2018年11月21日水曜日

甲州街道歩き【第10回:猿橋→真木】(その3)

そして、岩殿山と言えば、岩殿山城(岩殿城とも)が有名です。甲斐国都留郡の国衆・小山田氏の居城とされ、戦国時代には東国の城郭の中でも屈指の堅固さを持っていたことで知られています。岩殿山城は東西に長い大きな岩山をそのまま城にしているため、全方面が急峻で、特に南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面も急傾斜でした。東西からは接近できるのですが、それも厳しい隘路を通らなければならない上、各種の防御施設が配されていたので、まさに難攻不落の天然の要塞のような城でした。


甲州街道の通過するこの大月一帯(都留郡)は武蔵国など関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地とは異なる1つの地域的まとまりをもった土地でした。その中心にあったのがこの岩殿山城でした。城主の小山田氏は初めは武田氏に対抗していたのですが、永正6(1509)に武田氏に敗北すると、武田氏の傘下に入りました。その後は武田氏が相模の後北条氏や駿河の今川氏と争い、相模・武蔵と接する郡内領は軍事的拠点となり、その中で岩殿山城は国境警備の役割を果たしていたと考えられています。


甲斐国(現在の山梨県)と信濃国(現在の長野県)を拠点に騎馬軍団を率いて、戦国最強の武将と呼ばれた甲斐源氏を祖とする名家武田氏の第19代当主・武田信玄。その常勝無敵と言われた武田信玄家臣団のなかでも精鋭とされる武将は、後に「武田二十四将」と呼ばれました。その武田二十四将の中に、山本勘助や穴山梅雪、真田幸隆(真田信繁の祖父)、真田昌幸(真田信繁の父)らと並んで、小山田氏の小山田信茂も名を連ねています。

平成28(2016)NHK大河ドラマ『真田丸』は、武田信玄の死後、武田氏が滅亡寸前に追い詰められた場面から始まりました。そのNHK大河ドラマ『真田丸』の冒頭にこの岩殿山城は登場します。

天正3(1575)の長篠の戦いでの大敗を機に、武田氏は弱体化。天正9(1581)、徳川家康に高天神城(静岡県掛川市)を奪還された際、武田勝頼が味方に援軍を出さなかったことがきっかけとなり、堰を切ったように武田家は家臣の造反が続出します。そして天正10(1582)、武田勝頼の義弟・木曽義昌が織田方に寝返ると、好機とばかりに織田信長・徳川家康連合軍に北条氏政軍も加わった大軍が総攻撃を開始。武田勝頼の実弟・仁科盛信が守る高遠城(長野県伊那市)が落城すると、ついに武田勝頼は四面楚歌の状態に陥りました。

武田氏は信玄の父・信虎の代から躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:山梨県甲府市)を居城としていましたが、武田勝頼は織田信長の襲来に備え、より戦闘力の高い新府城(山梨県韮崎市)を真田昌幸に命じて築き、そこに移っていました。しかし、当時、新府城はまだ城塞としては完成していなかったため、このままでは織田信長の大軍勢に太刀打ちできないと判断した武田勝頼は、できあがりつつあった新府城を焼き払って逃亡することを決意しました。この時、「我が岩櫃(いわびつ)(群馬県東吾妻町)へ退き、再起を」という真田昌幸の進言を断り、武田勝頼は小山田信茂が守るこの岩殿山城へ入ることを決断します。この判断が、結果的に勝頼の命取りになってしまいました。

なんと、小山田信茂は主君である武田勝頼を裏切り、織田方へと離反。「長年仕えた主君を裏切るとはなんてひどい男だ!」と武田勝頼は憤りを覚えますが、当時は小山田氏に限らず、地方豪族が主従関係よりも家名存続の道を選ぶのは珍しいことではありませんでした。名門・武田氏であればそう簡単に離反するはずもなく、つまりは武田氏の威信はそれほどまで失墜していたということだったのでしょう。岩殿城への入城を拒否されて行き場を失った武田勝頼は、嫡男・信勝とともに天目山(てんもくざん:山梨県甲州市)で自刃。武田氏は滅亡しました。

武田氏の滅亡は、真田氏にとっても一大転機となりました。主君を失い織田・徳川・北条・上杉という強大勢力に囲まれた真田氏は、生き残りをかけて戦国という大海原へと漕こぎ出すことになる……、これがNHK大河ドラマ『真田丸』の冒頭のシーンでした。

ちなみに小山田信茂は武田勝頼滅亡後に織田信長の前に意気揚々と出仕したのですが、逆に「主君を裏切る輩は信用ならん!」と織田信長の逆鱗に触れ、甲斐善光寺において処刑され、郡内小山田氏は滅亡しました。

その後、天正10(1582)6月には本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生。都留郡では本能寺の変が伝わると土豪や有力百姓などの「地衆」が蜂起し、甲斐国を統治していた織田家家臣・河尻秀隆の家臣を追放。こうした状況から、後北条氏では相模国津久井城主・内藤綱秀が都留郡へ侵攻し、岩殿城を確保して、さらに都留郡一帯を制圧しました。「天正壬午の乱」後、甲府盆地において三河国の徳川家康と相模国の北条氏直が対峙することになったのですが、徳川・北条同盟の成立により後北条氏は甲斐・郡内領から撤兵し、甲斐国は徳川家康が領することになりました。江戸に武家政権(徳川幕府)を成立させた徳川家康は、幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定していたといわれ、江戸時代にも岩殿山城は甲府を、そして甲州街道を守るための要塞としての機能を保ち続けました。現在はハイキングコースとして親しまれているようです。

そんな岩殿山を右手に眺めながら旧甲州街道を先に進みます。


旧甲州街道は国道20号線に合流するのですが、すぐに右側の側道に入ります。ここが駒橋宿の江戸方(東の出入口)でした。再び味わいのある建物が並ぶ駒橋宿の町並みになります。天保14(1843)の甲州道中宿村大概帳によると駒橋宿の宿内家数は85軒、本陣・脇本陣はなく、問屋1軒、旅籠4(2軒、小2)で、宿内人口は267(128人、女139)という小規模の宿場でした。昔から鄙びた街道の宿場だったのでしょうが、その雰囲気だけは今も残っています。


瓦や門柱に屋号が刻まれた家が多いです。


「甲州街道 駒橋宿」と書かれた標柱が立っています。


右手に厄王大権現があります。社殿前には平和祈願之石が祀られています。碑文には以下のことが書かれています。


「昭和20813日午前832分、米軍艦載機は突如大月町を襲い、山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた。この時に投下された爆弾の1つは桂川で爆発し、その爆風は1.5トンの石を吹き上げ、100メートル余の高さに達したという。付近は国道沿いの人家密集地であったが、この石は厄王大権現の霊験によって当山の境内に落下し、町民はあやうく難を逃れた。時が移り世が進むにつれ、人々は厄王大権現を畏敬し、その時落下した石を平和祈願の石と名付け、ここに安置したものである」

なるほどぉ〜。


その厄王大権現の門石にトノサマバッタが…。このトノサマバッタは厄王大権現の化身でしょうか? ありがたや……



国道20号線に合流します。その合流してすぐのコンビニの駐車場に観光バスが待っていて、この日はその観光バスの車内でお昼のお弁当をいただきました。コンビニの駐車場からは岩殿山が間近に見えます。



おっ、ここにも鈴なりに身をつけた柿の木が。その柿の木越しに紅葉が始まった岩殿山の姿が見えます。朝、猿橋を出発する時に心配したお天気も、青空が顔を覗かせるようになってきました。ヨシッ!!



……(その4)に続きます。

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