2018年9月30日日曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第6回:新橋→竹橋】(その6)



東京国際フォーラムを出て、先へ進みます。

このレンガ(煉瓦)造りの建物は三菱一号館です。この三菱一号館とは、明治27(1894)、現在の東京都千代田区丸の内に建設された日本初のオフィスビルで、レンガ(煉瓦)造りの建物内に三菱グループに属する会社や銀行が入居していました。元々の建物は昭和43(1968)に三菱地所が解体したのですが、平成21(2009)に元の場所とはやや異なる位置に同社により復元されました。


遠くに見えるレンガ(煉瓦)造りの建物はJR東京駅丸の内駅舎です。この建物は辰野金吾博士の設計により大正3(1914)に竣工した鉄骨レンガ(煉瓦)造り駅舎です。関東大震災でも大きな被害は受けなかったのですが、昭和20(1945)の空襲で外壁、屋根、内装等が損壊。戦後、3階建てを2階建てとする応急的な復興工事が行われました。2003年に国の重要文化財に指定され、2007年〜2012年にかけて行われた大改修の際に元の3階建てに復元されました。日本を代表する美しい駅舎です。前述のように、1階と2階の部分は大正3年に竣工した当時のレンガ(煉瓦)が残っているのですが、3階の部分だけは第二次世界大戦の東京大空襲で燃え落ちたため、2012年に昔の姿に戻されたものです。近くでよく見ると2階と3階で使われているレンガ(煉瓦)が異なり、その境界が分かるのだそうですが、遠目からだとまったく違いは分かりません。


JR山手線等の線路の下を鍛冶橋架道橋で抜け、外堀通りまで歩きます。この外堀通りがかつて外濠だったところで、堀が埋め立てられたのは昭和33(1958)のことです。ここに「鍛冶橋御門跡」の表示が立っています。


鍛冶橋御門は寛永6(1629)に陸奥国や出羽国といった東北地方の大名によって築かれました。門前には鍛冶屋職人が多く住み鍛冶町と呼ばれていたので、その名を取って鍛冶橋御門と名付けられたと言われています。鍛冶橋交差点より少し内側に入った鍛冶橋通り上に枡形があり、その外側に橋が架かっていました。外濠通りと交差する鍛冶橋通りを左にいくと江戸城(現在の皇居)馬場先門に通じます。


鍛冶橋交差点を渡り、JR東京駅の八重洲口のほうに進んでいきます。



JR東京駅の八重洲口です。この八重洲という地名はオランダ人の航海士ヤン・ヨーステン(ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン)に因むものです。ヤン・ヨーステンはオランダの商船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイギリス人ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)とともに極東を目指していたのですが、大変な航海の後、関ヶ原の戦いが起こる直前の慶長5(1600)に豊後国(今の大分県)臼杵に漂着しました。その後、航海長であったイギリス人ウィリアム・アダムスとともに徳川家康に徴用され、外国使節との対面や外交交渉に際しての通訳を務めたほか、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等を家康以下の側近に指導しました。その功績により旗本に取り立てられ、帯刀を許されたのみならず、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人女性と結婚しました。屋敷のあった場所は現在の東京駅の東側にある八重洲のあたりで、この“八重洲”の地名は彼の名前ヤン・ヨーステンに由来すると言われています。すなわち、ヤン・ヨーステンが訛った日本名“耶楊子(やようす)”が後に八代洲(やよす)”となり、さらに八重洲(やえす)”になったとされています。


JR東京駅の八重洲口は大きな高速バスのバスセンターになっていて、関東近郊のみならず首都東京と全国の主要都市を結ぶ長距離の高速バスが頻繁に出ています。



……(その7)に続きます。

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