2020年8月24日月曜日

『坂の上の雲』3部作(その3)

 

公開日2019/3/07

[晴れ時々ちょっと横道]第54回:

『坂の上の雲』3部作(その3)


ついに完成しました。縮尺1/300の松山城のペーパークラフトです。以降、本物の写真と併載しますが、ほとんど違和感を感じさせないほどリアルに出来上がっているでしょ。

四国愛媛、特に松山市に所縁(ゆかり)の深い皆様、お待たせいたしました。私の次のペーパークラフト作品は『松山城』の天守(天守閣)です。標高132メートルの城山(勝山)の山頂に建つ松山城は、建物の陰でない限り松山市内(松山平野)のほぼどこからでも見ることができ、江戸時代から今日に至るまで松山城天守は圧倒的な存在感を放つランドマークとして、松山市のシンボルと言ってもいいような存在です。私の実家は市内中心部から東へ3kmほど離れた畑寺・三町地区にあるのですが、もちろんそのあたりからでも遠くに松山城の姿を見ることができます。時折帰省した時に実家の近くから子供の頃から見慣れた松山城の姿を目にすると、「あぁ、松山に帰ってきたんだな…」って実感し、安堵感を覚えちゃいます。このように、松山城は松山市民、そして松山に所縁のある人々にとっての心の拠り所のような存在でもあります。そして、この『松山城』のペーパークラフト作品は、『戦艦三笠』、『坊ちゃん列車』に次ぐ、私の『坂の上の雲』シリーズ3部作の最終・第3弾でもあります。

標高132メートルの城山(勝山)の山頂に建つ松山城は、松山平野のほぼどこからでも見ることができ、江戸時代から今日に至るまで圧倒的な存在感を放つランドマークとして、松山市のシンボルと言ってもいいような存在です。

ペーパークラフトの王道と言えば建物。これまで船や鉄道車両、バスといった乗り物ばかり製作してきましたが、ついに建物の建築に乗り出しました。この松山城天守のペーパークラフトキットは
CanonさんのHPから無料ダウンロードしたものです。さすがにプリンターメーカー大手のCanonさん、インクや用紙の販売促進用()なのか、様々なペーパークラフトを無料でダウンロードできるようにしてくれています。このCanonさんのペーパークラフトは上級者向けで、なかなか本格的なものが多いのが特徴です。この松山城のキットなんか、なんと展開図の枚数がA4版用紙で18枚!! 部品の総数が200弱。面倒くさい曲面の加工部分はほとんどないものの、部品の点数がやたらと多く、部品の形も複雑なものばかりで切り出しに細心の注意と時間がかかり、半端なく根気の要る作業でした。ちなみに我が家のプリンターもCanon製です。

松山城を南東から見たところです。一番町や三番町といった市内中心部から見上げる方角です。

大天守です。この大天守は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年に落成した江戸時代最後の完全な城郭建築です。

松山城は松山市の中心部に聳える勝山の山頂(海抜132メートル)に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城です。姫路城、和歌山城と並んで日本三大平山城にも数えられる名城です。山頂の本丸・本壇にある天守は、日本の12箇所に現存する天守 (『現存12天守』と呼ばれています) 1つです。築城したのは豊臣秀吉の子飼衆で、賤ヶ岳の七本槍・七将の1人の加藤嘉明。慶長7(1602)、伊予国正木城(現伊予郡松前町)城主で10万石の大名であった加藤嘉明は関ヶ原の戦いで東軍(徳川軍)に味方し、石田三成の本隊と戦って武功をあげ、その戦功により20万石に加増。それを機に家臣・足立重信を普請奉行に任じ、まず石手川の流れを変えて、これをそれまで伊予川と呼ばれていた氾濫の多い暴れ川(現在の重信川)と合流させるという大規模な河川改修工事を行い、地歩を固めました (その偉業を讃え、足立重信は現在の一級河川・重信川にその名を残しています)

次に、慶長6(1601)、道後平野(松山平野)の中にポツンと立つ勝山の山頂(海抜132メートル)に城を建造する許可を徳川家康より得て、築城に着手。同時に城下町の整備も着手しました。慶長8(1603)、加藤嘉明は本拠地を正木から勝山に移すことを決定し、その勝山に築城中の城のことを「松山城」と命名しました。そして、これを機にその周辺の地名も勝山から「松山」と改名し、松山という地名が公式に誕生しました。すなわち、松山の原点がこの松山城というわけです。

しかしながら、寛永4(1627)、加藤嘉明は松山城が完成する前に435,500石に加増されて陸奥国会津藩へ転封となり、代わりにそれまで会津藩主だった蒲生忠知(戦国武将・蒲生氏郷の孫)24万石の松山藩主になりました。寛永11(1634)、蒲生忠知が参勤交代の途中に死去し蒲生家が断絶すると、隣接する大洲藩主の加藤泰興が松山城を一時的に預かり(松山城在番)、その翌年の寛永12(1635)に徳川家康の異父弟・松平定勝を宗家初代とする久松松平家の宗家2代目である伊勢国桑名藩主だった松平定行が15万石の松山藩主に転封となり、松山城に入りました。その後、幕末まで松山城は久松松平家の居城となりました。

その際の寛永19(1642)、創建当初5重であったという天守を、松平定行が3年の年月をかけて3重に改築しました。これにはあまりに立派な天守だったので江戸幕府に配慮したためという説がありましたが、近年では本丸・本壇の地盤の弱さに起因する天守の安全確保のためというのが正しい説ではないかとされています。

本丸・本壇の入り口付近です。一ノ門、二ノ門、三ノ門と狭い門が次々と続きます。
小天守です。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二の丸・三の丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。
一ノ門はこの坂を登りきったところで枡形を右に曲がったところに設けられています。
一ノ門は天守に通じる本壇入口を守る門で、木割も大きく豪放な構えとなっています。形式は建物上からの攻撃が容易な高麗門です。

9代藩主・松平定国(8代将軍徳川吉宗の孫)の天明4(1784)に天守を含む本丸・本壇の主な建物が落雷により焼失したのですが、第11代藩主の松平定通が焼失後37年を経た文政3(1820)に城郭の再建に着手。作業場の火災で頓挫するなどの幾多の苦難を乗り越え、34年後の安政元年(1854年:黒船来航の翌年)、次の第12代藩主・松平勝善の時に悲願の天守を含城郭の復興工事が完成しました。

二ノ門と三ノ門の間は枡形という方形空間となっていて、そこに入り込んできた敵を小天守・一ノ門南櫓・二ノ門南櫓・三ノ門南櫓の四方から攻撃できるようになっています。また、二ノ門と右奥にある仕切門の間は大天守と右手前の天神櫓で守る構造です。

筋鉄門です。筋鉄門は櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する重要な門です。この門の櫓は小天守と大天守を繋ぎ、三ノ門から侵入する敵の正面を射撃する構えとなっています。

現存する大天守はその安政元年(1854)に竣工した建物で、33階地下1階の「層塔型天守」です。大天守の1階は260平方メートル、2階は174平方メートル、3階は105平方メートル、大天守の高さは約21メートル。欅(ケヤキ)、栂(ツガ)、樟(クスノキ)材を用いて建てられています。その大天守を護るように小天守が築かれています。小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二之丸・三之丸方面を監視防衛する重要な位置にあります。大天守、小天守、隅櫓を渡櫓で空から見ると四角になるように環状に互いに結び、防御に徹したこの天守建造物群は、我が国の代表的な「連立式天守」を備えた城郭、さらには慶長期の様式を引き継ぐ江戸時代最後の完全な城郭建築と言われています。さすがに城づくりの名手と言われた加藤嘉明が築城した城です。鉄壁の防御態勢です。

大天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓を3つの渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、我が国の代表的な連立式天守を備えた城郭といわれています。
大天守です。右は筋鉄門、左の門が内門で、天守広場に入るにはこの2つの門しかありません。現在は天守の入り口として使用されていますが、大天守の内門脇にある小さな入り口は穴蔵で、地下1階にあたり、穀倉や米蔵として使われていました。

空に向かって聳える城郭のシンボル・天守(天守閣)。多くの方が、天守で城をイメージされるのではないかと思います。しかし一口に天守と言っても、全国には様々な形や色の天守があり、その外観は似ることはあっても全く同じものは存在しません。

まず、天守の形は大きく「望楼型(ぼうろうがた)」と「層塔型(そうとうがた)」の2種類に分けられます。

 「望楼型」は初期の天守によく見られた形で、1階もしくは2階建ての入母屋(いりもや)造りの建物の上に物見の建物(望楼)を載せていく構造です。上層の望楼は下層階や石垣の底面に関係なく好きな形にできるため、層塔型に比べて豪華な印象になります。織田信長によって初めて高層の天守閣が築かれた安土城(滋賀県)も望楼型で、八角形の望楼を極彩色や金で飾った豪華なものだったといわれています。また、多くの望楼型天守では1階と2階の間取りが同じになり下層の柱の位置が同じ場所になるため、豪華な見た目に反して頑丈な構造となっています。現存12天守の中では、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(彦根城)、姫路城(兵庫県)、松江城(島根県)、高知城(高知県)6天守が望楼型天守に該当します。

 一方の「層塔型」天守は、関ヶ原の戦い後に登場した形で、築城技術に長け宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城、二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正、加藤嘉明とともに築城名人として知られる藤堂高虎が考案したものとされています。第1層から同じ形の建物を規則的に小さくしながら積み上げていくので、望楼型に比べてスッキリとしたシルエットになります。層塔型の天守は同じ形の構造物を積み上げていくので、工期が短縮できる上に建築コストが抑えられるため、短期間で多数の城を築くことが求められた慶長年間の築城ラッシュで一気に全国に広まりました。現存12天守の中では弘前城(青森県)、松本城(長野県)、高梁城(備中松山城:岡山県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)6天守が層塔型天守となります。

 また、天守の形は天守自体の形の他に、天守に附属する建物によっても、基本的に「独立式」「複合式」「連結式」「連立式」の4種に大別されます。

 まず、最も単純なものが「独立式」。附属建物がなく天守のみが単独で建つ形式で、天守の地階や1階などから直接入ることができます。この形式は敵に本丸を占拠されると容易に天守への侵入を許してしまうため、戦国時代にはほとんど採用されることはなく、戦がなくなった江戸時代以降に建てられるようになりました。現存12天守では、弘前城、丸岡城、丸亀城、宇和島城、高知城の5天守が独立式にあたります。

 次に天守に附櫓や小天守と呼ばれる附属建物が直接接続するのが「複合式」です。初期の天守によく見られた形式で、附属建物を経由しなければ天守に入ることはできず、附属建物に侵入されても天守内から敵を迎え撃つことができました。松江城には大天守から附櫓に向かって開く狭間が残っており、天守が最後の砦だったことを教えてくれます。現存12天守では、松江城以外には彦根城、犬山城、高梁城(備中松山城)のあわせて4天守が複合式天守です。

 複合式では直接天守に接続していた附属建物を、渡櫓で間接的に連結させたものを「連結式」と呼びます。複合式と同様、附属建物を通らないと天守に入ることはできません。現存12天守では、この形式に該当する城としては松本城が挙げられます。ただし、松本城は乾小天守と大天守が渡櫓で連結された連結式であると同時に、辰巳櫓が直接大天守と接続する複合式でもあります。

 もう1つの「連立式」は大天守と2基以上の附属建物を、空から見ると四角になるように環状に渡櫓や多聞櫓で繋いだ構造のものです。内側に中庭のような空間ができるのが特徴で、この中庭に敵を誘い込めば、周囲の櫓群から一斉射撃を仕掛けることができます。このように連立式天守はそれだけで独立した曲輪を形成することが多く、天守曲輪内に入る門を枡形にするなど複雑な構造をしています。このため、あらゆる天守構造の中でも最も厳重な防御態勢を敷くことが可能で、籠城戦を意識した「戦う城」の雰囲気が色濃く出ています。現存12天守では姫路城と松山城の2天守がこの連立式天守に該当します。

左上から右上に並んで立っているのが南隅櫓・十間廊下・北隅櫓です。一ノ門、二ノ門、三ノ門という玄関に続く北隅櫓は小天守北ノ櫓とか戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、大小2つの天守に次ぐ格式をもつ櫓でした。
十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓でもあります。桁行が10(18.2メートル)あることから、この名がつけられています。北隅櫓と大天守を連結する渡櫓が玄関多門櫓で、ここが玄関でした。

ちなみに、江戸城の天守(寛永天守)が明暦3(1657)の「明暦の大火」で焼失して以降、江戸城では天守閣が再建されず、時の第4代将軍 徳川家綱が万治2(1659)に「今後は本丸にある(33階の)富士見櫓を江戸城の天守とみなす」と発したことから、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても、徳川将軍家に遠慮して(謀反の疑いをかけられないように)、「御三階櫓」と称するなど、富士見櫓を越えないように高さ制限を自主的に設けるようになりました。『現存12天守』では弘前城(文化8(1811)に竣工)、備中松山城 (天和3(1683)に竣工)、丸亀城(万治3(1660)に竣工)、松山城(安政元年(1854)に竣工)、宇和島城(寛文11(1671)に改修竣工)5つの城の天守がそれにあたり、禄高のわりには天守がイマイチ小さいという特徴を持っているのは、そのせいです。『現存12天守』のうち国宝に指定されている松本城、彦根城、犬山城、姫路城、松江城の5つの城は全て「明暦の大火」以前の慶長年間に建てられた天守が残る城であり、それ以外の丸岡城と高知城の2つの城の天守も万治2(1659)より前に建てられたものなので、その限りではありません。 (近年になって復元された城の天守は、どうしても一番大きかった時代のもので復元する傾向にあり、あまり参考にはなりません)

北側から見たところです。こちらからは遮るものがほとんどないので、層塔型をした大天守の構造がよく分かります。

私も大好きな司馬遼太郎先生の代表作『坂の上の雲』の主人公の3人のうち正岡子規はその伊予国松山藩・久松松平家の藩士の子息、秋山好古・真之の兄弟も同じく松山藩の徒士身分の下級武士の子息でした。NHK特別大河ドラマ『坂の上の雲』の番宣ポスターでも、本木雅弘さん演じる秋山真之、阿部寛さん演じる秋山好古、香川照之さん演じる正岡子規の3人が並ぶバックにしばしばこの松山城が登場しましたし、実際、松山城で撮影されたシーンも幾つかありました。

松山城は山の特徴を活かし、急な坂の多い城です。小説『坂の上の雲』を描いた絵や写真でよく使われる構図は、ロープウェイ乗り場から本丸に向かうこの坂を下から上へ大天守を見上げた構図ではないでしょうか。この坂を登り切ったその先に青い空が広がり、その青い空の中に真っ白い“一朶の雲”がポツリと浮かんでいる構図です。坂の上の“一朶の雲”を目指し登って行きます。

ちなみに、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』は次の一文から始まっています。

「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高き十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓も、そのように厳くはみえない。

この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない。……(以下略)

西側から見たところです。左手奥の櫓は天神櫓です。卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれ具足櫓でしたが、後に本壇の鬼門(東北隅)にあたるため、城の安泰を祈り久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祭ったのでこの名称が付きました。全国的にあまり例のない寺社建築の正面扉(しとみど)を有する櫓となっています。現在、修復工事中です。

前述のように松山城は日本三大連立式平山城の1つにも数えられる城で、昭和8(1933)まで本丸部分には40棟の建造物が存在していたのですが、19棟が放火や第二次世界大戦における空襲による火災により失われ、現存する建物は21棟にまで減少しています。もちろん現存する21棟の建物は全てが貴重な歴史遺産であり、いずれも国の重要文化財に指定されています。また、平成21(2009)、ミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」にも選定されました。さらに、トリップアドバイザーによる最新の「旅好きが選ぶ! 日本の城ランキング2018」では、松本城、松江城などの名だたる名城を抑えて、堂々の第3位になっています (ちなみに、第1位は姫路城、第2位は二条城です)

南西側から見たところです。ペーパークラフトでは本壇の下にある紫竹門と続塀の一部も再現しています。
本壇に接して紫竹門および続塀があります。乾門方面からの侵入に対し、この門と東塀・西塀によって大きく仕切ることにより、本丸の搦手()を防衛する重要な構えです。

このCanonさんのペーパークラフトのキットは勝山の山頂部分にある現在の松山城の本丸の中心部分、本壇の部分を模型化したものですが、連立式天守を持つ平山城ということで、天守がドォーン!と1つだけ聳えるというわけではなく、本壇と呼ばれる天守曲輪、すなわち多くの建物群の集合体になっているのが特徴です。層塔型の大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下状の櫓)で連結した連立式天守閣を構成しています。ペーパークラフトを作っていると、松山城がその層塔型の連立式天守の構造を持った鉄壁な防御態勢を敷く難攻不落の城郭であったことがよく分かります。それも、実物を眺める以上に。

城を眺める時は、自分が“敵”となって攻め込む時をイメージしてみるというのは城郭マニアの鉄則のようなのですが、そういう目で見てみると、何重にも防御のための仕組みが用意されていて、容易には最後の砦である大天守まで近づけないような構造になっていることに気づきます。しかも、建物の11つはどれも城としては小規模で平凡なもので、華美な装飾もほとんど施されていないのですが、総体として美しい!! 機能美とでも言うべきでしょうか。工学の世界では「性能のいいモノは美しい」とよく言われますが、まさにそれです。いっさいの無駄を省き、城本来の機能である防御に徹した「戦う城」としての美しさって感じです。

城山(勝山)の山頂は標高約132メートルで、天守は更に約30メートル高く聳え立っているため、大天守の3階からは松山平野を360度見渡すことができます。

天気に恵まれれば、西日本最高峰の石鎚山(1,982メートル)や瀬戸内海に浮かぶ島々なども見ることができ、その眺めはまさに絶景です。

このように、連立式天守は厳重な防御態勢を敷くために複雑な構造をしているというのは前述のとおりですが、このため松山城はペーパークラフトでも規模のわりには部品の点数がやたらと多いことが特徴で、Canonさんのペーパークラフトで提供されている幾つかの日本の城の中でも、展開図の枚数がA4版用紙で18枚、部品の総数が200弱というのは、同じく連立式天守構造の姫路城と並んで最多クラスです。とは言え、完成した模型の寸法は横26cm、奥行き23cm、高さ14cmほど。縮尺1300といったところでしょうか。飾るのにちょうどいいサイズです。

なので、やたらと細かい作業が多く、組み立てにあたっては見かけ以上に苦労しました。夜な夜なちょっとずつ作っていったこともありますが、延べ製作日数は16日、50時間以上の時間がかかりました。ただただ根気のいる作業でした。土台の石垣の部分から建物群を1つずつ作っていくのですが、構造が複雑で、当初、展開図を見ただけではこの部品がどの部品とどのように接続していくのか皆目見当もつかないのですが、組み上げていくうちに徐々にその謎が解けて、松山城がその美しい姿を現していくので、後半になるとその根気のいる作業が楽しく思えるようになっちゃいました。大変よくできたペーパークラフトキットです。そして、出来上がってみると層塔型の連立式天守閣という松山城の特徴と美しさを見事に再現したものになっていて、大変に満足しています。それにしても眺めれば眺めるほど美しい城です。松山の誇りですね。

展開図の枚数がA4版用紙で18枚、部品の総数が200弱という大作を作り上げたので、ちょっと自信もついてきました。さぁ〜、次は何を作ろうかな?

ちなみに、司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』の3人の主人公の1人でもある俳人・正岡子規は、松山城を詠んだ多くの俳句を残しています。

松山や 秋より高き 天主閣 子規

松山の 城を載せたり 稲筵 子規

春や昔 十五万石の 城下かな 子規

松山市は城下町。まさに平山城である松山城の下に広がった街です。「城下町」という言葉がこれほどピッタリと似合う街は、日本中探しても他にはないのではないでしょうか。

2月に訪れた際には梅の花が綺麗に咲いていました。梅の花越しに見える松山城天守閣。正岡子規ならどんな句を詠むのでしょうか。これから桜のシーズン、松山城が最も華やかな時を迎えます。


【追記】

「戦艦三笠」、「坊ちゃん列車」、そして「松山城」、『坂の上の雲』シリーズの3部作はどれも手間と時間のかかる、とっても作りごたえのあるものばかりでした。ですが出来あがったこれら3つの作品を並べて飾ってみると、『坂の上の雲』の世界を見事に表現したもののように思え、大いに満足しています。皆さんも是非製作にチャレンジしてみてはいかがですか? 必要な道具はカッティングマット以外は100円ショップで容易に手に入るものばかりです。ですが、これらを3つとも作るのは、よっぽど司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』や郷里松山への思い入れが強くないと、とてもじゃないけど根気が続きませんので、まずは初心者向けの簡単なものから始められることをお勧めします。私もそうしましたから。

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