2018年11月27日火曜日

江戸城外濠内濠ウォーク【第8回:和田倉門→平川門】(その2)


このあたり一帯が皇居前広場、いわゆる皇居外苑です。江戸時代以前、このあたりは漁業が盛んな日比谷入江に面していましたが、江戸時代には埋め立てられ、老中や若年寄りなどの屋敷が立ち並び、「西の丸下」と呼ばれるようになりました。明治維新後、これらの屋敷が官庁の庁舎や兵舎などに使用されたりもしましたが、やがてそれらも撤去され広場化されました。その後、明治21(1888)からは「皇居御造営」完成後の事業として、皇居前広場にクロマツなどを植える植栽整備が行われました。第二次世界大戦後は国民公園として整備され、現在に至っています。



現在、皇居前広場は、内堀通りから皇居側の玉砂利広場(41,600平方メートル)と内堀通りと外濠の間にある芝生緑地(68,300平方メートル)で構成されています。明治21(1888)からの植栽整備で植えられたクロマツは約2,000本。これは、かつての日比谷入江の海岸線にはクロマツが群生していたことをイメージして植えられたもので、クロマツがこれほど多く植えられた公園というのは、世界中探してもこの皇居前広場だけなのだそうです。

中にはこのような見事な枝ぶりのクロマツがあったりもします。


馬場先御門から皇居側を見たところです。ここをまっすぐ直進すると二重橋なのですが、ここでちょっとだけ寄り道。楠木正成の銅像を見学します。



馬場先御門の内側にある「楠公(なんこう)レストハウス」です。楠公レストハウスは一般財団法人日本公園協会が運営する施設で、昭和42(1967)に全国から皇居参観に来られる方々や公園を利用する方々の休憩所として建てられ、平成14(2002)にリニューアルされて、現在の建物になりました。その楠公レストハウスの駐車場は東京の観光地では一二を争うほどの広さがあり、多くの観光バスを停めることができます。皇居二重橋に近いこともあり、外国人向けの観光コースでは必ず盛り込まれる定番の観光地になっていて、この日も多くの外国人観光客が訪れていました。



「楠公レストハウス」の楠公(なんこう)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将、楠木正成のこと。その楠木正成の銅像が楠公レストハウスのすぐ近くにあります。楠木正成は後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に大きく貢献し、その後の「建武の新政」では足利尊氏らと共に天皇による政治を補佐するなどの立役者となりました。足利尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担いましたが、湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害しました。後醍醐天皇の討幕運動に最初に呼応した有力武将で、最後は尊皇に殉じたので忠臣と称えられています。



この銅像は明治23(1891)に住友家が開発した別子銅山(愛媛県新居浜市)の開坑200年記念事業として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に製作を依頼したものです。製作には上野公園の西郷隆盛像の作者としても知られる高村光雲が製作主任となり、当時の著名な彫刻家や鋳造師らがあたりました。別子鉱山で採れた銅だけを使って、完成までに10年をかけて献納されたとされています。像のモデルは、流されていた隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた際の楠木正成の姿なのだそうです。この銅像の馬上の楠木正成の目線の先にあるのは皇居二重橋です。


馬の腹には血管が浮かび、全身の筋肉に力が漲っているのが分かります。たてがみの11本にまで動きが感じられます。特に素晴らしいのは臀部。この馬の臀部の筋肉の描き方は凄すぎです。楠木正成のほうも顔の表情にしろ、着衣の上からも分かる腕や足の筋肉の張りにしろ実に詳細に作り込まれていて、今にも駆け出しそうな躍動感溢れる銅像です。おそらく銅像としては日本一、いや世界一といってもいいほどの傑作ではないかと私は思っています。こういう素晴らしい銅像が公園の一角に飾られていて、誰でも自由に見えることに日本という国の素晴らしさを感じます。



楠木正成の銅像の前では多くの人が記念撮影をしているのですが、その大部分は中国からの団体観光客。彼らは楠木正成って、知ってるのかなぁ〜?? それを知らないと、何故、この武将の素晴らし過ぎる銅像がこの皇居に建っているのか理解できないでしょうね。

ん?? でもなんでここに楠木正成の銅像が建っているのでしょう?? 楠木正成は後醍醐天皇を奉じ、最後まで後醍醐天皇に付き従ったので明らかに南朝側の武将。この南朝側の武将の像がここに建っていて、今も今上天皇陛下をお守りするかのように皇居二重橋の方向を見つめているということは、今上天皇陛下は南朝のお血筋ってことなの? 北朝のはずでは? え、え、え!……もしかして……

まったくの余談ですが、楠木正成の出自には諸説あるものの、その中の有力な1つに楠木正成の本姓は橘氏といい、一般に藤原純友の乱の時に伊予国警固使(武将)として水軍を率いて大活躍した伊予橘氏の橘遠保の末裔であるという説があります。この伊予橘氏は平安時代末期から繁栄した伊予国の有力豪族で、当時、瀬戸内海を実質支配していた伊予水軍を統括する越智氏一族の分家でした。と言うことは、もしこれが事実なら、楠木正成も第7代・孝霊天皇の孫(3皇子・彦狭島命の第3)で、小千国(おちのくに:現在の愛媛県今治市周辺)の国造に任命されて着任した乎致命(おちのみこと:小千御子とも)を祖とする越智氏族の1人ということになります。なので、私は楠木正成には妙な親近感を覚えています。


馬場先御門から続く道を二重橋に向かいます。左手に外桜田御門の渡櫓門が見えます。江戸城の南や西に屋敷を構える大名達のほとんどはあの外桜田御門から江戸城に登城してきました。

厳しい身分制度が敷かれていた江戸時代、将軍に直接仕える者といえば大名でした。大名とは、将軍に拝謁できる禄高1万石以上を持つ者のことをいいます。さらに、大名ではないのですが、禄高1万石以下でも将軍に拝謁できる者がいて、それが将軍家直参の旗本。将軍家直参の中でも将軍に拝謁できない者は御家人と呼ばれていました。

大名は、元旦や五節句などの幕府にとって重要な日や、月次登城といわれる月例の登城日(月に3)に江戸城に登城する必要がありました(年間40回ほど登城)。この登城の際には、身分や城持ちか無城かなどの家格によって、登城する順番も控えの間も厳密に区別されていました。

各大名は江戸城へ登城する際、多くの家来達を従えた大名行列を組んでしずしずと藩邸(上屋敷)から江戸城への登城ルートを進みました。その規模は通常の大名で約50名。尾張、紀州、水戸の徳川御三家や、御三家の次に家格が高い加賀国金沢藩前田家、越前国福井藩松平家、さらには薩摩国鹿児島藩島津家、陸奥国仙台藩伊達家、肥後国熊本藩細川家といった禄高の大きな外様の大大名は約100名の規模でした。2つの大名行列が登城の途中で鉢あった場合には、家格が高かったり、禄高が高い大名に必ず道を譲らねばならず、禄高の低い大多数の大名にとってこの登城は大変に気をつかうものだったようです。

また、この大名行列による登城風景は江戸の町の風物詩のようなところがあり、登城ルートの沿道には江戸の庶民など多くの見物人が武鑑(ガイドブックのようなもの)を片手に出ていました。今でいうと、東京ディズニーランドのエレクトリカルパレードのようなものだったのでしょう。特に多くの大名行列が江戸城に入城する外桜田御門の外は次々と入場してくるので、見物人の数はことのほか多かったと思われます。大老・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変は、そうした大勢の見学人の前で起こったことです。

この桜田門外の変が起きたのは旧暦の安政733(1860324)の早朝でした。この日はいわゆる雛祭りの節句で、江戸にいる諸侯は祝賀のため総登城することになっていました。なので、桜田門外には多くの見物人が集まり、目の前を通り過ぎる大名行列を見物していたと思われます。ちなみに、外桜田御門の前を通る道は日本橋から続く甲州街道で、前回【第7回】で見て回った幾つもの御門(城郭門)の外までは、一般庶民でも近づくことができました。で、外桜田御門などの城郭門の中は大名行列をはじめとして登城が許された者だけが入ることが許されていました。

映画やテレビドラマなどでは桜田門外の変は雪が降りしきる中、水戸浪士を中心とした暗殺団の一行がピストルの号砲を合図に彦根藩井伊家の大名行列に襲いかかったという風に描かれていますが、実は衆人環視の中での出来事でした。その日、午前8時に登城を告げる太鼓が江戸城中から鳴り響き、それを合図に諸侯が行列をなして外桜田御門を潜っていきました。先頭は徳川御三家の1つ尾張藩徳川家。その尾張藩の行列が見物人らの前を通り過ぎた午前9時頃、三宅坂の彦根藩上屋敷の門が開き、井伊直弼を乗せた駕籠を中心とした行列は門を出たわけです。幕府大老で近江国彦根藩35万石の大大名であった井伊直弼と言えども、家格や禄高の点で徳川御三家に及ぶべくもなく、登城の順番は尾張藩徳川家の次でした。

前回【第7回】で見ましたが、彦根藩上屋敷から外桜田御門までの距離はわずか400メートルほど。行列は総勢約60人ほどでした。その行列が外桜田御門の前に差し掛かった時、駕籠訴の直訴を装って大勢の見物人の中から行列の先頭に飛び出した1人の水戸浪士がいて、それを取り押さえるために行列は停止。護衛の注意も前方に引きつけられたために、井伊直弼が乗った駕籠が襲われたわけです。襲撃開始から井伊直弼暗殺までわずか10分ほどの出来事だったようです。


……(その3)に続きます。

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