2021年9月9日木曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その4)

公開予定日2022/02/03

 

[晴れ時々ちょっと横道]第89回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その4)

 

【武田水軍】

前述のように、武田勝頼とその一行が土佐国に落ち延びたとするならば、その主要な行程は間違いなく“海路”だったと私は推測しています。

甲斐武田氏といえば武田信玄の代名詞とも言える騎馬軍団があまりにも有名なので、その騎馬軍団の陰に隠れてほとんど知られていないのですが、意外なことに武田信玄や武田勝頼期の武田氏は、巨大な安宅船1艘を核とする最大で53艘もの艦艇からなる東海地方随一とも言える常設の海軍艦隊「武田水軍(『甲陽軍鑑』には武田海賊衆の名で登場します)」を保有していました。

水軍や海賊というと村上水軍(海賊:以後、水軍で表現を統一)をはじめ瀬戸内海を中心とした水軍ばかりが注目を集めますが、四方を海に囲まれた日本では津々浦々に水軍がいたと言っても過言ではありません。特に紀伊半島から伊勢湾、遠州灘、駿河湾、伊豆半島、相模湾、東京湾、そして房総半島に連なる東海と呼ばれる海域には多くの水軍が存在していました。面する海が瀬戸内海のような内海ではなく太平洋という外洋なので、航海技術が発達し、長距離を航行できる大型船を数多く保有する水軍も存在していたと言われています。その水軍はふだんは主に物資の運搬を担っていたのですが、自らの領海から得られる権益を守るための武力も保有していました。当初、水軍は小さな浦と呼ばれる入江や主要な港ごとに集団化していたのですが、戦国時代も後期になるとより広範囲な活動をすることを目的に強力な戦国大名の傘下に入ることになります。また、海に面した領国を持つ戦国大名達はそうした領国内の水軍を支配下に直接組み込むことで、常設の水軍力を確保できるため、積極的に主従関係を結ぶようになりました。その代表が駿河国の守護大名であった今川氏と相模国の戦国大名の後北条氏でした。特に今川氏は遠州灘と駿河湾を押さえて強力な水軍力を誇っていました。

いっぽう、“海なし国”であった内陸の甲斐国を拠点としていた武田氏にとって領地に海を持つことは悲願でした。海に面していないため海産物は全て山を越えて運んでくる必要があります。人間が生きていくために必要な塩も海水から生産され、海産物同様に山を越えて運ばれてくるために量も少なく、高価でした。なにより、領国に海を持つ近隣諸国から塩止めをされるとたちまち人々の暮らしが困窮することになり、甲斐国にとって領地に海を持つことは悲願でした。また、海を持つと港ができ、太平洋側ならば上総国や下総国、常陸国といった関東地方諸国と伊勢国経由で西国を結ぶ船が、日本海側ならば出羽国(山形県)や越後国(新潟県)と丹後国(京都府)や山陰地方を結ぶ船が寄港して、全国からの豊富な産物がそこで売買されます。船で運ばれてくるのは人や物資だけではありません。全国の情報も運ばれてきました。例えば、武田勝頼の脱出という今回のテーマにも繋がる織田信長と徳川家康連合軍による甲州征伐ですが、当初、相模国後北条氏の北条氏政へはその甲州征伐の詳細はまったく知らされていなかったとされています。加えて、隣国の駿河国が武田氏の支配下になっていたため陸路での情報が途絶していました。北条氏政が織田信長軍の武田氏領侵攻を確認したのは伊勢国からの船によりもたらされた情報によるものだとされています。それまでも織田信長と武田勝頼の間がなにやらきな臭い状況にあるということはある程度分かってはいて戦さの準備は進めていたようで、この伊勢国からの船によりもたらされた情報によって、この織田信長軍の動きに呼応するように、独自に駿河国の武田領への侵攻を開始しました。このように、甲斐武田氏にとって、領地に海を持つことは、安全保障上の最重要課題でもありました。

武田信玄による領土拡大の目的は、まずは海を持つ領土を持つことでした。とは言え、太平洋側には既に自国領内を統一して戦国大名としての基盤を確立した駿河国の今川氏と相模国の後北条氏がいました。唯一海まで突破できそうなのが信濃国から越後国に抜けるルートでした。信濃国は真田昌幸をはじめ有力国人衆が何人も乱立しており、国内を統一できそうな大名は出てきそうにない状況でしたし、越後国もいちおうは上杉謙信が統一してはいましたが、常に国人衆の叛乱が起きて、磐石と言える状況ではありませんでしたから。そこで武田信玄は今川氏と後北条氏と同盟を結び、信濃国から越後国に勢力を拡大しようと考えました。しかし、上杉謙信率いる越後国軍が予想以上に強くて、信濃国はほぼ手中に収めたものの、越後国に攻め込むまでには至りませんでした。

そうした中、永禄3(1560)、今川氏当主の今川義元が尾張侵攻の途上で桶狭間の戦いにおいて討ち死にすると、後を継いだ義元の子の北条氏真に家臣団をまとめる力がなかったため、今川氏は家臣団の瓦解が始まり勢力が急激に衰退していきました。これを絶好の機会と捉えた武田信玄は大きく方針を変更。永禄11(1568)12月、武田信玄は12千人の軍勢を率いて駿河侵攻を開始しました。この武田信玄の猛攻の前に今川軍はほとんど戦わずして敗れ、武田信玄は今川氏真を遠江国(静岡県西部)に駆逐することに成功したのですが、その今川氏真を保護した相模国の後北条氏からの横槍が入り、その時は駿河国を支配することまではできませんでした。翌永禄12(1569)10月、武田信玄は今川家を助け駿河侵攻を妨害する後北条氏の小田原城を約2万人の兵で攻めました(小田原攻め)。この結果、後北条氏の戦力を駿河方面から小田原方面へ移させる事に成功。こうして、後北条氏を抑えた武田信玄は、11月に駿河国西部に侵攻して横山城や蒲原城などを落とすことに成功し、駿府を占領しました。残りの城も次々と落とし、永禄13(1570)1月には駿河国西部を完全に武田氏の支配下に置きました。さらに、元亀2(1571)に後北条氏が守る深沢城(静岡県御殿場市)を攻撃し攻め落とすと、現在の御殿場市を中心とした駿河国東部の御厨地方も武田氏の支配するところとなり、駿河国全土が武田氏の支配下に置かれました。これにより内陸の甲斐国を拠点としていた武田氏の領地も海(駿河湾)に接するようになり、甲斐武田氏長年の悲願であった海を領地にすることができました。

悲願だった海を領地にすることに成功した武田信玄はそれまで今川氏配下にあった駿河水軍を接収して武田水軍に再編することにすぐに着手しました。まず今川家の水軍を率いていた今川18人衆の一人、岡部忠兵衛貞網を家臣にして、土屋の姓を与え、武田水軍の総大将にしています。その土屋忠兵衛貞綱は後北条氏に属していた伊豆水軍から間宮武兵衛、間宮信高兄弟を引き抜くとともに、元亀2(1571)には九鬼嘉隆に敗れて志摩国や伊勢国を追われた北畠家に属していた伊勢水軍の小浜景隆と向井正重も引き入れ、巨大な安宅船1艘を核とする最大で53艘の艦隊を編成しました。武田水軍は主に隣国・相模国の後北条家に対抗するべく、駿河湾に面した地域にある清水城 (静岡市清水区本町)、江尻城(静岡市清水区江尻町)、持船城(静岡市駿河区用宗城山町)、相良城(静岡県牧之原市) などを拠点に活動し、駿河湾を挟んだ伊豆国にあった長浜城(静岡県沼津市内浦長浜)を拠点の1つとしていた北条水軍と、駿河湾の制海権確保、現代で言うところの“シーレーン確保”のため幾度も海戦を繰り広げたといわれています。

 

武田水軍、特に小浜景隆が拠点とした静岡市清水区にある江尻港の現在の様子です。江尻港(清水港)は富士山を仰ぎ、三保の松原に囲まれた美しい港で、外国船員の人気も高く、長崎、神戸とともに日本三大美港の1つに数えられています。


三保の松原越しに見える富士山です。清水港から駿河湾に突き出した三保半島の東岸に広がる「三保の松原」は、万葉の時代から知られた景勝地で、霊峰富士山を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は素晴らしく、平成25(2013)には、世界文化遺産「富士山信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産の1つとして登録されました。

清水港と駿河湾を挟んで対岸の西伊豆の土肥(どい)港を約70分で結ぶ駿河湾フェリーが入港してきました。土肥は駿河湾の制海権をめぐって武田水軍とたびたび戦闘を繰り広げた北条水(伊豆水軍)の重要な拠点でした。

静岡市清水区にある清水港湾博物館「フェルケール博物館」に展示されている清水港のジオラマ模型です。こういうジオラマで見ると、清水港の地形がよく分かります。海に突き出しているのが三保半島です。


『甲陽軍鑑』には「武田海賊衆」として、武将の名前とその所有する船の数が記載されています。それによると、「武田海賊衆」は以下のような陣容だったようです。

 •土屋貞綱(岡部忠兵衛)(船12艘、同心50騎)旧今川海賊衆

•伊丹康直(船5艘)旧今川海賊衆

•間宮信高(船5艘)旧北条海賊衆

•間宮武兵衛(船10艘)旧北条海賊衆

小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)旧志摩・伊勢海賊衆

•向井正重(船5艘)旧志摩・伊勢海賊衆

艦艇の多くは中型の“関船”や小型の“小早船”ですが、この中で小浜景隆が保有する1艘の安宅船(あたけぶね)が目を引きます。安宅船は大きいもので長さ約30メートル、幅約10メートルにも及ぶ大型船で、千石から二千石の積載量があったとされています。千石船とは文字通り1,000石の米を積めることができる大きさの船という意味です。1,000石の米の重さは約150トンなので、積載能力は150トンということになり、排水量としては約200トンと推定されます。関船や小早船が通常は漁船や物資運搬用の商船として使用されていたのに対し(戦闘時のみ楯板で囲んで武装)、最初から軍艦として建造された船です。近代艦種でいえば、安宅船が戦艦に相当し、関船が巡洋艦、小早船は駆逐艦に相当すると考えればよろしいかと思います。安宅船の動力は帆と艪で、艪の数は少ないもので50挺ほどから多いもので100挺以上もあったとされています。 


フェルケール博物館に展示されている安宅船の大型模型です。安宅船は大きいもので長さ30メートル、幅10メートルにも及ぶ大型の軍船でした。帆に描かれた武田菱が、この船の模型が武田水軍の船であることを物語っています。

こちらは同じくフェルケール博物館に展示されている関船の大型模型です。関船は安宅船よりもひと回り小さい船で、安宅船の船首が角ばって水中抵抗の大きな構造だったのに対して、関船は水の抵抗が少ない尖った船首を持ち高速航行に適した構造をしています。

今治市宮窪町(大島)の村上海賊ミュージアムには、村上海賊が使用していた小型船「小早船」を復元したものが屋外展示されています。小早船は大型の安宅船や中型の関船よりさらに小型の船ですが、村上海賊では火矢や投げ焙烙を主要武器としていたため、小早船はその軽快な機動力を活かし、急接近して敵船に投げ入れるという戦法で重宝したようです。

安宅船の名が最初に史料に現れるのは天文年間(1531年〜1555)のことで、伊予国河野氏配下の村上水軍のものと思われる船の中にその名が出てきます。武田水軍の戦法は大型の安宅船を中心にその周囲を船足が速く機動力のある小型の小早船が囲んで船団を組むというもので、これも村上水軍の戦法と似ています(実際に小浜影隆の軍船は安宅船1艘、小舟15艘と記載されています)。こういうことから、小浜景隆は通説では伊勢水軍の出身とされていますが、元々は伊予水軍の一員で、村上水軍など伊予水軍の戦法や操船技術を新しく組織された武田水軍に伝えた人物なのではないか…という説もあります。もしそうなら、こういうところにも伊予国と甲斐武田氏との繋がりがあったということです。


村上海賊ミュージアムHP(館内案内)…ここに安宅船や関船の写真が掲載されています(館内撮影禁止なので)


そして、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐の際、満身創痍でほとんど瓦解しかけていた甲斐武田軍団の中にあって、唯一ほぼ無傷のままの状態で残っていた部隊が東海地方随一の戦力と言われた武田水軍でした。海上交通が日常当たり前のように行われていた瀬戸内海を見て育ち、水軍が持つ威力を十分に知っていたであろう伊予国出身の河野通重が、この場に及んでその武田水軍を使おうと考えついたのは極々自然のことのように私には思えます。もし、武田勝頼の一行が海路を使って土佐国に落ち延びたのだとすると、この外洋航海も可能な大型船である小浜景隆率いる安宅船が使われたということは十分に考えられます。

 

清水と言えば「海道一の大親分」と言われた“清水の次郎長”ですね。二代目広沢虎造師匠の浪曲「清水次郎長伝」で人気を博しました。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分を率いる任侠の世界の大親分で、幾多の伝説を残しています。こちらは清水の次郎長(本名:山本長五郎)の生家です。でも、今の清水と言えば、次郎長ではなくて、「ちびまる子チャン」とサッカーの強豪「清水エスパルス」でしょうか。


【土屋昌恒】

武田勝頼とその一行が海路土佐国に落延びたとする仮説において、キーマンと考えられる重要な人物がほかにも1人います。それが土屋昌恒です。武田水軍の総大将となった土屋忠兵衛貞綱ですが、『甲陽軍鑑』によると土屋忠兵衛貞綱には実子がなく、武田家譜代家老で武田二十四将の一人・土屋昌続の実弟である土屋昌恒が養子に入ったとされています。そして天正3(1575)の長篠の戦いにおいて実兄の土屋昌続、養父の土屋貞綱がともに戦死したため、土屋昌恒が両方の家督を継承しました。したがって、天目山の戦い当時、武田水軍の総大将は土屋昌恒でした。この土屋昌恒、(その2)でご紹介した天目山の戦いにおいてその名が登場します。それもやたらと華々しく。

『甲乱記』によれば、武田勝頼一行が小山田信茂を頼り郡内へ逃れる最中に小山田信茂の離反を知り、動揺する勝頼側近の跡部勝資に対してこれを強く非難したと言われています。家臣の離反が相次ぐ中、土屋昌恒は最後まで主君・武田勝頼に従い続けて忠義を全うしたとされています。武田勝頼たちは最終的に天目山棲雲寺へ向かったのですが、武田勝頼に付き従った者は、途中の田野村に着く頃には土屋昌恒を含めてわずか数十人にまで減っていたとされています。『甲陽軍鑑』によれば、天目山の戦いにおいて武田勝頼が自害を覚悟した時、土屋昌恒は武田勝頼が自害するまでの時間を稼ぐため、織田勢を相手に奮戦しました。その際、狭い崖道で織田勢を迎え撃つため、片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとりました。この働きにより、武田勝頼は織田方に討ち取られることなく自害したと言われています。さらに、武田勝頼、武田勝頼の嫡男である武田信勝、勝頼の継室の北条夫人(桂林院)が自害した際に介錯を努めたのも土屋昌恒だとされ、自身は最後は華々しく討ち死にしています。享年27歳でした。

武田勝頼とその一族が海路土佐国に落延びたとする仮説においては、土屋昌恒が天目山の戦いにおいて討ち死にしてくれたのでは困るのです。土屋昌恒はこの時はまだ武田水軍の総大将。駿河湾のどこかの港に停泊していたと考えられる小浜景隆をはじめとした武田水軍の船団に対して出航を命じられる唯一の人物が土屋昌恒だったからです。なので、天目山の戦いにおいて華々しく討ち死にした土屋昌恒は実は影武者。本人は文字通り最後まで主君・武田勝頼に従い続けて、土佐国にまで同行したのではないか…と私は推測しています。「片手千人斬り」や武田勝頼、武田信勝、北条夫人の介錯といった天目山の戦いにおける活躍があまりにも華々しいだけに、かえって眉唾のように感じてしまいます。どうしても天目山の戦いで土屋昌恒が死んだことにして、歴史の表舞台から消し去っておきたい…という特別な意図のようなものさえ感じられます。いずれにせよ、土屋昌恒はこの天目山の戦い以降、歴史の表舞台から完全に消えてしまっているわけで、その消え方に関してはさぞや本人も満足しているのではないかと思います。

ちなみに、土屋惣蔵昌恒には天正10(1582)当時、生まれたばかりの嫡男がいたのですが、その子は甲斐武田氏滅亡の際、母(昌恒の正室)に連れられて駿河国清見寺(静岡市清水区興津)に逃亡しました。その後、徳川家康からの召し出しを受けて徳川家の家臣となり、第2代将軍・徳川秀忠の小姓として仕えるようになります。のちに秀忠の「忠」の偏諱を与えられて土屋忠直と名乗り、慶長7(1602)には譜代大名として上総国久留里藩2万石の初代藩主となりました。また、その土屋忠直の次男(すなわち土屋昌恒の孫)である土屋数直(かずなお)は、幼い頃から第3代将軍・徳川家光に近習として仕え、後に譜代大名として常陸土浦藩45千石の初代藩主となり、江戸幕府の若年寄、さらには老中を務めました。老中任期中の寛文11(1671)に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」では、当事者達の召喚、審問を行っています。またその土屋数直の跡を継いだ嫡男の土屋政直(土屋昌恒の曾孫)は第4代将軍・徳川家綱、第5代将軍・徳川綱吉、第6代将軍・徳川家宣、第7代将軍・徳川家継、第8代将軍・徳川吉宗と5代に渡って徳川将軍を傍で支え、最後は老中首座にまで上り詰めました。


【甲斐国の地理】

それではどうやって武田水軍が待つ駿河湾に面した港に行くことができたのか?…ですが、その謎を解くには甲斐国(山梨県)の地理の基礎を最低限理解しておかないといけません。

 

地図はクリックすると拡大されます

 甲斐国(山梨県) の形状は概ね円形で、東西及び南北の長さはともに約90km、総面積は4,465平方kmです。中心部の甲府盆地を除いて平地部は極めて少なく、総面積の約86%を山地が占めています。

北部から東部にかけては甲武信ヶ岳(標高2,475メートル)をはじめとする秩父山地、丹沢山(標高1,567メートル)や箱根山をはじめとする丹沢山地といった関東山地(最高峰は奥秩父山塊の北奥千丈岳で標高2,601メートル)の山々が連なり、その山々が武蔵国(埼玉県と東京都)と相模国(神奈川県)との国境を形成しています。その南には奥秩父山塊の大菩薩連嶺から富士五湖の本栖湖あたりまでほぼ東西に延びる御坂山地(最高峰は黒岳で、標高1,793メートル)、それに続く天子山地(最高峰は毛無山で標高1,964メートル)、御坂山地と丹沢山地の間に位置する道志山塊(最高峰は御正体山 で標高1,682メートル)といった標高が1,500メートルを越える富士山の外輪山の山々が屏風のように斜めに連なっています。

また西には日本第2位の高峰である北岳(標高3,193メートル)、山脈名の由来である赤石岳(標高3,120メートル)を筆頭に9つの標高3,000メートルを超える峰が連なる赤石山脈(南アルプス)とその前衛となる身延山地(最高峰は山伏で標高2,014メートル)が富士川を挟んで対峙し、赤石山脈が駿河国(静岡県)や信濃国(長野県)との国境を形成しています。さらに北には標高が2,000メートルを超える山々が連なる八ヶ岳連峰(最高峰は赤岳で標高2,899メートル)があって、信濃国との国境を形成し、南部には日本最高峰の富士山(標高3,776メートル)に代表される高峻な山岳があり、そこが駿河国との国境を形成しています。このように、甲斐国(山梨県)は四方を容易に越えられない高い山々で囲まれたところです。また、甲斐国(山梨県)内の河川流域は、これらの山地から流下する富士川水系、相模川水系、多摩川水系の3つの一級河川の水系と、本栖湖をはじめとする3つの二級河川の水系に大別されます。

 

甲州街道の塩川大橋(韮崎市栄)から見た甲斐駒ケ岳をはじめとした雄大な南アルプス(赤石山脈)の山々の風景です。


甲斐国(山梨県)は四方が山に囲まれているだけではありません。上記に述べた御坂山地とそれに続く天子山地という標高が1,500メートルを越える富士山の外輪山の山々が屏風のように国内を斜めに横切っているため、国内が大きく二分されています。富士山の外輪山の西側にあたる甲斐国中西部の甲府盆地を中心とする地域を国中(くになか)地方、外輪山の東側の相模川と多摩川の上流域および富士山北麓からなる地域を郡内(ぐんない)地方と呼びます。両地方は同じ甲斐国(山梨県)と言っても方言(郡内は関東地方との結び付きが国中よりも高いため、西関東方言に分類)など、自然や文化においても大きく異なっているのが特徴です。

 このように国の周囲だけでなく国内も高い山々に囲まれて(遮られて)いるので、ヒトやモノの移動も大変でした。人々は基本前述の富士川水系、相模川水系、多摩川水系と言った水系の本流や支流といった河川に沿って進み、その河川の最上流部付近の屏風のように連なる山脈や山地の鞍部に辛うじて見つけた人が安全に通れそうな峠を越えて移動するしかありませんでした。なので、甲斐国から周辺の他国に抜ける道はほんの数本に限られていました。ここが甲斐国の地理が特殊なところです。

 

【甲斐九筋】

江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』巻一において「九筋」の項があり、「本州九筋ヨリ他州ヘ達する道路九条アリ皆路首ヲ酒折ニ起ス」と記述されています。これは「甲斐の国から他国へ通じている道は9筋あり、それらはみな酒折(さかおり)を起点としている」という内容です。ここに書かれている「九条(くすじ)の道路」というのがいわゆる『甲斐九筋(かいくすじ)』で、江戸時代よりも昔から甲斐国にあった古い道、古道の総称のことです。また、酒折とは現在の甲府市酒折にある酒折宮の所在する地域であり、そこを起点に外部の令制国へ伸びる9つの古道について説明がなされています。その9本の古道とは以下の通りです。

  河内路(駿州往還)

  右左口路(中道往還)

  若彦路

  甲斐路(御坂路・鎌倉街道)

  萩原口(青梅街道)

  雁坂口(秩父往還道)

  穂坂路

  大門嶺口(棒道)

  逸見路(信州往還)


地図はクリックすると拡大されます


甲斐国から駿河国(静岡県)に通じる道として「河内路(かわうちじ:駿州往還)」「右左口路(うばくちじ:中道往還)」「若彦路(わかひこじ)」の3本、相模国(神奈川県)へ通じる道として「甲斐路(御坂路・鎌倉街道)」、武蔵国(東京都・埼玉県)へ通じる道として「萩原口(はぎはらくち:青梅街道)」と「雁坂口(かりさかくち:秩父往還道)」の2本、それに信濃国(長野県)へ向かう「穂坂路(ほさかじ)」「大門嶺口(だいもんとうげくち:棒道)」「逸見路(へみじ:信州往還)」の3本の計9本ということです。

 

甲府市酒折にある酒折宮です。酒折宮は八幡神社と境内を共有しており、『古事記』と『日本書紀』に記載される日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途、立ち寄ったとされる古い神社です。この酒折宮が「甲斐九筋」と呼ばれる9本の街道の起点となっていました。また、この酒折宮は連歌発祥の地と言われています。


これらの道は、できた時代も、どのようにできたかも、それぞれが異なっています。甲斐九筋のうち最も古いと考えられているのは若彦路で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征した際に東海道から甲斐国に入って来た道とされています。これらの9本の道路は戦国時代になると甲斐武田氏の軍事上の重要な道路としての整備が進みました。さらに、物流や信仰のための道としての役割もありました。現在でも山梨県内の主要道である国道20号線、38号線、52号線などの主な国道は、甲斐九筋をその時その時の時代に合わせて少しずつ改良してきたものです。このように甲斐九筋が山梨の歴史に深く関わっている…というよりも、甲斐九筋が甲斐国(山梨県)の歴史そのものであるとも言えようかと思います。

 

甲州街道は石和からは国道411号線に沿って歩きます。甲府市内に入る手前の山崎三差路で甲州街道と萩原口(青梅街道)が合流します。写真右が甲州街道、左の道が萩原口(青梅街道)です。また萩原口(青梅街道)からはこの山崎三差路のすぐ先にあるJR石和温泉駅付近で雁坂口(秩父往還道)が分岐します。


それでは甲斐国から駿河国に通じる3本の道「河内路(駿州往還)」「右左口路(中道往還)」「若彦路」についてその経路等を簡単に説明します。

まず、一番西に位置するルートが「河内路(駿州往還)」です。河内路とは富士川流域の河内郡内を南北に縦断して通過する道なので名付けられました。そのほか、甲州往還、甲駿往還、駿甲脇往還、身延路とも呼ばれました。甲府を出てすぐに笛吹川(富士川の支流)に沿って南下するルートと釜無川(同じく富士川の支流)に沿って南下するルートに分かれるのですが、両ルートは鰍沢(かじかざわ)で合流し、その後は富士川に沿って南下し、身延、万沢を経て駿河湾に面した興津(静岡市清水区)あるいは由比(静岡市清水区)、岩淵(富士市)に至るルートです。途中、韮崎方面から南下してきた西郡路と合流します。この駿州往還は現在のJR身延線、国道52号線、中部横断自動車道のルートに相当します。この街道は甲斐武田氏の一族の穴山氏の支配地である河内郡の領内を通る軍用道路だったので、比較的よく整備され、甲斐国と駿河国を結ぶ重要な役割を果たしていました。途中に標高の高い険しい峠はないものの、日本三大急流の1つである富士川(残り2つは最上川と球磨川)に沿って延びるため、上流部分には富士川に侵食されて片側が断崖絶壁になったところを通る区間もあり、危険な街道でもありました。ただ、このルートは富士川を使った舟運が発達し、舟の利用が一般的でした。ちなみに、下りは鰍沢から岩淵まで約72㎞を半日で下ったそうです。逆に上りは45日を要しました。


甲府市内中心部にある丸の内郵便局東交差点です。ここが甲州街道と河内路(駿州往還)の追分(分岐点)で、「西 しんしうみち 南 みのぶみち」と刻まれた道標が立っています。河内路(駿州往還)は「身延路」とも呼ばれ、「甲斐九筋」の1つで、右左口路(中道往還)、若彦路とともに甲斐国(山梨県)と駿河国(静岡県)を結ぶ街道の1つでした。
 

次に右左口路(中道往還)です。中道往還は駿州往還の笛吹川ルートの右左口(うばぐち:姥口とも)から精進湖方面に南下するルートです。河内路(駿州往還)と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれました。右左口を出て右左口峠(迦葉坂:標高860メートル)を越え、精進湖から本栖湖東岸を経て駿河国(静岡県)に入り、白糸の滝のあたりの富士郡上井出村(富士宮市)で若彦路と合流し、駿河湾に面した吉原(静岡県富士市)に至るルートでした。このルートは現在の国道358号線と国道139号線に相当します。

3本目は若彦路。若彦路の具体的な道筋として甲府盆地南端の奈良原(笛吹市八代町奈良原)を通過し、鳥坂峠(標高1,000メートル)を経て芦川村(笛吹市芦川地区)に入り、さらに御坂山地最高峰の黒岳(標高1,793メートル)のすぐ西を大石峠(標高1,562メートル)で越え、富士山北麓の大石村(富士河口湖町大石)を経て河口湖畔に出て、そこから南西方向に下り、富士山北西麓の駿河国富士郡上井出村(富士宮市)で右左口路(中道往還)に合流するルートです。このルートは現在の山梨県道36号笛吹市川三郷線、山梨県道719号富士河口湖芦川線、静岡県道・山梨県道71号富士宮鳴沢線に相当します。特に山梨県道719号富士河口湖芦川線には大石峠の真下を貫く若彦トンネルがあります。

甲斐国から駿河国へは実はもう1本の道があって、それが相模国へ向かう甲斐路(御坂路・鎌倉街道)です。甲斐路(御坂路)は甲府から上記駿河国へ向かう3本の道のさらに東側を進み、御坂山地最高峰の黒岳(標高1,793メートル)のすぐ東側を御坂峠(標高1,520メートル)で越えて河口湖の東湖畔に出て、富士吉田市に入ります。その後、富士吉田市と南都留郡忍野村の境界である鳥居地峠(標高1,002メートル)を経て山中湖畔に出て、次に籠坂峠(標高1,104メートル)を越えて駿河国(静岡県)に入り、御殿場(茱萸沢)へ。甲斐路(御坂路・鎌倉街道)そのまままっすぐ進むと足柄峠(標高736メートル)を越えて相模国(神奈川県)に入り、小田原(国府津)に抜けていました。いっぽう、御殿場(茱萸沢)から黄瀬川沿いを南下し、駿河湾の一番東に位置する沼津に出る道もありました。ちなみに、この沼津から御殿場・足柄峠経由で国府津を結ぶ現在のJR御殿場線に沿った道はかつての東海道(矢倉沢往還)です。急勾配の険しい峠道にはなるものの圧倒的に距離が短い箱根峠(標高846メートル)を越える道が整備されて、その箱根峠越えの道が東海道の本道となるのは、江戸時代になって徳川幕府が五街道が整備された以降のことです。江戸時代以降、この旧東海道(矢倉沢往還)は東海道の脇往還としても機能したほか、江戸から大山への参詣道として使われ大山街道、大山道、厚木街道などとも呼ばれました。現在はかつての旧東海道(矢倉沢往還)にほぼ沿って、青山通り・国道246号線、が通っています。さらには東名高速道路もこの旧東海道(矢倉沢往還)に沿って伸びています。

このように甲斐国の国中地方から駿河国に脱出しようとするならば、使える道はごく数本に限られていたということです。しかも、この甲斐国から駿河国に通じる4本の道「河内路(駿州往還)」「右左口路(中道往還)」「若彦路」「甲斐路(御坂路)+矢倉沢往還」は、この時、武田勝頼は全て使えない状況でした。まず「河内路(駿州往還)」は徳川家康に内通して武田勝頼を裏切った穴山信君(梅雪)の所領である河内郡をモロに通るのでダメ。「右左口路(中道往還)」と「若彦路」はその穴山信君(梅雪)に案内された徳川家康軍の約1万人と言われる大軍が甲府を目指して北上してきているのでダメ。残る「甲斐路(御坂路)+矢倉沢往還」は織田信長・徳川家康による甲州征伐に呼応して北条氏政が御坂峠まで兵を進めていて、ここも峠を越えられないのでダメ。だとすると、どうやって武田水軍が待つ駿河湾に面した港に行くことができたのか?…ということになります。

 

【推定される武田勝頼一行に逃避ルート】

私が推察した武田勝頼一行の逃避ルートは以下の通りです。 


地図はクリックすると拡大されます

右左口峠や大石峠、御坂峠のさらに東側に位置する笹子峠を越えて郡内地方に入り、大月の手前から都留の方向に右折し、古富士道へ。富士吉田で左折して甲斐路(御坂路)に入ると駿河国(静岡県)との国境である籠坂峠を越えて御殿場(茱萸沢)へ。最後は旧東海道(矢倉沢往還)を黄瀬川沿いに南下し、駿河湾の一番東に位置する沼津を経て武田水軍の拠点のあった江尻港に至るというルートです。東に進んで笹子峠を越えて岩殿山城に入る、あるいは武蔵国に向かうと見せかけて、その岩殿山城の手前で南方向に進路を変えるというのがポイントです。このルートだと甲斐国領(郡内地方)を長く進むことができます。その先の駿河国東部も相模国の後北条氏の侵攻を受けている真っ最中ではありますが、直前までは甲斐武田氏の支配下にありました。後北条氏の軍勢にさえ気をつけていれば、距離もさほど長くないので、なんとか駿河湾に面した港にまで辿り着くことも可能だったかと思います。

「武田勝頼土佐の会」の皆さんの中には、武田勝頼は本当は真田昌幸の岩櫃城に落ち延び、そこから長い時間をかけて土佐国にまで落ち延びてきた…という説を唱えておられる方もいらっしゃるようですが、関東地方に長く住んでいる者としての感覚から言わせていただくと、申し訳ないけれどそれはほぼ不可能というものです。一次史料である『理慶尼記』には、理慶尼は笹子峠手前の勝沼にある大善寺で韮崎の新府城から落ち延びてきた武田勝頼・信勝父子に会ったと書かれているわけで、少なくとも大善寺までは来ていたはずです。その大善寺から上野国吾妻郡(群馬県吾妻郡東吾妻町)にある岩櫃城に向かうには一度韮崎まで戻り、そこから「甲斐九筋」のうちの大門嶺口(棒道)を使って信濃国(長野県)にある真田昌幸の居城・上田城に一度入り、次に噴火を起こしたばかりの浅間山を西から回り込むように進んで岩櫃城まで辿り着くしか方法がありません。甲武信ヶ岳のすぐ東側にある“日本三大峠”の1つに数えられる標高2,082メートルの雁坂峠を越えて武蔵国(埼玉県)に入る雁坂口(秩父往還)を利用する策も考えられますが、それではその後武蔵国や上野国(群馬県)の大部分といった当時後北条氏の支配下にあった区域を長く進まねばならないので危険が伴い過ぎます。そのほかは甲武信ヶ岳(標高2,475メートル)をはじめとする秩父山地の高い山々に遮られているので、まず無理というものです。もちろん、歴史好きにはたまらなく面白い説だとは思うのですが

 

……(その5)に続きます。(その5)は第90回として掲載します。

0 件のコメント:

コメントを投稿

愛媛新聞オンラインのコラム[晴れ時々ちょっと横道]最終第113回

  公開日 2024/02/07   [晴れ時々ちょっと横道]最終第 113 回   長い間お付き合いいただき、本当にありがとうございました 2014 年 10 月 2 日に「第 1 回:はじめまして、覚醒愛媛県人です」を書かせていただいて 9 年と 5 カ月 。毎月 E...