この日も皇居前広場には大勢の観光客がやって来ていました。そのほとんどは外国人観光客。日本人観光客の姿はほとんど見かけません。これだけ大勢の外国人観光客がやって来ていただいていることは大変にありがたいことではありますが、正直、なぁ〜んかねぇ〜…って気持ちもなくはありません。
ご存知、二重橋です。皇居前広場の一番人気のスポットは、なんといっても伏見櫓を背景とした「二重橋」ではないでしょうか。この皇居正門前にある二重橋は、皇居と言うよりも帝都東京のシンボルと言ってもいい橋で、学校の修学旅行や東京観光の定番のスポットでもあります。また、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀の時に必ず目にする橋で、手に日の丸の国旗を持ってこの二重橋を渡る多くの人の姿がテレビのニュースなどでも流されるため、日本人なら知らない人はいないと言えるほど有名な橋です。
皇居正門は江戸時代には「西の丸大手門」と呼ばれていました。明治21年(1888年)の明治宮殿造営の際、高麗門を撤去し、名称も皇居正門と改めました。皇居正門(かつての江戸城の「西の丸大手門」)はふだんは閉じられており、天皇の即位大礼、天皇、皇后、皇太后の大葬儀など特別な行事のある時や国賓来訪の際以外には使われません。また、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀の時には正門が開放されます。
皇居の入口には皇居前広場側から見て、石で造られた手前の「正門石橋(いしばし)」と、鉄で作られた奥の「正門鉄橋(てつばし)」という二重橋濠に架かる2つの橋があります。位置関係は、外から宮殿に向かう際には、皇居前広場→正門外石橋→正門→正門内鉄橋→中門→宮殿東庭(新宮殿前広場)→宮殿(長和殿)というルートをたどることになります。2つの橋は、明治17年(1885年)から明治22年(1890年)にかけての皇居御造営(明治宮殿造営)に際して掛け替えられたものです。
この2つの橋のうち、ふだん目にしている石造りの橋「正門石橋」が“二重橋”と思われている人が大多数ではないかと思われますが、それは間違いで、実はその奥にある橋「正門鉄橋」が正しい意味での“二重橋”なのです。
奥の鉄橋が架かっているところには、かつては慶長19年(1614年)に建造された江戸城「西の丸下乗橋」という橋が架かっていました。下乗橋(別名;月見橋)は、青銅製の擬宝珠の欄干の付いた木造橋で、壕が深かったことから途中に橋桁を渡してその上に橋を架けるという、上下2段に架けられた二重構造であったことから、通称で「二重橋」と呼ばれていました。現在の鉄橋は、明治21年(1889年)、明治宮殿造営にあたり、錬鉄製の橋に架け替えられ、更に昭和の新宮殿造営(竣工・昭和43年)に先立ち、意匠など大幅な変更をせずに昭和39年(1964年)に架け替えられたものです。現在の橋の橋桁は二重構造ではないのですが、前の通称である「二重橋」が引き続きそのまま用いられています。よく見ると、鉄橋の両側にある石垣には、かつて木造橋であった時代に上下2段の二重構造だったことを示す長方形の穴が今も残っています。
手前の石橋は、もともと江戸城の「西の丸大手橋」があった位置に架かっていて、現在の石橋は明治宮殿が竣工する前年の明治20年(1888年)12月に建造されたものです。石造りの二重アーチ橋で、花崗岩が使用され、照明灯や高欄を含め、西洋建築の意匠が採用されています。二重アーチ構造であることから俗称で「眼鏡橋」とも言い、「この石橋が二重橋である」と誤認されることが多いのですが、前述のようにそれは間違いです。「西の丸大手橋」はこの日もガイドを務めていただいた大江戸歴史散策研究会の瓜生和徳さんが示して頂いている写真のような木造の橋で、もとはアーチ橋ではありませんでした。
このように「二重橋」とは正しくは奥の「正門鉄橋」の呼称のことではあるのですが、「二重橋」の解釈としては、それとは別に「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって架かる橋だから二重橋」(すなわち、重架しているように見える)というものもあります。必ずしも正確な解釈ではないのですが、戦前の書籍にも二重橋に正門石橋の写真を用いるものが多く、一般には正門外石橋と正門内鉄橋の2つを併せて「二重橋」とする総称が用いられてきました。また同様に、皇居前広場のことを二重橋前広場と言われてきたりもしました。そもそも「二重橋」という名称は正式なものではなく、一般に用いられてきた俗称・通称に過ぎないので、正門鉄橋、正門石橋の2つの橋の総称として「二重橋」を用いるのも現在では間違ってはいないと私は思います。
なお、正門には皇宮警察の皇宮護衛官の儀仗隊が常時警護を行っており、通常一般人は二重橋を渡ることはできません。ただし、事前に手続きをして皇居の参観をする場合は、正門鉄橋だけは渡ることができるようです。
正門石橋、正門鉄橋の2つの橋の向こう側にあるのが伏見櫓(伏見二重櫓)です。現在の伏見櫓は関東大震災の際に一度倒壊したため、解体して復元されたものです。この伏見櫓は皇居でもっとも美しい櫓であり、手前にある「正門石橋」とともに皇居の代表的な見所になっています。学校の修学旅行ではここを背景に記念写真を撮ることが多いので、ご存知の方も多いと思います。二重櫓の両袖に多聞櫓(防御を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造りの建物)を備えておりますが、このような形の櫓は、江戸城ではここだけしか残っていません。
伏見櫓の名前の由来としては、第3代将軍・徳川家光が豊臣秀吉が京都伏見に築いた伏見城の櫓を移築したからだという説があります。その説によると、伏見城は慶長3年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けたところで、以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行ったという徳川将軍家に大変にゆかりの深い城で、慶長20年(1615年)に江戸幕府が制定した一国一城令により伏見城と二条城の2つの城があった山城国では二条城を残し伏見城を廃城することが決まったのですが、そうした徳川将軍家にゆかりの深い城の一部、櫓だけでも残そうと、江戸城に移築したとのだそうです。非常にもっともらしい説ではあるのですが、残念ながら憶測の域を出ないのだそうです
また、伏見櫓に付随する多聞櫓は、永禄元年(1559年)に、戦国武将の松永久秀が築いた大和国(奈良県)の多聞城の櫓が始まりとされています。江戸城には、かつては19もの櫓が存在しましたが、現在では、この伏見櫓とこの後で行く桜田巽櫓、富士見櫓の3基を残すだけです。
皇居前広場には玉砂利が敷き詰められています。これは江戸時代、ここが江戸城と呼ばれていた頃からのもので、お清めの意味があるのだそうです。また、皇居前広場は皇居正門、二重橋のほうから見ると、東に向かって緩やかに下っています。これはもともとのこの辺りの地形で、日比谷入江という海に向かって下っていたからです。
皇居前広場、皇居外苑の先、内堀通りを挟んだ反対側は現在は高層ビルが建ち並んでいるのですが、こういう景色が見られるようになったのは実は平成の時代に入ってからです。それまでは皇居宮殿を見下ろすことは不敬にあたるということで、このあたりは高いビルの建築ができませんでした。今では高層ビルが建ち並んでいるのですが、昔の建物を一部でも残そうという建て方をしているビルが多く、意識して眺めてみると、昭和の時代のこのあたりの風景をイメージすることも可能です。ちなみに、昭和の時代、このあたりのビルの高さの基準となったのが和田倉御門前にある東京海上ビルで、この東京海上ビルよりも高い建物は建てられませんでした。皇居の宮殿は日比谷入江よりも幾分標高の高いところに建っているので、皇居宮殿を見下ろさないとなると、だいたい9階建てが高さ限界の目安でした。
そう言えば、私が入社した日本電信電話公社(電電公社)の本社ビル(日比谷電電ビル。現在のNTT日比谷ビル)は日比谷公園の先にあったのですが、広い敷地面積のわりには9階建ての低層ビルで、長い廊下が特徴でした。これもこれ以上高いビルにすると、皇居宮殿を見下ろすことになるので不敬にあたるからだ…と教えられたことがあります。
平成の世になり、今上天皇陛下が「そういうことは気にしなくていい」と、ありがたくもおっしゃられたことで、現在のように高層ビルが建ち並ぶようになったのだそうです。
……(その4)に続きます。
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