2018年11月29日木曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その4)


坂下御門です。坂下御門は西の丸の北側入口にあたる門です。手前にある橋は坂下門橋といいます。西の丸の坂下にあったので、この名がついたといわれています。坂下御門はもともとは高麗門とその左の渡櫓門からなる枡形形式の城門でした。江戸時代には、坂下門橋を渡り、枡形門を抜けて、左の坂を登ったところに西の丸御殿(現在は宮殿)がありました。明治の時代に入り、西の丸に皇居が移るとその重要な入口のひとつとして使われ、明治18(1885)に高麗門が撤去され、明治20(1887)に渡櫓門のみが角度を90度変えて建て直され、今の形になりました。


また、ここは「坂下門外の変」の現場となった場所でもあります。知らない人のために、「坂下門外の変」とは、文久2115(1862213)に、江戸城坂下門外にて、尊攘派(勤皇派)の水戸藩浪士6人が登城途中の老中・安藤対馬守信正(事件当時は信行)を襲撃し、負傷させた事件のことです。安藤対馬守信正は、その2年前に起きた大老・井伊直弼が殺害された「桜田門外の変」以降、幕府の権威が失墜する中、尊王攘夷派の幕政批判を緩和するために、京都の朝廷と江戸幕府との公武合体政策をとり、皇女和宮の第14代将軍・徳川家茂への降嫁を推進していました。そのことが原因で尊皇攘夷の志がことのほか強かった水戸藩浪士に襲われることとなり、一命は取り留めたもの、老中は罷免されます。なお、襲撃者の水戸浪士は全員その場で刺殺されました。

それにしても、幕末期の水戸藩浪士には過激な武闘派が多かったようですね。「桜田門外の変」で大老・井伊直弼を殺害した首謀者も水戸藩浪士。「坂下門外の変」で老中・安藤信正を襲ったのも水戸藩浪士。さらには、元治元年(1864)に筑波山で挙兵した尊王攘夷派(天狗党)によって引き起こされた「天狗党の乱」と呼ばれる一連の争乱を主導したのも水戸藩浪士でした。徳川御三家の1つと言っても、水戸藩は特別なようです。


坂下御門は現在も宮内庁の出入口(通用門)として利用されていますので、警備が厳重です。新年と天皇誕生日の皇居一般参賀の際の出口の1つとして指定されているので、一般人が通れるのはこの機会以外にはありません。


 坂下御門の右手にある濠を蛤濠(はまぐりぼり)といいます。


内桜田御門です。枡形城郭門と白壁の美しさを、お濠の水面に映していて綺麗です。正式には、外桜田御門に対し内桜田御門と呼ばれていますが、太田道灌が最初に江戸城を築いた時代、この門が大手正門であり、この門の瓦に太田道灌の家紋である「桔梗」の刻印が施されていたことにちなんで、桔梗御門とも呼ばれています。内桜田御門から濠は桔梗濠に変わります。


ちなみに、内桜田御門の向こう側に見える三角屋根の建物が枢密院の建物です。枢密院は、明治21(1888)に憲法草案審議を行うため、枢密院官制及枢密院事務規程に基づいて創設され、翌明治22(1889)に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた組織です。憲法問題も扱ったため「憲法の番人」とも呼ばれました。枢密顧問により組織され、初代議長は、伊藤博文でした。国政に隠然たる権勢を誇り、政党政治の時代にあっても、藩閥・官僚制政治の牙城をなしていたのですが、昭和6(1931)の満州事変以後、軍部の台頭とともにその影響力は低下。日本国憲法施行により、昭和22(1947)に廃止されました。建物は大正10(1921)に建てられたもので、戦後は最高裁判所庁舎や皇宮警察本部庁舎として使用された後、大改修され、現在は皇宮警察本部庁舎として使用されています。


桜田巽櫓です。東京駅丸の内口から行幸通りを日比谷通りまで出てきた時、まず最初に目に飛び込んでくるのがこの桜田巽櫓です。桜田巽櫓は本丸から見て東南(辰巳)の濠の角にあることから名づけられました。この桜田巽櫓も伏見櫓や富士見櫓と同じように、関東大震災で損壊したのちに解体して復元されたものです。隅角に造られた現存する唯一の「隅櫓」で、「桜田二重櫓」ともいわれます。「石落し」(石垣よりはみ出した出窓部)や鉄砲、矢用の「狭間」を戦略的目的で備えているのが特徴で、実戦的な櫓として作られました。白い壁が桔梗濠の水面に映り、優美な姿を見せる櫓です。


桜田巽櫓の向こうに内桜田御門(桔梗御門)、さらにその向こうに富士見櫓が見えます。桔梗濠の水面にそれらの白壁が映り、見事な光景です。私的には江戸城で一番美しい景色は、この場所からの景色ではないかと思います。


この場所から内堀通りを挟んで反対側に、この日のスタートポイントであった和田倉噴水公園があります。と言うことは、信任状捧呈式に出席するためJR東京駅丸の内口貴賓玄関から行幸通りを馬車に乗ってやって来た各国大使が、馬車の中から最初に目にする皇居(江戸城)の風景がこの風景だと言うことです。歴史を感じさせるこの美しい光景に、間違いなく息を飲まれることでしょうね。

ここから内堀通りの桔梗濠沿いを大手御門に向かって歩きます。


現在は内堀通りで分断されていますが、かつてはこの場所で桔梗濠は和田倉濠と繋がっていました。内堀通りができて、ここで桔梗濠と和田倉濠が分断されて以来、皇居を取り巻く内濠は外部からの水の流入がいっさいなくなり、すべての内濠の水は雨水と湧き水だけで賄われるようになりました。それでも内濠は常に水が湛えられ、美しい光景を醸し出しています。



大手御門の門前には、現在、パレスホテル東京が建っていますが、ここには、江戸時代、大手御門の下馬先がありました。この大手御門の門前には、江戸時代には「下馬(げば)」という札が立てられていました。

大名や旗本が江戸城へ登城する時には、本丸に登城する場合には家格や禄高に応じて大手御門あるいは内桜田御門(桔梗御門)、西の丸に登城するには西の丸大手御門を利用しました。これらの門前は「下馬」と呼ばれ、特に大手御門の門前は「大下馬」と呼ばれました。このパレスホテル東京が建っているところは大手御門の門前で、まさに「大下馬」のあったところです。ここ場所には腰掛がズラァ〜と並び、御畳蔵と呼ばれる各藩の老臣達の休憩施設が建っていました。

「下馬」、これは文字通り、ここで馬を下りることを意味していました。ここから先は、大名や禄高500石以上の直参旗本の役人(老中、大目付、奉行等)・高家・交代寄合など「乗輿(じょうよ)以上」の格をもつ者以外は、馬や駕籠から降りなければなりませんでした。また、下馬から先に連れていける共連れの人数は、徳川御三家や御三卿、四品(朝廷から与えられる官位が従四位以上)の大名、禄高10万石以上の大大名や国持大名の嫡子は13人、1万石から10万石のその他大勢の大名は10人~11人に制限されていました。立て札に書かれた「下馬」という文字は足利将軍以来の伝統筆法で記されたもので、はじめは曾我尚佑が任じられました。そして、この筆法の伝法には時の将軍の認可が必要だったのだそうです。

ちなみに、大手御門から登城できるのは前述の徳川御三家や御三卿、四品(朝廷から与えられる官位が従四位以上)の大名、禄高10万石以上の大大名に限られ、1万石から10万石のその他大勢の大名や直参旗本は大手御門ではなく内桜田御門(桔梗御門)から登城しました。したがって、内桜田御門(桔梗御門)の門前にも「下馬」が設けられ、腰掛がズラァ〜と並んでいました。

また、通常の時は大手御門、内桜田御門(桔梗御門)、西の丸大手御門が下馬でしたが、登城人数が多くなる式日には、大手御門より外側の和田倉御門、馬場先御門、外桜田御門、さらには鍛冶橋御門、呉服橋御門、常磐橋御門が下馬となることもありました。

「下馬評」という言葉があります。これはこの「下馬」にちなむ言葉です。多くの大名は、下馬までは多数の家臣と共に登城しますが、家臣の多くは下馬先で待たざるをえませんでした。ここで、家臣達は、主君の大名が下城してくるまでの時間を幕府内での出世話や人の評判・噂話をしてつぶすことが多くなりました。このことから「第三者が興味本位にする噂や評判」を意味する『下馬評』という言葉が生まれました。大手御門や内桜田御門(桔梗御門)の門前には、大名が下城するのを待つ家臣達や大名の登城風景の見物客が大勢集まってきていたので、自然と彼らを相手にした商売が行われたとも言われています。いなり寿司や蕎麦や甘酒などの飲食物を売る屋台が多く出たという話もあります。


……(その5)に続きます。

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