2019年8月20日火曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その9)

坂を下りきったところで国道20号線と合流します。このあたりが金沢宿(かねざわしゅく)の江戸方(東の出入口)でした。
金沢宿は江戸の日本橋から44番目の宿場です。山間の小さな宿場で、江戸時代後期の天保14(1843)の宿村大概帳によると、金沢宿の宿内人口は622人、宿内総家数は161軒。本陣1軒、脇本陣はなく、旅籠17軒と蔦木宿とほぼ同程度の規模の宿場でした。甲州街道が甲府柳町宿から下諏訪宿まで延長された時に設けられた宿場で、当初は現在の場所よりもう少し北方の権現原というところに位置していて、青柳宿と呼ばれていました。慶安4(1651)に度重なる宮川の氾濫と前年の大火で建物のほとんどが焼失したのを機に、南方のこの河岸段丘上の丘陵地に移り、青柳宿から改称して金沢宿となりました。天保年間には茶屋5軒のほか、塩問屋などもあったようです。

金沢宿の中を進みます。現在は国道20号線沿いで開発が進み、往時の面影は残念ながらあまり残っていません。
ちょっと左手に入ります。曹洞宗の寺院 泉長寺です。一番手前の石碑には「萬霊等」の文字が刻まれています。ではなくの字を使う萬霊塔も結構多く、諸々のという意味で使われるのだそうです。
「おてつき石」という奇妙な名称の石があります。「おてつき」してしまった旦那衆の懺悔石と思いきや、もっと真面目な石でした。参勤交代の大名がここを通る時、金沢宿の宿役人が「自分はこの宿場の宿役人です」とこの石に手をついて言上したのだそうです。
曹洞宗の寺院らしく「不許葷酒入山門 (くんしゅ さんもんにいるを ゆるさず)」という表示が山門に掲げられています。
この泉長寺で一番目立つのが、この小林平三なる人物の頌徳碑です。小林平三翁はこの金沢宿の出身で、東京都新宿区に本店を置き、新宿地区からJR中央本線沿線を中心に店舗を構えるスーパーマーケット「三平ストア(さんぺいストア)」を創業した人物だそうです。「三平」の屋号は創業者である小林平三の名前を逆にしたものだそうです。東京で財をなし、地元にもいろいろと貢献したので、この頌徳碑が立てられたのでしょう。
旧甲州街道歩きに戻ります。古い大きな民家があります。入口に有賀果樹園と書かれていますが、屋根の上に突き出た煙突のようなものは、何なのでしょうね。
金沢の交差点です。このあたりが金沢宿の中心部のようです。
「国道20号線 東京から187km」の道路標識が立っています。
その金沢の交差点の脇に妙な形をした石が立っています。「独鈷石(とっこいし)」です。独鈷(とっこ)”とは密教法具(仏具)の金剛杵である独鈷杵、三鈷杵、五鈷杵の1つで、石の形が独鈷杵に似ていることから独鈷石と呼ばれています。この石はこの先で甲州街道から分岐し、高遠や伊那、駒ヶ根、飯田へと向かう脇往還の伊那街道の金沢峠の頂上付近を道路工事している際に出土した石らしいです。古代には峠の頂上付近に建てられていたそうです。自然石ではなく、東日本の縄文時代末期に見られる磨製石器なのだそうです。
その独鈷石の前に金沢宿本陣小松家跡の碑と説明板が立っています。この本陣小松家には明治天皇が御巡幸の折、昼食をとられたため、行在所となりました。そんな石碑や本陣の説明版も看板の中にひっそりと佇んでいます。説明板によると、本陣の敷地は約4反歩(40アール)あって、敷地内には高島藩や松本藩の米倉などがあったそうです。小松家は青柳宿当時から代々本陣問屋を勤めていたのですが、隣村茅野村との山論で家族を顧みる暇もなく、寝食を忘れ町民の先にたって働いた4代小松三郎左衛門は、延宝6(1678)、高島藩は伝馬を怠ったとのかどで、町民の見守る中で磔(はりつけ)の刑に処され、家は悶所断絶したと書かれています。その後、明治初年まで白川家が小松家に代わって本陣問屋を勤めたと書かれています。ちなみに、甲州街道を参勤交代のルートとし金沢宿を利用した大名は高島藩諏訪家3万石、飯田藩堀家2万石、高遠藩内藤家33千石の譜代大名3藩だけでしたが、江戸時代後期になると幕府の許可を得た西国の大名が、多くの大名が利用して混雑する東海道や中仙道を避けて甲州街道を通行し、金沢宿に泊まったとも書かれています。
現在の金沢宿は国道20号線が通り、往時の面影は残念ながらあまり残っていませんが、かつての旅籠と思われる出梁造りの町家建築の建物が幾つか建ち並んでいます。この建物の軒先には理容店の看板がかけられていますが、その看板の後ろに「HOTEL松坂屋」と彫られた木製の看板が掲げられています。旅籠ではなくてHOTELHOTELというからには江戸時代のものではないのでしょうが、かなり古い看板で、文字の判読も難しいほどです。いつの頃のものなのかは不明ですが、江戸時代から華やかに営業していた旅籠なのではないかと推察されます。案内板も立っているようですが、道路の反対側なので、近くで撮影ができませんでした。
こちらは中馬宿(馬宿)だった小林家の建物です。その庭先に馬つなぎ石1基残っています。往時は24頭の馬と馬方を泊めることができたのだそうです。

ここが金沢宿の諏訪方(西の出入口)で、また高遠へ向かう伊那街道との追分(分岐点)でした。真っ直ぐ伸びている道路は現在は国道20号線ですが、この先で高遠へ向かう道がさらに分岐しています。旧甲州街道はこの枡形を右へ曲がります。すなわち、甲州街道を参勤交代に使っていた3つの藩のうち、高遠藩と飯田藩はここから先は高遠へ向かう道を進み、旧甲州街道を使う藩は高島藩1つのみとなります。
また、ここは前述の金沢宿本陣問屋4代目当主の小松三郎左衛門が明暦2(1656)に磔(はりつけ)の刑に処せられた場所でもあります。小松三郎左衛門は金沢宿所有の土地が千野村(茅野村)のものと裁決されたことに対して村人の先頭に立って高島藩(諏訪藩)に抗議。直訴を行なったが奉行所は問屋継立業務を怠ったという理由で小松三郎左衛門に対して磔(はりつけ)、妻子追放、闕所(けっしょ)に処しました。結局、土地も延宝6(1678)に高島藩預かりのものとなりました。それから約100年後の安永2(1773)、小松三郎左衛門を供養するために子孫が磔の刑に処せられたこの場所に地蔵を建立しました。事件から200年後の明治13(1880)には裁判所で金沢宿側の勝訴判決が出され、小松三郎左衛門の名誉も回復しました。
こちらは馬頭観音です。
旧街道の証し、石塔石仏群です。
金沢橋で宮川を渡ります。
金沢橋を渡り終えたところで右折。さらにすぐに左折します。ここは金沢宿の諏訪方の枡形が形成されていました。


……(その10)に続きます。

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