2021年9月16日木曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その6)

 公開日2022/04/07

 

[晴れ時々ちょっと横道]第91回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その6)

  

【小山田信茂】

小山田信茂の名は、戦国時代好きの歴史ファンであれば一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。小山田信茂は戦国時代最強とも評された甲斐武田氏の家臣団の中にあって譜代家老を務めたほどの人物なのですが、彼の名を有名にしているのは、主君・武田勝頼を最後の最後に裏切って、初代・武田信義以来約400年、17代続いた伝統ある甲斐源氏の名門・甲斐武田氏宗家を最終的に滅亡へと追いやったという「裏切り者」「不忠者」としてののイメージからのものではないでしょうか。

小山田氏は甲斐国(山梨県)東部の郡内地方を領する国人衆です。郡内地方は富士山の外輪山である御坂山地と大菩薩嶺を境とした山梨県東部地域のことで、現在の市町村名で言うと、大月市、都留市、上野原市と北都留郡(丹波山村、小菅村)、南都留郡(道志村)、富士吉田市、南都留郡(山中湖村、西桂町、富士河口湖町、鳴沢村、忍野村)に相当します。相模川水系・多摩川水系の流域と富士山北麓という広い面積の地域で、平坦な甲府盆地が広がる山梨県西部の国中地方に対し、急峻な地形の山林が大半を占めます。気象庁による山梨県内の気象区分では「東部・富士五湖地方」と呼ばれ、今ではこの呼称が用いられることが多くなっています。ここでは概ね甲斐武田氏の本領が富士山外輪山の外側の国中地方で、外輪山の内側が小山田氏が治める郡内地方だったと捉えればよろしいかと思います。現在ではJR中央線の通勤電車が大月駅まで延長して運行されていることもあり上野原市や大月市は完全に首都東京の通勤圏となりニュータウン化が進んでいますが、方言習俗も関東と通じるところがあり、同じ甲斐国(山梨県)に属しているとは言っても、甲府盆地が中心の国中地方とは異なる1つの地域的まとまりをもった土地として捉える必要がある地域です。

地図をご覧いただくとお分かりのように、この郡内地方は富士山の外輪山を隔てて西の国中地方と接するほか、北と東は武蔵国(埼玉県、東京都)、相模国(神奈川県)、南は駿河国(静岡県)と国境を接していて、そのため国中地方を本領とする甲斐武田氏、武蔵国・相模国を治める後北条氏、駿河国を治める今川氏の侵攻を繰り返し受けてきたところです。このため、ここを治める小山田氏の当主は常にこれら周辺国の情勢に気を配る必要があり、外交的に優れたバランス感覚が求められたのではないかと思われます。小山田信茂のことを理解しようとすると、まず彼が治めたこのような郡内地方の地理的条件を理解しておく必要があるように思います。


ここで小山田信茂理解のための重要なキーワードである“国人衆”についても少し解説しておきます。小山田信茂が生まれた小山田氏は、甲斐武田氏の配下でありながら「国人衆(国衆)」でもあるという性質を持っていました。この「国人衆」という立場が、後の小山田信茂による情勢判断や行動に大きく関わってくることになったと私は思っています。国人衆とは、室町時代の国人領主を出自とします。それが戦国時代に突入すると、戦国大名と同様に領国を形成し、独自の行政制度を整えていくなど、権力構造を形成していきました。従って、表面上の制度的には戦国大名のそれとほとんど違いがありません。それでは戦国大名とは一体どこが違うのか…。その最大の違いは、そもそも国人衆とは戦国大名に従属する存在としてのみ存在し続けることができたという点です。その際の戦国大名との関係性は、鎌倉時代の「御恩と奉公」の制度に酷似しています。つまり、大名が攻撃を受ければ国人衆が軍を出す代わりに、ある程度の庇護をうけるという関係性が構築されていました。従って、国人衆からしてみれば、戦国大名との関係性は一種の契約のようなものであり、大名に自分達を庇護する能力がないと判断すれば「契約不成立」となり、大名を裏切ることも珍しくはなかったようです。 (このあたりを武士道が確立された江戸時代以降の感覚で読み解くと、誤った解釈がなされる危険性があります。)

実際に、小山田氏は国人衆として同じ甲斐国でも国中地方を本領とする甲斐武田氏と敵対関係にあった時期もありました。信茂の祖父にあたる小山田弥太郎という人物は、永正6(1509)、武田信玄の父である武田信虎との戦闘で討ち死にしています。その後も武田信虎との小競り合いがありましたが、やがて信茂の父である小山田信有の代に武田信虎と和睦し、領国であった都留郡(郡内地方)を武田信虎が庇護する形で小山田氏も力を伸ばしていったようです。その後は甲斐武田氏が武田信玄の代に変わると、相模国の後北条氏や駿河国の今川氏と争いが何度も繰り返されることになるのですが、その都度、相模国・武蔵国・駿河国と国境を接する小山田氏が治める郡内地方は軍事的拠点となり、小山田氏は国境警備のための重要な役割を果たしていたように思われます。そして小山田信茂が家督を継ぐ頃には甲斐武田氏の重要な家臣の1人と見做されるようになっていたようです。従って、小山田信茂は国人衆と甲斐武田氏家臣という両方の側面をもち合わせていた武将であったといえます。しかも、甲斐武田氏との主従関係は父の代からと短く、それ以前は敵対関係にあった時期もありました。


小山田信茂は、天文9(1540)に、小山田信有(契山)の次男として生まれました。兄に家督を継ぐことになる信有(桃隠)がいます。天文21(1552)に父が病死し兄が家督を継ぎますが、その兄も永禄8(1565)に病死し、次男ながら信茂が家督を継ぐことになりました。信茂は譜代家老衆に属す「御小姓衆」として、騎馬250騎を率いたとされています。この時期には既に小山田家は甲斐武田氏の譜代家老として数えられていたことから、信茂はこの当時の主君・武田信玄の信任を得ていたことが窺えます。

また、小山田信茂は、武田信玄の治世下で文武に活躍していた様子が確認できます。その文武両道ぶりは自他ともに認めるものであったようで、教養人としてもその名が知られていました。『甲陽軍鑑』によれば、川中島の戦いで先陣を切ったという記録や、駿河での合戦に参加したという記録があります。永禄12(1569)の小田原城包囲戦では後北条氏方の武蔵国御嶽城(埼玉県上川町)や鉢形城(埼玉県奇居町)など数か所に攻撃を加え、滝山城(東京都八王子市)にも小仏峠を越えて攻撃を加えたことが確認されています。元亀3(1572)には、主君・武田信玄に同行する形で、いわゆる「西上作戦」に従軍し、三方ヶ原の戦いでは先陣を務めたという記録が残されています。戦さに参加する際に先陣を務めることは武士の名誉とされ、それゆえに武勇に優れた武将がその任を受けるのが一般的でした。つまり、小山田信茂は戦国時代最強と言われた甲斐武田氏家中においても、屈指の戦さ上手の武将であったことが分かります。甲斐国と信濃国を拠点に騎馬軍団を率いて、戦国最強の武将と呼ばれた甲斐源氏を祖とする名家甲斐武田氏の第16代当主・武田信玄。その常勝無敵と言われた武田信玄家臣団のなかでも精鋭とされる武将は、後に「武田二十四将」と呼ばれました。その武田二十四将の中に、山本勘助や穴山梅雪、真田幸隆(真田信繁の祖父)、真田昌幸(真田信繁の父)らと並んで、小山田信茂も名を連ねています。

戦さ上手でもあった小山田信茂は、教養人としても様々な点で能力を発揮しました。まず、臨済寺の僧侶・鉄山宗純と優れた漢詩による詩の交換をしていたという記録が『仏眼禅師語録』にて確認されています。漢詩の交換は、当時における教養人のたしなみとして認知されていました。また、元亀元年(1570)には焼失した上吉田西念寺の再興に乗り出しました。この際、『西念寺寺領仕置日記』を作成させることで、伽藍再興の負担者を明文化するとともに、今でいうところの決算報告の作成をも義務としました。さらに、富士参詣道(古富士道)の利用者の減少を憂いた信茂は、関銭の半減を指示し、やがてこれは常態化していきました。この政策は地元では「小山田の半関」と呼ばれています。このように、戦さに強かっただけでなく、文化面や領地の運営にもマルチな才能を発揮していた、極めて優秀な武将であったと言えるでしょう。


ここまでは順調な生涯を送っていた小山田信茂ですが、元亀3(1572)に三方ヶ原の戦いの最中に主君・武田信玄が持病の悪化により急逝して以降、国と運命を共にするように信茂の人生を暗い影が覆うようになります。天正3(1575)に勃発した長篠の戦いでは、敗北後に武田勝頼の護衛として退却に貢献しました。しかし、小山田信茂自身は討ち死にせずに退却したことを終生恥じており、この時点では武田家と運命を共にする覚悟であったことが窺えます。その後は、かつて後北条氏との間の取次(パイプ役)を務めていたことから、房総国の里見氏や関東管領職でもあった越後国の上杉氏の取次として、和睦の道を探ることになりました。 その一環として、天正6(1578)313日の上杉謙信急死後に越後国上杉氏の家督相続を巡ってともに上杉謙信の養子の間で起きた争い、いわゆる「御館(おたて)の乱」では上杉景勝(長尾政景の実子)を支持し、武田勝頼の妹である菊姫の輿入れにも関与したとされています(この御館の乱では上杉景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩の初代藩主となります)。しかし、このことは負けた上杉景虎の兄である後北条氏の当主・北条氏政との関係を悪化させ、武田信玄時代から続いていた甲相同盟の決裂を招くことになってしまいました。その影響もあり、その後、小山田信茂の領内には頻繁に後北条氏が侵入を試みるようになってしまいました。

天正9(1581)になると、後北条氏の侵攻を自らの力だけでは防ぎきれなくなった小山田信茂は、主君・武田勝頼に支援を要請。そして翌年天正10(1582)には織田信長・徳川家康連合軍の侵攻が開始されて、いよいよ甲斐武田氏は存亡の危機を迎えます。小山田信茂も武田勝頼に従って着陣しましたが、同じ取次という立場の人達が、小山田信茂が上杉景勝側へと離反したことにより後北条氏の援軍が得られなくなったことを強く非難したとも言われています。この時点で、小山田信茂は武田勝頼の側近をはじめ家中から疎んじられ、被害者意識を強く持っていたことも確認されています。 しかし、結局のところ防戦すらもままならない状況となった武田軍は、武田勝頼の居城・新府城で軍議を執り行ない、小山田信茂の領内に退避した後に難攻不落と言われた岩殿山城で籠城戦を行なうことが決定されます。そして運命の笹子峠へ向かいます。


その後の天目山の戦いの“通説”については(その2)で書かせていただいたので省略しますが、ここではその後の小山田信茂についてのみご紹介します。『甲陽軍鑑』によると、小山田信茂は武田勝頼自害後に甲斐善光寺で陣をはる織田軍の総大将・織田信忠の前に意気揚々と出仕したのですが、逆に「主君を裏切る輩は信用ならん!」と織田信忠の逆鱗に触れ、「不忠者」として誹りを受けたのち、葛山信貞(かつらやまのぶさだ:武田信玄の六男で駿河国葛山領の分郡領主)、武田信堯(武田信玄の甥で駿府城城代。小山田信茂とは相婿の関係)、小菅五郎兵衛(甲斐武田氏の縁戚で小菅の天神山城城主)などとともに324日に甲斐善光寺において処刑されました。この時、小山田信茂の老母・妻・男子・女子と血縁者もろとも処刑されたとされ、郡内領領主であった小山田氏は滅亡しました。小山田信茂は享年42歳でした。


甲州街道中初狩宿(大月市初狩町)近くにある小山田信茂の首塚です。甲斐善光寺で処刑された小山田信茂の遺体は、甲斐善光寺の北に葬られたのですが、小山田信茂の従者が密かに首を持ち帰り、この地にあった詳雲山瑞龍庵の住職が、ここに葬ったとされています。その瑞龍庵も、明治40(1907)にこのあたりを鉄砲水が襲い、流されてしまったそうで、それ以降、再建されておらず、平坦な土地だけが残されているのだそうです。


【天目山の戦いの真相とは】

武田勝頼が土佐国に落ち延びたとする説においては、この小山田信茂の最期が謎を解く最も重要な鍵だと私は思っています。果たして小山田信茂は世間一般で言われているように、本当に「裏切り者」「不忠者」だったのでしょうか?

兵法の分野では「旗幟鮮明」は出来るだけ早くすべし!!…という言葉がよく使われます。この時点での甲斐武田氏の家臣団の中では穴山信君(梅雪)がその典型ですが、主君を裏切るのであればもっと早くに裏切っていればどうなっていたか分かりません。勝敗の結果が誰の目にもハッキリと見えてきたギリギリの土壇場での裏切りは、相手方ばかりでなく、世間の受けもよくありません。そういうことはここで私が言わずとも戦さ上手で教養にも長けたとされている小山田信茂は十分に分かっていたはずです。彼が領していた郡内地方は武蔵国・相模国・駿河国と国境を接していました。しかも富士山の外輪山の高い山々を峠で越えていかないといけない甲斐武田氏の本領である国中地方よりも、武蔵国・相模国・駿河国のほうがよっぽど行きやすいところでした。ならば、もっと早い時点で当時武蔵国と相模国を支配していた後北条氏を頼り、後北条氏の傘下で本領安堵の約束を取り付けるほうが郡内地方を領する国人としてはよかったのではないか…と私は思ってしまいます。しかし、小山田信茂はそうしなかった。それだけ小山田信茂は甲斐武田氏に対して強い忠義の念を持っていたのではないか…と私は思っています。

それは「御館の乱」の一件からも窺えます。「御館の乱」では小山田信茂は取次として武田勝頼に後北条氏を裏切り上杉景勝を支持する決断をさせ、武田信玄時代から続いていた甲相同盟を決裂させることになったとされていますが、このあたり、甲斐武田氏配下の家臣でありながら国人衆(国衆)でもあるというバランスの上で考えると、小山田信茂の中では国人衆よりも甲斐武田氏配下の家臣団の一員としてのウェイトのほうがはるかに大きかったということが窺えます。なぜなら、後北条氏を怒らせて甲相同盟が決裂という状況になった時に、甲斐武田氏一門の中で真っ先に被害を受けるのは武蔵国や相模国という後北条氏と国境を接する郡内地方。その領主が小山田信茂でしたので、後北条氏からすぐに攻め込まれることは十分に分かっていたことだと思います。それでも敢えて上杉景勝を支持したというのは、郡内地方というよりも甲斐武田氏にとって何が一番に優先されるかを十分に判断した上のことだと思われますし、それだけ甲斐武田氏に対する忠義の念が強かったのではないか…と私は推察しています。


加えて、岩殿山城における籠城ですが、小山田信茂は最初からこんなことが上手くできるはずがないと思っていたのではないでしょうか。いくら四方を断崖絶壁で囲まれた難攻不落の岩殿山城と言っても、どこからも援軍が期待できない状況の中で籠城しても、城の周囲を数万の軍勢に取り囲まれてしまえば食料の補給もままならなくなり、1ヶ月もすれば自ら落城せざるを得なくなります。そんなことは城主である小山田信茂が一番よく分かっていたはずで、最初からそういうことは考えていなかったのではないかと私は思っています。それでは岩殿山城籠城論が出てきた時に小山田信茂は何を考えたのか? それは武田勝頼をどうやってこの窮地から逃し、栄光ある甲斐武田氏の“再興”のために伊予武田氏を頼って落ち延びさせるかではなかったか…と私は思っています。なので、岩殿山城で籠城する…は、あくまでも笹子峠を使って郡内地方に入ることのデコイ(decoy:軍事用語で、敵を攪乱するために使われるおとり”)に過ぎなかったのではないかと私は思っています。同じ難攻不落の山城に籠城するにしても、真田昌幸の持ち城である上野国(群馬県)の岩櫃城ならば、反織田信長勢力の一員で、その当時唯一の甲斐武田氏の同盟国であった隣接する越後国(新潟県)の上杉景勝の援軍が少しは期待できるのですが、甲斐国内の郡内地方にある岩殿山城ではそれはまったく期待できません。隣接する相模国(神奈川県)の北条氏政とは、御館の乱で同盟を解消して以来、信頼関係を失墜して敵対関係にありましたから。また、いくら難攻不落と言われる堅城であっても、援軍がまったく期待できない状況の中で籠城をして、補給路をいっさい断たれてしまったらどういう悲惨な結末を迎えることになるのか…については、武田勝頼も小山田信茂も高天神城の落城の経験で痛いくらいに分かっていたはずで、いくらほとんど瓦解しかけていると言っても、その少し前まで戦国時代最強と謳われた甲斐武田軍団が学習能力の低い人達ばかりの集団だったとは、とても思えませんから。

すなわち、岩櫃城に向かうことと岩殿山城に向かうことを同じ“籠城”という目的で考えてはいけないってことです。岩殿山城に籠城する…は、誰がどう考えても得策とは思えませんもの。すなわち、籠城先が単に岩櫃城から岩殿山城に変わったのではなくて、おそらく伊予国出身の河野通重が提起したであろう案が採用されて、根本的に籠城策から伊予国(あるいは土佐国)まで落ち延びてそこで甲斐武田氏の再興を図るという策に大きく方針が変更になった…と捉えるのが正しい解釈のように私は思っています。そして、繰り返しになりますが、難攻不落な城として広く知られていた岩殿山城での籠城は、織田信長・徳川家康連合軍に加えて北条氏政軍をも欺くために意識的にばら撒かれたデコイ(おとり)というわけです。もちろんその目的は笹子峠を越えて郡内地方に入った後の古富士道甲斐路(御坂路)→ 旧東海道(矢倉沢往還)という行程における武田勝頼一行の身の安全を少しでも確保すること。そのデコイの効果はあまりにも抜群だったようで、400年以上経った現代でも多くの人がそのデコイを信じ込んでいるほどです。ギリギリまで追い詰められた状況の中で苦し紛れに放ったであろう1発のデコイがこれほどまでに効果があったとは、おそらく武田勝頼一行の逃避行の全体シナリオを書いたと思われる河野通重も思ってもみなかったことでしょうね。私のこの推論が正しければ、日本の歴史上最も効果のあったデコイ(おとり)がこの岩殿山城での籠城だったと言えるのではないでしょうか。


伊予武田氏を頼ってまずは駿河湾の港から海路土佐国に武田勝頼を落ち延びさせるというこの逃避行の全体像を描いたのは伊予国出身の河野通重だと私は推定していますが、その逃避行の詳細、特に笹子峠という場所の選定や後に「天目山の戦い」と呼ばれることになる甲斐武田氏宗家滅亡のシナリオの詳細を描いたのは、このあたりの地理に詳しい小山田信茂だったのではないか…と私は思っています。

そのシナリオとはどういうものだったのか?…を次に推定してみたいと思います。


まず最初に小山田信茂が考えたことは、いかにして追っ手の探索、そしてその後に続く織田信長・徳川家康連合軍の侵攻を食い止めるかだったことは間違いありません。私でもそうします。そのために彼が考えたことは武田勝頼をはじめ武田家家臣の主だった者を討ち死に、あるいは自害させ、甲斐武田氏を歴史の表舞台から完全に消してしまうか…だったのではないでしょうか。もちろん武田勝頼本人を死なせるわけにはいかないので、小山田信茂の家臣の中から武田勝頼や息子の武田信勝に似た年格好の若者を選び、影武者に仕立てたのだと思います。武田勝頼一行には継室の北条夫人も含まれていましたから、影武者の中には若い女性達も混じっていたと思います。彼等に対して小山田信茂は「すぐに私も行くから、先にあの世に行って待っていてくれ」と言ったのではないかと思われます。とは言え、用意できた影武者は武田勝頼、信勝父子や北条夫人、土屋昌恒など主だった役を演じるほんの数人で、“天目山の戦い”で実際に戦うことになる家臣は笹子峠の手前に残っていたと思われます。また、『甲陽軍鑑』によると、小山田信茂の謀叛を知り岩殿山城行きを断念した武田勝頼一行は行き場を失った家臣が次々と逃亡をはかったとされていますが、それの解釈も変わってきます。実際はそこまでの武田勝頼一行護衛の役目を終えてその場を離れた家臣が多かったということではないかと私は思っています。笹子峠の登り口である駒飼には宿泊できそうな大きな寺院等もなく大人数の集団が何日間も滞在するには不向きなところで、なにより食料の補給が難しいところですから(地図で調べてみると国宝山養真寺という浄土宗の寺院があるようですが、さほど大きな寺院ではありません。おそらく江戸幕府が甲州街道を整備する際に宿場整備の一環で建てた寺院ではないかと思われます。甲州街道沿いにはそういう寺院が数多くありますから)。新府城を出た時、武田勝頼の一行は約700人いたとされていますが、先を急ぐ逃避行においてそんな大人数で移動することはほぼ不可能なことで、本当はその1/10780人程度だったのではないでしょうか。あとの家臣達は、追ってくる織田軍を撹乱するために、同じく数十人程度の集団で各地に散っていったのではないかと私は思っています。


次に場所の選定です。小山田信茂が選んだのは天目山棲雲寺。応永24(1417)に当時の武田家の当主・武田信満が上杉禅秀の乱に加担して敗走し、自害した地で、その武田信満の墓がある甲斐武田氏所縁の寺院です。栄光ある甲斐武田氏を後世の人々の記憶に残るように歴史の表舞台からドラマチックに消滅させるには、このあたりではここしかないと判断したのでしょう。で、追っ手が迫ってきたら天目山棲雲寺手前の田野の地に柵を設け、そこで出来る限り華々しく討ち死にせよと影武者達に命じたと思われます。そのためにも笹子峠の登り口である駒飼で待つというのは都合が良かったのではないかと思われます。当時はまだ五街道(甲州街道)としての整備がなされておらず、駒飼も鶴瀬も宿場ではなく人里離れた山間の超鄙びた小規模の集落に過ぎなかったはずなので、まず人に見られる心配がありません。なので、影武者にすり替わったことを誰かに気付かれる危険性も少なかったでしょうからね。

そしてその駒飼で影武者達は小山田信茂の迎えを待つふりをした。その目的は時間稼ぎと織田信長軍の追討部隊を引き寄せるためだったのではないか…と私は推察しています。時間稼ぎとは武田勝頼一行が無事に駿河湾の港から武田水軍の船で出港するまでの時間稼ぎのことです。もしかすると、後述する北条氏政との秘密の交渉のための時間稼ぎも含まれていたのかもしれません。武田勝頼一行が韮崎の新府城を出立したのが33日。途中、勝沼の大善寺にある理慶尼の庵で一晩過ごし、笹子峠の登り口である駒飼にまで到着したのが34日の早朝。『甲陽軍鑑』によると小山田信茂の謀反を知ったのが39日。そして311日に天目山の戦いが起こります。34日から39日。笹子峠の登り口である駒飼から駿河湾までは約100km6日間もあれば十分に到達することができます。この間に武田勝頼一行が笹子峠の登り口である駒飼にとどまっていることを噂で流し、織田信長軍の追討部隊をここまで誘き寄せたのではないかと思われます。

天目山の戦いは、いわば死ぬことが目的の戦い。それに臨む影武者を含む武田軍の将兵の覚悟はいかばかりのものだったろうか…と思います。武田信玄恩顧の彼等の願いは、偏に武田勝頼による栄光ある甲斐武田氏の再興、再び「風林火山」の旗を靡かせて戦場を駆け回ることだったのではないでしょうか。その願いを子や孫の時代に実現するために、自らの命を投げ出そうとしたのではないでしょうか。武田勝頼に付き従って落ち延びる土屋昌恒などに対して、きっと「武田家の再興をよろしく頼むぞ」と口々に声をかけて送り出したのではないか…と思います。

こうして影武者と入れ替わった武田勝頼の一行は変装して郡内地方に向かいます。


次に小山田信茂が行ったことは、相模国の領主・北条氏政との交渉だったのではないでしょうか。小山田信茂は後北条氏をはじめ房総国の里見氏や関東管領職でもあった越後国の上杉氏の取次(パイプ役)をこなしていた人物で、優れた外交交渉能力があったと思われます。この時、小山田信茂は「御館の乱」の時の非礼に対する詫びを丁重に入れたうえで、武田勝頼一行が駿河国内を通り、武田水軍の船が待つ港に着くまでの安全確保を北条氏政に要求したのではないでしょうか。その取引条件として小山田信茂が出したのは、北条氏政の妹で武田勝頼の継室となっていた北条夫人(桂林院)を無事に後北条氏に返すこと。そして、自分の領地であった郡内地方だったのではないか…と私は思っています。「私はこの後、御館の乱から始まる一連の出来事の責任をとって一族もろとも自害する。その後の郡内の領地と領民は北条氏政殿にお任せしたい」とでも言ったのではないかと推察します。領地と領民を守る…これが郡内地方を治める国人衆としての小山田信茂の矜持だったのかもしれません。彼は郡内地方を織田軍に蹂躙されたくなかったのだと思います。織田軍が入ってくると、すぐに後北条氏との間で領地を巡る血を血で洗う熾烈な戦いが繰り広げられ、ただでさえ狭い田畑は荒らされ、多くの領民が命を落とすことになりかねませんから、それを小山田信茂は領主として一番恐れていたのではないでしょうか。

 

甲斐善光寺(甲府市善光寺3丁目)です。この甲斐善光寺は永禄元年(1558)、武田信玄によってこの山梨郡板垣郷の地に創建された浄土宗の寺院です。この甲斐善光寺は織田信忠が甲州征伐の際に本陣を置いたところで、天目山の戦いの後、武田勝頼の従兄弟の葛山信貞、郡内領主・小山田信茂、小山田一族の小山田八左衛門尉、小菅五郎兵衛らがここで処刑されました。

甲斐善光寺の山門です。本堂と同じく、国の重要文化財に指定されています。甲斐善光寺では、このほか現在の本尊である銅造阿弥陀如来及両脇侍立像、木造阿弥陀如来及両脇侍像2組が国の重要文化財に指定されています。

 

実際、天目山の戦いで甲斐武田氏が滅び、小山田信茂が一族とともに甲斐善光寺で処刑されたことで郡内地方は無主となり、その後の論功行賞により郡内地方を含む甲斐一国と信濃国諏訪郡は織田信忠の副将を務め高遠城攻めで大きな功績のあった河尻秀隆が統治することになったのですが、そのわずか3ヶ月後の天正10(1582)62日に起きた本能寺の変で織田信長が自害すると、甲斐国・信濃国・上野国といったかつて甲斐武田氏が治めていた諸国では統治不在の混乱状態となります。甲斐国では国人衆が一揆を起こし、領主になったばかりの河尻秀隆が殺害されるという事態が発生します。その直後、甲斐国・信濃国・上野国の支配を巡る北条氏政と徳川家康との間のいわゆる「天正壬午の乱」が起こると、後北条氏はたいした抵抗を受けることもなく瞬く間に小山田氏の本領であった郡内地方を制圧し、北条氏政の弟の北条氏忠が小山田氏の居城であった谷村城に入城しました。しかし「黒駒合戦」(笛吹市御坂町上黒駒・下黒駒)で後北条氏は徳川勢に敗れ、同年10月に後北条氏・徳川氏間で和睦が成立すると、郡内地方を含む甲斐国一国は徳川家康の領地となりました。この時、小山田信茂はこういう結果になることまでは思いもしなかったことでしょうけどね。ただ、この天正壬午の乱の時も郡内地方で大きな戦闘が起きて、領地が荒らされたという記録は残っていないようなので、最低限その点だけは小山田信茂が願っていたとおりになったようです。


ということで、甲斐善光寺における小山田信茂の最期も処刑ではなく、全ての秘密を自分の胸の内にしまった上での覚悟の自害だったと私は思っています。彼が望んだのは、武田勝頼による伊予武田氏を足掛かりとした栄光ある甲斐武田氏の再興。甲斐武田氏が再興された暁には、必ず武田勝頼のもとに馳せ参じるようにと残った家臣達に言い残していたのではないでしょうか。おそらく織田信忠も天目山の戦いで自害した武田勝頼は影武者で、本人は落ち延びたのではないか…と薄々気づいていて、取り逃した責任を取りたくないこともあり、最大の「裏切り者」「不忠者」を演じようとする小山田信茂の演技に乗っかったのではないか…とも私は思っています。これは『信長公記』に、武田勝頼は小山田信茂の館まで辿り着いたのだが、小山田信茂は武田勝頼の使者をはねつけた…と記されていることからも窺えます。この私の推察が当たっていたとするならば、小山田信茂は「裏切り者」でも「不忠者」でもなく、「大忠臣」ということになろうかと思います。

  

……(その7)に続きます。(その7)は第92回として掲載します。

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