2021年9月6日月曜日

武田勝頼は落ち延びていた!?(その3)

 公開予定日2022/01/06

 

[晴れ時々ちょっと横道]第88回 武田勝頼は落ち延びていた!?(その3)

 

それでは武田勝頼が天目山の戦いで自害せずに四国の土佐国に落ち延びた可能性と推定される逃避ルートに関する私なりの推察について、主だった人物の紹介を中心にご紹介していきたいと思います。まずは主人公とも言える武田勝頼です。

 

JR中央本線甲斐大和駅前にある武田勝頼の銅像です。
 

【武田勝頼】

「風林火山」の旗印で知られる甲斐武田氏は、甲斐源氏の一族であり、その祖は八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光といわれています。その新羅三郎義光は、平安時代後期の永保3(1083)~寛治元年(1087)に奥州(東北地方)で起きた後三年の役で、兄の八幡太郎義家を援けるために奥羽に下向し、常陸国に進出して、その子の源義清を那珂郡武田郷に配します。それが武田氏の発祥で、その後、源義清とその息子の源清光は甲斐国に配流され、そこで土着したと伝えられています。武田氏は、戦国時代の武田晴信(信玄)の代になって、近隣諸国への侵攻を企て、信濃国をはじめとして、上野国・飛騨国そして、今川義元亡き後の駿河国・遠江国へとその勢力を広げていきます。この間、多くの戦さをしていますが、なかでも、越後国の上杉謙信(長尾景虎)との五次にわたる川中島の戦いはよく知られています。元亀3(1572)10月、武田信玄は天下に号令を下すための第一弾として、まず織田信長包囲網の形成を目的として大軍を率いて甲府を後にしました。そして、浜松城から出陣してきた徳川家康の軍を、遠江国の三方ヶ原で撃破します。このとき、徳川家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したというエピソードはよく知られているところです。しかし、その進撃の途中の翌元亀4(1573)4月初旬、武田信玄は持病が悪化したため、軍を甲斐国に引き返す途中の三河街道上の信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)の地で死去しました。享年53歳でした。

 

躑躅ヶ崎館跡です。この躑躅ヶ崎館は永正16(1519)に武田信玄の父である武田信虎によって築かれた甲斐武田氏の居館で、領国経営における拠点です。以降、武田勝頼が天正9(1581)に新府城を築き移転するまで、甲斐武田氏3代が60年あまり本拠地として使用されました。大正4年(1915)、大正天皇の御即位に際し武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、躑躅ヶ崎館本丸跡に武田信玄をご祭神とした武田神社が創建されました。

躑躅ヶ崎館は三方を山に囲まれ、相川扇状地の開口部で、南に甲府盆地を一望することができます。館の完成した翌年には、館の北東約2kmの裏山の山頂に守りを固めるための詰城である要害城が築かれました。国を治めるための躑躅ヶ崎館と、館を防衛するための山城・要害城。甲斐武田氏らしい拠点作りです。

武田神社の前にある武田信玄ミュージアムです。この武田信玄ミュージアムのある場所は、かつて穴山信君(梅雪)の屋敷でした。現在武田神社のある場所は躑躅ヶ崎館の本丸のあった場所で、その周囲には武田二十四将をはじめとした主だった家臣達の屋敷が置かれていました。まさに「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉のとおりです。遠くに白く雪を被った富士山の姿が見えます。

武田信玄の跡を継いで家督を相続したのが四男の武田勝頼です。武田勝頼は、天文15(1546)に武田信玄の四男として誕生しました。母は、武田信玄の父・武田信虎の時代に同盟関係にあった信濃国(長野県)の諏訪領主・諏訪頼重の娘・由布姫(諏訪御料人)です。諏訪氏は、信濃国上原城城主であるとともに諏訪大社の神官の総代である大祝(おおほうり)を代々務めてきた一族で、武士と神官双方の性格を合わせ持っていました。武田家と諏訪家は武田信虎の時代には同盟関係にありましたが、武田信玄が武田信虎を追放して家督を相続すると、諏訪家とは縁を切りました。武田信玄は妹婿である諏訪頼重を自害に追い込み、諏訪家を滅亡させたのち、諏訪頼重の娘である諏訪御料人を側室として迎え、やがて勝頼が誕生しました。武田信玄が諏訪御料人を側室として迎えることに、武田家中では根強い反対があったと言われています。勝頼の誕生も、武田家に対し諏訪家から復讐されるのではないか…と、不吉に思われていたほどでした。しかし、武田信玄は勝頼の存在によって、武田家を恨む諏訪家の人間を従わせることができるだろうと考えていたとされています。武田家中での反発があったことも踏まえ、勝頼は7人いた兄弟の中で唯一、武田氏の通字(とおりじ:その家系で代々用いられる文字)である「信」を継承していません。諏訪氏の通字である「頼」を継承させ、諏訪頼重の跡目を継いで「諏訪四郎勝頼」と命名されました。武田信玄は自分が殺してしまった妹婿の諏訪頼重の娘(諏訪御料人)に自身の子を産ませ、その子に諏訪家を継がせようとしたわけです。実に武田信玄らしいエゲツない策と言えますが、つまるところ、勝頼は初めから甲斐武田氏ではなく、諏訪家の後継者として生まれてきたのです。

 

長野県茅野市にある諏訪氏の居城であった上原城跡です。

諏訪勝頼が元服を迎えると、武田信玄から伊那領(長野県伊那市)にある高遠城の城主に任じられました。しかし、諏訪勝頼が伊那を与えられたことに、武田信玄の嫡男である武田義信は不満を抱きます。武田義信は、第4次川中島の戦いで名のある敵将を討ち取るなどの活躍を見せましたが、その後、武田信玄への謀反を疑われて廃嫡され、家督相続の権利を剥奪されました。武田信玄と武田義信父子の溝が深まった背景には、諏訪勝頼に伊那領が与えられたことへの不満の他、川中島の戦いで武田義信が危うい状況に陥った際、武田信玄が救おうとしなかったことなどがありました。武田信玄は、謀反の疑いがある武田義信を2年に亘り幽閉したのち、自害するよう命じます。永禄10(1567)10月に武田義信は自害。享年30歳でした。当時の武田家は、信玄派と義信派で分裂した状態になってしまっていたため、武田義信の死をもって家中をひとつにまとめる必要があったのだと思われます。武田信玄は父・武田信虎を追放した自分と有能な息子・武田義信を重ね合わせて、危機感を感じていたのかもしれません。

勝頼には、武田義信の他にも2人の兄がいましたが、次男の武田信親は盲目で信濃国小県郡の国人衆・海野幸義の娘を娶り海野氏の名跡を継承してはいたのですが、その後出家して寺に入っており、三男の武田信之は早世しています。そのため四男である勝頼が甲斐武田氏宗家の跡取りとして担ぎ出されることになったのですが、武田家の家臣の中には「敵将(諏訪氏)の跡取りを武田家当主にするとは何事だ!」と、快く思っていない者も多かったようです。なお、武田義信の死より2年前の永禄8(1565)、武田勝頼は同盟の証しとして、織田信長の養女(血縁上は織田信長の姪)を正室として迎えています。武田義信が自害した翌月、諏訪勝頼に嫡男・信勝が誕生しました。しかし、母親は難産のため死亡しています。武田信玄は、孫の信勝の誕生を大いに喜びました。武田氏と織田信長の血縁にあたる信勝を跡継ぎと定め、諏訪勝頼を一時的な武田家当主として武田姓を名乗ることを命じ、信勝が元服する16歳までの後見を命じます。武田勝頼を正式な跡継ぎとしなかったのは、諏訪氏の名跡を継いだことと、武田勝頼に対する家臣の抵抗感も考慮したからだと思われます。しかし、武田勝頼を正式な跡継ぎにしていなかったことが、のちに家臣と武田勝頼との間の不和を増長させてしまうことになります。

ちなみに、武田信玄には7人の男子がいて、五男の盛信は信濃国安曇郡の国人衆である仁科氏を継承し仁科盛信を、六男の信貞は駿河国駿東郡の領主である葛山氏元の婿養子となり葛山信貞を、七男の信清は武田信玄の命により巨摩郡加賀美(南アルプス市加賀美)の法善寺で仏門に入り玄竜と号していました。この中で武田氏の通字である「信」の字を継承させていない(言ってみればよその子)勝頼を武田信玄が自分の後継に指名した背景には、武田信玄が勝頼の戦さ上手っぷりを評価し、その才能を認めたからだとも言われております。実際、初陣となった永禄6(1563)の上野国箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)攻めで華々しい武功を挙げたとされています。その後、上野国へ侵攻すると箕輪城、倉賀野城(群馬県高崎市倉賀野町) と次々に敵の城の攻略に成功。永禄12(1569)の武蔵国滝山城(東京都八王子市丹木町)攻めをはじめ武田信玄晩年期の戦いのほとんどに従軍し、永禄12(1569)10月に行われた小田原城攻めからの撤退戦(三増峠の戦い)では最も重要な殿(しんがり)を任されたとされています。

 

山梨県甲州市塩山にある武田信玄の菩提寺・恵林寺(えりんじ)です。天正3(1575)4月に武田勝頼が喪主となり執り行われた武田信玄の三年秘喪明りの葬儀もここで開かれました。


天正10(1582)の織田・徳川連合軍の甲州征伐の際、南近江国を追われて甲斐国内に寄宿していた戦国大名六角氏第17代当主・六角義定(佐々木次郎と変名)が恵林寺に逃げ込んだのですが、織田信忠の引渡し要請を恵林寺側が拒否したため、全山焼き討ちに遭いました。その後、恵林寺は徳川家康の支援により再興されました。写真は重要文化財の三門です。

恵林寺は織田信忠軍によって焼き討ちに遭い、徳川家康の支援により再興されたのですが、この巨大な鬼瓦は焼き討ち以前の恵林寺の鬼瓦なのだそうです。現在の恵林寺も素晴らしい古刹なのですが、武田信玄が生きていた時代には、さらに壮大な規模を誇った寺院であったと想像されます。

恵林寺のある甲州市塩山のJR塩山駅前に立つ武田信玄の銅像です。


前述のように、元亀4 (1573)、武田信玄が病死すると武田勝頼は家督を相続し、甲斐武田氏の第17代当主となりましたが、同時に信玄派と勝頼派の対立が始まります。また、武田信玄は死に際に「自分の死は3年隠し通し、その間に国力を養え」という言葉を家臣達に遺しました。これは、武田勝頼の頼りなさを表す言葉であるとともに、信玄派の家臣達が武田勝頼を認めていなかったことから、武田信玄自身が死ねば武田家は一気に弱体化してしまうのではないかと懸念していたとも言われています。表向きには「武田信玄は隠居し、武田勝頼が家督を相続した」と発表。しかし、徳川家康が武田信玄の死去の真偽を確認すべく、武田氏の三河国(愛知県東部)侵攻の拠点であった長篠城(愛知県新城市)を攻略して挑発してきました。この徳川家康による長篠城攻略は、後に甲斐武田氏衰退のきっかけとなる長篠の戦いへの布石となります。

 “仮の当主”という立場になった武田勝頼にとって、勝頼をあくまでも諏訪の家の者だとみなす家臣達の統率は困難を極めたようです。武田家は、この当時の全国各地の戦国大名がそうであったように、国内各地の領地を治める国人衆(国衆)と呼ばれる豪族と親族衆を中心とする豪族集合体の大名家でした。そのため独立心旺盛な家臣が多く、忠誠心が高いというより、武田信玄のカリスマ性だけで結束を高めていたと言うことができようかと思います (戦国時代の歴史を正しく読み解く最も重要な鍵はここにあります)

このように武田信玄の跡を継いで当主となった武田勝頼でしたが、圧倒的に信頼感が欠けていたことが信玄派と勝頼派の対立を顕著にする要因になったとも言えようかと思います。

この時期、天下統一に向け急速に勢力を伸ばしていた織田信長は、甲斐武田家と同盟関係を結んでいた近江国(滋賀県)の浅井長政、越前国(福井県)の朝倉義景ら反織田信長勢力を滅ぼして、将軍足利義昭を京都から追放。自身が天下人としての地位を引き継いで台頭してきました。そして次に甲斐武田氏が治めていた甲斐国を虎視眈々と狙いはじめます。対する武田勝頼は甲斐国内における結束を固めるため勢力拡大を目指し、東美濃(岐阜県南東部)の織田領へ侵攻し明知城(岐阜県恵那市)を落としました。織田信長は、嫡男の織田信忠と共に、明知城の援軍に出陣しようとしますが、到着より前に武田勝頼が明知城を落としたため、信長軍は岐阜へ撤退しました。また、武田勝頼は遠江国(静岡県西部)の徳川領へ侵攻。武田信玄でさえ落とせなかった難攻不落の高天神城(静岡県掛川市)を陥落させ、遠江国の東半分をほぼ平定しました。さらに、天竜川を挟んで家康軍と対陣。徳川家康の居城・浜松城(静岡県浜松市)に迫ると、城下に火を放つなど武勇を重ねていっていました。このように先代の武田信玄以上の戦さ上手であったため、若い世代を中心に武田勝頼を支持する家臣や国人衆も増えていきました。しかし、あまりに強すぎた過信が、その後、裏目に働くことになります。

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【長篠の戦い】

天正3(1575)、武田勝頼は三河国へ侵入し、長篠城に配された武田氏から徳川家康方に寝返った奥三河の国人衆である奥平貞能・奥平信昌親子の討伐を開始しました。しかし奥平勢が思いのほか善戦したため長篠城攻略に時間を費やすこととなり、その間に織田信長・徳川家康の連合軍が長篠城へ到着し、陣城を構築しました。武田勝頼は設楽ヶ原(愛知県新城市)へ進出し、織田・徳川連合軍と対峙。「長篠の戦い」が開戦となりました。兵力の数で劣った武田軍は大量の鉄砲と馬防柵を用いた織田信長の画期的な戦法の前に攻めの勢いを喪失し総崩れとなりましたが、武田勝頼はどうにか退却します。この長篠の戦いは8時間に及び、武田軍は1万人以上の死傷者を出しました。『信長公記』に記載された武田軍の主な戦死者は、譜代家老の山県昌景、馬場信春、内藤昌秀をはじめとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や主たる指揮官にも及び、被害は甚大であったとされています。

これにより、後代に「武田四天王」とか「武田四名臣」と呼ばれた甲斐武田氏の譜代家老で生き残ったのは上杉謙信の抑え部隊を率いていたので参戦していなかった信濃国の海津城(松代城とも:長野県長野市松代町)城代の春日虎綱(高坂弾正昌信)ただ1人というように、武田信玄の時代から甲斐武田家を支えていた主だった重臣や国人衆があらかた討ち死にし、武田勝頼の周囲は図らずも一気に代替わり、若返りがはかられることになりました。土屋昌恒や小宮山友晴、跡部勝資、長坂光堅(釣閑斎)ら天目山の戦いで名前が登場する武田勝頼の側近達のほとんどは長篠の戦い以降に側近に登用された人物です。長篠の戦いの後、武田勝頼を支える家老格の重臣となる穴山信君(梅雪)も天文10(1541)生まれなので、武田勝頼より5歳年長。小山田信茂は天文9(1540)生まれとされているので武田勝頼より6歳年長。真田昌幸は天文16(1547)生まれなので1歳年下で、皆ほぼ同世代と言えます。長篠の戦いは天正3(1575)のことなので、彼等は当時、20歳代後半から30歳代前半といった若い世代でした。ちなみに戦国時代きっての知将・謀将として知られ、NHK大河ドラマ『真田丸』で一気に有名となった真田昌幸は真田幸隆(幸綱)の三男として生まれ、同母兄に真田信綱・真田昌輝がいたため、生まれた時点では真田氏の家督相続の権利はなく、そのため武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛と称していました。しかし、長篠の戦いで長兄の信綱と次兄の昌輝がともに討ち死にしたため、昌幸は真田氏に復して真田家の家督を相続したという経緯があります。

こうして、武田勝頼の敗退により、織田信長・徳川家康連合軍の攻勢は強まり、武田方は三河国から締め出されました。武田軍にとって長篠の戦いは、優れた武将を数多く失い、以降常に守りの戦いを余儀なくされた、一大転機となる戦いでした。

 

 

【御館の乱と高天神城の落城】

長篠の戦いでの手痛い敗戦後、武田勝頼は鉄砲などの導入に力点を置く軍事改革など慌しく再編成に着手し、織田信長・徳川家康同盟に対抗する準備を進めていきました。しかし、足利将軍家、同盟を組んでいた浅井、朝倉氏の滅亡、伊勢長島の一向一揆の壊滅により父・武田信玄が築いた反織田信長包囲網の軍事ラインは事実上崩壊し、武田家内部でも信玄子飼いの武将と勝頼派新興勢力との家臣団の対立が表面化していきました。さらに甲斐武田氏の経済基盤ともいうべき黒川金山の金が枯渇するなど甲斐武田氏、武田勝頼を取り巻く情勢は長篠の戦いの時期よりも困難な状況になりつつありました。領地内に田畑を耕せる平野が少ない甲斐国において戦国時代最強と呼ばれた武田軍団を整備するためには、莫大な軍資金を農業以外のなんらかの手段で得る必要があったのですが、それが甲斐国国内とその周辺諸国の金鉱山から産出された金でした。武田信玄は日本稀代の鉱山師と言ってもいいほどで、国道411号線(青梅街道)の柳沢峠近くにあった黒川金山を筆頭に、幾つもの金鉱山を開発していました。実はこれらの金鉱山で採掘される金が武田軍団の最大の強みになっていたわけです。その甲斐武田氏の経済基盤ともいうべき最大の金山・黒川金山の金が枯渇したわけですから、大変な事態に陥ってしまっていたわけです。これが甲斐武田氏宗家滅亡に直接繋がる御館の乱における武田勝頼の致命的な判断ミスを引き起こす最大の要因になった…と私は分析しています。

 

甲州街道の金沢宿(長野県茅野市のはずれにある金山権現神社です。小さな祠に祀られている金山権現の祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)で、山の神とされています。この金沢宿の近くにも金鶏金山という甲斐武田氏が所有する大規模な金鉱山がありました。この金山権現は武田信玄が開発した金鶏金山で働いていた人達が甲斐武田氏の滅亡後金沢宿へ下り、金山にあった金山権現を移して祀ったものと伝えられています。武田信玄が信州を欲しがった理由がよく分かります。

 

天正5(1577)、武田勝頼は北条氏政の妹・北条夫人(名前は不明)を継室に迎えます。その背景には織田信長・徳川家康連合軍の脅威に備えるため後北条氏との結び付きを強め、越後国(新潟県)の上杉氏との関係修復を早急に図る意図がありました。ところが、天正6(1578)に上杉家を率いていた上杉謙信が急死。越後国では上杉謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎の間で、家督争いが勃発してしまいます。「御館の乱」と言われたこの争いに、武田勝頼が両者の和睦調停へ乗り出しました。初めは後北条氏との関係もあり、北条氏政の実弟である上杉景虎を支持しましたが、上杉景勝側が莫大な金子(きんす:金貨)と領土の割譲を提示してきたことから、武田勝頼は上杉景勝を支持することに転向したのです。ちなみに、有名な佐渡金山が開拓されたのは江戸時代に入ってからですが、それ以前にも上杉領の越後国には鶴子銀山や高根金山、上田銀山などの金鉱山、銀鉱山が国内に点在していて、上杉謙信や上杉景勝はそこから莫大な資金を得ていたようです。財政基盤の立て直しが急務だった武田勝頼にとって、そうした上杉景勝サイドが出してきた破格の好条件に釣られて支持を変えたことが、のちに致命的なミスだったと分かります。

結局、上杉家の内部抗争は上杉景虎が自害したことで幕を閉じました。武田勝頼に裏切られた北条氏政は武田氏と手を切り、徳川氏と手を結ぶ道を選びました。こうして武田勝頼は、北の上杉氏と手を結ぶのと引き換えに、南西の織田氏、徳川氏、東の後北条氏を敵に回すことになってしまいました。御館の乱の一件で変化した関係を好機と捉えた徳川家康は、天正9(1581)に高天神城の奪回を試みます。徳川軍の攻撃を前に、武田勝頼は援軍を送る余力もなく、補給路を断たれた高天神城では餓死者が続出。ほとんど全滅状態で高天神城は落とされました。これにより甲斐武田氏宗家の威信は地に堕ち、武田勝頼の家臣や武田一族の重鎮だった穴山信君(梅雪)など甲斐武田氏の縁者からも織田や徳川方に内通し離反していく者が堰を切ったように続出しはじめました。

こうして運命の天正10(1582)を迎えます。この続きは前回の(その2)に書かせていただいた通りです。

ここからはいよいよ天目山の戦いの真相と武田勝頼一行の脱出経路についての私の推論を書かせていただきます。先に結論から書かせていただくと、武田勝頼一行は天目山の戦いで自害などしておらず、伊予武田氏を頼り駿河湾の港から“海路”を利用して、まずは土佐国にまで落ち延びた可能性が十分にある…と私は推察しています。

 

【河野通重】

甲斐武田氏は同じ新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の一族として、代々、安芸武田氏、若狭武田氏、そして伊予武田氏ともなんらかの交流をもっていたように思います。その伊予武田氏と甲斐武田氏との間の連絡要員として送り込まれたのではないか?…と思われる人物が武田信玄・勝頼期における武田家臣団の中にいることを発見しました。それが河野但馬守通重です。寛政年間(1789年〜1801)に江戸幕府が編修した系譜集である『寛政重修諸家譜』によると、河野但馬守通重は永正7(1510)の生まれ。武田信玄(晴信)は大永元年(1521)113日の生まれですので、河野通重は武田信玄よりも11歳ほど年長ということになります。氏族としては伊予越智氏とされていて代々伊予国に住んでいたのですが、この通重の時に甲斐国に移ったと書かれています。河野通重がいつ頃甲斐国にやって来たのかは定かではありませんが、武田信玄(晴信)が父である武田信虎を追放して甲斐武田氏の家督を奪ったのが天文10(1541)のことですので、その時、河野通重は31歳。ちょうどその前後の頃のことではないかと思われます。

河野通重は武田信玄・勝頼に近習衆・横目衆として仕え、特に武田勝頼の時には子供の教育係という側近の一人であったとされています。横目衆は別名“目付”とも言われる戦国時代の警察機関にあたる部署で、将士の行動の監察や論功行賞等を司っていました。甲斐武田家中において横目衆は二十人頭衆とも呼ばれ、特に領地は持たず武田信玄の直参(官僚)であったとされています。伊予国から甲斐国に移り、武田信玄に仕えてすぐに信玄直参の横目衆に列せられ、武田勝頼の代には子供の教育係を任されるのですから、相当に信頼された人物だったと思われます。いちおう伊予河野氏から交流派遣された連絡要員のようにするため河野姓を称していますが、同族意識がことのほか強い甲斐武田氏なので、おそらく伊予武田氏もしくは伊予武田氏と極めて関係の深い人物だったのではないか…と推察されます。

武田信虎から晴信(信玄)にかけての時代の甲斐武田氏は、仕官した牢人衆と呼ばれる優れた能力を有する他国出身者を直轄部隊の足軽大将(前線指揮官)などに登用して重用したことで知られています。『甲陽軍鑑』に登場するこの時期に『武田の五名臣』と呼ばれた甲斐武田氏直轄軍を率いた5人の足軽大将はいずれも他国出身者で、横田高松(たかとし)は伊勢国、小幡虎盛は遠江国、多田三八郎は美濃国、原虎胤(とらたね)は下総国、そして武田信玄を傍で支えた伝説的軍師の山本勘助は三河国の牢人出身であるとされています。河野通重もおそらくそうした牢人の1人として、抜きん出た能力を評価されて横目衆として重用されたのではないでしょうか。また、「武田の五名臣」は5人とも河野通重よりはるかに年長であり、永禄年間(1558年〜1570)に相次いでこの世を去っていることから、河野通重は最後に残った牢人衆1人だったのかもしれません。

ちなみに、この他国出身者である“牢人衆”ですが、甲斐武田氏への忠誠心は甲斐武田氏の一門衆や甲斐国の国人衆以上のものがあったように思えます。例えば、天文19(1550)、武田晴信(信玄)は砥石城(長野県上田市上野)に籠る宿敵・村上義清を包囲戦で攻めたのですが、難攻不落の様相を呈する天然の要害・砥石城に手を焼き、やむなく退却を開始。ここで村上義清軍が退却する武田晴信軍に襲い掛かり大混乱に陥りました。これが世に言う「砥石崩れ」で、この際、伊勢国出身の横田高松は混乱する武田軍を殿軍(しんがり)として支え、村上義清軍の猛攻を一手に引き受けて討ち死にしました。享年64歳でした。この横田高松の奮戦により武田晴信(信玄)軍本隊は甲斐国へ無事に退却することができました。また、山本勘助も5回行われた上杉謙信との川中島の戦いの中で最大の激戦となった永禄4(1561)の第四次合戦の際、己の献策の失敗によって武田軍が全軍崩壊の危機に陥った責に死を決意して、敵中に突入。上杉軍の進軍を食い止めるべく奮戦したものの、討ち死にしています。享年69歳でした。乱戦の最中に上杉謙信がただ一騎で手薄になった武田信玄の本陣に斬り込みをかけ、馬上の上杉謙信が床机に座った武田信玄に三太刀にわたって斬りかかり、武田信玄は軍配をもって辛うじてこれを凌いだ…という有名な話はこの第四次川中島合戦の時の逸話です。このように武田信玄が絶体絶命の危機的状況に陥った際に、必ず登場してその危機を救うために活躍したのは他国出身の“牢人衆の老兵”でした。天正10(1582)のこの時の河野通重もそんな甲斐武田氏が危機的状況に陥った際に登場した牢人衆の老兵だったのかもしれません。

直参の横目衆だっただけに、武田信玄や武田勝頼がその河野通重から伊予武田氏や土佐国の香宗我部氏という甲斐武田氏所縁の一族が四国にいることを聞かされていたということは十分に考えられます。前述のように、河野通重は永正7(1510)の生まれ。「伊予武田氏ってご存知ですか?」でご紹介した伊予国周敷郡の旗頭であった黒川元春(土佐国の長宗我部元秀の次男で、あの長宗我部元親の叔父)の生まれた年は不明ですが、私が調べた限りでは享禄年間(1528年〜1532)の初めに兄の長宗我部元国と不和になったため、土佐国長岡郡(現在の高知県南国市岡豊町)を出奔して伊予国周敷郡千足村黒川郷(現在の愛媛県西条市小松町石鎚)の国人衆・黒川通矩の妹婿になり、長宗我部の名を捨てて黒川姓を名乗り、黒川元春(後に通尭と改名)と称したといわれています。したがって、河野通重は黒川元春(長宗我部元春)と同い年かほんの少し下の年齢なので、黒川元春との交流を通して香宗我部氏や長宗我部氏をはじめとした土佐国のその当時の情勢や、もちろん伊予武田氏の情勢を詳しく知っていたということは十分に考えられますから。(河野通重は河野の姓を名乗っていますが、もともとは伊予武田氏か、もしかすると黒川氏の一員だったのではないかとも推察されます。)

その河野通重は武田勝頼直参の横目衆とは言え、永正7(1510)の生まれですから、天正10(1582)には72歳。もう(ジイ)”と呼ばれる年齢なので、河野通重が新府城で行われた最後の軍議に参加していたかどうかは不明ですが、もしかしたら「ここはひとまず伊予武田氏を頼って伊予国に落ち延び、時間をかけて再興を図るという考え方もあるのではないか」という書簡くらいは武田勝頼に送っていたのかもしれません。もしそうだとしても、証拠となる書簡は新府城ともども焼失してしまっていると思われますが…。

いずれにせよ、私がこの後に書かせていただく武田勝頼の一大脱出劇が実際に行われた史実だったとするならば、その全体シナリオを書いたのは間違いなく河野通重ではなかったか…と私は考えています。でないと、甲斐国から遠く離れた四国伊予国の伊予武田氏(あるいは土佐国の香宗我部氏)を頼って落ち延びる、それも“海路”を使ってなどという筋書きは海なし国である甲斐国や信濃国の国人衆ではとても書けるとは思いません。幼い頃から極々日常的に瀬戸内海の海上輸送の様子をあたり前のように見て育ち、実際におそらく海を使って伊予国からやって来たであろう河野通重だからこそ書けるシナリオだったのではないでしょうか。加えて、河野通重は当時72歳。前述のように長篠の戦いで先代の武田信玄の時代から甲斐武田氏に仕える譜代家老や主だった重臣、国人衆があらかた討ち死にしてしまった中で、武田信玄の時代から長く武田家当主直参の横目衆として仕えていたこともあり、きっと武田家中で相談役として一目を置かれる存在だったことは間違いないことなので、このあと出てくる関係者すべてが河野通重の書いたシナリオ通りに役目を全うすることに最後は同意して、それぞれの役割を演じたのではないか…と思われますから。

その後、武田勝頼が新府城を放棄し、天目山の戦いで自害するまでの間の河野通重に関しては記録が残っていませんが、天目山の戦いで甲斐武田氏が滅亡した直後の天正104月に、駿河国の浜松城において甲斐国の国境警備を担当していた旧武田家旗本の横目衆が徳川家康に謁見したという記録が残っていて、その中に河野通重の名前が確認できます。徳川家康は謁見した9名の横目衆とその部下同心に武田勝頼の時代と同じ待遇を与え、甲斐一国の処置を命じると共に、甲斐国の警備を命じました。これが甲州九口之道筋奉行(こうしゅうきゅうくちのみちすじぶぎょう)で、河野通重は30名の部下を与えられ諏訪口の警備を担当しました。甲斐武田氏の滅亡後、武田遺領を巡る天正壬午の乱が各地で発生し、天正108月に甲斐国でも徳川家康と相模国の後北条氏が対峙しました。甲斐国に在国していた武田遺臣の多くはその動向を注視していたのですが、812日に黒駒の合戦(笛吹市御坂町)において徳川勢が後北条方を撃破すると雪崩をうって徳川家康に臣従することを表明しました。その際に数名から数十名のグループごとに起請文(天正壬午起請文)を提出し、徳川家康への忠誠を誓いました。そこに河野通重の名前が確認できていませんが、甲州九口之道筋奉行はその天正壬午起請文が提出される前に徳川家康から直々に命じられているので、もっと前の段階で徳川家康への忠誠を誓っていたようです。

甲州九口之道筋奉行は天正12(1584)に行われた小牧・長久手の戦いに徳川家康麾下として従軍したとされています。この時に河野通重は74歳。河野通重は記録では天正15(1587)に致仕、すなわち官職を退いたということになっていますが、さすがに隠居して、実質的には家督を息子の河野通郷に譲っていたと思われるので、従軍したのはその河野通郷だったのではないかと思われます。天正18(1590)6月、豊臣秀吉による小田原征伐の一環として行われた八王子城合戦において後北条氏の持ち城であった八王子城が落城。翌7月に行われた徳川家康の江戸への国替えに伴い、八王子城下治安維持、及び新たに浅野長政領となった甲斐国方面の防備のために甲州九口之道筋奉行の9人の武田家横目衆出身者を甲州街道の小仏峠に旗本として配置しました。これが江戸幕府成立以降に「八王子千人同心」となります。河野通重は文禄4(1595)、武蔵国八王子の地で86歳で死去しました。墓は甲斐国の一蓮寺(甲府市太田町)にあるのだそうです。子孫は幕末まで徳川幕府の直参旗本で、八王子千人同心の千人頭(同心100名を束ねる役目)10家のうちの一家として、幕末まで徳川将軍家に仕えました。この河野通重もなかなか興味深い人物です。

 

……(その4)に続きます。(その4)89回として掲載します。


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