沢のところまで下ってきたところに寒念仏供養塔が立っています。寒念仏(かんねんぶつ)とは、僧が寒の30日間、明け方に山野に出て声高く念仏を唱える宗教行事のことで、のちには俗人も寒夜、鉦 (かね) を打ちたたいて念仏を唱え、家々の門前で報謝を請い歩いたのだそうです。その報謝で立てた供養塔でしょう。その供養塔の前の丸い石は道祖神です。甲州街道の道祖神は丸い石なのだそうです。
中央自動車道の高架の手前で再び山梨県道30号大月上野原線と合流し、中央自動車道の高架の下を潜っていきます。
さらに緩やかな坂道を下っていくと、現代の甲州街道、国道20号線にぶつかるので、そこを甲府 大月市街方面に右折します。国道20号線を歩くのは上野原宿以来久々のことです。
ここが下鳥沢宿の江戸方(東の出入口)でした。左手に馬頭観音、地蔵尊、道祖神、庚申塔などの石仏石塔群が集められて祀られています。
ここからは国道20号線を歩きます。このあたりから再び霧雨が降り始めて、雨合羽の着用です。
下鳥沢宿は天保14年(1843年)の記録「甲州道中宿村大概帳」によると、宿内家数は144軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、問屋場1軒、旅籠11軒(大3軒、中4軒、小4軒)で、宿内人口は699人(男364人、女335人)でした。鳥沢宿は下鳥沢宿と上鳥沢宿の合宿(あいしゅく)で、毎月上15日間の問屋業務は上鳥沢宿が、下15日間の問屋業務は下鳥沢宿が勤めました。そこそこの規模の宿場で往時は甲州の商人や富士参拝者で大いに賑わったと言われています。
宿並みは明治39年(1906年)の大火でほとんどが焼失してしまいました。しかし、今でも土壁、出粱造り・格子戸の古い旅籠(旅館?)、商家が幾つも建ち並び、往時が偲ばれる趣きのある街並みが続いています。宿場の真ん中を今も国道20号線が通っていますが、国道として道路を拡幅しても、その屋並びは昔のままなのだそうです。各家の間に馬を繋いでも、駕籠や荷物を置いても街道の通行に差し支えがないほどの十分な道幅が確保されていたのだと思われます。
この空き地は下鳥沢宿の本陣の跡です。
さらに下鳥沢宿内を進みます。趣きのある家並みが続きます。
福地八幡神社です。
鳥沢宿はこの下鳥沢宿は宿場の規模(長さ)が4町30間(約495メートル)と甲州街道の中でも最も小規模の宿場なので、この福地八幡神社のあたりが下鳥沢宿の諏訪方(西の出入口)でした。
鳥沢小学校の校庭脇に大月市指定の天然記念物である「鳥沢のコノテカシワ」の巨木があり、説明板が立っています。コノテガシワは、ヒノキ科の植物の一種で、枝が直立する様子が、子供が手を上げる様子に似ていることからコノテガシワの名があるのだそうです。
鳥沢小学校の校庭に沿って歩きます。
江戸の日本橋から数えて22里目の「鳥沢の一里塚跡」があります。塚は現存していなくて、一里塚の跡を示す簡素な標柱が立っているだけなので、注意していないと見逃してしまいそうです。標柱の文字も一部消えかけていますしね。
下鳥沢宿と上鳥沢という2つの宿場は約550メートルとほぼ隣接した形で設置されていたので、すぐに上鳥沢宿に入ります。この鳥沢の一里塚跡の先が上鳥沢宿の江戸方(東の出入口)でした。
上鳥沢宿は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒(大5軒、中3軒、小5軒)、問屋場1軒、宿場の規模は6町17間(約685メートル)と、ここも小規模の宿場でした。下鳥沢宿と同様、ここも宿場の真ん中を今も国道20号線が通っていますが、国道として道路を拡幅しても、その屋並びは昔のままなのだそうです。各家の間に馬を繋いでも、駕籠や荷物を置いても街道の通行に差し支えがないほどの十分な道幅が確保されていたのだと思われます。道路の両側には木造2階建、切妻、出桁造りの町屋造りの建物が続きます。
明治時代以降、鉄道の駅舎が設置された事で、周辺(旧富浜村)の中心としての地位を確立し、村役場や小学校が建設され、市も開設され繁栄したのだそうです。
ここでちょうど12時。迎えに来た観光バスに乗せられて某所に連れて行かれ、そこでお昼のお弁当をいただきました。その昼食を摂った某所がどこかは、後で述べさせていただきます。
……(その5)に続きます。
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