2018年9月10日月曜日

甲州街道歩き【第7回:相模湖→上野原】(その1)


78()、甲州街道歩きの【第7回】に参加してきました。【第7回】は前回【第6回】のゴールであったJR中央本線の相模湖駅を出発し、与瀬宿、吉野宿、関野宿と相模路を歩き、相模国・甲斐国の国境(神奈川県・山梨県の県境)を越えて甲斐国(山梨県)の最初の宿場である上野原宿まで歩きます。

スタートポイントが東京から離れてきたこともあり、さすがに今回【第7回】から行き帰りが観光バス利用です。この旅行会社の場合、自宅近くのJRさいたま新都心駅前から出発するので便利です。JRさいたま新都心駅を出発して約1時間、この日のスタートポイントのJR相模湖駅北口に到着しました。


この日は西日本各地が記録的豪雨に見舞われて大きな被害を出した1日で、気持ちの上では心配で、イマイチ乗れない1日だったのですが、遠く離れているとどうすることもできないので、ここは気分転換のために以前から予約していた甲州街道歩きを楽しむことにしました(その翌日に四国に着任しました)。この日は前線が南下してきて、関東地方も雨、それもかなりまとまった雨になるのではないか…と心配されたのですが、幸い朝からよく晴れて真夏の日差しが照りつけています。雨よりも熱中症のほうを心配する必要がありそうです。


JR相模湖駅前には神奈川中央交通の路線バスが出発を待っています。民営の路線バスは基本的に都道府県ごとに運行エリアが決められているため、神奈川県に入ると神奈川県の路線バスに変わります。小仏峠の東側までは白地に青いストライプの入った東京都の京王バスだったのが、小仏峠を越えて神奈川県に入ると黄色い車体の神奈川中央交通バス。こういうところに地域性を感じるのはバスマニアだけでしょうね。


JR相模湖駅前にある広場でスタート前のストレッチ体操です。この日は暑くなりそうで、こういう日は脚をつることが多くなるので、入念に脚をストレッチしてから、JR相模湖駅をスタートしました。


国道20号線と交差する相模湖駅前交差点を右折します。ここからしばらく国道20号線を歩きます。与瀬宿はこの相模湖駅前交差点あたりが東端で、与瀬下宿と呼ばれていました。甲州街道は小さな宿場が多いのですが、この与瀬宿も同様で、本陣1軒、脇本陣はなく、旅籠6軒という小さな規模でした。前回【第6回】でも書きましたが、日本橋から16458(63.4km)のところにある東西650(744メートル)の宿場で、天保14(1843)の記録によると人口566名、総家数114軒だったといわれています。 本陣は武田家の旧家臣・坂本家が勤めていました。甲州街道の宿場は他の街道に比べて小規模で利用者が少ないことからどこも貧しく、宿駅の決まりである人足25人、馬25疋を1つの宿場で負担するのはとても困難であったため、宿場同志で仕事を分け合ういわゆる“合宿(あいじゅく)”が行われていました。与瀬宿と東隣の小原宿は同じ与瀬村で、互いに合宿を組み、上り(諏訪・京都方面)は小原宿が、下り(江戸方面)は与瀬宿が分担しました。すなわち江戸方面へ向かう旅人は、与瀬宿で止宿した後、小原宿を素通りして小仏 へ向かい。甲府方面へ向かう旅人は、小原宿で止宿した後、与瀬宿を素通りして次の吉野宿へ向かうという片継宿場でした。

この道路の相模原市緑区与瀬~相模原市吉野間は連続雨量150ミリで“通行止め”になります。現在までの連続雨量は〇〇ミリです」という道路標識が出ています。この標識を見ると、国道20号線もここからいよいよ山岳区間に入っていくって実感が湧いてきますね。



相模湖駅前交差点から10分ほど歩くと与瀬上宿と呼ばれていたあたりになります。右側の一段高くなったところに「明治天皇小休所址碑」の碑が建てられ、傍らに「甲州古道  与瀬本陣」と記された標柱が立っています。ここは武田家の旧家臣・坂本家が勤めていた与瀬宿の本陣跡で、石の階段を上った先に石の 門柱が立ち、その右側の門柱には『旧本陣』と記されています。ただ門柱の中は小さなスペースがあるだけで、1つ前の小原宿と違い、特に本陣らしき建物は何一つ残されてはいません。ただ、ここの本陣はかなり規模の大きな本陣だったそうです。


慶応433日、雪の小仏峠を越えてきた近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)の一行はこの与瀬宿で宿営しました。そこに土方歳三の義兄で日野宿佐藤本陣の当主・佐藤彦五郎率いる日野の農兵「春日隊」22人が援軍として合流しました。甲陽鎮撫隊が日野宿の佐藤本陣に投宿した際、当主・佐藤彦五郎が申し出たものです。【第4回】の日野宿のところでも書きましたが、佐藤彦五郎は 近藤勇の剣術天然理心流の恩師近藤周助の門弟で近藤勇の兄弟子に当たり、また土方歳三の姉を妻にしているという間柄でもありました。京都時代から新撰組を精神的、 物的に支援してきた人物で、甲陽鎮撫隊へも物資の調達など主とした兵站を支援すべく参加したのです。春日隊の合流により甲陽鎮撫隊の隊士は総勢約200人になったといわれています。

この甲陽鎮撫隊ですが、隊長の近藤勇が大名格に任ぜられ、幕命により近藤勇は大久保大和守剛、土方歳三は内藤隼人と改称し、さらには幕府より5,000両の軍資金と大砲2(江戸幕府が提示したのは当初6門だったのですが、運ぶのが重かったので2門にしたと言われています)と銃500挺を受領すると意気揚々に甲州街道を甲府へ向けて進軍していったと言われています。しかし、5,000両の軍資金を渡され、近藤勇が大名格に任ぜられたのがよっぽど嬉しかったのか、途中立ち寄る宿場で次々と大宴会をしたおかげで進軍が遅れ、甲府に着いた時には土佐藩の板垣退助率いる新政府軍(東山道軍)が先に甲府城に入っていた…という実に間抜けなことをしでかしてしまいました。

そのため甲府城を要塞にして籠城戦で新政府軍を迎え撃つ…という当初の作戦は脆くも瓦解し、新政府軍(東山道軍)と勝沼において野戦にて交戦せざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。甲陽鎮撫隊は兵力・武力とも新政府軍と比べ脆弱で、わずか1日の交戦で壊滅してしまいました(甲州勝沼の戦い)。

甲陽鎮撫隊の残党は上野原まで退却後、そこで解散。各自めいめい勝手に江戸まで撤退し、ここに新撰組は完全に組織として終焉してしまいました。ちなみにこの時、土方歳三は1人隊から離れ、相州各藩に援軍を出してくれるよう直談判に行っていたので不在でした。土方歳三が隊に合流できたのは甲州勝沼の戦いの後、小仏峠の東側まで撤退した以降のことです。箱館五稜郭の戦いぶりを考えるに、土方歳三がずっと隊と行動をともにしていたら、もしかしたら日本の歴史は少し変わったものになっていたかもしれない…と、私は思っています。


本陣跡横の坂道が旧甲州街道で、「高野山真言宗 金峰山 慈眼寺」という寺院があります。驚いたことにこの慈眼寺の本堂はこの石段を登りこの先の中央自動車道を越えたところにあります。その慈眼寺の墓地には「彼岸花の群落」があるそうなのですが、訪れたのは7月。彼岸花の咲く時期にはちょっと早いので、残念でした。


その慈眼寺の横には「與瀬(与瀬)神社」の鳥居があります。この與瀬神社に祀られている主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)、創建時期は不明とのことですが、相当に古くからあった神社であることは間違いないそうで、「与瀬の権現様」として昔から地元の人達から親しまれている神社だというのでちょっと寄り道を…と思ったのですが、こちらも時間の都合でパスさせていただきました。

この與瀬神社の本殿も慈眼寺と同様、中央自動車道を越えた先にあります。神明系の“一の鳥居”を潜ると、その先に60段ほどの石段があり、その石段を登ると、中央自動車道を跨いで作られたちょっとした広場になっているようで、ウォーキングガイドさんの話によると、中央自動車道を越えたところに、今度は明神系の“ニの鳥居(赤鳥居)”があり、さらに石段を40段ほどの登ると仁王門があり、仁王像ではなく、武者像が納められているのだそうです。さらにさらに50段ほど、それも最後は足もすくむような急な石段を登ると、やっと大正3(1914)に再建されたという拝殿の前に出るのだそうです。昭和43(1968)に中央自動車道建設のため、現在中央自動車道が通っているところにあった與瀬神社の二の鳥居(赤鳥居)、慈眼寺の鐘楼を現在地に移し、別個にあった参道を併せて、この高架横断橋の構造になったのだそうです。


與瀬神社の一の鳥居の前には馬頭尊、元治元年(1784)に建立された聖徳太子と刻まれた石仏、蚕霊塔などの石塔石仏群が置かれています。蚕霊塔はこの地域で養蚕が盛んであったことを示しています。



国道20号線と並行して延びる旧道を歩きます。この細い道が旧甲州街道です。旧道はすぐに中央自動車道に行く手を遮られます。ここはいったん階段を降り、中央自動車道の高架の下を細い歩道で潜ります。その下を国道20号線が通っています。中央自動車道をひっきりなしにクルマが高速で行き交う音がすぐ頭上から聞こえます。おそらく旧甲州街道は国道20号線や中央自動車道の建設工事の中で分断されてしまったのでしょう。あまりできない経験です。


中央自動車道の高架下から階段を登り、旧甲州街道に戻ります。旧甲州街道に現代の甲州街道(国道20号線)、そして中央自動車道が交差して、そして並行して延びる…、なかなか印象的な光景です。


ここからの旧甲州街道は中央自動車道の傍を縫うように林の中を進むのですが、木々の間から中央自動車道を高速で走行するクルマの音が耳に届いてきます。


陣馬山へ至る「明王峠」と刻まれた石でできた道標が立っています。明王峠は奥高尾縦走路上の峠(標高738.9メートル)としても知られています。その道路はゲートが閉じられて進入禁止になっていて、そのゲートに「この付近にイノシシ捕獲のための罠があります。注意してください」という相模原市の注意書きが出されています。周囲はイノシシが突然飛び出してきても不思議でない雰囲気です。


ここから旧甲州街道はなかなかワイルドな道になります。



細い道を下っていくと、下を沢が流れていて、そこにその沢を渡るための小さな木橋が架かっています。古い橋なのでところどころ朽ちていて、安全のため1人ずつでしか渡れません。ウォーキングガイドさんから「くれぐれも飛び跳ねて渡らないように!」と声がかかります。この木橋、雨で沢が増水した時は沢に水没するそうで、晴れた日でないと渡れないそうなので、ラッキーでした。


木橋を渡った先は急勾配の坂になっていて、文字通り“かきつく”ようにして木の根っこを掴んでその坂道をよじ登っていきます。前回【第6回】の小仏峠越えで“峠越え”の楽しさに目覚めた妻は今回も同行しているのですが、このワイルドな道に再び大興奮。「メッチャ楽しい!」…って歓声を上げています。おいおいおい…。妻の意外な一面を見ました。


さらに細い坂道を登っていきます。


ちょっと開けたところに出てきたと思ったら、そこに「貝沢の一里塚」と書かれた道標が立っています。ここに江戸の日本橋を出てから16里目の貝沢一里塚がありました。かつてはここに塚があったのかもしれませんが、今は木の道標が立っているだけです。



さらに細い山道を進んでいきます。


旧道の細い土の道を行くと、甲州古道とその場所の地名が書かれた木製の道標が所々に立てられています。ここは横道という地名の集落のようです。


左手眼下に相模湖が見えます。下を走っているのは中央自動車道です。ここまでかなり登ってきたので、随分と高いところを通っているようです。眼下に湖面が見える相模湖は戦後まもなく相模ダムが完成したことによって出来たもので、それ以前はここからは湖底に沈んだ勝瀬地区の集落が見えました。

甲州街道は畑や人家などを左手に見下ろしながら山の中腹を通っていて、遠くに山の重なりを見晴るかす…という感じで、広々とした山間部の風景を眺めながら山際に沿って延びていきます。人家はかなり下に見える場合もあります。周囲には水田はほとんどなく、山の斜面に畑が拓かれていて、かつては養蚕業や林業を主体とした生業であったことを示しています。


……(その2)に続きます。




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