2018年9月14日金曜日

甲州街道歩き【第7回:相模湖→上野原】(その5)


境沢橋の向こうに白いアーチ橋が架かっていて、こちらは境川橋。その境川橋のたもとのT字交差点を右折するので境川橋は渡りません。


で、ここからがこの日最後の“胸突き八丁”とも言える登り坂でした。つづら折りになった坂道を登っていきます。ここまででかなり疲れてきているので、この坂はハンパなくキツい!!  この日のゴールである上野原市役所まであと残り2kmだということは分かっているのですが、そこまで辿り着けることができるのかどうかが不安になるくらいにキツい!!   それは私だけでもないようで、隊列が徐々に乱れ始めます。


これはサルスベリの花でしょうか?


眼下に相模湖が見えます。湖面から考えると、かなり標高の高いところまで登ってきていることが分かります。これは本当にキツかった……。実際に歩いてみると、現在の国道20号線のルートとはかなりずれているところがあって、「ああ、このあたりの甲州街道はこういうルートで、こういう景観が広がっていたんだなぁ~」とあらためて山間を通る甲州街道の雰囲気を実感することができます。地図では高低差がほとんど分かりませんが、実際に歩いてみると高低差(上り下りの連続と息のあえぎ)を実感することができ、道を進み、道を曲がるごとに新しい景観が展開し、かつての旅人の気分を味わうことができます。


それでもなんとか坂道を登りきったところの擁壁の上に「諏訪関跡」の石碑が立っています。道の両側にわずかに石垣が残っています。相模国と甲斐国の境界を流れる境川から「境川の関所」が正式名称だったようなのですが、諏訪村にある諏訪神社に近いところにあるので、俗に「諏訪の番所」と呼ばれていました。説明書きには、当時は通行人の取調べ、物資出入り調べ、鶴川渡し場の取り締まりなどを行っていたと書かれています。一般にこの当時の関所では「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳重であったと言われていますが、説明板によると、この諏訪の関所(境川の関所)では通行手形改めは江戸に入る女性以外は不要だったとなっています。これはこの手前の駒木野にあった小仏関所で江戸に入る男女の手形改めをしていたことで簡略化されたものと思われます。


諏訪の関所の隣はちょっと大きい自動車教習所になっています。その自動車教習所の敷地の横の道を進みます。



曹洞宗の寺院、慈眼寺です。慶長7(1602)に開山された寺院で、本堂は大正5(1916)に倒壊し、昭和5(1930)に地元の名士が私財を喜捨して再建したものだそうです。この慈眼寺に『愚痴聞地蔵』があります。新しいもののようですが、「愚痴をこぼしたいことが多い今のご時世。この地蔵に向かって愚痴を思いっきり吐き出し、少しでも人々の心を和ませてくれたら…」との思いで建立されたもののようです。妻がその愚痴聞地蔵の前で少し長い時間手を合わせて拝んでいたのがちょっと気がかりです。私に対する愚痴でも呟いていたのかなぁ〜。心当たりはいっぱいあるし…()


その隣にある日蓮宗の寺院、上原山 船守寺です。境内に「船守弥三郎の碑」が建てられています。ここは日蓮聖人が伊豆の川奈で法難を受けた折に、命の危険を顧みずに30日あまりに渡って日蓮聖人を岩屋に匿った船守弥三郎夫妻の遺骨を川奈から分骨し、祀ったものなのだそうです。この上野原は船守り弥三郎の出生地で、上野原の地名もその時に日蓮聖人から賜った上原上野介の名前に由来すると言われています。


諏訪神社です。鳥居には「諏訪神社」と書かれた額が掲げられていますが、拝殿には「古郡神社」と書かれた額がかけられています。かつてこの地を支配した古郡(ふるごおり)氏が諏訪神社を勧請したことから「古郡神社」とも呼ばれています。



境内の由来書きによると…、この神社に祀られているご祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト:『古事記』によると大国主神の御子神)。康治年間(1142年〜1143)、武州横山党の横山三郎忠重が当地「古郡(ふるごおり)の郷」に派遣され、土着して古郡忠重と名乗り、久安年間(1145年〜1150)に一族の氏神として古郡神社を創建したとされています。古郡一族は、鎌倉時代初期の建暦3(1213)に鎌倉幕府内で起こった有力御家人和田義盛の反乱である「和田の乱」で和田義盛に加担し、同年に滅亡します。建長年間(1249年〜1256)、建長寺の開山僧の1人、大覚禅師がこの地を訪れ、荒廃した社殿を再建し信州諏訪大社の御霊を分かちて祀り、「古郡神社諏訪大明神」と称したと伝えられています。

その後この地は源頼朝の信望が厚かった甲斐国浅羽郷の加藤入道景廉の孫、景長に与えられ、永禄2(1559)から天正10(1582)に武田氏が滅亡するまで加藤丹後守景忠と加藤弥次郎信景が上野原城主となり神社を守りました。天正5(1577)、加藤丹後守景忠と嫡男の千久利丸が社殿を再建したのですが、天正10(1582)の都留郷攻めの際に後北条氏により放火され焼失してしまいました。慶長9(1604)に本殿が修復され、その後幾度も改修改築され、現在の社殿は寛文10(1671)及び享保21(1737)に修復されたものが元になっているのだそうです。境内の巨木群が古い歴史を有する神社であることを表しています。


この日のゴールである上野原市役所を目指してラストスパートです。ラストスパートと言っても、強い日差しの中、アップダウンの激しい山道を歩いてきたのでかなり疲れが出ていて、歩くペースはなかなか上がりません。


これは真新しい馬頭観音碑ですね。


旧街道らしく由緒を感じる民家が建ち並んでいます。この家の表札には「油屋」の文字が…。屋号でしょうか?


これも比較的新しい「旧甲州街道」と刻まれた石碑です。「あいさつをかわす思いやりの道」、「昔をしのぶ思いでの道」という文字も刻まれています。


中央自動車道の上を超えます。既に上り車線(東京方面)は渋滞が始まっているようです。


疱瘡神社という珍しい名称の神社があります。由緒書きには次のようなことが書かれています。


『この地に残る伝承と記録によりますと、江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある越前国(福井県)湯尾峠生まれのあばた顔の老婆が諸国遍歴の途中この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して「この地を疫病から護る。疱瘡の神を祀れ」と言い残して亡くなりました。そこで村人は湯尾峠から疱瘡の神を勧請して、萬治4(1661)3月、疱瘡神社を建立しました。

当時、疱瘡(天然痘)は伝染性が強く激烈で不思議な症状を示すため、人々は「これは鬼神の仕業である」と考えて恐れ、神に祈って免れようとしました。我が国には6世紀に仏教伝来とほぼ時を同じくして侵入し、大流行を繰り返して多数の死者を出し、日本人を長くかつ深く苦しめた疫病です。そのため人々の疱瘡神への崇敬は篤く、往時、疱瘡神社の3月と12月の祭礼は参詣で賑わいましたが、種痘によって疱瘡が絶滅してからはそれも絶え、今日、地域の人々によって祭りが営まれ、神社の維持が図られています。』



この疱瘡神社の裏側に江戸の日本橋を出てから18里目の「塚場一里塚」がありました。かつてはここに塚木であるモミの木があったのだそうですが、現在は塚だけが残り、案内板が立っているだけです。


右後方から国道20号線が接近してきて合流します。ここが上野原宿の江戸方(東の出入口)でした。


上野原宿は甲州街道が相模国から甲斐国へ入って最初の宿場で、天保14(1843)の記録によると、家数159軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠20軒、人口684人という少し規模の大きな宿場でした。この地は河岸段丘の上に位置し、周囲が四方崖になっていて、この崖の上にある平らな広野であったことから「上の原」という地名となったとも言われています。ここは八王子の追分町交差点で分岐した甲州街道の裏街道である陣馬街道(山梨県道・神奈川県道・東京都道521号上野原八王子線)と再び合流する追分でもありました。このため絹の市でたいそう賑わったと言われていますが、絹製品の衰退で今はその面影は残っていません。また、現在は宿場の中心を国道20号線が通っていて、かつての宿場の面影を探すことも難しい状態になっています。


富士急山梨バスの路線バスが私達が歩く横を通り過ぎて行きました。民営の路線バスは都道府県ごとに運行範囲が決まっていると書きましたが、山梨県の郡内地方と呼ばれる都留郡一帯を運行しているバス会社がこの富士急山梨バスです。富士急山梨バスは富士急行の地域子会社で、この上野原市をはじめ大月市、富士吉田市、山中湖村、富士河口湖町、甲府市などに路線を持っています。富士急山梨バスの車体の塗色は若草色の地に斜めにカットした濃い緑のラインが多数入る「グリーンベルト」と呼ばれるカラーリングで、これは富士山の四季をイメージしたものなのだそうです。地元の特徴をバーン!と前面に押し出しながらも実に落ち着いたシックなカラーリングで、樹々の多い沿線の風景にも見事にマッチし、なかなか個性的かつ魅力的な塗色です。私の中では以前から全国の路線バスの塗色の中でナンバーワンではないか…と思っています。

富士急行はこの先の大月駅から河口湖駅まで鉄道を運行しています。現在は元JR東海やJR東日本、小田急電鉄、京王電鉄からの譲渡車両が主体ですが、特急「フジサン特急」や特急「富士山ビュー特急」、快速「富士登山電車」、「トーマスランド号」等、それぞれ個性的な塗色の車体を纏って、世界遺産である富士山の麓を走っています。なかなか車体の塗色にこだわられる会社のようです。


上野原の名物といえば、炊いた米と米麹を合わせて一晩発酵させたものを生地に練りこんで作る「酒饅頭」です。上野原の市内には酒饅頭の専門店が10店舗ほどありますが、中でも一番有名なのがこの「永井酒饅頭店」。看板に創業百有余年という文字が書かれていますが、上野原で最初に酒饅頭を作ったのがこの永井酒饅頭店なのだそうです。老舗中の老舗、“元祖”酒饅頭ってことですね。是非食してみたいと思ったのですが、ご覧のように残念ながら閉店していました。この日の販売数がすべて売り切れたようです。それほどの人気店です。


山梨のお土産といえば信玄餅ですね。その信玄餅の桔梗屋の店舗がこの上野原にもありました (永井酒饅頭店の真ん前です)


このホテル・ルートイン上野原が建っているところが上野原宿の脇本陣(若松屋)があったところです。説明板も含め、脇本陣だった痕跡はどこにも残っていません。



こちらは本陣の跡です。「旧本陣跡」という表札の掛かった門だけが残っています。この堂々とした門から類推するに、相当に立派なお屋敷だったのではないか…と思われます。この本陣は明治13(1880)の明治天皇御巡行の際に行在所となりました。そのことを示す石碑が建っていますが、今は一般民家の敷地内のため、遠くから写真を撮影するだけです。


先ほど上野原宿は宿場の中心を国道20号線が通っていて、かつての宿場の面影を探すことも難しい状態になっているということを書きましたが、ところどころに宿場町だった頃の面影を残している建物があります。


上野原と東京都あきる野市を結ぶ山梨県道・東京都道33号上野原あきる野線が分岐する変則交差点のところで左側の側道に入っていきます。この道が旧甲州街道でした。


すぐに右折します。ここがこの日の甲州街道歩きのゴールで、右折して国道20号線を渡ったところにある上野原市役所の駐車場で待っている観光バスに乗ってJRさいたま新都心駅に戻りました。車内の冷房が心地いいです。

この日は23,152歩、距離にして17.1km歩きました。

次回【第8回】の甲州街道歩きはこの上野原宿を出て、鶴川宿、野田尻宿を経て、犬目宿まで歩きます。前回【第6回】で甲州街道の難所と言われる小仏峠を越えたこともあり、今回【第7回】は正直多少ナメていたようなところがありました。ですが、事前の想像と異なり、かなりアップダウンの激しいタフな街道歩きとなりました。実際、私の中ではこれまでの街道歩きの中で12を争うくらいにキツい区間になりました。ですが、このコース、今回の私達のように江戸から甲府(下諏訪)を目指すよりも、逆に甲府(下諏訪)から江戸を目指すほうが遥かにキツいコースのように思えます。同じ坂道でも江戸からだと登りは距離はあるものの比較的緩やかなダラダラとした登り道、いっぽう下りは距離は短いものの勾配がかなり急な下り道でしたから。これが反対だと、かなり肉体的にこたえます。甲州街道は江戸幕府が作った軍事道路の色彩の濃い街道だということを一番最初に書きましたが、それってこういうところにも表れているのかもしれません。西国から甲州街道を使って攻め込まれても、ここで進軍のスピードを抑えられ、しっかりと時間稼ぎができますからね。

旧甲州街道はこれから甲府までの区間、このように相模川水系の支流・桂川や笹子川の河岸段丘の上を縫うような道が続いているということなので、これは毎回性根を入れて歩かないといけません。特に次回【第8回】で歩く上野原宿→鶴川宿→野田尻宿→犬目宿のルートは国道20号線やJR中央本線からは北側にかなり離れた山の中を通るルートで、歩く距離は約10kmと短いものの標高差は約250メートルもあり、途中、犬目宿の手前には「座頭転がし」と呼ばれるかなり急峻な坂もあるそうなので、トレッキングシューズは必須のようです。しかも、真夏にここの急坂を歩くのは熱中症にかかる危険性も非常に高いということで、8月はお休み。9月になってから歩きます。

甲斐路に入り、甲州街道歩きも旧街道の趣きが今も色濃く残る実に面白い区間に入ってきました。次回以降も楽しみです。


――――――――〔完結〕――――――――

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