2019年8月19日月曜日

甲州街道歩き【第15回:蔦木→茅野】(その8)

馬頭観音が立っているところで国道20号線から左の側道に入ります。
ここからは幾分登り坂になります。
旧街道の証し石塔石仏群があります。
江戸の日本橋を出てから48里目の「御射山神戸一里塚」です。珍しく左右両方の塚とも現存している貴重な一里塚です。西塚のケヤキ()は樹齢約400年。樹齢約400年ということはこの一里塚が作られた慶長年間からずっと生き延びているということ。目通り幹囲6.9メートル、樹高25メートルと見事なまでの巨木に成長しています。いっぽう、東塚は元々はエノキ()でしたが、明治30(1897)に枯れてしまい、現在はケヤキ()が植えられています。ここには標高917メートルの標高標柱も立てられています。
それにしても見事な一里塚(西塚)です。全体を写真に撮影しようとすると、相当離れないといけません。こんな大きな木が聳える一里塚に出会ったのは、甲州街道だけでなく、中山道を歩いた私にとって初めてのことです。
この御射山神戸一里塚の周辺は、大永8(1528)、武田信玄の父である武田信虎が諏訪に侵攻した際に、受けて立った諏訪の領主、諏訪頼満との間で一戦を交えた「神戸合戦場」の跡です。この戦い、昼間は武田勢が優勢だったのですが、夜になって諏訪勢が巻き返し、決着はつきませんでした。この合戦の後も小さな小競り合いのような合戦が何度か繰り返されたのですが、天文4(1535)、武田信虎と諏訪頼満は、境川(堺川)で和睦の会盟を行いました。天文9(1540)、諏訪頼満の孫頼重は、武田信虎の息女祢々を娶り、化粧料として蔦木を含む堺方18ヶ村を信虎から頼満へ譲られたと伝えられています。この神戸合戦の戦死者を供養する五輪塔がこの先に立っているのですが、現在は崩れてしまっているのだそうです。
金沢宿に向かって緩い下り坂を進んでいきます。
JR中央本線の「すずらんの里」駅のところでも書きましたが、このあたりにはセイコーエプソン株式会社の事業所があり、同社の関連施設が点在しています。この「富士見ハウス」は保養のための宿泊施設付きの研修センターでしょうか。
ドンドンと坂道を下っていきます。
左側にセイコーエプソン社所有の広いテニスコート、前方に社員寮が見えます。旧甲州街道はその横をS字を描いて緩く蛇行しながら、下っていきます。
進行方向右手は一段下がった谷になっていて、そこをJR中央本線の線路と国道20号線が通っています。
畑の中に見える巨石は、古来より「青柳ゆるぎ石」と呼ばれています。谷の向かい側のJR中央本線の線路を越えた御狩野集落にも「ゆるぎ石」があり、共に「夫婦石」と呼ばれています。この夫婦石、毎日、米一粒分ずつ双方歩み寄っているという言い伝えがあるそうです。それが本当なら、石が自身の重みで斜面を少しずつずり落ちていっているということなので、防災上問題でないかい!?って思うのですが、あくまでも言い伝えなので、硬いことは言わないでおきましょう(^ ^) 江戸時代、甲州街道を行き来する旅人は、この巨石を金沢宿の出入口の目安にしたと言われています。私達も次の金沢宿が近づいてきました。
緩い坂道をさらに下っていきます。
ブルーベリーの畑です。鳥除けのネットで守られた中で、いっぱい実をつけています。
金沢宿に向かってドンドン坂道を下っていきます。けっこう急な下り坂です。


……(その9)に続きます。

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