昼食を終え、再び上鳥沢宿まで戻ってきて、甲州街道歩きの再開です。
「上鳥沢宿」という案内表示と「明治天皇駐蹕地」の石碑が立っています。ここが上鳥沢宿の「井上本陣」の跡です。この聞き慣れない「駐蹕(ちゅうひつ)」という言葉の意味とは、天皇が行幸の途中、一時乗り物を停めること。また、一時その土地に滞在することという意味の言葉で、「駐輦(ちゅうれん)」とも言います。中山道やここまでの甲州街道で明治天皇の石碑は幾つも見てきましたが、それら明治天皇の碑の中でも「駐蹕」というのは珍しい表記です。
上鳥沢宿もそんなに大きな宿場ではなく、この井上本陣の前を過ぎたあたりが諏訪方(西の出入口)でした。
しばらく進み、右の側道に入っていきます。この道が旧街道だったことの証しとも言うべき馬頭観音の石碑が立っています。
おやおや、柿の実が鈴なりです。これから干し柿にするのでしょうか。
横吹沢を渡ると再び国道20号線と合流します。
国道20号線を歩きます。目の前に山が見え、あの山の先は大月です。「あの山の向こうまで歩くのか…」って遠いようにも思えますが、ここまで街道歩きをやっているとあの山の向こうくらいなんてすぐそこだ…と思えてきます。遠いように思えますが、前へ前へと歩いていくたびにドンドン近くなり、見える山の形も変わってきますからね。そう思えるようになってきたら、街道歩きも本格的になってきたってことなのでしょう。
ここで国道20号線から分岐し、右側の側道へと入っていきます。竹林の中を下っていく国道20号線よりも民家が建ち並ぶこちらの道のほうが旧甲州街道らしいですね。実際、旧甲州街道なのですが…。
「行止り」の標識が出ていますが、そんな標識を無視して進みます。
午後になり、天気予報通り晴れ間も出てきて、左手には甲斐の山々が綺麗に見えるようになってきました。このあたりからは富士山が大きく綺麗に見えるはずなのですが、残念ながら富士山までは見えませんでした。
ここから旧甲州街道は左手の細くて急な山道を下っていきます。こりゃあ自動車は「行止り」ですね。
雑草や樹々が生い茂り、歩くのもなかなか難しい道で、しかも傾斜がやたらと急です。足元に注意しながら、ゆっくりと下っていきます。この山道が旧甲州街道ということは、ここを荷を積んだ馬や牛も通ったということですわね。参勤交代の大名行列も。さらには、幕末の戊辰戦争においては、勝沼の戦いに向かう、そして勝沼の戦いで大敗を喫して江戸に退却する近藤勇率いる甲陽鎮撫隊(もとの新選組)も、勝沼の戦いで勝利して、勢いに乗って江戸に向けて進軍する新政府軍の大軍勢もこの道を通ったってことですよね。信じられませんが、実際そうだったようです。イメージが変わります。
急な坂道を降り立ったところで先ほど分岐した国道20号線に合流します。
国道20号線は宮谷橋で桂川を渡ります。その室谷橋のすぐ右手を東京電力の管理する「水路橋」の橋梁が通っています。煉瓦(レンガ)造りの古い水路橋ですが、今も現役で、この下流にある東京電力の八ツ沢発電所に豊富な水を運んでいます。
八ツ沢発電所施設は,桂川にほぼ平行して東西に延びる水路式発電所施設で、東京電燈株式会社(現在の東京電力)が第二水力電気事業の一環として建設したものです。明治43年(1910年)に着工、大正3年(1914年)の大野調整池の完成をもって全体が竣工しました。建造物は、取水口施設、第一号から第一八号の隧道、第一号開渠、第一号から第四号の水路橋、大野調整池施設、水槽余水路などで、約14kmの範囲に現存しています。取水口の沈砂池や隧道は土砂流入防止等を意図して長大な規模で築かれています。第一号水路橋は大支間を実現した初期鉄筋コンクリート造橋梁であり、大野調整池堰堤は大正期を代表する大規模土堰堤の一つになっています。ここから見えるものは「第3号水路橋」のようで、上部は煉瓦造り、下部はコンクリート構造になっています。
八ツ沢発電所施設は、大規模調整池を有する我が国最初期の本格的水力発電所施設であるばかりでなく、類型の異なる複数の構造物に高度な建設技術が発揮されており、土木技術史上、高い価値があると認められて、国の重要文化財に指定されています。また、我が国の重要文化財のなかで、最大規模のものです。
室谷橋のところの国道20号線の左側のガードレールの間から下へ下っていく細い道があります。実はこれが旧甲州街道です。しかしこの道はこの先で崩落しており、途中で行き止まりになっているのだそうです。したがって、私達はそのまま国道20号線を進みます。
ススキの穂が綺麗です。秋を感じます。
……(その6)に続きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿