2019年6月2日日曜日

甲州街道歩き【第13回:石和→韮崎】(その4)

山梨県の県庁所在地・甲府市の中心部に入っていきます。
相生歩道橋交差点を横断歩道で渡ります。歩道橋に上がり、北を眺めたところです。ここが山梨県の県庁所在地 甲府市のメイン通りで、真っ直ぐ進むと、日銀、裁判所、市役所、県庁などを経てJR甲府駅があり、その右手前に旧甲府城、現在の舞鶴城公園があります。武田信玄も住んでいた甲斐国守護武田氏の居館「躑躅ヶ崎(つつじがさき)館」は、JR中央本線を渡った先にあります。旧甲州街道は残念ながらそこをかすめて延びているので、立ち寄れませんでした。
ここからは国道52号線、通称「美術館通り」に沿って進みます。

ここが甲州街道と身延道(駿州往還)の追分(分岐点)で、「西 しんしうみち 南 みのぶみち」と刻まれた道標が立っています。身延道(駿州往還)は「河内路」とも呼ばれ、武田信玄によって整備された9本の軍事用道路「甲斐九筋」の1つで、中道往還(右左口路)、若彦路とともに甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道の1つでした。甲斐九筋では峡南地方の別名である「河内領」を通ることから「河内路(かわうちじ)」が専ら用いられていましたが、途中に日蓮宗総本山 身延山久遠寺があり、街道の一部区間は参拝客が多く往来したことから「身延路(みのぶみち)」とも呼ばれていました。身延路(みのぶみち)は身延を経て、東海道五十三次の蒲原宿と吉原宿の間にあり富士川の川越えを控えた間宿(あいのしゅく)「岩淵宿」へ出ます。往時の道標は第二次世界大戦時の戦災で失われ、現在の道標は昭和50(1975)に復元されたものです。
臨済宗の寺院 法輪寺です。その法輪寺の入り口に「かんかん地蔵」が祀られた祠があります。
「かんかん地蔵」の側に立っている案内板の説明によると、「この石地蔵は法輪寺の開基・武田有義の墓」なのだそうです。そして、「武田有義は新羅三郎善光の4代孫で甲斐源氏(武田氏)の第6代棟梁である。平家全盛時代には平重盛に仕え、兵衛尉として活躍した。のち、源頼朝が平家追悼に決起したとき、共に挙兵した甲斐源氏軍の総大将として平家追悼に大功を立てた」と書かれています。元々は「将軍地蔵」と呼ばれていたのですが、いつの頃からか「かんかん地蔵」と呼ばれるようになったのだとか。この「かんかん地蔵」という名称は石で叩くととてもよく響くことから由来し、人から人へと伝わり広まっていったのだそうです。第二次世界大戦前まで行われていた有義公の命日のお祭りを、平成15年から復活させたとのことです。ちなみに京都の嵯峨にある法輪寺から武田有義が平家滅亡後に本尊を甲斐に移したことから、法輪寺の名前がつけられたという説明も書かれています。
荒川を荒川橋で渡ります。荒川は山梨県の主に甲府市を流れる富士川水系の一級河川(支流)です。甲府市北部の国師岳を源流とし、ほぼ南側へ流れています。上流側は昇仙峡を中心とした景勝地のほか、金櫻神社などの神社や寺院が点在しています。甲府盆地内に入ると南西側へ向きを変え一時的に甲斐市を流れますが、すぐに南東側へ向きを変え甲府市と甲斐市の市境を辿る形で流れます。山梨県道6号甲府韮崎線(通称:穂坂路)と交差したところで甲斐市と別れ、この荒川橋の手前で相川と合流します。その後は南下して新平和通り・新々平和通りと並行する形で流れ、中央自動車道および新山梨環状道路を超えたあたりで笛吹川と合流します。文化11(1814)に編纂された甲斐国の総合地誌である『甲斐国志』には、「荒川」の川名の由来について「荒ノ言ハ暴ナリ 其ノ水暴流スルヨリ起リシ名ナルベシ」と記されています。そのいっぽうで、平安時代の和歌には甲斐国の歌枕として「忘川」を詠んだ歌があり、この忘川が荒川のことではないかという説があります。宝永3(1706)に書かれた荻生徂徠の『峡中紀行』では「忘川」は「荒川」を指すとし、「忘」は「荒」の草書が似ている点を指摘しています。さぁ〜どうでしょう。
荒川を渡ると、すぐに貢川橋で貢川(くがわ)を渡ります。その貢川橋を渡ったところに、かつては高札場がありました。
高札場跡のところで国道52号線から分かれ、貢川沿いの細い道をしばらく進みます。
秋葉神社が祀られています。秋葉神社に祀られている祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現。なので、ここもそうですが、旧街道沿いの古くからある集落には、必ずと言っていいほど、秋葉神社が祀られています。
「上石田のサイカチ」と呼ばれるサイカチの大木です。サイカチは日本の固有種で、本州、四国、九州の山野や川原に自生する樹木です。漢字では「皁莢」、あるいは「梍」と表記します。サイカチは湿った地に生える木で、昔この地は貢川河川近くでサイカチがよく繁っていたそうで、自然の一部を残すため地元の人たちの手で残されたものなのだそうです。説明文によると、この上石田のサイカチの木は樹齢約300年とのこと。大小2本が揃って生えていることから、地元の人々は「夫婦サイカチ」と呼んで親しんでいるのだそうですが、残念ながら両樹とも雌木なのだそうです。
国道52号線を進みます。道路標識に「韮崎 12km」と書かれています。今回【第13回】のゴール韮崎宿まであと残り3(12km)です。
この日のゴールは山梨県立美術館前の駐車場でした。山梨県立美術館の閉館時間は17時。入館は16時半まで可能ということで、最後は少し速足で歩きました。おかげで1610分に到着。山梨県立美術館を訪れることができました。
その山梨県立美術館と言えば、常設展示されているジャン=フランソワ・ミレーの絵画です。《種を蒔く人》や《落ち穂拾い、夏》。絵画に疎い私でも知っている名画です。本物はやはり迫力が違います。自然とともに生きる農民たちの姿が活き活きと描かれています。また、ミレーと同じくパリの郊外、フォンテーヌブローの森に隣接するバルビゾン村にはジャン=バティスト=カミーユ・コローやピエール=エティエンヌ=テオドール・ルソーに代表される「バルビゾン派」と呼ばれる画家が数多く住み、活躍していて、彼らの作品もこの山梨県立美術館には常設展示されています。素晴らしい!! やるなぁ〜、山梨県立美術館!!
山梨県立美術館に隣接して山梨県立文学館があり、現在、開館30周年記念特設展として「太宰治 生誕110年」が開催されているようです。「走れメロス」、「人間失格」など、歿後70年を過ぎても多くの作品が読み継がれている昭和を代表する小説家・太宰治。太宰治と言えば、青森県津軽生まれのイメージが強いのですが、山梨県とも所縁の深い作家なのだそうです。昭和13(1938)9月、井伏鱒二の勧めで山梨県南都留郡河口村(現在の富士河口湖町)御坂峠の天下茶屋に滞在。滞在中に甲府市水門町(現・朝日1丁目)の石原家で石原美知子と見合いをし、婚約。11月、甲府市竪町(現・朝日5丁目)の寿館に移り、翌年1月から8月末まで甲府市御崎町(現・朝日5丁目)で新婚生活を送り、9月に三鷹に転居後もしばしば甲府に滞在したのだそうです。昭和20(1945)4月、水門町の妻の実家に疎開。7月、甲府空襲により石原家が全焼し、甲府市新柳町(現・武田3丁目)の大内勇方に仮寓の後、青森県金木の生家に再疎開、終戦を迎えたのだそうです。ふむふむ。この山梨県立文学館のほうは時間が足りず、今回はパスさせていただきました。
この日の夕食は中央自動車道 甲府南インター近くの「幸せの丘ありあんす」内のレストラン「ダイヤモンドテーブル」。宿泊はホテルルートインコート甲府石和でした。写真は「幸せの丘ありあんす」の展望台からの風景です。この展望台からの夜景は2018年度(14)「日本夜景遺産」として認定されましたほどの絶景なのだそうで、是非観てみたかったのですが、日が暮れるのが遅くなってそれはかないませんでした。しかし、夜景でなくても、甲府盆地の広大な景色を一望できます。山梨だけに一面の葡萄畑です。
今日のコースは平坦な甲府盆地を国道に沿って歩くだけで、石和も甲府も都市化が進み、往時の面影はほとんど残ってなくて、見どころはイマイチでしたが、それでも日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途、立ち寄ったとされる酒折宮や、武田信玄ゆかりの甲斐善光寺などに立ち寄りました。

今日は約15.5km、歩数にして21,105歩、歩きました。2日目の明日は次の韮崎宿まで3里、約12km歩きます。


……(その5)に続きます。

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