このあたりが三宅坂です。三宅坂は半蔵門外から桜田門外の警視庁付近まで、江戸城(皇居)内濠に沿って続く緩やかな坂道で、江戸時代以来、堀端の景勝地として知られています。前述のように、半蔵門交差点の海抜はおよそ30メートルで、桜田門交差点の海抜およそ8メートル。その間の約1.2kmの区間はおおむね下りの傾斜が続きます。三宅坂交差点は、国道246号(通称:青山通り)の起点となっています。また、三宅坂交差点付近の地下は首都高速道路の三宅坂ジャンクションになっています。
三宅坂という坂の名前は、江戸時代、この坂の途中の(現在の)国立劇場付近に譜代大名である三河国田原(たばる)藩1万2千石 三宅家の上屋敷があったことに由来します。当時はこの坂に沿って、田原藩三宅家のほかにもこの先の憲政記念館・国会前庭付近に同じく譜代大名の近江国彦根藩
井伊家の広大な敷地の上屋敷もありました。
戦後、参謀本部跡地(井伊家屋敷跡)は国会用地に転用され、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分の一角には国有地を借地して社会文化会館(日本社会党本部)が建設されました。このため、「三宅坂」は日本社会党、そして現在の社会民主党(社民党)を指す言葉として使われるようにもなりました(現在、社民党本部は永田町に移転し、社会文化会館は2013年4月解体されています)。一方、三宅家屋敷跡は米軍に接収されて連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の将校が住むパレス・ハイツになり、土地が返還された後の昭和40年(1965年)からは国立劇場と最高裁判所が相次いで建設されました。
桜田濠の斜面の水際近くに柳の木が1本立っていて、そのそばに井戸があります。「柳の井」で、かつては名水として有名だったとのことです。
緩やかに左にカーブする内濠(桜田濠)の先に警視庁の建物と桜田門(外桜田御門)が見えます。電電公社の社内駅伝大会のランナーをやっていたということを前回書きましたが、桜田門を入った先に中継ポイントがありました。なので、この風景を見た時、どんなに勇気づけられたか分かりません。もうちょっとだってね。その記憶を差し置いても、ここから見える風景はいつ見ても素晴らしいと思います。
国土交通省の建物が見えます。ここはかつては安芸国広島藩42万6千石の浅野家の上屋敷があったところです。姿は見えませんが、その国土交通省の向こう側には外務省の建物があります。ここはかつては筑前国福岡藩52万石の黒田家の上屋敷が置かれていたところです。浅野家、黒田家という2つの有力外様大名の上屋敷がここに並んでいました。
ここでちょっと寄り道です。国会議事堂前の交差点を渡ったところの地名は「千代田区永田町1丁目1番地」。まさに日本の中心ですね。ここは日本国の水準原点が置かれているところで、ちょっとした公園(国会前庭)になっています。
ここにあるのが江戸の名水「櫻の井」です。ここから憲政記念館にかけての一帯には、前述のように、近江国彦根藩35万石・井伊家の上屋敷が置かれていました。その井伊家上屋敷の表門外西側にあったのがこの「櫻の井」で、名水として知られ、江戸の人々に親しまれたということです。この井伊家上屋敷跡はそれ以前は加藤清正邸跡で、この「櫻の井」は加藤清正が命じて掘られたものだと伝えられています。長方形をしていて、水を汲む釣瓶(つるべ)が3つ並ぶ「三連釣瓶」でした。それだけ豊富に水が湧き出たってことです。現在の井戸は昭和43年(1968年)、道路拡張のため国会前の交差点内から原形のまま約10メートル離れた現在の地に移設復元されたもので、残念ながら水は出ません。
今回もガイドを務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示してくれている安藤広重が描いた「桜田外の図」には、この井伊家の門が赤く塗られています。これは徳川将軍家のお姫様が嫁いだという印です。そのお姫様が存命中は門を赤く塗るのが決まりでした。本郷にある東京大学は元加賀国金沢藩100万石 前田家の上屋敷跡ですが、東京大学本郷キャンパスの代名詞のようになっている「赤門」も同様です。徳川将軍家から前田家に嫁いだ姫様が明治維新時も存命だったので門が赤く塗られたまま残り、焼失した時は再建されない決まりになっていたのですが、東大の赤門だけは第二次世界大戦の時の空襲やたび重なる天災をも奇跡的に逃れたので、現存する唯一の赤門となっているわけです。
ここの下、内堀通り沿いの歩道(歩いてきた濠側とは反対側の歩道)の脇に「井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)」の碑が建っています。ここは前述のように近江国彦根藩35万石・井伊家の上屋敷が置かれていたところです。近江彦根藩井伊家の初代藩主は井伊直政。昨年(2017年)のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』で菅田将暉さんがこの井伊直政を演じました。慶長5年(1600年)、上野高崎城主で12万石を領していた徳川四天王の1人・井伊直政が関ヶ原の戦いの戦功により18万石に加増され、石田三成の居城であった佐和山城に入封して佐和山藩を立藩したのが近江彦根藩のそもそもの起こりです。直政は2年後の慶長7年(1602年)に関ヶ原の合戦で受けた戦傷が元で死去したのですが、嫡男の直継(直勝)が相続すると現在彦根城が存在する彦根山に新城の建設が開始され、慶長11年(1606年)完成し、彦根城に入城しました。これにより佐和山藩から近江彦根藩に名称が変更になりました。
その後、江戸時代の彦根藩家は直澄、直該、直幸、直亮、直弼と5代6度の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となります。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかったことが特徴として挙げられます。
江戸時代後期、第15代藩主・井伊直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である「安政の大獄」を行いました。それがもとで、万延元年(1860年)3月3日、大雪の朝、この上屋敷から60名ほどの供を従えて登城する途上、外桜田御門を目前にして水戸の藩士らに襲撃され、暗殺されました。有名な「桜田門外の変」ですね。ここから桜田門の方向を見ると、警視庁の建物が見えます。ほんの短い距離です。刺客が待ち受けている中を桜田門に向けてしずしずと雪を踏みしめながら登城する井伊直弼の一行がイメージできそうです。
ちなみに、井伊家の江戸の屋敷はほとんどが加藤清正の屋敷を引き継いだものになっています。この上屋敷もそうですが、以前訪れた赤坂のホテルニューオータニも加藤清正の中屋敷だったところを引き継いで、井伊家の中屋敷としたものです。また、現在の明治神宮は元井伊家の下屋敷だったところですが、ここも以前は加藤清正家の下屋敷だったところです。この明治神宮にも加藤家下屋敷の頃に掘ったとされる井戸「清正井」が現存し、井伊家に引き継がれた後も使われた澄んだ湧き水を湛え続けています。このように井伊家、いや加藤清正が住んでいたところはどこも澄んだ名水が湧き出るところばかりで、加藤清正が優れた土木技術者だったってことが窺い知れます。
加藤清正と言えば、虎退治の勇猛な逸話ばかりが有名ですが、実は土木エンジニアとしても優れた人物だったようです。そう言えば、加藤清正が治めた九州の熊本も豊富な水が湧き出るところで、用水路が高度に整備されているところで知られています。ちなみに加藤家は第2代藩主・加藤忠広の時に江戸幕府への謀反の疑いをかけられて改易させられています。その広大な江戸での屋敷をまるまる引き継いだわけで、井伊家が江戸幕府にとって筆頭の家柄であったことがこういうところからも窺えます。
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