2019年8月4日日曜日

甲州街道歩き【第14回:韮崎→蔦木】(その14)

ここからは釜無川の河岸段丘の上を北北西方向に進みます。眼下に田園風景が広がります。田植えを終えた田圃が陽に映えて美しいです。昔の旅人もこの景色を見ながら旅を続けたのでしょうね。
登り坂はずっと続いています。終点下諏訪宿に向けて高度を徐々に上げていきます。
諏訪神社が一段高くなったところにあります。この神社は、元和3(1617)、御朱印山より現在地に社殿造営鎮座して、産土神としたことに始まります。現在の本殿は、天保15(1844)1219日に再建したもので、棟梁は信濃国諏訪出身の宮大工の名工・立川和四郎富昌。本殿はケヤキ造りの総彫刻、屋根は鱗葺の覆屋で精巧を極めています。本殿を飾る数々の彫刻が素晴らしく、昭和43(1968)に山梨県の指定文化財に指定されています。
眼下に見える素晴らしい田園風景を眺めたのは旅人だけではなかったようで、明治13(1880)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際に、明治天皇もこの高台から眼下の田植え風景をご覧になられたようです。土手の上に「明治天皇御田植御通覧之趾碑」が建てられています。
ここから路肩に石塔石仏が幾つか立っています。まずはお馴染みの庚申塔。
次に題目碑です。この題目碑が建立されたのは文久元年(1861)のことのようです。
高台からちょっと下って、教来石宿の加宿であった上教来石の集落に入って行きます。
加久保沢橋を渡って、上教来石の集落に入ります。
教来石宿の本宿であった下教来石には往時を偲ぶものはほとんど何も残っていませんが、上教来石の集落のほうは往時を偲ばせる静かな佇まいが今も残っています。
「御膳水跡碑」が立っています。明治13(1880)の山梨・三重・京都三府県御巡幸の際に、明治天皇はこの細入沢の湧水をお飲みになり、「いと旨し!」とお褒めの言葉を述べられたのだそうです。今はその湧水もすっかり涸れています。
馬頭観音が立っています。
上教来石の集落を進みます。
この先で国道20号線に合流するのですが、国道の向こう側に石塔石仏群が並んで祀られていて、その中に「教慶寺の地蔵菩薩」がこちらを見て立っています。写真では分かりづらいのですが、この地蔵様は大変柔和なお顔で、それこそ微笑んでいるような素敵な表情をなさっています。説明板によると、この地蔵尊は今から770年前の寛元5(1247)、中国から帰化した名僧蘭渓禅師が、村内に火災悪病、強盗などの凶事が相次ぎ、村人が難儀していたので、この災厄を取り除こうと大きな石地蔵を鎮座して、ひたすら祈願して村内に平和をよみがえらせたと言う伝承があるのだそうです。また、最近ではいくつかの交通事故を救ってくれたという霊験あらたかなお地蔵様なのだそうです。私達も道中の無事を祈願して拝みました。
この教慶寺の石塔石仏群の前で旧甲州街道はすぐに国道20号線から右に分岐します。
この脇道のような旧甲州街道は国道20号線と並行して伸びています。
上教来石集落の中心地区に入ります。
「巡禮四國八拾八箇所供養塔」が立っています。おそらく、このお宅のご先祖が四国霊場八十八ケ所巡礼の旅に出掛け、無事八十八ケ所の霊場の巡礼を終えられたので、その供養に立てられたのでしょう。私の故郷の四国のことだけに強く反応してしまいます。ウォーキングリーダーさんが「この中に四国八十八ケ所をすべて回られた方はいらっしゃいますか?」と質問したところ、八十八ケ所をすべて回ったという方がお一人いらっしゃいました。さすがに街道歩きをなさっている方は違います。13人中1人でした。
この大きな屋根の建物は体育館ではありません。一般の民家(農家)です。旧甲州街道沿いにはビックリするくらい立派な民家があります。豊かな土地柄の場所だったんでしょうね。
この奥を走る国道20号線沿いの高台に立っている石碑が山口素堂生誕地跡の碑です。江戸時代前期の俳人・山口素堂は寛永19(1642)、甲府魚町で酒造業を営む家庭に生まれました。実際の生まれは(母親の実家のあった?)この上教来石村であるといわれています。20歳頃に家業の酒造業を弟に譲り江戸に出て林鵞峰に漢学を学び、一時は仕官もしていました。俳諧は寛文8(1668)に刊行された『伊勢踊』に句が入集しているのが初見。延宝3(1675)、初めて松尾芭蕉と出逢い、深川にあった芭蕉庵に近い上野不忍池や葛飾安宅に退隠し、以降、門弟ではなく友人として互いに親しく交流しました。元禄8(1695)には甲斐国を旅して、翌元禄9(1696)には甲府代官 櫻井政能に濁川の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承が残っています。漢詩文の素養が深く、中国の隠者文芸の影響を受けた蕉風俳諧の作風であると評されており、延宝6(1678)の『江戸新道』に収録されている「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の句で広く知られています。ちなみに、この句により初夏になると初鰹が飛ぶように売れたとかで、俳人というよりも商品や企業を宣伝するためのコピーライターの走りのような人物でした。甲府の天尊躰寺に墓所がありました。
緩やかに枡形を描いて坂道を登っていきます。坂道の途中には家紋の描かれた土蔵のある家があります。
大目沢橋で大目沢を渡ります。
その先、少し坂を下ったところにあるのは………、蓬莱山口の関所跡です。右側に「山口関所跡碑」が立っています。ここは甲斐国に24箇所あった口留番所の1つで、甲斐国の信州口を見張った国境の口留番所があった場所です。この口留番所がいつ頃から使用されたかは不明ですが、天文10(1546)の武田信玄による伊那進攻の際に設けられたという伝承が残っているようです。
進行方向左側に番所の建物があったが今は蔵1棟を残して更地になっており、傍らに西番所跡と刻まれた石碑が建てられています。


……(その15)に続きます。

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