の奥秩父山塊の大菩薩連嶺と富士山の外輪山である御坂山地の山塊との接続部にあたり、山と山の間の鞍部と言っても形成過程が全く異なる2つの山塊がぶつかり合ったところなので、言ってみれば皺々の状態のような極めて複雑な地形をしています。そのため標高が1,096メートルと御坂峠や大石峠と比べてはるかに低く、峠道の距離も短いのですが、急勾配の坂によるアップダウンが何度も繰り返され、幾つもの沢を渡る必要があるので、極めて歩きにくい峠です。私は旧街道歩きを趣味にしていて、これまで甲州街道や中山道で幾つもの峠を歩いて越えてきましたが、その経験の中でも歩きにくかったという点においては一番の峠だったように思います。五街道最高標高である中山道の和田峠(標高1,531メートル)も越えていますが、登り坂の距離がメチャメチャ長いだけで危険を感じるようなところもなく、笹子峠よりもはるかに歩きやすかったです。

 

大月側から笹子峠を目指している時の写真です。笹子峠は秩父山地の奥秩父山塊の大菩薩連嶺(右側)と富士山の外輪山である御坂山地の山塊(左側)との接続部にあたります。

笹子峠の前後にある峠道の区間の甲州街道は現在の山梨県道212号日影笹子線に沿って伸びています。沿っていると言っても、山梨県道212号日影笹子線はクルマが走行できるように道路の傾斜を緩くするためにS字のヘアピンカーブを何度も繰り返す九十九折(つづらおり)の道になっていたり、大きく迂回するルートをとっていたりするのですが、甲州街道は基本ヒトや馬、牛が歩いて通る道なので、多少の急傾斜はおかまいなく、その山梨県道212号日影笹子線のS字カーブや迂回路を突っ切るように伸びています。


戸時代に整備された甲州街道、笹子峠への道です。五街道と言っても細くて急な山道です。

うした小さな沢を細い木橋で幾つも渡ります。危険なので1人ずつ順番に渡ります。

先ほど笹子峠が甲州街道最大の難所だということを書かせていただきましたが、どのくらいの難所であったかは、甲州街道とほぼ並行して伸びる山梨県道212号日影笹子線の歴史によく表われています。明治18(1885)の国道指定(いわゆる明治国道)では、江戸時代以来の甲州街道がそのまま「国道16号線」に指定され、その後、大正9(1920)施行の道路法(旧道路法)で国道8号線に指定されたのですが、昭和4(1929)に国道8号線のルートが変更され、江戸時代のままで未整備の笹子峠越えの区間が国道から外されて、大月から富士吉田を経由し御坂峠を越えるルート(現在の国道139号線・137号線)が国道8号線となりました。再び笹子峠越えのルートが国道に指定されるのは昭和27(1952)のことです。この間、昭和13(1938)に笹子峠の直下を貫く笹子トンネル(笹子隧道:全長239メートル)が開通し、その前後の道路も整備されていきました。しかし、トンネルへ通じる道はヘアピンカーブの続く狭隘な未舗装の道路であり、昭和27(1952)にこの笹子隧道経由の道が再び国道20号線に指定されたものの、甲府盆地で収穫された果実や野菜などの首都圏への主要な流通経路とはならず、距離は遠いものの大月から富士吉田を経由し御坂峠を越えるルートがずっと物流の中心である状態が続きました。そして、昭和33(1958)に当時有料であった新笹子トンネル(全長2,953メートル)が開通した時に国道20号線が新笹子トンネルのルートに移り、やっと物流の中心は笹子峠越え(新笹子トンネル)のルートに戻ったわけです。このように、笹子峠は江戸(東京)と甲府を結ぶ最短ルートではあるものの、峻険な山岳地帯を通るため、近代化されて現在のような姿に至るまでには文字通り随分と遠回りを必要としました。なお、山梨県道212号日影笹子線の笹子トンネル(笹子隧道)付近は、今も冬季(12月~3)になると雪で閉ざされ、数ヶ月に渡って閉鎖されます。

 

この細い峠道が五街道と呼ばれる江戸時代の幹線道路の一つだったって、信じられませんよね。

こんな急な下り坂もあります。まるで登山のようです。


笹子峠は江戸(東京)と甲府を結ぶ最短ルートであるため、この山梨県道212号日影笹子線や国道20号線の笹子トンネル(笹子隧道)、新笹子トンネル(新笹子隧道)のほかにも、並行する幾つかのトンネルがあります。まず鉄道では、JR東日本の中央本線も笹子駅〜甲斐大和駅(旧駅名:初鹿野駅)間の笹子峠を笹子トンネル(全長4,656メートル:下り線)と新笹子トンネル(全長4,670メートル:上り線)の並行する2(複線)のトンネルで抜けています。次に高速道路。中央自動車道の大月ジャンクション(JCT)〜勝沼インターチェンジ(IC)間の笹子峠に昭和52(1977)1220日開通の笹子トンネルが通っています。全長は(上り線)4,784メートル、(下り線)4,717メートル。中央自動車道では恵那山トンネルに次いで2番目に長いトンネルです。この中央自動車道の笹子トンネルは平成24(2012)122日に上り線の東京寄りの場所で、天井が崩落する事故が発生。現場を走行中の自動車3台が落下した天井板の下敷きとなり死者9名、重軽傷者2名の事故が発生したことで注目が集まりました。さらに、東京と大阪の間を最高設計速度505km/時の高速走行が可能な超電導磁気浮上式リニアモーターカーで結ぶべく2027年の開業を目指して現在建設が進められている「リニア中央新幹線」。その「リニア中央新幹線」に先行する「山梨リニア実験線(総延長42.8km)」として開通している区間にも笹子トンネルがあります。この山梨リニア実験線の先行区間の起点は笹子トンネルの中に位置しており、笹子トンネル自体は、この先、より長いトンネルになる予定ですが、先行区間で供用されている部分だけでも5,983メートルの長さがあります。この山梨リニア実験線では、平成27(2015)421日に603km/時の有人走行を行い、鉄道における世界最高速度記録を更新しました。

 

昭和13(1938)に開通した笹子トンネル(笹子隧道)です。笹子峠の直下を貫通しています。

ここを登った先が笹子峠のサミット(頂上)です。


【甲州街道は江戸時代になってから整備された街道だったという事実】

このように笹子峠は昔から現代に至るまで日本列島を貫く交通の要衝でした。しかし、ここで意外な事実を書かせていただきますが、天正10(1582)当時、その甲州街道はまだ存在してはいませんでした。前述の江戸時代よりも昔から甲斐国にあった古い道「甲斐九筋」の中に甲州街道の名前も、それらしい道筋さえも入っていません。(その4)の「甲斐九筋」を説明したところで、不思議に思われた方もいらっしゃるかと思います。


ここが笹子峠のサミット(頂上)です。南北から2つの大きな山塊がぶつかった山と山の鞍部にあり、峠と言っても見晴らしは決して良くありません。ここから右手、尾根伝いになおも登っていくと笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま:標高1,358メートル)の山頂に至ります。この笹子雁ヶ腹摺山の山頂からは富士山や甲府盆地、南アルプスの眺望が素晴らしく、それらの風景を眺めるために多くのハイカーが訪れるようです。

 

前述のように私は旧街道歩きを趣味にしていて、甲州街道も2年前に起点の江戸の日本橋(東京都中央区)から終点の下諏訪宿(長野県諏訪郡下諏訪町)まで532420(210.8km)を完歩しています。甲州街道の名に相応しく起点の江戸日本橋から終点の下諏訪宿に至るまで甲州街道の沿道には武田信玄をはじめとした甲斐武田氏の一族や、戦国時代最強と呼ばれた穴山信君や甘利虎泰、馬場信春といった「武田二十四将」に代表される武田家家臣団の面々に所縁のある神社仏閣や各種伝承が随所に散らばっていて、武田信玄マニアには堪らないところです。武田信玄期から武田勝頼期にかけての甲斐武田氏の繁栄と滅亡の歴史を知っているかどうかで、甲州街道歩きの面白さは数倍変わってくると言っても過言ではありません。私も予習として井上靖先生の長編歴史小説を原作とした2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』(主演:内野聖陽さん)DVDを借りてきて観たりしていました。同時に甲州街道の歴史についても調べていて、その時、江戸時代に入るまで甲州街道は存在していなかったという衝撃の事実を知りました。私は甲州街道と並行して中山道も江戸の日本橋から京の三条大橋に向けて歩いているのですが、縄文時代や弥生時代からの歴史がところどころに残る中山道に比べ、甲州街道に歴史の深みがあまり感じられないとの印象を持っていたので、それで合点がいったようなところがありました(それでもアメリカ合衆国よりも長い400年の歴史がありますが…)


下りもこんな感じです。
 
笹子峠の下りの区間で最大の難所がここ。一見ふつうの丸太橋なのですが、問題はその高さ。谷底までは約5メートルと言ったところでしょうか。高所恐怖症の人にとっては足がすくんでしまうような橋です。

慶長6(1601)、関ヶ原の戦いで全国の覇権を握った徳川家康は、政治支配力を強めるために道路制度の改革と整備に乗り出しました。朱印状によって各宿場に伝馬の常備を義務付け、道幅を広げて宿場を整備し、一里塚を設けるなどの街道の整備を着々と進め、砂利や砂を敷いて路面を舗装したり、松並木を植えるなどが行われました。中でも幕府が置かれた江戸の日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、甲州街道(甲州道中)5本の道路は江戸幕府にとって政治的・軍事的に最重要な道路であることから五街道”と呼ばれ、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まるなど、幕府直轄の陸上幹線道として整備されました。そういう中で、甲州街道・江戸日本橋〜甲府間の開設は慶長7(1602)。すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていったと言われており、江戸日本橋〜下諏訪宿間の全線での完成は五街道で一番最後の明和9(1772)のことと言われています。着工からなんと170年後のことです。この甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成された軍用道路であったともいわれています。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その寺院の裏に同心屋敷を連ねるという構造をとっているのが大きな特徴です。


甲州街道・駒飼宿です。駒飼宿は本陣・脇本陣が各1軒、旅籠6軒という山間の小さな宿場です。馬の放牧が多く行われていたことから「駒飼」の宿名がつきました。駒飼宿は宿内もかなりきつい傾斜の坂道になっています。

さすがにかつて甲州街道を行き交う人々で賑わった宿場町です。山間の集落と言っても、歴史を感じさせる大きな旧家も建っています。

このように現在の甲州街道のルートは江戸時代に入った慶長7(1602)に整備が始まったもので、実は天目山の戦いがあった天正10(1582)の段階ではまだ整備がほとんどなされていませんでした。例えば、永禄12(1569)、武田信玄による今川領侵攻(駿河侵攻)が行われた際に、武田方の小山田信茂が小仏峠を越えて今川氏と当時同盟関係にあった後北条氏が領する武蔵国八王子に侵攻して甘里古戦場の戦いが起こったのですが、この時、後北条氏側はまさか小仏峠を越えて敵が侵攻してくるとは予想だにしておらず、まったくの不意を突かれた状態だったと言われています。江戸時代に入って甲州街道が整備された時、この小仏峠は小仏関所が設けられるくらいに往来の多い街道になるのですが、当時の小仏峠を通る道は街道としての整備はまったくなされておらず、知る人ぞ知る程度の山中の細い間道に過ぎなかったとされています。その後、後北条氏は小山田信茂に侵攻を許した小仏峠方面からの敵の侵攻に備えて、慌てて八王子城を新たに築城したりしています。

 

甲州街道で大善寺から笹子峠の登り口である駒飼に行く途中の石垣の上に「古跡 血洗澤」というなにやら物騒な文字が書かれた標柱が立っています。その標柱には「この地は土屋惣蔵昌恒が逃亡した跡部大炊介勝資を追尾して斬り、この沢で血を洗い流したと言われています」と書かれています。甲斐武田家滅亡に際しては、この笹子峠一帯で様々な人間ドラマが繰り広げられたであろうことは、想像に難くありません。

同じく甲州街道で大善寺から笹子峠の登り口である駒飼に行く途中に「古跡 武田不動尊」があります。この武田不動尊は武田勝頼一行が織田方の滝川一益の軍勢に追われて敗走している時、武田家の守り神として持っていた不動尊を村人に託したものが祀られているのだそうです。その武田不動尊は、この入口より遥か下に隠すように祀られているのだそうです。このあたりには甲斐武田家滅亡にまつわる伝承が幾つも残っています。


戦国時代以前、武蔵国府中(東京都府中市)と甲斐国府中(山梨県甲府市酒折)の間は現在「古甲州道」と呼ばれる道が結んでいました。この古甲州道は前述の「甲斐九筋」の中の「萩原口(青梅街道)」に相当します。萩原口は甲斐国内での呼び名であり、青梅街道とは武蔵国に入ってからのルートが微妙に異なるようなので、ここでは敢えて「古甲州道」と呼ぶようにします。この古甲州道は武蔵国から行くと、多摩川、そして多摩川の支流である秋川沿いを遡るように東京都あきる野市、西多摩郡檜原村と進み、武甲国境(東京都・山梨県の都県境)を越えて甲斐国(山梨県)に入り山梨県北都留郡小菅村、そして標高1,897メートルという最大の難所・大菩薩峠を越え、甲府市の東にある酒折に至るという甲州街道の少し北側を進むルートをとっていました。この古甲州道がかつての武蔵国と甲斐国との間の物資交流の最大の要路で、武田氏と後北条氏との戦いにおいても部隊移動の道ともなっていました。

江戸時代に入り、徳川幕府は政治支配力を強めるために道路制度の改革と整備に乗り出したのは前述のとおりで、五街道やその支線とも言える脇街道が整備されていきました。甲州街道もそうした五街道の1つで、江戸の日本橋から中山道と合流する諏訪湖湖畔にある下諏訪宿まで、八王子、武相国境(東京都と神奈川県の都県境)である小仏峠(標高548メートル)、すぐに甲相国境(山梨県と神奈川県の県境)を越えて相模川の支流である桂川を遡るように上野原、大月と郡内地方を通り抜け、笹子峠(標高1,096メートル)を越えて甲府盆地に入るルートをとりました。また、内藤新宿で甲州街道から分かれ、現在の東京都青梅市、西多摩郡奥多摩町から武甲国境を越えて甲斐国(山梨県)に入り山梨県北都留郡小菅村で古甲州道と合流し、大菩薩峠を経由して酒折で甲州街道と再び合流する脇街道である青梅街道が慶長11(1606)に開設されると、古甲州道は一気に利用されなくなりました。古甲州道や青梅街道が越える大菩薩峠は道幅も狭く通行も困難な街道最大の難所で、遭難者も多く出していたようなのですが、武蔵国府中と甲斐国府中の間の距離が甲州街道より2(8km)ほど短く、かつ途中に面倒な関所が設置されていなかったこともあり、江戸時代には甲州街道よりも青梅街道を利用する人のほうが多かったとも言われています。江戸(東京)から甲府に行くには、甲州街道を経由する場合、小仏峠と笹子峠の2つの峠を越えなければならないのですが、青梅街道経由ならば大菩薩峠だけを越えればよく、峠の標高は甲州街道経由の2つの峠のほうが低いのですが、越える回数を考慮して青梅街道経由のほうが好まれたようです。この青梅街道も明治時代以降、自動車が通行できるようにするためルート変更が繰り返されました。大菩薩峠も車道を通すのが困難だったため、明治11(1878)に現在の柳沢峠(標高1,472メートル)経由の道路が開削され、青梅街道(現在の国道411号線)はルートが大菩薩峠経由から柳沢峠経由に変更されました。この過程で古甲州道も各所で分断され、現在では正確に辿ることが困難な道になっています。

 

地図はクリックすると拡大されます

 

 【古富士道】

また古甲州道(青梅街道)の山梨県北都留郡小菅村白沢から「古富士道」が分岐しています。この古富士道は現在の国道139号線にあたります。国道139号線は現在の青梅街道である国道411号線から奥多摩湖の西側のほとりで分岐し、松姫峠で分水嶺を越え、今度は葛野川(桂川の支流)に沿って大月市の市街地の東側に入ります。そこで甲州街道(現在の国道20号線)と合流し(それまで横を流れていた葛野川もここで桂川と合流します)、大月市街中心部を抜けて市街地の西側で甲州街道から分かれ、今度は桂川を遡るように都留市、富士吉田市、南都留郡河口湖町、西八代郡上九一色村と山梨県(甲斐国)の郡内地方を縦断して静岡県(駿河国)に入り、富士宮市、そして富士市に至ります。この道は霊峰富士山を崇拝する人達による「富士講」の道として昔から盛んに使われました。世界遺産に登録されている北口本宮冨士浅間神社はこの道の途中の富士吉田市にあり、青梅街道や甲州街道を通って江戸方面からやってきた大勢の参拝客は、この古富士道を通って北口本宮冨士浅間神社を目指しました。そして、この古富士道(国道139号線)が大月市の市街地の東側で甲州街道(国道20号線)と合流する地点にあるのが、武田勝頼が向かったとされる岩殿山城です。


甲州街道の大月橋東詰が富士道との追分(分岐点)となっています。ここを左折していく道が富士道です。

この追分には文久2(1862)建立の道標「右甲州道中 左ふじミち」、並びには名号碑道標、津島牛頭天王社、馬頭観音、文政13(1830)建立の常夜燈などが建っています。

実はここが天目山の戦いの謎を解く上での最大のポイントです。韮崎の新府城から郡内地方にある岩殿山城を目指す場合、笹子峠を越えるルートしかないと思うのは江戸時代になって甲州街道が整備された以降の感覚であって、天目山の戦いが行われた当時は大菩薩峠を越える古甲州道+古富士道ルートが一般的でした。甲州街道開通以前の甲斐国と武蔵国を結ぶ幹線道路だった古甲州道(青梅街道、萩原口)、特にその古甲州道の最大の難所といわれた大菩薩峠。今回、武田勝頼は通説で言われているとおり天目山で自害などしていなくて、四国の土佐国に落ち延びていたとする私の仮説を実証するうえにおいて、大菩薩峠は極めて重要な場所で、一度は訪れ、自分の足で歩いてみようと思っていました。そこで、中学高校時代からの親しい友人であるY君を誘って、取材がてら大菩薩峠越えに行ってきました。実際に訪れてみて分かったことは、大菩薩峠は1,897メートルとやたらと標高が高いものの、大菩薩嶺(標高2,057メートル)の長大な尾根を進むので、峠道としてはなだらかな坂道が延々と続く初心者向けのハイキングコースといった感じで、アップダウンの激しい笹子峠と比べるとはるかに歩きやすそうです。実際、後述しますが、武田信玄の五女(武田勝頼の異母妹)である松姫は、甲斐武田氏滅亡の時、古甲州道を使って甲斐国から武蔵国の八王子への脱出に成功しています。

ちなみに、大菩薩峠の「大菩薩」の由来に関しては幾つかの説があるようです。『甲斐国志』によると、後三年の役において、長兄の源義家(八幡太郎義家)を援けるために奥州陸奥国に向かった源義光(新羅三郎義光)がこの峠を越えようとした際に道に迷って危機に陥っていたところ、どこからともなく1人の木樵(きこり)が現われてこの峠まで導き、そしてどこかに消え去ったといわれ、その時、源義光が「八幡大菩薩」と唱えて神の加護に感謝したことに由来するとされています。なお、この源義光は甲斐源氏武田氏の始祖となった人物です。また、大菩薩峠と言えば、1913年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる中里介山作の未完の長編時代小説『大菩薩峠』で広く知名度があります。その中里介山にちなんで、大菩薩峠にある山荘の名称は『介山荘』になっています。

 

上日川峠(標高1,585メートル)から大菩薩峠を目指します。この道は旧青梅街道(萩原口)でした。甲州街道の笹子峠越えに比べ、標高は高いものの、はるかに歩きやすい峠道です。

古甲州道(旧青梅街道・萩原口)の大菩薩峠(標高1,897メートル)です。大菩薩峠は日本百名山の1つ大菩薩嶺(標高2,057メートル)の南方約2kmに位置する尾根の鞍部であり、その大菩薩嶺の山頂に向けてなだらかな稜線道が続いています。

標高2,057メートルの大菩薩嶺の山頂です。山頂を示す標識が2本経っていますが、木々に覆われて周囲の見晴らしは良くなく、ただの通過点で、ここから下っていきます。

 

この大菩薩峠越えの古甲州道のほかにも御坂峠(標高1,520メートル)を越える鎌倉街道や鳥坂峠(標高1,000メートル)を越える若彦路もあって、国中地方から郡内地方の岩殿山城を目指す道としての選択肢は幾つかあったように思えます。もちろん笹子峠を越える道もあったとは思いますが、前述の小仏峠と同様、当時の笹子峠を通る道は街道としての整備はまったくなされておらず、知る人ぞ知る程度の山中の細い間道に過ぎなかったと思われます。私も甲州街道歩きで笹子峠を越えましたが、五街道という今から150年前まで日本の幹線道路だったとはとても思えない深い山中を行く細い峠道でした。人一人が進むのがやっとの細い道が続き、アップダウンが繰り返されたり、幾つもの沢を渡ったり、急勾配の坂をよじ登ったり…と、とても大名の参勤交代でも使われたかつての幹線道路とは思えない峠道でした。江戸時代に入って五街道の1つである甲州街道として整備された後でもこういう状況なので、それ以前はまさに山中の知る人ぞ知る間道だったのではないでしょうか。

甲州街道・笹子峠の峠道の途中に「矢立の杉」と呼ばれる樹齢1,000年を越すと推定される巨大な杉の古木があります。山梨県の天然記念物に指定されているやたらと目立つ杉の巨木ですが、『甲斐叢記』によると、その昔、甲斐武田氏をはじめ合戦に出陣する武士達が戦勝を祈願してこの杉に矢を射立てて、山の神(富士浅間神社)に手向けたと伝えられていることから「矢立の杉」と呼ばれているのだそうで、もしそうならこの山中の間道が甲斐武田氏の軍用道路として密かに使われていたのかもしれません。


「矢立の杉」です。その昔、甲斐武田氏をはじめ合戦に出陣する武士達が戦勝を祈願して矢を射立てて、山の神(富士浅間神社)に手向けたと伝えられている杉の巨木です。

 

【天目山という山は存在しない】

笹子峠への道が小山田信茂によって閉ざされて退路を失った武田勝頼一行が天目山を死地と定めたというのにも、私は疑問に思っています。天目山を目指したというと、人里離れた行き止まりにある深い山のように思われがちですが、実際には天目山という山は存在しません。あるのは天目山棲雲寺(甲州市大和町木賊)という臨済宗の寺院があるだけです。なので、天目山はその棲雲寺の山号のことで、武田勝頼一行は棲雲寺を目指したということなのです。前述のように、この棲雲寺のある田野は室町時代の応永24(1417)に当時の武田家の第10代当主・武田信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害をした場所で、棲雲寺はその武田信満の墓がある甲斐武田氏所縁の寺院です。その甲斐武田氏の所縁の寺院を甲斐武田氏終焉の地とするというのは物語としては面白いのですが、現実問題としては大いに疑問が残るところです。


田野に向かう山梨県道218号大菩薩初鹿野線から笹子峠の方向を見たところです。国道20号線の新笹子トンネルがかすかに見えています。


実は笹子峠の登山口がある駒飼宿からほど近い甲州市大和町初鹿野の景徳院入口交差点から甲州市塩山上萩原の大菩薩嶺交差点まで笛吹川の支流である日川に沿って山梨県道218号大菩薩初鹿野線が伸びていて、天目山棲雲寺はその途中にあります。現在県道になっているということは当時もなんらかの道があったと想像され、終点である塩山上萩原の大菩薩嶺交差点は大菩薩峠の手前にある古甲州道との合流点にあたります。おそらく上杉禅秀の乱に加担して敗走した武田信満は笹子峠ではなく大菩薩峠を越えて郡内地方から国中地方まで戻ってきて、この山梨県道218号大菩薩初鹿野線のルートを使って甲府を目指しているうちに追手の上杉勢に追いつかれ、自害したと思われます。すなわち、逃げるのであれば、天目山棲雲寺手前の田野の地でわざわざ柵まで構築して大軍で迫ってくる織田軍を待ち受けるのではなく、さっさと大菩薩峠を越えて岩殿山城に逃げ込めばいいわけです。また、笹子峠の登り口で小山田信茂の迎えを何日も待ったというのにも、私は疑問に思っています。この笹子峠の入り口にある甲州街道の駒飼宿からでも大菩薩峠を迂回することで、その日のうちに大月の岩殿山城に辿り着くことができます。


田野の景徳院から天目山の方向を眺めたところです。ここから天目山棲雲寺までは日川に沿って緩い登り坂をただひたすら登っていきます。


甲州街道歩きの途中、駒飼宿のところで、天目山の戦いのあらましについて先達のウォーキングリーダーさんから説明を受けたのですが、その話を聞きながら「追われて先を急がないといけない人間が、ここで悠長に何日も迎えを待つかぁ〜?」って、なんとも言えない違和感を覚えていました。その前に古甲州道や古富士道の存在や甲州街道の歴史をある程度知って、地図も見ていましたから(誤解のないように言っておきますが、これはウォーキングリーダーさんを責めているのではありません。彼は『甲陽軍鑑』に書かれている通説に基づいて説明なさったわけですから)。また、小山田信茂は何故こんな峠への登り口を封鎖するといういささか芝居がかった面倒くさいことをやるよりも、逃げ場のまったくない笹子峠への峠道に誘い込んで、そこで謀反を起こし、武田勝頼を討ち取るなり自害に追い込むなりしなかったのか?…とも思っていました。越前国(福井県)の朝倉義景を最後の最後に裏切って自害に追い込んだ朝倉景鏡(かげあきら)のように。同じ裏切るにしても、そちらのほうがはるかに簡単で確実です。ちなみに、甲斐武田氏にとって反織田信長連合の同盟者であった越前国の朝倉義景。その朝倉義景は武田信玄が三方ヶ原の陣中で病死したことを受け、天正元年(1573)8月、約3万人の織田信長勢の侵略を受けます(一乗谷城の戦い)。次々と城が落とされる敗戦が続き、本拠・一乗谷城に戻った時に残っていた主要な家臣は従弟の朝倉景鏡ただ1人。朝倉景鏡は朝倉義景に一乗谷城からの撤退と自領である大野郡における再起を進言しました。そして朝倉景鏡は撤退してきた朝倉義景一行に宿舎(賢松寺)を提供したうえで、この賢松寺を軍勢により包囲し、朝倉義景を自害に追い込み、その妻子を捕縛しました。その後、朝倉景鏡は朝倉義景の首級と、捕縛した母親・妻子・近習を織田信長に差し出し、降伏を許されたうえ、本領を安堵されています。小山田信茂もおそらくこの朝倉氏滅亡のあらましを風の便りとして知っていたと思います。私は実際に笹子峠を歩いてみてこのような違和感を覚えていたので、高知県の仁淀川町で武田勝頼が天目山で自害せずに土佐国に落ち延びたという伝承があるという情報を目にした時、ピンッ!と鋭く好奇心のアンテナが反応したようなところがあります。

ちなみに、古甲州道の途中、甲府側から向かうと大菩薩峠の手前、すなわち山梨県道218号大菩薩初鹿野線の終点である甲州市塩山上荻原に裂石山雲峰寺(さけいしざん うんぽうじ)という臨済宗の寺院があります。『甲斐国志』によると、この雲峰寺は甲府の鬼門に位置するため、代々甲斐武田氏の祈願所となっていたといわれています。この雲峰寺には天正10(1582)に武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで自害した時、部下に命じて密かに山伝いに運んだとされる甲斐武田氏の家宝である日本最古の 「日の丸の御旗」や「孫子の旗(俗に風林火山の旗と呼ばれる旗)」、「諏訪神号旗」、「馬標旗」といった武田軍旗が現在も6旒残されていて、山梨県の文化財に指定されています(宝物殿で見ることができます)。この甲斐武田氏の家宝だとされる武田軍旗を運んだ部下は、おそらく現在の山梨県道218号大菩薩初鹿野線を使って雲峰寺まで運んでいったのだと推察されます。

 

雲峰寺です。戦国期に甲府が甲斐武田氏の本拠となったのですが、雲峰寺は甲府の鬼門に位置するため、『甲斐国志』によれば武田氏の祈願所となっていたといわれています。

武田勝頼が一族とともに天目山の戦いで滅亡した時、武田家の家宝である 「日の丸の御旗」「孫子の旗」「諏訪神号旗」「馬標旗」などを山伝いに運んだとされ、現在も6旒が寺宝として保存され(山梨県指定文化財)、宝物殿で見ることができます。現在、宝物殿は新型コロナウイルスの感染拡大の影響で休館中で、残念ながら武田家家宝の旗の実物を見ることはできませんでした。

雲峰寺では室町時代後期から江戸時代前期に建立された本堂、庫裡、書院、仁王門が国の重要文化財に指定されています。


【笹子峠への道は封鎖されていなかった】

以上のようなことから、私はズバリ、笹子峠の入り口は小山田信茂によって封鎖なんぞはされていなかった…という説を唱えたいと思います。だって、大菩薩峠を迂回して岩殿山城に向かうルートがあって、所要時間もほとんど変わらず、当時はそちらのルートのほうがメジャーだったわけですから。笹子峠への入り口を封鎖する意味を、私はまったく感じません。

だとすると、真実はどうだったのか?…ですが、武田勝頼一行は駒飼宿で待たされることもなく、小山田信茂の家臣の案内でさっさと笹子峠を越えて郡内地方に入ったと私は推察しています。その途中で小山田信茂が用意した影武者の一団と衣服などを取り替えたのではないか…と思っています。その武田勝頼一行になりすました影武者の一団が笹子峠から駒飼に下ったとの推測です。これは「一次史料」である武田信玄の従妹で武田勝頼の乳母も務めていたとされる理慶尼が書き残した『理慶尼記』の記述と符合するところがあります。『理慶尼記』によると、小山田信茂が郡内への入り口を封鎖した地を“笹子峠”としています。これは笹子峠そのものではなく、笹子峠を越える道のどこかという意味でしょう。その“笹子峠”までやって来ていた武田勝頼一行はここで駒飼まで引き返し、天目山に向かったと記されています。もちろん、笹子峠から戻ってきた武田勝頼一行は、なり代わった影武者の一行。理慶尼は戻ってきた彼等と直接会ったわけではなく、おそらく人づての噂で戻ってきたことを知ったので、笹子峠が小山田信茂によって封鎖されたという理慶尼なりの推測も含めて、こういう表現になったのではないか…と思っています。ちなみに、笹子峠の登り口である駒飼と理慶尼が暮らしていた勝沼の大善寺との間はさほど離れてはおらず(国道20号線が整備された今だと、歩いても1時間ほどの距離です)、天目山棲雲寺よりはるかに近い距離です (天目山棲雲寺までは、歩くと2時間半以上かかり、すべて登り坂の道です)。笹子峠から引き返してきた武田勝頼一行が理慶尼と会わなかったのには、ある別の“会ってはいけない理由”が間違いなくあったと思われます。それは影武者にすり替わったことを気づかれないようにすることではなかったか…と私は推察します。

それでは、笹子峠を越えて郡内地方に入った武田勝頼一行はどこへ行ったか? もちろん当初落ち延びる先とされた岩殿山城には入っていません。私の推察では、大月の手前で右折し、古富士道に入り、古富士道を南下して取り敢えず都留へ向かったのではないか…と思っています。これが笹子峠を使った理由ではないかと思います。大菩薩峠を越える古甲州道+古富士道ルートは当時でも利用者が多く、また岩殿山城の直近を通ることになるので、いくら変装をしていたとしても100人近くいたであろう集団だと、それが武田勝頼の一行だとすぐにバレてしまいます。岩殿山城には武田勝頼が入城してくるのに備えて、武田家の家臣達が大勢集結していたでしょうから。「敵を欺く前に、まず味方から」…ということで、岩殿山城に行くと見せかけて、岩殿山城のギリギリ手前で古富士道に入り都留方向に行く。それには笹子峠を越える道を選ぶのは得策です。前述のように、古富士道(国道139号線)は葛野川(桂川の支流)に沿って大月市の市街地の東側、すなわち岩殿山城のあるところに入り、そこで甲州街道(現在の国道20号線)と合流し、大月市街中心部を抜けて市街地の西側で甲州街道から分かれ、今度は桂川を遡るように都留、富士吉田の方向に向かいます。岩殿山城と都留への古富士道の分岐点との間は約2kmほど離れています。おそらく念のためもう少し手前から都留方向に曲がったと思いますが、いずれにせよ、岩殿山城に籠るために慌ただしく準備をしていたであろう味方にも見つからないように古富士道に入ったのではないかと思います。


地図はクリックすると拡大されます

 

織田信長の一代記である『信長公記』は二次史料ですが、現代の歴史学者の間では信頼性が高いとされているということは(その2)で書かせていただきました。その『信長公記』には、武田勝頼は小山田信茂の館まで辿り着いたのだが、小山田信茂は武田勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記されているとのことです。この小山田信茂の館がどこにあったかと言うと、現在の都留市。小山田信茂の居城は岩殿山城と思われがちですが、岩殿山城は単なる小山田信茂の持ち城の1つに過ぎず、本拠とした居城は都留市にある谷村城(山梨県都留市上谷)でした。『信長公記』を文字通りに読むと、武田勝頼一行は都留の谷村城まで辿り着いたのですが、小山田信茂は城内にいる味方に気づかれるのを恐れて、城内に入れることまでは許さなかった…というふうに読み取れます。

郡内地方に入ったならば、そこはもう郡内地方を治める小山田信茂の庭のようなものです。現在でも大月〜富士吉田間は富士急行線という鉄道路線があるくらいで、相模川の支流である桂川に沿って富士吉田までは特に難所もなく安全に進むことができたのではないかと思われます。富士吉田で御坂路(鎌倉街道:現在の国道138号線)に入ると甲駿国境(山梨県と静岡県の県境)を越えて侵出してきている後北条氏の兵士の姿が目立つようになったと思いますが、山中湖付近にある甲駿国境付近までは武田勝頼一行をなんとか無事に送り届けることができたのではないかと私は推察しています。笹子峠の登り口である駒飼宿から甲駿国境までは約70km。そこまで2日間か、せいぜい3日間の行程だったのではないかと思います。

このように『甲陽軍鑑』に記載されている(すなわち、定説になっている)天目山の戦いには理解に苦しむことが多く、笹子峠越えを選んだ理由としては上記の私の推論のように何らかの意図が隠されているとしか私には思えてなりません。その謎を解く最重要人物が、笹子峠への道を封鎖したとされ、現代では武田勝頼を最後の最後に裏切った「大謀反人」、「不忠者」のように言われている小山田信茂ですね。

 

……(その6)に続きます。(その6)は第91回として掲載します。

 

武田勝頼は落ち延びていた!?(その6)

  公開日 2022/04/07   [晴れ時々ちょっと横道] 第91回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その6)     【小山田信茂】 小山田信茂の名は、戦国時代好きの歴史ファンであれば一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。小山田信茂は戦国時代最強と...