2018年11月11日日曜日

甲州街道歩き【第9回:犬目→猿橋】(その7)

猿橋を渡ります。猿橋は甲州街道の橋でした。緩やかに円弧を描く橋の中央部分は歩くとかすかに上下に揺れます。下を流れる桂川の水面までの高さは30メートルを超えています。欄干から橋の下を眺めると、さすがに足がすくみます。私は高所恐怖症なので、なおのことです。


これは橋の上から上流側を写した写真です。見えている橋は先ほど通ってきた県道(山梨県道501号猿橋停車場線)が通っている新猿橋です。


こちらは同じく下流側を写した写真です。遠くに見える赤い鉄橋は国道20号線の新猿橋橋、手前のコンクリート製の橋は先ほどご紹介した国の重要文化財に指定されている八ツ沢発電所施設のうち「第一号水路橋」です。


猿橋は富士山の溶岩流の流れた跡が長い年月をかけて侵食された桂川(相模川の支流)の深い谷に架けられた木橋で、橋脚が建てられないために、両岸から刎木(はねぎ)4段に長く重ね、その最上部の刎木の上に橋桁を渡して連絡するという特殊な構造(刎橋)をしています。この谷には猿がお互いに身体を支え合い、繋がりあって橋を作ったという言い伝えがあり、そこから「猿橋」と名付けられました。日本三大奇橋の1つに数えられていて、国の名勝に指定されています。


猿橋は長さ30.9メートル、幅3.3メートル、下を流れる桂川の水面からの高さは31メートル。鋭く聳え立つ両岸から張り出した4層の刎木によって支えられただけで、橋脚を全く使わないその構造はエンジニアの好奇心を大いに刺激してくれます。私が大学で専攻したのは電子工学で、土木工学や建築工学、機械工学ではありませんが、それでも理系の工学部出身なので、力学のモーメントくらいは分かります。


この猿橋が架かっているあたりは桂川の両岸が崖となってそそり立ち、幅が狭まり岸が高くなっています。このような地点では橋脚なしで橋を渡す技術が必要である。通常、こうした条件の下では吊り橋が用いられるのが一般的ですが、江戸時代にはもう1つ、刎橋(はねばし)という架橋形式が存在していました。刎橋では、まず岸の岩盤に穴を開けて刎木(はねぎ)を斜めに差込み、中空に突き出させます。次に、その上に同様の刎木を突き出し、下の刎木に支えさせます。支えを受けた分、上の刎木は下のものより少しだけ長く出します。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ね出していくわけです。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にするのです。加えて、この猿橋では、斜めに突き出た刎木や横の柱の上に屋根を付けて、雨による腐食から保護するという工夫も施されています。


ふむふむ。あの両岸から張り出した4層の刎木が通行人を含む橋桁から上の重量を受け止め、それを両岸の岩にうまく逃がしているのでしょう。ホント素晴らしい構造です。私は「工学的に優れたものは美しい形状をしている」(私はコンピュータエンジニアですので、正しくは「性能のいいプログラムは(コードを見ても)美しい」)という持論を持っているのですが、この猿橋もまさにその通りです。非常に美しい形状をしています。眺めていて見飽きません。


猿橋のこの珍しい構造の起源は定かではありませんが、西暦600年頃、百済からやって来た造園博士の志羅呼(しらこ)が、なかなかうまくいかず難航していた橋の建設の最中に、たくさんの猿が繋がりあって対岸へと渡っていく姿からヒントを得て、ついに橋を架けるのに成功したという伝説が残されています。前述のように、「猿橋」という橋の名称もそんなところから付けられたと言われています。


室町時代、関東公方の足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、足利持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、武田信長方が敗退したという話も残されています。また、文献としては、延宝4(1676)に橋の架け替えがあったという記述が残されています。少なくとも宝暦6(1756)からは現在と類似した形式の刎橋が架けられていたようです。


文化14(1817)には浮世絵師の葛飾北斎が『北斎漫画 七編 甲斐の猿橋』において猿橋を描いています。また、安藤(歌川)広重も天保13(1842)頃に猿橋近くの茶屋で食事を摂り、その際にその珍しい構造に感動して「甲陽猿橋之図」を描き残しています。また、十返舎一九も「諸国道中金之草鞋」の中で猿橋を描いています。


明治13(1880)には明治天皇が山梨県巡幸を行い、猿橋を渡ったという記録が残り、記念の石碑が建っています。


現在の橋は、昭和59(1984)に総工費38千万円をかけ完成したもので、将来にわたるメンテナンスのことを考え、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋として架け替えられました。形は嘉永4(1851)に架けられた橋を、部材を鋼に変えて復元したものとなっています。その架け替えの記念碑が橋の横に建っています。


ちなみに、日本三大奇橋とは、この「猿橋」と「錦帯橋(山口県岩国市)」、そしてあと1つは諸説あり、「木曽の桟(かけはし)(長野県)」、「祖谷(いや)のかずら橋(徳島県)」、「日光の神橋(しんきょう)(栃木県)」、「宇奈月の愛本刎橋(あいもとはねばし)(富山県)」の4つのうちの1つだとされています。このうち「木曽の桟」と「宇奈月の愛本刎橋」は橋が現存していないので、残るは2つ。私は四国人なので、「祖谷のかずら橋」を日本三大奇橋に加えたいと思っています。「祖谷のかずら橋」はちょうど1年前に訪れました。

https://www.halex.co.jp/blog/ochi/20180220-15088.html『おちゃめ日記』邪馬台国は四国にあったが確信に!(その9)

猿橋のたもとには国の重要文化財である八ツ沢発電所施設のうち第一号水路橋の説明書きと、三猿塔という猿の石像が立っています。


木造2階建、切妻、出桁造り趣きのある町屋造りのお土産物屋さんです。試食でいただいた生姜の佃煮があまりに美味しかったので、息子夫婦と娘夫婦のお土産に買って帰りました。


この日はこの猿橋のお土産物屋さん近くの駐車場がゴールでした。実は、昼食のお弁当をいただいた場所も、この猿橋の駐車場でした。なので、猿橋の写真の多くは昼食後の自由時間に撮影したものです。帰路、中央自動車道の渋滞を少しでも避けるために、猿橋に到着後はできるだけ速やかに帰路につかなければならず、旅行会社さんとしてはロスタイムをいかに少なくするかを考えた上での場所選択だったのだろうと推察します。いい判断です。おかげでゆっくり見て回れました。


この日は18,702歩、距離にして13.9km歩きました。次回【第10回】はこの猿橋をスタートして、猿橋宿、駒橋宿、大月宿、下花咲宿、上花咲宿と5つの宿場を通り、下初狩宿までの途中の真木というところまで歩きます。いよいよ大月です。起点の江戸の日本橋から終点の下諏訪宿の中山道との合流地点までの甲州街道の距離は55里弱(210.8km)。次の【第10回】でほぼ半分ってところまで行けそうです。


――――――――〔完結〕――――――――



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