2018年9月6日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第4回:赤坂見附→虎ノ門】(その4)


再び霞ヶ関コモンゲート前から横断歩道橋で外堀通りを渡り、江戸城外濠の隅櫓(すみやぐら)「溜池櫓」が置かれていた石垣の一部が残る商船三井ビルと虎の門三井ビルのところを横に入ります。

虎ノ門金刀比羅宮です。この金刀比羅神社は万治3年(1660)、讃岐国(現在の香川県)丸亀藩初代藩主・京極高和 (当初の藩主は生駒氏、山崎氏を経て万治元年(1658)に播磨国龍野藩より京極高和が入封) が江戸藩邸を愛宕下(芝・三田)に建造した際、讃岐金刀比羅大神を屋敷社として藩邸内に勧請したことが創祀とされ、延宝7(1679)、丸亀藩江戸藩邸(上屋敷)の移転に伴って現在の虎ノ門の地に遷座されたものです。

東京にある金刀比羅神社としては、水道橋の讃岐国高松藩松平家上屋敷跡にもありましたが、あちらは金刀比羅宮東京分社。本家本元の金刀比羅神社はあくまでもこちらです。讃岐国の金刀比羅神社があるところ(現在の香川県仲多度郡琴平町)は旧丸亀藩の領地ですからね。実は香川県丸亀市は私が中学校高校時代という多感な時期を過ごしたところ、転勤族の子供であった私にとって一番長く住んだところです。なので、愛媛県生まれではあるのですが、出身地を聞かれると長らく「うどん県(香川県)の丸亀です」と答えていました。そういう私ですので、この虎ノ門に金刀比羅神社があるのは以前から知っていましたし、過去に参拝に訪れたこともあります。ですが、何故、この虎ノ門に金刀比羅神社があるのかについては、恥ずかしながらこれまで知りませんでした。それってここに讃岐国丸亀藩京極家の上屋敷があったからなのですね。上屋敷ということは、我等が丸亀藩のお殿様が参勤交代で江戸に来られた時に滞在し、執務を執られていた場所、すなわち「丸亀藩江戸事務所」ってことなのですね。これで繋がりました。


この虎ノ門金刀比羅神社は本家の讃岐国の金刀比羅神社と同様、祀られている主祭神は五穀豊穣、豊漁満帆、海陸安穏、万民泰平をもたらす大物主神と、保元の乱後、讃岐国に流され金比羅宮を崇敬していた崇徳天皇です。江戸城裏鬼門の位置にあり、江戸城の鬼門除けの神としても鎮座していました。以来、一般庶民からも「虎ノ門琴平大権現」と称えられ、五穀豊穣、豊漁満帆、海陸安穏、万民太平の御神徳が広まり、東国名社の1つとして信仰を集めました。豊漁満帆の神様なだけに、さすがに魚市場のある築地の方々からの御寄進が多いようです。


その信仰の篤さは想像を絶するもので、毎日のように江戸の町民達が大挙して丸亀藩上屋敷を訪れて門の外から拝むものですから、毎月10日間だけ江戸の町民のために屋敷の門を解放し邸内への参拝を許可したところ、江戸中の人が参拝に訪れ、瞬く間に2万両という大金の賽銭収入が集まったのだそうです。

浪曲師の先代広沢虎造の十八番に『清水次郎長伝』がありますが、そこに「石松金比羅代参」「石松三十石船道中」という演目があります。清水次郎長一家の森の石松が、大坂の八軒屋から伏見へと淀川を上る三十石船でたまたま乗り合わせた「次郎長こそが海道一の親分だ」と語る江戸ッ子に対して知っている清水次郎長一家の子分の名前を聞いたところ、なかなか石松の名前が出てこないので「あんた江戸っ子だってねぇ、食いねぇ、寿司食いねぇ〜」と酒と寿司を勧めて石松の名前と噂を聞き出そうとする有名な台詞がある演目です。これは病で妻に先立たれたばかりの親分・清水次郎長とともに悪代官・竹垣三郎兵衛と宿敵・保下田(ほげた)の久六を乙川の決闘で討ち果たした森の石松が、親分の御礼参りの代参で讃岐国の金刀比羅神社へ悪代官竹垣三郎兵衛と保下田の久六を斬った刀を納めに出掛けた帰りの時のことを描いたものです。

このように当時の庶民にとってはお伊勢参りと並んで金比羅(金刀比羅宮)詣では霊験あらたかな憧れの旅でした。それをわざわざ遠く四国の讃岐国まで出掛けなくても江戸で参拝できるのですから、大勢の人が押し掛け、2万両もの賽銭収入があったというのも頷けます。


この明神型の銅製の鳥居も江戸の町民達が文政4(1821)に奉納したもので、左右の柱上部に四神の彫刻が施されている大変珍しいものです。四神とは四方の守護神であり、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守る霊鳥霊獣のことです。もちろん、虎ノ見附(虎ノ御門)はそのうちの西の守護神・白虎です。鳥居にこれら霊鳥霊獣が付けられているのは、この虎ノ門金刀比羅神社だけなのだそうです。柱にはこの銅鳥居を奉納した江戸の町人達の名前が刻まれています。それにしても、江戸時代後期の盛んな信仰を反映してか、江戸っ子好みの随分と派手な作りの鳥居です。平成13(2001)、港区の有形文化財に指定されました。


この百度石も江戸の町人が奉納したものです。正面に「百度石」、背面には「大願成就」の銘があり、心願が叶えられたお礼に建てられたものであることが分かります。こうした百度石が保存されているのは港区内では非常に珍しく貴重であり、平成9(1997)に港区の文化財総合目録に登録されました。

ちなみに、丸亀藩は金刀比羅神社への参道である丸亀街道と多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした観光業は藩財政を大きく潤おしていました。幕末になり財政が逼迫すると、江戸詰の藩士達は上屋敷の隣に同じく上屋敷を構えていた肥前国大村藩大村家の藩士達から団扇(うちわ)の作り方を学び、その技術を国元に持って帰って内職で作り、“◯に金の字が描かれた赤い団扇を金毘羅参りの土産物として売るなどの策をとり、財政を立て直したと言われています。その後、団扇(うちわ)作りは丸亀藩の一般町民にも広まり、丸亀の名物となりました。

虎ノ門金刀比羅神社の社殿は本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、舞楽殿、社務所、講堂、東門、西門、中門で構成されています。また、境内には、産日社・喜代住稲荷が本殿に向かって右側に祀られています。この銅板葺きの権現造りの拝殿・幣殿は第二次世界大戦の東京大空襲で焼失したため、昭和26(1951)に再建されたものです。こちらは、平成13(2001)、東京都選定歴史的建造物に選定されています。また、幣殿の奥に位置する本殿は昭和58(1983)に再建されたものです。


社殿横には縁結びの「結(むすび)神社」や金運の「喜代住稲荷」という人気の神社も祀られています。特に「結神社」はその縁起は定かではありませんが、江戸時代から良縁を求める若い女性達の間で篤い信仰を集めていたのだそうです。江戸時代の女性達は、この神社の前で自分の黒髪の一部を切り取り、あるいは折り紙を持参して、社殿の格子や周囲の木々に結びつけて、良縁祈願を行なったのだそうです。


ちなみに、虎ノ門金刀比羅神社では毎月10日に縁日が立ち、その際、神楽殿で里神楽が奉納されます。また、1010日の大祭には、王朝風の浦安舞が奉納されます。


敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワーがあり、社務所や神楽殿といった施設と一体化しています。


私はあまり信心深いほうではないので、これまで御朱印帳なるものを持っていなかったのですが、せっかくなのでこの虎ノ門の金刀比羅神社で御朱印帳を購入しました。栄えある1つ目の御朱印はこの金刀比羅神社のものです。御朱印には、金刀比羅神社を示す「丸に金の字」の表紋の隣に、天狗の持つ葉団扇の紋が描かれています。これは、江戸の庶民が「虎ノ門の金刀比羅宮には天狗が在します(まします)」と噂したことに由来する陰紋なのだそうです。

う〜〜ん、確かに讃岐国(香川県)の金刀比羅神社も天狗との関わりが深かったと言われていますわね。平安末期に保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐に配流され、亡くなられたあと金刀比羅神社に合祀されたのですが、怨霊となった崇徳上皇はその後、大天狗のなかの大天狗になったとされています。その後、戦国時代になると一時期金刀比羅神社は荒廃してしまい、それを見かねた修験僧の金剛坊宥盛が金毘羅大権現への信仰を広め、再興を果たしたのですが、この金剛坊宥盛は、亡くなる直前に天狗になったという伝説も残されています。このためか江戸時代になると、白の行者装束に天狗の面を背につけた「金毘羅道者(金毘羅行人)」と呼ばれる行者が全国各地を遍歴して、金毘羅大権現を広めていったと言われています。さらに、江戸時代中期頃から盛んになった金毘羅参りでは背中に大きな天狗の面を背負って行き、その天狗の面を金刀比羅神社に奉納するということが行われたそうですから、金刀比羅神社(金毘羅さん)と天狗との関わりは深かったようです。

さぁ〜て、せっかく御朱印帳を入手しましたので、これから街道歩きなどで持ち歩き、訪れる神社の御朱印を集めることにしますかね。

この日は18,091歩、距離にして13.1km歩きました。距離は短かったものの、見どころの多い回でした。次回はこの虎ノ門から浜離宮まで歩きます。次回も距離は短いものの、見どころは多そうです。



――――――――〔完結〕――――――――

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